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三章  呪いの代償  26


 パタパタ、と乾いた足音がした。
 有事を除いて、楚々とした物腰を信条とする王宮の廊下にあっては、お世辞にも優雅とは言えぬ、その靴音は、いささか不似合いだ。
 そうして、パタパタと忙しない足音を立てるのは、小柄な少年だった。
 ほんの少し赤い目をした少年は、両手で大事そうに植木鉢を抱えて、脇目もふらず、小走りで長い廊下を進む。
 脇目もふらず、廊下を駆けていた小さな影は、曲がり角のところで、女官にぶつかりそうになる。
 きゃあ……!と、悲鳴にも似た声が上がった。
 かろうじて、正面衝突は避けたものの、その宮廷には相応しからぬ振る舞いに、ぶつかりかけた壮年の女官は眦をつり上げ、相手をねめつけると、その振る舞いを咎めようと唇を開きかけ……ぶつかりかけた小柄な影の正体をまじまじと見て、目を丸くした。
 女官の榛色の瞳に映ったのは、薄茶の髪の、大人しげな見た目の少年だ。
 怒鳴りつけようとした相手の、意外な正体に驚きつつも、女官は殿下、とそう呼びかけた。
「セシル殿下」
 女官の声に、名を呼ばれた王子、セシルはしまったという風な顔をした。
 王子らしくない不作法な振る舞いを恥じてか、セシルはうなだれる。
 ついで、おずおずと顔を上げると、ぶつかりかけた女官と向き合い、心配そうな声で尋ねる。
「ご、ごめんなさい……だ、大丈夫?怪我しなかった」
 申し訳なさげに言い、不安気に砂色の瞳を揺らすセシルに、女官はふぅ、と息を吐く。
 そうして、あくまでも王宮務めの女官らしい、優雅な所作で首を縦に振り、「ええ」と答える。
 己よりも位の低い女官やら、新人の文官や武官辺りならば、ぶつかりかけたお礼に、さりげなく嫌味やあてこすりを口にしてやるところだが、相手が王子であれば、そうはいかない。
 ましてや、セシル殿下は、王宮で絶大な権力を握る、宰相ラザールの孫でもあるのだから。
「ええ、お気をつけなさってくださいね。セシル殿下」
 壮年の女官が、やわらかな微笑で注意を促すと、幼い王子はもう一度、ぺこっと頭を下げた。
「うん……本当に、ごめんなさい」
 女官がもうよろしいですわ、セシル殿下、お気になさらず……と言ったのを見届けて、セシルは今度は先ほどのように駆けることなく、やや足早に、磨き上げられた大理石の廊下を歩いていく。
 そんな王子の背中を見送って、壮年の女官は頬に手をあて、首をひねる。
「珍しいですわねぇ……セシル殿下が、あんなに……」
 彼女の印象では、大人しすぎるほどに大人しい王子が、あのように焦った行動を見せるのは、稀なことだった。
 気弱で、普段は宰相の影に隠れ、じっと押し黙っていることの多いセシル殿下の、意外ともいうべき一面に、女官は睫毛を瞬かせ、首をひねる。
 それと、もうひとつ、一瞬、すれ違った瞬間に目にした、セシル殿下が大事そうに抱えた、植木鉢。
 駆ける王子の手元で、ゆらゆらと揺れていた黄色い花のことを考えて、あれは何であったのだろう?と、榛色の瞳をすがめ、女官はますます首をかしげた。

「……っ。ふぅ」
 王宮内の長い長い廊下を、足早に歩いていたセシルは、とある扉の前で足を止めた。
 乱れかけていた息を整え、ゆっくりと深呼吸、何度か息を吐いて、気息を整える。
 彼は右手で植木鉢を抱えると、あいた方の左手で、ゴシゴシと腫れぼったくなったまぶたをこする。
 ……涙は流していなかったけど、泣きかけた、みっともない顔を、敬愛するアレン兄上に見せるのは嫌だった。
