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三章  呪いの代償  12


「いやあああああっ!」
 夜の闇に響き渡る、甲高い女の悲鳴。
 静まり返っていた夜の貧民街に、その絹を裂くような女の悲鳴は、ひどく恐ろしげに響く。
 それに導かれるように、セラはその、女の悲鳴の上がった方角に向かって、全力で走る。
 はあはあ、と苦しげに、荒い息を吐きながら。
 夜の暗闇は、残念ながら彼女の味方ではない。
 貧民街の家々の灯りはまばらで、何とも頼りなかった。
 でこぼこの地面に小石に足をもつれさせ、暗闇に方角を見失いそうになりながら、セラは脇目もふらず、ただ必死に走り続ける。
 走らなきゃ、速く走らなきゃ、走らなきゃ間に合わない……っ!
 背中から、ルーファスやラーグが自分を追ってきている気配は感じていたが、振り返る余裕は今のセラにはない。
 彼らの足音さえ、どこか遠いもののように聞こえた。
 セラも頭では先走らず、彼らを頼った方がいいとわかっているのだが、焦りと不安がそれを凌駕する。
 もし、間に合わなかったら……という不安が、ほんの一瞬、胸をよぎり、セラはかぶりを振った。
 心臓が早鐘のように脈を打ち、唇からはひゅうひゅうと、力ない、荒い息がもれる。
 セラの表情に宿るのは、焦りと不安と……そして、これから待ち受けるものへの恐怖だった。
 少女の翠の瞳が、ゆらゆらと、ひどく不安そうに揺れている。
 悪い想像をして、足がすくみそうになる自分を心の中で叱咤し、セラはどんな小さな物音も聞き逃すまいと、神経をとがらせた。
 息が切れる、苦しい。
 でも、何があっても、走るのを止めるわけにはいかない。
 セラは走る。
 走る。
 走る。
 肌を撫でる夜風は突き刺さるようで、ひどく冷たい。
 息が、息が苦しい……でも、走らなきゃ……走らなきゃ、助けられない……っ!
 そうして、どれほど走っただろうか……
 焦りからか不安からか、ひどく長い時間のように感じたが、実際には、さほどでもない。
 その時、間に合って……というセラの祈りが天に通じたのか、再び、助けをもとめる声が聞こえた。
「い……ひっ……誰か、助け……助けてえええっ!」
 さっきと同じ、女の悲鳴。だが、先程よりもずっと、その悲鳴とセラの距離は近かった。
 その悲鳴に引き寄せられるように、また蜘蛛の糸にからめとられる蝶のように、セラは声に向かって走り、角を曲がる。
 角を曲がった先は……どこにも逃げ場のない、行き止まりだった。 
 そこで、立ち尽くしたセラの瞳に映ったのは――
「……ぁ」
 目の前に広がる光景に、セラは言葉を失って絶句し、ただ呆然と立ち尽くす。
 覚悟していてもなお、それは異様としか言い様のない光景だった。
 あまりに異様すぎて、現実味がない。
「た、助けて……」
 暗闇から、白い手が伸びてくる。
 地面に座り込んで、右足を引きずりながら、救いを求める言葉と共に、セラに向かって必死に手を伸ばしてくるのは、さっきの悲鳴の主であろう、金髪の若い女だった。
 限界をこえた恐怖と涙でぐしゃぐしゃの顔をし、半ば地面に倒れながら、ガタガタと震える女の姿は、哀れの一言につきる。
 本来、まだ若く、健康そうな金髪の女だったが、今、真っ青な顔色で、カチカチと噛み合わぬ歯の根を鳴らす女の顔は、あふれんばかりの恐怖に支配されていた。
 痛めたらしい足を引きずりながら、泥だらけの地面を這い、それでも女が必死に逃げようとするのは、迫りくる死への恐怖、生への渇望ゆえだろう。
 恐怖の色に染まった女の青い瞳が、救いを求めるように、すがるように、その場に立ち尽くすセラを見た。
 たすけて、と声にならぬ声が言う。
