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三章  呪いの代償  13


 月光が、青年と少女、彼らの姿を照らしていた。
 肌に冷たい夜風が吹いて、セラの亜麻色の髪と、群青のドレスの裾を揺らす。
 それに合わせるように、月光に照らされた二つの影も、ゆらゆらと揺れていた。
 ラーグが化け物に襲われた女を家まで送っていくために、その場を離れた後、残された二人、ルーファスとセラはしばしの間、会話もなく、ただ無言で見つめ合う。
 セラの翠の瞳がルーファスの姿を映し、青年の蒼い瞳が、やや憂いをおびた少女の白い貌を言葉もなく見つめる。
 冬の海を想わせる深い蒼と、木々に差す柔らかな光のような翠、色も纏う空気も違う彼らの瞳が、声もなく互いを映す。
 言葉も、声さえもなく、ただ相手だけを。
「……」
 化け物との戦い、先程までの生死をかけた状況が嘘だったかのように、青白い月光に照らされた夜道は、いささか不安を覚えるほどに、どこまでも静まり返っていて、喧騒や物音、人の話し声は語るまでもなく、彼ら以外の人の気配というものが全くしない。
 その静けさを自然なものと受けとめつつも、セラは……ルーファスさえ、どこか不思議な想いに囚われずにはいられなかった。
 ――夜の静けさ、そして、暗き闇も相まって、その場が周囲から隔絶されているような、夜という名の箱庭に二人っきりで閉じこめられたような、奇妙な錯覚を抱きそうになる。
 闇に包まれた、夜の静寂さは、不思議と落ち着くような、あるいは反対にひどく心細く不安になるような、二つの相反する複雑な気持ちを、彼らの胸にもたらす。
 それは、長いようにも、また短いようにも感じられる時間だった。
 しばらくの間、それぞれの複雑な感情を持て余したかのように、ルーファスとセラは沈黙を貫き、黙ったまま見つめ合う。
 お互い、相手にかけるべき言葉に迷っているのか、この夜の静寂を崩すことを心の底で厭うているのか、どちらとも判断できず、あるいは、そのどちらでもない想いを、胸に抱えているのかもしれぬ。
 その一瞬のようにも、また永遠のようにも感じられた沈黙を崩したのは、彼女の、セラの方だった。
 セラは気持ちを整理するように、一瞬、うつむいて、片手でぐっ、と群青のドレスの裾を握りしめる。
 ふっ、と唇から、かすかな吐息がもれた。
 そうした後、セラは身長差をうめるように上向いて、翠の瞳に真正面からルーファスを映し、小さく唇を開いて「……ルーファス」と、彼の名を呼ぶ。
 静かな、でも、どこか辛そうな声だった。
 そうした彼女の表情や声からは、憂いや後悔……そして、かすかな迷いのようなものが伝わってくる。
「……ルーファス」
 そう名を呼ばれたルーファスは、彼らしい、感情の読めない無表情で、身長差のままにセラを見おろすと、低く、硬質な、ともすれば冷酷に聞こえる声で「……何だ?」と、問う。
 化け物と対峙した際に身にまとっていた、そばにいて恐ろしいほどの殺気はなりをひそめたとはいえ、ルーファスが身にまとう空気は、相変わらず、他者を拒むように冷ややかで、指一本、触れることさえ躊躇う高い壁のようだ。
 端整で冷ややかな美貌、氷のような蒼い瞳で自分を見下ろしてくるルーファスに、セラは先ほどと同じく、ひどく辛そうな表情を浮かべる。
 きつく眉を寄せ、辛そうに唇を噛むセラの表情を、自分への怯えと受け止めて、ルーファスは、ああ、この女もか……と思いながら、うっすらと口角を上げ、ほんのわずかでも希望に似たものを抱いていた、己の愚かさを嘲笑う。
 苦く、ひどく冷めた感情が、彼の胸を支配した。
 ――怯えられるのは、 幼い頃から、慣れている。今更、どうということもない。
 生々しい殺気をさらせば、女が怯えるであろうことは、最初から、ルーファスにはわかっていた。
 セラは平気な風に振る舞っていたが、本心ではルーファスに怯えていたのだと言われても、それを否定することなど出来ようはずもない。
