「あいつが、あの男が悪いんだ。あいつ、エドウィン公爵のせいで、私が、私がこんな目に……」
ぴちゃ、と石造りの天井から一滴、黒ずんだ鉄格子をつたう。
窓のない、一切の光が差さぬ地下牢は、ひやりとした空気に満ちていた。
長い歳月で変色した灰色の壁と、罪人と外界との接触を閉ざす、無情な鉄格子。
むわっとした、思わず、鼻をつまみたくなるような、独特の臭気。
今まで、あまたの罪人がこの牢屋に入れられ、絶望と怨嗟と……外の世界への飽くなき渇望を抱きながら、ここに閉じ込められ続け、時に鉄格子の中で生涯を終わらせてきたのだろう。
それを物語るように、暗い灰色の壁に囲まれた地下牢は、ひどく寒々しく、今にも死を前にした罪人の叫びが聞こえてきそうなほどだ……。
「あいつが、あいつが悪いのだ。あいつさえ、あいつさえいなければ……」
狂ったように、ぶつぶつと呟かれる恨み言。
とどまることのない怨嗟の声。
先ほどから、いつ終わるともしれないそれに、迷惑そうな顔をした牢番の男は、露骨に舌打ちすると、がりがり、と苛ついたように髪をかく。
――まったく、厄介な囚人が来たものだ。
地下牢に入れられる罪人が、常軌を逸した狂人であったり、わけのわからぬことを口走ったりするのは、さして珍しいことではない。
灰色と鉄格子だけの世界に耐え切れず、心を閉ざし、己の殻に閉じこもる者もいれば、反対に、ひたすら死を乞う者もいる。ここで更に正気を失っていく者もいれば、なんとか脱走しようと無駄な足掻きをし、何度も何度も暴れる罪人もいる。
この地下牢に閉じ込められるのは、何らかの理由ありの、もう二度と表の世界を出歩けぬような重罪人ばかりであり、牢番の男にとっては、常軌を逸した囚人は見慣れこそすれ、今更、動じることもない。
……が、そんな牢番であっても、鉄格子の奥から延々と聞こえる恨み節には、いささか辟易していた。
それが、あからさまに正気でなければ尚更だ。
「うるさいぞ、黙れ」
いまだ、ぶつぶつと怨嗟の声が聞こえる方に向かって、牢番は黙れ、とイライラしつつ怒鳴ったが、果たして、その効果は期待できなかった。
そんな牢番の行動を嘲笑うように、とある独房の奥からは、なおも「あいつが、エドウィン公爵の奴め……よくも、よくも私の腕を……」という恨みがましい声が響いている。
まだ若い牢番はペッ、とツバを吐くと、その鉄格子越しに罪人を睨みつけた。――妻殺し、その他もろもろの罪状で、ここに入れられた貴族の罪人を。
実際、とうの昔に正気を失っていることを除いても、その独房の主は、片腕を失った罪人は、ひどく厄介な男だった。
もともとは、高い身分の、王宮にも出入りしていた貴族だか何だか知らないが、牢に入れられるの際にさんざん暴れて抵抗し、体格が良いので、抑え込むにも骨が折れた。
のみならず、おかげで牢番の男は目元に、派手な青アザをこさえている。
しかも、この地下牢に入れられたら、入れられたで、失った腕が痛むと昼夜を問わず、大声で叫びながら暴れる。
たまに静かだと思えば、ギラギラと常軌を逸した目をして、「あいつが、あいつが……」と、ここにはいないエドウィン公爵という相手に向かって、ぶつぶつと恨み節を言い続ける。
これでは、牢番の男とて、一瞬たりとも気の休まるひまがない。
はっきりいえば、うんざりだった。
「あいつのせいだ。あいつが、あんな真似をしなければ……」
ここ十日ほどの出来事のせいで、すでに限界に達しつつある、牢番の神経を逆なでするように、それは続く。
牢番の男はもう一度、その顔に嫌悪感をにじませながら、地面にツバを吐き捨てる。
そうして、そのぶつぶつという呟きが聞こえる独房に歩み寄ると、足を振り上げ、ダンッ!とその鉄格子を強く蹴りつけた。
キイイイン、と鉄格子がふるえ、靴裏にわずかな痺れを感じながら、牢番は中にいる罪人を怒鳴りつける。
暗い独房の中で、膝を抱えて丸くなる、赤銅色の髪の男――ローディール侯爵を。
「うるさいぞっ!静かにしろ!俺の声が聞こえないのか?」
