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三章  呪いの代償  14


 長い夜があけ、朝日が昇る。

 夜が明けたばかり、まだ寒い夜の気配が残る屋敷の廊下は、ひやりと肌に冷たい空気に満ちている。
 精緻なステンドグラスから差し込む朝の光が、窓辺に複雑な陰影を映していた。
 早朝、いまだシンと静まり返ったエドウィン公爵家の屋敷の中、ワインレッドの絨毯が敷かれた廊下を、わき目もふらず足早に歩く金髪の少年がいる。
 この公爵家の屋敷に、少年と呼べる年代の子供は一人しかいない、ルーファスの従者のミカエルだ。
 ようやく日が昇ったばかりの時刻ながら、きちんと身なりを整えたミカエルは、それでも時折、廊下に満ちた冷たい空気に、ぶるり、と小さく身を震わせた。

 ――こんな朝早くに呼び出しとは、あまり穏やかではない。
 何か、火急の用件だろうか?
 あるいは、もしかしたら旦那様や奥方様の身に、何か変わったことが起きたのだろうか……?
 そんなことを考えながら、ミカエルは旦那様……主人であるルーファスの部屋に向かって、屋敷の長く広々とした廊下を、やや足早に歩いていた。
 ……というのも、主人であるルーファスに、自分の部屋に来いと命じられているからだ。
 公爵家の屋敷の一切を取り仕切る、厳格な老執事のスティーブに、旦那様の部屋に行くようにとミカエルが告げられたのは、起きてすぐ、ついさっきのことである。
 旦那様や奥方様が起きてこられる前に、朝食の支度を手伝うつもりで厨房に下りていた従者の少年は、唐突な執事の言葉にやや驚いたものの「はい。わかりました」と、真面目な顔でうなずいた。
 主人のお呼びとあらば、従者のミカエルに断る理由があるはずもない。
 公爵家の使用人の中で最年少であるがゆえに、普段からいろいろな雑事をこなす立場にあるが、主人であるルーファスのそばに仕え、そのお世話をすることが、彼の本来の仕事なのだから。
 うっかり朝食を食べ損ねることを危惧して、コックのジャンに自分のぶんを取っておいてくれるように頼み、姉のような女中のメリッサにも「食べないで、とっといてよ」と念を押して、ミカエルはコックや女中たちが、朝食の支度に忙しく動き回る厨房を出た。
 寝癖のついた金髪をさっと方手で撫でつけ、主人の前に出ても恥ずかしくないように身なりを整えると、従者の少年はワインレッドの絨毯の敷かれた廊下を歩いて、ルーファスの部屋へと急ぐ。
 客室やら書斎やら、今は使われていない先代の奥方様の部屋やら、いくつもの部屋の前を通り過ぎて、彼はルーファスの部屋へ前で足を止める。
 その淡い水色の瞳に主人の部屋の扉を映すと、ミカエルはコツコツと扉を軽く叩きながら、部屋の中にいるであろう主に向かって、「あの……」と呼びかけた。
「あの、旦那様?……お呼びと伺いましたが、入ってもよろしいですか?」
 返事は、すぐに返ってきた。
 扉の内側から、耳慣れた低い声がする。
「……ミカエルか?入れ」
 従者の少年はうなずいて、真鍮のドアノブに手をかけると、主人の部屋へと一歩、足を踏み入れた。
「失礼します」
 そうして、ミカエルが部屋に入った時、ルーファスは机で何やら調べ物をしている最中のようだった。
 カリカリ、とペンを走らせる音が、耳に響く。
 深い飴色をした机の上には、書類の束や手紙、何冊もの分厚い本……羽ペンや、何やら走り書きをしたとおぼしき、メモのようなものまでが山のように、だが、決して雑然とはしておらず、きっちり整理さえて置かれている。
 その完璧に計算されたまでの整頓振りは、ともすれば、やや神経質で冷たそうな印象を人に与える。
 いや、それはただ机の上だけの話ではなく、その部屋全体の印象だった。
 主自身、趣味が良く、先祖から受け継がれた高価な家具ばかりが揃えられたルーファスの部屋は、一見すると、贅を尽くした華やかさと、同時に洗練された優美なものに映るだろう。だが、長くその部屋にいると、誰しも気づくのだ。
 ――何ひとつ、無駄な物が置かれていない部屋というのは、本来、人の住む場所にあるべき、あたたかみが存在しないということに。
 部屋とは、人の内面を映す鏡のようなものだと、どこぞの名のある詩人が言ったという。
