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三章  呪いの代償  24


 公爵家の当主である青年が、屋敷に入ったハロルドを案内したのは、広々とした彼の自室だった。
 双剣と片翼の鷲――英雄王の御世より伝わる、紋章が刻まれた重厚な扉を押し開ければ、歳月を感じさせる深い飴色の家具と、葡萄と蔓草の図案が施された絨毯、華美すぎず、品の良い調度品の数々が目に入る。
 天井高く、隅から隅まで、ぎっしりと詰め込まれた書棚。
 机の上に置かれた羽ペンやインク壺は、殊更によく使い込んだ痕跡を感じさせる。
 落ち着いた壁紙の色合いともよく合う、派手すぎず、だが洗練された部屋の内装は、おそらく主の趣味であるのだろう。
 初めて、その部屋に足を踏み入れたハロルドは、ふと、そんな感想を抱く。
 客人である騎士に椅子を勧めた後、ゆったりとした肘掛け椅子に腰をおろしたルーファスは、従者のミカエルに二人分の珈琲を持ってくるように頼み、ついで人払いを命じる。
 はい、と首を縦に振ったミカエルに、主人である青年は思い直したように、客の、ハロルドの方を向いて尋ねる。
「もうすぐ夕餉の時間か……とすれば、紅茶や珈琲よりも、酒の方がよろしいか?騎士殿」
「いや、結構」
 ルーファスの提案を、ハロルドはすげなく断る。
 椅子に座るよう、再度、勧められたことすら断り、ハロルドは先と変わらず、険しい眼差し、いっそ怖いほどに真剣な表情で、ルーファスを正面から見据える。
 厳しい顔で腕を組むと、赤髪の騎士は「そんなことより……」と、屋敷を訪ねてきた目的ともいうべき、話の本題を切り出す。
「そんなことより……あれは何なのか、教えて頂けないか?エドウィン公爵」
 あれは何だ、と。
 問い詰めるような、糾弾にも似た響きをしたそれにも、ルーファスは眉を動かすことすらせず、「あれ、とは?」と涼しい顔で、肩をすくめる。
 そんな、しらばっくれるような彼の態度に、ハロルドは苛立ったようにギリッと唇を噛み、「とぼけないでもらおう!」と声を荒げた。
「こちらの言葉の意味をわかっていて、とぼけるのは止めてもらえないか。エドウィン公爵……例の化け物の事だ!襲いかかっていた獣が、いきなり人に変わったり……あれは、あれは何なんだ!」
 何の事情も知らぬ騎士が、悲鳴にも似た叫びを上げるのも、無理からぬことだった。
 ローディール侯爵を捕えた夜、ハロルドがあの場に待機していたのは、ずいぶんと前にエドウィン公爵からの指示があったからだった。もし、あの化け物を捕えたくば、今宵から、貧民街の辺りを見回れ、と。
 それが、黒翼騎士団の本部を公爵が尋ねてきた際、他の人間には他言無用というそれと同時に、ルーファスが出した二つ目の条件だった。
 正直、半信半疑というか、あまり信じてもいなかったハロルドだが、騎士隊長と言う立場上、もたらされた情報をうやむやにする事は気が引けて、激務の合間をぬって、たった一人で貧民街の見回りを続けた。
 その結果、あるいはその成果というべきか、あの夜、彼は例の化け物の姿を見つけ、その決定的とも言うべき瞬間を目にすることが出来た。
 しかし……
 大勢の犠牲者を出した、あの人食いの化け物を捕えるという悲願を果たしたものの、騎士の胸中はすっきりとせず、どこか納得のできない思いが渦巻いている。
 その理由は、他でもない彼自身が、最もよく承知している。
 あの夜、目にしたものが原因だ。
 人には非ず、だが、獣とも言い切れない姿をした化け物……魔女と呼ばれる少女の手が伸ばされ、白い光が弾けた後、そこには件の化け物の姿はすでになく、赤銅色の髪の男が、女の首を絞めていた。
