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三章  呪いの代償  21


 弟子の問いに、ラーグは手のひらで紅い石を転がしながら、
「ああ……貴族の男だったよ。何でも愛人に子供が出来たから、呪術師に依頼して、邪魔になった妻を呪い殺そうとしてたみたいだねぇ」
と、答える。
 呪い殺す、などと物騒な言葉を口にする金色の魔術師は、眉をひそめることもなく、大したことではないとでも言いたげだった。
 貧民街で、魔術師として生きる彼にとっては、さして珍しい話でもないのかもしれぬ。
 ラーグの言葉に、何人もの人間を食い殺した、例の化け物の正体を察しつつあるものの、まだハッキリとその名を口にしていないルーファスは、黙って眉をひそめる。――あの赤銅色の髪をした男の顔が、ねちねちと嫌らしい言動が、どぎつい香水の臭いが……何より、獣の臭さと流された血のことが、不快感と共に頭の片隅をよぎった。
「……」
 ラーグの返事に、セラは眉を寄せ、唇を噛み「そう……」と、やや沈んだような声で言い、うつむく。
 しかし、次の瞬間にはスッと顔を上げると、正面から師の顔を見つめて、唇を開いた。
「あのね、ラーグ……あの化け物を、ううん、化け物になった人の凶行を止めたい、違う……止めなきゃいけない……お願い、協力してくれる?」
 真っ直ぐに己を見つめてくるセラの眼差しを、ラーグは幼い子供のなりには似合わぬ、思慮深げな顔をして受け止める。
 蝋燭の炎が揺れて、その顔にあわい影を落とす。
 琥珀の瞳の色が濃くなった。
 何かしらの決意を秘めたような目をして、お願い、と真摯な声で口にした少女に、ラーグはふっと肩の力を抜くと、
「まぁ、可愛い弟子の頼みは、僕も叶えてあげたいけれど……一体、何をするつもりだい?セラ」
と、逆に問い返す。
「……囮になろうと思うの。あの化け物を、捕えるための」
 魔術師の問いかけに、セラは視線を逸らさず、ぎゅ、と拳をにぎりしめながら答えた。
 囮という言葉の響きにも、ラーグは眉ひとつ動かさず、穏やかな表情をしていた。その金色にも似た瞳は、先と同じく、波風の立たぬ湖面のような静けさをたたえている。
 まるで、弟子がそう言い出すのを、最初からわかっていたのように、魔術師は驚きの声を上げることも、また動揺することもなかった。
 ――あの化け物を捕えるための、囮になろうと思う。
 緊張した、どこか悲愴な決意すらにじむ顔つきで、そう言った少女に、ラーグは静かな口調で、問いを重ねる。
「囮になる、ね……セラ、それは君の≪解呪の魔女≫の名を利用して、あの化け物を、ここにおびき寄せる……という意味かな?」
 師弟ゆえの呼吸か、あるいはセラという少女の思考を読んでか、ラーグは早々と彼女の意図を察した。
 何の躊躇いも迷いもなく、うん、と首を縦に振る少女に、金色の魔術師はスっ、と目を細める。
 ――危険が高い割に、さしたる成功の保証があるわけでもなかったが、セラの案は、全くの無策というわけでもなさそうだった。
 呪われた化け物にとって、呪いを解くことが出来る、解呪の魔女……セラの存在は、いかなる妙薬にもまさるものであるはずだ。呪術師の老婆が、死に際にかけた呪い。強い呪いに身体を蝕まれていくということは、生きながらにして、その身を地獄の業火に焼かれるにも等しい。
 飢えた狂犬の如く、人を食い散らかしているあの化け物に、理性が残されているのかは謎だが、もし、どんな手を使っても、呪いを解きたいと渇望しているならば、≪解呪の魔女≫の名におびき寄せられる可能性は、ないとは言えまい。
 失敗すれば、殺されるかもしれぬ危険を顧みなければ、そう悪い策でもない……弟子の提案を、ラーグはそう冷静に判断する。
 そうして、魔術師はふむ……呟くと、化け物を捕えるため、自ら囮になると言い切った、セラの横顔を見た。
「……」
 揺らがぬ決意を宿した翠の瞳、その輝きとは対照的に、少女の顔は青白く、悲壮感すら感じられる。もともと、色白な娘であるのに、さらに血の気がひいた肌色は透けるようだ。
 きつく寄せられた眉、噛み締められた色のない唇、かすかに震える指先が、言葉よりも雄弁に、彼女の心を語っている。……怖いのだろう。不安なのだろう。苦しいのだろう。
 それほど辛いならば、そんなことを言い出さなければ良いと、ラーグは思うのだが、穏やかに見えても、時に頑ななまでに退かぬ弟子の性格を、彼はよく知っていた。ゆえに、苦笑する。セラにはわからぬよう、かすかに唇の端をつり上げる。
 ――ねぇ、君がそこまでするのは、あの化け物に殺された幼馴染の為なのかな……それとも……。
 そうセラに問いかけて、結局、ラーグがそれを口にすることはなかった。もし問えば、亜麻色の髪の少女はいつもの如く儚く微笑んで、「……そんな綺麗な気持ちじゃないよ」と、否定の言葉を吐くに違いない。
