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三章  呪いの代償 16


 ――応接室に足を踏み入れた瞬間、深い蒼の瞳が射抜くような鋭さをもって、こちらを見た。


 隊長に会いに来た客を、応接室に待たせている。そう部下のヘクターに言われたハロルドは、第十三部隊に与えられた部屋を出て、階下に繋がる階段を降りると、足早に応接室へと向かった。
 窓から差し込んでくる陽の光、明るい臙脂色の絨毯がしかれた、黒翼騎士団・総本部の廊下。
 その長い廊下を、他の部隊の騎士たちとすれ違いながら、時折、すれ違い様に声をかけてくる同僚たちに軽く片手を上げるのみで応じ、それ以外は脇目もふらず、ハロルドは真っ直ぐに、部下曰く客を――エドウィン公爵を待たせている、応接室へと向かう。
 一向に進展の見えない人食いの化け物の件といい、いきなり騎士団を訪ねてきたエドウィン公爵の真意の読めなさといい、何かと緊迫した状況であることは間違いなかったが、そうして廊下を歩く騎士の青年の表情に迷いはなかった。
 しっかりと前を見据えた、ハロルドの表情からは、過度な焦りも、また行き過ぎた警戒心も見受けられない。
 ただ、静かな緊張感だけが、冷静さをたたえた、その緑の瞳に宿っている。
 たとえ、応接室に待っているのが、あの氷の公爵と称される冷酷な男であっても、怯む気持ちは微塵もなかった。
 年は若くとも、この黒翼騎士団で一部隊を束ね、隊長と呼ばれるハロルドは、今まで幾つもの修羅場をくぐり抜けて来ている。
 騎士団の頑固な老人たちに、尻の青い若僧よ、と侮られることはあっても、彼が積んできた経験は、決して軽いものではない。
 わざわざ自分を訪ねてきたというエドウィン公爵が、果たして、どんなカードを持っているのかは謎だが、たとえ、誰が相手でもハロルドは追及の手を緩めるつもりも、また良いように踊らされるつもりもなかった。
 例の化け物を捕らえるという、彼の決意が揺らぐことはない。だが…… 
 (ルーファス=ヴァン=エドウィンか……あの男が俺を訪ねてきたことに、どんな意味がある?)
 前回、公爵の奥方を助けた時に対面して以来、ハロルドはエドウィン公爵に対して、一筋縄ではいかない男という印象を抱いている。
 冷酷な切れ者という評判はともかく、あの聡明で人望の厚い王太子殿下が、腹心として重用しているぐらいなのだから、おそらくは、ただ冷酷だけの人間ではないだろう。
 しかし、だからと言って、ただの善良な協力者にもなりえないであろうことが、厄介といえば厄介だった。
 そんな男が自ら、騎士団を訪ねてきたというのも、何らかの目的があってのことだろう。
 万が一、ここで己が判断を誤ることがあれば、黒翼騎士団に火の粉がふりかかることすら、考えねばなるまい。
 それを重々、理解していながら、応接室に向かうハロルドの足取りが緩むことはなかった。
「……」
 ――何にせよ、すでに賽は投げられた。
 もはや、誰にとっても、後戻りは出来ない道なのだ。
 角を曲がったハロルドの目に、その先にある、応接室の扉が映る。
 そうして、彼が足早に歩を進めるたび、騎士の証である青いマントの裾が、まるで風に吹かれたかのように、せわしなく揺れた。

 ハロルドは応接室の前でピタリと足を止め、小さく息を吐いて、扉のノブに右手をかける。
 そうして、二、三度、軽く扉を叩くと、歳月の重みを感じる、やや古びた木製の扉を押し開けた。
「失礼……」
 中に一声かけ、その扉を開けた瞬間、大きな窓から降り注ぐ光の眩しさに、ハロルドは瞬間的に目を細めた。
 ほんの一瞬の間の後、眩しいほどの日差しに、彼の目が慣れた頃、応接室の中から、まるで射抜くような鋭さで、こちらを見てくる蒼い瞳に気づく。
 深い、深い、どこか冬の海の連想させる瞳は、どこまでも冷ややかで、そこから何の感情も読み取れはしない。
 太陽を背にし、逆光で室内に暗い影が差す中、その蒼い瞳だけが、不思議とあざやかだ。
 ……いっそ、目を背けたくなるほどに。
