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三章  呪いの代償  19


 うかつな足音を立てぬように、そぉ……と、セラは一歩、廊下に足を踏み出した。
 もう夜も更け、すでに屋敷で働く大半の使用人たちが寝静まった今、長い廊下は暗く、些細な物音ひとつすら響き渡るような、そんな静けさに満ちている。
 闇に閉ざされた廊下で、頼るべきものは、窓よりさす一筋の月光のみだ。
 ごくっ、と唾をのむと、翠の瞳を何度か瞬かせ、廊下の暗がりに目を慣らしながら、セラはそろりそろりと廊下を進む。
 暗がりと、己の鼓動すら聞こえそうな、重苦しいまでの静寂の中を。
 その表情はひどく真剣で、また、その様はいささか滑稽な程ですらあったが、当人は至極、大真面目だった。
 息をひそめ、靴音を立てぬようぬよう慎重な足取りで、時折、柱に手をついたりしながら、人目を隠れるように歩く彼女の姿は、老執事なり従者の少年なり……もし、屋敷の誰かが見咎めれば、間違えなく、怪訝そうに眉をひそめたであろう。
 なぜ、そんな隠れるように?――と。
 そう首をひねったはずだ。
 妾腹とはいえ、王女とは思えないような気さくな振る舞いと、ときに身分を全く気にかけないような言動を取るセラは、屋敷の使用人たちの大半から、「……我らの奥方様は、穏やかで気さくだが、少々、風変りな方でいらっしゃる」との、何とも言い難い評価を受けてはいたが、それでも彼女は、このエドウィン公爵家の当主である青年の、たった一人の妻である。
 降嫁した王女という、複雑な立場はともかく……この公爵家において、当主であるルーファス、そして、先代の当主である彼の父を除けば、奥方である彼女、セラの行動を咎められる立場の者は、誰も存在しない。
 それにもかかわらず、屋敷の奥方であるセラが、こうも人目を忍ぶようにしているのは――ひとえに、今の己の姿を、誰にも見られたくないからだ。
 己によく仕えてくれる女中のメリッサにも、忠実なる老執事にも、気のいい女中頭であっても、その他の誰であっても……自分が部屋を抜け出しているのを、知られたくない。
 今から会いに行く相手、ただ一人の他には。
 彼、この屋敷の主人である青年、ルーファスの他には、今、誰に会うことも避けるべきだった。
 夜の時刻でも、交代で見回りを行う、寝ずの番の女中や下男たちは起きている。
 空咳ひとつ、物音ひとつ、わずかなりとも不審な音を聞きつければ、寝ずの番をしている彼らが、すぐさま風のように、ここに駆けつけてくるだろうことは、疑いようもない。
 そんなことになったら、何とか上手く、不信感を抱かれずに、その場を乗り切る自信も、あるいは筋の通った言い訳が口にする自信も、セラには全くなかった。
 そもそも、こんな夜更けに廊下をうろうろしている時点で、一体、何をしていたのかと、疑惑の眼差しを向けられること、必至である。
 何とか、そうならないことを祈るしかない。
 (どうか、どうか誰にも見つかりませんように……)
 ゆえに、セラはひたすらに足音を殺し、ほんのわずかな物音すら立てぬように、細心の注意を払いながら、暗い廊下を歩いていく。
 そんな少女の祈りが通じたのか、彼女は幸いにも、誰に見咎められることもなく、目的の扉の前へとたどり着いた。
 双剣と片翼の鷲の――エドウィン公爵家の紋章が刻まれた、重厚な扉、ルーファスの私室の前へと。
 そこは、当主の執務室及び、書斎にして、なおかつ仮眠を取るための部屋でもある。
 公爵家の当主として、また王太子殿下の補佐として、多忙な日々を送るルーファスは、己の寝室や、また当主夫妻の為の寝室ではなく、こちらの部屋で眠ることがよくある。
 互いに過度な干渉を避けるように、政略結婚とはいえ、夫婦であるにもかかわらず、一向に寝室を共にしようとしない、セラとルーファスに、好奇の視線を向ける使用人もいないではなかったが、それを表だって口にできる命知らずがいないのが、現実だった。
 形式上の夫婦であること、それを望んだ少女は、無言で扉の前に立ち、暗がりにあって何処か不思議な光彩を放つ、翠の瞳でそれを見つめる。
「……」
 セラはいつものように、軽く扉を叩こうと、にぎった拳を上げかけ、ふっ……と何かに気づいたように、その手をおろす。
 彼女はうつむいて、ためらうように眉根を寄せる。
 中で寝ているかもしれない、ルーファスを起こすことを、案じたからではない。
 いや、それもないわけではないが、それ以上に、たとえ扉を叩くわずかな物音であっても、それを聞きつけた女中が起きてくることを、あるいは不審に感じた夜番の下男が、当主の部屋まで駆けつけてくることを、セラは恐れた。
 かといって、何も言わずズカズカと部屋に踏み込むのは……ルーファスに迷惑だとか、彼に失礼だとかいう問題も多々あれど、以前、同じことをしでかした際に、刺客と間違えられた経験がある。
 刺客を警戒しなければならない、ルーファスの立場を気の毒がりこそすれ、いくら事情があったとはいえ、黙って彼の部屋に入った、あの時の己に非があることを自覚しているセラは、刺客と間違えられたことも、腕をひねりあげられたことさえ、悪かったなとは思っても、恨む気持ちは微塵もない。
 むしろ、他者から命を狙われることもある身を、それを当然のように受け止める青年を、不憫にすら感じる。
 ただ……もう一度、同じ轍を踏む気に、彼女はなれなかった。
「……」
 息をひそめ、扉に手を伸ばし、再び、ためらうように手をおろす。
 行き場をなくした腕は、所在なさげに、幾度か虚空をさまよう。
 そんな無為な動作の後、闇に浮かぶような白い手は、覚悟を決めたように扉のノブに手をかけた。
 小さな吐息をもらし、セラは軽い力を加えて、扉を押す。あくまでも慎重に、細心の注意をしながら、かすかな音すら立てぬよう……
 そうして、ほんの少し、親指ほどの隙間ができたところで、少女は手を止めた。
 扉の内と外に出来た、親指ほどのかすかな隙間。
 セラがそこに顔を近づけると、部屋の中、薄暗い室内の奥深く、ゆらりゆらり、赤々とした炎が揺れていた。
 よくよく目をこらせば、それが机の上に置かれた、燭台のものであるとわかる。
 視界の端で、ゆらゆらと揺れる蝋燭の炎を、セラは軽い驚きを持って見つめた。
 (ルーファス……。まだ起きていたんだ……?)
