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三章  呪いの代償  23


 夕陽の、明るく、されど日の名残りを感じさせる光が差す。
 沈みゆく太陽の残照が、夜の訪れを拒むように、よりいっそう強い光を放つ。
 思わず、目をすがめたくなるような、明るく、いっそ明るすぎるほどの輝き。
 強い西日が、蔦や蜘蛛の巣がからみついた窓の、わずかな隙間をぬって差し込み、夕方にしては薄暗い部屋に、きらきらとした光の欠片をまき散らした。
 古びた書棚の上に、うすく淡雪のように積もった埃さえも、黄金色の夕陽の輝きを受けては、どこか荘厳なもののような錯覚を抱きそうになる。
 木目の床に、窓枠の影を映しだした一筋の光は、部屋の片隅に無造作に置かれた大きな鏡を反射して、家具や、室内に置かれた装飾品ともつかぬ奇妙な品々を、あたたかな光で包み込む。
 年季の入った薬草やハーブの棚からは、ツンと鼻につくような臭いがただよい、椅子に積み上げられた魔術書の上では、どこから入り込んだのか、白い蝶々が、ひらりひらりと飛び回り、時折、気まぐれに羽を休めている。
 鏡の光を弾いて、書棚の横に飾られた小さな竜に似た生き物の標本、その黄金の目がきらり、とまるで生きているかのように、あざやかな光を映し出す。
 先日までの騒動が、まるで嘘か幻だったように、穏やかな静けさに包まれたここは、魔術師の――ラーグの住処だ。
 あの流血の惨事や、息をつく間もない緊張感は、さながら白昼の夢か何かだったのかと思うほど、今、その場所はゆったりとした、穏やかな時間が流れている。
 普段と同じ、変わらぬ日常。
 失われた時も、喪われたものも、手のひらからこぼれ落ちた様々なものがあるにも関わらず、時間は普段とかわらず刻まれてゆき、どう足掻こうとも、やがては忘却の彼方に埋もれてしまうということを、予感させるようだった。
 くるくる。
 ふっくらとした幼い子供の手が、カップにひたした銀のスプーンを、くるくると回す。
 カップに満たされたるのは、乳白色の、この辺りでは手に入りにくい異国の茶だ。
 白い湯気が立ち上るそれに、スプーンで一匙、隠し味の月花酒を入れ、乳白色の湯の中で茶葉の華が、ほわっと咲き誇るのを確かめると、ラーグはカップを手に取った。
 ひとつ、ふたつ……
 金色の魔術師は三つ目のカップをちらりと一瞥し、むっと不満そうに眉をひそめたものの、今まで散々してきたとはいえ、いささか大人げないと思い直してか、「しょうがないね。一服、盛ってやろうか本気で悩むけど……」と満更、冗談でもない声音で呟くと、渋々といった様子で、三つ目のカップを持ち上げ、トレーの上にのせた。
 そうやって、手際よくお茶の支度を整えると、ラーグは三つのティーカップをのせたトレーを片手に、かわいい愛弟子と客人……とはあまり呼びたくない青年を待たせているテーブルへと、足早に歩み寄る。
「待たせたね」
 ラーグがそう声をかけると、テーブルに腰をおろしていた二人、青年と少女がゆるりと顔を上げた。
 普段、夜に訪ねてくる彼らが、昼間にここにいるのは、めずらしいことだった。
 魔術師がコンッ、と用意した茶をそれぞれの前に置くと、弟子の少女と招かれざる客人である青年は、それぞれらしい反応をかえしてくる。
 彼の弟子であるセラは、やわらかく目を細めて、「ありがとう」と素直に礼を言い、隣のルーファスはといえば、乳白色で満たされたカップを見て、少しばかり皮肉気に唇をつり上げ、揶揄めいた言葉を口にする。
「ほぉ、今日は、空じゃないのか。良い心がけだ……感謝するぞ、魔術師」
 かつて、空のカップを出されたことを軽く皮肉るルーファスに、ラーグはにっこりと愛想よく笑って、「いやいや、どういたしましてー」と答える。
「どういたしましてー。いやぁ、さっきまで一服、盛ってやろうか、真剣に悩んだんだんだけど、本当、ギリギリの崖っぷちで、どうにか思いとどまったよ。いやー、危なかった……ふふ、君って運がいいね。公爵」
