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三章  呪いの代償  20


「はいはい。ちょっと座ってて、今、お茶もってくるから」
 己の住処へと、セラとルーファスを招き入れたラーグは、そう言うと大きな樫のテーブルに青年と少女を座らせて、お茶の用意をしにいく。
 椅子に腰を下ろしたルーファスは、何気なく、もはや見慣れつつある魔術師の家の中を見回し、相変わらず、ひどく奇妙な場所だと蒼い瞳を細める。――いまだ数度しか訪れたことはないが、いつ来ても、まるで時が止まっているのように、同じ感想を抱かずにはいられない。
 まるで生き物のように、何本もの蝋燭が天井に浮かび、その赤々とした炎が薄闇を踊る。
 ふわりふわり、と気まぐれに浮遊するそれらの、橙色の光が照らすのは、長い歳月を過ごしたことを想わせる、古びた家具や革表紙の擦り切れた本……。
 壁に吊るされた薬草や、なにやら薄気味の悪い獣の剥製、棚に並べられた、紫の液体がつまった瓶やら怪しげな箱やらは、何に使うのか常人には見当もつかぬが、たぶん魔術師には必要なものなのであろう。
 まあ、とはいえ、机の上に転がる、琥珀色の酒瓶や空のボトル、つまみとおぼしきチーズや干し肉の類は、おそらく魔術とは関係ない。
 単なる家主――あの、いけすかぬ毒舌家、ラーグの趣味とみるのが妥当なのだろうが。
 ルーファスがそんな風に考えているとも知らず、(たとえ、知ったところで、その飄々とした態度は、微塵も変わらなかっただろうが……)、パタパタッと若干、身の丈に合わぬ、白いローブの裾をひきずりながら、ラーグがテーブルの方へと駆け戻ってくる。
 その小さな手には、二人分のティーカップ。
「お待たせー」
 かぐわしい紅茶の香りが、テーブルまで流れてくる。
 客が訪れた瞬間に、すぐに温かい茶を持ってくる辺り、予告も何もなしに来た割には、いささか不自然なほどの用意の良さだが、それぐらい魔術師にとっては朝飯前なのかもしれぬ。
 まるで、セラたちの訪れを知っていたかのように、「君たちを、待っていたよ」と口にしたラーグ……それは単なる社交辞令ではなく、彼にとっては、真実なのかもしれない。
「はい、どうぞ」
 真偽のほどはさておき、ラーグはにこりと無邪気な、実年齢にそぐわぬ、あどけない笑みを浮かべながら、コトッ……とセラの前にカップを置いた。
 その裏も表もなさそうな、幼い少年のなりをした魔術師の笑顔は、ルーファスに言わせれば、胡散臭いの一言であるが、あいにくと不快そうに眉をひそめるのは彼だけで、セラは何も感じないらしく、ごく普通に紅茶を受け取る。……もっとも、そんな妻の態度に不満を唱えるほど、ルーファスも狭量なわけではないが。
 愛弟子である少女の嗜好に合わせたと思われる、ミルクと砂糖のたっぷり入った紅茶は、セラの好物である。
 さりげなく、されど、細やかな師の気配りに、セラは小さく唇をほころばせ、ミルクティーを一口、かわいた喉をうるおす。
 あたたかなそれが、夜風で凍えた体も心も、芯からあたためていく。
 一口、二口、やがて青白かった少女の頬に、ほんのりと赤味が差していった……。
 彼女の師匠であるラーグは、樫の机に肩肘をつき、慈愛に満ちた優しい眼差しで、それを見守る。
 ほぅ、と小さく息を吐くと、セラは未だ辛さのにじむ顔色ながらも、顔を上げ、「……美味しい」と言う。
「……美味しい。ありがとう。ラーグ」
「いえいえー。どういたしまして、おかわりもあるよ……どう?セラ」
「ん……」
 気持ちは嬉しいけど、そんなに飲めないよ、と苦笑するセラに、向かい側に腰をおろしたラーグは身を乗り出して、