 もう夜も更けた時刻だというのに、ああして蝋燭の炎が揺れているということは、起きて、何か仕事をしているのだろうか。
 その疑問に答えたわけでもなかろうが、セラの耳に、部屋の主である青年のカリカリとペンを走らせ、文字を記していく音が飛びこんでくる。
 インクの匂い、手元を照らす蝋燭の炎、カリカリと小刻みに紡がれるペンの調べ、時折、はらりはらり、と書物の頁をめくる音。
 静かな部屋は、それらに支配されている。
 止まることなくペンを走らせる音、扉の隙間から見える、ページをめくる男の骨ばった指先、ツン、と鼻につくようなインクの匂い……それらが崩してはいけないような、また近寄りがたいものにも思えて、セラはそれ以上、扉を押すべきか迷う。
 一度、ノブを掴みかけた手が、力なく離れた。
 (こんな夜遅くまで……昼間は昼間で、いつも忙しそうに働いてるのに、疲れないの?)
 名目上は夫婦とはいえ、実際、セラはルーファスのことをよくは知らない。つい数か月前まで、赤の他人だったのだから、それも無理もないことだ。
 しかし、そんな彼女から見ても、ルーファス=ヴァン=エドウィンという青年は、忙しい人ではあった。
 先祖の征服に次ぐ征服によって、広大なる国土を誇る、このエスティア王国において、五指に入る大貴族・エドウィン公爵家の若き当主。
 その責任は重く、果たすべき役割の多さは、改めて語るまでもない。
 心の病にかかった父に代わり、公爵家の当主としての全ての役目、領地の運営やら貴族の義務やら……何人か優秀な補佐役はいるとはいえ、ほぼ全てのことを、ルーファスはたった一人で背負い、こなしている。
 それに加えて、王太子・アレン殿下の並ぶ者なき右腕として、国政にも関わっているのだから、多忙なのも、当たり前と言えるだろう。
 セラが知る限り、太陽が昇っているうちは王宮で働いて、夜は夜とて書斎にこもる日々だ。
 ルーファスがそこまでする理由がなんなのか、宰相ラザールによって牛耳られ、傀儡の国王や腐敗した王国を、どこまでも冷めた目で見ながらも、彼が王宮から離れない理由を、彼女は知っている。
 氷の公爵と評される青年が、ただひとり、忠誠を誓う相手――王太子・アレン殿下、その人の為だ。
 黄金の髪に蒼灰色の瞳の、聡明で凛々しく、しかも慈悲深いと言われる王太子……セラの異母兄。
「……ぅ」
 ほとんど面識もない、異母兄のことを思い、セラは何かに耐えるように、きつく唇を噛んだ。
 昔、遠目に目にした、凛々しく、颯爽とした王太子の姿……まぶたの裏に浮かんだそれを、何度か首を横に振ることで、彼女は打ち消す。胸が痛い。どうしようもなく苦しい。
 どこか暗いところへ、とどめなく堕ちていきそうになる思考を、必死に押しとどめ、セラは部屋の奥に見える、蝋燭の炎を見つめる。
 ゆらゆらと揺れる、頼りない、小さな炎を。
 魔術の師であるラーグならば、もっともっと明るい灯りを、何の苦もなく用意できるだろう。
 赤々と燃える燭台の炎は……人の灯り、魔術も持たぬ人の、ささやかな光だ。けれど、その灯りを見ていると、不思議と心が落ち着いていくのを、彼女は感じる。
 (でも……)
 セラの顔に一瞬、かげりがさした。
 (色々なものを背負って、愚痴も弱音も吐かないって……辛くないのかな)
 いつだったか、執事のスティーブが彼女に教えてくれた、十八のとき、先代の当主である父が遠い地に療養に旅立って以来、祖父の放蕩や父の病によって傾きかけた公爵家を支えるために、ルーファスがいかなる努力をはらってきたか。
 涼しい顔で、ほぼ一切、愚痴も弱音も吐かないが、それが大変でなかったといえばウソになるはずだ。
 辛辣とも取れる言動や、優雅だが冷ややかな振る舞いは、誤解や敵を招くこともあるだろう。何せ、氷の公爵という、畏怖と憎しみと賛辞が、奇妙にいり混じった異名をつけられるほど。
 けれど、それでも王太子殿下がルーファスを右腕として重用するのは、それに恥じない働きをしてきたからのはずだ。だからこそ、確かな信頼があり、主従の絆が存在する。
 王命を振りかざした宰相によって、無理やり押し付けられた妻、妾腹のセラフィーネ王女――己とは違って。
 (あたしは……王太子殿下とは違う)
 うつむいて、細い首に陰影をおとし、セラは睫毛をふるわせた。
 忠誠を誓っている王太子殿下とは異なり、ルーファスにとってセラは、王命という建前の元に、強引に押しつけられた花嫁だ。
 愛情の欠片も存在しない政略結婚であり、彼が望んだわけでも、欲したわけでもないだろう。
 おまけに、セラは王女であるにも関わらず、この王国で最も唾棄されるべき存在……魔女なのだ。
 そして、ルーファスとは形だけの夫婦であり、それ以上の関係にはならないと明言している。これ以上の厄介者は探しても、いないだろう。
 地位も名誉も、見目にも恵まれたルーファスならば、その気になれば、美しく、従順で、面倒事を持ち込まない女性を妻に出来たことだろう。けれど、王家の女を妻にした以上、もうそれは叶わない――
 よく考えるまでもなく、セラは邪魔なモノだ。
 そう考えた途端、急に足が動かなくなって、扉に手をかけることすらしたくなくて、ほんの一歩の距離すら踏み出せなくなる。
