雲ひとつない上天気、心地よい風が吹く日のことだった。
黒翼騎士団・第十三部隊所属の騎士、ハロルドの部下であるへクターは、見習いのエリックと連れたって歩いていた。
大勢の人で行きかう往来を、へらりと締りのない顔をした長身の若い男と、ふくふくとした愛嬌のある少年が、喋ったり、時折、笑ったりしながら、並んで歩いている。
見習いの少年、エリックが会話の中、へぇ、と意外そうな声を上げた。
「へぇ、じゃあ、へクターさんって、ハロルド隊長とは長いお付き合いなんですね」
騎士団に入ったばかり、目をきらきらさせた少年の言葉に、へクターはうん、そう、とへらっと笑って、うなずいた。
「うん、まぁ、隊長と俺は一応、同期だしねぇー。……っても、親しくなったのは、お互い騎士になってからだけど」
「へえー、そうなんですか」
ヘクターの返事に、見習いのエリックは何が面白いのか、どんぐりのようにつぶらな瞳を、きらきらと輝かせた。
何か面白い話はないですか、とでも言いたげな少年の態度に、へクターは「まぁ、そんなわけで、色々と面白い話はあるよ……くくっ、色々とね」と、含みのある声で言い、愉快そうに片目をつぶる。
彼らが連れたって歩いているのは、上司の上司、黒翼騎士団副長から頼まれた届け物のためだった。
本来ならば、供をつけるまでもなく、へクターひとりでも十分なのだが、勉強のためという名目で、見習いのエリックも同行している。
とはいえ、緊急時の早馬でもなし、急ぐような用件でもなかったので、道を歩くへクターたちの足取りは、会話しながらの、のんびりしたものだ。
そんな彼らの横を、人形抱えた幼い少女が、ひらひらとフリルのすそをひらめかせ、まるで鞠のように跳ねていく。兄弟なのか、そんな少女の後ろを、よく似た少年が慌てて追いかけていった。
前からは、孫らしき青年に手を引かれた老婆が歩いてきて、あわい微笑と、会釈ですれ違う。
今日は市が立つ日だけあって、往来は人の行き来が多く、ガヤガヤと賑わっている。
この道の少し先、市の方から響いてくる、商人の口上、あちらこちらで張り上げられる呼びこみの声。
その活気のある空気は、歩いているだけでも、心が浮き足立ってくるようだ。
かつての繁栄の残滓と、平和を謳歌するように、今日も王都は華やかで、賑わっている。
そうこうしているうちに、周囲を余り気にしないで歩いていたヘクターは、クラリック橋のたもとにたどり着く。
市があるせいか、普段よりも人の行き来が多い橋の様子を、どこか感慨深げに眺めて、ヘクターは一瞬、足を止めた。
それまで、へらっと笑っていた顔に一時、憂いの色がよぎる。
いきなり、先輩が立ち止まった事で、隣を歩いていたエリックは不思議そうに目を丸くし、ヘクターを見上げ、尋ねてくる。
「どうしたんですか?ヘクターさん。クラリック橋が、どうか……」
「いや……何でもないよ。行こうか」
ヘクターは首を横に振ると、一瞬、胸によぎった憂いを払拭するように、行こうか、とあえて軽い声で言った。
エリックを促し、なんでもないような顔をした騎士は、橋の方へと歩を進める。
王都を流るる、レーンベルク川にかかった、クラリック橋。
すぐそばで市が開かれていることもあり、その橋は今日も、老若男女、大勢の人々が行き交っている。
仲睦まじげに手を繋ぐ恋人たち、市からの帰りか、両手いっぱいに大きな袋をかかえた母子、かごを手にした花売り娘……。
話し声、笑い声、ぐずる子供を叱る親の声、音であふれたその光景は平和そのものだ。
そこには、あの惨劇の名残りなど、微塵も感じられない。
――この橋で、リーザという、哀れな少女の亡骸が、川から引き上げられた時より、長くはない、だが、短くもない日々が流れた。
橋を行き交う人々の頭の片隅には、ここであった悲劇のことが、こびりついているだろうが、表向きは何事もなかったような、穏やかさを取り戻している。
決して、皆が皆、それを忘れてしまったわけでもない。だが、辛い記憶は時の流れと共に薄れ、何気ない日常の中に埋没していくのだと、それが人の性であると、ヘクターは知っていた。
忘れなければ、人は生きられない。
それは自然なことであるが、化け物によって食い殺された、花を咲かすこともなく逝った少女のことを、彼は哀れに思う。救えなかったという後悔があれば、尚のこと。
化け物の手にかかった犠牲者たちのことを、家族や親しい人々は、忘れないだろう。だが、そうでない大勢の人々にとっては、それはやがて忘却の彼方へと、置き去りにされる記憶だ。
