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三章  呪いの代償  22


「エドウィン公爵……貴様がなぜ……貴様がなぜ、ここにいる!」
 急に出てきたルーファスに、目と鼻の先で剣を突きつけられたローディール侯爵は、そう叫ぶ。
 《解呪の魔女》の正体を知らぬ以上、セラとルーファスの繋がりを知らぬ以上、その反応も当然のことと言えるだろう。なぜ、魔女の首を絞めていたら、エドウィン公爵が助けに来たのか、事情を知らぬ者は全く意味がわかるまい。
 魔女の首を絞めていたところで、急に助けに出てきた青年の存在に動揺を隠せないのか、赤銅色の髪の男は驚愕した風に、強い声で言葉を重ねる。
 その荒々しい、焦りの濃い声音が、言葉よりも雄弁に、ローディール侯爵の動揺ぶりを示していた。
「答えろ!!エドウィン公爵!!」
 赤く、流れる血を連想させるような月の下、獣じみた怒鳴り声が響き渡る。
 月に照らされた刃が、どこか寒々しいような、銀のきらめきを放っていた。
 眼前に突きつけられた剣の切っ先に、わずかに怯んだように、一歩、後ずさりながら、ローディール侯爵はそう吠えた。
 全ての仮面をかなぐり捨てたような、荒々しい口調は、普段、王宮で宰相の腰巾着として振る舞っている慇懃さも、危うい魅力をただよわせて、貴族の女たちと噂を流している優男風な態度とも、まったくかけ離れていて、同じ人間とも思われない。
 血走った目には、ふいに姿を現したルーファスに対する驚愕と、ぞっと寒気がするような増悪の感情がこもっている。
 そんな狂気じみた光を宿す、ギラギラとした瞳は、警戒するように、一瞬たりともルーファスの剣から逸らされていない。……さながら、少しでも気を抜けば、その剣が己の眉間を貫いてしまうと、そう思い込んでいるようである。
 驚き、増悪、恐怖、獣じみた狂気が、複雑に絡み合った凄まじい形相だった。
 剣を突きつけられた赤銅色の髪の男と、剣を突きつけた側、薄ら寒いほど綺麗な笑みを浮かべた、黒髪の青年。
 抱き寄せられ、青年の背中に庇われたセラは、赤い痕のついた首を押さえながら、心配気な面持ちで、緊迫した空気の中、対峙する二人の男を見つめている。
 ただ守られている気はないというように、ぐっ、と引き結ばれた彼女の唇からは、強い意志のようなものが感じれた。
 ルーファスの肩越しに、少女の眼差しは逸らされることなく、己を手にかけようとした男――ローディール侯爵へと向けられている。
 透き通るような、やわらかな色合いをたたえたセラの瞳からは、怒りも増悪も復讐心も読み取れず、だが、幼馴染のリーザを喪った真実を見極めようとするように、その瞳が伏せられることは、決してない。
 そんな彼ら三人の間を、なまぬるい風が吹き抜ける。
 肌を撫でられ、ぞくりと鳥肌が立つような、ひどく嫌な風だった。だが、先ほどと異なり、もはや、あの獣臭さを感じることはない。
 それにも関わらず、化け物の呪いが解かれた、赤銅色の髪の男からただようのは、むせかえるまでの甘い、あまい香り。――死と血の臭いを隠すための、嘘と偽りにまみれたそれ。
 あの化け物が消えたところで、多くの人間を食い殺した際に身に染みついた、死臭までは消えはしない。流された血が、奪われた多くの命が、食い殺された人々の断末魔の悲鳴が、よりいっそう、その甘い香りを際立たせる。
 食い千切られた手足、穴の開いた眼窩、辺りを埋め尽くす、おびただしいほどの血の海……呪術師の老婆の。
 あまりに多くの血を浴びたはずの、その男のまとう香りが、ひどく甘やかなことに、ルーファスは皮肉気に唇をつり上げる。――甘く、誘うような香りさえ、流された血の前には、呪いにも等しい。
 そうして、冷ややかな笑みを浮かべた青年は、多くの人間を食い殺した化け物の叫びに答えた。否、化け物であった男の言葉に応じた。