「……いや」
 無意識のうちに、セラの唇から、苦しげな呟きがもれた。
 辛辣や皮肉としか言えないことを口にしても、自分をなじることも、邪魔者扱いもしないだけでも、ルーファスは巷で言われるよりも、実際は優しい人なのだと、セラは思っている。けれど、その好意に甘え、利用することに、どうしようもなく……どうしようもなく、良心の咎めを感じる。
 否、本当はもっと自分勝手な理由だ。
 差し出される好意に甘え、あたたかい空気に慣れ、彼の優しさに溺れて、自分が変わってしまうのが怖いだけ。己の罪を忘れ、弱さゆえに、偽りの幸福に溺れてしまうこと……それが恐ろしくて、何より恐ろしくて、たまらない。
 いつか、ひどく後悔するかもしれない、とセラは思う。ルーファスに出会ったことを、逃げ出した初夜、彼の手を振り払わなかったことを――
『戻ると決めたんだろう?それならば、あの屋敷は貴女の帰る家だ。セラ』
 冷ややかなのに、ひどく綺麗な蒼い瞳が。
 差し出された、その手が。
 何気なく口に出された言葉が、何とも言えず、得難いものに思えて――彼の手を拒めなかった。
「……セラ」
 あの時もほら、こんな風に――
「いつまで、そんなところに突っ立っている気だ?俺は、別に構わないが……寝ずの番の誰かに見つかったら、すわ不審者かと疑われるだろうな」
 視線も合わさず、こちらの様子を見通したような、そんな言葉。
 扉の内側から発せられたそれに、いきなり、頭から冷水を浴びせられたような気分になる。
 低く、通りの良い、その声は……ルーファスのものだ。
「ひっ……」
 反射的にのけぞり、小さく悲鳴をあげそうになったセラは、慌てて、手で口元をおさえる。
 驚きのあまり、心臓が止まるかと思ったというのは、いささか言い過ぎだが、予想もしなかった声をかけられ、手で口をおさえた彼女の表情からは、動揺が隠せない。
 (し、心臓に悪い……)
 一度として、カリカリというペンの音は止まず、集中している様子だったので、まさか、ルーファスがこちらに気づいているとは思わなかった。
 扉だって、ほんの少し、親指くらいの隙間しか開けていなかったのに、どうして?……そう叫びたい心情にかられた少女の耳に、再度、彼の声が重ねられる。
「……貴女の言いたいことは、大体、予想がつくが、まずは部屋に入ったらどうだ?セラ……騒いで、ソフィーかメリッサあたりに見られたら、いろいろ面倒だと思うが……?」
 思いっきり動揺するセラとは対照的に、ルーファスはあくまでも冷静に、淡々とした口調で、もっともなことを指摘する。
 ソフィーとメリッサ、女中頭とその姪っ子である少女の名前が出たことで、セラもようやく落ち着いて、我に返る。
 たしかに、こんな夜更けに、黙って部屋を抜け出した上に、暗い廊下をウロウロしているなど、あまり……というか、まったく褒められた行為ではない。
 このところ、頻繁に寝込んでいたセラのことを気遣ってくれた、おしゃべりだが、気風が良く優しいソフィーとメリッサ、あの二人にも更に心配をかけてしまうだろう。それは、どうしても嫌だった。
 状況が状況でなければ、心臓に悪い!と不満の一つや二つも口にしたかもしれないが、ルーファスの言い分はもっともだったので、セラは素直に、彼の言うとおりにする。
 そっと扉を押し、部屋の中に入ると、後ろ手で扉を閉めた。
 ハアと、ため息をつくと、少女は翠の瞳で前を見据えて、次の瞬間、眉を下げ、少しばかり情けなそうな表情で問う。
「い、いつから……?」
 一体、いつから、扉の前に自分がいることに気づいていたの?と、セラはルーファスに問う。
 相も変わらず、整然とした部屋の中、飴色に輝く書き物机に肘をおいて、その端整な横顔を燭台に照らされた青年は、ちらっと彼女の方に視線を向けると、パタンッ、と手にしていた緑の背表紙の本をとじる。
 そうして、彼は蒼い瞳にセラの姿を正面から映すと、何を今更……とでも言いたげな口調で、「いつからも何も……」と、言った。
 常と同じく、感情の読めない冷ややかな無表情、だが、声にはいささか呆れたような響きがある。
「いつからも、何も……貴女が扉に手をかけた時には、気づいていたが、それがどうかしたか?」
「うっ……」
 それって、最初からってことでは……?という言葉を、セラは泣く泣く、涙をのんで口の中でおさめた。
 ルーファスが気配に聡すぎるのが、悪いのだ……などと、八つ当たりじみた台詞を、素面で口に出来るはずもない。
 入りづらくて、勝手に扉の前で立ち尽くしていたのは自分なのだから、文句を言うのはお門違いだと、彼女は思う。
 気づかれていたということに、なんとなく気恥ずかしさを覚えるのは、もはや仕方あるまい。
 言いようのない気恥ずかしさに、わずかに頬を赤くし、セラはルーファスを見上げた。すると、今度は珍しく、ルーファスがつぃと視線を逸らし、横を向いたまま、早口で言う。
「それに……あれだけ、じっと見られていれば、嫌でも気づく」
「……っ!」
 今度こそ、セラは言葉を失い、恥ずかしさと気まずさで口をつぐんだ。
 しばしの間、部屋をどこか気まずい空気がみたす。
 顔を赤くした少女の唇から、「……ごめんなさい」と小さな小さな謝罪がもれるのを聞いて、ルーファスはため息ひとつ、首を横に振る。
