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三章  呪いの代償  17


「――あれから、例の人食いの化け物の事件の捜査は進んでいるのか、教えていただけないか?騎士殿」
 王都を騒がせる、人食いの化け物の事件について、教えろと。
 ルーファス=ヴァン=エドウィン――氷の公爵と呼ばれる男は、顔色ひとつ変えずに、何の躊躇もなく、そう言い切った。
 ふいをついて、喉元に突きつけられた刃のように、ハロルドはその言葉にとっさに対応できず、眉をひそめ、険しい表情で、正面のルーファスを睨んだ。


 相手から先に、その話題を切り出してくることを、ハロルドは覚悟していなかったわけではない。
 エドウィン公爵、冷酷な切れ者と評される男が、わざわざ一介の騎士隊長である彼を訪ねてくるなど、それ意外の目的ではありえないだろう。
 ただ、漠然と今までの会話の流れから、エドウィン公爵はもっと回りくどい方法を使うのではないか、という先入観があった。ゆえに、意表をつかれたのだ。
 それが、こうも直線で来るとはな……ハロルドは心の中で舌打ちしたい気分だったが、今更、そんなことを考えてもしょうがない。
 あいまいな受け答えを許してくれるほど、氷の公爵は甘い男ではないだろう。
 結局のところ、これはどちら先に、手持ちのカードを切るかという、一種の駆け引きなのだ。
 ――そして、それはひとつの賭けだった。
 不本意ながら、先手を取られ、会話の主導権を握られた以上、ハロルドはそれに応じざるを得ない。
 赤髪の騎士は小さく息を吐くと、胸の前で腕を組み、言葉を選び、慎重に、だが、正直に答えた。
 氷の公爵と呼ばれる男を相手に、生半可な嘘は通じないと思ったからだ。
「教えろと言われても、エドウィン公爵……正直、貴方にお話できることは、そう多くない。この前の時と変わらず、人食いの化け物の正体は、掴めないまま……騎士団としては不甲斐ないことに、手がかりすらロクになし……これでは、お話しろと言われても、残念ながら出せるものが、何もないのが本当のところです」
 それは、いかにも実直なハロルドらしい正直な返事だったが、同時に、それを口にすることは騎士団の人間にとっては、何とも言えない屈辱だった。
 王都の治安維持を司る、黒翼騎士団にとっては、謎の化け物に何人もの人間が無残に殺され、にもかかわらず、その正体すら掴めていない現状は、たとえようもない屈辱、大失態であるのは間違いない。
 本来、隠しておきたいそれを、あえて正直に口にするのは、このエドウィン公爵という男を相手に、下手な嘘はつかぬ方が良いという判断と、そして、ハロルドの心にある罪の意識ゆえだった。
 守るべき王都の民を、みすみす正体のわからぬ化け物に殺されたあげく、その正体すら一向に掴めぬままなのである。
 これでは、人食いの化け物の犠牲となった者たちも、浮かばれまい。
 民ひとり、満足に守れないようでは、騎士団の存在意義などないのだから。
 そう考え、ハロルドはテーブルの下で、それを殴りつける代わりに、グッ、と己の手のひらに爪を立てた。そうしても、己の不甲斐なさに対する罪の意識は、少しも消えることがなかったのだが……。
「進展なし、か……それでは、騎士団は現状では、打つ手もなく、ただ手をこまねいているということでいいのか?騎士殿」
 多少、いや、かなり神経を逆なでする言い方ではあったものの、それは事実であったので、ハロルドはその屈辱に耐えた。
 額に青筋を立てそうになるのを我慢し、重いため息と共に、うなずく。
「……っ。ええ、騎士団としては屈辱ですが、エドウィン公爵のおっしゃる通りです」
 ルーファスは「なるほど」とうなずくと、蒼い瞳に冷ややかともいえる光を宿し、まるで、ハロルドの心境を見透かしたような言葉を吐く。
「なるほど……それで、正義感の強い騎士殿としては、罪の意識にさいなまれているというわけだ」
「くっ……」
 その言葉は真実であったが、だからこそ、騎士は顔を歪めずにはいられなかった。
 真実が、常に優しいとは限らない。
 むしろ真実であればこそ、言われたくもないこともあれば、見透かされたくない感情もある。
 それがわからぬほど、エドウィン公爵が、鈍い男だとは思えない。だが、次の瞬間、ハロルドは己の考え違いを悟った。
 同時に、確信した。
「それでは、何も解決できないと思わないのか?……騎士殿?」
 表情ひとつ変えず、淡々と、残酷とも言えることを口にするルーファスの顔を見た瞬間、ハロルドはようやく、その意図に気づいた。
 幼い子供が無垢ゆえに残酷に、何も知らずに、虫の羽をむしるのとは違う。
 このエドウィン公爵、ルーファスという男は、己の言葉の残酷さを重々承知した上で、あえて、それを突きつけてきているのだ。――まるで、ハロルドの覚悟が本物かどうかを、確かめるかのように。
 その証拠に、公爵の蒼い瞳はずっと、憎たらしいほどの冷静さをたたえて、騎士を見ている。
 しかし、先ほどと同じく、意図がわかったからといって、腹が立たないかは別問題だ。
 そもそも、王族や騎士団の上層部ならともかく、エドウィン公爵にそんなことを言われる筋合いはなかろうと、騎士の青年はいささか剣呑な目つきで、ルーファスを睨み、やや挑発的とも言えることを口にする。
「貴方はそう言うが、そもそも貴方があの時、もう少し協力的だったなら、もしかしたら、化け物へ繋がる手がかりのひとつくらい、手に出来た可能性はある……貴方こそ、今の現状を知って、何かしようとは思わないのか?エドウィン公爵」
 遠慮も何もない、悪くすれば、非礼とも取られかねない言葉だったが、最早、ハロルドは気にしなかった。
 お互い、そんな建前を気にする段階は、とうに過ぎている。
 ここまで来たら、どんな結果になろうとも、前に進むしかないのだ。
 挑むような騎士の視線を、今度はルーファスの方が、目を逸らさず、静かに受け止める。
 そうして、先ほどの再現のように、その場に一種即発の空気が流れ始めた時だった――
「おっ、おかえりー。偵察はどうだった?エリック」
 応接室に満ちた緊張感をぶち壊すような、能天気な「おかえりー」という声に、ハロルドは思わず、派手にずっこけそうになる。
 その声が……有難くないことに、よ―――く耳に覚えがあるものだったから、尚更だ。
 (この……ヘラヘラとした、緊張感も何もかもぶち壊すような、軽薄な声は……間違いない!アイツ……ヘクターだ!)