 辛辣な、毒めいた言葉を吐きながらも、にっこりと笑う魔術の笑顔はどこまでも爽やかで、子供っぽい無邪気ささえたたえている。
 琥珀の瞳が、にやりと笑っているようだった。
 さりげなく、されど隠しようもない敵意を、むしろ、隠す気なんぞサラサラないことを感じさせる魔術師の言動に、さしもの氷の公爵と呼ばれる青年も、ひくっ、と形の良い柳眉を寄せる。
 ルーファスの蒼い瞳に、瞬時、剣呑な光がよぎった。
「魔術師よ……今、一服盛るとか、何か聞き捨てならないことを言わなかったか?」
「いやいや、君の空耳じゃないかい?この善良な、人畜無害の魔術師である僕を掴まえて、とーんだ言いがかりだね……君の夫は、疑り深いんじゃないかな?ねぇ、セラ?」
 ルーファスの糾弾を、さらりと軽く受け流し、その隣で困ったように微笑するセラに、ラーグは「ねぇ?」と笑顔で、相槌を求める。
 同意を求められたセラは、少しばかり困ったように、だが、代わりのない日常とも言うべきそれに、どこか微笑ましげに、その翠の瞳を和ませ、「ラーグってば……まぁ、毎度のことだけど」と言う。
 おっとりとした口調で言う弟子の隣で、ルーファスが苦虫を噛み潰したような顔をしていることに、魔術師はにまっと、してやったりと言いたげな笑みを浮かべる。
 それを見た青年が、ますます顔をしかめたことは……あえて語るまでもないだろう。
 言いたいことを言って気が済んだのか、ラーグは椅子を引くと、セラとルーファスと同じテーブルに腰をおろす。
 そうして、彼は自らの手でいれた茶を、ぐびっと一口、美味しそうにすすると、ふぅ、と息を吐いて、「それで……君たちが来たってことは、事件の後始末が済んだってことかな?」と、本題ともいうべき言葉を切り出した。
 ラーグの問いかけに、セラが「うん……一応は、ね」と控えめに、うなずく。
「へぇ、思ったよりも早かったね。それで……?結局、あの化け物は……ローディール侯爵とかいう男は、どうなったの?」
 セラの返事に、早いね、と琥珀の瞳を丸くして、ラーグは問いを重ねた。
 ――王都を震撼させ、民を恐怖に震え上がらせた、人食いの化け物。
 その化け物が人知れず、騎士のハロルドによって捕えられたあの夜から、はや一ヶ月ほどの月日が流れようとしていた。
 その真相は、解呪の魔女であるセラ、そしてルーファスら、限られた人間の胸に秘められて、全てが明るみに出ることはない。
 王都の民たちは、いまだ化け物が捕えられたことを知らずに、その影に怯えている者も多いが、それでも、じょじょに王都は普段の姿を取り戻し始め、その平穏な日常を、人々は当たり前のように受け止めつつある。
 さらに多くの月日が流れれば、あの化け物のことさえ、記憶の一部として過ぎ去り、やがては風化していくことだろう。例え、どのような事があろうとも、時間は平等に流れ、人々の記憶は忘却の彼方へと消えていく。――幸も不幸も、生も死も……時は、全てを飲み込んで。
 化け物によって奪われた命が、喪われた人々が、もう二度と戻ることはないのに、それでも時間は止まることなく、記憶さえも永遠には留まることなく、やがてはうもれていく。
 リーザ……彼女だけでなく、化け物に食い殺された犠牲者たちの、家族、友人、恋人。大切な人を失った人々の、その胸の痛みは二度と消え去ることも、また完全に癒えることもないというのに、日々は変わらず、まるで何事もなかったような顔をして、流れゆくのだ。
 そのことに、どうしようもない胸の痛みを覚えて、セラは胸の前に手をあてた。
 ゆっくりと目を伏せた、少女の頭をよぎるのは、かつて、会ったことがあるリーザの家族のこと……。
 年老いた両親に代わり、よく幼い弟や妹たちの世話をし、妹や弟の手を引いていた彼女……リーザが亡き今、彼女の弟や妹たちは、どう過ごしているのだろう。悲しみの涙を流しているだろうか、戻らぬ姉の姿を心の中に描いているだろうか、あるいは今、この瞬間も彼女の仇を探しているだろうか……?