 勘違いするな。別に貴女を責めているわけじゃない、と彼が言うと、うつむいていたセラが、ゆぅるりと遠慮がちに顔を上げた。
 先ほどまでの涙の名残りか、彼女の、まだ潤んだような瞳と、青白い肌、折れそうに細い首筋が、妙に目について、ルーファスは眉をひそめた。指先でぬぐった涙のあと、肌にふれた際のぬくもり、己が撫でた亜麻色の髪の感触を思い出し、あらぬ想像を抱きそうになる。
 無自覚ではあっても、女は女だ。甘い蜜のように、男を惹きつける。むしろ、自覚がないほど始末に悪い……なとど、氷の公爵と呼ばれる青年は、口には出さねど、胸中で毒づく。
 ゆらめく蝋燭の炎、少女の亜麻色の髪からただよう、香油の匂いまでもが恨めしくさえ思えた。
 とはいえ、その少しばかり危うい空気は、顔を上げたセラがぼそぼそと「何で、寝てなかったの?ルーファス」と、どこか子供じみた顔で尋ねたことで、あえなく霧散してしまう。
「いや、大した理由じゃない……眠れなかったから、少々、調べものをしていた。それだけだ」
 箍を外さずに済んだ安堵と、少しばかりの落胆と。
 そんなものを身の内に抱えながら、ルーファスがそう言うと、セラは今度はちゃんと視線を合わせ、心配そうな声を出す。
「眠れなかったって……具合でも悪いの?ルーファス」
 自分の事はまったく棚に上げ、本気で心配そうに尋ねてくる少女に、普段、露骨な感情を表に出すことを嫌うルーファスらしくもなく、彼は顔をしかめると「……誰のせいだと思っている」と、いささか不機嫌そうな声で言う。
 頬を伝う涙の雫、やわらかな髪を撫でた指先が、かすかな艶にも似た、暗い熱を持つ……それが言いがかりでしかないと、彼自身も自覚していたが。
 一方、つい先ほどまで、うとうとと眠りの世界にいたせいで、記憶がおぼろげなセラは、ルーファスの葛藤など知る由もなく、困惑気味に「……は?」と、いささか間の抜けた反応を返すだけだ。
 その反応は色香からは程遠く、ほの暗い熱が引いてくれたことを、彼はガラにもなく、信じてもいない神に感謝した。
「……は?え、何のこと?まさか……」
 また何かあったの、と切羽詰まった声で言い、不安からか、瞬時に表情を凍りつかせるセラに、さしもルーファスも「いや、違う」とすぐに否定し、椅子から立ち上がった。
 そんな状況でないのは、彼も同じ立場だったからだ。
 セラに歩み寄ったルーファスは、大丈夫だと言い張る彼女を、また倒れる気かと強引に近くの椅子に座らせると、「それで……」と話を切り出す。
「それで……わざわざ起きて、部屋まで会いに来たということは、俺に何か急ぎの用事があるのだろう?用件は、何だ?」
「あ、うん」
 何も言わぬうちから尋ねてきたルーファスに、さすが察しが良い、と感心しながら、セラはうなずく。
 そうして、ひたっと彼を見据えると、彼女は唇を開いた。
「お願いがあるの。例の化け物の事件について、貴方なら、調べているんじゃないかと思って……少しでもいい、何かわかっていたら、教えてくれない?お願い、ルーファス」
 それは、セラにとっては、半ば確信に近い問いかけだった。
 若き切れ者と称されるルーファスならば、次期王となるべき人の右腕として、王宮の表裏、さまざまな情報網を持つ彼ならば、あるいは……例の化け物について、何か情報を掴んでいるかもしれない、と。
 ――お願い、教えて。
 穏やかではあったが、真摯で、切実な声だった。
 ルーファスを正面から見つめる、少女の翠の瞳には、あわい希望と期待と……容易には退かぬという、強い意志が、見え隠れしている。
 そんな眼差しを向けられた青年は、表情一つ変えず、何も答えなかった。しかし、それこそが、どんな言葉よりも雄弁に、真実を告げる。
 一瞬の沈黙ののち、ルーファスはたった一言で、セラの懇願を容赦なく切り捨てた。
「――断る」
 いっそ残酷とも言えるほど、一切の迷いのない口調で、その頼みを切り捨てたルーファスは、睨むが如き鋭い視線を、セラへと向ける。
「……そう」
 彼の答えを、半ば予測していたのかもしれない。
 大きな落胆を見せることなく、されど、冷ややかな眼光に怯むこともなく、セラは静かに「……そう」とだけ答える。
 そんな彼女に向かって、ルーファスは更に、刃のごとき言葉を投げつけた。
「たしかに、真実かはともかく、俺が調べたことはある。だが……なぜ、それを、わざわざ貴女に教えなきゃならない?」
 情け容赦ない言葉は、いとも容易く、胸をえぐっていく。
 言葉の刃も現実の刃も、身を貫いて、心臓にすら届くことに違いはない。……いや、心をえぐる言葉の方が、より残酷かもしれぬ。
 セラは退くべきだった。おそらく、退かねばならなかった。けれど、彼女は容赦のない言葉を突きつけてくる青年から、目を逸らすことも、耳をふさぐこともなく、真っ直ぐに前を見据えて、じっと黙っている。
 その揺らがぬ眼差しに、呆れと苛立ちと……焦燥にも似たものを覚えながら、無言の少女に対し、ルーファスは覚悟を問う。
「貴女がどうしても望むのなら、例の化け物と関わりがある、王宮の権力争いについて教えてもいいが……王太子派と宰相派、くわしく知れば、巻き込まれる可能性もあるぞ。貴女に……それだけの覚悟があるのか?セラ」