「た、たすけ……」
 恐怖にうるんだ目でセラを見て、すがりつくように、助けてと祈るように、必死に手を伸ばしてくる金髪の若い女……
 セラを絶句させたのは、その女ではなく、女の後ろに立つものだった。
 恐怖の根元、今にも女に襲いかかろうと、その背後に立つものは――
「……っ!」
 セラは息を呑んだ。
 ――それは、漆黒の異形だった。
 助けてと、セラに向かってに手を伸ばす、その女に背後から襲いかかるものの禍々しさと、恐ろしさを何と表現したらいいのだろう。
 月を背に立つ、漆黒の影。
 二本の足で立ち、男物の衣服をまとい、全体的には人の姿をしているにも関わらず、それは到底、人ではありえなかった。
 獣の、狼に似た頭をもっており、子供の頭など丸のみに出来そうな大きな口と鋭い牙、その手からは長い、凶器にも似た鋭い爪がある。
 その瞳は、まるで血に飢えたように、禍々しい赤い光を放っていた。
 牙の見える大きな口からは、獲物を前にした興奮からか、だらだらとヨダレがたれ、それが獣臭い、何とも言えぬ悪臭をただよわせる。
 セラを絶句させたそれは、獣とも人とも言えぬ、異形の化け物だった。
「あ……」
 ルーファスからもまたラーグからも、人を食い殺す化け物の話を聞かされていたとはいえ、目の前に立ちふさがるあまりにも禍々しく、また異様なものの姿に、セラは言葉を発することすら出来ず、ただ目を見開いて、呆然と立ち尽くす……。
 (ああ、もしかしなくても、これが……)
 (この化け物が、あの娘を……)
 (あたしの友達だった、あの娘を……リーザを食い殺したの?)
 そう思った途端、怒りと恐怖で、少女の体はガクガクと震える。
 頭より先に、震える体で理解する。
 ああ……これが、この獣と人間を合わせたような異形が、ラーグやルーファスの言っていた、人を食い殺す化け物なのだと、セラは悟らざるを得なかった。
「……」
 彼女の視線に気づいたのか、今、この瞬間にも、獲物である金髪の女に襲いかかろうとしていた化け物が、ゆっくりと頭をもたげる。
 頭は狼にも似た獣でありながら、体は人間であり、男物の衣服をまとっているのが、どうしようもない違和感と共に、吐き気を覚えるような、底のない不気味さを感じさせる。
 血の色の、夜の闇にもあざやかな禍々しい赤い目が、ギラギラとした光を放ちながら、こちら……セラの方を見た。
「……っ」
 かろうじて、逃げ出しはしなかったものの、背筋にゾッとするものを感じて、セラは一歩、後ずさる。
 それは、生きるものとして、己の身を守るための本能であっただろう。
 魔女として《解呪の魔女》という二つ名を持ち、魔術や異様なものに耐性がある彼女ですら、思わず、目を逸らしたくなるほど、その化け物は禍々しい気配をまとっていた。
 ――この化け物は、一体、今まで何人の人を食い殺したのだろうか?
 しかし、いかに目を逸らしたくとも、それは叶わない。
 恐怖そのものを前にしては、人は目を逸らすことすら、許されない。
「グルル……」
 化け物が大きな口をあけ、グルル……と、唸り声をあげる。
 それは、獲物を食べることを邪魔した、無粋なセラという乱入者に怒っているようでも、あるいは新たな獲物が飛びこんできたことを、歓迎しているようでもあり、どちらとも判断がつかなかった。
 いや、そのどちらであったとしても、それから起こることに大差はなかっただろう。
 ほんの一瞬だけ、赤い目をセラへと向けていた化け物は、次の瞬間、ふいっと彼女に興味を失ったように横を向くと、再び、地面を這うように逃げようとする金髪の女へと、狙いを定めた。
 化け物は女を見下ろすと、その長い、凶器にも似た鋭い爪を、女の頭上に振り上げる。