「なぜ――だと?それは、こちらが尋ねたいが?ローディール侯爵」
 激昂したローディール侯爵とは対照的に、剣を突きつけたルーファスの表情は、薄く唇をつり上げた他は、ほとんど変わらない。
 冷ややかな印象を与える、端整な面からは、いっそ憎らしいほどの落ち着きが感じられる。
 しかし、その言葉の裏には、突きつけた刃にも似た鋭さがあった。
「貴方に、深夜、化け物のなりで王都を徘徊する趣味があるとは……寡聞にして、知らなかったぞ。獣の姿でうろついていることといい、女の首を絞めていることといい、先ほどのは中々、面白い見世物だった……ローディール侯爵、貴方には、道化の資質があるな」
 感心したぞ、と。
 どこか揶揄めいた言い回しをしながらも、そう口にするルーファスの目は、まったく笑っていない。
 彼の蒼い瞳は鋭い光をたたえ、射抜くように、赤銅色の髪の男を見据えている。
 胸を抉るような鋭い言葉と、射抜くような眼光、何より目の前で突きつけられた剣の存在に、ローディール侯爵はちっ、と激しく舌打ちし、「この無礼な若僧がっ!今すぐ、その忌々しい口を閉じろ……エドウィン公爵ぅぅぅ……」と唸る。
 殺意で塗りつぶされた表情と、粗野で荒々しい態度は、呪いが解けた今、この残虐さが男の本質であるのだろう。それか、化け物として、多くの人間を手にかけ、その肉を食らううちに、心まで獣と成り果てたのかも知れぬ。
 いずれにせよ、氷の公爵と呼ばれる青年は、凄まじい殺気のこもったローディール侯爵の視線を歯牙にもかけず、また何と言われようとも、追及をゆるめる気も、ゆるめてやる理由もありはしない。
 セラが呪いを解いた今、化け物ではなく、人の身でありながら、獣じみた形相を浮かべた男に、ルーファスは静かな声で、「それで、結局、何人の人間を食い殺したんだ……?」と問う。
「それで、結局、何人の人間を食い殺したんだ……?よければ教えていただけないか、ローディール侯爵?……いや、人食いの化け物と呼ぶべきか」
 底の見えない狂気に、ぎらぎらと目を血走らせる一方で、探るように、ルーファスの出方をうかがっていたローディール侯爵だったが、その言葉を聞いた途端、顔色が変わる。
 ルーファスが「王都を騒がせた化け物の正体が、貴方だとはな」と続けたことで、それは決定的になった。
 魔女の首を絞めている場面を見られた以上、まさか、しらを切れるとまでは、さしものローディール侯爵も思ってはいなかっただろうが、氷の公爵と呼ばれる青年が、何をどこまで知っているのか、内心、疑っていたのだろう。
 ぎりりと不快そうに歯を鳴らすと、甘く、少し崩れたようなマスクに猜疑の色を張り付けて、ローディールは、くそっ、と罵声を飛ばしながら、黒髪の青年を睨みつける。
「くそっ、エドウィン公爵……貴様、何を、どこまで知っている?」
 ローディール侯爵の言葉に、ルーファスは答える義理はないとばかりに「さぁな……」と肩をすくめると、淡々とした声音で答えた。
「答える理由がないな。俺はただ、貴方が化け物の正体であることがわかれば、十分だ……それで、どちらがいい?ローディール侯爵」
「なに……?」
 どちらがいい?という問いかけに、赤銅色の髪の男は、怪訝そうに眉根を寄せる。
 そんな男に向かって、ルーファスはさも当たり前のように続けた。
 青年の左手には、剣が握られている。
「罪人として牢獄に入るか、もしくは、今ここで地獄を見るか、だ……俺としては、どちらでも構わないがな」
 低く、通りの良い声で発せられるそれは、全く声を荒げていないにも関わらず、静かな迫力と、抗い難い響きに満ちている。
 俺としては、後者をすすめるが……と、涼やかな声で続けて、ルーファスは蒼い瞳を細めた。
 そんな彼の態度に、度を越した怒りのあまり、顔をゆがめたローディール侯爵だったが、感情のままに振る舞うのは、得策ではないと判断したのだろう。
