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三章  呪いの代償  11


「ま、とにかく入りなよ」
 ラーグはそう言うと、扉に手をかけ、セラとルーファスの二人を、家の中に招き入れた。
 魔術師の住処、その中へと。
 その扉を開けた途端、薬草の独特の臭いが、少しばかり鼻につく。
 魔術の力か、空中にふわりふわりと浮かぶ、ロウソク……
 その橙色の明かりに照らされた室内は、壁に吊るされた薬草や、薬棚、本棚や椅子の上に積み上げられた魔術書の山に、部屋の隅に置かれた妖しげな剥製……机の上に転がる空の酒瓶と、三日月色のチーズの盛られた白い皿……
 物は多いが、その割には整頓されていて、雑然とした印象は受けない。
 それに加えて、いかにも魔術師の住処らしい不思議な雰囲気のただよう、そんな部屋であった。
 中に入り、セラとルーファスを椅子に座らせると、ラーグは彼らのために、お茶の支度を始めた。
 ぱたぱたと長いローブの裾をなびかせながら、ラーグは部屋の隅に向かうと、よっ、と背伸びをし、棚の上の箱を取る。
 そうして、魔術師は箱から出した茶葉を、ティーポットに入れると、お湯をそそいで、その後、銀のスプーンで隠し味にサッ、と花蜜をひとさじ入れた。
 やや意外かもしれぬが、お茶の支度をするラーグの手際は良く、慣れている風だった。
 それから、いくらも経たぬうち、部屋の中に湯気と、ふわっ……と花蜜茶の甘い、甘い香りが広がる。
 金色の子供、見た目の年齢はともかくとして、実際は年齢不詳な魔術師――ラーグは、ふわっ、と香った花蜜茶に満足気にうなずく。
 そうして、魔術師は小さな手に二つのカップを持つと、タッタッと軽快な足音をさせながら、セラたちの座るテーブルの前へと戻ってきた。
 ラーグは「はい。セラ……」と言いながら、柔らかな微笑を浮かべて、白い湯気の立つカップ……花蜜茶をセラへと手渡す。
 弟子である彼女へと向ける、魔術師の琥珀色の瞳は優しい。
 にこりっ、と柔らかく笑いながら、ラーグはまだ青白い顔をしたセラをいたわるように、優しく言った。
「はい。セラ……外はまだ寒かったでしょ?ほら、君の好きな花蜜茶でも飲んで、あたたまって」
 ラーグの手から、白い湯気の立つ、あたたかなカップを受け取ったセラは、顔色が悪いながらも、わずかに口元をゆるめて、細く、小さな声で「ありがとう。ラーグ」と礼を言った。
 弟子の言葉に、師匠である魔術師はやや心配そうな面持ちでうなずき、その次にラーグは、セラの隣に座っているルーファスの方を向く。
 ラーグは「はい」と、先ほどと全く同じ笑みを浮かべると、手にしていたもう一方のカップを、テーブルの上、ルーファスの前に置いた。
 ……先ほどのセラのものとは異なり、ルーファスの前に置かれたカップには、白い湯気など全く見えない。
 カップにそそがれたのは、透明なそれ。
 それは、あたたかい花蜜茶どころか、お湯ですらない。それは……ただの水だった。
「……」
 目の前に置かれたそのカップを、無表情のルーファスは、何も言わずに、じっと見つめる。
 場が不自然なまでの沈黙に満ちた。
 そんなルーファスに向かって、ラーグは悪意の欠片もない、無邪気そのものといった声で続ける。
「はい。公爵……君も寒かったでしょ、ほら、つめたい水」
 色々な意味で扱いが、セラとは雲泥の差だ。
 ラーグにそう言われたルーファスは、氷を想わせる蒼い瞳で魔術師を睨みつけると、はっ、と冷ややかに、また皮肉気に笑う。
 そうして、ルーファスは唇に冷ややかな笑みをのせたまま、トゲのある口調でラーグに言う。
「はっ、客人にあたたかい茶を出す心の余裕もないとは、心底、哀れだな。魔術師……小さいのは、その見た目だけで、もう十分だと思うが」