 その視線は、真っ直ぐに、応接室の扉を開けた騎士の青年へと向けられている。
 おそらく、睨まれているわけではないのだが、そう感じてもおかしくないほどの、鋭い視線だった。
 並の人間なら、その視線の鋭さに、わずかなりとも怯まずにはいられなかっただろう。
 しかし、ハロルドは騎士としての矜持と、同じくらいの意地でそれに耐える。
 彼は足を止めることもなく、逆に一歩、応接室の中心へと歩み寄った。
 騎士の歩む先には、一人の若い男がいる。
 他には誰もいない、いささかガラリとした静かな室内で、ハロルドの視界に映った客人は、何とも言えぬ存在感を放っていた。
 その男――ルーファス=ヴァン=エドウィンは、応接室の中心、ゆったりとした長椅子に腰を下ろし、その蒼い瞳で、こちらを見ていた。
 その端整な顔に浮かぶは、相も変わらず、冷ややかな無表情。
 しかし、見上げるほどの長身を折り曲げ、ゆったりとした長椅子に腰をおろした男の、ルーファスの様子からは、堂々とした、余裕のようなものも感じられる。
 傲慢さと紙一重の、静かな威圧感にも似た、己がその場を支配していることを、疑っていないがゆえの余裕とでもいうべきか……。
 ハロルドと目が合った瞬間、その男が愉しげに、うっすらと口角をつり上げたように見えたのは、たぶん気のせいてはあるまい。
 待ち人の訪れを歓迎するような、あるいは獲物の訪れを愉しむような、そんな笑いだった。
 騎士団らしく質実剛健と言えば聞こえがいいが、仮にも応接室であるにも関わらず、必要最低限の家具のみが置かれた、飾り気のない、ともすれば殺風景な室内にあってさえ、その男、ルーファス=ヴァン=エドウィンは、無視しようもない異彩を放っている。
 それは、彼と向き合って話さねばならない、騎士隊長の青年にとっては、決して面白いことでも、好ましいことでもなかった。だが、だからといって、無視するなどという真似が出来るはずもない。
 個人的な感情はともかく、相手は王国屈指の名門・エドウィン公爵家の若き当主であり、英明な王太子であるアレン殿下の信頼も厚い人物だ。
 ハロルドの目が確かなら、エドウィン公爵は冷酷そうではあっても、無駄に己の権力を振りかざし、好き勝手に振る舞う、馬鹿な貴族どもと同一の輩ではない。
 むしろ、合理的で、計算が出来る男に見える。
 しかし、たとえそうでなくても、油断できる相手でないことは、明白だった。
 男爵家という、貴族の中でも末端に生まれたハロルドと比べて、エドウィン公爵家といえば、その地位は王家に次ぐと言われる、彼の英雄王オーウェンの御世より続く高貴な家柄だ。
 相手が誰であれ、臆するつもりは微塵もないが、そのエドウィン公爵家の当主といえば、その気になれば一介の騎士隊長に過ぎないハロルドなど、己の意思ひとつで、どうとでも出来る身分である。
 ただ機嫌を損ねたというだけで、眉をひそめるような行為に走る上流貴族の話など、この王国においては、さして珍しくもない。
 我が身の保身など考えもしないハロルドだったが、もし、己がうかつな行動を取って、騎士団や……何より信じる部下たちに迷惑をかけることは、絶対に避けるべきだと思った。
 そう思いながら、ハロルドは姿勢を正すと、凛とした声でルーファスに話しかける。
「長々とお待たせして、大変、申し訳ない。エドウィン公爵」
 言い訳のしようもなく、ずっと待たせたことは事実であったので、ハロルドは誠心誠意、心から詫びの言葉を口にした。
 客がいるという言伝てを忘れたのは、部下のヘクターではあるが、それをちゃんと聞かなかったのは己のミスで、部下の咎ではない。
 そもそも、部下の責任は、上司である己の責任である。
 失礼した、と深々と頭を下げる騎士隊長の青年に、ルーファスは気分を害した様子もなく、「いや……」と首を横に振る。
「いや……そもそも、事前に何も言わず、いきなりここに……黒翼騎士団に押し掛けたのは、こちらだ。非礼を詫びるならば、むしろ私の方だろう。気にしないで、頭をあげていただけないか?騎士殿」
 言葉こそ、穏やかで寛容だが、それを口にするルーファスの目が、少しも笑っていないことに気づかぬハロルドではなかった。
