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三章  呪いの代償  18


 ……そこには、闇しかない。
 黒に塗りつぶされた世界で、セラはたった一人、地面に座りこんでいた。
 辺りには誰もいない、心臓の音が聞こえそうなほど、静かな孤独に満ちている。
 闇、
 闇、
 黒い黒い闇……どこまでもどこまでも果てのない、そちらへ引きずり込まれそうな、暗闇でしかない其処。
 ぎりぎりと胸が痛いような圧迫感を感じるほど、彼女の周囲は、漆黒の闇に支配されている。
 見渡す限りの漆黒に塗りつぶされた、一切の光の見せない世界で、白い寝衣をまとったセラは、震える両膝を抱えて、頼りなく体を丸め、ただ座りこんでいる。小刻みに震える手足の白さえ、その漆黒の暗闇にあっては、ひどく異質なものだった。
 裸足にひやりとした地面の感触が、やたら生々しく、思わず、吐き気を覚えそうなほどに不快で……
 首を撫でる亜麻色の髪さえ、なぜか耐え難いほどに、気持ち悪くてしかたない。
 小さく震える膝を、両手で無理やりに抑え込んで、セラは己自身にこれはただの夢だ……と何度も言い聞かせた。
 (これは夢、ただの夢……だから、大丈夫……あたしは……あたしはまだ、狂ってはいない)
 そう、これは夢なのだ。
 この周囲を支配する漆黒の闇も、心が押しつぶされそうな圧迫感も、何もかも己の弱い心が見せた幻なのだ。
 ただの夢、起きれば忘れ去るであろう、他愛もない幻のようなもの。
 これはただの夢に過ぎず、一切の光が差さぬ暗闇は、己の罪の意識と汚れた心が生み出した幻影なのだと、そう思うことで、セラは暗闇への恐怖に耐えようとする。
 そうしなれば、己を押しつぶそうな暗闇への恐怖へと、終わりのない孤独に、心をのまれそうになる。
 夢の中でくらい、正気を手放してしまえば楽なのに、不幸なことにセラはまだ正気で、意識に霞がかかることもなく、いっそ不愉快なくらい頭は冴え冴えとしている。それは、彼女にとっては不幸なことでしかなかったけれども……。
 今にも自分を引きずり込みそうな闇から逃れたくて、セラは周囲を見回したが、黒一色に塗りつぶされた世界では、逃げ場は何処にもない。
 右を見ても左を見ても後ろを向いても、その翠の瞳に映るのは、果てのない漆黒の闇ばかりだ。
 諦めたセラは小さな吐息をもらし、そっと瞼を伏せ、ますます強く膝を抱えこむ。
 己の身を守るように、少しでも闇から逃れようとするように、それが無駄で愚かな行為であると十分に知りながらも。
「誰か……」
 少女の唇がかすかに動き、声にならぬ声を、叫びにならぬ叫びをもらす。
 そんなセラの呟きに応えたように、誰の姿も見えぬ暗闇の中から、ふいに「セラ……」と声がした。
 どこか無邪気で……幼い、舌ったらずな子供の声だ。
 己の名を呼ぶ声に、セラは驚いたように顔を上げ、瞳を大きく見開いて、どこか怯えた表情で首を左右に振る。
 セラ、と己の名を呼んだ声の主を探しても、その翠の瞳には何処までも続く、暗くて深い闇だけしか映らない。
 誰もいない、誰もいない、漆黒の闇。
 それなのに、そのはずなのに、ただ声だけが聞こえる。
 暗闇を見つめる彼女の耳に、再び、その声が響いた。
「セラ……」
 幼く、何処か夢見るような、小さな子供の声。
 同時に、くすくすと楽しげに笑う声が、暗闇に響く。
 ――無邪気なその声が、どこまでも不吉なものに感じられるのは、一体、なぜなのだろう?