 そんなルーファスの露骨というか、あからさまな嫌味にも、ラーグは欠片も動じず、あくまでも飄々とした掴み所のない態度をつらぬく。
 ラーグは「ハー」と息を吐くと、やれやれと肩をすくめ、大袈裟な身振り手振りを交えて、首を横に振る。
 そうして、魔術師は琥珀色の瞳に、なにやら悪戯めいた光を宿すと「やれやれ……」と、人を食ったような声で続けた。
「やれやれ……たかが茶一杯のことぐらいで、ガタガタ言うなんて、君も器が小さいねぇ。公爵……器の小ささは元からとしても、せめて、それを取り繕うくらいの努力はしたらどうだい?ねぇ?」
「その言葉、そっくりそのまま返すぞ。魔術師」
 自分に対する、ラーグの毒舌っぷりには、もはや慣れてきたのか、ルーファスも間髪いれずに、そう言い返す。
 二人に挟まれ、困り顔のセラをよそに、ルーファスとラーグの間には、見えない火花が散っていた。
 相変わらず、犬猿の仲というか、水と油な二人である。
 ルーファスはラーグの嫌味に激することもなく、端整な顔にひどく冷ややかな笑みを浮かべて「その言葉、そっくりそのまま返すぞ。魔術師……」と、嫌味を倍にして返した。
「その言葉、そっくりそのまま返すぞ。魔術師……相変わらず、人を苛立たせることにかけては、天才的だな。毒しか吐かないその舌を、力ずくで抜いてやりたいとまで俺に思わせたのは、貴様が初めてだ」
 それは光栄だね、と言って、ラーグはクスクスと軽やかに笑う。
 クスクスという笑い声に、ルーファスが眉をつり上げていることなど、どこ吹く風だった。
「それはそれは、君の初めての人になれるとは、光栄だね……世の麗しいご婦人方の嫉妬と、男どもの称賛の嵐が、身にしみるよ。公爵」
 このまま放っておくと、何時かのように、いつまでたっても話が進まないことを案じたのか、ルーファスの隣に座っていたセラは、翠の瞳をラーグに向けると、控えめな声で「……ラーグ」と、師である魔術師の名を呼ぶ。
「ラーグ……もう、その辺にしておいてよ。ルーファス、甘いの駄目じゃなければ、その水と、あたしの花蜜茶と取りかえない?……ね?」
 カップを片手に、セラはそう言う。
 柔らかな、だが、たしなめるような響きを持つ彼女の声に、ラーグは再び、やれやれと肩をすくめる。
 彼はちらっ、と弟子である少女の顔を見ると、しょうがないな、という風に言った。
「セラ、君がそうまで言うなら、仕方ないね……ほら、公爵。君が、ご所望のお茶だよ」
 愛弟子であるセラの言葉で、ラーグはようやく……ようやく、その舌先の鋭さをゆるめる。
 ほら、と言いながら、彼は花蜜茶をいれたカップを、ルーファスの前に置いた。
 紆余曲折の末に、白い湯気の立つカップを目の前、テーブルの上に置かれたルーファスは、今更、ラーグに素直に礼を言う気にもなれず「ふん……たかだか茶の一杯で、ずいぶんと回りくどい真似をするものだな。魔術師よ」と、ぼそりと低い声で呟く。
「――じゃあ、セラ、そろそろ君の話を聞かせてもらえるかな?」
 そんなルーファスの存在を、ある意味、華麗に無視して、ラーグはそう話を切り出す。
 まるで眼中にないとでも言いたげな魔術師の態度に、ルーファスはわずかに眉を寄せたものの、隣のセラがすがるような必死な眼差しを向けてきたので、軽く息を吐き、開きかけた口をつぐんだ。
 別に彼は、これ以上、セラを困らせないようにしようなどと、人の良い妻を気遣ったわけではない……つもりだったが、わざわざ魔術師を訪ねてきた、その当初の目的を思えば、あまり時間を無駄にするのは、到底、得策とは言えまい。
 ルーファスの扱いはさておき、ラーグも弟子の、セラの話はきちんと聞こうという気があるのか、テーブルの向かい側に腰をおろした魔術師の表情は、先程までとは異なり、ひどく真剣な、真面目なものだった。