 哀れで、救い難いほど愚かな少女は……彼の弟子は、そういう生き方しか選べないのだと、金色の魔術師は知っている。
 だから、その言葉の代わりに、彼は「君もわかってるだろうけど、危険だよ」と言う。
「……わかってる。でも、他の方法が思いつかない」
 危険だよ、と制止の響きを持ったラーグの声に、セラはきゅっと唇を噛むと、承知の上だという風に答えた。
 そのよどみのない返事に、ラーグはふぅ、と落胆にも似た息を吐いて、椅子から立ち上がる。そうして、弟子の少女の方へと歩み寄ると、頭一つ分は高い、セラの顔を見上げ、「考え直す気は……?」と問う。
「考え直す気は……?セラ、君には厳しいことを言うようだけど、あの化け物が、解呪の魔女の名に引き寄せられるかはわからないよ。それに……僕としては、可愛い弟子に、囮なんて危険な真似、進んでさせたくはないね」
 心配そうな顔をして、ラーグはぎゅっ、とセラの手を握る。
 その魔術師の真剣な声と、重ねられた小さな手のあたたかさに、少女の心はゆらぐ。けれど、彼女はゆっくりと首を横に振ると、ラーグ、と師の名を呼んだ。
「ラーグ……止めてくれる気持ちは嬉しいけど、もう決めたことだから……不肖の弟子で、ごめんなさい。認めてとは言わないけど、許して」
 そう言ったセラに、ラーグは幼い顔をしかめて、心配だよ、と繰り返す。
「君はそう言うけどね、やっぱり、心配だよ。セラ……君は、すぐ無茶するから」
 真実をついた言葉を否定できず、セラは「うっ……」と呻いたものの、それでも、諦めることなく、説得の言葉を重ねる。
「あの化け物の囮になるのだもの、危険は最初から覚悟してるよ。あたしじゃ頼りないだろうけど、殺されないように、気をつけるから……ルーファスも、力を貸してくれるって」
 本来は巻き込みたくなかった、ルーファスの名を口に出すことに、いまだ胸の痛みを覚えつつも、セラは必死にラーグに訴えた。
 どうか、許して……そして、叶うならば、協力してくれると嬉しい、と。
「……君がそこまで言うなら、しょうがないね。正直、気が進まないけれど」
 しばしの沈黙の後、ラーグは「ハー」と深く息を吐いて、しょうがないね、と観念したように言う。
「ラーグ……」
 申し訳なさそうな顔をするセラに、魔術師は幼い顔つきにそぐわぬ、大人びた、苦笑いにも似た表情をして、気にしなくていい、と首を横に振る。
「そんな顔しなくていいよ、セラ……君が望むのならば、協力するからさ。まずは……あの化け物をおびき寄せるために、解呪の魔女の噂を広めようか?僕も貧民街の中ならば、多少、顔がきくからね」
「本当に……いいの?ラーグ」
 自分で言い出しこととはいえ、己の身を案じてくれた魔術師の意に反することに、良心の咎めを感じて、本当にいいの?と確認するセラの声には、言いようのない不安がにじむ。
 そんな弟子の気持ちを察してか、ラーグはふっと優しく笑って、うなずいた。
 ぐっ、と重ねられた手に、力がこもる。
「いいよ。ただし、約束して……くれぐれも、無茶はしすぎないって」
 ね?セラ……と続けられた言葉に、少女は下を向いて、己の手を握ったラーグの顔を見て、次に重ねられた小さな手を見つめて、深く深くうなずいた。
 自分よりも一回り小さい、魔術師の手はやわらかくて、けれど、頼りなくはなくって……上手く、言葉が出てこなくなる。
「……うん。気をつけるね」
 ありがとう、という言葉では到底、足りない気がして、セラはただうなずくことしか出来なかった。その代わり、感謝の意をこめて、重ねられた手を握り返す。
「ん……。その言葉、忘れないでね」
 念を押すように言うと、ラーグはようやく表情を緩める。重ねた手は、離さぬままで。
 そんな風に表情をゆるめた魔術師に、セラもつられたように、少しだけ口元をほころばせた。
 緊迫した状況にもかかわらず、どこかあたたかい空気を醸し出すふたりに、それまでカヤの外にいた男が、いささか冷めた風に口を挟んだ。
「いい加減、話は決まったのだろう。一体、いつまでそうしているつもりだ?」
 無駄な時間はないはずだがな、としばしの間、沈黙を守っていた男――ルーファスは、冷水を浴びせるような声で、そう続ける。
 彼の声に、セラはわっ、ごめんなさい!と慌てたように、ラーグはハンっと鼻を鳴らし、いかにも可愛げのない表情で、それまでカヤの外にいた、黒髪の青年の方へと向き直った。
 腕を組んでこちらを見てくるルーファスを見て、セラはすまなそうな顔をする。――決して、彼の存在を蔑ろにしていたつもりはないのだが、結果として、ラーグとふたりで話を進めてしまったことに、遅ればせながら、罪悪感を抱く。