 ――だから、退け。彼の口から音にはならず、続けられなかった言葉は、そうだったに違いない。
 いかに氷のような視線を向けられても、容赦なく、刃のような言葉を突き付けられても、セラは怯えない。退かない。拒まない。
 それどころか、彼女はやわらかな翠の瞳を細めて、ふぅわり、とあわく、どこか儚げに微笑んだ。
 出会ったばかりの頃なら、その言葉の裏にあるものに気が付かず、傷ついたかもしれない。あるいは、両手に耳をふさいで、その言葉にひそむものを、知ろうともしなかったかもしれない。けれど今は、冷ややかな言葉の奥深くにひそむ、かすかな情を、優しさを感じてしまう、今は……望んで、その言葉に耳を傾けてしまう。
 だからこそ、ルーファスが眉をひそめるのを承知の上で、あわく儚く、どこか切なげに、セラは微笑う。
 彼は何も知らない。だから、危ういから退けと、王宮の闇に関わるな、などと自分に言えるのだと、セラは思った。ルーファスは知らない。――セラの存在が既に、腐敗した王宮の奥深く、もっとも暗い部分に組み込まれていることを、その意味を。
 セラは明かせないそれには触れず、腕組みし、予想通り眉を寄せたルーファスに、逆に問い返した。
「わかった。貴方の立場もあるものね。あたしには、話せないこともあるでしょう。でも、じゃあ代わりに、ひとつだけ教えてくれる……?」
「……何だ?」
「貴方はこのまま黙っていたら、近いうちに、騎士団はあの化け物を捕えて、事件を解決できると思う?ルーファス」
 沈黙の後、肯定。
 一瞬のためらいを含んだ間の後、セラの言葉に、ルーファスは首を縦に振る。
「……ああ。騎士団が捕えられるかどうかは五分五分だろうが、いずれ、あの化け物は破滅するだろうさ。あんな真似を続けていれば、いずれな」
 それまでに、あと何人か犠牲は出るだろうがな、という言葉を、彼は喉の奥でとどめた。
 あの男、ローディール侯爵の、血を連想させる赤銅色の髪、むせかえるほどの獣臭さ、貧民街で対峙した漆黒の異形――そんなものが、ルーファスの頭をよぎる。
 彼とて、無為に悲劇を重ねさせる趣味はない。あの化け物の凶行を止められるなら、どんな手を使っても、止めたいのが本音だ。あのハロルドとかいう、赤髪の騎士殿には及ばずとも、それぐらいの気持ちはある。
 けれど、いまだ全ては憶測に過ぎない。あの人食いの化け物の正体が、ローディール侯爵であると、彼が確信したところで、決定的な証拠は何もない。
 騎士団に捕えられないのを良いことに、あの化け物は、あの男は、何人もの人間を食い殺し、その血をすすりながら、今、この瞬間も、のうのうと生きのびているのだ。
 あんな真似は、長く続けない。いずれ、近いうちに必ず、あの化け物は破滅するだろう……けど、そのいずれは何時くるのか?
 忌々しいことに、それは誰にもわからない。
「いずれ、ね……けれど、それまでの間、あの化け物を野放しにしておいていいのかな?また、あの時みたいに、あたしの幼馴染のリーザみたいに、食い殺される人が出るかもしれない……何もしないでいたら、きっと、もっと犠牲者が増える。何とか、何とかしなきゃ……」
 リーザ、と亡き幼馴染の名を、口にするセラの声は、悲痛な響きがこもっていた。
 あの無残な友人の亡骸を目にした日から、何度も何度も、繰り返しのように悪夢に襲われる。セラの夢の中で、死んでしまうリーザは、現実ではない。けれど、彼女はあの化け物に無残に食い殺され、川に捨てられた。
 命が途絶える瞬間、彼女はこう思っただろう。『たすけて、こわい、死にたくない』と。
 あの呪われた化け物の手によって、またリーザのような犠牲者が出たら、それを考えるだけで、背筋が凍る。
 黙って見ている、いずれ破滅するのを待つなんて、セラには耐えきれない。
「そうして口にするだけなら、容易いがな……貴女に、何か良い策でもあるのか?」
「うん。一応は……策とも言えないだろうけど」
 あまり期待していない風に、問いかけてくるルーファスに、セラはうなずいた。
 それは望ましい答えであるはずなのに、なぜか、それを聞く青年は、不愉快そうに眉をひそめたままだ。
 返事は求めず、策とも言えないだろうけど……と前置きして、少女は続ける。
「――あたしが、囮になろうと思う」
 あの化け物を捕えるための、と続けたセラに、ルーファスは無言だった。
「……」
 その無言を、話してみろ、ということだと解釈して、セラは頭に描いた、あの化け物をおびき寄せる、己を囮とする策を説明する。
「あの人食いの化け物の正体が、予想通り、呪われた人間だとしたら、今頃、すごく焦っていると思う……まだ、わずかでも人としての理性が残っていれば、の話だけれど。あんな真似を繰り返していたら、騎士団の警備だって、日毎に厳しくなるだろうし……そうなれば、誰かを襲うことも、難しくなる」
「……ああ」
 うなずくルーファスに、前にラーグも言っていたでしょう、とセラは言った。
「前に、ラーグも言っていたでしょう?呪いは人の身体を心を魂を、ゆっくりと侵食して……食らいつくすって……それは、とても苦しいことだから、命が尽きるまでに何とかしたいと、そう願うと思わない?もし、うまく呪いを解く方法があれば……と」