 リーザの無残な亡骸のことを思い出し、セラはぐっ、と両手で胸を押さえて、喉の奥からこみ上げてきそうになる嘔吐感をこらえた。
 あれから二ヶ月近くになろうとしているが、その記憶が薄れることは、決してない。
「……ぅ」
 いや、リーザだけではない。
 あの化け物に食い殺された、大勢の犠牲者たちにも、それぞれ大切な家族や友人たちがいたはずだ。その人々も、リーザの家族と同じように、決して癒えぬ傷跡を背負って、生きていることだろう。
 ――化け物が……否、呪いが残した爪痕、その深さを改めて思い知らされる。
 急に黙り込んだセラに、ラーグが「……大丈夫?」といたわるような目を向ける。
「ごめんなさい。もう大丈夫……」
 その優しい声に、師匠である魔術師にこれ以上の心配をかけたくなくて、セラは首を横に振ると、大丈夫だとうなずいてみせる。
 心配ないという風に、あわく微笑を浮かべる弟子の健気さに、ラーグはふぅ、と苦い顔で嘆息したものの、弟子の意志を尊重してか、それ以上、無理に問い詰めることはなかった。
 言葉の代わりに、今は膝の上でふるえる少女の手に、そっと幼い手が重ねられる。大丈夫だよ、とそう口にはせずとも、ゆるく細められた琥珀色の瞳が語っていた。
 その瞳に宿るものに励まされたように、セラは唇をひらく。
「あの人の、ローディール侯爵っていう人のことは、あたしはよくわからないの……騎士団に捕まって、牢屋にいるって……前に、そう言ってたよね。ルーファス?」
 彼女の言葉に、ルーファスはああ、と首を縦にふる。
 そうして、言葉の続きを引き取り、事件のその後を語った
 騎士隊長であるハロルドに拘束され、黒翼騎士団の本部に連れて行かれた罪人――ローディール侯爵の、その後を。
「ああ。あの男、ローディール侯爵ならば、騎士団に捕えられた後、裁判にかけられて、今は牢獄にいるぞ……奥方殺しの件で、従者にも裏切られたからな。たとえ、呪いの件が曖昧だとしても、言い逃れは出来ないだろうさ」
 俺も全てを知っているわけではないが、とラーグに前置きして、ルーファスは説明する。
 呪いの件や、呪術師の老婆の件は言い逃れができても、従者が主を売ったせいで、奥方殺しの一件はどうにもならなかったらしい。
 貴族と平民では、たとえ貴族に非があっても黙殺するこの多い騎士団の上層部であるが、殺された奥方も貴族であることから、いつになく厳しい追及を行ったとか。侯爵という高い身分をもってしても、それを逃れることは叶わなかったとか。
 頼みの綱である宰相ラザールは、ローディール侯爵が窮地に陥っても、一切、手を差し伸べず、あっさりと見限ったとか。
 化け物の姿から、人に戻ったローディール侯爵は、彼に切られた腕の怪我が癒えた後、牢獄に入れられる前も後も、気が狂ったように暴れたらしい。騎士や牢番を口汚く罵り、呪詛の言葉をまき散らした(……と聞いている)。
 その際、ローディールは、氷の公爵と呼ばれる青年に対して、殺してやるという増悪の言葉を、ほぼ絶え間なく吐き続けていたそうだが、それについては心底、どうでも良いことであったので、ルーファスは割合する。
 ……あの夜から、一ヶ月の間に、そのように慌ただしく日々は過ぎて行った。
 かつては、宰相の腰巾着として横柄にふるまい、王宮の艶やかな花々、貴族の奥方やら女官やらと浮名を流したローディール侯爵は、今や罪人として、冷たい牢獄の中にいる。
 いくら、自分が招いたこととはいえ、それまでの華やかさを思えば、惨めといえば惨め、哀れといえば哀れなことだった。
 しかし、ルーファスはそうは思わないらしく、あくまでも冷ややかな口調で、
「まぁ、自業自得だがな……さんざん人を食い殺して、いまだ命があるだけでも、あの男にとっては、過ぎたる幸運だろう」
と、そう言い、長い話を締めくくる。
 その容赦のない、辛辣なまでの厳しさも、ルーファスにとっては理由のないことではなかった。
 呪われて、化け物に成り果てたとはいえ、己の欲望を満たすためだけに、手当たり次第に人を食い殺した男に、わざわざ同情してやる理由などない、と彼は思う。
「まぁね……」
 胸の前で手を組んだラーグは、彼にしては神妙な表情で相槌を打つと、あのローディール侯爵とかいう男のことだけどさぁ……と皮肉交じりの、だが、何らかの感情がこめられた声で続ける。