 その爪の鋭さは、女の柔らかな肌など簡単に引き裂き、その首筋から鮮血を噴き出させることだろう。
 あるいは、化け物は鋭い爪で女の肌を切り裂いた後、その臓物をすするか、もしくは牙を突き立て、頭からかじりつくかもしれぬ。
 恐怖の涙を流しながら、必死に化け物から逃げようとする女にとって、それは余りにも残酷な想像だった。
 背後から迫りくる化け物に、ガタガタと哀れなほどに震え、涙で顔をぐしゃぐしゃにしながらも、生への欲求を捨てきれない女は、たすけて……と同じ言葉を繰り返しながら、すがるように、セラへと手を伸ばす。
 助けて、死にたくない……
 恐怖に震える女の姿が、涙でぐしゃぐしゃになった顔が、それでも逃げようとする足が、伸ばされた手が、生きたい、死にたくない、という女の意思を、何よりも強く物語っている。
 (ああ、そうだったよね。きっと、リーザも……)
 恐怖に震える女の顔が、一瞬、死んでしまった幼馴染みの顔と重なる。
 その時すでに、セラは何をすべきか決めていた。
 頭ではない、心で。
 迷わなかったわけでも、恐怖に震えなかったわけでもない。けれど、後悔しないためには、それしかなかった。
「た、たすけ……」
 その金髪の女が、すがるように伸ばしてきた手を、セラは躊躇いなく取り、自分の側に女を引き寄せる。
 そうして、一歩、女を守るように、庇うように前へ出る。
 知り合いでもない女の、身代わりになる、また盾になるというほどの覚悟があっての行動ではない。
 誰かを救おうなどという高尚な気持ちではなく、ただ自分に向かって、必死に手を伸ばしてくる女を見捨てられずに、セラはそれを選んだ。だが、それは庇った女の代わりに、自分の命を危うくすることだった。
 化け物に襲われていた女の代わりに、一歩、前に出てしまったセラは、化け物にとっては、獲物である女を遠ざけ、狩りを邪魔した憎むべき敵だ。
 ギラギラした化け物の赤い目に、一瞬、憤怒の色が宿る。
 しかし、獲物はどちらでも構わないと、そう思い直したのであろうか、その化け物は鋭い爪を、牙を、今度は 女を庇ったセラへと向けた。
 狼を思わせる大きな口があいて、鋭い牙が、間近に迫る……!
 逃げようにも、逃げられる距離でも、速さでもなかった。
「いっ……や……っ!」
 迫りくる牙と、化け物への恐怖のため、セラは本能的にまぶたをおろし、瞳を閉じかけた。
 いや、と抵抗の言葉を口にしたところで、化け物は襲いかかってくる。
 生臭い息、獣じみた悪臭に、鼻が曲がりそうだ。
 化け物は鋭い爪を振り上げ、同時に大きく口をあけると、セラの喉を食い千切ろうと襲いかかってくる。
 鋭い牙が、セラの喉に迫る……
 その瞬間だった。
「――伏せろっ!」
 その瞬間、背中の方から男の声がした。
 低く、よく通る声は、ルーファスのものだ。
 その命令にも似た、彼の声の強さに押されるように、セラは反射的に膝を折り、両手で頭を庇いつつ、とっさに身をかがめる。
「ルー……」
 ルーファス、というセラの声は、言葉にはならなかった。
 そうして、身をかがめた彼女の頭上で、剣の、鋼の軌跡が描かれる。
 闇の中、凄まじい速さで、銀の光が走った。
 速すぎて、目で追うことすら、容易ではない。
 銀の剣が、風を切り、闇を切り裂いていく。
 突き出された剣は、セラの頭上を飛び越えて、一直線に、彼女を襲おうとしていた化け物へと向かっていった。
 一直線に突き出された剣は、化け物の心臓を狙っている。
「グォォォ……っ」
 剣を向けられた化け物は、グォォォ……と低く唸ると、 血のような赤い目をギラつかせ、素早い、人間にはありえぬほどの俊敏さで左に飛びのき、突きつけられた剣を避ける。
 追撃するように、横なぎに迫ってきた剣に、化け物は後退せず、逆に高く跳躍し、爪を振りかざしながら、こちらに襲いかかってきた。