鉄格子越しに、すぐ数歩の距離で怒鳴ったのだから、牢番の声が聞こえていないはずもないのに……独房からは、あいつが、あいつが、と正気を失った声が聞こえ続ける。
牢番はうんざりしながら、灰色の壁に囲まれた独房の中で、うずくまる大きな影を眺める。
かつては整えられていた赤銅色の髪はボサボサに乱れ、洗っていない顔には垢がこびりつき、目元には黄色の目やにがたまっていた。
二の腕で切り落とされた腕には、ぐるぐると包帯が巻かれている。
全身からは、香水とは違う、生々しい、耐え難いほどの悪臭がただよう。
恵まれた体躯を丸め、膝を抱えながら、虚ろな目をして、
「あいつのせいだ。エドウィン公爵、あの屑めが……」
などと呟き続ける、そんなローディールの姿からは、かつて宮廷の伊達男ともてはやされた面影は、まったく感じられない。
死んだ魚にも似た、ローディール侯爵の眼には、己を怒鳴りつけた牢番のことも……否、己を取り巻く灰色の壁も、罪人の証たる鉄格子さえ、映っていないのではあるまいか。
鉄格子を蹴りつけてまで、怒鳴りつけたにもかかわらず、まったく反応のないローディール侯爵の様子に、牢番はそう悟らざるをえなかった。
ハア、とその唇から、深いため息がもれる。
なおも、独房の奥から響く怨嗟の声に、牢番は黙らせることを放棄し、諦めた。
自ら正気を手放した者に、狂人を相手に、何を言っても無意味だと。
「……大人しくしていろよ」
どうせ無駄だと知りつつ、牢番はそう鉄格子の奥に声をかけると、他の牢の見回りをするために、その場に背を向ける。
カチャカチャ、と腰につけた鍵の束が鳴る。
背後で、ぶつぶつと聞こえる声を薄気味悪く思いながら、牢番の男はそこから歩き去った。
「あいつが、あいつが……」
物音ひとつしない、という表現が似合うほど、しんと静まり返った地下牢に、狂った罪人の声だけがこだまする。
幾度も、幾度も、絶えることなく。
しかし、耳の奥にこびりつくような、肌が粟立つような恨み言を唱え続けていたローディール侯爵が、ふと、その口をつぐんだ。
牢番に怒鳴られてさえ、一度として黙ろうとしなかった男が、である。
さきの牢番の苦労を皮肉るように、ローディールはあっさりと黙ると、ゆるゆると顔を上げた。
赤銅色の頭が、揺れ動く。
こちらに近寄ってくる人の気配を感じたように、ローディールは伏せていた顔を上げると、鉄格子の外に目を向ける。
ひたひた、と足音が聞こえた。
その鉄格子の向こう側にたたずむ、人の影を確認した瞬間、虚ろだった罪人の目に、かすかな光が宿る。
目を見開いたローディールの喉からは、おお、と悲鳴とも喜びともつかぬ声がもれ出た。
「おお……」
ひた、ひた、とゆっくりと、焦ることなく、だが、確実に近づいてくる、靴の音。
薄暗い地下牢にあってさえ、視界に眩しさを感じさせる、白の、白づくめの装い。
床まで届きそうな白髪と、長い白髭をたくわえた、一見、穏やかそうな老人が、ゆっくりと地下牢を歩いている。
四方を、灰色の壁に閉ざされた、地下牢という特殊な空間にいるにもかかわらず、その老人の歩みにも、かすかな笑みさえたたえた口元にも、変化らしきものは読み取れない。
そう、王宮で宰相として振る舞っている時と、あのルーファスが老狐と呼び、忌み嫌う時とまったく同じ姿、同じ表情である。
しかし、それがこの場にあっては逆に異様で、言いようのない異常さを際立たせていた。
白い衣の裾を引きずりながら、その老人、宰相ラザールはゆったりとした足運びで、とある独房の前まで歩み寄る。と、鉄格子のすぐ前で足を止める。
ぴちゃ、と天井から水滴がしたたる。
国王すら傀儡とする老狐、宰相ラザールは独房の前で足を止めると、唇の端に穏やかな微笑めいたものをのせ、鉄格子の中をのぞきこむ。
灰色の瞳が、独房の中にいるローディール侯爵を映し、ゆぅるりと細められる。
そうして、宰相は穏やかな、優しさすら感じる声音で、ローディールに語りかける。
「おやおや、しばらく会わぬうちに、ずいぶんと面変わりしましたね。ローディール侯爵……それで、牢屋の居心地はどうですか?」