 黒翼騎士団広しと言えども、緊張感も何もかもぶち壊すような、ヘラヘラとした軽薄な声の持ち主といえば、彼の部下であるヘクターをおいて、他に心当たりがない。
 しかも、それがわかったことが、ハロルドにとって何の救いにもならなかった。
 むしろ、力いっぱい嫌な予感がして、赤から青へと顔色が変わる。
 その急激な変化に、前にいたルーファスですら「あの声が、何か……?」と、いささか心配そうな目を向けてきたぐらいだ。
「えへへっ、上手くいきましたよ。ヘクターさん。バッチリです!」
 偵察はどうだった?というヘクターの問いに答えたのは、先ほど応接室にお茶を運んできた少年、エリックの声だった。
 何の偵察だ!?何がバッチリだ!?
 そう叫びたい気持ちを、ハロルドはあらん限りの忍耐力を総動員して、かろうじて耐え切る。
 目の前では、エドウィン公爵が、こちらに可哀想な人を見る目を向けていたが、ここで言い訳してもむなしいだけなので、わざと気づかないフリをした。
 それらの声の出所は、どうやらこの応接室のすぐ隣の部屋のようだった。
 紅竜騎士団、白獅子騎士団、並び称される二つの騎士団と比べて、貴族の子息や神官筋の少ない黒翼騎士団は、予算面で優遇されているとは言えない。
 もっと平たく言えば、あまり金がない。
 それゆえに、黒翼騎士団の建物は古く、また修理も大々的に行われないために、壁に隙間があったり、中の音がもれることもある。
 騎士団に入って日が浅い少年のエリックはともかく、部下のヘクターがそれを知らないとは考えられないのだが、大方、話に夢中になるあまり、それを忘れているのだろう。
 壁越しに聞こえてくる男たちの声は、高く、しかも大きい。
 ――頼むから、もうこれ以上、喋られないでくれ!黙っていてくれ!
 声は出さぬまでも、ハロルドは必死に神に祈ったが、祈りは届かず、会話は続く。
「おっ、収穫あり?良くやったな、エリック。これで、お前も一人前の騎士だ。ほら、約束のあまーい菓子だ」
 適当なことを言うと、会話の流れから察するに、ヘクターがエリックに菓子を渡したらしい。
 わあっ!とエリックのはしゃいだ声が、遠くに聞こえる。
「わあっ!ありがとうございます。ヘクターさん!これで僕も、立派な騎士になれますか?」
「おおっ、なれるともさ!心配するな、エリック。俺についてくれば、間違いなく、立派な騎士になれちゃうさ!今ならついでに、この俺、ヘクターとっておきの女の子の落とし方も教えちゃうよ?……どうする?」
「何だかよくわかりませんが、立派な騎士になれるなら、そうします!よろしくお願いします、師匠!」
「おおっ、それでこそ、我が弟子よ!」
 ああ、麗しい師弟愛ではなく……果たして、このまま放っておいていいのかと、ハロルドは心配になってきた。
 ――騙されるな、エリック!その男、ヘクターについて行くと、どんな風に成長するかわからないぞ!頼むから、立派な騎士になる前に、まともな人間になってくれ!
 今更ながら、エリック少年の将来を案じ、道を正してやるべきかどうか、それが隊長としての己の役目ではないかと、ハロルドは真剣に検討せずにはいられなかった。
 こちらを見るエドウィン公爵の目が、いい加減、同情的なものになってきた気もするが、それには、ひたすら気づかないフリをし続ける。
 同情されても、むなしいだけだ。
 ――頼むから、いい加減、黙ってくれ!後生だから!
 赤髪の騎士の必死の祈りもむなしく、壁越しに聞こえる声は、さらに増えていく。
「おいっ、それはそれとして、偵察の結果はどうだったんだ?教えてくれよ、エリック」
「そうだ、そうだ!ハロルド隊長のところへ来た客は、どんなんだった?」
「何でも、ハロルド隊長と生き別れの兄弟だって噂を聞いたんだけど、それって本当?」
 ほぼ同時に重なる三つの声は、どれも黒翼騎士団に属する、騎士のものだった。
 あえて言うまでもないが、ハロルドにとってはどれも、普段から、よく聞きなれた声ばかりだ。
 全員、第十三部隊の騎士たち、つまり彼の部下である。
 (ゲイリー、ライツ、ヴェル!お前たち、いくら休憩時間にしても、何をやっているんだ!他にいくらでも、やるべきことがあるだろう!それとも、ヒマか?お前たち全員、ヒマなのか!?)
 今すぐ隣の部屋に、怒鳴り込みたい心境を、ハロルドはギシギシと歯軋りすることで、何とか耐え抜く。
 長椅子に座ったエドウィン公爵が、歯軋りがうるさいとばかりに、眉をひそめ、少し迷惑そうな顔をしていたが、最早、そんなものは蚊帳の外だった。
「えーっと……ハロルド隊長のお客さんは、背が高くて、何ていうか、格好いい人でした。海みたいな、深い蒼の目をしてて……あと、なんかきらきらしてました!」
 そんな、こちら側の葛藤も知らず、隣の部屋からはエリック少年の邪気のない声が聞こえてくる。
 彼の言う、ハロルド隊長のお客さんとは、間違いなく、ルーファスのことだろう。
「きらきら?」
 へクターが怪訝そうに問い返すと、エリックは「はい!」と元気良く、自信ありげな声で答える。
「はい!上手く言えないですけど、貴族っぽいっていうか、高貴っていうかそんな感じです!あっ、ハロルド隊長とは、仲が良いみたいです。さっき、僕がお茶を持っていったら、お二人とも、仲よさそうに顔を突き合わせてました」
 ――あれは、その前に睨み合ってたからだ!というか、どこを見たら、仲が良さそうに見えたんだ?エリック?