 すまなそうな顔をする少女に、ルーファスは気にするな、と短く言った。
 実際、この程度で気分を害するわけもない。言われるまでもなく、セラに悪意がないことは、わかっている。……彼女の横にいる魔術師からは、少なからず、悪意に似たものを感じるが。
 ルーファスがそんなことを考えた矢先、ラーグはにやりと笑うと、揶揄するような口ぶりで言った。
「おやおや……いくら僕とセラが仲良くしてるからって、嫉妬かい?君も意外と可愛いところがあるね、公爵」
「はっ、薄気味の悪い台詞を吐くな。魔術師……性根が歪んでいるうえに、邪推までするとは、救い難いな。貴様も」
「……え?今、何か言ったかい?僕も三百歳を過ぎたころから、すこし耳が遠くなったからさぁ、何も聞こえないなぁ」
 ルーファスの凍てつく氷の如き眼差しも、その刃のような言葉も、ラーグは飄々とした態度で受け流す。
 それがまた、氷の公爵と呼ばれる青年の神経を逆なでするのだが、無論、全て計算づくのことである。
「魔術師。貴様という奴は……もういい。さっさと話を進めろ。時間が惜しい」
 呆れと諦めがまじった表情でそう言うと、ルーファスは「もし、あの化け物を本気でおびき寄せるつもりなら、早く行動に出るべきだ。ぐずぐずしていたら、次の犠牲者が出るぞ」としごく最もなことを指摘する。
 それは、この状況においては、この上なくマトモな意見であったので、さしものラーグも異を唱えることはしなかった。
 ま、やると決めたなら、確かに早く動かないとね……と、同意の言葉を吐く。
 そんな彼らの横で、セラは手早く黒いローブをはおると、壁に立てかけてあった木の杖を手に取る。
 シャラン、と杖についた銀の鈴が、軽やかな音を奏でた。
 黒い手袋をし、顔を隠すようにバサッ、とフードをかぶれば、その瞬間から、彼女は妾腹の王女・セラフィーネではなく、この貧民街で≪解呪の魔女≫――と、そう呼ばれる女になる。
 そうして、魔女としての支度を終えた彼女は、ふわっと亜麻色の髪を揺らしながら、ラーグとルーファスへと向き直り、「ね、夜明けまで、まだ少し時間があるよね?」と尋ねる。
「少しはね。さっそく、動く気?セラ……まあ、その格好なら、聞くまでもないっか」
 どちらともなくされた問いに、答えたのは、ラーグの方だった。
 魔女としての服装、黒いローブをはおったセラの姿に、魔術師は弟子のしようとしていることを察する。
 さっそく、解呪の魔女として動くつもりか、という彼の問いに、少女はこくっと首を縦に振った。
「うん、そうしようと思って。そんなにすぐ効果があるとは思えないけど、動くのならば、少しでも早い方がいいでしょう?……それに、あたしの薬を待っている人もいるだろうし」
 うなずいたセラは、解呪の魔女としての、もう一つの顔を口にする。
 その名の通り、呪いを解く、≪解呪≫の魔女――それとは別に、ここ貧民街の飢えや病に苦しむ人々の中には、解呪の魔女の治療や薬をあてにしている者も少なくない。貧しく、放っておけば死に至る病をわずらったところで、金がないゆえに、ロクに医者にかかることも出来ぬ者たちにとっては、解呪の魔女のもたらす薬草やパンは、それこそ一筋の光にも等しいものだ。
 ひどい火傷を負った娼婦、戦争で片足を失った老人、病気の子供を抱える母親……解呪の魔女に助けを求めてくる者たちは様々だが、共通しているのは、彼らが他に頼る者がいないということだ。
 大国エスティアの暗部、見捨てられた土地である貧民街の住人達は、日々、飢えや病に苦しみ、絶望し、貧しさにあえいでいる。――この英雄王の国において、最も忌避される存在である、魔女を頼らねばならぬほどに……。
 それをよく知っているセラは、薬を待っている貧民街の住人達の苦しみを思い、そっと目を伏せる。
 彼女の言葉にラーグはうなずいて、「よっ」と棚の横の丸椅子にのると、上の段の薬箱へと手を伸ばす。
「わかった。じゃあ、はい、これ……火傷の薬、足りなくなっていたでしょう?僕が、作り足しておいたよ。あと、食料が足りないっていうから、パンも」
 金色の魔術師はそう言いながら、薬草のはいった木箱と一緒に、黒いパンの沢山つまった籐のかごを手渡す。
 それを受け取ったセラは、ありがとう、とやわらかな翠の瞳を細めた。
「どういたしまして。じゃあ、くれぐれも気をつけてね……君がいない間、僕も呪術師連中のツテを使って、解呪の魔女の噂を広めとくからさ」
「ありがとう……本当に。面倒なことを頼んで、ごめんなさい。ラーグ」
 噂を広めると言った魔術師に、セラは心から感謝の言葉を口にする。
「いえいえー、可愛い弟子の頼みだもの。それくらい、なんてことないよ」
 深い感謝と、申し訳ない気持ちが同居したような、複雑な顔をしたセラに、ラーグはいつものように明るく笑って「平気だよ」と、少女を安心させるように言う。