 振りおろされた、化け物の鋭い爪を、剣で受け止め、横へ流す。
 そうして、体勢を立て直した後、剣は再び、化け物の喉へと狙いを定める。
 かくして、激しい戦いが始まるかと思われた。
 しかし、意外にも……
 化け物は、それを選ばない。
 否、最初から、選ぶつもりがないようだった。
 化け物は再び、高く跳躍し、セラの横を走って、暗闇の中へと消え、どこかへ逃げていった。
 おそらく、あの化け物にとっては人を狩り、食うことこそが目的であり、誰かと戦うことなど想定の範囲外だったのだろう。
 剣を持った人間と、まともに戦う意味がないと、判断したのかもしれぬ。
 あるいは、ここは一端、退いて、また別の場所で獲物を見つける気かもしれない。
 いずれにせよ、あの化け物はただ単純な、獣の本能だけで動いているだけではなさそうだ……
 二本の足で走って、闇の中に消えていく、頭は獣で体は人という異形……そんな化け物の背中を見ながら、セラはぐったりと、全身の力が抜けるのを感じた。
 それは、助かったという安堵感か、あるいは助けられたという安堵感か、多分、両方ともだろう。
 はあ、と少女の唇から、安堵とも疲労とも取れる息がもれる。
「……無事か?」
 そんなセラに、カチャリ、と抜き放った剣を鞘におさめたルーファスが声をかける。
 剣を鞘におさめたルーファスは、その蒼い瞳で油断なく、化け物の逃げていった暗闇を睨んでいた。
 人知を超えた化け物を相手に戦ったにも関わらず、涼しい顔をした青年は、息ひとつ乱しておらず、その代わり、どこか冴え冴えとした冷たい空気を身にまとっている。
 それは、ひどく静かな、殺気と言ってもいいものだった。
 ――ルーファスは本気で、あの化け物を殺すつもりだったのだろう。
 ルーファスの端整な横顔に浮かぶのは、どこまでも冷たく、磨き抜かれた刃にも似た、鋭い表情だ。
 セラが初めて見る、男の顔だった。
 普段の冷ややかさや皮肉とは似て非なる、ルーファスの纏う本気の殺意に、その凍てつくような表情に、セラは一瞬、ひどく辛そうな表情を浮かべた後、ゆっくりと首を縦に振った。
 あたしは、平気……と彼女なりに精一杯、気丈な声で言う。
「あたしは、平気……助けてくれて、ありがとう。ルーファス」
 青白い顔で言ったセラの言葉に、一体、どれほどの真実味があったかは疑わしい。だが、ルーファスは軽く眉をひそめただけで、何も言わず、うなずいた。
 凍てついた、殺伐とした空気が、少しだけ緩む。
「そうか……」
 うなずいたルーファスが何か、言葉を続けようとした瞬間、背中の側からタッタッと軽い足音が聞こえてくる。
 それと同時に、ルーファスを押しのけるように、きらきらした金髪の頭の小さな影が、彼と彼女の間に割り込む。
「――セラっ!」
 そう少女の名を呼ぶのは、小さな子供の姿をした魔術師――ラーグだ。
 ルーファスが不愉快そうに柳眉を寄せるのもお構い無しに、きらきらした金髪の主、ラーグはぐいっ、と前へ出ると、セラと視線を合わせる。
 ラーグもまた、ルーファスと同じく、悲鳴に飛び出したセラを追いかけてきたのだ。
 琥珀色の瞳がセラを見つめ、ひどく真剣な声で、ラーグが尋ねる。
「大丈夫?怪我してない……?セラ」
「うん。あたしは怪我もしてないし、大丈夫……それより、この人の方が……」
 セラはそこで言葉を切ると、心配そうな表情で、化け物に襲われた恐怖からか、いまだグッタリと地面に座りこんだままの、金髪の女の方を見る。
 大きな怪我はしていないようだったが、女の体は恐怖のためかガタガタと小刻みに震え、その青い瞳は焦点が合っていない。
 獣とも人ともつかぬ、異形の化け物に襲われ、殺されそうになったのだ。