 獣が人に変わる。
 人が獣に変わる。
 そんなことは、ハロルドの知っている常識ではあり得ない。あれは、あれは、あれは何なのだ……?魔術か、否、まさかという考えが頭の片隅をよぎる。
 暗闇で得体のしれぬものに、いきなり腕を掴まれたような、そんな言いようのない居心地の悪さを感じながら、ハロルドは「何なんだ、あれは」と繰り返す。
 そう口にする、騎士の深緑の瞳に宿るのは、疑惑と猜疑と……困惑のいりじまったそれ。
 騎士の顔つきに現れた感情は、かつてのルーファスにも覚えがあるものであったので、彼は「あぁ……」と軽くうなずくと、ハロルドの問いに答える。
「貴方もおそらく、噂ぐらいは聞いたことがあるだろう。騎士殿」
「何を……?」
 怪訝そうな顔で首をひねるハロルドに、ルーファスは続ける。
 蒼い瞳に刹那、鋭い光がよぎる。
「あの化け物のあれは、魔術だ。いや、呪いのなれの果て……というべきか」
 化け物が人間に変わる。いいや、人が化け物に変わる。そんな不可思議な現象を生み出したのは、魔術の力、否、呪いの力であるのだと、ルーファスは説明する。
 唐突にもたらされた情報に、騎士はきつく、きつく眉を寄せ、怪訝そうに顔を歪める。そうして、何だと……と厳しい声音で言い、首をかしげる。
 別に、目の前の公爵が嘘を吐いているとまでは思わないが、いきなり魔術だの呪いだのと言われても、というのが騎士の本心だった。
 ルーファスもまさか、その言葉だけで納得してもらえるなどとは、考えていないのだろう。
 揺らぐハロルドの心境を見透かしたように、黒髪の青年は言葉を重ねる。
「信じる信じないは、貴方の自由だがな。騎士殿……そうでなければ……」
「……」
 ハロルドは黙ったまま、厳しい目をして、正面から睨むが如き視線をルーファスへと突きつける。事の真偽を見抜いて、その言葉にひそむ、何かを見極めるために……。
 しかし、そんな騎士の厳しすぎる視線を受け止めても、氷の公爵と称される青年の声は、少しも揺らがず、ふるえず、変わらなかった。
 生の気配すら薄い、硬質なまでの端整な面立ち、その裏にひそむものを読み取るのは、ハロルドのように騎士として、多くの罪人に接してきたものであっても、まったく容易ではない。いや、無理だった。
 それでも、その公爵の言葉に、ハロルドは嘘の気配を感じなかった。
 信じるに値するか、まだ判断はつかぬが。
「そうでなければ――あの化け物の存在に、説明がつくまい」
 公爵の答えは、丁寧とも、納得できるものとも程遠かった。
 それで全てを受け入れる気がなれるかと問われれば、返答に困る。だが、今のところ、それを否定できる材料も理由も、ハロルドは持ち合わせていない。
 受け入れるか否や、そのギリギリの綱を渡りながら、ハロルドは再度、あの化け物のあれは……と、尋ねる。
「あの化け物のあれは……魔術、いや、呪いによるものだと?」
 ルーファスが、うなずく。
「そうだ」
 ……ハロルドも、魔術と呼ばれるものの存在は知っているが、実際、今まで目にしたことがあるわけではない。
 英雄王が凶眼の魔女を殺し、魔女狩りを行って以来、魔術は禁忌とされ、決して一般的なものではないからだ。
 法の目が届かぬ貧民街にあっては、魔術を生業とする怪しげな者たちが隠れ住んでいるという噂は、騎士団にも届いていたが、それすらも噂の域を出ぬことであった。だが……実際に見てしまえば、その存在は受け入れざるを得ない。
 己が目にしたものは、時に知識や常識といった壁を、たやすく超えてしまう。
 長い長い沈黙と葛藤の末、赤髪の騎士はふうう、と深い息を吐く。