「まあ、それはそうだろうが……それで、結局、貴女はどうしたいんだ?セラ?」
 やや先回りして、結論を促したものの、腕組みしたルーファスの顔色はあまり冴えない。
 彼女の言い出すことは、ほぼ予想しているのだろう。
 先を促す声は、どこか苦かった。
「うん。貧民街や色々な場所に噂を流して、あの化け物をおびき寄せられないかと思って……そこで、捕まえられれば、もう犠牲は出ないでしょう?だから、囮のつもりで、おびき寄せる。あたしの元へ。否……」
 うわむくと、セラはルーファスを正面から見上げて、赤い唇をひらく。
 翠と蒼、異なる色もつ瞳が、重なり合い、交差する――
 先ほどまで泣いていたとは思えない、凛とした声だった。
「――《解呪の魔女》の元へ」
 そうして、自らを囮にすると言い切った少女に、男は鋭い眼差しを向けたまま、無言をつらぬく。
 セラもまた、それ以上、言葉を重ねようとしない。
 重く、息が苦しいほどの沈黙が、その場におちる。
 永劫のようにも思える静けさ、停滞していく空気。
 それを崩したのは、氷と呼ばれる青年の嘆息と、次いで続けられた一言だった。
「……いずれ、貴女がそれを言い出すだろうとは、思っていた」
 呪われた人間、呪いに苦しむ者にとって、呪いを解くという《解呪の魔女》の存在は、喉から手が出るほど欲しいものだろう。あの人食いの化け物にとっても、例外ではあるまい。
 蛇の道は蛇。
 建国の祖・英雄王オーウェンの手による、大規模な魔女狩り以降――法の目が届かぬ貧民街は、魔術や呪術を生業とする者たちが、多く隠れ住んでいる。
 あの男、ローディール侯爵が呪いを解く方法を欲していて、その方法を探していたら?
 貧民街で流れる噂、解呪の魔女の名に引き寄せられ、セラの元にたどり着く可能性はないとは言えない。
 成功率は高いとは言えぬだろうが、まったくの無策でもない。……危険さを、考えなければの話だが。
 そんな策ぐらいは、ルーファスとて、かなり前に考えた。されど、口には出さなかった。まともな策じゃない……というのもあったが、それ以上に、彼が気が進まなかったのだ。
 誰が言える?――自ら進んで、何の利益もないのに、死地に飛び込めと。
「まず、ラーグに頼んで、噂を流すのに協力してもらおうと思う。例の化け物の耳に、何らかの形で、解呪の魔女の噂が届けば……呪いを解くにしろ、捕えるにしろ、手の打ちようがあると思うの」
 すでに策を実行することを決めてしまっているらしい少女に、ルーファスは「囮の意味を、わかっているのか?」と、冷ややかな口調で問う。
 びくっ、と一瞬、セラの肩が小さく揺れた。
 それを取り繕うように、「わかってる……つもりだよ」と細い声が返ってくる。
「改めて、言うまでもないだろうが……それは、随分と分の悪い賭けだぞ。セラ。囮だか何だか知らんが、魔女として、あの人食いの化け物と対峙するということは、大怪我を負わされるかもしれん……最悪、無残に食い殺されるかもしれんな。貴女の……気の毒な幼馴染と同じく」
「……っ。わかってる……ううん、わかっています」
「しかも、下手に動けば、神殿や騎士団に目をつけられるぞ。貴女もよく知っているだろうが、三百年前の魔女狩り以来、この国で魔女は、王族の敵、忌まれ、唾棄されるべき存在だ……一歩、間違えれば、異端の烙印を押されるかもしれない――それでもか?」
「……うん。それでも」
 青白い顔をして、膝におかれた手は先ほどから小さく震えていて、それでも、首を横に振ろうとはしないセラの頑なさに、その下らなく思えるほどの意地に、ルーファスは呆れ返る。それは、彼には理解しがたいものだ。
 もう、色々と面倒だ。臆病で頑なな、しかも愚かな女。いっそのこと突き放すか、切り捨ててしまうか――心のどこか、冷静な部分が囁いた。
 己が下らぬ情に流さるなど、ましてや、それに溺れるなど許し難い。
 ルーファス=ヴァン=エドウィン、氷の公爵と呼ばれる男はいつだって、そうして生きてきたのだから……。
「そうまで言うならば、囮でもなんでも、好きにすればいい。俺は、最低限の忠告はした。後は、貴女の勝手だ」
 情に溺れる気も、流される気もない。
 ゆえに、それは、ルーファスなりの最大限の譲歩だ。
 その気配を察してだろう。青年の突き放したような言動にも、セラは眉根を寄せることなく、どこか申し訳なさそうな表情で、「……ありがとう」と言った。
「……ありがとう。ルーファス、話を聞いてくれて」
「別に、貴女に礼を言われる覚えはない」
「ううん、ありがとう、だよ。たぶん……あたし一人じゃ、覚悟が決まらなかったと思う。あたしは、臆病だから」
 妾腹の王女、そして、王家に憎まれる魔女という、相反する二つの立場を持つ少女は、そう言って、苦笑にも似たものを浮かべた。
 少女の横顔を、薄暗がりの中、蝋燭の炎が照らし出す。
 翠の瞳に宿る、その一筋の光は儚く、けれど、決して絶望だけではない。
 そうして、とんっと椅子からおりると、セラは「それじゃあ、ラーグのところに行ってくるね」と言い、ルーファスに背を向ける。
 視界の端で、亜麻色の髪と、藍色のドレスの裾がひるがえる。彼女は振り返りもせず、扉へと向かっていく。靴の音が遠ざかる。少女の手が、扉のノブを掴んだ瞬間、背後から声がかけられる。