「こらこら、遠慮なんかしないで、ちゃんと身体をあたためないと、顔色が優れないよ……君は、もともと身体が丈夫な方じゃないんだから……ね?」
と、やや心配そうに言う。
 そう言いながら、魔術師は小さな手めいいっぱいを伸ばすと、なでなで、と励ますように、優しく、セラの亜麻色の髪にふれる。
 なでなで、と小さな子供のように、頭を撫でられた弟子は、そんな師の行動に、唇の端に苦笑にも似たものをのせ、やや恥ずかしげに翠の瞳を細めた。
 少女が頬を染め、「……はずかしいよ」と呟くと、ラーグは「ああ、ごめんね」と言って、さも自然な所作で、髪から手を離す。幼い見た目にそぐわぬ、その落ち着きぶりは、どこか老成したものを感じさせる。
 ちびちびと紅茶を飲むセラを見守る、魔術師の琥珀色の瞳は、どこまでも柔らかな光をたたえていて、その眼差しは優しい。
 そんな仲の良い師弟の姿、セラとラーグのやりとりを、ルーファスは下らないとばかりに、冷めた目で見ていた。
 すっかり自分の存在を無視されていることに、怒りよりも呆れが上回る。
 (まったく……相変わらず、見ていて、恥かしいぐらいの溺愛ぶりだな)
 皮肉屋かつ毒舌家、常に飄々とした態度を崩さない魔術師は、ルーファスと顔を合わせれば嫌味しかない犬猿の仲だが、愛弟子であるセラには……否、弟子にだけは優しいというか、あまったるい砂糖菓子の如く、甘い。
 正直、彼が若干ひくくらいの、溺愛ぶりだ。――そんな師弟の姿を見るたびに、胸をよぎる不快なものの名を、暗い炎にも似たそれを、ルーファスは知らないし、また知りたいとも思わない。嫉妬などという、下らない感情を認めるぐらいならば、いっそ、ひと思いに死んだ方がマシだ。
 これは、嫉妬などではない。ただ気に食わないだけだ。
 セラの細い首筋から目を逸らし、そう思いながら、ルーファスは無言で紅茶のカップを持ち上げ、その瞬間、あからさまな違和感に気がつく。……軽い。
 次の瞬間、青年は何のためらいもなく、カップを逆さまにした。が、待てど暮らせど、カップからは紅茶が一滴も、透明な水滴さえこぼれてこない。信じられない話だが、中身は空だった。
 うっかりではない。明らかに、悪意が透けて見える。
 ルーファスはその端整な顔に、薄ら寒いほど綺麗な微笑を浮かべると、常人なら震え上がる程の、剣呑な気配を身にまとって、氷の如き眼差しをラーグへと向けた。
 そうして、これ以上ないほどに低く、ひどく冷ややかな声音で、
「ほぅ、これはこれは……これが、貴様流の茶の出し方なのか?素晴らしく斬新だな。魔術師よ」
と、言った。
 全く心のこもっていない誉め言葉に、それまで故意にルーファスを眼中にいれないでいたラーグは、 ぐるりと首をそちらに向けると、はんっ、といかにも小馬鹿にするように、鼻で笑った。
 可愛い弟子にちょっかいを出す悪い虫、つまりルーファスに対する、ささやかな意趣返しのつもりなのかもしれない。
 ただの嫌がらせの可能性も、大いにあるが。
 それを見たルーファスの眉間に、深いシワが寄る。
 彼らの会話を横で聞いていたセラは、あれ、前にもこんな光景を見なかったけ……?と、首をひねった。
「ああ……それは、馬鹿には見えない茶なんだよ」
 あくまでもサラリとした口調で、とんでもない台詞を吐いてくるラーグに、ルーファスもまた皮肉気に、口角を吊り上げる。
 この程度の嫌味で心を折られるようなら、はなから氷の公爵などと、畏怖と畏敬まじりの呼び名をつけられはしないだろう。
 空のカップをおろすと、長い足を組んだルーファスは余裕すら見える表情で、同じくらい痛烈な皮肉を返す。