 そんなハロルドの心の声が届くはずもなく、大いなる勘違いをしたエリックの言葉に、ぼそぼそ、と大人たちの声が重なる。
 隣の部屋であるにも関わらず、それらの声はよく響いた。
「……貴族ぅ?騎士団以外に、ハロルド隊長に貴族の知り合いなんていたんだ?」
「あ、お前は新入りだから、知らないんだな。ヴィル、ハロルド隊長って全くそうは見えないかもしれんけど、ああ見えて、貴族出身なのよ」
「え?それって、冗談じゃないの?ヘクター……だって、ハロルド隊長、酒も博打もほとんどやらないのに、毎月、実家への仕送りが大変だからって、月末はだいたい金欠だよ」
 ライツがそうそう、と相槌を打つ。
「そうそう。長く付き合ってる俺たちでも、隊長が男爵家の生まれだってこと、よく忘れるよな。な?ゲイリー」
「ああ、そういや先月は、大変だったよ。ほら、部下の結婚式が続いたから、ちゃんと祝ってやりたいって、ハロルド隊長、仕事が終わった夜、せっせと造花作りの内職してたもんな。だからほら、結婚式で隊長の目、むちゃくちゃ赤かっただろ?」
「あーそういえば、そうだった」
 部下たちが好き勝手に、わいわいと喋りまくるのを、隊長であるハロルドは壁越しに辛抱強く聞いていた。
 その忍耐力は、ルーファスから見ても感嘆に値するものだったが、当たり前だが限界というものはある。
「あーでも、やっぱり、ハロルド隊長のあの髭はないよな。いくら他人事とはいえ、全く、気の毒なくらい似合ってないもん」
 悪意はないのだろうが、ヘクターがそう言うと、そうだそうだ、と次々と同意の声が上がる。
「そうだ、そうだ!」
「よくぞ言った!よっ、エスティア一の色男!」
 隣の部屋が謎の盛り上がりを見せるのと、ハロルドが無言のまま椅子から立ち上がり、ゆらり、と音もなく、扉の方に向かっていくのは、ほぼ同時のことだった。
 扉に手をかけたハロルドは、
「失礼します。すぐに戻ってくるので、待っていてください。ええ、すぐすみます」
と、静かな迫力のある声で言うと、振り向きもせず出て行った。
 ルーファスは肩をすくめ、引き止めることもせず、黙って、その背中を見送る。
 その直後、隣の部屋からガタガタという忙しない物音と悲鳴、怒声が響き渡る。
「お前ら、全部、こっちに聞こえてるぞっ!いくら、休憩時間でも羽目を外しすぎだろ!いい加減、仕事に戻れ!」
 ハロルドの怒鳴り声の後に、ええー?と 不満気な声が上がる。
「ええー?俺たちは、ただハロルド隊長のことを心配して……部下の気遣いを無にしないで下さいよー」
「やかましいっ!お前たちの気遣いが、俺を今、窮地に追いこんでいることに、頼むから気づいてくれ!ほら、全員、持ち場に戻れ……エリック!ヘクターにはついて行くな!」
 しばらく、ザワザワと騒がしかったものの、やがて落ち着いたのか、隣の部屋は静かになった。
 そうして、隣が静かになった頃、やや疲れた顔のハロルドが「お騒がせして、失礼した」と言いながら、扉を開け、応接室へと戻ってくる。
 少しばかり疲れた顔の彼に、ルーファスは長椅子でゆったり足を組んだまま、労をねぎらうというより、疲労を蓄積させるような言葉をかけた。
「なかなか良い部下たちをお待ちだな。騎士……いや、隊長殿」
「くっ……い、いや、お褒めいただくほどでは……」
 今の状況では、皮肉にしか聞こえないそれに、一筋縄ではいかない部下たちを抱える騎士は、ひきつった笑顔を浮かべるしかなかった。
「別に、他意はない。気にされるな」
 ルーファスはさらり、とその話題を流した。
 良い部下たちという言葉は、満更、皮肉でもない。
 好き勝手に騒いでいるようで、隣の部屋の騎士たち……ハロルドの部下である彼らはずっと、こちらの、応接室の様子をうかがっていた。
 あまり良い趣味とは言えないが、もし、ルーファスがハロルドに害をなす者であれば、応接室に踏み込んで、止める覚悟だったに違いない。
 特に、あのヘラへラした軽薄そうな声の主は、好き勝手に騒いでいるようで、実は一番、こちらの反応をうかがっているようだった。
 例の化け物の事件が、まだ解決していない今、唐突に訪ねてきたルーファスのような輩に、疑惑の目を向けるのも、向こう立場からすれば無理からぬことだ。であるから、別段、疑われたことも不快とは思わない。
 (さして羨ましくもないが、絆が強くて、結構なことだ……)
 そう思い、ルーファスはかすかに唇の端をつりあげる。
 向かい側の長椅子に腰かけ、疲れたように息を吐く、赤髪の青年――このハロルド隊長という男、ずいぶんと部下たちに慕われているらしい。
 立場上、敵もいないわけではなかろうが、味方が多くて結構なことだ。
 同時に、ずいぶんと過保護な部下たちだと、少しばかり呆れもするが……。
 とはいえ、そんなことをわざわざ言う必要も、また教えてやる義理もなかったので、ルーファスは自ら話題を変えた。
 唇を開いて、ようやく本題を口する。
 ――さて、ここからだ。
「さっきの話の続きだが……」
 ルーファスは、そう話を切り出した。
 彼の声音の変化を感じたのか、それまで疲れた風だったハロルドの表情に、常にない緊張が走る。
 騎士の、緑の瞳が探るように、あるいはその真意を掴もうとするように、公爵へと向けられた。
 ひりりと肌を刺すような緊張感の中、ルーファスはゆったりとした口調で、言葉をつむぐ。
「さっき、貴方は確か、私にこう言ったな?騎士殿……貴方こそ、今の現状を知って、何かしようとは思わないのか?エドウィン公爵、と」
 続けられた公爵の言葉に、その次に何を言われるのかと、ハロルドは反射的に身構えた。
 非礼になるかもしれないのを承知の上で、口に出したそれであったのだから、この男、エドウィン公爵が、内心、腹を立てていたとしてもおかしくはない。
 ……今さら、詫びろとでもいうのだろうか?