 はっきりとは思い出せない。でも、セラにとっては昔、小さな子供の頃に、聞いた覚えのある声だった。
「……」
 これは、ゆめ……ただの夢……自分の心が見せた、幻なのだ。
 ひたすら己にそう言い聞かせながら、セラは震える手足を引きずり、ふらふらと覚束ない足取りで歩き出した。
 裸足の足が、とてつもなく重く感じる。
 そうして、夢の中だというのに青ざめた顔色で、彼女は周囲の暗闇を見回す。
「セラ……」
 誰の姿も見えない、でも、その声だけが耳から離れない。
 果てのない暗闇に響く、幼い子供の声と無垢な笑い声が、とてつもなく恐ろしい。
 くすくす、という無邪気な笑い声が、ゆっくりとゆっくりと、セラの心を侵食していく。
 悲鳴を上げる気力も、耳をふさぐ力も、もう残っていなかった。
 だぁれ……?誰なの……?
 問いかけの言葉は、彼女の喉の奥からこぼれることなく、ただ、ひゅうひゅうとした乾いた音にしかならない。
 なぜなら、セラにはもう、わかっていたからだ。自分の名を呼ぶ、その声が一体、誰のものであるのか、彼女が……なぜ、自分を呼んでいるのか。
 くすくすという、無邪気な子供の笑い声が、セラにはまるで、容赦のない断罪のようにすら思えた。
 (ああ、あたしにはわかる……わかりたくないけど、けれど、わかってしまう……)
 (この声は、きっと……)
 (あの子の……)
 かたく目をつぶり、耳をふさぎたい気持ちにかられながらも、セラはそうすることが出来なかった。
 そんな少女に向かって、背中から「ねぇ……」と親しげな声がかけられる。
 ――子供の頃と同じ、懐かしい声だった。
「ねぇ、ほら、こっち向いてよ。セラ……いっしょに遊ぼうって、あの日、約束したでしょ?」
 そう言って、背中から声をかけてきた相手は、くすくすと楽しげに笑う。
 明るく、無邪気なその声に、手足が震えるのは何故だろう?
 胸に悲しみと苦しみとも後悔ともつかぬ、重苦しいものが宿るのは、どうしてだろう?
 そう思いながら、セラはうつむいて、足下の闇を見つめる。その答えを、彼女は知っていた。いっそ知りすぎるほどに、己の罪を知っていた。
 振り返らない彼女を振り返らせようとするように、背中からもう一度、セラ、と名を呼ばれる。
「ほら、早く、こっちを向いてよ。セラ……私たち、友達でしょ?子供の頃、よく一緒に遊んだじゃない」
 友達。
 幼く、無邪気な声で紡がれる言葉に、セラは手のひらにきつく爪を立て、小さく身体を震わせる。
 叶うなら、振り返りたくない……でも、そんなことは許されない。
 ……私たち、友達でしょ?
 彼女を促すように、背中から声がかけられる。
 セラは嘆息し、悲愴な覚悟を決めると、細い首をかたむけ、ゆっくりと後ろを振り返る。
 少女が見たのは、真っ暗な闇……でも、それだけではない。
 先ほどまで誰もいなかったはずの暗闇に、黒く塗りつぶされた世界の中に、セラの見知った顔が立っていた。
 彼女の腰くらいまでしかない、小さな子供の姿。
 淡い栗色の髪を白いリボンで結い、無邪気な微笑みを浮かべた、可愛らしい女の子。
 友達でしょ?といったその女の子は、大きな瞳で、こちらを見ている。
 ――記憶に残る彼女と同じ、何年も前と変わらぬ、子供の姿。
 ああ……不思議なことだ。
 現実では、彼女はセラと同じ年の少女で、こんな風に子供だったのは何年も前のはずなのに、いや……それどころか、もう化け物に無残に食い殺されてしまっているのに、セラの目に映るのは、昔と全く変わらぬ、彼女の姿である。
 あれから何年もの月日が流れているのに、その姿は子供だった頃と同じ、何も変わっていない。
 これが、ここが現実の世界ではなく、夢の中であるという証なのだろうか……。
 目の前に突き付けられた残酷な悪夢に、苦しげに眉を寄せ、唇を噛み締め、目を伏せていたセラは、やがて諦めたように顔を上げ、憂い顔で唇をひらく。
 そうして、淡い栗色の髪をリボンで結んだ女の子の名を…今は亡き幼馴染の名を呼ぶ。
 物音ひとつしない暗闇の中、その声は切なく、また悲しく聞こえた。
「――リーザ」
 セラが名を呼ぶと、栗色の髪の小さな女の子――リーザは「セラ」と言い、にこっと嬉しそうに微笑む。
 子供の時、幼かったセラの手を引いてくれた時と同じ、優しい笑顔だった。
 そんな優しい笑顔ですら、彼女、リーザがすでにこの世のものではない、死者であることを思えば、どこか薄ら寒く思える。
 幼い頃、遠くから来たよそ者であるセラが近所の子供たちの輪に入れなかった時、リーザは優しく、彼女の手を引いてくれた。
 友達だと言って、いつも手を繋いでくれた。
 小さくて、でも、あたたかくて優しかった、繋いだリーザの手のひら。
 今も、あの手はあたたかいのだろうか、それとも……化け物に食い殺され、死者となった今、あのリーザの手は、昔とは違い、氷の如く冷たいのだろうか……?