 小さく首を横に振る。
 そうして、ローディールは、どこか勝ち誇ったような笑みを浮かべると、ふん、と嘲るように鼻をならす。
 にやにやと嫌らしく笑いながら、つい先ほどまで、人食いの化け物であった男は言った。
「ふん、そうは言うがな、エドウィン公爵……呪いが解けた今、私と件の化け物を結びつけるものなど、何もありはしないだろう。貴様が何を吠えたところで、誰も信じないだろうさ」
 罪が明らかにならなければ、真実は埋もれてしまう。
 呪術師の老婆を殺して以来、呪われて散々な目に合ったが、こうして《解呪の魔女》の呪いを解かせた今、己と化け物の繋がりを示すものなど、何もない――そう判断した、ローディール侯爵は余裕すら感じさせる表情で、ルーファスの方を見やる。
 否、正確には、青年の背中にかくまわれたセラへと、べっとりと粘つくような視線を向けた。
 その全身を舐め回すような、粘着質で嫌らしい男の視線に、少女は表情を凍りつかせ、びくりと身を震わせる。視線こそ逸らさなかったものの、直前に首を絞められた相手に、そんな目を向けられて、気分がよかろうはずもない。何と言っても、殺されかけた直後だ。
 きつく唇をかみしめ、表情を強張らせるセラに、ローディールは嗜虐心からか、愉悦じみた笑みを浮かべた。
 《解呪の魔女》などと、御大層な呼び名の割には、フードの下からのぞく魔女の容貌は、平凡な若い娘そのものだったが、苦しそうな表情や、揺れる翠の瞳には、なかなかそそられるものがある。
 ついで、さりげなく魔女である少女を、愉悦じみた笑みを浮かべた男から隠すように、一歩、前に出たルーファスの行動を、ローディールは嘲笑う。
 ――魔女とエドウィン公爵の関係は謎だが、呪いを解いた瞬間を狙って、自分を捕えようとしたエドウィン公爵の考えは、浅はかとしか言いようがない。だが、そのおかげで、助かったのは事実だ。 化け物の呪いが消えた以上、エドウィン公爵がどう足掻いたところで、私を牢獄に入れることなど出来ない。腹の底から湧きあがってくる、勝利の余韻と愉快さに、ローディールはほくそ笑まずにはいられない。何人、食い殺したから、平民が死んだから、一体、何だというのだ。……私の勝ちだ。
 化け物になるなどという、面倒な呪いが解けた解放感と、勝利の余韻に酔いながら、男は機嫌よく魔女に語りかけた。
「解呪の魔女とやら、汚らわしい存在だが、呪いを解いてくれたことには感謝するよ……おかげで、私は晴れて自由の身だ」
 ローディールの言葉に、セラは表情を曇らせて、悲しげに眉を寄せる。そんなことはないと、否定の言葉を吐き出したいのに、なぜか、すぐに声が出てこない。血と死臭にまみれながら、己の勝利に酔う男の姿に、彼女は恐怖と……かすかな憐みを覚える。
 セラが唇をひらいて、否定の声を上げるよりも、ルーファスが「果たして、そうかな」という方が、わずかに早かった。
 どこか不穏な響きを宿したそれに、赤銅色の髪をした男は、どういう意味だと、不愉快そうに唇をとがらせる。
「何だと……?どういう意味だ?」
 問われたルーファスは薄く笑い、ある意味、穏やかな、優しい眼差しを、ローディールへと向ける。憎しみも、鋭ささえないそれは、道化か真の愚か者に向けるそれだった。
「少々、探ってみたら、貴方の従者が面白いことを吐いたぞ……たしか、フィリップといったか」
「フィリップだと……」
 貴方の従者。フィリップ。
 己の従者の名前が、ルーファスの口から紡がれた瞬間、ローディール侯爵の表情が、傍目にもわかるほど、ハッキリと変わった。嫌らしく笑みを形作っていた唇は、急に引き結ばれ、その瞳には不審そうな色が宿っている。
 男はもう一度、「フィリップが……」と怪訝そうに呟いた後、いささか焦ったような表情で、ルーファスに尋ねる。もはや、その表情に、ついさっきまでの余裕は感じられない。