 ――低く、どこか抗い難い響きをした、そんな男の声が。
「それで……何だかんだと下らぬ言い訳をしたあげく、勝手に決めて、一人で行くつもりか?」
 靴音が止む、足が止まる。
 背中からした声を無視できず、セラは立ち止まった。けれど、振り返りはしない。
 ルーファスの方に向き直らず、背を向けたまま、亜麻色の髪の少女は、彼女らしくもない、厳しくさえ聞こえる声で答えた。
「前にも言ったけど、自らすすんで、呪いに関わるのは危険だよ。特に、今回はね。ルーファス……貴方には、ここまで随分と助けてもらった。もう十分だよ」
 ――それに、万が一、貴方に何かあれば、皆が困るでしょう?スティーブやソフィー、メリッサ、ミカエル、屋敷の皆、それに……王太子殿下も、という台詞を、セラはかろうじて口に出さずにすませる。
 振り返りたくなかった。後ろにいるルーファスの顔を、今、どんな表情をしているのか、見たくなかった。
 顔を合わせれば、心が揺れる。決めたはずの覚悟が、揺らぐかもしれない。助けて、というのは、あまりにも虫が良すぎる考えだ。
 ましてや、みっともなく、すがりつくなんて真似、出来るはずもない。だから、それ以上、もう何も言わないでほしかった。お願い、お願いだから……
 そうセラは願ったのに、心の底から祈ったのに、後ろから無情な声がする。
「ほぉ、さんざん巻き込んでおいて、今更、それか……ずいぶんと勝手なことを言う、貴女がそこまで身勝手な女だとは、今まで知らなかったぞ。セラ」
「……っ」
 反論できず、セラはただ、きつく唇を噛み締める。
 そんな彼女の心を見透かしたように、ルーファスは言う。
「迷惑だの、何だかんだと言っているが、貴女の場合、今更、他人を巻き込むのが怖くなっただけだろう?――違うか?」
 真実をつかれて、何の反応も出来ず、扉の前に立ち尽くしたままま、セラはただうなだれた。
 彼の言うことは、正しい。けれど、じゃあ、どうすればいいというの?
 口の中が乾くのを感じながら、ようやく喉の奥から、彼女は声を絞り出す。
「じゃあ、あたしは何て言えばいいの?例の化け物を捕まえるために……あたしの為に、力を貸して欲しいと頼んだら、貴方はそうしてくれるの?」
「愚問だな」
 ルーファスの答えは、簡潔だった。
 少女の胸をよぎるのは、かすかな落胆と……それ以上の安堵感。
 青年の答えに、セラは安心したようにうなずく。それを望んだのは、ほかでもない自分だったのだから。
「うん……そうだよね」
 セラは一人で、金色の魔術師に、ラーグに会いに行く。
 それで、話は終わる……はずだった。にも関わらず、背中から聞こえた声に、少女は目を見開いた。
「何を、勝手に納得している……?セラ……一度、実行すると決めたなら、グズグズしている暇はない。さっさと、あのヒヨコみたいな魔術師……もとい、会話を交わすことさえ不愉快な、あの年齢詐称の魔術師に、会いに行くんだろう?」
「……はぁぁ?」
 グズグズしている暇があったら、さっさと行くぞ……というルーファスの言葉に、振り返らないと心に決めていたはずのセラでさえ、驚愕のあまり、思わず、後ろを振り返らずにはいられなかった。
 ――今までの会話の流れは、一体、何だったのか!?
 さすがに呆然としながら、振り返ったセラの目に映ったのは、涼しい顔で帯剣したルーファスの姿だった。
 まるで、彼女の意思など関係ないとでも言いたげな態度に、少女は片手で痛む頭をおさえながら、いささか引きつった顔で「あのー、ちょっと……」と、抗議じみたを上げた。
「何だ?」
 しれっとした態度で答えてくるルーファスに、セラは困惑をあらわにする。
「あのー、ちょっと、今のあたしの話、聞いていなかったの?ルーファス」
「貴女の言い分は、望み通り聞いただろう?セラ……ただ素直に従う気が、微塵もないだけだ。考えてもみろ、俺が今までただの一度でも、従う、とそう言ったか?」
「それは……そうかもしれないけれど……」
 たしかに、来ないで、という自分の言葉を受け入れるとは、ルーファスはただの一度も言わなかったかもしれないが、かといって、今までの会話の流れからして、かなり強引ではなかろうか、とセラは思わずにはいられない。
 助けてくれれば、心強いのは本当だ。けれど、彼を巻き込み、危険な目に合わせたいわけでもないのも本当で、彼女自身、一体、どちらの気持ちが強いのか、よくわからない。
 セラの迷いを見通したように、ルーファスはふっ、と小さく唇の端を吊り上げると、「それなら、何も問題ないな」と言い切る。
「そ、そう……何かが、違う気がするんだけど?」
 何だか、うまく丸めこまれている気がして、けれど、口でルーファスに勝てるとも思えず、セラは小首をかしげ、何だか納得いかなそうな表情で、うろんな眼差しを彼へと向ける。
 ルーファスは顔色ひとつ変えず、それを受け止めると、「勘違いしないでもらおう」と言う。
「勘違いしないでもらおう。別に、貴女の為というわけじゃない……セラ、貴女が勝手に動くというなら、俺は俺で勝手に、動かせてもらう。ローディール侯……例の化け物には、少しばかり借りもあるしな」