 そう思うと、セラはすぅ、と背筋が凍るような思いがした。
 幼い頃、仲の良い友達だったセラとリーザの間には、気がつけば、どうしようもなく深い溝が生まれていた。
 生者と死者という、この世にある限り決して分かり合えない、昏き冥府の川にへだてられた、深い深い溝が。
「セラ……?」
 子供の姿をしたリーザが、きょとんとした顔で首をかしげ、セラを見つめてくる。
 その表情は、生きていた頃と何も変わらず、彼女の死さえ悪い夢ではないかという幻想を抱かせる。全てが夢で、化け物など何処にもいなくて、誰も呪われたりしていない……そんな都合の良い夢に、心地よい幻にひたりそうになる。
 ……そんなことはあり得ないと、悲しいほどにわかっていても。
「どうしたの?……また泣いてるの?セラ……はあ、相変わらず、泣き虫ね。ほら、手を繋いであげるから」
 はい、とこちらに手を差し出してくる、栗色の髪の女の子はあまりにも記憶の中と同じで、胸にこみ上げてくる感情に、セラは肩を震わせた。
 暗闇の中で差し出された手、もし、今も昔と変わらず、その手を取ることが出来たら、どんなに良かっただろう。
「……っ!リーザ……」
 出すべき声は嗚咽にまみれて、上手く言葉にならなかった。
 夢の中だというのに、セラは瞳には涙がにじんでいた。
 こんな再会は少しも望んでいなかったと、泣きそうになりながら、セラは思う。
 幼い頃に、別れてしまった、優しい幼馴染。
 いつか、また会えたら良いと願いつつも、その面影は遠い思い出の中にしかなくて、でも、それは数少ない、あたたかい記憶だった。
 たとえ、二度と会えてなくても、リーザがセラのことなんて忘れてしまって、子供の時のことなんて覚えていなくても、それでも構わなかったのだ。あの子が、リーザが幸せで、元気に暮らしていてくれれば、それだけで良かった。ただ、それだけで。
 それなのに、それなのに……どうして、そんなささやかな願いが叶わなかったのだろうか?
 運命はいつだって、皮肉で……そして、残酷だ。
「ほら、そんな悲しい顔していないで、一緒に遊ぼうよ……あの日、遊ぼうねって約束してたのに、セラ、シンシアおばさんと一緒に何処かに行っちゃったんだもん……私、ずっと心配してたのよ。セラがさよならも言わずに、何処か遠くに行っちゃったから……」
 一緒に過ごしたあの時から、何年もの月日が流れているというのに、まるで子供時代の続きのように、リーザはそうセラに語りかける。
 幼い子供の姿をしたリーザは、気がついていないのだろうか?