堕ちたりとはいえ、かつての側近にかけるには、宰相のそれは、あまりにも残酷な言葉だった。
それにもかかわらず、そう口にする宰相ラザールの声は、あくまでも穏やかで、慈悲深い。
まるで、本心からの同情に満ちているようにすら、錯覚を抱きそうになる。そんなことは、ありえぬのに……。
「ラザール様……ラザール様、ああ……」
優しく、耳に心地よい宰相の声音に、ローディール侯爵もまた己に都合の良い幻想に囚われる。
――宰相は、側近たる己を見捨てなかったのだ!と。
ラザール様、ラザール様、とその名を呼びながら、赤銅色の髪の男はロクに動かぬ足を引きずりながら、ずるずると鉄格子に近寄る。
もし、彼と宰相の間を隔てる鉄格子がなければ、おそらく、その白い衣の裾にすがりつき、ここから出してくれ、と懇願していたことだろう。
一心に宰相を見つめる、ローディールの瞳には、あわい希望の影が見え隠れしている。
妻を毒殺した咎で投獄されるまで、宰相のそばに控え、媚を売り続けたローディールが抱いた、大きな誤解。
その誤解を、その救い難いまでの愚かさを、誰よりもよく理解していただろうに、宰相はそれを否定しなかった。
代わりに、すがるような目を向けてくるローディールに向かって、わかっていますよ、とうなずく。
そうした宰相の姿は、白尽くめの、薄闇に閉ざされた地下牢では、どこか神聖な色合いと相まって、まるで、罪人に許しを与える神官のようだ。
うなずいた宰相は、あくまでも慈悲深く微笑しながら、「ねえ、ローディール侯爵……」と語りかける。
優しく、優しく、不自然なほどの穏やかさをもって――
「あの男が、エドウィン公爵のことが憎いですか?あの男の……お綺麗な顔を踏みにじり、息の根を止めてやりたいほどに」
「ラザール様……」
宰相の言葉に、鉄格子にいっそう頬を寄せたローディールは、一瞬、正気に戻ったように、息をのむ。
そんな男に、にこりと笑い、宰相は続けた。
「ふふ……復讐したいですよねぇ?あの男に」
あの男、エドウィン公爵にね。
宰相がそう続けた時、それまで虚ろだったローディールの目に、刹那、光が戻った。
伸ばし放題の赤髪からも、垢にまみれた顔からも、かつて野性味のある危うい魅力で、美男と言われた面影はない。が、その虚ろな瞳に焔が踊り、一瞬、昔日のギラギラした眼差しをよみがえらせる。
絶望よりもなお昏きもの、増悪の焔は、ほんの一時、命の炎をあざやかに揺らめかせる。燃え尽きる寸前の、輝きにも似て。
復讐……その言葉は、甘美な美酒にも似ていた。
その言葉がもたらす想像に酔いしれながら、ローディールは「復讐……あの男に」と呟く。
男の視線は、無意識のうちに、失った腕を探していた。
増悪と復讐心にまみれた、ローディールの気持ちを見透かした風に、宰相は灰色の瞳を緩めると、鉄格子越しにささやく。
「素直に、憎い……とそう口に出して御覧なさい。ローディール侯爵」
甘美な、ひどく蠱惑的な響きを持つそれ。
「憎い、憎いです。この手で殺して、八つ裂きにしてもあきたらない……!」
宰相にそう仕組まれていることにすら気づかず、ローディールはそう叫んだ。
――そうだ。全て、あの男が、エドウィン公爵が悪いのだ!あいつのせいだ、あいつのせいだ、殺してやる。殺してやる。殺してやる。この手で!
その瞬間、妻に毒を盛ったことも、呪術師の老婆を惨殺したことも、呪いによって、化け物とかした己が、何の罪もない人々を食い殺したという事実さえ、ローディールの頭からは抜け落ちており、罪の意識など端から感じていなかった。
妻は邪魔だったから殺したのであり、呪術師の老婆や、名もなき平民など彼にとっては同じ人間ですらなく、虫ケラと変わらぬ存在だった。
とるにたりぬものを壊したところで、いちいち罪の意識を感じるものなどいまい?
……そうだ。
あの男がいなければ、すべてが上手くいったのだ。
――あの男、エドウィン公爵が関係ないことに、余計な首を突っ込んでこなければ!あげく、彼の腕を切りつけるなどという、ふざけた真似をしなければ!
