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三章  呪いの代償  15


 王都・フィーゼリアの治安維持を司る、黒翼騎士団。
 西の大国・エスティアを支える、勇猛果敢をもって知られる軍の中でも精鋭揃いと知られる黒翼騎士団は、白獅子騎士団、紅竜騎士団と並び称される、王国の守護に欠かすことの出来ぬ存在である。
 その黒翼騎士団の本部である建物は、王都の中心、城からもそう遠くない場所に位置している。
 天高く、蒼穹にそびえ立つ、彼の英雄王が築いた、壮麗なる白亜の宮殿――
 その後ろに、王を守る忠誠心の厚い騎士のように建っているのが、灰色の、黒翼騎士団の本部である。
 豪華絢爛たる王宮とは対照的に、飾り気の欠片もない、無骨な灰色の建物は、一種、独特な威厳をもってそこにある。
 まるで、王都を見下ろすかのように。
 蒼天を見上げるほどに高く、侵しがたい威厳すら感じる灰色の壁は、建国以来、三百年の長きに渡り、国を守り抜いてきた騎士たちの誇りでもあった。
 その証拠に尖塔の先には、騎士の象徴たる青い旗、黒い翼が描かれた騎士団の旗が、ひらひらと、太陽の光を受け、どこか誇らしげに風にひらめていた。
 ひらひらと風に舞う、青い旗の下。
 黒翼騎士団の本部、その建物の中では、多くの騎士たちはもちろん、また騎士団の仕事に関わる様々な者たちが、忙しげに、それぞれの仕事をこなしている。
 その建物の中の一角、第十三部隊のために用意された部屋では、ひとりの騎士が――赤髪の青年が、机の上に積み上げられた書類の山を見ながら、うんうんと唸っていた。
「ふぅ……」
 重く、深い、深い、ため息。
 足を組んで椅子に座りながら、苦悩と疲れがにじむそれを吐き出したのは、若々しい顔に、どうにも似合わぬ髭を生やした赤髪の騎士――ハロルドだった。
「……はぁ」
 椅子に腰かけた彼、ハロルドはもう一度、深く、重い息を吐く。
 何か悩みがあるのか、普段は精悍な光を宿した深緑の瞳は、今は疲労と苦悩の色が濃い。
 心なしか、顔色も優れなかった。
 きつく寄せられた眉と、たびたび唇から吐き出される重いため息、迷うように揺れる瞳が、言葉よりも雄弁に、ハロルドの心情を物語っていた。
「……」
 ひどく渋い顔をした彼の目の前には、樫の机に高く積み上げられた、書類の山があった。
 書類といっても、彼がサインすればいいというような、そういう類のものではない。
 二十三歳という若さながら、黒翼騎士団・第十三部隊の隊長という、責任ある立場にあるハロルドの元には、取り扱っている事件の資料やら、己の部下からの報告書などが、頻繁に届けられる。
 今、彼の机の上に積まれている書類の山も、それであった。
 そして、その書類の山こそが、ハロルドを悩ませ、ため息をつかせている原因のひとつでもあった。
 隊長である彼の机に、今、高く積み上げられた書類の束は全て、彼の部下からの報告書である。
 信頼する部下たちの、その何枚もの報告書に目を通すごとに、なぜだかハロルドの眉間に刻まれたしわは、深くなる一方だった。
 決して、部下の騎士たちの仕事ぶりに、不満や苛立ちを覚えているわけではない。
 むしろ、その逆だった。