 そのあたたかい笑顔と、穏やかな声音に、強い緊張と不安からか、硬く強張っていたセラの表情も、わずかに緩んだ。
 お願い、けど、無理はしすぎないでね、と魔術師に言って、セラはルーファスの方へと視線を向ける。
 そうして、ためらいがちに唇をひらいた。
「あの、ルーファス……もう少しだけ、ここで待っていてもらってもいい?何があっても、ちゃんと夜明け前までには、屋敷に戻るようにするから」
 ルーファスとラーグを二人だけにすることを少しばかり案じてか、そう尋ねる声は、やや遠慮がちだ。
 その言葉の裏には、己の行動に、夫である青年を付き合わせているという、消しようもない負い目もあるのだろう。あわい翠の瞳によぎるのは、不安にも似たそれだ。
 セラの声に、ルーファスは息を吐いた。――魔術師と二人っきりという状況は、好ましいとは言わないが、かといって、すがるような目でこちらを見てくる少女を蔑ろにするほど、ルーファスとて冷徹でも、また狭量なわけでもない。彼本人は決して認めようとしないだろうが、彼女にかすかな情を覚えていれば、尚更だった。
 ゆえに、彼は「あまり遅くなるな」と言った後、「貴女もわかっているだろうが……気をつけろ」と付け加える。
 そう言った、氷の公爵と呼ばれる青年の口調に、常の鋭さはなく、その深い蒼の瞳からはうっすらと、少女の身を案じるような、心配の感情が透けて見えた。
 よくよく注意してもわからぬような、ひどく些細な変化ではあったけれど、そんな彼の表情を見たセラは、かすかに唇をゆるめ、すでに見慣れた儚げな微笑を浮かべて、扉に手をかけた。
「――じゃあ、出てきます」
 そう言いながら、木の杖を手にしたセラは扉を開ける。
 扉が開いて、一瞬、室内にサアアァァァと夜風が吹き込んだ。リーン、リン、と杖の鈴が軽やかな、澄んだ音色を奏でる。何時の間にやら、嵐のように強くなった夜風が、黒いローブの裾を巻き上げるのも構わず、セラは≪解呪の魔女≫の役目を果たすべく、一歩、外へと踏み出す。リンリンリン、とひどく忙しなく、鈴が鳴る。
「……」
 ルーファスは言葉もなく、黒いローブにうもれるような、少女の華奢な背中を見つめて、胸をざわつかせる感情に気づかぬフリをして、何事もないかのような表情を作り続けた。……幼い頃から、言葉にならぬ感情をやり過ごすのには慣れている。
 こちらを振り返らぬ、少女の小さな後ろ姿からは、その表情はうかがい知れない。けれど、その時のルーファスには、セラの表情が手に取るようにわかった。
 不安を心の奥底へと押し込めて、かたく唇を結んで、震えそうになる手足を叱咤しながら、それでも、あの透けるような翠の瞳で前を見据えて、歩いているのだろう。
 その華奢な背中に、ふと手を伸ばそうかと気まぐれに思い、だが、ルーファスがそれを現実にすることはない。
 きっと、止めろと彼が声をかけたところで、彼女は足を止めようとはしまい。
 その愚かなまで頑なさを、弱さと紙一重の強さを、ひどく下らぬもののようにも思うのに……なぜか、その背中から目を逸らすことが叶わない。
 無視することは、ひどく容易であったはずなのに、気づかぬうちに、その術を忘れてしまった。
 己の心の変化に、ルーファスは嫌でも気づかされる。
 とどめなく形を変えてゆく心の先に、幸福など何もないと、誰よりも知っているのに……。
 ――リーン、リン、と夜風にふかれた杖の鈴が、涼やかな音を奏でながら、幾度も揺れる。黒いローブの後ろ姿が、深い闇にまぎれて、やがて見えなくなった。
「くどいようだけど、気をつけてよ。セラ……何かあったら、大声で叫んでくれれば、すぐに飛んでいくからね――!」
 遠ざかっていく弟子の背中にそう叫ぶと、吹き込んでくる夜風に、黄金の髪をあおられながら、ラーグはゆっくりと扉を閉めた。同時に、魔術師はふぅ、と大きなため息をつくと、絵に描いたような渋面になる。
 まったく……という幼い声は、どこか苦かった。
「ハア、まったく……心配だよ。あの娘は、ときどき身の危険も顧みず、ひどい無茶をするから……」
 ラーグのそれは、ほぼ独り言のようなものだったが、それを聞いたルーファスはふっと皮肉気に唇を歪めて、「お優しいことだな」と言う。
「そこまで、弟子の身を案じるとは、お優しいことだな。魔術師……相変わらず、セラにだけは甘いことだ」
 ルーファスのそれは、ただ事実であったから、言葉の調子はともかく、青年の表情はそれほど皮肉気でもない。
 むしろ、声はからかいにも似た、揶揄めいた響きすら持っていた。
 そう、この金色の魔術師が、弟子であるセラにだけは砂糖菓子のように甘く、優しく接しているのは事実であったので、ルーファスもそれを口にすることに、躊躇いがなかったのだ。
 事実。そう、ただの事実であればこそ。