 美しく、どこか冷ややかな印象を受けずにはいられない部屋は、深読みすれば、主人の心の欠落や歪みをも感じさせたが、ミカエルは愚か者ではなかったので、それを口に出したことは、当然のように一度もなかった。
 忠誠心があれば、否、忠誠心があればこそ、ずかずかと土足で踏み込むべきではない領域というものはある。
 頭の片隅にちらりと、奥方様は旦那様のことを、一体、どう思われているのだろう?……旦那様の方は?という考えがよぎったが、それこそ、もっともっと口に出すべきではないことだった。
 ミカエルが部屋の隅で大人しく待っていると、肘掛椅子に座り、机に顔を伏せていたルーファスがゆっくりと面を上げ、ミカエル、と声をかけてくる。
「朝早くから呼び出して、すまなかったな。ミカエル」
 それまで休みなく、ペンを走らせ、また何かを調べようとするように、何枚もの書類をめくっていた手を止めると、ルーファスはそう言った。
 椅子から立ち上がらぬまま、この屋敷の主人である青年は、顔だけを従者の方へと向ける。
 鋭い蒼の瞳が、ふっと射抜くように従者を見た。
 ミカエルは「いいえ……」と首を横に振ると、普段よりもやや険しい、真剣な面持ちでルーファスと向き合う。
「いいえ……僕に何か御用でしょうか?旦那さ……」
 旦那様、と言いかけて、ミカエルはとっさに口をつぐんでしまった。
 主人の……ルーファスの左頬にある、スーッと一筋の赤い線のような傷跡が、何の前触れもなく、目に入ったからだ。
 それほど深い傷ではなさそうだが、位置から言っても、偶然ついたというようなものではないだろう。
 何か……鋭い、鋭利な刃物のようなものでつけられたような傷跡だった。
 端整な容姿の持ち主であるだけに、左の頬にスーッと走った傷跡は、否が応でも目を引いた。
 ほんの一瞬とはいえ、ミカエルに言葉を失わせるほどに。
 急に黙り込んだ従者の、その物言いたげな視線が意味するところに、ルーファスも気づいたのだろう。
「ああ、これか……」
 ルーファスの左頬を走る、赤い、一筋の傷跡――。
 それは今、王都を騒がせている、件の人食いの化け物の爪によってつけられたものだ。
 しかし、そんなことを昨日の夜、その現場にいなかったミカエルが知るはずもない。
 ましてや、ルーファスが何も話していないのだから、従者の彼が困惑するのも普通といえば、普通のことだろう。
 ミカエルの目から見れば、たった一晩、会わぬうちに、主がいきなり目立つ傷跡を作ってきたということになる。
 彼ならずとも、一体、何があったと、問い正しくなるところだ。
 それを見て、何もなかったように振舞えたら、それは余程の愚か者かあるいは他人に全く興味がないか、そのどちらかだろう。
 あいにく、というべきか、従者の少年はそのどちらでもなく、ごくごく普通の神経の持ち主であったので、素直に動揺と困惑を表に出した。
 困惑と戸惑いと、何があったという疑問と……色々なものがない混ぜになったような、なんとも言えない表情をするミカエルに、ルーファスはつまらなそうに左頬を撫でると、素っ気ない口調で言う。
「気にするな。この程度の傷、放っておけば消える」
 ミカエルが聞きたいこととは、ずれた回答であることを重々承知の上で、ルーファスは話の核心を故意にそらす。
 従者が気にしているのは、ルーファスの傷というよりは、その傷がいつ何処でついたということなのだろうが、それに答える気は主人である彼にはない。
 何も知らないミカエルに、そう簡単に話せるような話でもない上に、ルーファス自身、いまだ呪いというものを理解しているとは言い難い。
 そんな状態で、従者に何かを話したところで、困惑させるだけであろうことを彼はわかっていた。
 いずれ、何らかの形で話すにしても、今はまだ時期尚早であろう。
 ルーファスなりに従者を気遣ったつもりであったが、それでミカエルがすんなり納得できるかというと、それはまた別の問題であった。
 一瞬、躊躇うように唇をつぐんだミカエルだったが、再度、今度は覚悟を決めたように口を開く。
「旦那様……その傷は、一体、何処で……?」
 従者らしく、控えめではあれど、下手な誤魔化しを許さない、真剣な声だった。
「……」
 ミカエルの問いかけに、ルーファスはすぐには答えず、かわりに小さく口角をつり上げ、うっすらと笑った。
「……聞きたいか?」
 ――賢いお前ならば、どうすればいいかわかるだろう?ミカエル?