 待たされた云々ではなしに、その底知れない蒼い瞳を見れば、何かもっと深い考えがあるのはすぐにわかる。
 もっとも、この冷たい目をした男が、胸のうちに抱いているだろう、その考えとやらが、果たして騎士団にとって、またハロルドたちにとって有益な話であるのかどうか、その時点ではまだ判断しようもないが……。
 しばらく待っていたが、ルーファスがそれ以上、すぐに何かを言うことはなかった。
 無理に聞き出すのは、不可能だろうとわかっているハロルドは、早急に話を進めるのを諦めて、他愛もない、世間話のような言葉を口に出す。
「あれから、奥方はお元気になられましたか?」
 それは、騎士にとっては他意のない言葉だったが、言われたルーファスはスッ、と一瞬、目を細めた。
 もっとも、それは一瞬のことで、胸によぎった複雑な感情を、男は次の瞬間には表面上、綺麗さっぱり消して見せた。
 まるで、最初から、そんなものは存在しなかったかの如く。
 であるからこそ、ハロルドはルーファスのそんな一瞬の変化に気づくこともなく、生真面目な口調で、言葉を重ねた。
「いや……奥方が、お元気になられたのならいいのですが……あの時、クラリック橋のところでは、ずいぶんと辛そうな、苦しげな様子でしたから……あの無惨な亡骸を見れば、無理もないことです」
 そう言って、ハロルドは痛ましげな、後悔のにじむ表情を浮かべる。
 エドウィン公爵の奥方。
 妾腹の王女――セラフィーネ。
 そんなことを脇に置いたとしても、クラリック橋のところで引き上げられた若い娘の亡骸に、彼女は強い衝撃を受けていたようだった。
 同じ年頃の少女の、手足を食い千切られ、ぽたぽたと水のしたたる無惨な死体を、間近で直視してしまったのだ。
 騎士のハロルドでさえ、思わず、目を背けたくなるほどだったのだから、若い娘の受けた心の傷がどれほどのものだったか、完璧には理解できぬまでも、想像することは出来る。
 蒼白な顔色で、ずっと小さく体を震わせる様子は哀れささえ感じさせるほどで、見かねた彼は手を貸さずにはいられなかった。
 いや、それだけではない。
 あの時、セラフィーネ王女の口からもれた「リーザ……」と、今にも消えそうな声で呟かれたそれ。
 リーザ。
 人食いの化け物に殺された、哀れな花売り娘の名。
 そして、ハロルドたち騎士が救えなかった、犠牲者の名だ。
 ……間違いない。
 あの時、エドウィン公爵の奥方は――セラフィーネは、名も知らぬ少女の死を悼んでいたわけではなかった。
 市井に暮らす花売り娘のリーザと、妾腹の王女セラフィーネとの間にある繋がりは、少し調べてみたものの、いまだ全くと言っていいほど見えない。
 それについても、いずれ追及すべきなのかもしれない。だが……
 クラリック橋のところで座り込み、蒼白な顔で震えていたセラフィーネから伝わってきたのは……偽りのない、深い悲しみだった。
「リーザ……」
 殺された少女との間に、何らかの心の交流があっただろうことは、悲しげに震える、その声を聞けば、察せられる。
 騎士などという職についていると、時に、誰かを失うという悲しみについて、嫌でも敏感にならざるを得ない。だから、他のことはともかく、これだけは断言できる。
 あの時、セラフィーネ王女はリーザという少女の死を、心から悲しみ、また悼んでいた、と。
「それと……奥方ももちろんですが、あの従者の少年の方も、大丈夫ですか?しっかりはしていましたが、あれは子供に見せるには、あまりにも凄惨な亡骸だった……」
 黙ったままのルーファスに、ハロルドは少し立ち入ったことを聞きすぎかと案じながら、問いを重ねる。
 クラリック橋のところで、がくがくと震える奥方を、必死に支えていた従者の少年。
 綺麗な顔の、見た目はいかにも非力で、頼りなさそうな子供だったが、主人のいない今、奥方を守ろうと頑張る姿は、健気だった。
 それに、いざハロルドが手を貸してみれば、屋敷の場所をテキパキと的確に教えてくれた従者の少年は、繊細そうな見た目によらず、思いの外しっかりしていて、頼りになった。