 そんなことを考えながら、ハロルドが向かいの長椅子に座ったルーファスの顔をちらり、と見やると、その表情は冷静で、怒っている風ではなかった。とはいえ、相手は氷の公爵と呼ばれる男である。油断は禁物だ。
 ハロルドは小さく息を吐いて、「それが、何か?」と問い返す。
「ええ、言いましたが……それが、何か?」
 お気に触ったのなら、お詫びしますが……とハロルドが続けると、ルーファスは無言で首を横に振り、再び、唇を開いた。
「ならば……ただ手をこまねているだけではなく、何かしようといったら?」
「……」
 思いにもよらぬ言葉に、ハロルドは答える言葉を持たず、戸惑いにも似た表情を浮かべる。……いきなり、何を言い出す気だ?この男は。
 そんな騎士に向かって、ルーファスは一呼吸おいて、事件の核心に迫るそれを口にした。
「――例の化け物の事件について、いや、さらに言うならば、その人食いの化け物の正体について、心当たりがあるといったら?」
 応接室の空気が、一瞬にして変わった。
 ――あの化け物に繋がる情報を、持っているといったら?
 そう続けたルーファスに、ハロルドは驚愕したように、思わず、目を大きく見開いた。
 同時に、ゴクッ、と唾をのみこみ、喉を鳴らす。
 彼は信じ難い思いで、あの化け物の情報を持っていると口にした、黒髪の青年の顔を見つめる。
 (この男……エドウィン公爵は今、あの人食いの化け物に繋がる情報を持っていると、そう言ったのか?)
 (……しかも、あの化け物の正体についても、何か知っていると?)
 (とても信じられん……が、本当か?)
 その言葉を、どう受け止めて良いものか、ハロルドは迷う。
 もし、それが真実ならば、彼にとっても騎士団にとっても、喉が手が出るほど、どんな手を使っても欲しい情報だった。
 これ以上、あの化け物の犠牲となる者を出さぬためにも。しかし……
 ハロルドの胸中には、淡い期待と……それが本当がどうか疑うべきだという、冷静な感情がうずまいている。
 (……信じていいのか?この男を)
 事の真偽を見極めようと、ハロルドは鋭い目をルーファスに向けたが、その端整な横顔を浮かんだ、冷ややかというべき無表情からは、それが偽りか真実か、判断が難しかった。
 己が束ねる第十三部隊は言うまでもなく、黒翼騎士団全体も総力を尽くして、王都の民を脅かす、人食いの化け物を捕らえようとしたにも関わらず、化け物の凶行を止めることはおろか、手がかりすら得れなかったのだ。
 ましてや、その化け物の正体に繋がるような情報など、持っているはずもない。それを……この男、エドウィン公爵は持っているというのか?
「それは……」
 藁にもすがりたい気持ちと、うかつに信じるべきでないという騎士としての勘、二つの相反する感情を抱えながら、ハロルドは迷いのにじむ声で言う。
「それは……本気でおっしゃっているのですか?エドウィン公爵」
「信じるも、信じないも、貴方の勝手だ。騎士殿。だが……」
 そんなハロルドの反応は、予想通りのものだったのだろう。
 ルーファスはそう言うと、焦る素振りもなく、上着から白い絹のハンカチを取り出す。
 そうして、いきなり何を……?と怪訝そうな顔をする騎士の前で、たたんでいた白いハンカチを広げ、その中に包んでいたものを見せた。
 白い絹のハンカチの上、その中心にあるのは一筋の、黒い……獣の毛のようなもの。それは――
「それは……っ!」
 ハンカチにのせられた、その黒い獣の毛を見たハロルドが、驚きの声を上げる。
 その黒い獣の毛は、今まで例の化け物の犠牲となった者たち……その周辺に落ちていたり、化け物に食い殺された犠牲者の服についていたものと、そっくりだった。
 もちろん、全く同じものであるかどうか、よくよく慎重に調べなければわからないが、ぱっと見は実によく似ている。
 ……いや、そもそも、なぜエドウィン公爵がこんなものを?
 ハロルドは困惑しながらも、顔を上げてルーファスを見据え、鋭い声で問う。
「これを……貴方は、何処で手にいれた?エドウィン公爵……差し支えなければ、教えていただきたい」
 一切の嘘やごまかしを許さぬ、鋭い視線を向けてくる赤髪の騎士に、ルーファスは「教えてもいいが……」と、どこか含みのある声で応じた。
「貴方が望むのなら、教えてもいいが……条件がある」
 条件……とは?