 うっすらと、唇に笑みにも似たものを浮かべたルーファスは、そう言いたげだ。
 それは、ある意味、どんな言葉よりも雄弁だった。
 聞きたいか、と尋ねてくる主人に、ミカエルは小さく息を吐いた後、いいえ、と首を横に振る。
「――いいえ」
 引き際の良さは大切だと、ミカエルは知っている。
 主人である青年が、時として冷徹と評される性格ではあっても、決して狭量な心の持ち主ではなく、たとえ自分が何か意見したところで、きっと無視されることはないはずだと、従者である彼もわかってはいたが、それでも、引き際の良さは肝要だ。
 それは、生き抜くための知恵でもある。
 何より、主人の……ルーファスの性格上、一度、喋らないと決めたことは、絶対に喋らないだろう。
 それを、誰よりもよーく理解しているミカエルは、賢く、口をつぐんだ。
 少女のような、あどけなさの残る優しげな顔立ちをしていても、かつて路地裏で暮らす孤児として、さんざん世の中の辛酸をなめてきた従者の少年の心は、見た目通り、幼いわけではない。
 そうして、真面目な表情で口をつぐんだミカエルに、ルーファスはふっ、と小さく唇をゆるめて、 めずらしく、優しく聞こえる声で言った。
「相変わらず、お前は甘いというか……人が良いな。ミカエル」
「……」
 受けとりようによっては、何とも言えない微妙な言葉に、ミカエルは黙り込む。
 そんな風に、ひどく真面目な反応をかえす従者に、ルーファスはくく、と喉の奥を鳴らして、少しばかりからかいを含んだ声で言う。
「俺が思うに、もう少し計算高い方が、生きるには楽だと思うがな。だが、まぁ……それだから、信頼しているわけだが」
 それは、嘘偽りのない本音であったのだが、今までの話の流れからして、ミカエルはその言葉を素直に受けとる気には、なかなかなれなかった。
「……それは、褒められていると受け取っても、いいんでしょうか?」
 そう言いながら、疑いの眼差しを向けてくる従者に、ルーファスはしれっとした涼しい顔で、
「主人の言葉を疑うとは、可愛げがないな。ミカエル……昔、出会った頃の素直なお前は、野良猫みたいで扱いやす……いや、それなりに可愛げがあって良かったんだが」
などと、言った。
「お願いですから、昔のことは忘れてください……旦那様」
 出来ることなら、忘れたい過去の話に、ミカエルは渋い顔で「お願いですから、昔のことは忘れてください……」と頼む。
 路地裏で孤児として生きていた頃の、辛い記憶を思い出したくないというだけではない。
 三年前――、出会った頃、初対面のルーファスに刃を向けたという、従者としてあるまじき過去を持つ身としては、主人から過去の話をされるのは、少々どころではなく、バツが悪い。頼むから、忘れてくれと懇願したい気持ちだ。
「ただの戯れ言だ。他意はないから、気にするな。そんなことより……」
 ルーファスの方はといえば、そんな過去など忘れたように、あっさり戯れ言だと流すと、「そんなことより……」と話を切り出した。
「そんなことより……ミカエル、お前に、少し動いてもらうことになった」
 ルーファスのその言葉の裏に、普段とは違う、ただならぬ雰囲気を感じ取ったのだろう。
 ミカエルは、キッと表情を引き締めた。
 そうして、ミカエルは真剣な、やや硬い声で、何をするのかと主人に問う。
「――はい。僕は、何をすればいいですか?旦那様」
 ミカエルは公爵家の使用人であり、またルーファスの従者でもあるが、それ以外にも主人の手となり足となり、調べものをしたり、王宮の噂を収集したりと、主人の命を受けて動くことが多々あった。
 王太子の側近、公爵家の当主という重い立場ゆえに、ルーファス自身が動くわけにはいかない時というのは、少なくないからだ。