 たとえ、セラや襲われていた女を助けるための行動だったとしても、あの化け物を彼が本気で殺そうとしたのは、紛れもない事実なのだから。
 いくら事情があったとしても、目の前で殺気立った姿を見せつけられて、平気でいられる女は少ない。
 苦しげな、辛そうな表情をしているということは、おそらく、セラも例外ではなかったというだけことだろう。
 いくら王女だ魔女だといったところで、セラが女である以上、殺気をさらし、のみならず、それを隠そうともしない冷酷な男に怯え、嫌ったところで、何の不思議もないと、ルーファスは思う。
 セラが自分に怯え、 離れたい、逃げたいと思ったとしても、それは当然といえば当然のことだ。
 元々が政略結婚、愛情があって夫婦となったわけでもないし、お互い、気を許していたわけでもない。
 ――怯えられるのも、 逃げられるのも、決して、己を見てもらえないのも、子供の時から慣れていた。
 ルーファスと血の繋がった父や母、両親たちでさえ、ただの一度も、ルーファスを真っ直ぐに見ようとはしなかったのだから。
 愛されないのも、怯えられるのも、深く憎まれるのも、昔から慣れている。だから、今更、セラが自分に怯えたところで、傷つくような繊細な心を、ルーファスは持ち合わせていない。
 幼い頃は、もしかしたら、あったのかもしれないが、いつしか失ってしまった。
 傷つくどころか、何も感じない。
 ただ、虚無にも似た、かわいたものだけが胸に残る。
「ルーファス……」
 そんな彼を、セラは悲しげな、どこか辛そうな眼差しで見つめた。
 自分に対する怯えとも、あるいは哀れみとも、悲しみともとれるそれを、ルーファスは無言で受け止める。
 セラはふっとかすかに目を伏せると、再び顔を上げ、唇を開いた。
 彼女の唇から出るのは、自分への拒絶か、あるいは否定の言葉であろうと、彼は思っていた。
 いずれにせよ、それを拒む権利は、ルーファスにはない。
 しかし……
 セラの口から出たのは、彼への拒絶でも、また否定の言葉でもなかった。
 きゅっと眉を寄せて、やや憂いをおびた表情をしたセラは、ゆっくりと片手を上げ、その手で遠慮がちに伸ばし、まるで壊れ物にふれるようにそっと、ルーファスの頬にふれた。
 白い指先が、そっと。
 そうしながら、翠の瞳の少女は彼を見つめ、怪我してる……とルーファスが気づいていながら、あまり気にならないため、無視していたことを指摘した。
「ルーファス……顔の、左頬のところ、怪我してる」
 頬のところ、怪我をしている。
 そのセラの言葉通り、ルーファスの顔、左頬にはうっすらと血が流れ、つぅ、と一筋の赤い線がにじんでいた。
 深い、ずっと残るような傷ではないとはいえ、痛みがないといえば嘘になるだろう。
 その傷は、さっきの戦闘の時、あの化け物の爪にやられたものだ。
 化け物と戦った際、ルーファスはその鋭い爪が己を引き裂くことこそ、剣で受け止め回避したものの、あの時、一瞬、化け物の爪が肌をかすった。
 左頬の傷は、その時についたものだ。
 しかし、もしも、化け物の爪がもう少し上をかすっていれば、左目をぐしゃり、と潰されていたかもしれぬ。
 それを考えれば、頬にかすったぐらいですんで、むしろ運が良かっただろう。
 左頬から流れ出る血を目にしても、ルーファスはああ……と言ったきり、ほとんど表情を変えようとはしなかった。
 決して、痛みがないというわけではないのだろうが、これぐらい怪我のうちにはいらないと言いたげだ。
 実際、首や目をえぐられたわけでもあるまいし、左頬を爪がかすったぐらいで、ガタガタ言う気は彼にはなかった。
 女でもあるまいし、顔に傷ぐらい、どうということもない。
 そう考えたルーファスは、心配そうな目を向けてくるセラに、放っておけ、と素っ気なく答える。
 淡々と、感情のこもらない声は、冷たくさえ聞こえた。
「ああ……これぐらい傷、ただ、かすっただけだ。放っておけ」
「でも……」
 放っておけ、と言われたところで、セラはその言葉を素直に受けとる気にはなれず、彼へと伸ばした手を下げることをためらう。だが、結局、迷うように、しばし空中をさまよっていた彼女の腕は、力なく下へとおりた。