 その言葉に、ハロルドは怪訝そうな顔で、言われた言葉を繰り返す。
「……条件?」
 ルーファスは、うなずく。
「そう。こちらから出す条件は、ふたつだ。まず……これからの話は、私がいいというまで、一切、誰にも話さないでもらいたい。たとえ、貴方の大切なお仲間、黒翼騎士団の人間相手でも、だ」
 貴方にとっては、不本意だろうがな。騎士殿……と、ルーファスは続けた。
「それは……」
 出された条件に、ハロルドは躊躇う。
 例の化け物に繋がる情報は、正直、どんな手段を使っても欲しい。
 それぐらい、現状の捜査は行き詰まっている。
 かといって、安易にうなずくような話では、決してない。
 今、ここで得た情報を、一切、他の人間には明かすなということは、上司、部下、黒翼騎士団の誰にもそれを伝えることか出来ないということだ。
 もし、有益な情報であった場合、それを己一人の胸に秘めるというのは、騎士団への裏切りに繋がりかねない。
 いや、そもそも、第十三部隊の隊長の地位を預かる者として、こんな取引を受け入れていいものか……
 そんなハロルドの迷いを見透かしたように、ルーファスは静かな声で問いを重ねた。
「さて……もし、この条件をのめないようなら、残念だが、この話はなかったことにしてもらおう。どうする?騎士殿……」
「……」
 その提案を受け入れるのや、否か、騎士は決断を迫られていた。
 公爵の言葉は薬のようでもあり、同時に、甘美な毒にも思えた。
 深く考え込み、沈黙したハロルドに、ルーファスは「無理強いはしない」と、高い身分を盾にすることなく、決断をゆだねる。
 そうして、薄く笑ったルーファスの横顔は、騎士の目には救世主のようにも、あるいは悪魔のようにも映った。
「何も無理強いはしない。好きにするといい。――選ぶのは、貴方だ。騎士殿」
 こちらからは、何も押しつけはしない。選ぶのは、貴方だと。
 その言葉に、ハロルドは決断した。
 彼はすっと顔を上げると、その緑の瞳に確かな決意を宿し、目の前の公爵を見て、凛とした、覚悟のこもった声で言った。
「本当に……こちらが、その条件をのめば、あの化け物についての情報を教えてもらえるのか?」
「ああ、約束しよう」
 騎士のまっすぐな目から、揺るがない決意を読み取ったのか、一瞬の迷いすらなく、ルーファスはああ、とうなずく。
 それを聞いたハロルドも深くうなずき、「ならば……」と続けた。
「ならば……貴方の言う通り、これからの話は一切、他言しないことを誓おう。エドウィン公爵」
 そう言って、ハロルドは腰の剣を鞘ごと外すと、まっすぐに胸の前で立て、古くからの習いである騎士の誓いを口にした。
 凛とした声が、室内に響く。
「この剣に誓って、騎士の誇りにかけて、約束は守ろう。……これで良いだろうか?」
 騎士の誇りをかけて約束は守ると口にして、ハロルドは相手の意思を確認するため、ルーファスの方を見た。
 剣に誓ってというのは、古来より、この騎士にとっては最も重く、意味のある言葉だ。続けられた言葉は、いかなる時も騎士の誇りにかけて、命に代えても守らねばならない。
 それを知っているルーファスは、十分だ、という風に首を縦に振る。
 相手によっては、自己陶酔じみた誇りや誓いなど歯牙にもかけない彼だったが、この、いかにも生真面目そうなハロルドという青年が、自ら進んで、己の立てた誓いを破るとは考えにくい。
 それに、もし騎士が誓いを破れば、どのような災厄が己に降りかかるともしれぬからこそ、その誓いは重みがある。
「では、こちらも今から明かすことに、偽りはないと誓う。あいにくと神に誓うほど、清らかな人間ではないが……そうだな……」
 ルーファスはそう言い、蒼い瞳を細めると、何とも言えぬ言葉を吐く。
「――その代わり、我が呪われたるエドウィン公爵家に名にかけて」
 意味深な言葉に、ハロルドはあからさまに眉をひそめたものの、結局、何も言わなかった。
 深い意味を探るべきではない、と思ったのかもしれない。
 騎士は深く息を吐き、かすかに首を振り、赤髪の頭を揺らすと、「話を……」とルーファスに促す。
「いいだろう。その前に……」
 人食いの化け物について、己の持つ情報を語り始める前に、ルーファスはふたつ目の条件を出す。
 そして、ハロルドはその条件をのんだ。

 それから、一体、どれほどの時間が流れただろう?
 いつの間にやら、太陽は沈みかけており、ふと窓の方へと目を向ければ、王都の街並みは、あざやかな夕焼けに染まっていた。
 まるで夜の訪れを惜しむように、太陽が昼間とはまた違う、きらきらとした黄金の光の粒を放つ。
 応接室にも夕陽が差し込み、やや薄暗くなりかけてきた室内に、くっきりとした影を映し出す。
 そうした頃、ようやく話を終えたルーファスが、長椅子から立ち上がった。
 彼は軽く挨拶すると、いまだ長椅子に座ったまま、難しい顔で腕を組むハロルドに背を向け、よどみのない足取りで扉の方へと歩き出す。
 そうして、部屋を出てこうとする公爵の背中に、後ろを振り返らぬまま、騎士は問いかけの言葉を投げる。
「なぜ私に、この話を……?」
 相手を呼び止めようというよりは、呟くような、独り言にも似た言葉だった。
 その言葉を聞いたルーファスは、一瞬、扉の前で足を止め、後ろを振り返ることなく、首だけをそちらに向けて答える。
「ルース=カルヴィンという名に、聞き覚えがあるだろう?騎士殿……それが理由だ」
 思いにもよらぬ言葉に、ハロルドは驚き、思わず、弾かれたように長椅子から立ち上がる。
「私の元部下ですが、それが何か……?まさか……!」
 驚いたように、そう声を上げたハロルドに、ルーファスは素っ気なく応じる。
「みなまで語る必要はないだろう。こちらからは、以上だ。後は……騎士殿、貴方の判断にお任せする。ではな」