「呪術師の老婆に、妻殺しを依頼して、逆に呪われるとはね……呪いの代償は、重かったってことかな」
 そう、呪いの代償、という言葉を口にした瞬間、魔術師の顔にふっと切なげなものがよぎる。とはいえ、それに気づいたセラは、黙って口をつぐみ、ルーファスはそれに気づかぬまま、「そういうことだな」とうなずいた。
「そうだね……」
 ラーグの言葉にうなずきながらも、セラの顔色は冴えなかった。
 喪われたものの記憶を残す少女にとって、化け物が捕えられたことは幸いではあっても、救いではない。完璧なる救いなど、どこにもない。
 それでも……と、己に言い聞かせるように、彼女は口を開いた。
「これで、終わったんだよね……」
 犠牲となった人々は、二度と戻ってこない。
 全ての真実が明るみになる日は、永遠に来ないかもしれない。
 それでも……
「君の気持ちもわかるけど、もうこれ以上、あの化け物に殺される人間が出ることはないんだから……それだけでも、ね?」
 弟子の複雑な感情と、その葛藤を察してだろう。
 ラーグがなぐさめるように、やわらかな口調で言った。
「うん……」
 セラ自身、もはや、自分で出来ることは何もないと自覚しているのだろう。
 うん、とたった一言、どこか切なくなるような声音で言って、寂しげな顔をする。
 そんなセラの横顔をちらりと見て、ルーファスは淡々と、いっそ厳しささえ感じさせるような言葉を口にする。
「同調するのは不本意だが、魔術師の言う通りだな。忘れろ、とは言わんが……どんなに願おうが、失ったものはかえらん」
 青年の口調に、常の氷の如き冷徹さはない。だが、悲劇から目を逸らすことを許さぬような、そんな厳しさを、否応なしに孕んでいた。
 彼のそれは、隣のセラに向けられたものであったが、彼女がそれに反応するより先に、少女の師である魔術師が眦をつり上げる。
 そうして、君ね、と呆れた声で続けた。
「君ね、もうちょっと言い方ってもんを選べないわけ?公爵……」
 なおも呆れたように、ルーファスに何か言おうとするラーグを、セラの「わかってる」という言葉が制す。
 わかってる、セラはもう一度、痛みを無理やりに押し込めたような表情で、同じ言葉を繰り返した。
 無理をして、涙を流すまい、嘆くまいと、意識して心の均衡をたもとうとしている様が、弱音を吐くまいとしている姿が、かえって痛々しい。
「わかってる。ルーファスとラーグのおかげで、もうあの化け物に殺される人は出ないんだから、それだけでも良かった……と、そう思うべきなんだよね」
 そうでしょう?と言うセラに、ルーファスは是とも否とも答えなかった。
 代わりに、冬の海にも似た、底のしれぬ深さと静けさを宿した蒼い瞳で、少女を見つめる。
 互いの吐息すら聞こえそうな静寂の中、蒼と翠、二つの異なる色彩が交差し、視界の先で重なり、その心の奥にあるものを読み取ろうとし、そして、それが叶わぬまま、どちらともなく視線は逸らされる――。

 それからいくばくの時間も流れぬうち、帰り際、扉に手をかけたセラを、ラーグが呼び止めた。
 待って、という魔術師の呼びかけに、弟子は長い亜麻色の髪を揺らしながら、こちらを振り返る。
 翠の瞳が正面から、金色の魔術師の姿を映す。
「何?ラーグ」
 ルーファスはといえば、先に外に出ており、その会話は聞こえない。それを望んだラーグは、「セラ……」と弟子の名を呼ぶ。
 いつになく真剣なラーグの様子に、セラは小さく首を傾げ、その琥珀色の視線が行きつく先を見て、あぁ、と納得したような顔をした。
 ラーグの視線は、セラの顔ではなく、彼女の左腕に、左腕だけに注がれていた。
 そんな魔術師の視線に、セラは庇うように右手で左手を掴む。
 今は袖で隠されているその下には、その呪われた左腕には、決して消えぬ黒い鎖のようなアザがある――それは、呪いの印、その命つきるまで、彼女の身体を心を魂を蝕み、やがては食らい尽くすモノ。
 服の下に隠された、それは見えない。だが、魔女としての、否、呪いに侵されている人間特有の勘なのか、セラはその黒い鎖の色が以前よりも濃くなり、呪いが効力を強めつつあることを、嫌でも意識する。