 向かい合うセラが、もはや、どうしたって子供とは言えない姿をしていることを。
 幼友達だった二人の間に、生者と死者という、どう足掻いても埋められない溝が出来てしまったことを、見ないふりをして、目を背けているのだろうか……そんなリーザが哀れで、どうしようもないほど苦しくて、セラは口元に手をあてた。
「私、ずーっと長い間、待ってたのよ……セラとシンシアおばさんが、何も言わずに遠くに行っちゃった後、いつか戻ってくるのを信じて、待っていたんだからね!」
 子供の時、何も言わずに逃げるように、引っ越したセラと母親のことを、薄情だと言っているのだろう。
 両手に腰をあて、少し不機嫌そうに言うリーザは、涙が出るくらい子供の、昔のままで、セラの視界がにじんだ。
 翠の瞳からこぼれでた涙が、ぽたり、と頬をぬらす。
 セラは白い寝衣の袖で、涙でぬれた頬をぬぐうと、「……ごめんなさい」と記憶と同じ、栗色の髪をした小さな女の子に謝る。
 謝られたリーザは、ふぅと息を吐いて、仕方ないという風に首を横に振る。そうすることで、髪を結った白いリボンが、ゆらゆらと暗闇に揺れた。
「もういいわ。こうして、また会えたんだもの。セラのこと、許してあげる……それより、こっちに来て、一緒に遊ばない?ね?」
 機嫌を直したように、リーザは笑顔でそう言うと、こっちに来て、という風に手を振る。
 彼女のいる方では、終わりの見えない闇が、まるで冥府の門の如く、こちらを飲み込もうと口を開けているようだった。
 そんなことに気づきもしないように、どこまでも無邪気な微笑みを浮かべるリーザに、悲しい目を向けて、セラはゆっくりと静かに首を横に振る。
 違うの、と彼女は言った。
「ううん、違うの……リーザ、子供の時、黙って姿を消したことは、悪かったと思ってるわ。貴女に心配をかけたことも、ごめんなさい。でも……今、謝りたかったのは、もっと別のことよ」
「謝りたかったこと?」
「ええ、許してほしいとも、貴女に許してもらえるとも思わないけれど……聞いてくれる?リーザ」
 幼い姿で首をかしげるリーザに、セラはわずかに膝を折り、目線を合わせるようにすると、泣く寸前のような、何とも儚げな笑みを浮かべて、精一杯、優しい声で言う。
 ……わかっている。
 リーザはもう死んでしまって、会うことは出来ないはずだと、だから、これは自分の罪の意識が見せた幻なのだと、セラは知っている。
 それでも、夢の中だとしても、ごめんなさい、とそう謝らずにはいられなかった。
 ――たとえ、永遠に、彼女に届くことはないとしても。
「貴女を……助けられなくて、ごめんなさい。リーザ」
「……」
 絶対に許してもらえないと知っていて、セラはごめんなさい、とそう言った。
 幼い姿をしたリーザは、否、セラの罪の意識が生み出した幻影は、ただ無言で、こちらを見つめてくる。
 答えが返らないのを承知の上で、セラは更に言葉を重ねた。
「貴女を……あんな風に死なせてしまって、ごめんなさい」
「……」
「貴女を呪いに巻き込んでしまって、ごめんなさい。リーザ……許されるとも、償えるとも思わないけれど」
 そう、己の罪は重すぎて、どうあっても、それを償うことはおろか、許しを乞うことさえ許されないと、セラは思う。
 苦悩しながらも、必死に自分を愛そうとしてくれた母も、優しかったジェイクおじさんも……そして、リーザさえも化け物に殺され、大切な人は皆、彼女の前から消えてしまった。誰しも皆、セラのせいで、あんなことになってしまったようなものなのだから……。
 ごめんなさい。
 謝ってもどうにもならないと知りつつ、ごめんなさい、と謝り続けるセラに、それまで黙っていたリーザが、何が可笑しいのか、ふふ、と笑い声を上げる。
 その笑い声に、セラはびくっと一瞬、身を震わせた後、ひどく複雑そうな表情で、笑い声を上げたリーザを見つめた。
 栗色の髪の女の子は、何が可笑しいのか、ふふ、と笑い続ける。
 それまでの幼さはなりをひそめたような、どこか大人びた、子供らしくない笑い方だった。
「ふふ、変なの。セラってば、変なこと言うわね。それじゃ、まるで……」
 セラの視線を受け止めてなお、リーザは「ふふ」と笑い声を上げ続け、おかしくてしょうがないとでも言いたげに言う。