「あの男に、エドウィン公爵に、いかに己が愚かな真似をしたか、思い知らせてやる……私と同じ地獄に突き落としてやる、どんな手を使っても……!」
顔を醜く歪めて、ローディールは復讐を叫ぶ。
彼の胸の中にはどす黒い復讐心が渦巻き、その瞳は増悪の焔を宿して、らんらんと輝いている。
先ほどの、まるで死人のような虚ろな表情が嘘のように、赤銅色の髪の男の顔色は、生の気配に満ちていた。一瞬の活力をみなぎらせるのに、増悪や妬みは有効だ。
ぎりぎり、とかろうじて無事だった片腕で、鉄格子を掴むローディールの目には、宰相は映っていない。
彼の目に幻のように映るのは、彼をこの暗く冷たい牢獄に叩き込みながら、己は外の世界でのうのうと生きているエドウィン公爵――ルーファスのことだ。
あの男だって、後ろ暗いことの一つや二つ、抱えているはずだ。なのに、なぜ自分だけ、こんな目に合わなくてはいけない?
そう思い、ローディールは瞼の裏に浮かんだ、かの青年の幻影を、想像の中で何度も何度も刺し殺す。何度も、何度も。
――復讐してやるのだ。あの男に、自分と同じ、否、それ以上の地獄を見せてやる。あの男の妻を目の前で凌辱して、地面を這いつくばらせた後、なぶり殺しにしてやらねば、この復讐心は収まらぬ。真の地獄を、生まれてきたことを、心底、後悔するような目に合わせなければ!
「ならば……この手を取りなさい?この地下牢から出してあげましょう……」
そう言いながら、宰相はローディールに、痩せて、シワのきざまれた手を差し伸べる。
美しい金糸の刺繍が織り込まれた、白い袖がゆれる。
想像の中で、氷の公爵と呼ばれる青年を殺し、愉悦の笑みを浮かべるローディールを見ても、彼と鉄格子越しに向き合う宰相は、顔色ひとつ変えなかった。
その歪んだ男の顔に、一見、好々爺然とした宰相は、眉をひそめることも、かといって、同調するわけでもなく、ただ穏やかな微笑を浮かべている。
そんな老宰相の表情に、本能は危険だと異常だとささやいたが、ローディールは胸によぎったそれを無視した。
自分には、まだ利用価値があるのだ。宰相は己を必要としている。だから、こうして、わざわざ地下牢まで足を運んで、救いの手を差し伸べるのだ。
それ以外の、それ以外の理由など、な……
「おお……」
鉄格子越しに伸ばされた、宰相の手を取ろうと、ローディールは手を伸ばす。
その時。
プス、と針を刺す音がした。
何が起きたかわからず、ローディールは首を傾げ、下を向く。
彼の指の先には、小さな銀の針が突き刺さっていた。きらきら、きらきら、銀の光を放つそれが。……針?
次の瞬間、ローディールの視界は反転する。
意識が闇に落ちるまで、わずかな猶予すらなかった。
どん、と大きな音をさせて、赤銅色の髪をした男が、その大柄な体躯が、独房の中で崩れ落ちた。
だらしなく床に倒れこんだ身体、指の先から回った毒が、心臓まで到達するのに、さほどの時間はかからなかった。
ぴく、ぴく、とその腕が何度か虚空を掴むように伸ばされ、やがて、完全に動かなくなる。
がくっと首が折れ、口元から血を流し、虚空を見つめるローディール侯爵の目からは、すでに生の気配は途絶えていた。
あっけなく、簡単に、彼が食い殺した人々よりも余程あっさりと……化け物であった男は死んだ。
「ひとつ言うなら、私は嘘はついていませんよ……」
そんな男の死に様を、己が殺した男の亡骸を、何の感慨もなく、凪いだ瞳で見つめて、宰相は少しだけ唇を歪めた。
穏やかな眼差し、優しい口調。
返事が返らぬのを、誰よりも承知の上で、宰相ラザールは物言わぬローディールに語りかける。
「――ほら、死ねば牢から出られるでしょう?」
違いますか、と。
すでにその目から光を失った男は、その問いに答えなかった。
当然のことだ。死人は、返すべき言葉を持たぬ。未来永劫。
宰相はうすく笑うと、死んだローディールの亡骸に一瞥すらくれず、牢番が戻ってくる前に、地下牢を出て行った。
エスティア建国の祖・英雄王オーウェンの妃、初代・王妃レイミアは、花と歌をこよなく愛したことで知られる。