 聡明で、人望もある兄王子に比べると、自分自身、何も出来ない不肖の弟だと自覚していたが、それでも、兄上には、どうか兄上だけには、良い弟だと、みっともなく泣きじゃくったりしない、勇気のある弟だと思われたかった。情けなくとも、それが、セシルのささやかな意地だ。
 あの優しく、勇敢な兄上の弟なのだから――と。
 そう考えると、セシルは再び握り拳で、ゴシゴシとまぶたをこすると、ぐっと唇を引き結んで、表情を引き締めた。
 うつむいていた顔を上げ、少年の砂色の瞳が、眼前の扉、その上部にかかげられた紋章を仰ぎ見る。
 交差する剣と、双頭の獅子――交差する剣は、英雄王の勇敢さを、双頭の獅子は王権の神聖さを、それぞれ意味すると伝えられる。
 代々、エスティアの王太子のみに、掲げることを許された紋章だ。
 玉座に最も近くあることを、彼の王の末裔であることを示すそれに、セシルは眩しげに目を細める。
 そうして、小さく息を吐くと、王子は扉に手を伸ばした。
 コンコン、となるだけ、部屋の中にいるであろう兄の邪魔にならないように、控えめに扉を叩く。
「どうぞ、開いている。入ってくれて、構わない」
 扉を叩いてすぐ、内側から、耳慣れたアレンの声が聞こえた。
 穏やかで、明瞭な声音は兄上そのもののだ。
 兄の声が返ってきたことに安堵し、セシルはほっと強張っていた頬をゆるめると、扉のノブに手をかける。
「……失礼します」 
 そう言いながら、扉を押し上げ、セシルが一歩、王太子の部屋に入ると、明るい光が目に飛び込んでくる。
 あたたかく、眩しい光が――。
 大きな窓が、あたたかな木漏れ日を取り込んでいるからか、その部屋の中は明るかった。
 クリーム色のカーテンがなびいて、部屋の中に涼やかな風と、あたたかな日差しをもたらす。
 個人の部屋とは思えないほど広く、天井で煌めく星の如きシャンデリアや、壁に飾られた名画やら、宝石と金細工で飾られた、鏡台やら……至るところに贅を尽くしているにも関わらず、その部屋には人を拒むような雰囲気はなく、むしろ、落ち着いた印象を抱かせる。
 それは、おそらく窓辺に飾られた一輪の花と、その部屋の主、アレンの性質によるものであると、セシルは知っていた。
 後ろ手で扉を閉めたセシルは、小脇に植木鉢を抱え、アレン兄上、と声を上げかけた。
「アレン、兄……」
 しかし、羊皮紙にペンを走らせる音が聞こえたことで、それを思い留まる。
 彼を黙らせたのは、他でもない、部屋の中心、ビロード張りの椅子に腰を下ろし、真剣な眼差しで、書類の山と向き合う、兄、アレンの姿だった。
 部屋に誰かが入って来たことは、とうに声でも気配でも察しているだろうに、アレンは扉の方を一瞥すらせず、ひどく真剣な顔つきで、羊皮紙にペンを走らせている。
 時折、ペン先をインク壺にひたす他は、カリカリと休みなくペンを動かす音がする。
 そうして、一心不乱にペンを走らせるアレンの机には、文官たちがまとめてきた様々な書類の山が、積み上げられていた。 
 事の大小はあれど、その書類の束のどれも、国政に関わる重要な案件ばかりであり、王太子である彼の裁可がなければ、先に進まぬものばかりである。
 国王である父が己の殻に閉じこもり、何年も寝室から出てこないため、まだ弱冠十八歳の青年であるにも関わらず、王太子であるアレンが、こんな風に、国政の一翼を担っているのは、王宮の者ならば、誰もが知る事実だった。
 その証拠に、書類の山と向き合うアレンの顔はひどく真剣で、一切の妥協が感じられない。集中しているのか、青年の端整な顔からは、いっそ気迫じみたものさえただよう。
 休みなく、また淀みなく、疲れた顔すら見せずに仕事をこなしていく王太子の姿は、彼の腹心であるルーファスの姿と重なる。
 ルーファスも、大した集中力を持ち主であるが、アレンもそれに劣らない。