 その補佐をするのが、ミカエルの役目である。
 影のように、その功績が表に出ることは決してないが、その役割の果たすところは大きい。
 おそらく、少し動いてもらうというのは、そういう意味であろうと、ミカエルは予想し、実際、それは当たっていた。
「ああ……まずは、これを見てみろ」
 ルーファスはうなずくと、ミカエルを己のそばに呼び「まずは、これを見てみろ」と、机の上にあったものを指差す。
 それは、白い絹のハンカチの上にのせられていた。
 純白のハンカチの上にのせられたのは――べっとりと泥がこびりついた、黒い布の切れはしのようなものだった。
 よくよく見れば、そのべったりと泥のこびりついた布の切れはしには、赤い、血のようなものまでついていた。
 白いハンカチの上に重ねられた、泥と血がこびりついた布の切れはしは、まるで真っ白な雪原に落とされた黒い染みのように、一種、異様なものを感じさせる。
 (……気持ち悪い)
 なぜ、そんなことを感じたのかもわからないが、その布を切れはしを指差すルーファスを見た瞬間、ミカエルはそんな感想を抱いた。
「旦那様、見てみろというのは、この布の切れはしのことですか?」
「そうだ」
 ミカエルの問いかけに、ルーファスはうなずく。
「この泥と血がこびりついたような布が、どうか……?」
 もう一度、その布の切れはしを視界に入れた後、ミカエルは顔を上げ、主人に話の続きを促した。
 布にこびりついた泥はともかく、血とは……いささか穏やかではない。
 おまけに、よくよく見てみれば、その布自体、剣か何かで強引に切られたようなフシがある。
 ルーファスの左頬の傷といい、布にこびりついた血といい、どこか危うい香りがした。
「詳しい説明は、後だ。まずは、その泥のついた布の臭いをかいでみろ。ミカエル」
「はあ……」
 泥と血のこびりついた、布の切れはし。
 その臭いをかいでみろという、何とも奇妙な言葉に違和感を覚えつつも、ミカエルは主に言葉に従い、布をのせたハンカチを持ち上げると、顔に近づけ、くんくん、とその臭いをかぐ。
 最初こそ、臭いをかげなんて、どこぞの犬でもあるまいし……と不可解な顔をしていたミカエルだったが、その黒い布の切れはしからただよう、何とも言えない悪臭をかいだ瞬間、げえっと顔をしかめた。
 その布の切れはしからただよう、何とも言えずひどい悪臭に、ミカエルは不快そうにきつく眉を寄せて、反対側の手を口元にあてた。
 (これは……)
 そうした後、ミカエルはルーファスの顔を正面から見て、苛立ちと疑問がまじった声を上げた。
「旦那様、何ですか、これ!すっごく、獣臭いですよ!」
 布の切れはしについた泥や血も、もちろん気にならぬわけがなかったが、ミカエルはまず獣臭い、とそう叫ばずにはいられなかった。
 泥と血で汚れた布からただようのは、あの独特の獣臭さである。
 おまけに、他にも何か強烈な臭いが混じって、何とも言い難い悪臭と言っていい。
 くんくんと布に鼻を近づけていたミカエルは、思わず、うわっ、と顔をそむけた。
「……それだけか?」
 ミカエルの言葉は、予想の範囲内だったのだろう。
 ルーファスは眉すら動かさず、布から顔をそむけた従者に「……それだけか?」と、問いを重ねた。
「え?」
 首をかしげるミカエルに、ルーファスは布の切れはしから目を離さぬまま、「獣臭さの他にも、何か強烈な……あまったるい香りがするだろう?もう一度、嗅いでみろ」と続けた。
「あまったるい香り……ですか?」
 獣臭さに打ち消されて、正直、他の臭いなんてわかりそうもないと思わないでもなかったが、ミカエルは素直に主人の言葉にしたがった。
 (あまったるい香り……って、何だ?)