 そうは言っても、ルーファスの左頬からは、相変わらず、つぅ、と赤い血がにじんでいるのだ。
 痛みを感じぬわけでもないだろうに、表情すら変わらず、己の怪我すらどうでもよさそうなルーファスとは対照的に、彼と向き合うセラの方が心配そうな、辛そうな顔で「でも……」と言葉をつまらせる。
 ――なぜか、心が痛い……。胸が苦しい……。
 なぜ、苦しいと思うのか、セラはそれを上手く言葉に出来ない。
 でも、己の怪我にすら無関心で、表情すら変えようとしないルーファスを見ていると、なぜか胸がしめつけられるようで、切なかった。
「……」
 セラは拳を握り、手のひらに軽く爪を立てながら、ルーファスを見上げた。
 その翠の瞳には、何とも言えぬ感情が宿り、唇はきつく結ばれている。
 どこか悲しげな、憂いをおびた表情で自分を見上げてくる少女に、ルーファスは理解できないとでも言いたげに、柳眉を寄せた。
 別に、自分が怪我をしたわけでもあるまいし、セラが辛そうな顔をする理由が、彼には理解できない。
 自分を見上げてくるセラに、ルーファスはそれを口にする。
「……なぜ、そんな辛そうな顔をするのか、俺には理解できんな。別に、貴女が傷を負ったわけでもないだろうに」
 ルーファスがそう言うと、セラはうつむいて、しばしの間、押し黙り、やがて、小さな声で「……ごめんなさい。ルーファス」と言った。
「……ごめんなさい。ルーファス」
 ごめんなさい、と謝るセラに、ルーファスはますます理解し難いとばかりに、さらに眉間のしわを深くする。
 謝られるような理由も、何かされた覚えもなかった。
「ごめんなさい……?何のことだ?」
 ルーファスがそう問うと、セラは伏せていた顔を上げ、もう一度、ごめんなさい、と言い、言葉を続ける。
 彼女の瞳は、彼の左頬に負った傷、いまだ赤い血を流すそこを見ていた。
「ごめんなさい……貴方に、怪我をさせるつもりじゃなかったのに……」
 自分を助けるために傷を負ったルーファスに対して、すまないという気持ちが強いのか、そう言うセラの表情からは、深い後悔のようなものが伝わってくる。
 彼女としては、ルーファスの傷もそうだが、自分の幼馴染みのリーザの死の真相を知りたいという目的に、彼を巻きこんだうえに、それだけでなく自分を化け物から助けようとしたために、彼の命を危険にさらしたということを、後悔せずにはいられない。
 もし、あの化け物の鋭い爪が、ルーファスの首や喉を引き裂いていたらと考えると、セラはゾッとせずにはいられなかった。
 (あたしを守って、怪我なんかさせるつもりじゃなかったのに……)
 いかに、ルーファス自身が、それを全く気にしていないとしても、それを当然のように甘受する気には、彼女はなれない。
「……全て、俺が勝手にしたことだ。セラ、貴女が謝る必要は、どこにもない。どんな傷を負おうが……もし死んだところで、貴女のせいだとは言わないから、安心するといい」
 どこか冷たく、突き放すような物言い。
 その言葉は、ルーファスの本心であったのだが、それでセラが安心できるかというと、そんなことはなかった。
 何か言いたそうな顔で、セラは「そんな意味じゃ……」と言ったきり、口をつぐんだ。
 そんな少女に、ルーファスはふっ、とわずかに口角を上げ「セラ……」と彼女の名を呼んだ後、嘲るように、あるいは哀れむように言う。
「――相変わらず、貴女は甘いな」
 そう言いながら、ルーファスはスッとセラに左手を伸ばし、ゆっくりと、少女の白い首筋をふれるかふれないかの微妙な距離でなぞってから、そのあごに手をあてる。
 男の、形よく長い指が、首を、肌を撫でていく。
 夜気で冷えた彼の指先は、熱もなく、ひやりとしていた。
 肌にふれる指先は、露骨に艶めいた気配をまとっていたわけではなかったが、自分のものとは違う、男の硬く長い指に首筋をなぞられたセラは、あ……と声をもらし、小さく身を震わせる。
 ルーファスは彼女のあごに指をあてると、力もこめず、ただ視線だけでセラに上を向かせた。