中でも、汚れなき、純潔をあらわす白百合をひときわ愛したことから、《白百合の王妃》と呼ばれたほどだ。
花を愛する王妃の為に、夫である英雄王は、王宮の庭園に腕の良い庭師と大陸中の珍しい花々を集めさせ、麗しく、この世の楽園とまで評されるような、それはそれは見事な庭を作り上げた。
そうした王宮の中庭には、エスティアの国花たる白百合は勿論、四季折々の花々が咲き乱れ、庭師が丹精込めて育て上げたそれらは、王宮に出入りする者たちの目を楽しませている。
さんさんと麗らかな日差しが降り注ぐ中、今日も王宮の中庭には、色とりどりの花たちが、まるで競うように、美しい花を咲かせている。
青空の下、瑞々しい木々の枝葉が風にそよぎ、ささやくような音を奏でる。
枝の先で、羽を休めた鳥のつがいが、チュンチュンと愛らしくさえずり、花々の間をミツバチがぶんぶんと忙しげに飛び回る。
王宮の庭師たちが丹精こめ、執念ともいえるほどの情熱を注いで育て上げた花壇と、自然がもたらした光や風、色あざやかな蝶々や小鳥が飛び回る中庭は、どのような詩人であっても、容易には例えられぬ程の美しさである。
一幅の麗しい絵画のような、そんな美しい中庭の片隅では今、かの英雄王の系譜に連なる少年が、小さな背中を丸めていた。
日よけの帽子の下で、薄茶の髪が揺れる。
ぷちぷち。小さな手が赤茶けた土から、雑草を引っこ抜く。
膝を折り曲げて、中腰になり、伸びかけた雑草を引き抜く幼い手は、意外にも手際よく、淀みない。
花壇の間にはえた雑草を、手ずから引っこ抜き、せっせと花の世話をする少年の姿は甲斐甲斐しく、心から草花を好いていることが伝わってくる。
容赦なく、さんさんと降り注いでくる強い日差しに、砂色の瞳を眩しげに細め、雑草を引き抜いていた、幼い少年――セシルは、んしょ、と立ち上がると、近くにあったジョウロを手に取り、手ずから花壇の花々に水をやる。
咲き誇る花たちに水をやりながら、それを見つめる彼の、セシルの瞳はやわらかく、慈しむようだった。
今年も綺麗に咲いたね、と、口に出さねど、心の中でそう声をかけてやる。
「ふう……」
額ににじんだ汗を、手の甲でぬぐうと、セシルは再び膝を折り、隣の花壇の雑草を抜きにかかる。
本来ならば、花壇の手入れや花の世話など、庭師がやるべき仕事であり、セシル――仮にも王子の身分にある彼が、やるべきことではない。
気弱で、引っ込み思案な性格が災いして、王宮でも軽んじられているものの、れっきとした王子であり、宰相を祖父に持つセシルが、こうして庭師の真似事をしているのは、ひとえに自ら望んだからだ。
大人すぎる性格ゆえに、人前ではロクに喋れぬセシルだが、植物を愛することにかけては、王宮の庭師に負けぬほどだ。
社交の場は苦手だが、こうして草花の世話をしていると、心が安らぐ。
王宮の庭師たちは揃って、王子であるセシルが庭師の真似事をすることに難色を示したものの、王子の懇願に負けて、最終的には折れてくれた。
……そんなわけで、今日もセシルは専属教師による授業の合間をぬって、息抜きに花壇の世話をしている。
ふと、少年の砂色の瞳がゆれた。
青い花と花の間を、緑柱石の色をした昆虫が、ぶぅぅん、と羽音をさせて跳ねた。
そうして、花の上にちょこんと乗った虫を見て、セシルは小さく唇をほころばせる。
生き生きとした草花や昆虫たちの姿に、普段は緊張で凝り固まった心の糸が、ゆるやかにほどけていくのを、セシルは感じた。
こうして、花壇の世話をしている時だけ、彼は身に背負うものの重さも、心にかかった重圧も忘れて、ただの少年に戻ることが出来る。
寝室に閉じこもった父のことも。
己のみを愛し、息子を顧みない母のことも。
孫を道具としか見ない祖父のことも。
王子にして、宰相たる祖父の駒でしかない自分の立場を忘れ、ただのセシルに戻ることが出来るのだ。
そう、この瞬間だけは――。
「……」
まるで、宝石のような、緑柱石の色をした昆虫が飛び立ったのを見届けて、セシルは隣の花壇にも水をやる。
そうして、すぐ横に置いてあった植木鉢へと目をやった。