 調べている事件に、これといった光明が見えぬ闇の中、よく粘り強く、また諦めもせず、熱心に捜査を続けてくれていることには、上司として心強く思っているし、心から感謝している。
 要点を的確に押さえた、丁寧な報告書からも、部下たちの熱心な仕事ぶりは伝わってくる。だが……
 ハロルドは苦い顔のまま、くしゃり、と癖のある赤毛をかきあげた。
 (……焦るな) 
 赤髪の青年はそう、己の胸のうちに言い聞かせた。
 しかし、部下の騎士たちの熱心な働きのみならず、黒翼騎士団全体を上げて、事件の解決を目指しているにも関わらず、事件の犯人はおろか、わずかな光明すら見えないことには、苦悩せずにはいられない。
 剣を握る、ふしくれだった騎士の指がぺらりと書類をめくり、同時に吐き出された声と息はどちらも、ひどく苦かった。
「相変わらず、これといった手がかりはなしか……」
 机の上に積み上げられた、彼の部下である騎士たちからの、報告書。
 それらは全て、同じ事件のものだった。
 例の――何人もの犠牲者を出している、人食いの化け物の事件のものだ。
「……わからん」
 まるで苦虫を噛み潰したような顔で、ハロルドはそう呟いた。
 彼が改めて口に出すまでもなく、ひどく残忍な、謎めいた事件ではあった。
 ――深夜、王都を徘徊するという、人を食らう、獣のような化け物。
 ――老若男女を問わず、次々と無残に食い殺された、犠牲者たち。
 ――昼間は決して姿を現さず、まるで闇に潜むかのように、消えてしまう化け物の正体……。
 ――そして、黒翼騎士団の必死さを嘲笑うかのように、人間には出来ぬ力で、腕や足を食いちぎられた無残な死体、重ねられる犯行……。
 ――全てが、謎だらけだ。
 その、人を食い殺す化け物の正体はもちろん、その残虐さといい、異様さといい、現場に残された獣の毛や噛み痕といい、何か人間ではない異質な力が働いているとでも思わなければ、まともな説明がつかない。
 しかし、そんな事件の真相とやらを考えている間に、彼ら黒翼騎士団の警備をかいくぐり、人を食い殺す化け物は、新しい犠牲者を出していく。
 もう、五人……五人もの犠牲者が出た。
 彼らは一様に、無残に手足をもがれ、獣に食い荒らされていた。
 もしかしたら、今頃、どこかで六人目の犠牲者が出ているかもしれない。
 (くそっ……)
 その先を考えたくなくて、ハロルドは右手で眉間を押さえると、軽く頭を横に振った。
 黒翼騎士団全体で、執拗なまでに王都の見回りを強化しているにも関わらず、一向に化け物が捕まらぬことに、苛立ちにも似たものを覚えているのは勿論だが、それとは別に、彼には嫌な予感があった。
 いや、予感というよりも、半ば確信に近いものであったかもしれない。
 それは、人食いの化け物が、犯行を重ねるに連れ、より残虐に、手段を選ばなくなってきているということだ。
 部下からの報告書を見れば、一目瞭然だ。
 一人目の犠牲者、二人目の犠牲者、三人目の犠牲者……犠牲者の数が増え続けるたびに、化け物が次の犠牲者を出すまでの期間が、どんどん短くなっている。
 また最初は、食い殺すといった風だったのが、最近の犠牲者の身体を調べると、いかにもガツガツしているというか、食い荒らすといった有様だ。
 それらの変化の理由を考えぬほど、ハロルドは――否、黒翼騎士団の騎士たちは、愚かではない。
 (化け物が、飢えてきている……あるいは、焦ってきている……のか?)