 一瞬、深緑の瞳が伏せられ、すぐに上向いた。
 ついで、わかった、という言葉が男の唇からこぼれ出る。
「そう、あっさり受け入れられるような話でもないが……否定するだけの材料を、あいにく持ち合わせていない。わかった。その件については、信じましょう。では……」
 ひとまず、その件については、受け入れる方に天秤が傾いたものの、それで終わりにしてやる気は、ハロルドにはサラサラなかった。
 もう一つ、見逃すことの出来ない、重要な問題が残っている。
 まだ何か言いたいことがあるのか、とでも言いたげな顔をするルーファスは、その後に続けられるであろう言葉を知っていて、あえて気づかぬフリをしているのだろう。
 その涼しい顔と、しらを切るような態度に、少々の苛立ちと、腹立たしさ覚えながら、ハロルドはその続きを口にする。
「では、貴方の奥方のあれは……一体、何と説明されるおつもりだ?」
 厳しい追及の言葉に、ルーファスは返答せぬまま、沈黙を守る。
「……」
 是とも否とも取れるそれに、ハロルドは更に険しい口調で続けた。
「貴方の奥方が……いや、セラフィーネ王女様が使われたあれは、魔術ではないのか?」
 騎士は、そう問い詰めずにはいられなかった。
 川から若い女の亡骸が引き上げられたあの日、ハロルドはクラリック橋のところで気分を悪くし、座りこんだ少女を助けた。
 控えめでながらも、その身なりは良かったが、普通の町娘のように見えた彼女が、実は……国王陛下の娘、妾腹の王女であり、エドウィン公爵家に降嫁した身だと聞かされたのは、それから、すぐのことだった。
 しかし、問題はそこではない。
 あの夜、化け物を……ローディール侯爵を拘束したあの晩、公爵の背中に庇われるようにして、かすかに身を震わせていた少女の、透き通るような翠の瞳と、その容貌には見覚えがあった。
 いいや、それすらも今や些細な事かもしれぬ。問題は……
 黒いローブに身を包んだ少女は、あの場で、魔女、とそう呼ばれていた。のみならず、何らかの術を使って、あの人食いの化け物を人間の姿に戻した。呪いをとく、とそう口にしていた。
 そのようなことが、普通の人間に出来るはずがない。そう、魔女でもなければ……。魔女、魔女、魔女、この英雄王の国における最大の禁忌、唾棄すべき存在――。
 なおも沈黙を守り、唇を閉ざし続けるルーファスに、何やら得体の知れぬものを感じながら、ハロルドはごくっと唾をのむ。
 そうして、騎士は、ためらいつつも、決定的ともいえるそれを、はっきりと音にした。
「貴方の奥方は……魔女なのか?エドウィン公爵」
 それは、下手をしなくても、この王国、エスティアの根本を揺るがしかねない問題を孕んだ問いだった。
 先祖はあの英雄王の片腕であり、建国以来の由緒ある家柄であるエドウィン公爵家の奥方が……何より、妾腹とはいえ、王家の血筋にあるセラフィーネ王女が、禁忌とされる魔術に手を出すなど……事情は全くわからないにしろ、とんでもない醜聞だ。
 いや、最早、醜聞というようなものではない。
 それが、もし白日のもとにさらされれば、セラフィーネ王女は……ひいては、エドウィン公爵も無事にはすむまい。
 家名の剥奪のみならず、投獄、拷問、最悪の場合は、それ以上すらありえる。
 それにも関わらず、その冷徹なまでの理性をもって、若き切れ者と称される青年が、その程度のことをわからぬわけでもあるまいに……ルーファスは、そのハロルドの問いに、否定も肯定もしなかった。
 代わりに、口止めはしないという声が聞こえ、ハロルドはとっさに己の耳を疑う。
 大きく目を見開いて、呆然とする騎士に、ルーファスは構わないと言い放つ。虚勢とは思えぬ、堂々とした声だった。