「それじゃあ、まるで……私が、もう死んでしまっているみたいじゃない?」
 急に大人びたような、本来の年相応のしゃべり方だった。
 本当におかしそうに、まるで冗談か何かでも聞いたかのように、リーザはくすくすと喉を鳴らす。
 音らしい音のない暗闇の中、その笑い声だけが、いつまでも耳に残る。
「リーザ……」
 何かのタカが外れたかのように、いつまでもいつまでも笑い続ける栗色の髪の女の子から、セラは目を逸らすことが出来なかった。
「ふふ……そんなことより、早く、一緒に遊びましょうよ?セラ……ほら、早く」
 そう言って、リーザは笑うのを止めると、くるくると踊るように走り回り、一度、立ち止まって振り返ると、笑顔でセラへと手を伸ばす。
 セラが、その手を取ることを躊躇し……葛藤の末に、恐る恐る、その小さな手を取ろうとした瞬間、その手はサッ、とひっこめられた。
 彼女が驚いて、翠の瞳を大きく見開くと、栗色の髪の女の子は「あははっ!」と楽しそうに笑って、セラに背を向けると、暗闇の中を駆けだした。
 あまりのことに呆然としているうちに、その小さな背中が、どんどん遠ざかっていく。
 我に返ったセラは慌てて、漆黒の闇の中、どんどん遠ざかり小さくなっていく、リーザの背中を追いかけた。
「ま、待って……!どこに行くの?リーザ、お願いだから、お願いだから、待って!」
 走っても、走っても、なかなか二人の距離は縮まらない。
 それでも、闇のみに支配された世界の中、不思議なことに、前を走る小さなリーザの背中を、セラが見失うことはなかった。
 距離は一向に縮まらず、だが、離されることもない。
 靴もはいておらず裸足で、しかも長い寝衣を半ば引きずっているのに、いくら走っても、セラが息苦しさを感じることはなかった。……これも、夢だからだろうか?
 走っても、走っても、前の小さな背中に追いつかない。
 息苦しさも、疲労も感じない……ただ心だけが焦燥に、辺りの闇にのまれそうになる。
 その時、リーザを追いかけていたセラの顔色が、一瞬で変わった。
 足を止め、その場に立ち尽くし、彼女は蒼白な顔で叫んだ。
「止めて、リーザ!」
 ――前を走る、栗色の髪の女の子が走る先、そこに道はなく、周囲を支配する漆黒の闇ですらなく、まるで崖のように、そこで全てが途切れていた。
「行かないで!リーザ、その先は行っちゃ駄目っ!お願い、止まってえええ!」
 どこまでも果てしなく続くように思えた、暗闇の世界。
 しかし、リーザが走る先は、もう暗闇ですらなく、まるで崖のようで……その先には、何もなかった。ただ真っ白なだけで、光も闇も何もない。
 その先に行けば、もう二度とこちらの、生者の世界には戻って来れないと、セラは本能で察する。
「お願い、行かないで……!そっちに行っちゃ駄目……」
 何度も何度も、声が枯れるように叫びながら、セラはリーザの小さな背中に向かって、必死に手を伸ばず。
 これは夢だと、ただの悪夢だとわかっていても、彼女はそうせずにはいられなかった。
 セラの必死の叫びが届いたのか、前を走っていたリーザが、崖のようなものに落ちそうになる瞬間、ぴたりと足を止めた。
 そうして、ゆっくりとこちらを、セラの方を振り返る。
「どうして、止めるの?もう今更、なにもかも遅いのに……」
 そう不思議そうな口調で言いながら、後ろを振り返ったリーザの姿はもう、幼い子供の姿ではなかった。
 本来の年齢、十七、八かそこらの少女の姿だ。
 淡い栗色の髪の、清楚で可愛らしい印象の娘……ただし、化け物にえぐられた、顔の片側を見なければ。
「ヒッ……ぁ……」
 振り向いたリーザの姿を見た瞬間、セラは小さな悲鳴を上げ、半歩、後ずさった。
 立って、こちらを見るリーザの姿は……あの時、クラリック橋のところで見たのと同じ、ひどく凄惨なものだった。
 片手と片足は食い千切られ、全身に獣の歯型がついており、首も半分ほどの肉がえぐられている。
 顔の半分は無事なのに、もう半分は無残に食い散らかされており、左目のあったはずの場所には、黒い空洞がさらされいた。
「……は……ぁ……」
 前に一度、目にしているとはいえ、思わず、目を背けたくなるような無残なリーザの姿に、セラは荒い息を吐いて、こみ上げてくる吐き気に耐えた。
 (怖い、怖いっ、見ていられない!)