 半信半疑なミカエルは、それでも、もう一度、泥にまみれた布の切れはしに、それからただよう獣臭さに眉をひそめつつ、顔を近づけた。
 最初こそ、獣臭さしかわからなかったが、さっきよりも長く嗅いでいると、その獣臭さと……もうひとつ、強烈な臭いが鼻先にただよってくる。
 それに気づいた時、ミカエルは小さく息を吐いた。
 泥と血にまみれた布から、ただよう獣臭さ……それと、もうひとつの強烈な臭い……
 (これは……)
 (甘い、あまったるい香りがする……獣臭さがきつすぎて、わかりにくいけども……)
 (花……いや、香水の香り……?)
 いつだったか、この甘ったるい香水みたいな香りを、どこかで嗅いだ覚えがあるような……いや、気のせいか?でも……
 獣臭さと同じくらい、強烈なその臭いを、どこかで嗅いだ気がして、ミカエルは首をひねった。
 香水をつけるのは、上流階級、貴族たちの習慣だ。だから、屋敷に仕える、使用人仲間のものではないと、彼は断言できる。
 かといって、主人であるルーファスは香水をそれほど好まないし、仮につけるとしても、もう少し控えめな、甘くない香りのものをつけるだろう。
 たぶん、奥方様のものでもないだろう。
 メリッサが髪を結うときなんかに、香水をつけたりもするらしいが、奥方様の香りはもっと、ふわりとした淡いものだ。
 ……となると、普段、主人について王宮に行った際に会う女官か、それとも貴族の誰かだろうか?
 そこまで考えたところで、ミカエルはもう一度、その臭いを確認するように、大きく息を吸った。と、そうした瞬間、ふっと過去の記憶が、頭をよぎる。
 そういえば、この香りは……
 少し前、これと同じ臭いをさせた男とすれ違い、そのどぎつく甘ったるい臭いに眉をひそめたことを、ミカエルは思い出す。思い出した!
「旦那様。これ……」
 ミカエルがそう言うと、ルーファスは気がついたかという風に、小さくうなずいた。
「その臭いの主に、心当たりがあるだろう?ミカエル……あの忌々しい、老狐の権威をかさにきる、女のことしか頭に無いネズミのことだ」
「はい」
 その甘ったるい香水の臭いをさせた人物に、心当たりがあるミカエルは、はい、と首を縦に振る。
 老狐の権威をかさにきる、女のことしか頭にないネズミ。
 今更、言うまでもないが、老狐とは宰相ラザールのことをさし、その権威をかさにきるネズミとは――
 ルーファスの言いようは、いつもに増して辛辣で容赦のないものであったが、ミカエルはそれに異を唱えようとは思わなかった。
 彼が知る限り、その人物を嫌いぬいているのはルーファスだけではなく、いろいろな意味で悪名高い男であるからだ。
 女遊びや博打でつくった借金を、貴族という身分をかさにきて、強引に帳消しにしたり、平民の娘を無理やりさらって愛人にしたり……。
 最近だと、その男の妻が急死したことすら、その男が毒を盛ったのだとか、妻が邪魔になったから始末しようとしたのだとか、散々な噂が流れているくらいである。
 宰相に媚を売るだけの無能者と、ルーファスはその男を軽蔑していたし、おそらく、相手の方も同様であろう。
 その男の名は――
 ミカエルがその名を出すより先に、ルーファスが唇を開いた。
「この臭いの主について、最近、何か妙なことがなかったかを調べろ。もともと、叩けば、いくらでもホコリの出そうな男だ……噂好きな女官やら、どこぞの令嬢やらに聞けば、面白い話のひとつやふたつ、喜んで教えてくれるだろうよ……出来るか?ミカエル」
 宰相の権威をかさにきる、ネズミ。
 その男の身辺を探れ、というルーファスの言葉に、出来るかと問われたミカエルは、真正面から主の目を見て、凛とした声で答えた。
「――それが、旦那様のお望みならば」
 出来るか、ではない。
 やる、のだ。
 ミカエルはかつて、自ら死を願うほど絶望していた時期に、ルーファスと出会って救われた過去がある。
 それは、救いというにはいささか手荒いものであったけど、従者はその恩義をいまだ忘れてはいない。
 主人が何かを望むなら、それをやり遂げようとするくらいの覚悟は、いつでもある。