植木鉢では、ついさっき花開いたばかりの黄色の花が、風にその花弁を遊ばせている。
砂色の瞳には少し寂しげな影がよぎり、少年の手が、大切そうに植木鉢を抱え込む。
もし、叶うならば、本当は庭師か学者になりたいと、セシルは願っていた。
王子の身では、決して、決して叶わぬ夢であったけれども。
「……セシル殿下」
そんな風に、せっせと花の世話をしていた王子の頭上に、ふっと大きな影がかかった。
急に視界が薄暗くなったことに、何度か目を瞬かせ、セシル殿下――と呼ばれた彼は、顔を上げる。
ゆっくりと、ためらいがちに顔を上げたセシルの表情には、緊張の色が濃い。
花の世話をしていた時の、生き生きとした顔つきとは、別人のようだ。
それもこれも、血の繋がった老人を畏怖し、恐れるがゆえのこと。
セシルはぎゅ、ときつく眉を寄せると、かすかに声をふるわせながら、セシル殿下、と呼びかけた声の主に応える。
お祖父さま、と。
「……お祖父さま」
顔を上げた王子の目の前に立っていたのは、穏やかな微笑をたたえた、純白の装いをした老人だった。
宰相ラザール。セシルにとっては、血の繋がった祖父にあたる。
しかし、血の繋がった祖父と孫であるはずなのに、セシルを見る宰相の灰色の瞳は、どこか寒々しい。
穏やかな微笑をたたえているにもかかわらず、まとう雰囲気は、冷ややかですらある。
そんな祖父の眼差しに、立ち上がったセシルがびくり、と身を震わせるよりも早く、宰相が「セシル殿下……」と問いかける。
「こんな場所で、何をしているのですか?今日の授業は?」
まるで詰問するように言いながら、宰相はどこまでも温かみの感じられない目で、血の繋がった孫を、王子であるセシルを見下ろす。
土で汚れたセシルの手や、近くに転がるジョウロを見て、宰相の瞳に嘲るような、見下すような光がよぎる。
先ほどと変わらず、口元は穏やかな微笑をきざんでいるにもかかわらず、宰相の顔に浮かぶのは、嘲るようなそれだった。
「あ、先生には、少し休憩をもらいました。お祖父さま」
祖父の問いかけに、セシルはおずおずと、遠慮をにじませながら、そう答える。
自分が庭師の真似事をしているのを、祖父が快く思わないのは、予想がつく。
けれども、同時にもしかしたら何も言わないでくれるのでないか、見ないふりをしてくれるのではないか、と淡い希望を抱く。
しかし、次の瞬間、王子の淡い期待は、完膚なきまでに打ち砕かれる。
続けられた祖父の声は、どこまでも冷たく、蔑みさえこもっていて、セシルは耳をふさぎたい衝動にかられる。
「だからといって、王子である貴方が、庭師のように土いじりですか……下らない。いい加減、立場をわきまえない」
「あ、もう申し訳、申し訳ありません……」
祖父の言葉に、セシルは顔を伏せ、うなだれる。
棘のある言葉は、ゆるやかに全身に回る毒のように、彼の胸の奥の奥へと染み込んでいく。どこまでも、どこまでも、深く……。
そうして、委縮しながらも、セシルは何とか顔を上げると、おずおずと宰相に尋ねた。
「お祖父さまは、どうして、こちらへ?」
孫でもある王子の問いに、宰相はああ、とうなずく。
そうして、すぅ、と灰色の目を細めると、穏やかな、優しい声音で答えた。
「ああ、あまり出来の良くない玩具をね、片付けてきたのですよ」
「……玩具?」
出来の良くない玩具。
祖父の口からつむがれた、意味のよくわからない単語に、セシルは首をかしげ、怪訝な顔をする。
そうして首をかしげた王子に、宰相はええ、ともう一度、うなずくと、さも当たり前のことのように続けた。
「ええ、壊れてしまった玩具は、早く捨ててしまわねばね……そうは思いませんか?セシル殿下」
穏やかな口調で、そう言う宰相からは、先ほどの惨劇の名残りは微塵も感じられず、その表情は優しげでさえあった。にもかかわらず、祖父と向き合うセシルは、なぜか薄ら寒いものを感じて、一歩、後ずさる。
なぜだかわからないが、祖父の灰色の瞳を見ていると、背筋が寒くなる。
穏やかな微笑をたたえた口元さえ、どこか偽りじみて見えた。
玩具とは、壊れてしまった玩具とは、一体……?