「別に、構わん。貴方が、セラフィーネを、妻を魔女だと、そう言いふらしたくば好きにするといい。ただし……俺を本気で敵に回す覚悟が、貴方にあるならな。騎士殿」
 静かな、だが、本気の声にハロルドは絶句する。
 ルーファスの表情からも声からも、単なる脅しの気配は微塵も感じられず、いざとなれば、躊躇なく、そうするであろうことが伝わってくる。
 ――口止めはしない。だが、もし敵に回る気ならば、一切の容赦はしない。
 揺るがぬ、静かな覚悟がこもったそれは、騎士の心にも何某かの影響をもたらし、彼は顔に迷いをにじませながら、かたく唇を引き結ぶ。
「……」
 ルーファスとハロルドの間に、しばしの沈黙が落ちる。
 互いの出方を伺うように、男たちの視線が重なった。
 息をすることすら躊躇するような、重苦しいまでの沈黙の中、先に唇を開いたのは、赤髪の騎士だった。
 眉間のしわに、悩みや葛藤の余韻をただよわせながらも、ハロルドは凛とした声音で、真摯な言葉を重ねる。
「……今、そのことを誰かに話すつもりは、私にはない。騎士の役目は民を守り、罪を犯した者を捕えることだ」
 己の判断が正しいものであると、胸を張って断言することは、今のハロルドには出来ない。
 それでも、騎士の瞼の裏には、セラ、と呼ばれていた少女の顔が思い浮かぶ。
 こうなることは、わかっていただろうに、セラフィーネ王女は……魔女と呼ばれていた彼女は、化け物を、憎い相手であるはずのローディール侯爵を、見殺しにしようとしなかったのだ。
 たとえ、魔女であっても、その行動は罪ではないはずである。
「……思った通り、正直な男だな。貴方は」
 ふっ、と微笑うような気配と共に、そう口にしたルーファスに、ハロルドはとげとげしい目を向ける。
 嫌味か?と不機嫌そうに言った騎士に、ルーファスは首を横に振り、否定の意を示す。
「そう邪推しないでもらおう。純粋に、そう思ったから口にしたまで」
 公爵の言葉に、ハロルドはむすりと口をつぐみ、不快感を隠そうともしなかった。
 言われたことを、そのまま全て素直に受け止められるほど、彼も若いわけではない。
「話は、それだけか?騎士殿……ならば、こちらの話も聞いてもらいたい。相談がある」
 ハロルドが口をつぐんだのを見てとり、ルーファスは相談したいことがあると、そう切り出した。
 その唐突とも言える申し出に、ハロルドは怪訝そうに眉をひそめ、いささか警戒したような口ぶりに応える。
「相談……?私に?いきなり何を……」
 いきなり何を言い出すのだ、と。
 警戒心もあらわに、そう言ったハロルドに、ルーファスは「騎士殿は、アレン殿下……王太子殿下に、お目通りが叶ったことがおありか?」と問いかける。
 問われたハロルドは半ば呆れたように、
「王太子殿下に、まともにお会いしたことなど、あるはずもない。私がそんな身分にないことは、貴方もよくご存じでいらっしゃるだろう?エドウィン公爵……騎士団の行事の折に、遠目でお見かけするぐらいが、せいぜいだ」
と、返事をかえす。
 一応、貴族の生れとはいえ、貴族とは名ばかりの貧乏男爵家の子息であるハロルドにとって、王太子殿下は遠い遠い、雲の上の存在だ。
 妙な成り行きで、こうして対等に話しているとはいえ、本来なら、エドウィン公爵ですら、かなり身分のひらきがある。騎士隊長としての役目がなければ、おそらく、そうそう関わり合うこともなかっただろう。
 アレン――王太子殿下のことは、遠目でお見かけするぐらいという、ハロルドの言葉に嘘はない。
 実は、その以外にも、少々、浅からぬ縁があったが、それは断じて吹聴するような事柄ではなかったので、騎士は言葉を選んだ。