 机の上に置かれた紅茶に口をつけることなく、むしろ、それすら気づかないような様子で、王太子としての義務をこなすアレンに、セシルは声をかけることをためらう。
 膨大な仕事の量と、淡々と、愚痴ひとつこぼさず、王族としての義務とばかりに向き合う兄の姿に……セシルは、心が沈んでいくのを感じた。
 (兄上は、アレン兄上は、こんなに頑張っておられるのに僕は、僕は……)
 王太子としての義務を果たす、兄の立派な姿を誇らしく思うと同時に、セシルは己への劣等感にさいなまれる。
 兄上に見せようと、大切に持ってきた植木鉢が急に重くなったように感じて、セシルは腕に力をこめた。
 こんなに忙しそうな兄上の、邪魔をしてしまうことに気が咎めて……何も手伝えない、助けられない、むしろ邪魔しか出来ない自分の存在が、情けなくて、歯がゆくて、セシルはうつむいた。
 (お祖父さまの言う通り、王子が土いじりなんて、下らない真似だったのかな……)
 そう思うと、急に腕の中の植木鉢が、価値のないものに思えた。
 苗から大切に育て、今朝方、ようやく花開いた、黄色い花。
 この花が咲いたら、絶対、アレン兄上に贈るのだと……そう決めていたそれが、急に色あせ、贈る価値などないように思えてくる。
 (花なんて、花なんて……何にもならない)
 セシルは眉を寄せて、ぐっと唇を噛みしめる。
 もう部屋に戻ろうと心に決めて、彼が何もしないまま踵を返したかけた時、ようやく、ペンの音が聞こえなくなり、アレンの手が止まった。 
 書き終えた書類に、ぽんっと裁可の印を押すと、王太子である青年はようやく机から顔を上げる。
「ルーファスか……?頼む。忙しいところ悪いが、そこに置いてある書類に不備がないか、目を通してもらえないか?ああ、それと、少し相談したいことが……」
 部屋に入ってくる許可は出しても、目の前の書類の山に集中しきっていたせいで、誰が入ってきたまでは、確認していなかったのだろう。 
 机から顔を上げたアレンは、相手を確かめぬまま、ルーファス、と側近の名を口にする。と、そこでようやく違和感に気づいたのだろう。
 アレンの蒼灰色の瞳が、セシルの、異母弟の姿を映す。
「……セシル?」
 セシルの顔を見たアレンは、少しばかり意外そうな顔をし、その声にも軽い驚きをにじませる。
 とはいえ、それも一瞬のこと。
 椅子から立ち上がったアレンは、異母弟に向かって、ふっと優しく微笑みかけると、「すまない。少し集中していたもので、すぐに気付いてやれなくて、悪かったな」と詫びる。
「あ、うう、いいえ……」
 引っ込み思案な性格ゆえに、言いたいことの半分も、上手く口に出来ず、口ごもってしまう癖のあるセシルを笑うこともなく、また急かすことなく、アレンは異母弟の返事を待つ。
 セシルが、いいえ、と言ったのを見届けると、アレンは穏やかな口調で「どうしたんだ?」と、尋ねる。
「どうしたんだ?セシル……私に何か用事があって、来てくれたのか」
 王太子である兄の問いかけに、セシルは「あの、えっと……」と要領の得ない言葉を口にし、もごもごと口ごもる。
「あ、あの……」
 自分で望んで、異母兄に会いに来たはずなのに、急に怖くなって、セシルは押し黙る。
 頭の片隅に、王子が土いじりなんて下らない、と蔑むように言った祖父の、冷ややかな眼差しがよぎる。
 赤茶けた土の間で、だらりとしおれた花。 
 粉々に踏み潰された、植木鉢の破片。
 幾度も、幾度も、執拗に踏みつけられたそれ……。
 さっきのことを思い出すと、セシルは強い恐怖にかられて、身動きが取れなくなる。
(アレン兄上も……お祖父さまと同じことを、おっしゃるのかな……)
 花壇の世話を下らない、と切り捨てられることも、祖父に冷徹な、蔑むような目で見られることも、ひどく耐え難いほど辛かった。