「エドウィン公爵……貴様、フィリップに……私の従者に何をした?」
 そう問うローディールの顔は、真剣だった。
 長年、自分に仕えてくれた従者が、どんな目に合っていようが知ったことではなかった。所詮、平民の従者の代わりなど、いくらでもいる。
 しかし、己にとって都合の悪いことを、よりにもよってエドウィン公爵に話すことだけは、許し難い。
 ああ、とうなずいて、ルーファスは得意がるでもなく、あっさりと己の得た情報を語る。
「貴方の従者なら、少しばかりの報酬と引き換えに、何の躊躇もなく主人を売ったぞ。ローディール侯爵……貴様、自分の妻を呪うよう、呪術師の老婆に依頼しただけでは飽き足らず、食事に毒まで盛っていたそうだな」
「……」
 ルーファスの顔を、すさまじい目つきで睨みながらも、図星であるのか、ローディールは無言をつらぬく。
「毎日、毎日、少しずつ……怪しまれないように、身体を弱らせていく毒を使ったとか……フィリップという男に尋ねたら、頼みもしないことまで、べらべらと喋ってくれたぞ」
 神への罪悪感に耐えかねてとか、奥方様への忠義がとか何とか、ぶつぶつと言い訳していたが、実際には、フィリップという従者の男に主人に対する忠節が、微塵もなかったであろうことは、主であるローディール侯爵と表情を見ていれば、ルーファスには容易に察せられる。
 今頃、主人を売ったあの従者は、報酬の金貨を数えて、にんまりと笑っていることだろう。
「これが明るみになれば、騎士団も無視は出来ぬだろうし、奥方の実家も黙ってはいないだろうさ……」
 たとえ化け物の件は曖昧に出来ても、最早、妻殺しの件は隠し通せまい。
 貴方は、もう終わりだ――と。
 赤から青へ、じょじょに顔色を変えつつあるローディール侯爵に、ルーファスはとどめともいえる言葉を突きつける。
 氷と称される青年から突きつけられた、容赦のない言葉の数々を、妻殺しの疑惑をローディールは否定も肯定もしなかった。その代わり、ふてぶてしく唇を歪めたのは、果たして虚勢であったのか。
「……まだだ。私は、私はまだ終わってなどいない……」
 再び、なまぬるい風が吹き抜け、赤銅色の髪が乱れる。
 ゆらり、とその大柄な体躯がゆらめいた。
 月夜の闇にまぎれるように、ローディールは素早く、剣を手にしたルーファスから一歩、後ずさり、距離を取ると、懐に隠し持っていた短剣をにぎる。どうすればいい、どうすればいい?……答えは、簡単だ。まだ手はある。真実を知る者を、消してしまえばいい。あの呪術師の老婆と、食い殺した奴らと同じように、そうするしかないのだ。
 手の内の刃が、銀の光をはじく。
 そうして、ローディールは獣のように吠えた。
「――ここで、貴様を殺せばいいっ!」
 そう叫ぶと、男はルーファスに襲いかかった。
 剣と短剣、得物の差は歴然だったが、内側に入り込めば勝機はある。
 最後の手段で、賭けに出たローディールには、自信があった。
 化け物の時に刃を交えて、ルーファスの力量の程はわかっているつもりであったし、青年の端整な容貌からは、荒々しさは感じられない。
 こう見えても、男は若い頃は騎士たちと鍛錬に明け暮れたという、自負がある。
 ここ最近は、美食や女遊びに耽っていたとはいえ、王太子の補佐として、日々、書類仕事に追われているだけの若僧に負ける気はしなかった。
 ――その自信こそが、ローディールを動かした。
 それは、過信であったのかもしれぬ。呪いゆえに、化け物の姿をしていた時、男は常人ではありえぬ速さで動くことが出来たし、夜目も利き、鋭い爪も牙もあった。呪いが解かれた今も、その感覚が残っていればこそ、短剣が振りかざされる。
 案の定、虚をつかれたように、呆然と立ち尽くすルーファスを見て、ローディールは勝利を確信した。銀の刃が、鋭い軌跡を描いて、喉元を狙う。――私の、私の、私の勝ちだ!