 哀れだと、可哀想だと思わぬわけがない。でも、それを上回り、逃げろと、見てはならぬと本能が警鐘を鳴らす。
 逃げる気にはないにも関わらず、己の意思に反して、一歩、後ずさったセラに向かって、無残にえぐられた手足をひきずりながら、リーザが歩み寄ってくる。
 生者とも死者とも言い難い、その身体から、無視できない死臭がただよった。
「ねぇ、セラ……」
 一歩、一歩、こちらに歩み寄ってくるうちに、そんなリーザの身体に異変が起こる。
 歩くたび、その身体がまるで砂のようにサラサラと、もろく崩れていくのだ。手や足、半分になった顔、肌……それらが全て、まるで幻だったかのように、サラサラと音もなく崩れていく……
 全てが崩れ去った後、もはや骸骨と成り果てたリーザが、憎しみや恨みではなく、ただ純粋に不思議そうな声で、セラに問いかけた。
「――なんで私が死んで、貴女が生きているの?」
 ――ナンデワタシガシンデ、アナタガイキテイルノ?
 それを聞いたセラが、喉の奥からああああ!と、言葉にならない悲鳴を上げた。
 次の瞬間、先ほどまでリーザだった骸骨が、またサラサラと砂になり、ほんの一瞬で全てが崩れてしまう。
 そうして、崩れた後には、何も残らなかった。何も。
「あ……」
 暗闇にただ一人、再び、取り残されたセラは呆然と、もはや叫ぶだけの力さえなく、全ての気力が尽きたかのように、膝を折って、その場に座りこんだ。
 涙さえ、もう枯れ果てて……その翠の瞳はただ、うつろに闇を見つめ続けるだけだ。
 ……疲れた。
 もう立ち上がるだけのわずかな力さえ、彼女には残されていない。
 虚ろな表情で暗い闇を見つめながら、これが悪夢ならば、早く覚めて欲しいと、心の底からセラは願う。
 そうでなければ、いっそ、この全てを支配するような暗闇が、自分の存在をも飲み込んでくれないか、と。
 これは、ただの夢……悪夢?……それとも、己の心が見せた幻……
 終わりの見えない悪夢に、果てのない暗闇に、セラが心をのまれそうになった時だった。
 ふいに、何処からか声が聞こえた。
『泣くな……』 
 どこか戸惑うような、なぐさめることなど慣れていないような、そんな声に、地面に座りこんだ少女は「いやいや」と言いたげな仕草で、頑なに首を横に振る。
 泣いてない。……泣いてなどいない。
 今の自分には、涙を流す力さえ残されていなのだから、とセラは思った。
 そんな彼女に、誰のものだかわからぬ声はもう一度、諭すように語りかける。
『……これは、夢だ』
 夢?
 ……本当に?