 そう簡単に恐怖が拭いされないのは、無理もないというか、ある意味、至極、当然のことだった。
 いくら助かったとはいえ、化け物に食われそうになった心の傷が、そう易々と癒えるわけもないのだから。
 それがわかっているセラは、いまだにガタガタと震える金髪の女のそばに歩み寄ると、膝を折り、なぐさめるように優しく、その肩を抱く。
 肩を支えながら、セラは女を落ち着かせるように、その耳元に何度も何度も、もう大丈夫……と繰り返し、語りかけた。
 何度も何度もそうしているうちに、恐怖ですすり泣いていた女も、ようやく落ち着いてくる。
「もう大丈夫……あの化け物は遠くにいきましたから、落ち着いて……」
 セラがそうしているのを、少し離れた場所から見ていたルーファスに向かって、ラーグはにこっと邪気のない笑みを浮かべると、相変わらず、掴み所のない飄々とした態度で言う。
「あの化け物を相手にするなんて、君って、それなりに腕が立つんだね。公爵……別に見直しはしないけど、顔以外に、君にマトモな取り柄があって良かったよ」
 ルーファスは口角を上げると、ふっ、皮肉気に笑い、冷ややかな口調で言い返す。
「お褒めに預かり、光栄だな。魔術師……貴様にも、毒舌以外の取り柄が何かあれば、少しは救われただろうに、同情するぞ」
「クスクス。相変わらず、君は、呆れるくらいの減らず口だねぇ。いっそ、いさぎよく死んだ方が、世のため人のため僕のためになるんじゃないかい?公爵」
「はっ、その言葉は、貴様のためにこそあると思うがな、魔術師よ……それで?何が言いたい?」
 クスクスと猫のように喉を鳴らす金色の魔術師に、ルーファスは「……それで?何が言いたい?」と、鋭い声で問う。
 お世辞にも、ルーファスと仲が良いとは言えないラーグがわざわざ、こうして話しかけてきたからには、何らかの目的、あるいは有益な情報があるはずだった。
 ルーファスにとっては、初対面の時から気に食わない魔術師ではあるが、この状況で下らない話をするほどの愚者ではなかろう、と彼は思う。
 その考えは正しかったらしく、ラーグはすっ、と琥珀色の瞳を細め、「あの化け物のことなんだけど……」と、話を切り出す。
「あの化け物のことなんだけど……あの獣と人間がまざったようなやつ、僕の目が正しければ、あれは間違いなく、呪われたモノだね……」
 王都を騒がせ、何人もの犠牲者を出している人食いの化け物……
 その事件の核心に繋がるかもしれない情報が、ラーグの口から出たことで、ルーファスは表情を引き締める。
 先ほどルーファスと対峙した、あの獣とも人とも言えぬ、異形の化け物。
 ほぼ間違いなく、あれと王都を騒がせている人食いの化け物は、同じものに違いない。
 セラが幼馴染みだと語っていた、殺され、クラリック橋のところで引き上げられた若い女……リーザとやらを食い殺したのも、おそらく、あの化け物の仕業だろう。
 あの化け物が、一体、何人の人間を獲物として狩ったのか、それを考えることさえ、おぞましい。
 自分の目が正しければ、あの化け物は呪われたモノだと、魔術師――ラーグは言った。
 呪われたモノということは、あの化け物の姿、それ自体が呪いによってねじ曲げられた偽りのものなのかもしれない。
 それに、ラーグはさっき、こうも語っていた。
 貧民街で、何者かに殺されたという、呪術師の老婆。
 その時に、一緒に殺されたという、老婆の飼っていた黒い犬。
 息絶える寸前、呪術師の老婆は殺された犬の魂を使って、自分を殺した憎い相手に、何らかの呪いをかけたかもしれないと……。
 ――もし、ラーグが可能性はあると言っていたように、その呪術師の老婆の呪いが、あの人食いの化け物を生み出しのだとしたら?