平和そのもののように、大勢の人々で賑わう、クラリック橋を見つめて、ヘクターはいつになく、感傷的な気持ちになった。
(ハロルド隊長じゃあるまいし、感傷的なのは、俺らしくないなぁ……まぁ、ひとまず平和になったのは、騎士として喜ぶべきなんだろうけどねぇ)
新米騎士でもあるまいし、と珍しく感傷的な気持ちになった己に苦笑して、橋を渡ろうと、ヘクターは一歩、足を踏み出す。
と、そんな騎士の目に、橋のたもとに置かれたあるものが映った。
花束。
往来の激しい、クラリック橋のたもとに、控えめにおかれた、その花束がヘクターの目に留まる。
人目を忍ぶように、ひっそりと置かれたその花束に、目を留める人はそれほど多くないだろう。だが、白い花のみで作られたその花束を見た瞬間、ヘクターはそれが亡き人に捧げられたものであると、そう確信した。
可憐な白い花びら、その花の名を、レウティシア。
その意味は、――あなたを忘れない。
「で、それでですね……ヘクターさん。ライツさんが、なんと……」
白い花束に目を奪われていた、ヘクターはそんなエリックの声に、ふと我に返った。
彼は顔を上げると、花束から目を逸らし、隣で一生懸命に話しかけてくるエリックの方へと向き直る。
「ああ、ごめん。んで、ライツの奴がどーしたって?エリック」
「聞いてくださいよー、ヘクターさん!なんと、なんと……あれ?」
慣れない外での仕事にはしゃいでいるのか、楽しげに喋っていたエリックだったが、その時、何かに気づいたのか、あれ?と首をかしげた。
どうしたの、と先輩である騎士が問うと、首をかしげた見習いの少年は「あの背中……」と、前方を指差す。
エリックが指差したのは、前を行く、赤毛の男の背中だった。
その炎のような色合い、赤味の強い髪は、人ごみの中にあっても、殊のほか目立つ。
「前を歩いてる、あの人……ハロルド隊長じゃないですか?」
そう言ったエリックに、ヘクターも長身を生かし、きょろきょろと周囲を見回す。
「えっ、ハロルド隊長?……何処にいる?……ああ、本当だ。あんなところで、何してんだろ?」
見習いの少年が指差した先に、上司であるハロルドの姿を見つけ、ヘクターは首をひねる。
目立つ赤髪もさることながら、あのピンと伸びた背筋や、隙のない歩き方は、見紛うことなきハロルド隊長だ。
勤務中ではないのか、制服ではなく、騎士としての略装ではあったが、それでも、部下であるヘクターとエリックには、すぐわかる。
先に動いたのは、見習いの少年だった。
「ちょっと、声をかけてきます」
そうヘクターに一声かけると、エリックは前を行く、その背中を追いかける。
小太りな体つきにはそぐわぬ、野兎にも似た、意外なほどの俊敏さで、少年はタタッ、と走っていく。
子供ゆえの背の低さをいかし、人と人の間をぬいながら、エリックはあっという間に、その背中のすぐ後ろまでたどり着く。
止める間すらなかったヘクターは、やれやれと肩をすくめながら、そんな少年に追いつこうと、やや歩調を速めた。
すぐ後ろまで近寄ったエリックが、
「ハロルド隊……」
と声を張り上げるよりも早く、その赤毛の背中が、後ろを振り返る。
「誰……っと、何だ。お前たちか」
その背中の主は、予想通り、ハロルド隊長だった。
深緑の瞳に、刹那、怪訝そうな光がよぎり、エリック、ついで部下のヘクターの姿を確認すると、すぐに凪いだ。
振り向いたハロルドは、やや渋い顔で、
「お前たちは毎度、毎度、俺を驚かすのが趣味なのか……」
と苦言を呈したものの、そう怒っている風でもない。
部下たちに振り回されるのは、悲しいことに慣れっこなのか、その声にも迫力というものがなかった。
ともすれば、悲哀のにじむそれを、はいはい、とおざなりに流し、エリックの隣に立ったヘクターは「そんなことより……」と問いかける。
「そんなことより、今日、非番でしょ?……そんな格好で、どっか出かけるんですか?ハロルド隊長」
ヘクターの問いに、ハロルドは何とも言い難い、苦虫を噛み潰したような顔をした。
そうして、ため息をつくと、渋々といった態で答える。
「……あの男の屋敷だ。半月ぶりの休みだというのに、呼び出しとは、まったく……俺の休日を、何だと思ってるんだ?」
ぶつぶつ、と珍しく愚痴めいた言葉を吐く隊長に、ヘクターとエリックは顔を見合わせる。
……あの男の屋敷?