 蒼い瞳がスッとすがめられ、鋭い光がよぎる。
 己に振りかざされた短剣を、すいと流れるような動作に横に避けると、ルーファスは剣をふるう。野生の獣にも似た、しなやかな腕の動きは、されど、避けきれぬほど速かった。
 一瞬。
 ほんの一瞬だ。
 瞬きすらせぬ間に、勝負はつく。
「……遅い、な」
 ザシュッ。
 肉を切り裂き、骨を貫く音がする。
 ルーファスの剣が、ローディールの腕を切り裂いた。
 切りつけられた腕から、あざやかな鮮血があふれ出す。
 赤い、赤い、血飛沫があたりに飛び散り、流れてでた命の雫が、地面を汚した。ぼたり、ぼたり、と褐色の地面が血に染まってゆく。ぐちゃりと肉の破片が散乱するのが、妙に生々しい。
 あ、あ、あ、あ、あ、あああ……と言葉にならない、叫びのような呻き声があがる。
「遅い。化け物の姿をしていた時の方が、相手のしがいがあったな」
 その惨状を平然と眺めながら、ローディール侯爵の腕を切りつけたルーファスは、さしたる感慨もなさそうに言う。
 飛び散った返り血で、青年の頬や服は赤く染まっていたが、それすらもどうでもよさそうだった。
「あ、あ、あ、腕が、腕があ、私の腕があああぁぁぁぁっ!」
 狂ったような叫びが、耳をおおいたくなるようなそれが、キンキンと響きわたる。
 切られた腕を、もう片方の手で懸命に押さえて、ローディールは地面を転げまわった。必死に腕を押さえているにもかかわらず、その腕からは絶え間なく、赤い血が、命の欠片がこぼれ落ちる。ひいいいいと叫ぶ、その凄まじい顔つきには、死への恐怖がにじんでいた。
 押さえても押さえても、あふれ出す血は止まらず、指の間から吹き出す鮮血が、あざやかな赤い華を咲かす。
「……っ!」
 青年の後ろにいたセラが、声にならない悲鳴を上げる。
 返り血を浴びたルーファスは、そんなローディールの姿を一瞥すると、冷ややかな声で言った。
「そう騒ぐな……さんざん人を食い殺した代償が、腕一本ですめば、安いものだろう?」
 想像を超える激痛で、地面を転げまわる血まみれの男の耳には、果たして、その言葉は届いているのか。
 淡々とした声音で言うと、ルーファスは拳で、頬についた返り血をぬぐう。
 血で赤く染まった手の甲に、彼は不愉快そうに、かすかに眉を寄せた。
「汚れたな。あまり返り血は好きじゃないんだが……」
 絶え間なく響く悲鳴を、綺麗に無視する青年の背後から、わーお、とこれまた場違いな、のんきな声がした。
 幼さの残る、飄々とした少年の口調。
「わーお、こりゃまた派手にやったね。後始末が大変そうだ」
 そう言いながら、セラの脇からひょい、と顔を出したのは、金色の子供だった。
 キンキンと耳障りな悲鳴が、地面を汚す血だまりが、激痛で転げまわる男の姿が目に入っていないはずもないのに、少年の、ラーグの琥珀色の瞳は、常と同じく、静かに凪いでいて、動揺や恐怖の類は読み取れない。
「魔術師」
 ルーファスが、そちらを向く。
 彼と目線を合わせたラーグは、あーあとため息をつくと、頬をふくらませて、「まったく……この後始末をするの、誰だと思ってるのさ」と、きわめて不機嫌そうに言う。
 それは、青年の行動に対する非難ではなく、地面を血で汚したことについてである。狂ったように叫びながら、腕を押さえ続けるローディールの生死については、腕を切りつけたルーファス以上に、興味がなさそうだった。
「血が、血が……血が止まらないいぃぃぃ!くそ、誰かあああ!」
 叫び続けるローディール侯爵だったが、その腕からは変わらず、必死に押さえているにも関わらず、血が流れ出ており、顔は青を通り越し、白くなりつつある。興奮からか、いまだ叫べているのが奇跡のようなものだ。
 そんな男の姿を視界に入れると、ラーグはうるさい、と心の底からどうでも良さそうな、酷薄さすらただよう声で言う。
「ああもう、うるさいなあ。耳障りだし、どうせなら腕といわず、いっそ舌を切り落としてやれば良かったのにね」
 幼い顔にそぐわない、冷淡な口調で言い捨てた、ラーグ。
 その白いローブの裾を、くぃ、と後ろからひく手がある。
「……ラーグ」