 飢え、焦り、焦燥、怒り……
 焦ったような犯行からは、そんな心理も透けて見える。
 もっとも、人を食い殺している化け物に、そんな高尚な感情があるかは謎だが……。
 しかし、もしそうだとしたら、食い殺される犠牲者の数は、これから更に増え続ける可能性が高い。
 己自身が出した結論に、とてつもなく嫌気がさして、赤髪の騎士はギリリ、と強く唇を噛んだ。
「何とかして、例の人食いの化け物を捕えないと、大変なことになるな……」
 ため息に代わって、彼の唇から吐き出されたそれは、独り言のようにも、周囲に言い聞かせるようにも、あるいは決意のようにも響く。
 もう、これ以上、犠牲者を重ねぬためにも。
 口には出さずとも、そう考えたハロルドの深緑の瞳には、言葉にならぬほどの沈痛と、深い後悔の念があふれていた。
 つい先日、五人目の犠牲者である“リーザ”という花売りの少女が、化け物に食い散らされた無残な亡骸となって、川から引き上げられた時、彼女の死を知らされた家族の嘆きようは、目を覆いたくなるほどだった。
 年頃の、若い娘が殺されたというだけで、耐えがたいほど胸が痛むのに、それが化け物に食い殺され、手や足を食い千切られるという……思わず、目を背けたくなるほど、むごい殺され方をしていたのだ。
 家族たちの悲しみや苦しみは、計り知れないだろう。
 変わり果てた娘の亡骸を前に、泣き崩れていたリーザの母親。
 ずっと黙ったまま、顔を伏せて、ぶるぶると拳を震わせていた父親。
 身を寄せ合って震えていた、彼女の幼い弟や妹たち。
 ぼんやりと、感情をなくしたような顔をしていた、末の妹の姿が忘れられない。
 胸がしめつけられるような光景と、いまだ耳の奥に残る泣き声を思い出し、赤髪の青年は一瞬、耐えがたいものに耐えるように、きつく目をつぶった。
 叶うなら、もう二度と、あんな悲しい光景は見たくない。
 いや、亡くなった彼女、リーザだけではない。
 彼女の前に化け物に食い殺された、四人の犠牲者にも家族なり、大切な、愛する人々がいたはずなのだ。
 それにも関らず、彼らは化け物によって、無残にも食い殺された。
 残酷に、残虐に、おぞましく……ぞっとするような悪意をもって。
 もうこれ以上、無残に食い殺された犠牲者を見るのも、残された家族の耳を覆いたくなるような悲痛な泣き声を聞くのも、我慢できそうになかった。
 そうさせないためには、例の人食いの化け物を、止めなくてはならない。 
 たとえ、どんな手を使っても……必ず。
「ハロルド隊長……」
 考えに没頭していたハロルドは、しばらくの間、自分の名を呼ぶ男の声に気付かなかった。
「ハロルド隊長……」
「……」
 自分の名を呼ぶ声が、耳に入っていないのか、ハロルドは黙って、目を閉じている。
 よほど集中しているのか、なおも呼びかけに気づこうとしない赤髪の青年に業を煮やしたのか、呼びかけた声の主は「はぁ」と嘆息すると、カツカツと早足でこちらに歩み寄ってきて、ハロルドの耳元で大きな声を上げた。
「――ハロルド隊長ってば!!!」
 いきなり耳元で叫ばれ、目を閉じ、腕組みをしていたハロルドは「のわあっ……!」と悲鳴にも似た声を上げ、よろっと座っていた椅子からずり落ちそうになった。
 とっさに肘かけを片手で掴んで、何とか体勢を立て直し、それをこらえたものの、赤髪の騎士は思わず目を白黒させながら、首を横に向けた。
 横を向いた彼の深緑の瞳に映ったのは、黒翼騎士団の制服を着た、長身にタレ目の若い男――彼の部下であるヘクターの顔だった。
 その若い男、ヘクターはハロルドと目が合うと、へらり、としまりなく笑い、飄々とした声で言う。
「おっ、やっと気づきましたね。ハロルド隊長」
 仮にも上司であるハロルドを、思いっきり驚かせたにも関わらず、反省の欠片もなく、へらりと笑いながらそう言ったヘクターに、ハロルドは呆れ半分、怒り半分の目を向け、じろっと軽く睨んだ。