 その恐怖は、みっともなく叫び出し、胸をかきむしりたいほどであったが、セラは表面的には穏やかな表情を浮かべる。長年に渡り、呪いに蝕まれ続けた彼女は、諦めと共に、それを受け入れる習慣が染みついている。
 (まだ大丈夫……まだ、あたしは大丈夫なはず、もう少しは……)
 そう長くもない、まだを心の拠り所にしながら、セラはそう己自身に言い聞かせた。
 魔術師の眼差しがそそがれる、少女の左手は震えていない。ただ、それを掴む右手には、痛いほどの力がこもっている。
 己の左腕を食い入るように見つめるセラに、何とも言いようのない感情のこもった目を向け、ラーグは静かな声で告げる。
「セラ、わかっているね。君に……」
 残された時間は、そう長くはない。
 続けられなかった言葉は、誰よりもセラ自身がよくわかっていた。そして、そこで言葉を切り、唇を閉ざしたことが、金色の魔術師の温情であるということも……。
「うん。知ってる……知ってるよ。ラーグ」
 ゆえに、魔女と呼ばれる少女は、ふわりと儚げに微笑う。
 特に秀でて美しい容貌と言うわけでないにもかかわらず、そのやわらかな微笑みは、どこか切なく、目を逸らし難いものだった。
 三百年を超える歳月を生きる、金色の魔術師ですら、一瞬、言うべき言葉を見失うほどの。
 セラと自分の名を呼ぶ声を、聞こえなかったフリをして、少女はラーグに「その時が来たら……から」と小さな声で言い、じゃあ、と扉の外へ出た。
 伸ばされかけた小さな手が、空を切る。
 少しだけ先を歩いていたルーファスが、わずかに訝しげな顔つきで、どうかしたのか?と振り返った。
 問われたセラは首を横に振り、何でもないと、彼につきたくもない嘘をついた。


 夕陽も沈みかけ、空が茜から少しずつ、宵の薄紫に染まりかけた頃―― 
 魔術師の住処を出たセラとルーファスが、エドウィン公爵家の屋敷に戻ってくると、門の前に見慣れぬ人影が立っていた。
 黄金の、沈みゆく太陽の残照が、その青年の凛々しい横顔を照らす。
 炎のような赤髪が、夕陽の光を受けて、さらに紅く見えた。
 思わず、あ……という声を上げたセラに促されるように、門の前で腕を組み、 険しい顔で仁王立ちしていた青年が、横を向く。
 騎士の青いマントが、伸びたる影をゆらめかせ、深緑の瞳が鋭く、ルーファスとセラを見据える。
 ハロルドだ。
 若くして、騎士隊長の任にある青年は、ひどく厳しい顔つきで、年齢そぐわぬ重々しい、静かな威厳のある声で言う。
「いい加減……どういうことなのか、話を聞かせてもらえないだろうか?エドウィン公爵」
 その声は、偽りや嘘は許さないという、たしかな気迫に満ちていた。
 ハロルドの目線は、驚きと困惑のいりまじった顔で、何度も瞬きをするセラではなく、彼女の横で涼しい顔をしている青年、氷の公爵と呼ばれる男へと向けられている。
 あの日、騎黒翼士団の本部で会って以来、ろくにルーファスと言葉を交わしていないのだから、それも無理からぬことだ。――何らかの事情は明かされるものと、慌ただしく事件の処理をしながら、何とか一ヶ月は耐えたが、もう我慢の限界だった。
 普段の、人好きのする気さくさはなりをひそめ、ハロルドの表情はいっそ怖いほどの真剣さが感じられた。
 その気迫に満ちた眼差しで見つめられたらば、やましいことがある罪人ならば、震え上がらずにはいられまい。
 しかし、そんな騎士の怖いほどの気迫に満ちた眼差しにも、ルーファスは、うっすらと唇をゆるめるのみだった。
 わかった、とその唇が音をつむぐ。
「わかった。だが、そんな風に、立って話せるような内容でもあるまい?……貴方さえよければ、屋敷の中で話さないか?騎士殿」
 そう言ったルーファスに、ハロルドは眉間のシワを深くし、だが、それはこの場では妥当な提案であったので、いいだろう、とそれを受け入れる。
 ルーファスは決まりだな、とうなずいて、少しばかり不安そうな表情で、己に案ずるような眼差しを向けてくるセラに、先に部屋に戻っているように告げる。
 屋敷の主人である青年がそう口にしたのと、当主夫妻の帰宅を察して、執事のスティーブと従者のミカエルが扉から出てきたのは、ほぼ同時のことだった。


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