「お祖父さま……玩具、って?」
セシルの問いかけに、宰相は答えなかった。
その代わり、王子が大事そうに胸の前で抱えた植木鉢に目を止め、「それは……?」と声をかける。
「あ……」
祖父の声に委縮しつつも、セシルは腕に抱いた植木鉢を、ぐっ、と大事そうに抱え込んだ。
植木鉢に咲いた、黄色の花。
今朝方、ようやく咲いたばかりのそれに、優しい目を向けて、砂色の目をした少年は、嬉しそうに答える。
「あ、えっと、僕が育てたんです。最初は上手く育たなかったんですけれど、クルー翁……庭師のお爺さんに教えてもらって、やっと、やっと花が咲いたんです」
アレン兄上にあげたくて……と、セシルは言葉を重ねる。
昔、『たとえ、言葉の通じぬ植物でも動物でも、真の愛情を注げば、きっとその想いは通じる』と、そう教えてくれたのは、彼が誰よりも敬愛する兄だった。
この花を贈ったら、兄上は喜んでくれるだろうか。
そんな幸せな想像をして、はにかむように笑った孫に、祖父がかけたのは、一切の情が感じられぬ視線と、嘲笑うような言葉だった。
「ほぉ……王子である貴方が、自ら、そんな真似をね……」
「はい」
見下すような祖父の視線に、嫌な予感を覚えながら、セシルはうつむくしかなかった。
「そうですか……」
喋りながら、宰相の金糸、銀糸の刺繍が美しい白い袖が、セシルの胸へと伸ばされる。
大きな紫水晶の指輪のはめられた、シワのきざまれた老人の手が、王子の腕を掴む。否、正確にはセシルが大事そうに抱いた、植木鉢を。
あっ、と抵抗の声を上げる余裕すらなく、宰相のかわいた手が、セシルの腕から植木鉢を取り上げる。
植木鉢の黄色い花が、その拍子に、大きく揺れた。
「お祖父さま……いきなり、何を……」
理解できない祖父の行動に、セシルは目を見開いて、戸惑いの声を上げる。
取り上げられてしまった植木鉢、宰相の腕の中でゆらゆらと揺れる黄色の花、やがて高くかかえられたそれに、気弱な王子はひどく嫌な予感がした。
蒼天にぎらつく、強い光を放つ太陽が、宰相の横顔にあわい影を落とす。宰相の唇が歪んで、袖の金糸がきらめいて、そして、そして、――ああ、ああ……。
宰相は灰色の目を細め、優しく微笑みかけると、セシルの目の前で腕をふり下ろした。
「よく見ていなさい」
宰相がそう言ったのと、その手から植木鉢が離されたのは、ほぼ同時のことだった。
目の前にいるにも関わらず、セシルはただ呆然と、手から落ちていった植木鉢が、煉瓦に叩きつけられるのを見守ることしか出来ない。
どこか現実味のない光景を見つめながら、彼はまるで、この場だけ時間が遅れているようだと思う。
宰相の手を離れたそれが、ゆっくりと、ゆっくりと、現実には止める間すらなく落ちていく。
花壇の煉瓦に叩きつけられた植木鉢は、ガシャン、とかわいた音をさせながら、赤茶けた土をまき散らし、割れてしまった。
地面に、砕けた植木鉢の破片、赤茶けた土が破片にこびりつき、だらり、となえてしまった黄色い花が散らばっている。
美しい中庭にはあまりにも不似合いな、無惨で、目を背けたくなるような有り様だった。
「……っ」
セシルは呆然と、顔色の失せた表情をしながらも、無意識のうちに、地面に転がる植木鉢の破片に手を伸ばした。
小さな、泥だらけの少年の手が、くたりとなえてしまった黄色い花へと伸ばされる。
ふるえる指で、泥だらけの破片をつまむ。
戻さなければ。
戻さなければ。
もとに戻さなければ……!