 たとえ、それが己の身を危険にさらすことになったとしても、だ。
「頼む。ただし……」
 凛としたミカエルの返事に、ルーファスは満足気に蒼い瞳を細め「頼む」と言った後、ただ……と彼にしてはめずらしく、やや迷うような声で付け加えた。
「ただし……いくら、あの男が宰相に媚を売るしか脳のない人間でも、お前が動いているのがバレれば、警戒するだろう。その時、もし、身の危険を感じることがあったら、迷わず、ひけ。絶対に、下らん深追いはするな……いいな?ミカエル」
 無茶はするな。
 危ういと思った時は、迷わず、いったんひけ。
 そう言うルーファスの表情は、真剣だった。
 いろいろと複雑な感情や葛藤はあれど、この男なりに本気で、従者の身を案じているのだ。
「旦那様……」
 主の口から、そんな言葉が出るとは思っていなかったミカエルは、少し驚いた顔をする。
「返事は、どうした?」
 ルーファスにそう言われ、ミカエルは慌てて、わかりましたと首を縦に振った。
 ――この人は時々、どうしてこう、わかりにくい気の使い方をするのだろう、と思いながら。
「え、はい。わかりました。旦那様がそうおっしゃるなら、無茶はしません」
「その言葉を、忘れるな」
 ぼそり、と呟くように口に出された言葉は、けれど、本心ではあっただろう。
 それは、従者の少年の耳に重く響いた。
 ルーファスは従者を正面から見据えると、まるで己自身にも言い聞かせるように、深く、重みのある声で言う。
「これも、いずれ老狐……あの宰相ラザールの尻尾を、いつか狩るためだ。あの老狐が陛下を操り、今のように国政を牛耳っている限り、この国に安定した治世は訪れん。ひいては、王太子殿下の為にも……頼んだぞ。ミカエル」
 あの老狐が陛下を操り、国を牛耳っている限り、この国に安定した治世は訪れん。
 そう言ったルーファスの表情は、氷の公爵と呼ばれる冷淡なものでも、忠誠を誓う王太子殿下に見せる表情とも、奥方様の前にいる時にふとした瞬間に見せる表情とも、どれにも似ていなかった。
 責任と誇りと、揺るがぬ決意と……そして、涼しい顔の裏に隠した鋭い牙、そんなものがにじんだ表情だった。
 王太子派と宰相派、この国・エスティアの王権を巡る権力争いに身を投じ、その一方を支える役目を背負った男の顔だ。
 決して、綺麗事だけではない。
 ――どちらが最終的な勝者になるにしろ、この権力争いの結果によって、この国、エスティアの運命は決まるのだから。
 敗北は、許されないのだ。
「はい」
 全てではないにしろ、それを理解しているミカエルは、真剣な顔でうなずく。
 主人の背負う役割とは、比べものにならないが、自分は自分なりに果たすべき役目があると、彼は知っていた。
 まだ詳しい事情はわからないが、ルーファスの言葉に従って、宰相の権威をかるネズミ……あの男について情報を集めることを、ミカエルは主に約束したのである。


 その日の昼下がり、エスティア王宮にて―― 

 本当の偶然というのは、数えるほどしかないと、ルーファスは思っている。では、その他が何かと問われれば、それはあたかも偶然に見せかけた……必然なのだ。
 もし、その考えに従うならば、その日、王宮の廊下にて、ルーファスがその男とすれ違ったのも、偶然にみせかけた必然なのだろう。
 己の姿が映るほど、鏡のように磨きあげられた王宮の大理石の廊下に、カツカツという足音が響く。
 王太子殿下にお会いするという名目で、王宮を訪れていたルーファスは、廊下の先、己の視界の先に目的の人物を見つけて、薄く唇をつり上げた。
 彼の目に映ったのは、反対側の廊下からこちらに歩いてくる、赤銅色の髪をした体格の良い男だ。
 自ら、その男に近づくべく、ルーファスは廊下を歩く速度を上げた。
 普段ならば、決して好き好んで会いたい相手ではないが、今だけは別だった。
 話したくもないのに話しかけられた、あの時とは逆の立場だな、そんなことを思いながら。
 窓からふりそそぐ陽光に、きらきらと光の粒を放つ、大理石の廊下。