 己の言葉に、魔術師は肯定するか、あるいはいつものように毒舌を返してくるか、どちらかだとルーファスは予想した。だが、現実はそのどちらでもなかった。
 その代わり――静かな、ひどく静かな声が返ってくる。
「まあ……あの娘が死んだら、一番、困るのは僕だからねぇ」
 何の感情もこもらない、空虚な声だった。
 あの娘が死んだら、と言う魔術師のそれは、まるでモノが壊れたら、という時と同じ。道具が壊れるのを、少しばかり惜しむようなそれ。
 冷ややかとはまた違う、されど、ゾッと背筋を撫でるような、言いようもない違和感を感じさせるそれに、ルーファスは眉をひそめ、その真意を探るかのような目を、ラーグへと向ける。
 ……何かを、間違えている気がした。見逃してはならぬことを、見逃しているようで、ひどく居心地が悪い。
「魔術師……?」
 そう声をかけても、魔術師の琥珀の瞳は、微塵も揺らがなかった。底が見えるほどに透き通ったそれは、深淵にも似た静けさをたたえて、金色の光を放つ。
 ――その瞳の奥に、ゆらゆらと蝋燭の炎が映る様は、いっそ壮絶なまでに美しかった。
「……なんてね。まさか、今のを本気にしたかい?公爵」
 一瞬、異様なまでの緊張感に包まれた空気を崩すように、ラーグは「……なんてね」と冗談めかした声で言った。そうして、何事もなかったように、無邪気な笑みを浮かべる。
 普段と同じ、その態度は、先ほどのアレは幻だったのかと思わせる。されど、それは違和感を完璧に拭い去るには至らない。
 ルーファスが口を開いて、何事か言おうとするのを制すように、ラーグは高い声で言う。
「さぁて、あの化け物をおびき寄せるために、解呪の魔女の噂を広めに行こうか?公爵……セラにも、そう約束したことだしね」
 行こうか、とそう言った魔術師の声は、すっかりいつも通りで、追及するタイミングを逸したルーファスは不愉快そうに眉を寄せた。
 それでも、この緊迫した状況で、わざわざ問うことでもないかと割り切る。
 公爵、と呼びかけてくるラーグはひどく良い笑顔で、ルーファスを逃がしてくれる気も、巻き込まないでいてくれる気もなさそうだった。毒食らわば皿まで、という心境なのかもしれぬ。
 一方、ルーファスは迷惑そうな顔で、「……なぜ、俺が?」と言った。
「なぜ、俺が従わねばならん……俺は、俺の目的で動いているのであって、貴様に協力するとは一言も言ってないがな。魔術師」
 わかってないね、とラーグは肩をすくめる。
「ハー、わかってないね。公爵……この際、君の意思はどうでもいいんだよ。使えるものは、親でも使えって言うじゃないか。というか、僕は他人が楽するのは、絶対に許せない性分だから。セラじゃなくて、僕がね」
「何だ、その妙な理屈は?」
「良いから、時間ないって言ったの、君でしょ。公爵……あの化け物を、どうにかしたいんじゃないの?」
 そう言うと、ラーグは扉を開けて、セラに頼まれた噂を広めるために、さっさと外に出て行こうとする。
 ルーファスは椅子から立ち上がると、「……極めて不本意だが、今回だけだ」といかにも嫌そうな顔で言い、魔術師の小さな体躯を追う。
 ぎい、と鈍い音がして、扉が閉まる。
 ――月明りに、大小ふたつの影が踊った。

 それから、貧民街を中心として、解呪の魔女の噂がひそやかに広まっていくのに、それほど時間はかからなかった。
 水際の波紋のように、あくまでも静かに、されど、途絶えることなく広まった噂の影に、金色の魔術師の存在を感じた者は少ない。
 そうして、それより二十日ほどの時が流れる――



 ふいに風が止んだのを感じて、貧民街に佇んだセラは、夜空を仰ぐ。
 暗闇に包まれた空に、煌めく星々は少なく、その代わり灰色がかった雲がかかっていた。
 見上げた今宵の月は、いつぞやのように、光の加減か、わずかな赤みをおびているように見える。……あの日と同じ、流れた血を連想させるような、あかい、赤い月。
 (赤い月……)
 黒いローブをまとった少女の横顔を、月光が照らす。
 青白い肌に、一筋の月光が、複雑な陰影を落としていく。仰向いた拍子に、サラリ、と亜麻色の髪が首筋を撫でた。
 かすかに睫毛を揺らして、翠の瞳はまるで魅入られたように、赤い月を見つめた。
 黒いローブを身にまとい、手に銀の鈴がついた杖を手にした少女は、今、この瞬間は≪解呪の魔女≫と呼ばれる身だ。セラでも、妾腹の王女・セラフィーネでもなく、ただ魔女と呼ばれる娘は、あたかも月に心を奪われたように、その赤い月を見つめ続ける。
 そうして、ぼんやりと月を仰ぎ見、心ここに在らずといった風情のセラに、下から「……魔女さま?」と幼い声がした。
 不安と心配がいりまじった子供の声に、魔女さま、と呼ばれたセラはふっと我に返って、軽く膝を折ると、その声の主と向き合う。