 そうか、と相槌を打ったルーファスに、「それが……?」とハロルドは話の核心にふれるように、求めた。
「貴方が、王太子殿下の側近であられることは、重々承知しているが、それと私に何の関係が?……エドウィン公爵」
 アレン殿下。
 早くに母を亡くし、これといった強力な後ろ盾が存在しないとはいえ、聡明にして、慈悲深い性格をもって知られる王太子殿下は、宰相派との対立はあっても、王に相応しい人物と言われている。
 病がちな父王の代わりに、まだ十八歳の若さながら、大国エスティアの政治の一翼を担い、その責任を十分に果たしている、というのが、宮廷人の評価だ。
 そして、そんな王太子殿下の唯一無二の側近と目されるのが、眼前にいる、この、ルーファスという青年であることも、ハロルドは重々、承知していた。が……
 かといって、自分と何の関係があるのか?といえば、騎士は首をかしげずにはいられない。
 過去の事情から、ハロルドはただ王族だからという理由だけでなく、王太子殿下を真実、尊敬していたが……あれから、何年か経っているし、今更、蒸し返すようなことでもないだろう。
 騎士の困惑がわからぬはずもないのに、ルーファスはそれには触れず、思いもよらぬことを口にする。
「実は、王太子殿下は、今、民の生活を知るための“目”を必要となさっている」
「王太子殿下の……目、とは?」
 わけもわからず、深緑の目を丸くするハロルドに、ルーファスは言葉を重ねた。
「王太子殿下の目は、玉座や貴族だけではない、常に国全体に向けられていらっしゃる……王位を継ぐ者として、常に庶民の暮らしぶりにも、御心を配っておいでだ。役人の不正、流行り病、貧富の格差や犯罪の横行、気にすべきことは、尽きることがない」
 ルーファスはさらり、とそう説明したが、実際、それは口で言うほど容易いことではない。
 目に入る範囲ですら、問題を解決することは楽ではない。
 もしてや、王族の地位にあるものが、市井の民の生活にまで目を向けるとなれば、それは想像を遥かにしのぐ、苦難の道である。
 実際、歴代のエスティアの王は、戦争や外交、貴族達との関係を良好に保つために苦慮しても、民の生活には無頓着な者が多かった。だが、当代の王太子、アレンはそうではない。
 そんな主君の命に従い、ルーファスも折に触れ、民の生活に変化がないか調べ、王太子殿下に報告を怠らずに来たが……
 それでも、彼自身も貴族の中の貴族、民の心境を理解しているとは言い難い。
 なればこそ、市井の協力者の存在は、欠かせない。
 王太子殿下の意志を理解し、その曇りない“目”となりうる存在が――。
 そう説明した上で、ルーファスは騎士殿、とハロルドに呼びかける。
「……という事情だ。その、王太子殿下の目になる気はないだろうか?たとえ貴族であっても、騎士として市井の様子を知る貴方は、その役目に相応しいと思うが……いかがか?」
 その申し出に、ハロルドはすぐの返答をためらう。
 王太子殿下と人柄は信頼しているし、ほんの少しでも、あの御方のお役に立てるならば、名誉なことだとも思う。その為の理由も、彼の心にはある。
 しかし、可能性は低いとはいえ、宰相ラザールの派閥に睨まれるかもしれず、目の前の、エドウィン公爵のことは未だ信頼とは程遠い状況だ。
 噂にしろ、氷の公爵との悪名も耳にしている。
 その提案に乗るには、少なからず、勇気がいった。
「……事情は、理解した。だが、なぜ一介の騎士である私を?」
 返事は保留したまま、ハロルドはそうルーファスに尋ねる。
 騎士や貴族、目になりうる人材ならば、他にいくらでもいたはずだ。
 ……なぜ、自分なのだろう?