「魔術師……何度も同じことを繰り返すとは、貴様も芸がないな。それとも、三百年も生きていると、耄碌して、物忘れが激しいのか?やれやれ……子供のなりをしているくせに、難儀な性分だな。同情する」
 口先だけの同情に、ラーグは「いやいや……」と幼い顔に無邪気な笑顔を張りつけたまま、ゆるゆると首を横に振る。
 その琥珀色の瞳の裏に宿る、到底、子供ではありえぬ、したたかなまでの賢しさが、ルーファスの神経を逆撫でした。
「いやいや、そんなに誉めなくてもね……まぁ、僕の場合、三百年くらい前から、老化が止まったおかげで、肌とかいまだピチピチしてるからね。うらやましいなら、君も素直にそう言えばいいのにね、公爵……ねー、そう思わない?セラ」
「貴様……相変わらず、絞め殺してやりたい言動を取ることにかけては天才的、他の追随を許さないな」
「くっくっ、お褒めにあずかり恐悦至極、その言葉、君にも当てはまるけどね。公爵さま」
 クスクスと、いかにも愉快そうに喉を鳴らす魔術師とは対照的に、ルーファスは今にも舌打ちせんばかりの渋面だった。
 どうやら、今回はラーグの方が一枚上手らしい。
 いっそ小気味いいほどの、息つく間もない嫌味の応酬。
 途中から、すっかり聞き役に徹していた……いや、右へ左へ、凄まじい速度で飛び交う言葉に、サッパリついていけず、パチパチと瞳を瞬かせていたセラだったが、頬に手をあてると、心底、感心した風に「いつも思うんだけど、ラーグとルーファスって……ホント、気が合うよねぇ」と、しみじみとした、呑気な口調で言う。
 どうやら冗談ではなく、本気でそう思っているらしい少女の声音に、気が合うと評された、男二人はそろって嫌そうに顔をしかめる。
 それが、悪意や皮肉から出たものであれば、ルーファスもラーグもそれなりの対処が出来ただろうが、悪意が欠片もないのが、厄介といえば厄介だった。
 こちらを見てくる、セラの真面目な顔つきからは、皮肉も、その場をおさめようという打算も感じられず、純粋にそう思っているらしいことが伺える。
 ……公爵と魔術師にとっては、不愉快このうえない誤解だった。
「一体、どこをどう見たら、そういう台詞が出てくるんだ……?貴女の目は、節穴か、本当に節穴なのか?」
 心の底から、嫌そうな顔をするルーファスの向かい側で、ラーグも「すっごく不本意だけど、まったく同感だね」とうなずく。
 頑ななまでに否定の言葉を吐く男二人に、セラはそうかなぁ?と小さく首をかしげ、「はたで見てると、かなり気が合っているように見えるんだけど……親子っていうには、見た目の年が近いけど、なんか兄弟みたい」などと、悪意の欠片もない声で言う。
 ある意味、ほのぼのとした兄弟などという例えに、ルーファスはハァと深く嘆息し、片手で額を押さえ、ラーグは「げぇ……」と、蛙が潰れたような呻き声をあげた。
「その例えは、止めてくれ。たとえ天地がひっくり返っても、それだけは御免だ」
 頼む、とルーファスが真剣にセラに懇願すると、ラーグも負けじと抗議の叫びを口にする。
「ちょっと……!公爵……!図々しく、僕の台詞を取らないでよ」
 懲りずに、うるさい黙れ、君こそ黙りなよ、などと丁々発止のやりとりを繰り広げる、ルーファスとラーグの姿を見て、セラはふっと瞳を和ませ「……やっぱり兄弟みたい」と、どこか儚げに微笑う。
 その翠の瞳は、凪いだ海のように穏やかで、されど、揺るがぬ意志が宿っていて、ルーファスは一瞬、かつて、己が凡庸と評したはずの少女に、目を奪われた。
 考えたところで、まともな理由などない。ただ、わけもなく、惹きつけられる。
 セラ、と思わず、少女の名を呼びかけて、されど、それは言葉にならず、彼の喉の奥で消える。