 テーブルの上で両手を組んで、金が散ったような琥珀色の瞳に、弟子の少女とその夫である青年の姿を映すとラーグは、
「それで……?君たちが二人そろって、僕に話したいこととは、一体、何なんだい?」
と、静かな声で問う。
 外見こそ年端もいかぬ子供であっても、そうして、真剣な顔をしていると、ラーグの瞳の奥には外見には不釣り合いな、長い歳月を生きたもの特有の、深い落ち着きのようなものが感じられる。
 何があったの?と、そう彼に問われたセラは、やや迷うように翠の瞳を揺らし、隣にいたルーファスの方を向く。
「あたしから、話してもいい?ルーファス」
 セラの言葉に、ルーファスはうなずく。
「いいも悪いも……ここには、貴女が話しをしたくて来たのだろう。俺はただ、ついて来ただけだ。貴女の思うように、好きなようにすればいい」
 貴女の思うように……とは、自分で決めろ、という意味だ。
 他人に判断を委ねるな、という。
 聞きようによっては冷淡な、突き放したような印象を受けかねないルーファスの言葉だったが、セラは気に病んだ風でもなく、「……うん」と小さくうなずくと、ぐっ、と耐えるように膝の拳を握りしめ、震える声で語り出した。
 今日、彼女がクラリック橋のところで、何を見てしまったのか、ラーグに伝えるために。
 そして、リーザの……幼い頃の友人の死を、その無惨な亡骸を目にしていても、いまだ信じたくないそれを、言葉にしたくないそれを言葉にするために、セラは唇を開く。
「今日、クラリック橋のところで――」
 膝の上に置かれた手が、彼女の心情を物語るように、かすかに震えていた……。

 その場にいなかったラーグにわかりやすいように、セラは今日の出来事を、最初から、順を追って話し始めた。
 従者のミカエルと一緒に、昼間、散歩に出かけたということから、その時に、クラリック橋のところで何やら騒ぎが起こり、野次馬と人波に流されるようにして、橋のところまで行ってしまったこと。
 そのクラリック橋のところで、川から引き上げられた若い女の亡骸を、見てしまったということ。
 川から引き上げられた、若い女の亡骸は、まるで大きな獣に食い殺されたように、手足が食い千切られたり、全身に噛み痕があったりして、ひどく無惨なものであったということ……
 そして、その無惨な亡骸の、若い女の名はリーザといって、セラの幼い頃の友人であったのだということも……
 正直、話すのが辛い箇所も多かった。
 セラは意識して、出来るだけ冷静に、あえて感情をこめないように話そうとしたものの、それでも、亡き友人の……リーザの名を出す時は、うっ、と声をつまらせた。
 目玉が落ち、眼窩がさらされ、手足が食い千切られていた、無惨な彼女の亡骸のことを思い出すと、言葉にならない。
「……っ」
 赤の他人でも目を背けたくなるような、むごい死に様だった。
 怖かっただろう……痛かっただろう……辛かったし、無念だっただろう……
 昔の、元気だった頃のリーザの姿を知っていれば、尚更、それを口に出すことすら、耐え難い苦痛以外のなにものでもない。
 もう何年も会っていなかった、幼い頃の友人で、リーザはもうセラのことなんか忘れてしまっていたかもしれない……でも、セラにとっては忘れられない、大切な友達だった。
 明るくて、面倒見が良い、優しい子だったのに……あんな、あんな惨い死に方を……
 胸の奥からこみ上げてくる、苦いものをこらえながら、セラは話す。時々、彼女の声が震えたり、辛くて、ちゃんと言葉が出なくなったりすると、ルーファスがさりげなく助け船を出し、彼が話せる範囲のことは、彼女の代わりに話した。
 ルーファスのそれは、優しさというには素っ気なく、かといって、気まぐれというには優しすぎた。
 そうして、彼に助けられつつも、セラは何とか自分の見た全てを、ラーグに話し終える。