 そう言ったきり、今度は振り返ることもなく、ルーファスは扉のノブに手をかけ、応接室から出ていく。
 複雑そうな顔をしたハロルドは無言で、その背を見送る。
 扉が閉められ、後にはただ、静寂のみが残った。


 ルーファスが黒翼騎士団の灰色の建物を出ると、槍を携えた兵士の守る高い門の前に、エドウィン公爵家の紋章のついた馬車と、その側で金髪の少年が待っているのが目に映った。
 彼が馬車の方へと足早に歩を進めると、金髪の少年、従者のミカエルが伏せていた顔をぱっと上げる。
 同時に、ミカエルは「旦那様!」と声を上げると、わずかに息を切らせながら、ルーファスのそばへと駆け寄ってきた。
 駆け寄ってきた従者の少年に、主人である青年は軽くうなずくと、「待たせたな」と言葉をかける。
 そうして、従者の呼吸が整うのを見計らい、ルーファスは低い声で続けた。
「待たせたな……それで、首尾はどうだ?ミカエル」
 主人の問いかけに、ミカエルは「はい」と間髪入れず、首を縦に振る。
 まるで少女のような、優しげな容貌をしていても、そのきりっとした従者の表情からは、幼さは微塵も感じられない。
 ミカエルは淡い水色の瞳を伏せると、慎重に、やや声をひそめて、その件を報告する。
 主人に命じられ、今まで調べてきたことを。
「ローディール侯爵の件ですが、少しばかり探りを入れたら、いろいろと面白い話が聞けました……例の、侯爵の奥方が亡くなった件についても、旦那様のご推察の通りのようです。どうして、おわかりになったのですか?」
 そう言って、不思議そうな顔をするミカエルに、ルーファスはふっ、と唇を歪める。
「ふっ、あの宰相の愚かなネズミの考えることくらい、考えずともわかる……他には?侯爵について、何か興味深い事柄はあったか?」
「ええ、まあ。いろいろと……」
 最近のローディール侯爵の奇妙な、異常とも言える行動について、ミカエルは様々な筋から、広く情報を集めることが出来た。
 曰く、深夜、使用人の目を盗んで、屋敷から抜け出しているらしい。
 その体から、時折、獣のような悪臭いがする……
 少し前まで健康だった、侯爵の奥方の突然の死には、何かと不審な点があるとか。
 また今度、ローディール侯爵と再婚する予定の愛人は、すでに身重の身らしい……等々。いくつか、興味深い情報もあった。
 何から話すべきか、少し考えるようなそぶりを見えた従者に、ルーファスはまず、馬車に乗るように促した。
「そうか、ご苦労だったな……話の続きは、馬車の中で聞こう。屋敷に戻るぞ。ミカエル」
「あ、はい。わかりました」
 従者はうなずくと、主人の後に続いて、馬車へと乗り込んだ。
 そうして、彼らを乗せた馬車は、エドウィン公爵家の屋敷へと戻る道を、馬のいななきと共に走り出した。

 ルーファスたちを乗せた馬車が、公爵家の屋敷へと戻ったのは、辺りがすっかり薄暗くなった頃だった。
 空は夕焼けから、薄闇へと移り変わり、やや強い風がびゅうびゅうと、木々の枝を揺らす。
 ざわざわと庭の木々の枝葉が、人の囁きにも似た音をもらす中、馬車を停めたルーファスは、屋敷の中へと向かう。
 そんな主人の背に、半歩ばかり遅れて、ミカエルがついていく。
 屋敷の中へと足を踏み入れてすぐ、執事のスティーブが出迎えのために、玄関まで出てくる。
 おかえりなさいませ、と深々と頭を下げる執事に、ルーファスは「ああ」とうなずくと、その手に着ていた外套を預けた。
「ああ、ご苦労……」
 そうして、主人の手から恭しく外套を受け取った老執事に、ルーファスは後ろに控えているミカエルを示して、言葉を続けた。
「手間をかけて悪いが、ミカエルに何か食べるものを用意してやってくれるか?スティーブ……それが終わったら、皆、今日は先に休んでもらって構わない」
「かしこまりました。旦那様」
 長年に渡り、エドウィン公爵家に仕える謹厳な執事は、若い主人の言葉を受け止め、恭しく胸の前に手をあて、頭を垂れる。
「頼んだ」
 ルーファスは短くそう言うと、執事や従者らをその場に残し、二階に繋がる階段をひとりで上っていく。
 もう夜も近い時刻、明かりが灯されているとはいえ、屋敷の中はやや薄暗い。
 昼間は大勢の女中や使用人たちが、忙しく働くそこも、このように夜に近い時刻となれば、人気は少なく、静かなものだ。
 カツカツ、という足音も、己のもののみである。
 そんな二階の廊下を、誰に会うでもなく、たった一人で歩いていたルーファスの耳に、「おや、まあまあ」と高い女の声が響いた。
「おや、まあまあ……お帰りなさいませ、旦那様」
 顔を上げたルーファスの目に映ったのは、水差しをもった中年の女、女中頭のソフィーだ。
 彼女は彼と目が合うと、「まあまあ」と言いながら、ふくよかな体を揺らして、ルーファスの方へと歩み寄る。
 姪とよく似た人の良さそうな顔に、あたたかみのある微笑を浮かべると、女中頭はルーファスに尋ねた。
「まあまあ、思ったよりも、お早いお帰りですね。旦那様……何だかんだおっしゃっていましたけど、やっぱり奥方様のことが、ご心配なんでしょう?」
 あれから体調が優れないセラを気遣って、早く帰ってきたのだろうというソフィーの言葉を、夫であるルーファスは肯定も否定もしなかった。
 むしろ、妻のことを言われても、表情一つ変えないどころか、眉ひとつ動かないその様は、冷淡にすら見えただろう。
 ルーファスは心配そうな素振りすら見せず、ともすれば事務的にすら聞こえる声で、「あれの様子は?」とソフィーに問い返す。
「あれの……セラの様子は?」
 その問いかけに、最近、体調の優れないセラの世話をしているソフィーは、ふっと眉を寄せ、表情を曇らせた。
 姪のメリッサとよく似て、お節介だが、心根の優しい女なのである。
 ええ、とうなずくと、やや浮かない表情で、女中頭は答えた。