 そうした彼女の目を映るのは、まだ十の齢は数えていないだろう、幼い少年だった。
 ボサボサに乱れた髪、泥と埃でうすよごれた顔、伸びやかなはずの手足は、いく筋もの赤い線が走り、哀れなくらい痩せ細っている。つぎはぎだらけのボロボロの服は、すでに服というのもはばかられるような有様で、少年の身体からは糞尿にも似た、ひどく鼻につくような臭いがただよっていた。
 貧民街の子供だ。
 年端もいかぬような、幼い少年のそんな姿は、わずかなりとも心ある者ならば、眉をひそめ、哀れだと思わずにはいられなかっただろう。だが、ここ貧民街の住人としては、そう珍しいものでもない。
 むしろ、貧しい者たちが身を寄せ合って暮らす、この貧民街の中にあっては、そんな子供の姿は見慣れたものだった。薄汚れた身なりも、哀れなほどに痩せ細った手足も……ただ、その瞳だけが、漆黒の、きらきらした輝きを残している。
 その少年は、黒く大きな瞳でセラを見上げると、「魔女さま……」と同じ言葉を繰り返す。
 黒い瞳が一心に、魔女である少女を見つめていた。
 小さな手が、ぎゅううう、とすがるように、黒いローブの裾を握りしめる。
「ああ……ごめんね。今日も、お母さんの代わりに、薬をもらいに来たの?」
 セラは膝を折ると、少年からただよう異臭に眉を寄せることもなく、優しく微笑んで、すがるようにローブの裾をつかんだ子供と、その目線を合わせる。
 穏やかな翠の瞳に見つめられたことで、少年は黒い瞳に安堵にも似た色を宿すと、安心したように、こくん、と首を縦に振る。
 病を患って以来、寝台からロクに起き上がれぬ母親に代わり、解呪の魔女に薬をもらいに来た子供は、ぎゅう、とセラの裾を離さぬまま、「母さんが……」と言う。
「母さんが、すごく足が痛いって……古傷が痛むって、そう言ってる……いつもの薬をくれる?お願い、魔女さま」
 すがるように、乞うように、魔女のローブを握りしめて「母さんを、助けて……」という少年の顔には、わずかな不安がにじんでいる。
 もし、薬がなかったら、あるいは薬をもらえなかったらと思うと、不安で仕方ないのだろう。医者に診せる余裕など、持ち合わせているはずもないのだから。魔女さま、魔女さま、お薬をわけて……そう懇願する子供の声は、本当に必死だった。
「いつもの塗り薬ね。あるから、ちょっと待ってて」
 心配そうな顔をした少年を安心させるように、あわく微笑したセラは「大丈夫だよ」と、ボサボサの少年の頭を撫でて、地面においていた薬箱をあけた。中から、少年の母親に渡すための塗り薬を取り出すと、「はい」と小さな手のひらに、それをのせる。
 セラの手から薬を受け取った子供は、ほっと安心したように、黒い瞳を輝かせ、「ありがとう」と嬉しそうに、本当に嬉しそうに笑う。
 この国で唾棄されるべき存在である、魔女と向き合っているにもかかわらず、子供の顔に曇りはない。
「どうもありがとう。魔女さま」
 名残り惜しげにローブの裾から手を離すと、幼い少年は魔女からもらった薬を大事そうに、まるで宝物のように胸に抱え込んだ。大切な、大切な薬なのだ。母親にそれを渡すまで、絶対に無くすわけにはいかない。
 もう一度、「魔女さま、ありがとう」と言うと、少年は一刻も早く、痛みに苦しんでいる母親の元に帰ろうと、セラに背を向ける。
 そうして、胸に大事そうに薬を抱いて、ペタペタと足音を立てながら、母親の待つ家へと駆けていく子供の背中に、セラは声をかけた。
「気をつけて。ひとりで帰れる?」
 少女の声に、幼い少年は振り返ることなく、「うん!」と叫び返すと、その小さな背中は直に見えなくなった。
 大切そうに薬を抱え込んだ、小さな背中を見送ってから、セラはふっと嘆息し、目を伏せ、その顔に憂いを宿す。
 寝台から起き上がれぬ母親に代わり、解呪の魔女に薬をもらいに来た、幼い少年。
 貧民街の住人として、お世辞にも豊かとも清潔とも言えぬ身なりをした彼は、靴をはいておらず、裸足で走っていった。靴すら買えぬ我が身を哀れむこともなく、魔女さま、とセラを慕う少年は、足裏の痛みを口に出すこともせず、本当に嬉しそうに、母親の元へと帰っていった。
 その笑顔が無垢であるのが余計に、セラの心に影を落とさずにはいられない。
 ――生まれた時から、貧民街で育ったあの子供は、きっと知らないのだろう。同じ国で、貴族階級にある者たちが夜毎、華やかな宴を開き、悦楽に耽っていることも。ここ、貧民街がエスティアの影と呼ばれる、この国の誰からも、国王からすら見捨てられた場所であることも。
 英雄王オーウェンの時代より三百年余り、この王国は数多の国々を征服し、多くの歪みを抱えたまま肥大し、今、この時も、在りし日の繁栄の残滓をむさぼり続ける。
「……」
 小さくため息をもらしたセラは、再び、漆黒の闇に浮かんだ月を仰ぎ見る。