呼び出されたといっても……そもそも、あの男って誰だ?
「隊長、あの男って誰ですか?」
ヘクターが重ねて問うと、ハロルドは渋面で答える。
「あの男だよ、騎士団の本部にも訪ねてきたことがあったはずだ。ルーファスという……」
隊長の返事に、部下の騎士はああ、と納得したように、ポンと手を打つ。
そうして、爽やかな良い笑顔で言った。
「ああ、なるほど!隊長の生き別れの兄弟だっていう、あの人ですね!」
「違うわっ!その台詞は、前にも聞いた!というか、お前、あからさまにわかってて、俺をおちょっくてるよな?ヘクター」
「まあ……ある意味、そういう言い方もありますね。うん」
「お前な……いや、もういい」
しれっと答えてくるヘクターに、ハロルドはため息をつき、心なしか頭痛を覚えてきた額を押さえる。
そんな隊長に、愉快そうな目を向け、部下の騎士はくすりと微笑すると、
「何にせよ、休日にわざわざ屋敷まで行くとは、仲良いんですね」
と言う。
「……そんなんじゃない。ただ妙な縁があっただけだ」
相変わらずの仏頂面で、ハロルドはそう言うと、「そっちは、仕事中だろう?邪魔して悪かった……じゃあな。ヘクター、エリック」と部下たちに挨拶をし、背を向ける。
じょじょに遠ざかっていく背、凛と前を見据えたそれを見送り、ヘクターは肩をすくめる。
「相変わらず、人が良いなぁ、隊長は。一度でも懐に入れた人間は、拒まないんだから……」
そのドがつくぐらいのお人好しっぷりと、自ら望んで貧乏くじを引く姿勢には、いささか呆れもするが、昔っから、そういう人なのだ。ハロルド隊長という人は。
「え、どういう意味ですか?」
なんとなく意味深なヘクターの言葉に、見習いの少年が首をかしげる。
ヘクターはゆるりと目を細めると、へらっと笑う。
「んーん、相変わらず、隊長の髭は似合っていないなぁ、って……そうそう、そんなことより、お使いが終わったら、果実水を買ってあげるよ。エリック」
「本当ですか?やったぁ!」
燦々と、強い日差しに腕をかざしていたエリックは、へクターの申し出に、はしゃいだ声を上げた。
クラリック橋のところで、部下たちと別れてからほどなく、ハロルドはエドウィン公爵家の屋敷に辿り着く。
風がそよいで、庭の木々がさらさらと衣擦れにも似た音が奏でる。
周囲の貴族の邸宅と比べても、一際、広い、その屋敷の門をハロルドはくぐり、玄関へと足を踏み入れる。
すると、すでに顔馴染みになりつつある、エドウィン公爵家の老執事が、彼を出迎えた。
「ようこそ、お越しくださいました。ハロルド=ヴァン=リークス様、只今、主人に報せて参ります」
スティーブという名の老執事は、厳格そうな顔をわずかにも緩めず、極めて慇懃な口調で言うと、「どうぞ、お入りくださいませ」とハロルドを促す。
赤髪の騎士はうなずいて、執事の後に続こうとしたが、ふと、何かに気づいたように後ろを振り向く。
「……失礼、すぐに戻ります」
謹厳な老執事に、一言、断りを告げると、ハロルドは背を向け、早足で歩き出す。
そうした彼の目に、小さく映っていたのは、屋敷の奥方であるセラフィーネらしき人の後ろ姿と、ここからでは顔も名前もわからぬが、彼女の傍らに付き従う、若い女中の姿だった。
これから、何処かに出かけようとしているようで、レースで縁どられた日傘を差している。
ゆらりゆらりとゆらめく影、小さくなっていく後ろ姿に、ハロルドはとっさに駆け寄る。
そうして、騎士の青年は「――奥方様!」と、日傘を差した後ろ姿に呼びかけた。
「……あら?ハロルド、さん?」