「ええ、まあ奥方様なら、相変わらずですよ。私たちやメリッサの前じゃ、無理して、元気な風にふるまってますけど、顔色も悪いし……今は薬湯を飲んで、ちゃんと眠られてますけど、さっきも苦しげにうなされていたり……」
 奥方様が、無理して気丈にふるまってるのが、かえって心配でねぇ……
 そう続けるソフィーの声には、ただ屋敷の奥方の身を案じているというよりは、身内に向けるような、親しみのこもった心配が感じられた。
 お節介で世話好きな女中頭の性格を差し引いても、その声には奥方様と呼ばれる少女、セラへの好感がにじんでいる。
 公爵家に降嫁してきてから、まだ日が浅いセラではあるが、王女らしからぬ気さくさと、温和な性格が功を奏してか、当主であるルーファスが思うよりも、この屋敷にとけこんでいるらしい。
「そうか……」
 ルーファスが淡々とうなずくと、人の好い女中頭は遠慮がちに、だが期待をこめて言う。
「そんなに心配なら、奥方様の様子を見に行ってあげたら、どうですか?坊ちゃん……いえ、旦那様」
 先代より数十年、この屋敷に仕える老執事のスティーブには及ばぬとはいえ、ルーファスがまだ子供だった頃から、公爵家で働いているソフィーはつい、「坊ちゃん」と昔の呼び方を口にしてしまう。
 女中頭のそれは、きっとセラのことだけでなく、年若い主人であるルーファスのことも心から心配し、思いやった言葉だった。
 それを理解しながらも、ルーファスは首を横に振り、冷ややかな声で言う。
「必要ない」
「……」
 あまりに迷いのない口調に、女中頭は思わず、口をつぐんだ。
「遅くまで、ご苦労だった。ソフィー……今日はもう、休んでもらって構わない」
 ルーファスはほぼ一方的にそう言うと、すっ、とソフィーの横を通り抜け、そのまま廊下の奥へと消えていく。
 遠ざかっていくその背中に、女中頭は苦笑にも似た、だが、どこかあたたかみのある表情を浮かべて、呟いた。
「昔っから、本当に素直じゃないお人だね。うちの坊ちゃん……旦那様は」
 その女中頭の言葉を、ルーファスは聞かなったふりをした。

 廊下を歩いていたルーファスは、ある部屋の扉の前で、立ち止まった。
 その扉の中には、彼の妻である、セラがいるはずだった。
 彼は小さく息を吐くと、中で眠っているしれぬ彼女を起こさぬように、そっと扉を押し、部屋の中へと入る。
 灯りのない室内は、少々、薄暗かった。
「セラ……起きているか?」
 ルーファスの声に、返事はない。
 その代わり、小さな寝息が聞こえる。
 奥方様は薬湯を飲んで寝ているという、先ほどのソフィーの言葉を思い出し、ルーファスは足音を立てぬように気をつけつつ、部屋の奥の寝台へと歩み寄った。
 美しい細工で飾られた、豪奢な寝台。
 その寝台の上には、広々とした寝台にはやや不釣り合いな華奢な少女が、小さく体を丸めて眠っていた。時折、うすく開いた唇から、かすかな寝息がもれる。
 彼女――セラの翠の瞳はかたく閉じられ、白い枕の上には、亜麻色の長い髪が広がっていた。
 眠るセラの表情は、いつもよりも幼く、あどけなく見えた。 
 薬湯がよく効いているのか、ルーファスが寝台のすぐ横に立っても、寝台で眠る少女が起きそうな気配は全くない。一瞬、ん……と小さく身をよじったセラだったが、それはまたすぐ、静かな寝息にとって代わる。
 うすい寝衣の下、その胸は規則正しく、ゆっくりと上下していた。
「……」
 寝台の横に立ったルーファスは、やや顔色は優れぬものの、セラの胸が規則正しく上下していることに、理由もなく深い安堵を覚え、すぐに心に浮かんだ、その感情を打ち消した。
 これしきのことで、わずかでも心を揺らすなど、前の彼なら考えられなかったことだ。
 (一体、何を考えている……?俺らしくもない……)
 そんな感情を抱くこと自体、気のせいだと思いたかったが、その感情は紛れもなく彼の一部分であり、いくら否定しようとも、無理に抑え込もうとも、それが完全に消えることはなかった。
 氷の公爵と呼ばれ、他人に感情を読ませない態度も、自分自身には通用せず、無意味でしかない。
 たかが女一人のことで、わけのわからぬ感情に振り回されるなど、一年前の自分が知れば、きっと愚かだと嘲笑ったことだろうと、ルーファスはいささか自嘲気味に思う。
 もし叶うなら、今からでも、その頃に戻りたかった。
「……」
 そんな埒もないことを考えてしまう、己自身に嫌気が差したルーファスは、寝台で眠るセラに背を向け、部屋から立ち去ろうとする。
 何も、ソフィーの言葉に従ったわけでもないが、最低限の義理は果たしたはずだ。ならば、やるべきことが山ほどある今、長居は無用だ。
 話すべきことがないわけではないが、薬湯で眠っているセラを、わざわざ起こすこともないだろう。
 そう考えたルーファスは、扉の方へと歩き出し、三歩と進まぬうちに足を止めた。
 寝台から、うう……とすすり泣くような声が聞こえたからだ。
「……っ」
 振り返り、思わず、声のした寝台へと足を向けてしまう己のことを、ルーファスは何より忌々しく思う。
 うなされているだけで、振り返る理由などない……理性はそう囁くのに、胸に渦巻く感情が、どうしても、それを正しいと言わない。
 敗北感にも似た苛立ちを覚えながら、彼は再び、寝台へと足を向ける。
「う……うぅ……」
 先ほどまで、顔色は優れずとも、穏やかに眠っていたはずのセラは、何があったのか今、苦しげにうなされていた。
 悪い夢でも見ているのか、少女の表情は、ひどく辛そうだ。
 うすく開いた唇からは、安らかな寝息の代わりに、うう……と悲しげな、すすり泣きのような声がもれた。
「……苦しいのか?」
 気分が悪いのかと思い、そう尋ねたルーファスに、セラは答えなかった。
 どうやら、眠りから覚めたわけではないらしい。
 一体、どんな悪夢を見ているのか……?