 鏡のようなそれに映るのは、二人の男の姿だ。
 廊下の反対側から歩いてきた二つの影が、一瞬、重なり、すれ違いそうになった時、ルーファスはその男に声をかけた。
 赤銅色の髪をした男――アルファンソ=ヴァン=ローディールへと。
「――ローディール侯爵」
 赤銅色の髪、やや荒削りながら甘いマスク、どこか崩れた風な危うい魅力をただよわせた男――ローディール侯爵は、 ルーファスに声をかけられた瞬間、一瞬、びくっと狼狽したように目を泳がせる。
 ほんの一瞬のことだったが、ルーファスはそれを見逃さなかった。
 しかし、ここで狼狽した素振りを見せるべきではないと、その男、ローディール侯爵は考えたのだろう。
 あるいは、宰相の権威をかるネズミ、宰相に媚を売るだけの無能者とルーファスが侮蔑する男の、無駄に高いプライドが、氷の公爵と呼ばれる青年に、弱みをさらすことを拒んだのかもしれない。
 普段と同じように振る舞わなければ、狼狽したところを見せてはならぬ。
 その虚勢に、一体、どれほどの効果があったかは謎だが、ルーファスの方へ向き直ったローディール侯爵の表情は、動揺の欠片も感じられず、堂々としたものだった。
 どこか不敵な笑みすら浮かべて、余裕をただよわせたローディールは、ルーファスの方を向く。
 そうしてから、甘く、 どこかべったりした粘着質な声で、「これはこれは……」と言った。
「これはこれは……いきなり声をかけてくるから、誰かと思えば、エドウィン公爵じゃないか」
 会えて嬉しいよ、と最大限の皮肉を口にしながら、にやりと唇をつり上げ、不敵に笑うローディール侯爵の態度は、先ほど一瞬だけ見せた狼狽ぶりが幻だったように、余裕と自信に満ちあふれているようだった。
 しかし……
 この男は、果たして、己自身で気づいているだろうか?と、ルーファスは思う。
 ローディール侯爵からただよってくる香水の香りは、 前の時にも増して、どぎついものになっている。
 もはや、きつすぎて、眉をひそめずにはいられないほどの悪臭だ。だが、きつくなったのは香水だけではない。
 まさか、それに合わせたわけでもなかろうが、 もうひとつの臭いも、あの時よりも数段きつく、無視しがたいものになっている。
 それに気づいた時、ルーファスはスッ、と蒼い瞳を細めた。
 むせかえるような香水の香りといっしょに、赤銅色の髪をした男の体からただよってくるもの、それは……
 ――獣臭さと、こびりついた血の、死の臭いだった。
「ええ。こんなところで会うとは、奇遇ですね。ローディール侯爵」
 しかし、ルーファスは気づいたそれを、おくびにも出さず、他愛もない世間話のようなことを言う。
 その言葉にはトゲがなく、氷の公爵と呼ばれる彼にしてはめずらしく、うっすらと微笑すら浮かべていた。
 普段のルーファスを思えば、いささか不自然なほどの愛想の良さである。
 奇遇ですね、そう口にしたのは、あの時とは逆だった。
 もちろん、偶然ではない。ここで彼らがすれ違ったのは、偶々ではなく、ルーファスがそう仕組んだのだ。
 ……ある目的のために。
「君と話していたいのは、やまやまだが……宰相殿に呼ばれているので、失礼するよ。エドウィン公爵……なにせ、こう見えても、忙しい身なものでね」
 いつになく愛想の良いルーファスに、薄気味悪さを感じたように、ローディールは早口でそう言うと、踵を返し、どこか焦ったように背を向けた。
 まるで、一刻も早く、この場から立ち去りたいという風に……。
 その場から立ち去ろうする、ローディール侯爵の背中に、 ルーファスは「――お待ちください」と声をかけた。
「――お待ちください」
 決して、高くも大きくもない、低く、通りの良い声は、どこか抗いがたい響きをもって、背を向けたローディールの耳に響く。
 背を向けていた男は、その声を聞いた瞬間、反射的に立ち止まった。
 呼び止めたルーファスは、急ぐでもなく、カツンカツンとゆったりとした足取りで、数歩、離れていたローディールへと歩み寄る。
 そうして、後ろからその背中に手を伸ばしつつ、さも親切そうに言った。