 吐く息の音すら響くほど、ひどく静かな夜だった。
 今日はもう屋敷に戻った方がいいだろうか、と≪解呪の魔女≫と呼ばれる少女は、シンと静まり返り、人っ子ひとりいない周囲を見回し、そう考えた。今日はもう、これ以上、この場に留まっていても、おそらく薬を求めてくる者はいまい。
 ――彼女の願いを聞いたラーグが、解呪の魔女の噂を広めてから、今日で二十日になろうとしている。
 その日から、セラは三日と開けずに貧民街に通い、解呪の魔女の噂を広めると共に、魔女さま、魔女さま、と彼女を慕ってくる貧民街の住人達に、薬草を分け与え続けた。最初は、毎晩のように行列が出来ていたものだが、頻繁に通った為か、今日など行列も出来ず、静かなものだ。
 しかし、そんな彼女の行動にも関わらず、囮役としての成果が出ていないのか、あるいは未だ噂が届いていないのか、それとも警戒しているのか、あの化け物がおびき寄せられることはなかった。
 ……あの化け物がそう長い間、人を食らわずにいられるとは、セラは思えない。
 今、この瞬間にも、新たな犠牲者が出ているかもしれないと思うと、食い殺されたリーザのことが頭をよぎり、彼女はギリギリと胸をしめつけられるような、ひどく重苦しいものを感じずにはいられなかった。
 はあ、と無意識のうちに、セラの唇から大きなため息が出る。
「今日も……来なかった」
 そう、落胆したように呟いて、少女は木に立てかけた杖に手を伸ばす。
 ――その時だ。
 風がふいた。ぞくり、と肌を撫ぜるような、なまあたたかい風が。
 リンリンリン、と杖の鈴が揺れ、木々の枝葉が悲鳴のような音をさせる。
 風が運ぶは、怖気立つような血の臭い。もはや隠しようもない、死の香り。そして……むせかえるような獣臭さ。
 心臓をわしづかみにされるような、そんな言いようもない不快感を感じながら、セラは後ろを振り返る。思わず、鳥肌が立つ。寒気がする。それでも。
 魔女と呼ばれる彼女が振り返った時、それまで誰もいなかったはずの場所に、大きな黒い影が立っていた。
 頭からフードをかぶった、その黒い影の表情は見えない。けれど、フードの下からのぞく、血の如く赤い目は、ゾッとするほど禍々しい光を放っていた。グルル……と人にはあり得ぬ、獣の唸り声が、フードの下から聞こえる。
 白い牙ののぞく口元からは、ダラダラとだらしなくヨダレが垂れ、それがまた獣臭さをふりまく。だらりと垂らされた両腕からは、凶器のような、長く鋭い爪が伸びていた。――あの時、セラの肌を切り裂かんとした爪、喉を食い千切ろうとした、その鋭い牙。
 そのフードの下にあるのが、人の顔ではなく、狼のような獣の頭であることを確信しながらも、セラは逃げようとも、後ろに下がることさえしなかった。
 大勢の人々を……彼女の幼馴染のリーザを食い殺した、漆黒の異形――呪われたモノ。人食いの化け物。
 その禍々しい赤の目に睨まれ、心臓を握り潰されるような恐怖を感じながら、セラは表情を変えなかった。手足は震え、凍りつくような寒気が、全身を支配していても、悲鳴は上げない。恐怖にかられて、逃げもしない。――絶対に。
 解呪、呪いを解く魔女の名を持つ少女は、翠の瞳で正面から漆黒の異形を見据え、うっすらと微笑すらしてみせた。化け物、とは叫ばない。
 そうして、まともな答えが返らないのを承知の上で、セラはその化け物に問いかける。
「解呪の魔女に……何か、御用ですか?」
 返事はない。
 グルル……と唸り声が響く。
「……」
 獣臭さが増して、セラと黒い影の距離が縮まった。
 化け物が近寄ってきても、少女は穏やかな微笑を浮かべたまま、答えのない問いを重ねる。
「――その呪いを……解きたいですか?」
 セラの問いに、化け物は返事もなく、彼女のそばへと歩み寄ってくる。
 獣臭さが、強くなった。
 血の臭いのする、なまぬるい風が吹く。
 化け物にまとわりつくのは、隠しようもない死の香り。一体、何人の人間を食い殺したのか?その赤い目は血よりも紅く、禍々しい。
 フードの下に赤い目をギラつかせた、その漆黒の異形は、音もなくセラへと歩み寄ると、呪いを解けと命令するように、その刃にも似た鋭い爪を、少女の喉元へと突き付ける。
 その拍子に、長い爪がかすり、少女の手の甲からは、ダラリと赤い血が流れる。
 白い肌に咲いた、鮮血の赤い華――
 臆病にすら思える少女のどこに、それほどの胆力が潜んでいるかは謎だが、手の甲を伝う赤い血を見ても、喉元に突きつけられた鋭い爪にさえ、セラは一瞥をくれただけで、動揺を顔には出さなかった。
 その代わりのように、セラはふっとあわく儚げな微笑を浮かべると、その手で、その指先で、フードの下の化け物の額へと触れた。
 同時に、その唇が、呪いを解く言葉をつむぐ。