「騎士団を訪ねた、あの時、貴方の部下の、ルース=カルヴィンの名を出したのは、偶然ではない」
 そうルーファスが言った瞬間、ハロルドはハッと目を見開く。
 険しい顔を崩さない騎士とは対照的に、ルーファスは涼しい顔で続けた。
「元部下が無実の罪をきせられたからといって、それを庇って、牢獄に入れられそうになるとは、ずいぶんと仲間思いなことだ。騎士殿、いや、ハロルド隊長?」
「……知っていたのかっ!!」
 もはや、身分ゆえの遠慮も忘れて、ハロルドが叫ぶ。
「事情を調べるように命じられたのは、王太子殿下だが、実際に動いたのは私だからな……直接に面識はなくとも、ハロルド=ヴァン=リークスの名に、聞き覚えがあった」
 二年ほど前の記憶を手繰り寄せながら、ルーファスはそう答える。
 彼自身、詳しい事情を把握しているわけではないが、ハロルドはかつて無実の元部下を庇うために、貴族の上官に逆い、牢に入れられた過去があるらしい。
 平民の部下を庇って、貴族に盾つくなぞ、はたから見れば愚かか酔狂としか言いようのない真似だが、それはまぁ、そういう男なのだから、仕方あるまい。
 その後はわざわざ語らないが、どういう経緯か、そんなハロルドの窮状を耳にした王太子殿下は、事情を調べ直すよう役人たちに命じ、牢に入れられた騎士に救いの手を差し伸べた。
 ――というような事情だ。
 その際、王太子殿下に意向をくみ、事情を調べ直したのがルーファスであり、直接、言葉は交わさずとも、ハロルド=ヴァン=リークスという名は覚えていた。
「なぜ……」
 二年前、動いてくれた恩義はともかくとして、なぜ、今の今まで知っていて、何も言わなかったのか、とハロルドは憮然とした顔をする。
 ルーファスは、そんな騎士のぼやきは一顧だにせず、それで、と決断を迫った。
「それで、どうする?騎士殿……王太子殿下の目になる気が、あるのかないのか、教えて頂けると、こちらも助かるのだがな」
 その問いかけに、すでに自分が巻き込まれつつあることに、ハロルドはようやく、遅ればせながら気がつく。
 エドウィン公爵の口ぶりから、すでに否、という答えは封じられていることに……
 怒りにも似た激情と、謀られたという屈辱で、胸の奥が燃えるようだった。誰でも良かったわけじゃない、彼だから、彼だからこそ、だったのだ。
 赤髪の騎士は、苦々しい顔でルーファスを睨みながら、計算づくか、と言う。
「最初から、計算づくか」
「意味が、わからないな。何のことだ?」
 向かいのハロルドが、机を叩かんばかりの憤りをあわらにしているにも関わらず、ルーファスはさも何事もなかったように、それを流す。
 その青年の、冷ややかな、いっそ整いすぎた面を睨み続け、騎士はギリリと歯を鳴らす。
「とぼけるな!どこからかは知らんが、わざわざ俺を巻き込んだのは、貴方の意志だろうっ!……違うのか?エドウィン公爵」
 どの段階から、そのつもりであったのか、ルーファスの思考を読みとらない限り、ハロルドには知ることは叶わない。
 しかし、少なくとも、あの夜、あの場所にハロルドは呼んだのは、この男の、エドウィン公爵の意志であるはずだ!――いわば、掌の上で踊らされたようなものである。
 全て計算づくのような行動に、遠慮や敬語すらかなぐり捨てて、ハロルドは憤った。
「生憎と意味がわかりかねるな。騎士殿」
 あくまでも、丁寧な姿勢を崩そうとしないルーファスを、ハロルドが睨んだ。
「その喋り方を止めてもらえるか、かえって腹立たしい」
 そんなハロルドに追い打ちをかけるように、ルーファスは薄く笑いながら「だから、あの時、言っただろう?」と言った。
 蒼い瞳の奥にちらりと焔が踊り、形の良い唇が、うっすらと弧を描く。
「――選ぶのは、貴方だ。騎士殿、と」
 その言葉に、ハロルドは反論を見失い、絶句した
(この男は……っ!)