ハロルドの眼前で、空色の日傘がくるりと後ろに回され、その人、公爵家の奥方が振り向く。
やわらかな翠の瞳が、こちらを映した。
そうした屋敷の奥方、セラに向かって、ハロルドは今度は落ち着いた口調で問う。
「いや、ご無礼をいたしました。それよりも、王女様とお呼びした方が、よろしいでしょうか?セラフィーネ王女様」
確認するように、問いかけたハロルドに、セラは浅く首を横に振る。
「いいえ、もう降嫁した身ですから……どうぞ、お好き呼んでくださってかまいません」
薄い紗の生地を重ねた、涼しげなモスグリーンのドレスに身を包んだセラは、ふわりと控えめに微笑んで、そう答えた。
夫である青年と異なり、殊更に美貌というわけではなかったが、見ていると、不思議と心が安らぐような、そんな笑みだった。
瑞々しい緑の葉をしげらせた木々の枝が、きまぐれな風になびいて、少女の頬にあわい影を落とす。
その揺れる木々の間から、きらりきらりと黄金の木漏れ日が降る。
蒼天より降り注ぐ、その光が眩しくて、ハロルドは目を細めた。
「今日も、ルーファスに会いに?」
そう問いかけてきたセラが、花束を抱えていることに気がついて、ハロルドはおや、と思う。
白い花のみで作られた、可憐な花束だった。
とはいえ、いきなり、それに触れるのもためらわれ、赤髪の騎士は「はぁ、まぁ……」と渋面で言葉をにごす。
公爵家の奥方相手に、非礼なのは重々承知しているが、何とも言いようがない。
そんなハロルドの顔を見たセラは、小さく苦笑し、ふふ、と何処か悪戯っぽく笑う。
「ふふ……ご苦労、お察ししますわ」
同情めいたことを口にしながらも、セラの口調はどこか楽しげというか、微笑ましさすら感じられた。
そう言って、屈託なく笑う奥方の姿は、年頃の少女そのもので、それに毒気を抜かれたハロルドも、つられたように口元をゆるめる。
気取らない奥方の人柄にほだされたように、騎士の唇からも、さらりと軽口がすべり出た。
「そうして理解していただけるのが、せめてもの幸いです」
「まあ……」
満更、冗談でもなさそうなハロルドの言いように、セラはふふ、と笑みを深くしたが、ふいに真顔に戻る。
そうして、屋敷の奥方である少女は、正面からハロルドを見つめると、「でも……」と真摯な声で言った。
「でも、ルーファスは貴方のことを、頼りにしていると思いますよ」
意外な言葉に、ハロルドは虚をつかれたように瞠目し、「……そうでしょうか?」と半信半疑の声で言う。
今までの流れを考えれば、到底、信じ難い。
しかし、信じられないという顔をする騎士に、セラはええ、と笑顔でうなずく。
「ええ、そう思います。だって……ルーファスは信頼していない人と、我慢して付き合うような、そんな殊勝な性格じゃないでしょう?」
「はぁ、そうおっしゃられると、そんな気もしますが……」
果たして、その評価を喜ぶべきか、悲しむべきか判断しかねて、ハロルドは何とも微妙な気持ちになった。
そんなハロルドの心境を見透かしたように、セラは小さく唇をほころばせ、穏やかな声で言った。
「あの人は、きっと、貴方のことを信頼してます。貴方は、ルーファスとは違う形の、強さを持っている人だから」
その言葉の意味を、込められた感情を読み取ることが出来たのか、ハロルドには自信が無い。ただ、その澄んだ声は、意外なくらいすんなりと、胸の奥へと落ちていく。
彼が何か言葉を返そうと、口を開きかけた時だった。
「奥方様、そろそろ……」
横から聞こえた声に、ハロルドはそちらに目を向けた。
そう声をかけてきたのは、奥方のすぐそばに控えていた、金髪碧眼の女中だった。……確か、名前はメリッサだったか?