「【古の魔女と人の王の盟約において、血の契約を受け継ぎし者、我が命じる。その魂に刻まれし呪いよ、その者を開放し、あるべき混沌の淵へと還れ】」
 ――言葉と同時に、鮮烈な、白い光が弾けた。
 あたたかな光が、黒い影を、化け物の身体を包み込む。
 ほんの一瞬の後、目を開けていられぬほどの、眩いまでの光が消えてから、セラはゆるゆると瞼を上げた。
「……」
 解呪の魔女の手によって、呪いは解かれたのだろう。
 彼女が翠の瞳を瞬かせた時、そこには既に、あの禍々しい化け物の姿はなかった。
 むせかえるような獣臭さが嘘のように消えて、その代償のように、息苦しいほどの香水の香りが、周囲にふりまかれる。
 ……そう、あの漆黒の異形は、何処にもいない。
 セラは首をかしげ、先ほどと同じく、前に立つ黒い大きな影を仰ぎ見た。
 決して、化け物ではない。
 人間だ。
 赤銅色の髪をした、四十くらいの男である。がっしりとした男らしい体格と、端整というにはやや荒削りだが、崩れたような危うい魅力をただよわせた、色男ではあった。
 姿を消した化け物の代わりのように、急に姿を現したその赤銅色の髪をした男は、あの化け物と同じように、セラの喉元に手を伸ばしている。
 その手に、鋭い爪がないのが、違いと言えば違いだった。
 セラは「あ……」と困惑したような声をもらし、
「貴方は……?」
と、唐突に姿を現した、赤銅色の髪の男に問いかける。
 少女の問いかけに、野性的な色気をただよわせた男は、ふっと甘い笑みを浮かべる。男からただよう、むせかえるような香水の匂いが、セラに眉をひそめさせた。
 あいにくと……先ほどの続きのように、セラの喉を掴んで、甘く、甘い声音で、赤銅色の髪の男は――ローディール侯爵は、続ける。
「あいにくと……答える義務はないな。魔女」
 そう言った男の目に宿るは、狂気と蔑み……そして、殺意。
 セラの喉元にあてられた手に、力がこもる。
 口封じのつもりだろうか。呪術師の老婆を殺した時と同じく、魔女を絞め殺そうとするローディール侯爵の顔には、迷いがない。
 まさか、首を絞めている少女が、セラフィーネ王女と、蛇蝎の如く嫌うルーファスの奥方と同一人物とは、夢にも思わないのだろう。否、知っていたところで、その行為は変わらなかったかもしれないが。
 ギリギリギリ、と喉を絞める指先が、肌にくいこんでいく。
「かっ……は……っ!」
 首を絞められたセラが、苦しげに呻いて、バタバタと手足を動かした。
 喉元に食い込んでくる指を外そうと、必死に暴れる。
 呼吸が出来ない苦しさからか、目元に涙がたまる。
 そんな少女の表情を見た、ローディール侯爵は愉悦じみた笑みを浮かべて、あまい香水の匂いを漂わせる。
 嗜虐趣味を持ち合わせているのか、赤銅色の髪の男は愉しげに、ひどく愉しげに笑う。
 首をしめる指先に、更なる力がこめられようとした瞬間、男の頭上を強い風が吹いた。
 否、風ではない。
 凄まじい速度で頭の上を横切った剣は、夜の闇を切り裂いて、風をもたらし、暗闇に銀の軌跡を描き出す。――さながら、一陣の風の如く。
 もし、ローディール侯爵がセラの首から手を離し、とっさの勘で、後ろに飛びのかなければ、その一撃は、おそらく致命傷となっていたに違いない。
 パラパラ、と切り裂かれた赤銅色の髪が宙を舞ったのが、その証拠だ。
「つまらん。俺としたことが……外したか」
 低く、通りの良い声が、夜の闇に響き渡る。
 ローディール侯爵に剣を振り下ろそうとした、その声の主は、喉を押さえて「げ、ほ、げほげほ……」と咳き込むセラの腰を抱いて、片手で己の方に引き寄せると、背中の側へと下がらせた。
 少女の首筋につけられた、赤い指の痕を見て、一瞬、蒼い瞳に不快そうな色を宿すと、声の主はローディール侯爵の方を向く。
 青年の氷のような眼差しが、赤銅色の髪をした男を射抜いた。
 闇の如き黒髪、どこまでも深い蒼の瞳、冷ややかな空気をまといながら、されど、目を逸らせぬほど美しい男。氷の公爵と呼ばれる彼。
 間違えるはずもない。間違えられるはずもない。こんな男は、ローディール侯爵が知る限り、一人しかいない。
 ローディール侯爵はギリッと唇を噛むと、憎しみのこもった目をして、己に剣を突き付けてくる青年の名を口にした。
「貴様っ!……エドウィン公爵」
 ぎらぎらと殺意のこもった目を向けてくるローディール侯爵に、剣の切っ先を突きつけたまま、ルーファスはふっと口元を緩める。
 銀の刃が、月光をはじく。
「――こんなところで会うとは、奇遇だな。ローディール侯爵?」
 そう言って、赤い月を背にした青年は、冷ややかな美貌に、凄絶なまでに綺麗な微笑をのせた。


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