 これが夢ならば、いつかは覚めるのだろうか、あたしはこの暗闇から抜け出せるのだろうか……。
 夢だと、そう断言する声は、救いのようにすら思える。
 一切の光が差さぬ暗闇の中に、たった一筋の光を見出した気がして、セラは恐る恐る、伏せていた顔を上げた。
 そんな少女の耳に、低く、冷ややかな、それでいながら、どこか突き離しきれない響きを持つ声が、頭上から降ってくる。
 ――ひやりとした指先が、そっと頬を撫で、涙をぬぐってくれた気がした。
 甘くはない、だが、どこか優しさに似たものを感じさせる声と、涙をぬぐってくれた指先に、なぜか安らぎのようなものを感じて、セラは涙の雫にぬれた睫毛を伏せ、ゆるゆるとまぶたをおろす。
 その頬を撫でる指先に、瞳を閉じた彼女は、ああ、ひとりじゃない……と安心する。
 暗い悪夢の中でたったひとり、孤独に打ち震えていたセラにとって、それは他の何ものにも代えがたい、唯一つの小さな光だった。
 安心して、ようやく安らかな眠りの世界に落ちていこうとする彼女に、涙をぬぐってくれたその人は、更に言葉を重ねる。
『もう少しだけ、今度は悪夢を見ずに眠れ……現実が悪夢ならば、何も夢でまで苦しむ必要はないだろう?』
 その言葉は不思議と、セラの心に響いた。
 少しだけ……ほんの少しだけ、悪夢を見ずに眠っても、そうすることは許されるのだろうか……
 起きたなら、現実から目を背けたりしないから、あの化け物のこともリーザのことも、決して忘れたりしないから……少しだけ眠っても、眠ってもいい……
『おやすみ。良い夢を』
 セラの頬にふれた指先が、優しく、どこか愛おしさすら感じるような手つきで、彼女の、長い亜麻色の髪を撫でていく。
 そうして、涙にぬれた少女のまぶたにそっと、何かあたたかいものがふれた。
 ――おやすみ、良い夢を。
 その言葉を最後に、セラの意識は、深い深い眠りの底へと落ちていった。


「ぅ……ん……」
 永遠のような悪夢も、いつかは覚める。
 寝返りを打ったことで、セラは何度か瞳を瞬かせ、ぼんやりとした焦点の合わぬ瞳で周囲を見回すと、ようやく目を覚ました。
 彼女はゆっくりと身を起こし、寝台に腰かけると、あたしはどれくらい寝ていたんだろう……と未だ霞がかかったような頭で考える。
 気分が優れず、夕方、まだ日が沈みきらぬうちから、寝台でふせっていたセラだったが、今、彼女の目に映る部屋の様子は、先ほど眠りについた時より、あきらかに暗い。
 しかも、薄く透けるような寝衣のままでは、ひんやりとした肌寒さすら感じる。
 (もう、たぶん夜……だよね?)
 そう思うと、薄い絹の寝衣に包まれた身体が、急に寒くなってきた気がして、少女はぶるっと身を震わせ、己の肩を抱く。
 セラは手近にあったガウンを肩にひっかけると、寝台からおり、それを確かめるために、窓辺へと歩み寄った。
 レースのカーテンをひいて、ついでとばかりに窓も開け放った。
 窓を開けると、もう夜であることを彼女に教えるように、暗い夜空が目に飛び込んでくる。
 そうした瞬間、夜風が部屋の中に勢いよく吹き込んできて、バタバタとカーテンをまるで生き物のように揺らし、少女の長い亜麻色の髪をも踊らせた。
 開け放った窓――そこから見えるのは、夜に覆い尽くされた王都の街並みと、細々としたいくつかの酒場の灯り、道の端でニャアニャアとうるさく鳴く黒猫……
 そして、夜空に浮かんだ、あかい、あかい……赤い月。
 夜風が髪を乱すのも、まるで気にも留めてないように、セラは開けた窓を閉めることもせず、何処か呆けたような表情で、その赤く見える月を仰ぎ見た。
 翠の瞳が映すは、赤い、まるで血のように赤い月だった。
「月が……」
 小さく息を呑んで、赤い月を見上げた少女は、そう呟いた。
 光の加減だろうか、今宵の月は、いつになく赤みをおびて見える。
 その赤い月は嫌でも――流された血を、あの化け物に無残に殺された犠牲者たちのことを、死んでしまったリーザのことを連想させた。