 黒翼騎士団を訪ねてきて、化け物の一件について、協力するか尋ねた際、たしかに、エドウィン公爵はそう言った。
 が、そうであったとしても、あの時点で誰が、そこまで考えるというのだろうか。
「もし、王太子殿下の目となり、力を尽くす気があるならば、それ相応の報酬を約束しよう……貴方にとっても、悪い話ではないはずだがな。騎士殿」
 一瞬、呆然としたハロルドだったが、ルーファスがそう言ったことで、ハッと我に返り、結構だ!と強い声音で突っぱねた。 
 お世辞にも豊かとは言えない実家を思えば、報酬に二文字は魅力的ではないわけはない。だが、そうであっても、金で騎士の誇りを売る気にはなれない。
 侮るな、と叫びたいところを耐え、ハロルドは努めて平静さを保つように心がけつつ、毅然とした態度で言う。
「王家に忠誠を誓う騎士の身で、金で動く気はない」
 そうか、とうなずくルーファスに、ひどく複雑な感情を覚えながらも、ハロルドは「ただし……」と続けた。
「ただし、王太子殿下には、かつて助けていただいた恩義がある。ただの騎士である俺では、大した力にならんだろうが……もし、殿下がそれを望まれるなら、その話を受けよう」
 氷の公爵と呼ばれる青年に対しては、二年前の一件を差し引いても、騎士の胸中には、いささか複雑な葛藤が残るが、王太子殿下に関しては別だ。
 あの王位を継ぐべき高貴な方は、自分のことなぞ、絶対に覚えていらっしゃらないだろうが、ハロルドにとっては窮地を救われた恩人であり、返しても返し足りない借りがある。
 それ思えば、この話は断るべきではない。
「有難い返事だな。感謝する。きっと王太子殿下も、お喜びになるだろう」
 うなずくルーファスに、勘違いするな、とハロルドは吠えた。
「勘違いしないでもらおう。貴方のためじゃない、エドウィン公爵……あくまでも、王太子殿下の為だ」
 冷静になって見れば、過去のことで、エドウィン公爵にも少なからず借りがある気がしたが、それを素直に認めるには、頭に血が上っていたので、ハロルドはいささかキツイ言い回しをした。
 しかし、機嫌を損ねるかと思った黒髪の青年が、むしろ、かすかに頬をゆるめたことに、騎士は目を見張る。些細と言えば、些細、だが、意外といえば意外な反応だ。
 心なしか、満足そうな様子で、ルーファスは言う。
「それで構わない。むしろ望むところだ、騎士殿」
 自分に忠実であってくれる者は有難いが、今、欲しているのは、王太子殿下を大切にし、私利私欲ではなく、その力となってくれる人間だと、ルーファスは考えている。
 真実、その者が王太子の為になるならば、別に、自分自身は嫌われようが、疎まれようが、憎まれようが、さしたる問題ではない。むしろ、頼もしい存在だ。
 単なる側近というだけではなく、王太子に捧げる、唯一ともいうべき忠誠心ゆえに、冷徹な男として知られるルーファスは、そう言い切った。
 心臓が氷で出来ている、とまで称され、己の手を汚すことさえ厭わないエドウィン公爵の、意外とも言うべき一面に、ハロルドは露骨に意外そうな顔をした。
 ほんの少しだけ、憤っていた騎士の表情に変化が訪れる。
 正直、ずっと、聡明だと言われる王太子殿下が、この冷徹そうな男を友と呼んで、腹心としているという事実が、不思議でさえあった。
 この、ルーファスという男の優れた才覚や、時に圧倒されるまでの存在感を目にしていても、だ。
 しかし、わずかだが、その理由の一端を垣間見たような気が、ハロルドはした。
 驚きが、あまりにもあからさまに顔に出ていたのか、騎士の思考を読んだルーファスが、ふ、と苦笑にも似た息を吐く。
「意外そうな顔をしているな。騎士殿」
「いや、お気に障ったなら、申し訳ない。それより……その呼び方、どうにか変えてもらえないだろうか?」
 意外そうな顔をしたのは本当だったので、それについては正直に詫びて、ハロルドはそう頼む。
 騎士とは立場であって、彼個人をさすものではない。
 初対面ならば、気にも留めないが、こう何度も続くといい加減、名前で呼んでくれと言いたくなる。
「では、隊長と?」
 からかいとまではいかぬが、揶揄めいた言い方をするルーファスに、ハロルドは思いっきり、露骨に眉を寄せ、嫌そうな顔をする。
 己の部下でもなんでもない男に、わざわざ隊長と呼ばれる理由がない。
 貴方に隊長などと呼ばれる覚えはない、と言うと、ハロルドは嘆息まじりに続ける。