 丁寧に礼を口にするあたりも礼儀正しく、よく出来た従者だと思い、きっと主人の教育が行き届いているのだろうと、ハロルドは感心したのだが……
 今は、主人のくだりは、ちょっと撤回したい気分だった。
 いや、とても口には出せないが。
「ああ、あの時は本当に貴方には面倒をかけてしまって、申し訳なかったな。騎士殿。妻もミカエル……従者も、貴方に感謝していた。私からも、礼を言う」
 ハロルドが心の中でこっそり思ったことなど、知る由もなく、もし知っていても気にも留めなかっただろうが、ルーファスはそう言った。
 大したことではないと、前と変わらず、首を横にふる騎士隊長に、王女と従者の、夫であり主人である公爵は続ける。
「妻は……まだ気分は優れないようだが、熱はすぐに下がったし、今は気にするほどではない。もともと、あまり丈夫な体質ではないからな……ミカエル、従者の方は、さすがに当日は夕食が喉を通らなかったようだが、今は普段通りにしている。おかげさまで、もう心配していただくほどではない」
 あの日、セラと一緒に見た、凄惨な少女の亡骸を思い出してか、さすがに当日はミカエルも夕食を食べれなかったようだ。
 しかし、執事のスティーブが珍しく用意した氷菓子やら、女中頭のソフィーと姪のメリッサが用意した果実の絞り汁やらを口にしているうちに、なんとか回復したらしい。
 翌朝も、まだ少し辛そうだったもの、屋敷の皆に気遣われて、普段通り従者の仕事をこなしていた。
 今はもういつも通りで、むしろ、より強く落ち込んでいるセラのことを心配し、気にかけているぐらいである。
「それは、良かった……それをお聞きして、ようやく安心しました」
 社交辞令ではなく、ほっと、心から安堵したように、ハロルドは言う。
 あのように凄惨な事件に触れてしまうと、心を痛め、塞ぎこんでしまうことが少なくない。
 まだ幼さを残していた、あの従者の少年のような者なら、尚更だろう。
 それでも、自分の動揺を抑えて、奥方様である少女を助けようとしていたあたり、今にして思えば、大したものだった。
 全く動揺がないわけではないのだろうが、少女のような見た目によらず、肝が据わっているらしい。今は、それを頼もしく思った。
 闇に澱がたまるように、重い罪は罪を呼び、負の連鎖は続くことが多い――。
 そんな悪い流れを断ち切るのも、治安を守る騎士の、ハロルドたちの役目だ。
「ああ。それに……私の従者の事ならば、心配していただくには、及ばない。――あれは、私の懐剣だ」
 繊細そうな子供に見えても、心配していただくには及ばないと、主人である若き公爵は言い切る。
 従者であるミカエルは、同時に主人のルーファスにとって、情報を集める補佐役でもある。あいにく、あれぐらいで使えなくなるような、ヤワな鍛え方はしていない。
 少々、性格が甘くて、情に流されやすいのが玉にキズだが……そうささやくように言って、蒼い瞳の青年は小さく唇の端を上げる。
「……懐剣?」
 一方、何の事情も知らないハロルドは、懐剣、という言葉に、違和感を覚えたようだった。
 首をかしげ、あからさまに怪訝な顔をする。
 ――この正義感の強そうな騎士殿には、王宮のおぞましいまでの腐敗ぶりも、そこでかわされる虚々実々いり混じった情報を、ミカエルのような少年が収集していることも、想像できないだろう。
 そう判断したルーファスは、わずかに苦笑にも似た表情を浮かべ、ゆるり、と首を横に振る。
「いや、こちらの話だ。そんな風に、騎士殿が気にされるようなことではない。……今は、な」
 最後に、妙に気になる言葉を口にしつつ、ルーファスはそこで話を打ち切る。
「……っ」
 先ほどから意味深な言葉を吐きながら、どこか本題をはぐらかしているような公爵の態度に、ハロルドがもどかしさを覚えないといえば、正直、嘘になる。
 しかし、ここで焦ってはいけないと、騎士隊長の青年は己を戒めた。
 (……冷静になれ。いくら相手の真意が読めなかろうが、苛立ったり、変に焦れば、俺の負けだ。もし、ここで対応を誤れば、必要な情報は永遠に手に入らないかもしれない)
 そう考えれば、これは試されているとも言えるだろう。