「何?セラ」
 振り返ったラーグの、琥珀の瞳に映ったのは、焦ったような愛弟子の顔だった。
 セラは叫び続ける男と、地面に広がった血だまりを交互に見ると、辛そうに目を伏せ、口元に手をあてる。
 そうして、彼女はかすれる声で、魔術師に懇願した。
「あのままじゃ死んじゃう……何か、血を止める術をかけてあげて」
 セラの頼みに、ラーグは気がのらないのか、露骨に「えー?」と嫌そうな態度を示す。
「あたしじゃ出来ないから……あのまま放っておいたら、死んじゃうよ」
「別に、放っておいたっていいんじゃない?自業自得だし」
 弟子に甘い彼にしては珍しく、ラーグはちらっとローディール侯爵の方を見やると、渋るように言う。
「助けたって、後悔するだけだと思うけどね。それでも?」
 わずかな沈黙の後、セラは首を縦にふった。
「ラーグ……お願い」
 弟子の言葉に、ラーグはやれやれと肩をすくめる。
 そうして、魔術師は後ろを向かぬままま、
「……だってさ。そこの壁のところに隠れている人、もう出てきていいよ。血は止めるから、腕を切られたぐらいで、わんわん騒いでる、この馬鹿を捕まえて、どっかに連れて行ってよ」
と、背後の壁に向かって声を投げる。
 しょうがないなあ、と面倒くさそうに、ぶつぶつと愚痴りながら、ラーグはついにうずくまったローディールに歩み寄ると、口の中で呪文を唱え、魔術によって傷口をふさぎ、そこからあふれ出していた血を止めた。
「……」
 ラーグの声から少し間をおいて、隠れていた壁の陰から、一人の男が姿を現した。
 燃えるような真紅の髪に、濃緑の瞳。
 あまり似合わぬ髭を生やした、若い男。
 騎士団の制服を身にまとい、夜目では見えづらいが、背中には騎士の証たる青いマントが風になびく。
 黒翼騎士団第十三部隊・隊長・ハロルド=ヴァン=リークスの姿がそこにあった。
「あなたは……」
 急に姿を現したハロルドに、セラは目を丸くし、驚きの声を上げる。
 魔女として、奇妙な格好をしていても、橋で助けた少女の顔には見覚えがあるはずだが、セラと目が合ったハロルドは何も言わず、ただ目礼するのみにとどめた。
 その騎士の真剣な顔からは、何らかの感情を読み取ることは、容易ではない。
 ルーファスはといえば、何の前触れもなく姿をあらわした騎士に、眉ひとつ動かさず、気がついていたのか?と、ラーグに尋ねる。
 尋ねられた魔術師は、はん、と鼻を鳴らして、「見くびらないでよ」とうそぶいた。
「見くびらないでよ。どうでもいいけど、その騎士、君が呼んだんでしょ?公爵……また、ずいぶんと回りくどい真似をするねぇ」
 感心半分、呆れ半分といった風だった。
 ラーグの言葉に、ルーファスは沈黙を守ることで、それを肯定する。
 それらの会話が気にならぬわけではないのだろうが、騎士として、己の職務に忠実であろうとしてだろう。
 ハロルドは硬い表情で、ひゅうひゅうと荒く、切れ切れの息を吐いて、地面に座りこんだローディール侯爵へと歩み寄る。
 しかし、歩み寄った瞬間、今にも瀕死だったはずの男に凄まじい形相で睨まれて、騎士は立ち止まった。ハロルドを睨みつけて、青い顔をしたローディールは「触るな!」と、声を荒げる。
「私は、宰相閣下と縁のある者だ。たかが騎士風情が、私に何か出来るなどと思い上がるな」
 宰相ラザールの威光にすがって生きてきた男にとって、最早、わらにもすがる思いなのだろう。
 老狐の威を借るネズミと、かつてルーファスが称したように、ローディールは宰相の名を出して、己を捕えに来た騎士を追い払おうとする。
 身分を笠に着る卑劣な行為だが、もはや他にすがるものがない。
 息も絶え絶え、瀕死の状態にも関わらず、なおも罵詈雑言を吐く男を無視し、ルーファスはハロルドに声をかけた。
「気にせず、連れて行くといい。どうせ、その男はもう宰相にとっては使えん駒だ」
 その言葉を額面通りに受け取ったかはともかく、ハロルドはうなずくと、「貴方に言われるまでもなく、罪人を捕えるのは、騎士の役目だ」と答えた。