 セラの長い話を、ラーグは途中で口を挟むこともなく、最後まで黙って聞いていた。
「――俺も、いくつか話すことがある」
 セラが話を終えたのを見計らって、隣にいたルーファスがそう言う。
 そう言った後、彼が話し出したのは、昼間、赤髪の騎士隊長――ハロルドから聞いた話だった。
 近頃、王都を騒がせ、民を震え上がらせているという、人を食い殺す、獣に似た化け物……
 その化け物によって、何人もの人間が食い殺され、犠牲になっているという事実。
 化け物を退治しようと、騎士団が血眼になっているにも関わらず、一向に、その正体はおろか、手がかりすら掴めていないということも含めて、ルーファスは騎士隊長・ハロルドから得た情報を語る。
 ルーファスがそれらを話し終えた時、それまで黙っていたラーグが、口を開く。
「……なるほどね。君らの話を聞いて、事情はよくわかったよ」
 ラーグは納得したようにうなずくと、セラの方へと視線を向け「辛かったね。セラ……」と、静かに声をかける。
 そのラーグの言葉に、セラは声もなく、そっと目を伏せた。
「……」
 ラーグはスゥと琥珀色の瞳を細めると、
「ふぅん……少し前から、貧民街でも噂になっていたけれど、その化け物とやらは、ずいぶんと派手に暴れてるみたいだね。獣に似ている、人を食い殺す化け物ねぇ……もしかしたら、いや、たぶんアレと関係があるのかな……」
と、何やら意味ありげな言葉を吐く。
 その何かを知っているような、ひどく意味深な物言いに、セラより先にルーファスが反応した。
 彼はラーグに睨むような、きつい視線をぶつけると、鋭い声で問う。
「アレと関係がある……だと?化け物について、何か俺たちの知らぬことを、知っていそうだな。魔術師……まさか、人を食い殺している化け物の正体に、心当たりでもあるのか?」
 ――もしも、何か心当たりがあるならば、すぐに教えてもらおう。むしろ、さっさと言え。
 そう言いたげなルーファスの鋭い言葉に、ラーグが唇を開くより先、セラが弾かれたように勢いよく、伏せていた顔を上げる。
 顔を上げたセラは、椅子から立ち上がり、テーブルの上にバンッと手をつくと、勢いよく、ラーグの方に身を乗り出す。
 身を乗り出した拍子に、亜麻色の髪が大きく揺れ、普段は穏やかな、凪いだ海のような翠の瞳には、今は焦燥にも似たものが宿っていた。
 そうして、ひどく必死な表情で、彼女は言う。
「……そうなの?もし何か知っていたら、教えて!お願い、ラーグ!」
「セラ、君は……」
 珍しく、叫ぶように声を張り上げた弟子の少女に、師匠であるラーグは少し驚いた風に、目を見開いた。
 魔術師は何か言いかけるように唇を開き、一瞬の間の後、開きかけた唇を閉じ、ゆっくりと首を横に振った。
 ラーグは琥珀色の瞳で、セラとルーファスを交互に見ると「わかった。僕も、知っていることを話すよ。そっちの手札だけ見るのは、フェアじゃないしね……」と、真摯な声で言う。
「わかった。僕も、知っていることを話すよ。そっちの手札だけ見るのは、フェアじゃないしね……それでいいかい?セラ?公爵、君も」
 セラはうん、とうなずく。
「うん。お願い、ラーグ……貴方の知っていることを教えて」
 お願い、というセラの言葉に、ラーグは首を縦に振ると、静かに語りだした。
 化け物の繋がるかもしれぬ、その話を。
「――三ヶ月くらい前かな、貧民街のある家で、呪術師の老婆が誰かに殺されたんだ」
 三ヶ月ほど前、呪術師の老婆が誰かに殺された……そう語ったラーグに、ルーファスは首をかしげ、疑問の声を上げた。
「殺された……?呪術師の老婆が、か?」
 ルーファスの問いに、ラーグはそっ、と軽く相槌を打つ。
「そっ。君だって、ある程度は知っているだろう?公爵……英雄王の時代より、僕ら魔術師や魔女は迫害され、表の世界では生きられない。もちろん、呪いを専門にする、呪術師だって例外じゃない……そういう表で生きられない連中が、ここに――貧民街には集まっているのさ」