 もし、兄上にまで馬鹿にされたら、どうしよう。
 きっと自分は耐え切れないと、セシルは知っている。
 植木鉢を支える、少年の手が、かすかにふるえた。
「……その花は?」
 ぐるぐると埒もないことを考えた末に、押し黙ってしまった異母弟に、アレンは優しい目を向ける。
 急かすことも、焦らせることもなく、頃合いを見計らって、アレンは唇を開くと、「……その花は?」とセシルに問いかける。
 王太子の目が真っ直ぐに、弟が大事そうに抱えた植木鉢を、そこに咲く花を見つめていた。
「あ、あの、アレン兄上……これは、その、えっと……」
「お前が育てていた花か、きれいに咲いたな」
 もごもごとなおも要領を得ないことを言って、顔を赤くし、恥かしそうにうつむくセシルに、アレンはにっこりと笑って、そう声をかける。
 その王太子の声は優しく、宰相の上辺だけの温和さとは異なり、心からの慈しみが感じられた。
 異母弟が大切そうに抱えた植木鉢、そこに咲く、楚々とした黄色の花、泥にまみれた小さな手を、順番に見て、アレンは蒼灰色の瞳を細める。
 そうして、アレンは静かな、だが、あたたかみのある声で言った。
「草花は手間暇を惜しんでは、美しい花を咲かさん。その花は、お前が愛情をかけた証だろう」
 アレンの言葉に、セシルは先ほどまでの躊躇も忘れて、大きく目を見開いた。
 王宮では庭師の皆を除いて、誰も認めてくれなかったことを、そんな風に言ってもらえるなんて、夢にも思わなかったから……。
「あに、兄上……」
「言っておくが、世辞ではないぞ。セシル。私が本心から、感心したからだ」
 胸をえぐるような祖父の言葉、故意に割られた植木鉢のことが心をよぎり、うるっと目をうるませるセシルに、「大げさだな」と苦笑して、アレンはそう続けた。
 そう言った兄の顔は、普段から見慣れた、穏やかなものであったので、セシルはやっと本当に言いたかったことを口にする覚悟がつく。
 ずっと胸の前で抱え込んでいた植木鉢を、アレンの方に差し出して、セシルは「あの……」と切り出した。
「あの、兄上……花は、お嫌いではなかったですよね?良かったら、この花をお部屋に飾ってください」
「……いいのか?お前が丹精こめて、育てたものだろう」
 セシルから差し出された、その花を受け取ることに、やや迷うような素振りを見せつつ、アレンが問う。
「はい」
 今度こそ、セシルは迷いなくうなずいて、はにかむように笑った。
 そんな弟の笑顔に、アレンもつられたように口元をゆるめ、
「ありがとう。嬉しいよ」
と、言う。
 植木鉢がセシルの手を離れ、アレンの手へと渡る。
 急に手元が軽くなったことに、わけもなく不安になって、セシルはつい、聞くまいと思ったことを口に出してしまう。
 言葉にしない方がいいこともあると、幼いなりにわかってはいたのだけれど。
「兄上も変だと思いますか?王子が土いじりなんて、下らないと……」
 きっと、言わない方がいいとわかっていたのに、セシルはそれを音にしてしまう。
 アレン兄上は優しいから、出来の悪い弟を励まそうと、そう言ってくれてるのではないか。
 優しい兄上でも、本心では呆れているんじゃないか……
 そんな心配ばかりが胸をよぎり、セシルはそれ以上、言葉を重ねることが出来なかった。祖父の言葉が、いまだ針のように、胸の奥に刺さっている。
 急に憂い顔でうつむいた異母弟に、訝しげな目を向けることもなく、アレンは少しだけ困った風に微笑うと、だが、凛とした声音で答える。
「お前が一生懸命していることを、なぜ私が下らないなんて思うんだ?」
「……ごめんなさい」
 アレンの言葉に、セシルは一瞬でも、敬愛する兄を疑ったことを恥じ、「……ごめんなさい」とかすれる声で謝った。