なぜ、ハロルドが奥方付きの女中の名を、知っているのかといえば、前にこの屋敷を訪れた時に、他の女中が名を呼んでいたからだ。
モップを片手に、歌いながら掃除をしていて、年嵩の女中に説教されているのを目撃したり、洗濯籠を五つも六つも抱えていたり、従者の少年と姉弟のように戯れているのを見た。
まあ、正直、数回しか顔を合わせたことはないのだが、それでも彼がメリッサの顔と名前を覚えていたのは、笑顔を絶やさず、叱られてもめげず、明るく働く姿が印象的だったからだ。
……他に、勝気そうな感じが少し、彼の好みというものあったりもするが、それはそれである。
ハロルドがそちらを向いたことで、メリッサと一瞬だけ目が合う。
「……」
大切な奥方様に、気安く話しかけないで、とでも言いたげな目を向けてくる女中の少女に、ハロルドは微苦笑した。
確かに話をしたかったのは、事実だが、そういう意味ではない。
普段、人好きのするメリッサの顔に浮かんだ、やや警戒心のにじんだ表情に、セラは大丈夫だとうなずくと、「ああ、ごめんね。メリッサ。もう行くから……」と応じる。
そして、セラは再び、ハロルドの方へと向き直ると、「それでは……」と別れの挨拶を切り出した。
「それでは。ごゆっくりなさってくださいね。ハロルドさん……またお話させていただくのを、楽しみにしています」
「ええ、こちらこそ……奥方様は、お出かけですか?お気をつけて」
ありがとう、と応じたセラは、しばし、迷ったように口をつぐんだあと、「もし……」と言葉をつむぐ。
翠の瞳が、じっとハロルドを見つめた。
透き通るようなそれが、きらきらと陽光を取り込んで、きらめく。
「もし、貴方さえよければ、どうか、ルーファスのそばにいてあげてくださいね」
その瞬間、サアアアァァァと吹き抜けるような、強い風が吹いた。
急に吹いた嵐の如き突風が、ザワザワと木々を揺らす。
葉が散り、地面にゆらぐ木々の影が、すぐに形を変える。
黄金の陽光が降り注ぐそこで、ふわりと淡く微笑んだ少女の、ささやきのような声を、風がかきけした。――『あたしは、あまり長くはそばにいれないと思うから』。
「奥方様、どちらへ……?」
遠ざかっていくセラの背中に、ハロルドはもう一度、声をかけた。
日傘を差した少女は、首だけ振り返り、それに答える。
「花を……花を手向けにいくんです」
そう答えたセラの腕の中には、あの橋のたもとに捧げられたのと同じ、白い花束があった。
執事のスティーブに案内され、ハロルドはルーファスの部屋の前に来た。
一応の礼儀というべきか、彼が扉をノックすると、中から「開いている」と低く、通りの良い……あの男の声が返ってくる。
ハロルドは律儀に、「入るぞ」と一声かけると、扉を開ける。
開けた瞬間、スーッと涼やかな風が吹き抜け、さらりと彼の頬を撫でた。
――窓は、開いていた。風に吹かれたカーテンが、波のように踊っている。
「……遅かったな。ハロルド」
そう言いながら、部屋の主、椅子に腰掛けたルーファスは、パタンッと読みかけの本を閉じた。
何やら、異国の文字で書かれた表紙、その辞書のような分厚さに、いささかゲンナリしつつ、ハロルドは「悪かったな」と口をとがらせる。
たまの休みに呼び出されたうえに、文句まで言われては、たまったものではない。まあ……何だかんだ事情があったとはいえ、その道を選んだのは、自分自身であるが。
「悪かったな。こっちも忙しいんだ。というか、呼び出したのはそっちの方じゃないのか。ルーファス」
そんなハロルドの渾身の反撃は、ふっ、とルーファスの薄笑いひとつで流された。
ムッと眦を吊り上げる赤髪の騎士に、いっそ腹立たしいくらい優雅な所作で、足を組んだルーファスは、からかい含みの口調で言う。
「貴方はそう言うがな、俺が騎士団の官舎に行ったら、そちらの方が目立つだろう。貴方が悪目立ちしたければ、俺としてはやぶさかではないがな。ハロルド?」