 そうして、上を向いて翠の瞳でこちらを見つめてくるセラを、蒼い瞳で見おろし、ルーファスは低い声で言う。
「あの化け物をどうにかしたいならば、貴女は、何があろうと揺るがない覚悟するべきだ。セラ……自分にしろ他人にしろ、傷つくことが怖いのならば、いっそ何もしない方がいい。ただ尻尾を丸めて、震えていればいいだけの話だ」
「ルーファス……」
 いっそ残酷なほどに、一切の容赦のない、ルーファスの言葉にセラは唇を噛みしめ、どこか傷ついたような表情を浮かべる。
 そんな彼女に向かって、ルーファスは更に容赦のない、冷ややかともいえる言葉の刃を突きつけた。
「もし、何も失わず傷つかずに、何かを救えると思い上がっているのなら、そんな甘い考えは今すぐ捨てろ。貴女が、本気であの化け物をどうにかしたいと、そう思っているならな……そうでないならば、屋敷の片隅で震えているぐらいが、せいぜいだろう」
 胸をえぐるような言葉に、セラは唇を噛みしめ、まつげをかすかにふるわせる。
 傷ついた風な少女の表情に、その憂いをおびたような瞳に、ルーファスは思う。――別に、傷つけたいわけではない。だが、傷つけてしまう自分は、人として大切な何かが欠け、心が歪んでいるのだろう、と。
「……」
 容赦のない言葉や、青年の刃にも似た、鋭い視線……
 それを向けられたセラは、唇を噛んだまま、しばしの間、黙りこんだ。だが、ルーファスから視線を逸らすことはなく、逃げることもなく、正面からそれを受け止める。
 彼から目を逸らさぬまま、セラは唇を開いて、静かな声で言った。
「……わかってる」
 静かな、だが、決意のようなものをこめた声で。
「……わかってる。あたしなりに、覚悟はあるつもりだよ。もしも、この先、どんな危険な目に合ったとしても、あの娘……リーザを殺した、これからも人を食い殺し続けるかもしれない化け物を、このまま放っておく気にはなれないから……」
 あたしは罪深い魔女だから、きっと、罪滅ぼしにもならないだろうけど……という言葉を、セラは声にはせず、喉の奥で飲み込んだ。
 その返事に、ルーファスは少女のあごにあてていた指を離し、低く、 感情の読み難い声で「……貴女がそうまで言うなら、好きにすればいい」と、突き放すように言う。
 冷淡とも言える彼の態度に、セラは怒ったり、気を悪くした様子もなく、それどころか、小さく微笑んだ。
 どこか儚げで、淡く、柔らかな微笑み。
 そうして、淡く微笑みながら、セラは「……ありがとうね」と、感謝の言葉を口にする。
「……ありがとうね。ルーファス」
 ありがとう、と礼を言われたルーファスは、さっぱり理解出来ないと言いたげに、眉をひそめた。
「……ありがとう?何がだ?」
 こういってはなんだが、感謝されるような優しい言葉をかけた覚えは、全くない。
 むしろ、我ながら冷酷とも言える態度だったと、ルーファスは自覚している。
 礼を言われるようなことは、全くしておらず、むしろ散々、容赦のない言葉をぶつけたあとだ。
 泣かれたり、罵られるのは予想の範囲内だが、セラの反応は彼の予想もつかないものだった。
 嫌味だろうかと、うがった考えを抱きそうになるが、セラの表情はいたって真面目で、嘘や冗談を言っている雰囲気ではない。
「貴女に、礼を言われるような覚えはないが……」
 ルーファスがそう言うと、セラの唇は小さく笑みの形を作り、「だって、貴方のあの言葉は……」と言葉を続ける。
「あれは、忠告してくれたんでしょう。ルーファス?……覚悟がないなら、危険だから、深入りしないようにって」
 化け物が恐ろしいのならば、傷つくのが怖いのならば、これ以上、この件に深入りするなという忠告。
 覚悟がないならば、貴女にとって、危険なだけだからと。
 それは、わかりにくすぎて見逃してしまいそうになる、ささやかな好意だ。
 茨のトゲのように鋭く、厳しい言葉の奥深くに隠された、彼なりの優しさ。
 ――素直でない貴方は、決して、認めようとはしないだろうけど。
 案の定というべきか、セラの言葉にルーファスは渋い顔になり、どこか不愉快そうに言う。