(そうだ……アレン兄上は、こういう人だった)
 昔、セシルに草花を愛することを教えてくれたのは、他でもない、この兄だった。それなのに……たとえ、ほんの一時でも、兄の心を疑ったことを、セシルは恥ずかしく思った。
「兄上、あの……」
 そう言いながら、セシルはアレンの方に手を伸ばしかけ、でも、それをためらう。
 ――アレン兄上は、国王になるべき人なのだから、ただの異母弟である己のことなんかで、わずらわせてはいけない。
 そんな頑なとも言える、幼い弟の態度に、アレンは少し寂しげな表情をした。
「セシル」
 もらった植木鉢を机の上、よく陽が当たる場所に置くと、アレンは弟の名を呼び、一歩、セシルの方へと歩み寄った。
 そうして、彼が唇を開きかけた時、コンコンコン、と扉が何度も何度も、強く叩かれる。
 慌ただしい、乱暴とも言えるそれは、王太子殿下の部屋を訪ねるにしては、いささかならず礼儀を欠いていたが、アレンがそれを叱責することはなかった。
 その代わり、彼は瞬時に表情を引き締めると、扉の向こう側に鋭い視線を飛ばし、「どうぞ、入ってくれ」と入室を促す。
 王太子の許可がおりてすぐ、扉が開いて、一人の男が部屋に入ってくる。
「ご兄弟でおくつろぎのところ、ご無礼、お許しください。王太子殿下。なにぶん火急の用件なもので……」
 そう硬い表情で言った三十ほどの男の顔に、セシルは見覚えがあった。
 名前は知らないが、確か優秀な文官であり、アレン兄上の補佐の一人であったはずだ。
 先触れもなく、主人の部屋を訪れたことに気が咎めてか、ご無礼を、と頭を垂れた男に、アレンは首を横に振ると、真剣な声で問う。
「いや、そんな堅苦しいことは気にするな。迅速な報告は、有難い。それより……一体、何が起こった?ディオルト」
「それが……」
 ディオルト、とそう呼ばれた男は、アレンの問いかけに、ちらっとセシルを見て、迷うような素振りを見せる。
 弟殿下にその一件、聞かせるべきか、聞かさざるべきか、悩んだのだろう。
 ちょっとした葛藤の後、ディオルトはアレンのそばへと歩み寄り、「失礼します」と声をかけ、ごにょごにょと王太子に耳打ちする。
「何だと……?」
 ひそひそと小声で会話が交わされるうちに、アレンの顔色が変わる。
 ごにょごにょと耳打ちし、囁くように交わされる会話は、セシルにはよく聞こえなかった。
 断片的に、『ローディール侯爵が……』とか、『地下牢』『誰が手を……』などという言葉が聞こえはしたが、それだけでは何かを察することは難しい。
 ただ、何かただ事ではないことが起きているのは、緊迫した会話の雰囲気で感じ取り、セシルは首をかしげた。
「アレン兄上……?」
 セシルの不安を読み取ったのか、アレンは部下の報告を聞き終えると、すぐに弟の方を振り返った。
「すまない、セシル……急に父上の所に、報告に伺わねばならなくなった」
 そう言って、申し訳なさそうな顔をする兄に、セシルは気になさらないでください、と首を横に振る。
 王太子である兄が、自分よりもずっと多忙なのは、当たり前のことだと、少年である彼でもよくよく理解していた。
 我がままを押して、ここに来たのは自分なのだから、せめてこれ以上、兄上のお邪魔をするわけにはいかない。
「ここで待っていても、構わないぞ。少し待たせてしまうかもしれないが……」
「いえ、兄上のお邪魔をするわけにはまいりませんので……」
 年にそぐわぬ、大人びた物言いをし、兄を心配させまいと無理して笑って見せる異母弟に、アレンは切ない目を向ける。
 まだ子供と言っていい年齢なのに、王子として生まれた運命とはいえ、宰相を筆頭に、宮廷の思惑に踊らされるセシルが、不憫でさえあった。その傷つきやすく、純粋な心根を知っていればこそ。