 騎士は一度、ルーファスに険しい目を向けると、ローディールの腕を取り、その身体を引っ張りあげると、セラたちに背を向け、貧民街から去っていく。
 ハロルドと、彼に引っ張られた罪人が歩む先は、黒翼騎士団の本部だ。
 ずるずると身体を引きずるような音と、騎士と罪人、二人分の足音が遠ざかっていく。
 じょじょにハロルドとローディールの影は小さくなり、やがては、完全に見えなくなった。
 それを見届けて、ラーグが口をひらく。
「あーあ、君が派手にやらかしてくれたから、後始末が面倒だ……」
 魔術師はぶつぶつと不服そうに呟くと、「ちょっと片付けがあるから、いったん先に戻ってるよ」と弟子の少女に声をかけて、住処の方へと駆けて行った。
 タタタ、と軽やかな足音がして、その金色の頭と小さな体躯が、闇にまぎれて消えてゆく。
 ラーグが去り、その場にはセラとルーファスだけが残された。
 服に染みついた返り血に、地面からただよう血の臭いに、ルーファスは不快そうに顔をしかめる。まったく……返り血を浴びるなどという、妙な趣味はないのに、ずいぶんと面倒な真似をさせてくれるものだ。
 べっとりと血の染みついた服を変えたいのは山々だが、あいにくと、そんなものは用意していないので、我慢するしかない。諦めたようにため息をついたルーファスだったが、ふと、翠の瞳が己を見つめていることに気づく。
 彼が目線をそちらに向けると、唇を噛んで、ひどく思いつめたような表情をしたセラと目が合った。
 目が合うと、少女は戸惑うように、睫毛をふるわせた。
 たった、それだけの仕草であるのに、なぜか苦しげだとルーファスは感じる。
 ルーファスが目だけで、どうした?と問いかけると、セラは浅くうなずいて、彼の方へと歩み寄ってくる。
 その、ゆっくりとした遅い歩みからは、彼女の迷いや躊躇が透けて見えた。近づきたい。けれど、近づきたくない。話したい。けど、話したくない。そんな矛盾をはらんだそれ。
 彼の隣で足を止めると、セラは「ルーファス……」と彼の名を呼んで、続けた。
「怪我は……?怪我、してない?」
 そう尋ねたセラに、返り血を浴びたルーファスは「見ての通りだ」と答える。
 正直、うんざりするような有様だが、怪我らしい怪我はしていない。
「そう……良かった」
 セラは少し寂しげな顔をすると、ルーファスを見上げて、彼の頬に手を伸ばす。
 白い指先が頬を撫で、もはや乾きつつある血飛沫をぬぐった。
 その代わりのように、少女の指先が赤く染まる、染まっていく。
 ……血で、汚れていく。
 それでも、セラは躊躇うことなく、肌に触れ、血をぬぐい続ける。が、青年の左頬に未だうっすらと残る、化け物の手による一筋の傷跡を目にした途端、一瞬、少女の手が止まった。手が、指が、罪の意識で、みっともなく震える。目を逸らすことなど、許されない。……この人に、この傷を背負わせたのは、自分なのだ。
 ぐしゃ、とセラは泣きそうに顔を歪める。泣くまいと、涙をこらえていなければ、今にも、その瞳から涙があふれそうだった。
 そんな彼女の様子を見て、それまでセラの好きなようにさせていたルーファスは、ふ、と息を吐くと、少女の手に己の手を重ね、それを無理におろさせると、身を離し、セラと距離を取る。
 潤んだ目で自分を見てくるセラに、ルーファスは淡々と、突き放すような声音で言った。
「あまり俺に近づくな。血がつく」
 だから、余計な真似をするな。
 そう、いささかならずキツイ物言いで告げて、ルーファスはさらに一歩、セラから距離を取った。――貴女まで、その手を血に染める必要はない。という本心は、彼の心の奥に封じ込められる。
 鋭く、突き放す言葉。冷ややかな、威圧感のある物腰と相まって、それはひどく情のないものに感じられる。
 どうして、と傷ついたように、セラが言う。
 ルーファスは、何も答えない。誤解されても、恨まれても、憎まれてさえ構わないと、彼は思う。そうすることで、この少女が罪とも血とも遠くあれるなら、きっと、その方が良い。己が全てを背負うことなど、彼は何とも思わないのだから――。
「……いいの」
 それなのに、ああ、それなのに、セラが再び、己に手を伸ばしてきたのことに、ルーファスは軽い失望を覚える。