 そうだとしたら、全く関係ないように思えたそれらが、呪いを介して、一本の線で繋がることになる。
 呪いというものが確かに存在する以上、それは決して、荒唐無稽な話ではない。
「――呪われたモノということは、あの化け物の正体が、呪いをかけられた人間ということか?魔術師」
 ルーファスの問いに、断言は出来ないけどね、と前置きした後、その可能性は高いと思うよ、と続ける。
「呪いと、あの化け物について言うなら、僕はその可能性は高いと思うよ。あの化け物の正体が、呪いをかけられた人間だったとしても、驚くには値しない。なぜなら……」
 ラーグはそこで言葉を切ると、一瞬、ふっ、とセラの方を見た。
 そうして、こちらを振り返ると、ラーグは口角をつり上げ、自嘲するように苦く笑う。
 普段の飄々とした態度とも、わざとする子供らしい無邪気な笑みとも違う、長い歳月を過ごし、生き飽きた者のみに許された、どこまでも苦い笑みだった。
 その魔術師の、金にも似た琥珀色の瞳に宿るのは、哀れみと……深い後悔だ。
 ルーファスがそれに気づくよりも、ラーグが唇を開く方が早く、そして、魔術師は呪いの本質ともいうべき言葉を吐く。
「――呪いは、それの本来あるべき形を、魔術によってねじ曲げるものだから……ずっと、三百年も昔から、ね」
 その魔術師の言葉の意味を、隠された真実を、真の意味での絶望を、ルーファスが知るのはまだ先の話だった。
 今はまだラーグのそれは、ただの言葉に過ぎず、いかに謎めいていたとしても、その言葉をそのまま受け止めるより他にない。
 たとえ、この先にいかなる絶望が待ち受けているとしても、今はまだ、その時ではないのだから……。
「魔術師……」
 ルーファスが更に、問いを重ねようとした時だった。
 少し離れた場所から、「ルーファス!ラーグ!」と彼らの名を呼ぶ、セラの声がする。
 化け物に食い殺されそうになり、放心状態だった女が何とか落ち着いたのか、ずっと女の傍らによりそい、もう大丈夫だと何度も言い聞かせていたセラが、ようやく立ち上がり、ルーファスやラーグのいる方へと駆けてくる。
「ルーファス!ラーグ!」
 駆け寄ってきたセラに、ラーグが「もう大丈夫なの?」と尋ねる。
「もう大丈夫なの?化け物に襲われた女の人、無理もないけど、ずっと泣きながら震えてたから……もう落ち着いた?平気そう?」
 ラーグの問いかけに、セラは「うん。一応は……なんとか落ち着いたみたい」と答えて、うなずく。
「……でも、あの化け物がまだこの辺をうろうろしているかと思うと恐ろしいから、一刻も早く、家に帰りたいって、あの女の人は言ってる。あたしも、その方がいいと思う。家に帰って、扉を厳重に閉めていれば、あの化け物も近づけないし、それでね……」
 セラは顔を上げると、ルーファスやラーグが予想していた通りの言葉を、そっくりそのまま口にした。
 彼女の性格を思えば、その先を読むのは、全くといっていいほど難しくない。
「あの女の人の家、この近所なんだって……あの状態で一人で帰すのも心配だし、送って来るよ。ルーファス、ごめんなさい。少しだけ、待ってて」
 そう言うセラ自身、常より血の気の失せた顔は青白く、どう言い繕ったところで、元気とは程遠い。
 本人に無理をしている自覚はないのだろうが、端から見ていると、危なっかしいこと、この上なかった。
 元々、一人で内に抱えこみやすい性質ではあるのだが、今はリーザが死んでしまったことへの動揺や、何も出来なかったという後悔が、それに拍車をかけているようだった。
 まるで、張りつめた糸のような少女の心は、ひどく危うい……。
 何もかも自分で抱えこもうとするような、セラの頑なさに、ルーファスは半ば呆れ、同時に己でも持て余すような、かすかな苛立ちを覚えつつ、その感情の赴くままに「貴女は……」と唇を開く。
 今までにも何度か、そう思うことはあった。――理不尽だとは思うが、自分が傷ついてまで、他人のことを助けようとする少女に、誰かが傷つくことに怯える姿に、その優しさとは似て非なる臆病なまでの弱さに、理由もなく苛立つ。
 それを、素直に口にしようとは、ルーファスは思えないが。
「貴女は……」
 しかし、ルーファスが何かを言うよりも、ラーグが「それじゃあ、僕があの女の人を送ってくるよ」と言う方が早かった。
「いいの?ラーグ」
 いいの?と弟子のセラがそう確認すると、師匠のラーグは「いいよ、それぐらい」と答え、軽く手を振り、弟子が助けた金髪の女の方へと歩いていく。