「おやおや」
そんな幼い王子の必死さを嘲笑うように、頭の斜め上に影がさす。
靴が振り上げられる。
宰相は穏やかな笑みを浮かべたまま、振り上げた踵で、すでに砕け散った植木鉢の破片を踏みつける。
幾度も、幾度も、執拗に。
地面は泥で汚れ、散らばっていた破片は、 踏まれ、砕かれ、更に粉々になった。
セシルはふるえる拳を握りしめ、ただただなすすべもなく、そんな宰相の暴挙を見つめていることしか出来ない。
蒼白な顔をして、砂色の瞳が、祖父を仰ぎ見た。
どうして、どうしてと、そう問わずにはいられない。
「お祖父さま。どうして……」
動揺の大きさゆえに、それ以上の言葉を口に出来ないセシルに、宰相はあくまでも冷ややかな態度で言う。
「ああ……割れてしまいましたね。ですが、これで、王子に土いじりなど相応しくないということが、貴方にもおわかりになったでしょう?……違いますか、セシル殿下」
「っ!……お、じ、いさま……」
あんまりと言えば、あんまりな宰相の言い様に、セシルは握りしめた拳をふるわせて、何か言おうとした。が、祖父の、冷ややかな灰の瞳と目が合った瞬間、その意志はあっけなく消し飛んでしまう。
絶対の存在である祖父に、威圧的な眼差しで見下ろされると、ちっぽけなセシル本来の意志は何処かに言ってしまい、宰相の孫、王子としてしか振る舞えなくなる。
なんぞ不満があるのかと目だけで祖父に問われ、セシルは無意識うちに「……いいえ」と首を横にふった。
不満や希望など、口にするだけ無駄だ。
祖父は最初から、セシルの意志など求めていない。
宰相の孫という道具、政治の駒という意味でしか、祖父は己を必要としていないのだから……。
不自然なまでのセシルの従順さを、宰相はさも当然のことにように受け止める。
白い髭を撫でつけ、よろしい、とうなずくと、 宰相は「ああ、そうだ。セシル殿下……」と、好々爺然とした笑顔で口を開く。
「後で、国王陛下にご挨拶にうかがいましょうか?」
「……はい」
「久しぶりに、お父上にお会いしたいでしょう?セシル殿下」
「……はい。お祖父さま」
すっかり表情をなくしたセシルは、はい、はい、とまるで人形のように首を縦にふり続ける。
声がかすれる。
うまく息が出来ない。
……苦しい。誰か。
「セシル殿下がお見舞いに伺えば、国王陛下もお喜びになるでしょう。そろそろ寝室からお出になる日も、近いかもしれません……そう思いませんか?」
「はい、そう願っています。お祖父さま」
まるで、あらかじめ決められている台詞を読み上げているように、答えているセシルの表情には、生気が感じられない。
はい、とうなずく少年の頭に思い浮かぶのは、ここにはいない父の、国王の寝室だった。
――あの暗く、重く澱んだ空気の立ち込める寝室で、国王たる父は今日も寝台で震えているのだろうか。蒼灰色の瞳に恐怖を宿し、見えない影に、怖い怖いと怯えながら……。
宰相とセシルが見舞いに訪れたところで、国王の病状が良くなるどころか、悪化の一途を辿ることを、彼はよく知っていた。
それでも、宰相の言葉には抗えず、セシルはうなずく。
地面に散らばった破片、泥の中でくたりとした花を見ると、心が悲鳴を上げている気がした。
「お祖父さまの……お祖父さまの、おっしゃる通りにいたします」
セシルがそう言ったのを見届けると、宰相は砕け散った植木鉢の破片を一顧だにせず、孫に背を向け、歩き去る。
白く長い裳が引きずられ、細長い影を作り出しながら、やがて遠ざかっていく。
祖父の背中が遠ざかり、見えなくなった頃、セシルは膝を折って、割れた欠片に手を伸ばす。
破片の切っ先に触れ、指先にじわりと、赤い血がにじむ。
「う……くっ……」
勝手にうるんでくる視界、喉の奥から込み上げてくる、しょっぱさ。
まぶたをこすり、必死に涙をこらえながら、セシルは地面に散乱した赤茶色の土に手を伸ばす。
そうして、丁寧に、手のひらですくい上げる。
爪を泥だらけにしながら、無事だった花を、他の鉢に移し変えた。
「……っ。……はぁ」
しおれかけた花を、別の鉢に移し変えると、セシルは再び乱暴に目をこすり、よろよろと立ち上がる。
――アレン兄上に、会いたかった。
この王宮でたった一人、セシルのことを気にかけてくれる、優しい兄に……。
兄上に会えば、兄上に会えさえすれば、この不安が少しは消えるような気がした。
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