「お待ちください……肩のところに、糸くずがついていますよ。ローディール侯爵」
 親切そうなその声に、なぜかゾッと鳥肌が立つようなものを感じて、ローディールは肩に伸ばされたルーファスの手を、ばっと振り払った。
「……結構だ」
 苦虫を噛み潰したような、不愉快そうな顔で、ローディール侯爵は「……結構だ」と吐き捨てた。
 一方、手を振り払われたルーファスは、気を悪くするでもなく、淡々とした声で言う。
「そんなに慌てなくても、もう取れましたよ」
「……」
 凄まじい顔つきで、こちらを睨んでくるローディールに、ルーファスはふっ、と口元をゆるめて、からかうような、嘲りをふくんだ声で言った。
「――一体、何をそんなに焦っているのですか?」
 それは、図星であったのか、一瞬、ローディールの顔色が変わった。
「……何も焦ってなどいない。用件がそれだけなら、失礼するよ。エドウィン公爵……何せ、私も忙しい身なのでね!」
 そう腹立たしげに言い捨てると、どうやら著しく機嫌を損ねたらしいローディールは、荒々しい足音をさせて、再び、そこから立ち去ろうとする。
 ルーファスはゆったりと腕を組み、「ああ、そういえば……」と、荒々しい足取りで歩いていく男の横顔に話しかけた。
「ああ、そういえば……近々、再婚されるそうですね。ローディール侯爵」
 その言葉の裏にひそむものを、感じ取ったのだろう。
 赤銅色の髪の男は、鋭い目でルーファスを睨みつけ、地をはうような低い声で、何が言いたい、と問う。
「……何が言いたい?エドウィン公爵」
「いえ……」
 問われたルーファスは、軽く首を横に振ると、涼しい顔で続けた。
「いえ……奥方が急に亡くなったばかりだというのに、もう再婚とは厚顔無恥なことだと、いっそ感心しておりました」
 穏やかな口調で、淡々と口に出されたそれは、痛烈な皮肉だった。
 ルーファスの言葉を聞いたローディールの顔色が、すさまじい怒りのためか、みるみるうちに赤く染まっていく。
 きつく握りしめた拳は、ぶるぶると震えていた。
 それを見たところで、ルーファスは何とも思わなかったし、眉ひとつ動かさず、涼しい顔のままだった。
 ローディール侯爵はそんな彼を、激しい増悪のこもった目で見て、ギリッ、と憎々しげに歯ぎしりをする。
 そして、忌々しいと言いたげな顔で、ルーファスを睨みながら荒々しい声で叫んだ。
「――無礼なっ!」
 そう叫んだっきり、ローディール侯爵はもはや顔すらも合わせたくないというように、ルーファスに背を向けると、殺気すらこもったような激しい怒気をあらわにしながら、荒々しい足取りで去っていった。
 廊下の反対側へと遠ざかっていく背中を、今度はルーファスも引き留めようとはせず、黙って見送る。
 怒りのこもった荒々しい足音をさせて、遠ざかっていった男の背中は、廊下の先の方で、だんだんと小さくなり、やがては見えなくなった。
 廊下には、ルーファス一人だけが取り残される。
 そうして、ローディールの背中が完全に見えなくなった頃、ルーファスはくっ、と小さく、愉快そうに喉を鳴らす。
「あれも……意外に親切な男だな」
 そう呟きながら、ルーファスはそっと、握っていた拳をひらいた。
 ひらいた手の上にあるのは、黒い、なにか糸のようなもの。
 それは、先ほど糸くずがついていると理由をつけて、ローディール侯爵の肩からとったものだった。
 黒っぽいそれは、糸ではなく……獣の毛だ。
 その正体は、口にするまでもない。
「さて……」
 獣の毛をハンカチにしまうと、ルーファスはもう用は済んだとばかりに、さっと踵を返し、足早に歩き出す。
 彼が向かう先は、王太子アレンの部屋でも、己の、公爵家の屋敷でもなく、黒翼騎士団の本部だった。
 例の化け物の事件を捜査しているという、あのハロルドという赤髪の騎士に会うために、 ルーファスは騎士たちのいるそこに向かって歩き出した。


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