 別段、本気で怒ってるわけではないが、椅子からずり落ちそうになるほど狼狽したのが、少々、シャクといえばシャクだった。
 部下である第十三部隊の騎士たちが、いささか型破りというか、破天荒なのは前からで、今に始まったことではないが、今のは本気で、寿命が五年は縮んだ……とハロルドは思う。
 信頼できる部下たちという言葉にウソはないのだが、上司を上司とも思わず、隊長であるハロルドをおちょくってくるのが、玉にキズだ。
 そういう思いをこめて睨んだのだが、ヘクターは全くこたえていないのか、へらへらとした表情を崩そうとはしない。
 コイツめ、反省してないな……と心の中で毒づきながら、ハロルドは少々、恨みがましい声で言った。
「おい、いきなり大声を出すな、ヘクター。今のは本気で、五年は寿命が縮まったぞ」
 騎士隊長である赤髪の青年の言葉に、ヘクターと呼ばれた長身の男は、ひょいと軽く肩をすくめる。
 そうして、どの程度すまないと思っているかは謎だが、ヘクターは「それはそれは……すみませんでした」と謝った後、でも、と言葉を続けた。
 軽い口調の中に、相手に対する、心配をふくんだ声で。
「それはそれは……すみませんでした。でも、その前に二度も呼んだんですから、返事くらいはして下さいよ。ハロルド隊長」
 そうじゃないと心配になるじゃないですか……と付け加えたヘクターの声は、真剣な響きを持っていた。
 化け物の事件が解決するまでは、と殆ど休みも取らずに働く、隊長を心配しているのだろう。
 ほんの一瞬前とは打って変わって、真面目な顔で心配そうに言われれば、ハロルドとしてもそれ以上、無意味に角を立てる気にもなれず、部下の目を見て「心配をかけて、悪かった。ちょっと、考え事をしててな」と、素直に謝る。
「心配をかけて、悪かった。ちょっと、考え事をしててな」
 その言葉に、ヘクターは少し身の乗り出して、ハロルドの机の上をのぞきこんだ。
 隊長の机の上に積み上げられた書類を見た部下は、ああ、と納得したようにうなずく。
 そうして、ヘクターは机から顔を上げ、再び上司であるハロルドの顔を見ながら、呆れと心配の交じった顔で続ける。
「えらくボーっとしてましたけど、大丈夫ですか?ハロルド隊長……何を見てるかと思えば、例の、化け物事件のやつですか」
「ああ。そうだ」
 ハロルドは短くうなずくと、再び机の上の書類を手に取り、それに目を通す。
 これといった有益な情報が無いことは、部下からの報告ですでに承知していたが、それでも、何もしないよりは遥かにマシだろう。
 そんな仕事熱心な上司に、ヘクターは小さく息を吐き、あえて軽い口調で言う。
「仕事熱心は良いですけど、あんまり根を詰めすぎないでくださいよ?ハロルド隊長……例の化け物のせいで、上の、騎士団の上層部もカリカリしてるみたいですけど、現場が倒れたら元も子もないんですから」
 軽い口調ではあったが、その言葉にこめられたものに気づかぬほど、若くして、隊長の地位にある青年は鈍くはない。だからこそ、ハロルドは相手を不安にさせぬよう微笑を浮かべ、わかっているさ、とうなずいた。
「わかっているさ。けどな……」
 この、人食いの化け物の事件が解決しないことで、己の手を汚さない騎士団のお偉い方々、主に大貴族の生まれの者たちが苛立ち、ごちゃごちゃと現場に八つ当たりじみた文句をつけていることは、誰しも知っている。
 実際、現場で動いているハロルド自身、その者たちから理不尽な叱責を受けたことは、一度や二度ではない。
 しかし、彼を動かしているのは、そんな下らない理由ではなかった。
 彼を、ハロルドを動かしているのは、もっと別の理由である。
 けどな……と、かすかに唇をゆるめて、ハロルドは言った。