 英雄王と口にした瞬間、ラーグは「あの下種野郎を、英雄王なんて呼ぶのは、虫唾がはしる……」と小さく小さく呟いたが、その声は小さすぎて、向かい側のルーファスたちには届かなかった。
「ここ、貧民街までは、騎士団の目も届かないからな。貴様らのような魔術を生業にするものにとっては、商売がやりやすいと、そういう意味か?」
 ルーファスの言葉に、その通りだと、ラーグはうなずく。
「そういうことさ。ここ、貧民街の中までは、騎士団の目も届かない……だから、呪術師なんて表じゃ出来ない商売も、成り立つっていうわけだよ……ただ、命がけではあるね。呪いなんて商売にしてると、人の憎しみや恨みや殺意を、いくら買っても足りないから……」
 実際、その呪術師の老婆の殺され方は、言葉に出来ないくらい、酷いものだったらしいよ。
 感情のこもらない、ひどく淡々とした声で、ラーグは続ける。
「僕は見てないけど、何でも、その呪術師の老婆は、剣でめちゃくちゃに刺し殺されていたらしいよ。床一面に大量の血はもちろん、そこらじゅうに臓物がはみ出て、ひどいもんだったって……ああ、それに……」
 ラーグはふっ、と小さく唇を歪めて、付け加える。
「――その呪術師の老婆の飼っていた黒い犬も、老婆と同じように、剣でぐちゃぐちゃに刺し殺されていた……って、人伝に聞いたよ」
 闇の中、床に倒れる呪術師の老婆、辺りに広がるのは大量の血と、引き裂かれた老婆の腹からはみ出た臓物……
 そんな息絶えた呪術師の横では、彼女の飼っていた黒い犬が、飼い主と同じように剣で貫かれ、真っ赤な血を流し、死によって濁った目と、だらんとした舌をこちらにさらしている……
 止せばいいのに、そんな光景を想像してしまい、セラは片手で口元を押さえた。
 ルーファスは表情こそ変えなかったものの、低い声で、悪趣味だなと一言、吐き捨てる。――彼自身、決して、己が善人とは言えないことを自覚しているが、それにしても惨い殺し方ではあった。
 かすかに震える声で、セラはラーグに尋ねる。
「その呪術師のお婆さんは、どうして……一体、誰に殺されたの?」
 セラの問いに、ラーグはそこまではわからないと、首を横に振る。
 さぁ……と言って、彼は続けた。
「さぁ……呪術師は、人の恨みを買うことを避けられない商売だからね。あるいは、顧客の誰かが目的を達して、邪魔になった呪術師を、口封じのために殺したのかもしれない」
 ありえそうなことだよ、とラーグは言う。
 相手を呪って、目的を達せれば、最早、呪術師は用済みだ。むしろ、後で面倒事が起こらぬように、老婆ひとり、始末してしまおうと考える輩がいたとしても、全く不思議ではない。
 ましてや、ここは貧民街――騎士団の目が届かぬ場所なのだから。
「……」
 セラは目を伏せ、無言で唇を噛み締めた。
 呪いを生業とするのは、そういうことだと、彼女は知っていた。
 人に呪いをかけ、不幸にするということは、それだけの恨みと憎しみと……そして、時に殺意を背負うことなのだから。
 呪いの恐ろしさを、セラはよく知っていた。――誰よりも。
「その……」
 三ヶ月ほど前に、呪術師の老婆と飼い犬が殺されたことと、今、王都を騒がせている、人を食い殺す化け物――それらの事件の間に、明確な繋がりが見えず、ルーファスは首をひねる。
 全く繋がりがないかのように見えるそれは、魔術師の言によれば、どこかで繋がっているようだ。
 そこまでは理解したものの、何かを知るためには、まだ圧倒的に情報が足りなかった。
 ルーファスは先の見えない、深い霧の中にいるような、居心地の悪さを味わう。
 その不快感を振り払うように、彼は唇を開くと、何かを知っていそうなラーグに尋ねる。