 男の唇は開かない。固く結ばれた唇は、何の声も紡がない。
 指先がかすかに動いて、結局、その手が伸ばされることはなかった。 セラがこれから何をしようとしているのか知っていても、最早、それを止める資格はないと、ルーファスは自覚している。
 形だけの婚姻を結んだ、心の通わない夫婦、というだけではない。
 ――胸が苦しいほどに、よくわかっている。
 危険を承知していながら、それを止めない己の冷酷さや、セラの心すら利用する、救い難いほどの狡猾さも……。
「――ラーグ」
 セラは立ち上がると、名を呼びながら、ラーグへと歩み寄った。
 それが、ひとつの合図であったように、肌に感じる空気が、ピンッと張りつめてゆく。
 耳に痛いほどの静寂の中、セラの足音だけがコツコツと響く。
 ジュッ、と空中で燃える蝋燭の炎が大きくなり、木目の床に彼女の影を照らし出す。
 動いたセラは勿論、ルーファスもラーグも彼らなりの勘と、その場に満ちる痛いほどの緊張感で、全てを察していた。
 混乱の時を過ぎて、歯車は回り、何かが動き出そうとしていることを――。
「何だい?セラ」
 歩み寄ってくるセラの視線を正面から受け止めて、ラーグは静かな声で、弟子に問いかけた。
 ラーグの表情には、さきほどまで騒がしさの余韻はすでになく、光の加減で、金色に見える瞳は、どこまでも深く、心の奥底まで見透かされるような、そんな思いさえ抱かせる。
 幼さなど微塵も感じられぬ、深淵すら見据えたような、その琥珀色の瞳――。
 子供の姿や、くるくると変わる表情に惑わされそうになるが、きっと、これこそが魔術師本来の表情なのだろう。
 もっとも、弟子である少女にとって、そんな師の表情は見慣れたものであるのか、雰囲気を変えたラーグにも戸惑わず、彼の前に立つと、セラは口を開く。
 そうして、再び、後戻りの出来ない道へと、足を踏み入れる。
「ねぇ、ラーグ……あれから、例の化け物の件で、何かわかったことはあった?」
 その質問は予想の範疇とでも言うように、立てた肘にもたれかかったラーグは、かすかに顎を動かし、こんこん、と指の腹で机の角を叩いた。
 何かを思案する、あるいは何事かを計ろうとしているような、そんな態度だった。
 ゆっくりと首を縦に振ると、ラーグは少女の質問に答える。
「一応ね……例の、殺された呪術師の老婆、彼女の扱っていた呪いと、その顧客について調べてた……僕の考えが正しければ、あの化け物と、何らかの関係があるはずだから」
 ラーグの返事は、明快だった。
 愛犬ともに無惨に殺された、呪術師の老婆。
 彼女が死の寸前にかけた呪いこそが、あの化け物を生み出したのだとすれば、その顧客、老婆に呪いを依頼していた人間こそが、老婆殺しの犯人――例の化け物の正体である可能性が、かなり高い。という仮説を元に、ルーファスとはまた違った方向から、ラーグもまた、化け物の正体を探っていた。
 王宮や、老婆の顧客の筋から調べを進めたルーファスとは反対に、その間、ラーグは呪術師の老婆の周辺から情報を得て、その網を絞っていった。
 口の重い呪術師から情報を手にいれ、それを繋ぐ。
 同じ貧民街で暮らす者としては、その方が手間がはぶけると踏んだのだ。
 どちらも化け物の正体を突き止めるという、その目的は同じ。ただ、取った手段が違うだけだ。
 そうして、辿り着いた結論も同じ――あえて言うならば、化け物に繋がる情報を得はしても、いまだ決定的な証拠を手にしていないのも、同じだった。
「少し前に、殺された呪術師の家に行ったんだ。悪いけど、荒れ放題だったから、中に入らせてもらった……」