「けどな……お前たち、第十三部隊の騎士たちが総出で動いてる時に、隊長である俺がのんびり休んでいるわけにはいかないだろう?ヘクター」
 さも当然のことのように言うハロルドに、ヘクターはなおも何か言いたげな顔をする。
「そりゃあ、そうですけどね。でも……」
「仕事熱心なのは、お前もだろう?ヘクター……お前こそ、少し休息を取ったらどうだ」
 なおも何か言いたげなヘクターを、ハロルドはそう言って、いささか強引に黙らせた。
 事あるごとにふざけているように見えるヘクターだが、実は普段以上に熱心に見回りに細心の注意を払い、新たな犠牲者が出ないように常に警戒しており、また化け物事件の捜査にも力を注いでいることは、そばに居ればすぐにわかる。
 自分も色々と神経をとがらせて、ほとんど休んでいないだろうに、それでいてハロルドに休めと忠告してくるあたり、彼なりに上司の体調を気遣っているのだろう。
 いや、ヘクターだけではない。
 他の第十三部隊の騎士たちも、それぞれ全力を尽くし、化け物の事件を解決するべく、必死にあがいている。
 人を食い殺す化け物の、増え続ける犠牲者を何とかしたいという気持ちは、誰もが同じなのだ。
 であればこそ、彼ら騎士をまとめる役目にあるハロルドも、必死にならざるを得ない。
 それに、と赤髪の青年は、静かな声で続ける。
「それに……例の化け物の犠牲になった人たちのことを想うとな……とてもじゃないが、のんびり休んでいる気にはなれん」
 無残に手足を食い千切られ、物言わぬ屍となった少女の姿が。
 変わり果てた娘の姿を見て、泣き崩れていた母親の姿が。
 それを呆然と見ていた、幼い妹の姿が……。
 ハロルドの胸に、どこまでも苦い己の無力への後悔と、何人もの人間を食い殺した化け物への、激しい怒りの感情を抱かせる。
 その怒りはやがて、この化け物の事件に対する静かな決意へと、形を変えていくのだ。
「わかりましたよ。ハロルド隊長」
 静かなハロルドの声から、何らかの決意を読み取ったのだろう。
 小さく息を吐き、ヘクターはわかりましたよ、とうなずいた。
 そうして、どこか愛嬌のあるタレ目を、赤髪の青年に向けながら、しょうがないとでもいいたげに言う。
「ハロルド隊長が、お人好しで要領が悪くて貧乏くじを引きやすいとことも、クソ真面目なとこも、いっそ馬鹿がつくぐらい頑固なことも、俺らは……いや、みんな、よーく知ってますからね……隊長がそうおっしゃるなら、何も言いませんよ」
「おい……。なんか、ところどころ引っかかる言い方だが……まぁ、いい」
 思わず、ピクッと頬の筋肉をひきつせかけて、ハロルドは「まぁ、いい」と首を横に振り、真剣な声で続けた。
「そんなわけで、のんびり休む気にはなれんが、忠告は有難く受け取っておく。あと、お前らこそ、倒れたりしないよう、ちゃんと休息を取るんだぞ……他の奴らにも、そう言っておいてくれ」
「はいはい。その言葉、そっくりそのままお返しますよ。ハロルド隊長」
「ああ、わかっている。これぐらいで参るほどヤワじゃないから、心配するな」
 心配性というか、なんというか……相変わらずな部下に、ハロルドは苦笑にも似た表情を浮かべると、気を取り直し「それはそうと……」と、少しばかり気にかかっていたことを切り出した。
 へクターは、一体、何の用事があって、ハロルドを呼んだのだろうか?
 もしかしたら、何か急ぎの用事があったのでは?
 そう思いながら、赤髪の青年は部下の騎士に尋ねた。
「それはそうと……何か、俺に用事があるのか?ヘクター」
 何か話したいことがあったから、俺のところに来たんじゃないのか?と、ハロルドが問いを重ねると、ヘクターはああ、と首を縦に振る。
 そうして、へらっと笑って、片手で頭をかくと、あっけらかんとした声でヘクターは言う。
「あ、うっかり言うのを、忘れてました。客……客ですよ、ハロルド隊長」
「……客?」
 客とは?