 老狐、宰相ラザールの手のひらの上で踊らされるなぞ、ゾッとしない……
 ルーファスは、心の中で呟く。
 今回の悪趣味な茶番が、あの老狐の宰相と、それに媚を売るネズミ……ローディール侯爵の手によって起こされたものなら、その茶番を叩き潰してやらねば、気がすまない。
 そのためならば、あのふざけた真似をしてれた、人食いの化け物に己が罪を思い知らせてやるのも、また一興だろう。
 目的の為ならば、天敵である魔術師と手を組むことすら、ためらうまい。……そう、目的が一致しただけだ。たとえ、それが結果として、セラを助けることになったとしても。
 下らぬ情に溺れる、愚か者に成り下がったわけではない。そのはずだ。
「ルーファス……」
 翠の瞳を見開いて、ほうけたようにこちらを見てくる少女を尻目に、ルーファスは扉に手をかけると、足音を殺しながら、さっさと暗い廊下へと出て行った。
 どうしていいのかわからず、困惑顔のセラは扉のそばに立ち尽くし、ただ、ぼぅと青年の行動を見ている。
 一向に動かない彼女に呆れたのか、廊下に出たルーファスが、首だけをこちらに向けた。
「……行かないのか?」
 男の問いに、セラは焦って、ぶんぶんと首を縦に振る。
「い、行く!……ラーグに会いに行きます」
「しっ、静かにしろ。屋敷の人間を、ひとり残らず起こす気か?」
「ご、ごめんなさい……」
 慌てて声を小さくするセラに、ルーファスはまったく……とでも言いたげに肩をすくめ、そして、彼女の方に向かって、早く来い、というように手を差し伸べた。
 手を差し伸べられた少女は、不思議そうに首をかしげて、眼前の青年と、差し伸べられた彼の手を、交互に見つめる。
 差し出された手から、セラがゆっくりと顔を上げれば、ルーファスの蒼い瞳が、静かな眼差しで、こちらを見ていた。
「――セラ?」
 怪訝そうな男の声が、セラの耳には、どこか遠くのものにも聞こえる。
 暗い廊下から差し伸べられた青年の手が、蝋燭の炎で妙に白く見えて、ほんの一瞬、なぜか、夢の中でこちらに伸ばされた、リーザの小さな手と重なった。
 目の錯覚。けれど、少女の身体は硬直し、かすかに手が震えた。けれど、それでも、セラはそっと彼の手にふれた。
 指先がふれあう、
 ぬくもりが重なる、
 肌にふれて――夢と同じ匂いがした。

 青年も少女も、どちらも気がついていた。
 ふれ合う指先、重なる手、されど、互いに心の奥までは踏み込めない。
 それは、いずれ夢か幻のように消えてしまうであろう、あわい絆である。
 しかし、それでも、その手を振り払えなかったのは、きっと……重ねた手から伝わるぬくもりが、あまりにも儚くて、離せば消えてしまいそうで、だから、手放すことが出来なかった。
 どちらも同じくらい、変わらぬことを望んでいた。
 彼も彼女も、心を揺らさず、閉ざされた世界で生きていければ、それだけで良かったのだ。
 けれど、変わってしまう。何かが、少しづつ、それは幸福とは程遠いものなのに――


 ――カツッ、と靴音がした。
 闇にまぎれて、エドウィン公爵家の屋敷を抜け出した青年と少女、セラとルーファスは、幸い誰にも見咎められず、貧民街までたどり着く。
 そうして、ひどく古ぼけた二階家――魔術師の住処の前に到着した、彼と彼女の目に映ったのは、月を背にして、夜風に吹かれるのも気にもせず、外に立っている小さな背中。
 バサバサと冷たい夜風が白いローブを揺らし、また夜の闇にあっても明るい金髪をも、風が乱していく。
 それを少しも気にしていないかの如く、白いローブを纏った小さな背中、それは微動だにせず、ただ漆黒の夜空を仰いでいるようだった。
 少年のようにしか見えぬ、小さな背中は、けれど唯の子供というには、あまりにも存在感がありすぎた。
 月に雲がかかる。
 ひゅおおお、と強い風がふく。
 白いローブの裾がバサバサッと生き物の如く踊り、暗がりの中にあっても、その明るすぎる金の髪は、まばゆく輝いているようだった。
「――ラーグ?」
 後ろを振り返ろうとしない、その小さな背中に、セラが「――ラーグ?」と声をかける。
 雲が流れて、再び、月がその姿をあらわす。
 その時、ゆっくりとその小さな背中が、こちらを振り返った。
 まばゆいほどの金髪が、風に吹かれる。
 ほんの一瞬、ルーファスは、目の前で光の粒が弾けたような錯覚を抱く。視界の奥で、ちらちらと鮮烈な金色の光が踊り、すぐに消えた。
 ふと気がつけば、黄金にも似た、琥珀の瞳がこちらを見ている。
「やあ……そろそろ来る頃だと思っていたよ」
 そう言ったラーグの声は、セラとルーファスの訪れを、ずいぶん前から知っていたような、そんな響きすら持っていた。
 しかも、それが至極、自然なことのように思える。
 その空気に呑まれたように、魔女である少女も、氷の公爵と呼ばれる青年もただ無言で、子供のなりをした金色の魔術師を見つめた。
 次の瞬間、風が吹くのに合わせたように、ラーグが唇をひらく。
「――待っていたんだ」
 ラーグは――金色の魔術師はそう言って、あざやかな琥珀色の瞳を細め、微笑った。


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