 ハロルドが信頼に足る男かどうか、あるいは情報を明かすに相応しい人間かどうか、相手は見極めようとしているのもしれぬ。
 そんな考えを抱いて、彼が顔を上げると、こちらを見てくる蒼い瞳と目が合う。
 エドウィン公爵――氷の公爵と呼ばれる男が、底の見えない蒼い瞳で、まるで値踏みするように、こちらを見ていた。
 ハロルドは目を逸らすことなく、正面から冷やかとも言える視線を受け止め、堂々と睨み返す。
 お互いに退かぬまま、その場を、奇妙な緊張感が支配する。
 その薄氷の上を渡る如き、緊迫した空気を崩したのは、睨みあう二人の男のどちらでもなく、コンコン、と遠慮がちに扉を叩く音だった。
「あのぅ……お茶をお持ちしました。お部屋に、入ってもよろしいでしょうか?」
 扉の外からした、緊張した風の少年の高い声に、ハロルドはふっと肩の力を抜く。
 そうそう、いつまでも睨みあっていても仕方ない。潮時だろう。
 彼が客人である公爵に、いいか、と目線のみで許可を求めると、ルーファスは軽くうなずいて、それに応えた。
「その声は……エリックか?どうぞ。入ってくれて、構わない」
 ハロルドが扉の外へ、そう声をかけると、ゆっくりと扉が開けられる。
「っと……失礼します」
 慣れない風に、カップだのポットだの砂糖壺だの、ティーセットの乗った大きな銀のトレーを、ゆらゆらとおぼつかない手つきで持ってきたのは、愛嬌のある顔つきの、やや小太りな少年だった。
 その身には、黒翼騎士団の制服に似たものを身につけていることから、ミカエルよりやや年下とおぼしき少年が、騎士団の関係者であるとわかる。
 おっととと……とティーセットの重さによろめく少年は、名をエリックといい、つい数ヶ月前、騎士団に見習いで入って来た、どうぞの商家の三男坊だった。とはいえ、まだ慣れていなくて、見習いの仕事のひとつである、給仕すらおぼつないのは、ご愛嬌というやつだろう。
 ふらふら、とおぼつかない、その足取りを見かねて、ハロルドはその手から重い銀のトレーを受け取ってやる。
 そうして、それを苦もなくひょいと片手で持つと、空いた方の手でポンポン、とお茶を運んできた少年の頭を撫で、「ご苦労だったな」と声をかけた。
「重いのに、ご苦労だったな。エリック……後は、俺が自分するから、戻ってくれていいぞ。食堂の皆にも、よろしく言っておいてくれ」
 この緊張した空気の中に、まだ純真な年頃であろう少年――エリックをおいておくのが忍びなく、トレーをテーブルに置いたハロルドは、そう言った。
「あっ……はい。ありがとうございます。ハロルド隊長」
 ふくよかで愛嬌のある、給仕役の少年は、ハロルドの気遣いにペコっと頭を下げる。
 そうして、すぐに部屋を出ていくのかと思いきや、その子供らしい好奇心に満ちた、つぶらな瞳できょろきょろと室内を見回した。
 その目はハロルドを追い越し、彼の向かい側に腰を下ろした、ルーファスへと向けられた。
 好奇心に満ちた少年の目は、さながら星の如く、きらきらと輝いている。
 それはもう、きらきらと。
「……」
 一方、じろじろ見られているルーファスの方は、そういう視線には慣れているのか、不愉快そうな顔をすることもなく、給仕の少年のしたいようにさせていた。
 ちらり、と少年の顔を見たっきり、興味がないのか、はたまた面倒なのか、後は喋ることはおろか、瞬きすらろくにしない。
 反対に、慌てたのはハロルドだ。
 じろじろと自分を見てくる給仕の少年に、エドウィン公爵が機嫌を損ねた様子はないが、かといって褒められた行為ではない。
 後でバレれば、上から叱られることだろう。
 いくら子供のすることといっても、放っておくわけにもいかず、騎士隊長の青年は、片手で少年の肩を軽くひくと、「ほら」と扉の方を指さす。
「ほら、まだ仕事が残ってるだろう。早く戻れ、エリック……そうじゃないと、叱られるぞ」
 ハロルドの言葉に、少年、エリックは「はい!」と元気よく返事をした。
「はい!すみません!ハロルド隊長……それでは、失礼します!」