 首をかしげるハロルドに、ヘクターは「ははは」とかわいた風に笑い、いささか気まずそうに答える。
「いや、喋ってるうちに、うっかり忘れてたんですが……ハロルド隊長に会いたいって客が、さっき騎士団の受付のところに来たもので、今、待たせてるんですよ。それで、隊長を呼びに来たんですが、つい、うっかり……ははは……いや、本当、すみません」
 その言葉に、ハロルドは慌てて、椅子を蹴らんばかりの勢いで立ち上がった。
「客……頼むから、そういう大事なことは先に言ってくれ!へクター!……それで、待たせてる客って、一体、誰なんだ?」
「あー、俺はちらっと見ただけですけど、若い男でしたよ」
「……若い男?」
「ええ」
 ハロルドの問いかけに、へクターはうなずきながら答える。
「ええっと、黒髪に蒼い目の……えっらい面のいい、長身の若い男でしたよ。ちょいと、冷たそうな感じもしましたけど」
「それで……?」
 軽く腕を組むと、ハロルドは話の続きを促す。
 その表情は怖いほどに、真剣そのものだ。
 いきなりまとう空気を、また表情を一変させた赤髪の上司に、少々、戸惑いにも似たものを覚えつつも、ヘクターはハロルドの問いに答えて、客人の名前を口に出した。
 黒髪に蒼い瞳の、その男の名を。
「ええ、名前はたしか……ルーファスとか、何とか……」
 ――ルーファス……。
 ――ルーファス=ヴァン=エドウィン。
 ――エドウィン公爵。
「……わかった。もういい」
 深緑の瞳に鋭い光を宿し、赤髪の青年は低い声でそう言うと、早急に話を打ち切った。
 そうして、彼は何かを考え込むように無言で、窓の方へと鋭い視線を向ける。
 唐突と言っていいほどに、鋭い、ピリピリとした空気をまとい出した赤髪の青年に、部下の男は戸惑いを隠すことが出来ない。
 明らかに、只事ではない雰囲気だった。
 黒翼騎士団の本部に、ハロルドを訪ねて来た、黒髪に蒼い瞳の若い男……。
 その客の名前を耳にした途端、周囲にもはっきりと伝わるほどに、怖いほど真剣な表情で、鋭い空気をまとい出したハロルドに、ヘクターは首をかしながら、疑問をぶつける。
「あの客……ルーファスとかいう男が、何かしたんですか?ハロルド隊長」
「いや……」
 ハロルドはゆるり、と首を横に振る。
 あの男……エドウィン公爵が、何かしたというわけではない。今のところは。
 何かしているという可能性は、必ずしも否定しないが……
「もしかして……」
 声をひそめて、ひどく深刻な表情でへクターは言う。
「もしかして……あの、えっらい面のいい男に、女を寝取られたとか、そーいう話ですか?ハロルド隊長」
「……は?」
 あまりにも馬鹿馬鹿しい想像に、ハロルドは思わず、目が点になった。
 どこをどう考えたら、そういう展開になるんだ?