「――呪術師の老婆と……その飼い犬とやらが殺されたことと、今、王都を騒がせている化け物との間に、何か繋がりがあるのか?」
 結論を急くかのような、ルーファスの問いにラーグは苦笑して「まぁ、人の話は最後まで聞きなよ。公爵……」と、答える。 
「まぁ、人の話は最後まで聞きなよ。公爵……その呪術師の老婆が殺された夜のことなんだけどね、近所の人間が妙な獣の唸り声と、黒い大きな獣みたいなものを見たって、そう言っていたんだよ……もちろん、老婆の飼っていた犬ではなく、ね」
「……」
 ルーファスは無言で腕を組み、蒼い瞳を細める。
 ラーグは更に、言葉を重ねた。
「その一件と……王都を騒がせ、人を食い殺している化け物は、無関係だと、公爵、君はそう思うかい?殺された老婆は、呪術師だった。死に際に、自分を殺した相手に、何かしてやろうと考えたとしても、不思議はない……そうは思わない?」 
 呪いの知識こそ、セラやラーグより遥かに少なくとも、そこまで言われて、相手の言いたいことを察せられないルーファスではない。
 セラと結婚してから、さんざん呪いやら魔術やらと関わったきたおかげで、それらへの耐性もついてきている。
 ラーグの言いたいことを正確に読み取り、ルーファスはそれを言葉にした。
「その老婆が死ぬ前に、自分を殺した相手に、何らかの呪いをかけた可能性があるということか?魔術師……」
 もし、とルーファスは続ける。
「もし、貴様の言葉を額面通りに受け止めるなら、死に際に呪術師の老婆が呪いをかけた相手こそ、あの化け物の正体ということになるが……」
「君が察しが良くて、助かるよ。公爵」
 半分は本気、もう半分は揶揄するような口調で、ラーグはそう言うと、にやり、と唇の端を吊り上げる。
 あくまでも可能性のひとつだけれど、と前置きをして、金色の魔術師は言葉を重ねた。
「あくまでも可能性のひとつだけれど、でも、考えられないことじゃない。殺された老婆は、腕の良い呪術師だった。死を悟った時、それぐらいの復讐はしてのけたかもしれないよ。――殺された飼い犬の、獣の魂も呪いの道具にして、ね」
 人の強い負の感情と同じく、動物の魂は、呪いの核となりえるのだと、ラーグは語る。
 それが、強い恨みや憎しみを持っていれば、尚更、良いのだと。
「……そういうものか?」
「そういうものだよ。それに……」
 琥珀色の瞳を細めてうなずき、ラーグはうっすらと、笑みにも似た表情を作る。
 それは晴れやかな笑みからは程遠く、苦く、自嘲するようなそれだった。
「それに、死の間際、命をかけてかける呪いは強いよ。――三百年前、凶眼の魔女が誰よりも愛し、また誰よりも憎んだ王にかけた、あの呪いのように」
 そのラーグの言葉の持つ違和感に、ルーファスが「何だと……?」と声を上げるより先に、セラがどこか悲しげな響きを持つ声で、魔術師の名を口にした。
 許しを乞うように、あるいは懇願するように。
「――ラーグ」
 セラの声に、ラーグは弟子の方を向くと、ふっと張り詰めていた表情をゆるめる。
 ごめん、と声には出さず、唇だけ動かすと、ラーグはルーファスの方へと向き直り、まるで何事もなかったかのように話す。
「そんなことより……もしも、その人を食い殺している化け物の正体が、呪いをかけられた人間だとしたら、放っておいたとしても、そう長くはもたないよ……近いうちに、心か体か、どちらかが壊れる……」
 ラーグの言い方は確信に満ちていて、まるで、最初からそうなることがわかっているようだった。
 その言い様が、あまりにも自信ありげであったので、ルーファスは本当だろうか?と、疑わずにはいられない。
 なぜ、と彼は疑問を口にする。
「……なぜ、そう思う?」
 呪いは、とラーグは答える。
 魔術によって、ふわふわ、と空中に浮かんだロウソクが、その炎が、彼の琥珀色の瞳にあざやかな光を映していた。