 それでも、それに触れることは、かえって弟を傷つけると知っていたから、アレンはただ「邪魔じゃない」とだけ伝える。
「邪魔じゃない。お前が邪魔だったことなど、一度もないよ」
「……兄上」
 そう呟いて、セシルはぎゅ、と拳を握りしめる。
 さっき、破片で傷つけた指先がチリチリと痛んで、血がにじんだ。
 セシル、とあたたかい声で名を呼ばれて、彼が顔を上げると、大きな手のひらが頭に置かれる。
「お前は、私の大切な弟だ……お前がどうあっても、それは変わらないよ。セシル」
 そう言うと、アレンの大きくあたたかな手のひらが、わしゃわしゃ、とセシルの髪を撫でた。
 己の、兄の黄金の髪とはちっとも似てない、薄茶の弟の髪を。
 アレンにしては珍しく、わしわしと遠慮のない撫で方に、その行為にこめられた深い愛情を感じて、セシルは唇を引き結んで、うつむく。
 照れくさくて、何となく恥かしくて、そんな風にしか振る舞えなかった。
「では、行ってくる。お前が花を贈ってくれて、嬉しかったぞ」
 もう一度、弟の頭を撫でると、アレンはそう言って、己の部下である文官を引き連れて、部屋から出て行った。
 風を切るような、颯爽とした兄の背中を見送り、セシルは胸によぎった不安を、無理やりに押し込めた。
 聡明で、優しい、アレン兄上。
 政治的に良好な関係とは言えない、宰相の孫である自分にも、優しく、時に厳しく接してくれる。
 兄上と一緒にいることは、嬉しくて、でも、時々、どうしようもなく不安になるのだ。
(アレン兄上、もしも、自分が兄上の敵になる日が来たら、王冠を争う日が来たら、それでも貴方は……)
 いまだ深い霧に閉ざされたような未来を、不安に思いつつも、セシルはぶんぶんと己の想像をかき消すように首を横にふり、専属教師が待っているであろう自室へと急いだ。



 父王の部屋に向かう道すがら、廊下の反対側から歩いてくる影が目に入り、またその影が白い衣を長く引きずっているのを見るにつれ、アレンはかすかに眉を寄せた。
 温厚な人柄をもって知られる王太子とて人の子、そりが合わぬ者もいれば、ただ言葉を交わすことすら、面倒な相手もいる。
 そして、廊下の反対側から歩いてくる相手は、ある意味で、アレンが最も顔を合わせたくない相手だった。
 しかし、王太子の地位にある青年は、それをあからさまに態度に出すほど愚かではなく、一瞬、眉を寄せた他は、平然とした表情を貫いた。
 蒼灰の瞳は揺るぎなく前を見据え、その歩調が緩むことはない。
 アレンのよどみない足音と、ずるずると長い裾を引きずる音が、同時に響く。
 頭上の、精緻なステンドグラスから取り入れた光が、二人分の影を床に映し出す。
 白い衣に縫いこまれた金糸が、光を弾いた。
 二つの影が一瞬、交差し、再び離れる。
 それで終わりかと思われたが、片側の影が足を止めたことで、その静寂は崩れ去った。
 すれ違った時、一瞬の好機を逃さず、宰相は「これは、これは……」とアレンを呼び止める。
 細められた灰の目が、蛇のような狡猾さを持って、アレンを見やる。
「これは、これは、王太子殿下……どちらへ?」
 好む好まぬに関わらず、会話をせねばならぬ時は多い。
 アレンは足を止めると、声をかけてきた相手、宰相ラザールの方へと向き直った。
「父上のところだ。宰相」
「ほお、国王陛下のお見舞いでいらっしゃいますかな?」
 アレンの返事に、宰相は表情ひとつ変えず、温厚そうな好々爺の仮面をかぶる。
 そんなラザールの態度に白々しさと、どこか寒々しいものを感じながら、王太子は「いや……」と否定の言葉を口にする。
 そのあと、淡々と言葉を続けたアレンの表情は、いつになく険しかった。