 呆然とする赤髪の上司に向かって、ヘクターは満更、冗談でもなさそうな口調で続けた。
「え?……違うんですか?おかしいなぁ、てっきり隊長って、そういう役回りかと思ったんですけど……」
「全く違うわっ!しかも、何なんだ!その不愉快な想像はっ!」
 疲れているのも、一瞬、忘れてハロルドは怒鳴った。
 その怒声にもめげず、冗談なのか本気なのか、いまいちわからない飄々とした口調で、ヘクターは更に言葉を重ねる。
「てっきり、そうかと思ったものですから……もし、復讐する気なら、他でもないハロルド隊長のために、及ばずながら手を貸しますよ。なんなら、闇討ちでもいいですし……」
 騎士らしからぬ発言をしてくる部下に、ハロルドは「違う!」と声を張り上げる。
「だから、最初から、全く違うと言っているだろう!あのルーファスという男とは、この前、この化け物の事件絡みで知り合っただけだ!……というか、そうじゃないにしても、仮にも王都を守る騎士が、闇討ちを推奨してくるな!」
「はあ、そうなんですか……ちょっぴり期待してたのに、つまらないな」
 最後、小声で付け加えられた一言に、ハロルドは眉をつり上げた。
「おいっ、しっかり聞こえてるぞ!ヘクター!……まったく……」
 まったく……と呆れた風に、もはや癖となりつつあるため息をつくと、ハロルドは派手にズレた話題を元へ戻そうと、唇を開いた。
「それで……俺を訪ねて来た客人を、どこへ案内したんだ?」
「あ、はい。応接室で、待ってもらってます」
「そうか。わかった。すぐに行く」
 客……エドウィン公爵は、応接室にいる。
 ヘクターの返事に、ハロルドは椅子の背もたれにかけてあった上着を、バッと勢いよく羽織ると、扉に向かって歩き出した。
 彼が向かう先は、応接室だ。
 そこに、あの男……ルーファス=ヴァン=エドウィンがいる。
 (まさか、エドウィン公爵の方から、俺に会いに来るとはな……驚いた)
 歩きながら、赤髪の青年はふと、そんなことを思った。
 正直、驚いているというのが、偽らざる本音である。
 化け物の事件が暗礁に乗り上げつつある今、ハロルドの方からエドウィン公爵に、もう一度、事情を聞きに行くというのは、頭の片隅でちらりと考えてはいたが、その逆は夢にも考えていなかった。
 いささか唐突すぎて、少しばかり警戒心すらわいてくる。
 (この間、クラリック橋のところて、リーザという少女の亡骸が引き上げられた時……)
 (エドウィン公爵の奥方、セラフィーネ王女は、化け物に食い殺されたリーザという少女と、何か接点があるようだった……花売りの少女と妾腹の王女、身分も立場も全く異なるのに、繋がりがあるというのも、普通はおかしいが……)
 (それに、あの男、エドウィン公爵……何か事情を知っているのに、黙っているようなフシがあった……)
 改めて考えるまでもなく、色々と気になる点は多い。だからこそ、ハロルドの方から会いに行くことも考えていたのだが、エドウィン公爵の方から会いに来たということは、何らかの動きがあったとみていいだろう。
 それが、ハロルドにとって……いや、黒翼騎士団にとって、幸運なものであるのかどうか、まだ判断しようもないが。
「……」
 ――ルーファス=ヴァン=エドウィン。
 王太子殿下の側近にして、右腕。
 妾腹の王女セラフィーネを、妻に迎えた男。
 また冷徹で、容赦のない性格から、氷の公爵と呼ばれる青年。
 あの冷たい目をした男が、自ら騎士であるハロルドに会いに来たという、その事実が、真実、何を意味しているのか、よく見極めなければなるまい。
「……ハロルド隊長」
 ハロルドが扉のノブに手をかけた時、ヘクターが彼の背中に、そう声をかけた。
 部下に名を呼ばれた赤髪の騎士は、足を止めて、首だけを後ろに向ける。
「何だ?ヘクター」  そう尋ねたハロルドに、ヘクターは珍しく、冗談の欠片もない、至極、真面目な表情で言った。
「化け物を何とかしたい気持ちは、痛いくらいよくわかりますけど、あんまり無茶しないで下さいよ……あの時みたいに心配するのは、もう御免ですからね。ハロルド隊長」
 ヘクターの気持ちはよくわかったので、ハロルドはふっ、と唇をゆるめて、うなずく。
 これから先、どんな状況になるのか予想も出来ず、絶対に無茶はしない、とは約束は出来ないが、部下の気遣いには心があたたかくなった。
「――その言葉、覚えておこう」
 今の自分に出来る限りの約束をして、赤髪の青年は扉へと向き直る。
 彼の歩みに合わせるように、騎士の証たるあざやかな青いマントが、ひるがえった。
 そうして、ハロルドは応接室へと向かうため、扉の外へと出ていった。


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