 ゆらゆらゆらと、炎が揺れる。
「呪いは、人の全てを、食らい尽くすものだからね。ゆっくりと時間をかけて、身体を、心を、魂を……侵食していく」
「……」
「命つきる、その時まで――」
 そう言いながら、ラーグはふっ、と目を伏せる。
 ゆらゆらと揺れるロウソクの炎が、その横顔を照らす。
 その金にも似た琥珀色の瞳は、どこまでも深く、ここではない何処かを見ているようにすら思えた。
 ――どこまでも深く、深く、深淵にも似た。
 ルーファスはゾクッと、背筋があわ立つような、得体の知れない感覚を覚える。
 恐怖ではない。だが、不快だった。
 しかし、それはほんの一瞬のことで、伏せていた顔を上げたラーグはいつも通り、邪気のない子供のような顔をしていた。だが、彼が無垢な子供ではない証拠に、続けられる言葉は容赦がない。
「まぁ、そういうことだから、その化け物は放っておいても、長くはもたないと思うけど……その時が来るまで、まだ犠牲者は出そうだね……どうやら人の肉の味を覚えて、我慢が出来ないみたいだし……」
 このままならば、まだまだ犠牲者は増えるだろう。
 そんなラーグの言葉に、セラはビクッと身を震わせ「そんな……っ!」と、悲鳴にも似た声を上げた。
 頭ではわかっていても、認めたくなかったのだろう。
「そんな……っ!」
 何とか出来ないの、セラがそう続けようした時だった。
 ラーグが「しっ、静かに!」と言って、指で口を押さえるような仕草をする。
「……え?何?急に」
 いきなり静かにしろ、と言われて、何が起きたのかと混乱するセラをよそに、ルーファスは落ち着いていて、何が起こったのかを、正確に把握しているようだった。
 ルーファスは動揺した素振りなど欠片もなく、落ち着き払った態度で椅子から立ち上がると、冷静な声で「悲鳴だな……この近くか……」と言う。
 ラーグはちらっ、とルーファスの方を見ると、短く問う。
「今の悲鳴、君も聞こえた?」
 ルーファスはうなずいて「ああ……あれは、悲鳴だろうな」と、こちらも短く答えた。
「悲鳴……?え……?」
 さっぱり事態が把握できないセラは、ルーファスとラーグを交互に見たが、彼ら二人は窓の方に険しい視線を向けているだけで、何も教えてはくれなかった。
 やがて、混乱する彼女の耳にも、どこからか甲高い悲鳴のようなものが聞こえた。
 最初は遠く、小さな声だった……だが、それは、だんだんと近づいて、大きくなる。
 悲痛な響きを持つそれは、やがて、はっきりとした音となってセラの耳に響いた。
「いやあああぁぁぁ!助けて!誰か!化け物が、化け物が!助けてえええぇぇぇ!」
 女の悲鳴。
 外から聞こえてくる、切羽詰ったそれに、セラはとてもではないがじっとしていられず、ルーファスやラーグの制止を聞くこともなく、勢いのまま、扉の外へと飛び出した。
 ――悲鳴を上げている人を、助けなければ。
 そのことしか、彼女の頭にはない。
 勢いのまま、悲鳴の聞こえる方角へと、走る。走る。走る……。
 走りすぎて、心臓が早鐘のように脈を打ったが、そんなことに気をとめてはいられない。
 夜風が冷たく頬を撫で、月あかりのみに照らされた夜道は心もとなかったが、そんなことを気にする余裕は、今のセラにはない。
 ただ、悲鳴のした方角へと走る。
「おい、少し落ち着け。セラ!」
「セラ!君ひとりで、一体、どうするつもり?」
 後ろから、ルーファスやラーグの声が聞こえても、セラは振り返らなかった。
 決して、彼らのことを信じていなかったわけではない。
 でも、振り返って、ここで立ち止まったら、何かも手遅れになる気がした。――死んでしまった彼女、リーザのように。


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