 黙って話を聞くセラに、ラーグは話を続ける。
 その向かい側では、腕組みしたルーファスが無言で、魔術師の言葉に耳をかたむけていた。
「呪術師なんて、それこそ人の恨みを買うことが、商売みたいなもんだからね。業の深い人間を相手にしてるし……ヘマを打って、自分が殺された時にそなえて、何らかの策を練っていてもおかしくない。そうでなくても、顧客の情報は手に入るだろうと」
 何の感情も宿らない瞳で、淡々と説明するラーグの横顔を見つめて、セラは 「……何かあったの?」と話の続きを促す。
 あったよ、と魔術師はうなずく。
 呪術師の老婆の住処、主が殺されて以来、未だ流れた血のあとが拭われず、荒れ放題だった、そこの奥深くに――“それ”は隠されていた。
「あったよ……ほら」
 ラーグはそう言うと、何を思ったのか、握った拳を机の上にのせて、ほんの数秒、ルーファスには聞き取れぬ言葉――何か呪文のようなものを唱えた。
 呪文を言い終わった瞬間、魔術師の拳の近くを赤い雷のような光が走り、一瞬、鮮烈なまでの明るさをもたらした後、すぐに消える。
 すると、どのような魔術によるものか、ゆっくりと握り拳をひらいたラーグの手のひらには、拳よりも一回り小さい、血の色をした丸い石がのっていた。
 真紅の、禍々しいほどに美しいそれは、どこか不吉なものを感じさせる。
 あまり物事に動じない冷静な性格ゆえか、あるいは魔術というものに耐性を覚えつつあるのか、ルーファスは目の前で繰り広げられた現象に動揺することなく、血の色をした石を見て、蒼い瞳をすがめた。
 同時に、ラーグの手のひらにある真紅の石を指差し、「……それは?」と問う。
「呪術師の老婆の顧客名簿だよ。どんな仕組みとかの説明は、面倒だからはぶくけど……この紅い石を握ると、呪いを依頼した人間の名前やら条件やらが、頭の中に流れ込んでくるんだ」
 何度か紅い石を握る真似事をしながら、 ラーグは「まぁ、当然の如く、当人以外は読めない呪がかかってたけどね、力ずくで外したんだ」と、さして得意気でもなさそうな、少々、素っ気ない口調で言う。
「ほぉ……呪術師の商売道具にしては、意外と脆いな。そういうものか」
 とはいえ、ルーファスがそう、さも容易いことのように言うのが気に食わなかったのか、ラーグは「はっ、僕を誰だと思ってるの?」と鼻をならす。
「はっ、僕を誰だと思ってるの?あのイカれた大嘘つき……じゃなかった、英雄王に雇われていた男だよ」
 “英雄王”とそう口にした瞬間、魔術師の顔をよぎるのは……侮蔑と嫌悪感、そして、ゾッと鳥肌が立つほどの、深い深い憎しみ。
 琥珀の瞳には宿るのは、ひどく純粋な、狂気にも似た光、されど、それはほんの一瞬で、幻のように霧散し、すぐに何事もなかったような平静さを取り戻す。
 たった一瞬とはいえ、態度を急変させた魔術師に、ルーファスは眉をひそめたが、彼が口を開くよりも、セラが話を本題に引き戻す方が、ほんの少しだけ早かった。
「ねぇ……その紅い石、亡くなった呪術師のお婆さんの顧客名簿に記されていた、最後の一人は誰だったの?ラーグ」
 憂いをおびた、それでいて日頃、温和な彼女にしては珍しく、いつになく焦ったような、切羽詰まったセラの声に、ラーグはやや虚をつかれたようだった。
 それは……と答えかけた魔術師に、それすら待ちきれないように、弟子の少女は言葉を重ねる。
 ラーグを見るセラの、その翠の瞳は潤んでいて、まるで熱にうかされたようだった。
「その人が、あの化け物の正体なの……?呪術師のお婆さんを殺して、呪いで化け物になって、何人もの人を殺したの……?その人が……」
 ――あの娘を、リーザをあんな風に無惨に殺したの!