「セラ……貴女の目には、俺がそんな親切な男に映るのか?」
 そう見えるなら、それは誤解か勘違いだと言いたげなルーファスに、セラはあれ?と、不思議そうに首をかしげる。
「……あれ、違うの?」
 ルーファスは少し顔をそむけて、深く息を吐き、さぁな、と相変わらず、素っ気ない風に答える。
「さぁな……貴女がそう思いたいなら、思えばいい」
 相変わらず、青年の言葉にも態度にも、甘いものはない。だが、セラはそれを厳しいとは思っても、冷たいとは感じなかった。
 ルーファスの優しさは、いつだって、ひどくわかりにくい。けれど、目に見えてわかりやすいものだけが優しさではないと、彼女は思う。
「でも、もっと……」
 素直になればいいのに、と思わず、そう言いかけて、きっと彼が嫌がるだろうと思い直したセラは、とっさに口をつぐんだ。
 その時だった。
 彼女の言葉を聞いていたのかいないのか、下を向いて、何が気になるのかじっと、何の変哲もないように見える地面を凝視していたルーファスが、ふと妙なことを言い出した。
「セラ……貴女の、その足元にあるのは、何なんだ?」
 その足元にあるものは、何なんだ?と。
 セラ、と名を呼ぶと、ルーファスは少女の足元、地面を指差しながら、そう言って首をひねる。
 彼の指差した先、そこの地面には、何やら黒っぽい泥にまみれた、小さな布のようなものが落ちていた。
 黒っぽいそれは、夜の闇にまぎれて見逃しそうになるし、そうでなくとも、それほど重要なものには思えない。だが、彼には何か気になる点があるのか、その、布の切れはしのようなものに鋭い視線を向け、それに向かって手を伸ばす。
「……え?あたしの足元に何か落ちてる……」
 足元に落ちていた、布の切れはし。
 言われるまで、その存在に気づいていなかったセラは、ルーファスの言葉に慌てて下を向いて、それを見つけようと首を左右に振る。
 そんな彼女の目の前で、彼は軽く膝を折り、地面に落ちていたそれ……布の切れはしのようなものを、指でつまんで拾い上げた。
 泥で黒ずんだ、布の切れはしを自分の顔の前にかかげ、ルーファスは「これは……」と声を上げる。
「これは……あの化け物のものか?血がついている」
 その布には、黒っぽい泥といっしょに、赤く、かわいた血がこびりついていた。
 布の切れはしとはいっても、いびつに切り裂かれたそれは、服の一部、そで口か何かを鋭利な刃で強引に……剣で切られたようである。
 その切り口を見て、自分が剣でやったものであることを、ルーファスは確認した。
 (さっき、あの化け物に剣を向けた時、たしかに何か切ったような感触があったな……)
 あの化け物――狼のような獣の頭と、それと対照的な人の身体をした、おぞましい異形は不気味にも、男物の服を着ていた。
 血がこびりついている、この黒ずんだ布の切れはしは、おそらく、あの化け物が着ていた服のものだろう。
 化け物の鋭い爪を剣で受け止め、横なぎに剣をふるった際、何かを切り裂いたような感触があったことを、彼は思い出す。
 あの時、剣で切り裂いた、化け物の服の一部が、ここに、地面に落ちていたところで、何の不思議もない。
 そう思いながら、ルーファスは化け物が残していった、血のついた布の切れはしを顔の前にかかげ、何か変わったところはないかと、熱心にそれを見つめる。と、そうした時、鼻につく、悪臭というべきものに、彼は顔をしかめた。
 その、化け物が残していった布からただよってくるのは、何とも表現しがたい臭いである。
 強烈な獣臭さと、甘い香水の香りがまじりあったようなそれは、何とも言えぬ、 ひどい臭いだった……。
 それを、まともに嗅いでしまったルーファスが、思わず、顔をしかめずにはいられないほどに。
「臭いな……」
 そう眉をひそめて、彼はその悪臭が、初めてではなく、どこかで嗅いだことのあるものだと気づく。
 この獣臭さと、香水がまじりあったような、 独特の悪臭と同じものを、どこかで……
 そう遠い昔の話ではない。
 ごくごく最近のことだ。