「……っ」
 それ以上、血のような赤い月を見ていることが耐えがたくて、セラは目を逸らし、唇を噛んだ。
 (何とか……何とかしなきゃ……)
 自分の力で止められるかわからないが、それでも化け物の凶行を止めなければならないと、彼女は思う。
 幼馴染のリーザを、あの人食いの化け物から助けられなかった後悔は勿論、これ以上、あの化け物の犠牲者を出すことは出来ない。
 それに、もし、あの人食いの化け物が、呪いによって生み出されたものならば、《解呪の魔女》と呼ばれるセラにとっても、決して無関係ではないのだ。
 あの化け物を止めなければ、どんな手段を使っても。
「……」
 最初に、セラの頭に思い浮かんだのは、師匠であるラーグの顔だった。
 (ラーグに頼ろう……)
 (あの化け物と対峙するって言ったら、最初はあまり良い顔をしないかもしれないけど……)
 (でも、きちんと説得すれば、きっと協力してくれる……)
 弟子であるセラが危険の渦中に飛び込むことを、おそらく、あの金色の魔術師は歓迎はしないだろう。
 子供の姿に似合わず、思慮深げに眉をひそめる顔が、想像できる。
 ただ、それでも、ラーグは彼女に協力してくれるはずだ。彼はセラの置かれた立場を、誰よりもよく知り尽くしているし……それに、探し求めている“鍵”のためだと思えば、すげなく断ることはしまい。
 問題は……ルーファスのことだった。
 軽く目を伏せ、セラは彼の、怜悧な印象を受ける横顔を思い浮かべる。
 ルーファスがあの化け物について、何かを調べているらしいことは、なんとなくではあるが、彼女も気がついている。
 あの自分を助けてくれた、赤髪の騎士が屋敷に来た日から、ルーファスが色々と動いているらしいことも、薄々は察していた。
 聡明にして慈悲深いと言われる、王太子殿下の側近として、重用されている彼のことだ。
 今回の化け物の事件も、王太子殿下のお耳に入れば、おそらく無関心ではいられないだろう。
 その為にも早く、あの化け物をどうにしかたいと、そう考えているのかもしれない。
 (どうしよう……ルーファスにも相談するべきなのかな?でも……)
 叶うなら、力を貸してもらいたい。けれど、これ以上、ルーファスを呪いに、危険に巻き込みたくはない。
 聡い彼のことだ。彼女の考えていることぐらい、すでに見通しているかもしれないが……。
 それでも、手段を選んでいられない以上、答えはすでに決まっていた。
 深く息を吐いて、セラは寝衣の左の袖をめくる。
「あぁ……」
 光沢のある絹の袖があげられて、白い腕が月光に照らされた。
 左腕には、黒い鎖のような模様が、ぐるぐると螺旋を描きながら、何重にも巻きついている。
 心なしか、その鎖の模様が前よりも、少しだけ濃くなっているような気がした。
 少女の気のせいかもしれない、けど、気のせいとも言い切れない。
 この鎖が肌を黒く染め、己の魂を食い尽くすまで、一体、どれほどの時間が残されているのか……考えたくないのに、考えてしまう。
 (あたしは、いつまで……)
 セラは軽く首を横に振り、その考えに深く囚われる寸前で、何とか踏み止まる。
「……」
 暗い想像を振り払うように、セラはごしごしと、涙ではれぼったくなった目元をこする。
 ふと気がつけば、涙で濡れた頬は、もうかわいていた。
 夢か現か、ぼんやりした記憶の中で、誰かが涙をぬぐってくれた気がする。
『泣くな……』 
 どこか戸惑うような、誰かの声と、そっとふれた優しい指先、髪を撫でてくれた。夢か現か、ただの夢かもしれないけれど……
 左の袖を戻すと、彼女は衣装棚の方へと歩く。
 強く吹いた風が、カーテンをゆらゆらと揺らし、窓枠をもカタカタと鳴らす。
 それに背を向け、藍色のドレスに着替えたセラは、部屋の外へと出て行った。


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