「いや……何でも、妻に毒を盛った罪で投獄されていた囚人が、ついさっき急死したとか……」
 アレンの言葉をさえぎり、宰相がああ、と相槌を打つ。
「ああ、先程、私も報せを受けました。ローディール侯爵のことですね」
 そうだ、とうなずいて、アレンは言葉を重ねる。
「罪人とはいえ、ローディール侯爵家といえば、王家とも浅からぬ縁のある家柄だ。此度のことで、家名の断絶は免れないにしろ、陛下にご報告せねばなるまい」
 寝室に閉じこもり、まったく国王としての責務を果たせぬとはいえ、それでも父を蔑ろにする気は、アレンにはなかった。
 玉座というものが存在する以上、そこには王太子とはいえども、侵さざるべき領域が存在する。それを踏みにじれば、王権の軽視にも繋がり、国王は傀儡とかす。
 そう――今の父王と、宰相の関係のように。
 アレンにとっては、寝台から出てこず、己の殻に閉じこもった父王に、何の言葉も届かぬと、絶望と、半ば諦めめいた気持ちをもっていても、何か事が起きれば、国王に報告するのは義務だった。
 それが実を結んだことは、残念ながら、ここ数年一度もなかったが……。
「そうですか……」
 宰相は神妙な表情でうなずくと、憐れむような声で続けた。
「ローディール侯爵も、哀れな……さすがの彼も、己の罪深さに耐えかねて、罪を償うために自害を選んだのでしょう」
 その言いように、演技じみたところはなく、一見すると、慈悲深ささえ感じられた。
 寛容なる慈悲の女神よ、罪深き者の魂を救い給え……なとと、祈りの聖句を口にし、印を切る動作も堂に入っている。
 しかし、そんなラザールの言葉に、ひどい違和感を感じて、アレンは眉をひそめた。
 そうして、やや強い口調で問いかける。
「自害だと……ローディール侯爵が、自ら死を選んだと?そういう意味か?宰相」
「ええ、何か不審な点でもございましたか?アレン殿下」
「……いや、まだ調べてみなければ、わからないだろう」
 宰相の問いに、アレンははっきりとした物言いを避けた。
 自害、という言葉に違和感を感じるものの、今の時点では事故とも自殺とも、また……何人かの手によって、謀殺された可能性も、否定できない。
 ローディール侯爵は、アレンが知る限り、己の罪深さを悔いて、自害などしそうもない人物だったが、いきなり、そういう心境に至ることも、絶対にないとは言えないだろう。
 しかし、そうだとしても、いささか不自然な死ではある。
 まるで、何者かの手によって、操り人形が無理やり舞台から降ろされたような、そんな違和感を拭い去ることが、どうしても叶わない。
 ローディール侯爵が死んで、永遠にその唇を閉ざし、それが最も好都合であった人間といえば……その答えは、おのずと推測できる。
 鋭い眼差しを向けてくるアレンに、宰相はふっと口元を綻ばせる。
 そうして、話題を逸らすように、壁にかけられた絵画を指差し、一見、無関係と思える言葉を口にする。
「その件については、後ほど……それよりも、あの絵をご覧になってください。アレン殿下」
 唐突な言葉を口にしながら、宰相が指差したのは、王宮の壁に飾られたとある絵画だった。
 金細工の蔦の額縁、大の男が三人ほど手を繋いでも横幅に及ばぬそれは、百年程前の宮廷画家フリエールの晩年の傑作にして、遺作でもある。
 絵の中に描かれているのは、英雄王と王妃レイミア……そして、《凶眼の魔女》の姿だった。
 歴史書や古い文献、または子供向けのお伽噺や英雄譚に至るまで、このエスティアでは誰もが知る、英雄王自らが《凶眼の魔女》を退治した場面である。
 絵の中央では、凛々しい英雄王が聖険ランドルフを振り上げ、その切っ先は醜悪な《凶眼の魔女》の胸を貫いている。
 そんな英雄王の傍らに、ひっそりと寄り添うのが、王が最も寵愛したという女性、王妃レイミアだ。