 大きく首を縦に振ると、エリックは扉の前で深々と一礼して、次に軽快なステップのような足取りで、さっさと応接室を出て行った。
 唐突に来たと思えば、嵐のように去って行った少年に、ハロルドは前髪をかきあげ、ふぅ、と息を吐く。
「何なんだ……一体?」
 元々、エリックは快活な少年ではあるが、妙にはしゃいでいるというか、ワクワクしているというか……。
「……」
 ルーファスは無言を貫き、ほとんど表情も変えなかったものの、内心の困惑は、ハロルドと同等か、それ以上だっただろう。
 彼ならずとも、嵐のような出来事だった。
「とりあえず……お茶でもいれましょうか?エドウィン公爵」
 ようやく我に返ったハロルドは、先ほどと同じように、テーブルを挟んでルーファスと向かい合う形で、長椅子に腰をおろす。
 そうして、ティーポットを傾けると、手ずからコポコポ……とカップに紅茶をそそいだ。
 同時に、先ほどのエリックの謎な行動を、取り繕うことも忘れない。
「その……お騒がせして、申し訳ない。さっきの少年はエリックといって、素直で明るい良い子なんですが、その、黒翼騎士団に見習いとして入ってから、まだまだ日が浅くて……」
 言い訳になるような、ならぬようなことを、むにゃむにゃと口にするハロルドに、ルーファスは「別に、気にしていない」と、本当に気にしていなそうな、素っ気ない口調で言う。
「いや、別に、気にしていない」
 ルーファスの答えに、赤髪の騎士隊長は、露骨にほっと安堵した表情を見せた。
 自分のことなら、何があろうと退かない覚悟はあるが、幼く、まだまだ経験の浅い部下が叱責されるのは、心が痛む。
 であるから、その言葉で彼の緊張がわずかなりとも緩んだのも、責められるべきではないだろう。
「寛容に受け止めていただいて、感謝します。エドウィン公爵……いや、さっきはその、失礼しましたが、あの給仕の少年は素直で明るい人気者なんです……後は、騎士団の先輩から、妙な影響を受けないように成長してくれれば……」
 妙な影響を与えそうな先輩というところで、迷わず、真っ先にヘクターの顔が思い浮かんだが、ハロルドはかろうじて、それを言葉にするのを思い止まった。
 油断すると、うっかり、ヘクターの名を呪詛のように呟いてしまいそうだ。
 気をつけなければなるまい。
「騎士殿は、ずいぶんと部下思いでいらっしゃる。ご立派なことだ」
 純粋な賛辞とも、少々、うがってとれば皮肉とも取れる、ルーファスの言葉。
 公爵が口にしたそれに、ハロルドはやや気恥ずかしげに、首を横に振って、そんなことはない、と返した。
「いや、そんなことは……」
 首を横に振るハロルドに、ルーファスはふっ、とわずかに口元を緩めて、
「そう謙遜されることはない、騎士殿……素直にそう思ったから、口にしたまでのことだ」
と、珍しく裏表のなさそうな、友好的な言葉を吐く。
「いや、騎士隊長としては当然の務めで、そんな風に言っていただくことでは……」
 本心から、そう思っているハロルドは、褒め言葉にいささか照れくさいものを覚えつつ、くしゃ、赤味の強い己の髪をかいた。
 男ばかりの五人兄弟の次男という立場上、彼にとっては下の面倒を見るのは当然のことで、今更、認められるようなことではない。
 部下の面倒見が良いと言われるのも、己にとっては、その延長のようなものだ。
「いや、感心なことだ。私には真似できないな、騎士殿……それより、少し話は変わるが……」
 ルーファスの言葉が、その声が、まとう空気が変わる。
 ふと気がつけば、先ほどと同じように、底の見えない蒼い瞳が、己を見ていた。
 その時、油断していたとは、ハロルドは思わない。
 ただ、ほんの少し空気が緩んでいた。
 その隙をついて、鋭い言葉の刃が、胸の奥深くに切り込んで来る。
「――あれから、例の人食いの化け物の事件の捜査は進んでいるのか、教えていただけないか?騎士殿」
 その言葉は、矢のように鋭く、氷のように冷たく、ハロルドの胸を突き刺す。
 ――まるで、心臓をわしづかみにされたようだった。


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