 この臭いは……と、ルーファスは同じ臭いを嗅いだ時のことを、その時のことを思い浮かべる。
 (ああ、そういえば……)
 (王宮で……)
 (獣の臭さと、きつい香水と……)
 (これと同じ臭いが、あの男からしたな……あの男と同じ……)
 その時、そう考えたところで、今まで輪郭すらおぼろげだった化け物の正体が、ようやく、ほんの少し形が見えてきたように、ルーファスは感じた。
 呪術師の老婆と犬と惨殺し、その呪いをうけたあげく、おぞましい人食いの化け物と成り果てたもの、その正体が……
 確信を持つには、まだ情報が足りず、今のところは、ただの憶測という域を出ていない。
 しかし、それを、ただの偶然だと思う気は、彼にはなかった。
 あの化け物が残していった、血のついた、服の切れはし。
 それから、ただよってくる独特の悪臭が、化け物とあの男を同じ、細い一本の糸で繋いでいる……。
「……」
 その布の切れはしを手にしたまま、急に黙りこんだルーファスに、セラは首をかしげながら、どうかしたの?と尋ねる。
「ねぇ……その、布の切れはしみたいなのが、どうかしたの?」
 当然といえば当然の疑問を口にしながら、セラは上向いて、ルーファスの手にしたそれを、下からのぞきこもうとする。
 彼が、それに答えようとした時、遠くから「お待たせー」という声と、闇の中できらきら光る、金色の頭が見えた。
 その金髪の主、ラーグは小走りに、ルーファスたち二人の方へと駆け寄ってくる。
「お待たせー。あの女の人、ちゃんと家まで送っていったから、安心しなよ。セラ」
 そうして、駆け寄ってくるなり、 ラーグはにこっと邪気のない笑みを浮かべて、そうセラに話しかける。
 琥珀色の瞳は、いっそ清々しいくらい、ルーファスを素通りし、セラにしか向けられていない。
「あ、ありがとう……ラーグ」
 セラが礼を言うと、ラーグは首を横に振り、大したことじゃないよ、と軽い口調で答えた。
「いーや、大したことじゃないよ。それより……公爵」
 弟子と話していたラーグは、くるっと横を向いて、ルーファスの方を向く。
 その魔術師の表情は、相変わらず、無邪気そのものな風であるが、その瞳の奥にどこか不穏なものを感じるのは、決して、ルーファスの気のせいではないだろう。
「……何だ?魔術師」
 公爵と呼びかけられた青年は、どこか警戒し、身構えながら、そう答えた。
 ラーグはクスクス、と小さく喉を鳴らして「あれ?僕、さっき君に言わなかったかなぁ?セラに……」と穏やかな声で言いながら、ガサゴソと白いローブの中から、何かを取り出す。
「――僕の可愛い弟子に、何か妙な真似をしたら、生かしちゃおけないよ、って」
 ローブから取り出したるは、短剣。
 銀色の光を放つそれを、くるくる、と片手で回しながら、ラーグは穏やかに、微笑すら浮かべて、ひどく物騒な言葉を吐く。
 表情や言葉はともかく、口にしていることは、物騒きわまりない。
 実年齢はともかく、外見だけは少年の姿をした魔術師が、自分の真横でくるくると、短剣を回すのを横目で見ながら、ルーファスはそれを歯牙にもかけず、はっ、と皮肉気に笑う。
「はっ……そんなことを言われた覚えもなければ、何か妙な真似とやらをした覚えもないし、何より、貴様の言うことに従う必要性を、全くと言っていいほど感じないな。魔術師」
「くっくっ、君の人生の最期の言葉がそれでは、悔いが残らないかい?公爵」
「魔術師よ、身に過ぎ足る自信は、いつか己を滅ぼすぞ。そうなる前に、ここで俺の手にかかって、無駄に命を捨てたいと言うならば、あえて止めはしないがな」
 殺伐とした空気の中、物騒な会話をかわしながらルーファスとラーグに、そばにいたセラは「あの、二人とも……たぶん、もうちょっとしたら、夜明けだよ」と、至極、まっとうなことを口にする。
「あの、二人とも……たぶん、もうちょっとしたら、夜明けだよ。ラーグはともかく、あたしとルーファスは、そろそろ屋敷に戻らないと……」
 夜明け前には、屋敷に戻らないと騒ぎになると言うセラに、ルーファスはわかっていると、うなずく。