 麗しく、また清楚に描かれた王妃は、美しい白百合の花に囲まれ、一心に夫の勝利を祈っている。
 当代・随一と讃えられた画家の想像も多分に入っているとはいえ、その絵画に描かれているのは、概ね史実とされる。
 英雄譚であれば、この後、英雄王と王妃の間に世継ぎとなる王子が誕生し、語り手はめでたし、めでたしで幕をおろす。
 ……という筋書きだ。
 勿論、王太子であるアレンは歴史の教師たちから、その辺のことは散々、嫌というほど叩き込まれている。
 画聖とまで言われた画家の作品は素晴らしく、髪の毛一本に至るまで描かれたそれは、吸い込まれそうなまでの絵であるが、アレンにとっては見慣れたものであり、今更、感動を覚えるには至らない。
 宰相の意図がまったくわからず、怪訝そうな顔をするアレンに、宰相は淡々とした声音で尋ねる。
「アレン殿下は、《凶眼の魔女》がなにゆえ英雄王の手にかかることになったのか、ご存じでいらっしゃいますかな?」
 唐突な問いかけに、少々、虚をつかれたものの、アレンはかつて歴史の教師に、繰り返し、繰り返し、覚えこまされた、英雄王の古文書の一節を口にする。
「そんなことは、今更、私に問うまでもないだろう。宰相……《凶眼の魔女》は恩ある英雄王を裏切り、いたずらに民を苦しめ、王妃レイミアを害そうとした……ゆえに、英雄王に成敗された。そう歴史書に書いてあるはずだ」
「ほぅ、アレン殿下はそう思われるのですか?」
 そう愉快そうに言い、唇を歪めた宰相から、アレンはさりげなく目を背け、「さぁ。だが、三百年前のことなど、伝わるものを信じるしかあるまい」と応じる。
 王家の、英雄王の直系として、それ以上を口にすることは、あまり褒められたことではなかった。
 宰相はほほ、と柔和な顔で笑うと、
「アレン殿下は、そうおっしゃいますが……真実とは、埋もれるものでございますからな」
と、意味深なことを言う。
 埋もれるのは、過去の罪か、今の罪か。
 そう言ったきり、まるで何事もなかったように、去っていこうとする宰相ラザールの背中を、今度はアレンが「宰相……」と、呼び止める。
 こちらを振り返った宰相に、王太子は凛とした声で告げた。
「宰相よ、私は無為な争い事は好まぬ。特に同じ国の民同士で争えば、益よりも失うものの方が多いだろう。だが……」
 アレンはそこで一度、言葉を切ると、蒼灰色の瞳で宰相を見据え、挑むように唇をひらく。
 その表情は、日頃、穏やかと評される王太子としての顔とも、セシルに向ける兄としての顔とも、ルーファスに向ける親しみのこもったものとも、似て非なるものだった。
 他者を従えさせ、自ら進んで頭を垂れ、跪かずにはいられない、そんな王の、牙を向いた双頭の獅子を思わせる、そんな顔だ。
 そうして、かすかな微笑めいたものすら浮かべて、アレンは、玉座を約束された者は言い放つ。
「もし、私の大切な者たちが、誰かの手によって傷つけられることがあれば、容赦はしない……私にも、彼の王と同じ血が流れていることを忘れるな」
 ――エスティアでは英雄、侵略された国々では、征服王と畏怖された、英雄王オーウェンと同じ血が。
 警告とも、それ以上とも取れるアレンの言葉に、宰相はくっ、と笑う。
「アレン殿下は、まだお若い。常に真実に光が差すとは、かぎりません……くれぐれも御身、大切にされることですな」
 ご忠告はいたしましたよ、王太子殿下……と謎めいた言葉を残し、宰相は再び、アレンに背を向けた。
「……」
 アレンも今度は、遠ざかる宰相の背中に一瞥すらくれず、宰相とは反対側に向かって、足早に歩き出したのだった。


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