「わかった……ハロルドでいい。部下でもない相手に、隊長と呼ばれるよりはマシだ」
「そうか。なら、こちらもルーファスで構わない……いちいち、エドウィン公爵などと言うのも、面倒だろう?」
 まったく距離が縮まっていないにも関わらず、呼び方が変わるのが、果たして良いのか悪いのか……。
 意外にも、己の身分を殊更に誇るでもないルーファスは、あっさりとそう言うと、背もたれに預けていた身を起こし、すっ、と長い腕をハロルドに伸ばしてくる。
「決まりだな。よろしく頼む」
 差し出されたその手を取るべきか、束の間、ハロルドは悩んだ。いまだ割り切れない感情はあるが、ここで躊躇うのもどうかと思い、結局、手を重ねる。
 ほんの一瞬、触れ合った手の感触に、騎士は深緑の瞳をすがめた。
 端整な容貌からは意外なことに、ルーファスの指は硬く、休む間もなく、剣やペンを握り続けてきた日々を、嫌でも周囲にわからせる。
 そんな男の手だった。
 お互い、慣れ合うことを厭うように、さっ、とどちらともなく手を離した後、ハロルドが口を開く。
 わずかに躊躇うような素振りを見せたものの、それも男らしくないと思い直してか、赤髪の騎士は、先ほどから気になっていた疑問を口にした。
「俺が、いつか裏切るとは心配しないのか?貴方の奥方の秘密を知っているのに」
 それは悪意ではない、純粋な疑問から出た問いだった。
 いくら、王太子殿下の件があるとはいえ、ハロルドならば、わざわざ好き好んで、そんな相手と協力しようとは思わない。
 巻き込んだ以上、口止めの意味もあるのかもしれぬが、ならば、もっと警戒しそうなものだ。
「心配しても意味のないことは、しない主義だ。おそらく、貴方はしないだろう?騎士殿、いや、ハロルドか」
 意外なくらい、呆気なく裏切りを否定するルーファスの返事に、逆に問うたハロルドの方が、拍子抜けする。
 信じているわけでも、かといって疑っているわけでもない。
 ただ、確信しているような声だった。
 余りにも、あっさりと流されたことに、肩透かしをくった気分になりながら、騎士は「もしもの時を考えないとは、な」と呆れた風に呟く。
「その時は、俺に見る目がなかったというだけのことだ」
 裏切りを想定してすら、動揺の欠片もなく、冷ややかな無表情のまま応じるルーファスに、騎士は深緑の目を細める。
 この男と気が合う日はおそらく、永遠に来ない気がするなどと……そんなことを思いながら、ハロルドは最後にもうひとつだけ、氷の公爵と呼ばれる彼に尋ねた。
「貴方がそこまでするのは、奥方を守るためか?」
 そう問われた瞬間、それまでただの一度も揺らがなかったルーファスの蒼い瞳が、ほんの一瞬、揺らいだ。
 ほんの一瞬、瞬きにすら満たぬような、一瞬の。
 しかし、普段が普段であるだけに、その表情の一瞬の変化にハロルドは瞠目する。
 冷たく、端整な容貌に、洗練された隙のない物腰し、冷徹なまでの計算に裏打ちされた、辛辣までの言動――そんな男が見せた、一瞬の、だが、狂おしいまでの恋慕の情。
 たった一人の女に向けられた、執着……。
 しかし、その次の瞬間には、その瞳によぎった感情を綺麗さっぱり、跡形もなくかき消して見せて、ルーファスは冷ややかに言い捨てる。
「下らん勘違いだ」
と。


 老齢の、いかにも謹厳実直を絵に描いたような執事に見送られ、ハロルドがエドウィン公爵家の屋敷を辞した時、空にはすっかり夜の帳が降りていた。
 身を切るような夜風に、真紅の髪と、マントの裾をあおられながら、騎士は何気なく上を向いて、夜空を見つめる。
 漆黒に塗りつぶされた天にあって、銀の一番星がひとつ、まばゆいほどの輝きを放っていた。
 暗い夜空にあって、煌々とした輝きを放つ、その星の名は、シェール・ダ・リア――古来より、旅人の道標であり、≪導きの星≫とも呼ばれている。
「ルーファス=ヴァン=エドウィン……か」
 ふと立ち止まり、夜空を仰いでいたハロルドの口から、奇妙な縁でかかわりあいになった男の名が呟かれる。
 望んだ出会いでも、望んだ縁でもなかったが、何か数奇な運命に踊らされているような気がしてならない。――これも、一つの運命だ、とそう思うしかあるまい。
 旅人の星よ、導きの星よ、どうか、我が道を守りたまえや……。
 幼い頃に聞かされた、古びた祈りの文句を唇の端にのせて、ハロルドは官舎への道のりを急いだ。


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