 声なき叫びは、本当はそう言いたかったのだろう。
 必死に抑え込んでいた箍が、ついに外れてしまったように、悪い熱にうかされたように、冷静さを失い、どんどんと自分を追い詰めるような言葉を口にしてしまうセラに、ラーグは痛ましげなものを見るような目を向ける。
「セラ……」
 喋っているうちに、いつになく気持ちが昂ぶったのか、セラがひっく……と苦しげに喉を鳴らした。
 けほりと小さく咳き込み、翠の瞳が揺れる。
「どうして……」
 まるで、自分を追い詰めるかのように、なおも少女は言葉を重ねようとする。
 セラ、と弟子の名前を呼び、そんな少女に痛ましげな目を向けたラーグは、己自身を傷つけるような言葉を、繰り返し口にする彼女を止めようと、嘆息まじりに唇をひらく。ちょうど、その時だった。
 ラーグが口を開くよりも、一瞬だけ早く、セラの耳朶に唇が寄せられて、同時に落ち着いた声音が上から降ってくる。
「――もう、その辺にしておいたらどうだ。セラ、貴女が冷静さを失ってどうする」
 低く、通りの良い声は、不思議と胸の奥まで響いて、昂ぶった心を静めていく。
 その言葉と同時に、背中から回ってきた大きな男の手が、長く硬い指が、なだめるようにセラの視界をおおった。見るな、ではなく、落ち着けとでもいうように……。
 後ろから伸びてきた青年の手によって、反射的に目をつぶったセラの視界には、暗闇がもたらされる。
 耳元のすぐ近くで、自分とは違う、彼の息遣いが聞こえた。
 どくん、と少女の鼓動が、心なしか速くなる。
 まるで壊れ物にふれるように、そっと、まぶたに触れた男の指先から、かすかな熱が伝わってくる。……肌が熱い。予想もしなかった彼の行動に、一瞬、驚いたように息を止めたセラは、触れられた部分に熱がこもるのを感じながら、ようやく、ゆるゆると息を吐いた。
 急に光を奪われたことに困惑はしても、まぶたに触れた指の感触は、彼女にとって決して不快ではない。むしろ、与えられた闇はどこか穏やかで、安堵感すら感じる。 
 まぶたをおおう、男の指と指の間に踊る、橙色の光に目をすがめて、セラは己の背中に立っているであろう青年の名を呼ぶ。
 声と一緒に、少女の唇から小さな吐息がもれた。
「ルーファス……」
 いつの間に、音もなく歩み寄っていたのか、セラのすぐ後ろに、ルーファスが立っていた。その左手は、まるで外の世界から隠すように、少女のまぶたをおおっている。
 彼女の声に、名を呼ばれた黒髪の青年は、その蒼い瞳に複雑そうな色を宿しながらも、ふっ、と息を吐くと、少女の視界を閉ざしていた、その手をおろす。
「……」
 こちらを見てくる、ルーファスは無言だった。されど、その沈黙の裏に隠された感情を、セラは読み取る。
 ごめんなさい、と言いかけた少女はきゅっと唇を閉じて、小さく首を横に振り、その唇は違う音をつむいだ。
「うん……ありがとう」
 やや緊張したような面持ちで、不安そうな目をしながら、それでも、ふわりと微笑って「……ありがとう」とセラは言う。
 そんな少女の姿に、ルーファスは一瞬、柳眉を寄せ、あえて素っ気ない口調で言った。
「……別に、何もしていない」
 ――後は、貴女次第だ。
 ともすれば突き放すような、素っ気ない声で言うと、ルーファスは手近の椅子に腰を下ろす。
 男の冷淡にも思える態度にも、セラは機嫌を損ねることなく、「ん……」と小さくうなずく。
「……」
 そんな青年と少女の姿を、ラーグは黙って見守っていた。
 静けさをたたえた琥珀色の瞳からは、何の感情も読み取れない。
 しいて言うならば、傍観者の目だった。
「ねぇ、ラーグ……」
 そう名を呼びながら、セラは再び、師の方へと向き直ると、今度は先程よりも落ち着いた様子で、魔術師に話しかけた。
 何かな?と小首をかしげるラーグに、彼女は尋ねる。
「顧客名簿を見たんだよね?その殺された呪術師のお婆さんの、最後の客って……どんな人だった?」


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