 こちらに手を伸ばしてくる少女は、何とも言えない、泣き笑いのような顔をしていた。みっともなく、美しいとも言えず、だが、何かを受け入れた人間の顔だった。
 ――ああ、何て愚かで、頑なで……そして、哀れな女だろうか。
 そう心の底から思うのに、理性は突き放せと、何度も強くささやくのに、なぜかルーファスはそうすることが出来なかった。
 伸ばされたセラの腕、己の腕と比べると、白く細く、ほんの少し力をこめれば折れそうなそれを、青年は強引に己の方へと引き寄せる。
 その力に抗えず、少女の華奢な身体が、ルーファスの胸の側へとかしいだ。
「ふ……っ」
 困惑したような吐息が、耳のそばでこぼれるのも構わず、彼は血で赤くなったセラの手を見て、蒼い瞳を伏せ、その手の甲へと顔を近づける。
 ほのかに赤く染まった指先、薄紅の爪は、花びらにも似て……ふれることを、乞われ、誘われいるようだった。
 酔いにも似た、わけのわからぬ衝動にかられるままに、男は少女の手に、その指先に唇を寄せる。口づけを落とす。
 ……それは、甘く、血の味がした。
「何で……」
 ついと彼が顔を上げると、ひどく戸惑うような色をたたえた、翠の瞳と目が合う。
 何で、と少女の唇から、同じ問いが繰り返される。
 その先に続く言葉が、何であるのか、口にしているセラ自身、よくわかっていないのかもしれない。
 もう一度、何で、と答えのない問いを繰り返して、セラはくしゃりと困ったように顔をゆがめる。泣き顔とも、見慣れた淡い微笑とも違う。どうしたらいいのかわからず、途方に暮れた子供のような顔だった。
 心から答えを求められているのを承知で、ルーファスは「さぁ」と、曖昧にはぐらかす。
 声にも、ましてや、言葉などになるはずもない。胸の奥底に沈むもの、凍れる心臓に眠るもの、その心にひそむのは、果たして……。
「さぁ、どうしてだろうな」
 逃げとも、はたまた嘘偽りのない本音とも取れる青年のそれに、セラは唇を噛みしめた。
 少女は上向いて、男の顔を正面から見つめる。
 透き通るような翠の瞳が、ルーファスを、ルーファスの姿だけを映す。
 セラの唇が動いて、どうして、とかすかな音がつむがれた。
 青年は答えず、ただ静かな瞳で、少女を見つめ返した。
「どうして、どうして……どうして……っ!」
 セラの口から、繰り返される問いは、おそらく、ルーファスだけに向けられたものではないのだろう。
 それを理解するがゆえに、青年は沈黙を守る。
 化け物の呪いが解かれようが、ローディール侯爵が牢獄に入ろうが、喪われたものは、二度と戻ってこない。
 流された血が、罪を清めることなどない。――神のいるはずの世界は、とてつもなく不条理で、時にどこまでも残酷だ。
 惨劇を止めようと、あの化け物をどうにかしようと、そう動いている間は、あまり考えずにすんだものが、今になって、急に息苦しいほどの虚無感として、彼女を襲ってきたようだった。
 嗚咽をこらえるように、うつむいて震えるセラ、その華奢な背中に腕を回すと、ルーファスは言葉の代わりのように、少女の髪をすく。
 剣を握り、血に染まった男の手が、意外にも優しく、ふるえる頭を撫でていく。
 さらり、と硬い手のひらの間から、亜麻色の髪がこぼれた。
 そのことに目を細めながら、ルーファスはそっとセラの耳元にささやく。
「……泣きたければ、泣け。どうせ、誰も聞いていない」
 彼の言葉に、セラはかすかに顔を上げたものの、首を横に振る。
 その唇から、嗚咽がもれることはない。
 相も変わらず、妙なところで頑固な女だと思いながらも、ルーファスは少女が落ち着くまで、黙って、その背を支え続けた。


 音もなく、月光が彼らの姿を、その影を照らし出す。
 かくして真実が明るみに出ることはなく、ひそやかに化け物は捕えられ、事件は幕をおろす。
 それぞれの心に、癒えぬ傷跡と、望まぬ変化の階をもたらして――その長い夜は終わり、朝日が昇る。


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