 かたくまぶたを閉じたまま、うなされる少女は、うう……とうわ言を口にする。
「ご……め……んなさい」
 かすれるそれを、はっきりとは聞き取れず、ルーファスは眉を寄せる。
 もう一度、今度はややはっきりと、セラの唇は音を紡いだ。
「ごめん……なさい……ごめんなさい……」
 悪夢にうなされながら、きちんとした意識のないセラはうわ言のように、何度も何度も「ごめんなさい」と口にする。
 苦しげに眉を寄せた、その顔は、今にも泣きそうだった。
 自分に言っているわけではないそれに、一体、誰に謝っているのかと、ルーファスは首をかしげる。
「ごめんなさい……」
 うなされたまま、セラは誰とも知らぬ相手に、かすれる声で謝り続ける。
 いつの間にか、その目元には涙がにじんでいた。
 その直後、セラが誰に謝っているのか、ルーファスも知るところとなった。
「ごめんなさい……リーザ……行かないで、そっちに行かないで……」
 リーザ。
 化け物に食い殺された、哀れな娘。
 セラの幼いころの友にして……彼女が助けられなかった、救えなかった、それどころか不幸にした少女。
 亡き母・シンシアや、ジェイクおじさん……他にも大勢の人々と同じように……
 セラに出会ったばっかりに、何も知らずに、優しくしたがために、彼女は不幸になった。
 そういう意味では、セラが死なせた……見殺しにしたも同然だ。
「ごめん……なさい……」
 許して、とはセラは言えない。
 それを口にすることすら、許されない罪だ。
 睫毛がふるえる。
 セラの瞳から、涙があふれた。
 まぶたからあふれた透明な雫が、少女の白い頬をつたい、枕をぬらした――。
「……」
 セラがうなされながら泣くのを、その頬を涙がつたうのを、ルーファスは黙って見ていた。
 多少、話は聞いてはいても、同じ記憶を共有しているわけではないのだから、セラが心に抱える深い闇など、彼が知りえるはずもない。
 リーザという化け物に食い殺された少女が、セラにとって大切な存在であり、その死を深く悲しんでいるということは、わからないでもない。が、それだけだ。
 誰かのために涙するという行為は、ルーファスには縁遠いものだ。
 涙なぞ流したところで、現実には誰も救えず、ただ自分を憐れんでいるだけだという思いもある。
 ――少年だったあの日、母が絶望と狂気の中で殺され、父が息子である自分の存在を抹消した日から、彼は泣くということを忘れた。
 涙なぞ、放っておけばいい。どうせ、泣いたことすら、目覚めたら忘れているだろうから……ルーファスの心の冷静な部分は、そう囁いてくる。なのに、彼はその手を、セラへと伸ばす。
 きっと、後悔するぞ……
 心がそう囁くのを、薄く笑って、ルーファスは受け入れた。
 ああ、後悔なら、もうしている。
 王宮の中庭で、翠の瞳の少女と出会ってしまったことを、己は後悔し続けるだろう。あの時、出会わなければ、自分は無駄に心を揺らすこともなく、永遠に心を凍らせたままでいられたのに――。
「泣くな……」
 眠っている相手に、声は届かないと知りながら、ルーファスはそう言って、セラのまぶたに手を伸ばす。
 そうして、彼は指でそっと、あふれた涙をぬぐった。
「ん……」
 頬をなぞる指に、セラは睫毛をふるわせ、ゆっくりとまぶたを上げる。
 淡い翠の瞳が、ルーファスを映す。
 いまだ眠りの世界から、きちんと目覚めていないのか、彼女の瞳はちゃんと焦点があっておらず、いまだ夢を見ているかのように、ぼんやりとしていた。
 どこまでも虚ろな意識の中、セラは眠りの世界に片足を引きずられながら、自分の涙をぬぐった男に、かすれる声で問いかける。
「なぁに……?」
 寝ぼけたように、ぼんやりとした表情で問いかけてくる、寝台の上の少女。
 その翠の瞳と目が合ったルーファスは、ふっと微笑を浮かべて、いつなく優しい声で語りかける。
 セラの頬にのこる涙のあとを指先でぬぐうと、彼は甘く、そして残酷な嘘を吐いた。
「まだ眠っているといい……これは、夢だ。ただの夢……目覚めれば、何もかも忘れている。貴女にとっても、その方がいい」
「夢……ゆめ……?」
 ぼんやりとした表情でそう繰り返すと、ゆるゆるとまぶたをおろし、再び眠りの世界に落ちていこうとするセラに、ルーファスは「ああ」とうなずいて続けた。
「ああ、夢だ。下らぬ、起きれば、記憶する価値もない夢だ……そんなことは気にせず、もう少しだけ、今度は悪夢を見ずに眠れ……現実が悪夢ならば、何も夢でまで苦しむ必要はないだろう?」
 彼の言葉が届いたかはわからないが、まぶたを閉じたセラの唇からは、再び、安らかな寝息がもれる。
 ルーファスは腕を伸ばすと、起こさぬようにそっと少女の亜麻色の髪を撫で、涙でぬれたまぶたに、軽く唇を押し当てた。
 それは、ただの気まぐれだった。
 なぜ、そんなことをしたのか、彼自身もよくわからない。
「おやすみ。良い夢を」
 返事がかえらぬことを承知の上で、寝台で眠るセラにそう声をかけると、ルーファスは彼女に背を向け、今度こそ足を止めることなく、扉の方へと向かう。
 そう、これは、夢……起きれば、ただの幻であったように、忘れる夢であるべきなのだ。
 己にとっても、セラにとっても、その方がいい。
 夢でなければ、優しい言葉などかけられぬと、ルーファスは知っている。
 初夜に逃げ出したセラが、あの時、真剣な表情で誰も愛せないと口にしたように……ルーファスも、宰相が送り込んできたセラのことを、しょせん心から信ずることなど、出来はしないのだから――。
 そう考え、彼は自ら、彼女と繋がる扉を閉める。
 遠くない日、ルーファスはその日の己の選択を、深く悔いることになる。
 もし、この時、セラの心の闇に気づいていれば、彼女の言葉に耳を傾けていれば、運命に流されることもなく、またセラを失うこともなかっただろうか……と。
 夢の話だった。
 ――結局、それこそが、果たされぬ夢の話だったのだ。
 今は、そのような未来を知る由もなく、部屋から出たルーファスは踵を返し、そこから遠ざかって行った。


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