「うぐぐ……」
この上なく腹立たしいことに、悔しいが、それは正論であったので、ハロルドは唸りながら、黙るより他になかった。
所詮、この男に口で勝とうなどと、難攻不落の砦を落とすより難しいことを考えたのが間違いだった……などと、妙な後悔を覚えながら、騎士の青年は手近な椅子に、どさっと腰を下ろす。
それを見計らったように、ルーファスが唇をひらく。
「あれ以降……例の化け物に襲われた人間は、誰も居ないのか?」
念を押すように、ルーファスは言った。
化け物の正体であったローディール侯爵を捕らえたとはいえ、念には念を、ということであろう。
場合によっては、第二、第三の化け物がいないとも限らない。
騎士隊長であるハロルドとしても、ルーファスが案じる理由はよく理解できたので、きっぱりとした声音で「いない」と言い切る。
「ああ、あれから新しい犠牲者は出ていない……断定は出来ないが、おそらく、もう化け物に食い殺される者が、再び出ることはないだろう」
そう答えたハロルドの胸に、一瞬、あの化け物の犠牲となった者たちのことがよぎった。
――救われた人間も、救われなかった人間もいる。それでも、世界は今日も変わらず、動いていく。
「……そうか」
淡々と、ルーファスはうなずく。
表面的には、その端正な顔には、何の感情も宿っていなかった。
眉すら動かさず、わずかな哀れみさえ、その冷ややかな色合いをたたえた蒼い瞳からは、感じられない。
その冷淡さを通り越した、無関心にすら思える男の様子に、先ほどの奥方の姿を気の毒に思い、ハロルドは苦い声で言う。
「セラフィーネ王女様……貴方の奥方が、花を手向けにいくと、そう言っていたぞ」
切れ者と周囲から評される男が、その言葉の意味に気づかぬわけもあるまいに、返ってきたルーファスの声は、あくまでも冷徹なものだった。
「ああ。辛いだけの記憶など、忘れればいいのに……愚かな女だ」
その、あまりといえばあまりの言い様に、ハロルドは眉をひそめ、「そんな言い方はないだろう!」と、声を張り上げかける。所詮、夫婦のことなど、余人にはわからぬとはいえ、さすがに黙っていられなかった。
だが、口を開いた瞬間、机の片隅に置かれたあるものが目に入り、ハロルドは目を見張った。
分厚い書物や書類、羽ペンにインク壷……整頓され、仕事に必要なものしか置かれていないとおぼしき机の片隅に、ひっそりと、荒野に咲く花のように、青い花瓶が飾られていた。
その花瓶から、かすかな甘い香りを放つのは、セラの花束と同じ、雪のような白い花だった。
ハロルドの問うような視線に、気がついたのだろう。
ちらっと花瓶を見たルーファスは、蒼い瞳をゆるく細め、何でもなさそうに答える。
「手向けだ。せめてものな」
己には直接、関わりがない相手だろうに、そう答えたルーファスの声は先と変わらず、善意を誇るでもなく、淡々としていた。
それが、さも自然であったので、ハロルドとしても言うべき言葉がなく、沈黙を守った。
(――妙な男だ。冷たいくせに、時折、妙な情の深さを、かいま見せる)
独白にも似たハロルドのそれが、口に出されることはない。
ひらりひらり、とカーテンが風に舞う。
「――セラ様?どうかしました?」
門まで来たところで、ふいに立ち止まり、屋敷の方を振り返ったセラに、メリッサが首をかしげる。
「ううん、何でもないの……」
その翠の瞳に、屋敷の、開け放たれた窓を映して、少女は首を横に振る。
風が吹いて、セラの腕の中に抱かれた花束の、白い花びらがひとひら、そよ風にさらわれていった。
かくして、密やかに、その事件の日々は、ひとつの終わりを迎えた。
まるで失ったものの代わりのように、彼らには嵐の前の静けさにも似た、束の間の休息がもたらされたのである……。
Copyright(c) 2011 Mimori Asaha all rights reserved.