 彼自身、わざわざ言われるまでもなく、こんな時に無駄話をして、時間を無為につぶすつもりはなかった。
 それを示すように、ルーファスは鋭い声で「――魔術師」と呼びかける。
「――魔術師」
 その声の響きから、何かを感じ取ったのか、ラーグも表情を引き締めて、何だい?とめずらしく真面目に応じた。
「何だい?公爵……僕に、何か聞きたいことでもあるの?」
 ラーグの問いに、ルーファスはああ、とうなずいて、気になっていたことを尋ねた。
「ああ。殺されたという呪術師の老婆のことで、少しばかり気になることが、一つ、二つ、あってな……その死んだ呪術師の老婆の客の中に、貴族はいなかったか?」
 呪術師の老婆の客の中に、貴族はいなかったかというルーファスの問いかけに、ラーグはあごに手をあて、しばし考えた後、さあ、わからない……と、首を横に振った。
「さあ、わからない……実際、身分や名前を隠して、貧民街までやって来て、やれ政敵を失脚させてくれだの、邪魔な人間を呪い殺してだの、呪術師やら魔術師やらを頼る貴族は多いんだよ。ただ……そういう後ろめたい連中は大概、顔を隠したり、なるだけ人目につかないぐらいは心がけるから……」
 呪術師の老婆が殺された今、どんな客がいて、どんな呪いを扱っていたかは闇の中さ……と、ラーグは続ける。
 あの化け物に呪いをかけたであろう、呪術師の老婆が死んでしまった以上、その客にどんな人間がいたか知るのは、かなり困難だった。
 まさか、とっくの昔に黄泉の国へと旅立った呪術師の老婆に、何かを尋ねることなど出来はしない。
「そうか。なら……」
 ラーグの返事は、予想されたものだったので、ルーファスは落胆しなかった。
 その代わり、彼は更に踏み込んだ問いを重ねる。
「そうか。なら……ここ一年くらいの間に、この周辺で、赤銅色の髪をした男をよく見かけなかったか?……顔を隠していたかもしれないが、背の高い、体格の良い男だ」
 二番めのルーファスの問いに、ラーグはあっさりと、あるよ、と首を縦に振る。
 それと、呪術師の老婆が殺されたのと、 何か関係があるのかと言いたげに。
「ああ……それと似たような男なら、僕も何度か、貧民街で見かけたことがあるよ。君の言う通り、ここ一、二年の間にね」
「……そうか」
 ラーグの言葉に、ルーファスは深くは語らず、ただ短く「……そうか」とだけ言い、 何かを考えこむように腕を組み、軽く目を伏せ、沈黙した。
「ルーファス……?」
 いきなり考えこんだルーファスに、一体、何事かと思いながら、セラは遠慮がちに声をかけた。
 彼女の声に、ルーファスは伏せていた顔を上げると、いつになく真剣な表情で「屋敷に戻るぞ」と言う。
「屋敷に戻るぞ。セラ……あの化け物のことで、少々、調べなければならないことが出来た」
 そう言ってすぐ、ルーファスは「ではな、魔術師」とラーグに背を向けると、己の屋敷の方角に向かって、足早に歩き出す。
 よどみのない足取りで、さっさと歩いていく彼の背中に、セラは慌てたように、待って……!と言って、急いでラーグの方に向き直る。
「わ、待って……!ルーファス……!また何かわかったら、教えてね。ラーグ。じゃあ……」
 弟子の慌てぶりに、ラーグは苦笑にも似たものを浮かべながら、君も早く行った方がいいよ、とばかりに軽く手を振った。
「はいはい。わかってるよ。君は、無茶しないようにね、って言ってもするんだろうけどさ……とにかく気をつけなよ。セラ」
「……うん」
 うなずくと、セラは焦ったように、前を行くルーファスの広い背中を追いかける。
 彼女が追ってきたのに合わせて、ルーファスの歩く速度が、わずかに、だが確かに落ちた。
 さっきまで寝こんでいた人間が、無理して走るな……
 はっきりとした言葉にはせずとも、青年の背中からは、そんな声が聞こえてくるようだ。
 その背中を見つめながら、セラは思った。――前を見据える、ルーファスの蒼い瞳には、一体、この呪いと化け物をめぐる事件の、何が映っているのだろう、と。


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