「あ、じゃあ、あたしも一緒に……」
 セラがそう言って、師匠の小さな背中を追いかけようとすると、振り返ったラーグは少し困った風にふっと微笑して、人差し指で弟子の少女の額をそっと押すと、それを押し止める。
 ふいうちともいうべきそれに、セラは一瞬、きょとんとした顔で足を止める。
 決して嫌ではないが、ほんの少し戸惑うような顔をしたセラに、ラーグは心配ないよ、と穏やかな声で続けた。
「心配ないよ。あの女の人は、僕がちゃんと無事に家まで送ってくるから、安心して……その間、セラ、君はここで少し休んでいなよ。自覚はないかもしれないけど、まだ少し顔色が悪いよ」
「ラーグ……」
「安心してよ。魔術師は基本、嘘つきだけど、約束は守るからさ……それに、昔から何もかも一人で抱えこもうとするのは、君の悪いクセだよ。セラ……僕は君の師匠なんだから、もっと頼って」
 弟子の少女を真っ直ぐに見つめて、ラーグは言う。
 もっと僕を頼って、というラーグの言葉に、セラは少し肩の荷が下りたように、どこか張りつめていた雰囲気が緩んで、小さく唇をほころばせた。
 何もかも自分で抱えこむと言われるほど、己が責任感が強い人間だとはセラ自身は思えないが、それでも、ラーグが自分を心配してくれていることは伝わってくる。
「……ありがとう。気をつけてね。ラーグ」
 セラがそう言うと、ラーグは大丈夫だという風に、うなずく。
「大丈夫だよ。今は、こんな子供のなりをしているけど、僕だって魔術師の端くれだからね。身を守る術くらい、心得てるからさ。それよりも……」
 それよりも……と言葉を切ると、セラと向き合っていたラーグはちらっと横を向いて、その琥珀色の瞳をルーファスへと向けた。
 魔術師の金にも似た琥珀色の瞳には、威嚇にも似た、いささか剣呑な光が宿っている。
 子供にしか見えない、あどけない顔や仕草に似合わぬ、じろっとした鋭い眼差しで、ルーファスを睨んだラーグは、ふん、と可愛いげなく鼻を鳴らして、「それよりも……」と同じく、可愛いげの欠片もない口調で言う。
「それよりも……僕がいない間、間違っても、セラに手ぇ出すんじゃないよ。公爵……君は、信頼できないからね」
 ラーグがそれを口にするのと、ルーファスが眉を寄せ、額に青筋を立てたのは、ほぼ同時のことだった。
 普段は冷静かつ、時に冷徹な性格として知られるルーファスは、常なら、安い挑発に乗るほど愚かではない。
 しかし、犬猿の仲である魔術師に、ここまで言いたい放題に言われて黙っているほど、青年は大人しくもなければ、また従順な性格でもなかった。
「魔術師。貴様という奴は、一体、どこまで人を虚仮にすれば……」
 並みの人間ならば怯えて逃げそうな、氷のような視線でラーグを睨み、地を這うような低い声でそう言うルーファスを、隣にいたセラが「お、落ち着ついてよ。ルーファス……」と、なだめた。
「お、落ち着いてよ。ルーファス……そんなことより、あの女の人のことを、お願いね。ラーグ……無事に、家まで連れていってあげて」
 お願い、と真剣に頼むセラに、さすがのラーグも真面目な顔で、わかっている、と答える。
「わかってるよ。この辺りの土地は、僕の……魔術師の庭みたいなものだから、心配いらないさ……じゃあ、行ってくるよ」
 じゃあ、と言うと、ラーグはルーファスとセラに背中を向け、化け物に襲われながらも間一髪で助かった、金髪の女の方へと歩み寄っていく。
 一体、どうなることかと思われたが、ラーグはまだ小さく震える女のそばに歩み寄ると、その耳元に向かって、励ますように二言、三言、声をかける。
 その言葉が、憔悴しきった女に、どれほどの効果をもらたしたのかはわからない。だが、ラーグに声をかけられた女は「あ……」と声を上げ、とにもかくにも、よろよろとした足取りで歩き出す。
 たとえ、子供の姿をしていても、魔術師は魔術師ということだろうか。
 魔術ではなくとも、その言葉は不思議な力をもって、人の心を動かすようだった。
 よろよろとした足取りで歩き出した金髪の女を守るように、ラーグがすぐ横に並んで……二つの影が、暗闇の先、女の家がある方へと遠ざかっていく。
 ルーファスとセラは黙って、その背中を見送る。
「……」
 その場には、彼と彼女、二人だけが残された。


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