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幕間 執事の独白 1


 それは、ある執事のささやかで、平凡な一日のことだ。

 執事のスティーブが、エドウィン公爵家に仕えるようになってから、はや三十年余りの歳月が流れようとしている。
 社交界の花形と謳われた、先々代。
 今は避暑地で療養中の、先代の当主。
 そして、現在の当主であるルーファスと、公爵家の三代に渡って仕えてきた。
 若い時には、恋仲の女中と所帯を持ったこともあった。だが、その妻が産熟の熱で儚くなってからは、ずっと男やもめを貫いている。
 そんなスティーブにとって、ここ、エドウィン公爵家こそが己の居場所であり、そこで仕える人々こそ、家族であり、戦友とも呼べる存在だった。


 ――来客もなく、穏やかな昼下がり。
 主人たちの昼食の用意が終わり、自分たちも遅い昼食をとり終えて、公爵家の使用人たちにとっては、やれやれと一息つく時間である。
 来客や夜会があれば、こうはいかないが、幸い、というべきか、今日は何もない。
 かくして、緩やかな時間が流れる屋敷の廊下を、凛と背筋を伸ばした老執事が歩いている。スティーブだ。
 髪こそ白いが、その眼光は鋭く、足取りも齢六十とは思えぬほどカクシャクとしていて、衰えを感じさせない。
 皺ひとつないシャツに身を包み、ニコリとも笑まず、あくまでも厳しい表情で歩くスティーブの姿は、威厳すら感じさせる。
 かたくなに引き結ばれた唇が、謹厳実直と評される、男の性格を象徴しているようだった。
 そんな老執事と、廊下ですれ違う使用人たちは、おのおの挨拶や会釈をしたり、何某かの相談を持ちかけてきたりする。
 その度、スティーブは律儀に足を止めて、応じるのが常だった。
「御機嫌よう、スティーブさん。今日はよい天気ですね」
「ええ、御機嫌よう。アン。今日は洗濯物がよく乾きそうな晴天ですな」
 シーツのつもった洗濯かごを抱えた女中と、すれ違う。
 洗濯物の山が遠ざかると、今度は下男のひとりが、スティーブさん、と声をかけてくる。
「スティーブさん。先ほど、リンデンハイム子爵家から、ご使者が……明後日の午後、子爵家でお会いしたいとのことです」
「わかりました。旦那様にお伝えしておきます」
「旦那様にお手紙が届いているんですが……お部屋にお持ちした方が、いいでしょうか?」
「ええ、丁度いま、旦那様のお部屋に伺うところです。その手紙、私が預かりましょう」
 手紙を受け取ったそばから、またすぐ別の声がかかり、執事はそちらに向き直った。
「あの、スティーブさん、少しお時間いいですか?来月の晩餐会のことで、ご相談したいことが……」
 同じ使用人仲間たちと話している間、スティーブの顔はずっと、厳しげなままで、「御機嫌よう」と口にしてすら、唇には微かな弧すら描かない。
 若主人であるルーファスとは、また別の意味で、鉄面皮と言って良かった。
 しかし、執事を仰ぎ見る、それなりの経験を積んだ、だが、老執事より遥かに若い使用人たちは、そんなスティーブの生真面目さを知るが故、それを不快に思うことはない。
 執事に指示を仰いだ時、下されるそれは的確であり、何より主人の意に添ったものである。
 それを重々承知している者たちにとっては、スティーブは使用人の鏡であり、模範とも言うべき人だ。
 信頼と、憧憬――。
 向けられる眼差しに、スティーブはテキパキとした指示で応えて、屋敷の中がつつがなく回るように、細心の注意を払う。
 主人の手をわずらわせぬよう、屋敷の些事を片付けるのは、執事の大切な役目だ。
「……用件は、これで全てですか?あとは、わからぬことがあれば、女中頭のソフィーに相談すること」
 持ち掛けられた相談に、彼の主人の意に添うように、用件によっては自らの判断で返答し、それらが一段落したところで、執事はそう締めくくった。
 そうして、再び、踵を返すと、主人の部屋に向かって歩を進める。
 女中たちは執事の言葉にうなずくと、純白のエプロンのすそをひるがえし、それぞれの持ち場へ散っていった。
 その様子を視界の端にいれ、スティーブは今度は前だけを見据え、革靴で絨毯を踏みしめる。
 カクシャクとした足取り、広い背中。
 公爵家に仕えて三十年、執事となってより二十数年、この屋敷に仕える大半の者が、その老いた執事の双肩にかかるものを知らない。
 それを誰よりもよく知るスティーブは、胸に抱えるものをおくびにも出さず、今日も沈黙を守る。
「失礼いたします、旦那様」
 それから、いくばくも経たぬうち、スティーブは主人の部屋の扉を叩いた。
 内側から、入室を許可する声が返ったのを確認して、執事は一歩、主人の部屋へと足を踏み入れる。
 彼が部屋に入ってすぐ、椅子に腰掛け、なにやら書き物をしているルーファスの姿が、目に映った。
 紙にペンを走らせていた主人が、最後の一文字を記し終え、書類整理に一段落をつけるを、執事は部屋の片隅に控え、静かに見守る。
 そうして、何とはなしに、主人の横顔を見つめた。
 ――スティーブが仕える主人の名を、ルーファス=ヴァン=エドウィンという。
 この屋敷の主であり、エドウィン公爵の爵位を持つ、貴族だ。
 年こそ若いが、優秀な青年であり、王太子殿下の補佐としても、その名は広く知られている。
 性格は冷静、時に冷徹とまで陰口を叩かれる、合理主義者でもある。辛辣で、容赦のない物言いは、敵を作ることも多いが、その優雅な所作、何人にも媚びぬ姿勢は、公爵家の当主に相応しい品位があった。
  (氷のごとき冷徹、情のない男……この御方が、そんな風に言われるようになったのは、いつからだろう?)
 ルーファスの横顔を見つめているうち、スティーブはふと、そんな懐旧の情に囚われる。
 昔は、そうではなかった。昔は、もっと……。
 幼い頃から、見守ってきた主人は、ある日を境に笑みを消し、冷徹な仮面をかぶるようになった。
「旦那様……」
 気を抜くと、過去に囚われそうになる思考を振り切り、主人がペンを置いたのを見計らい、スティーブは声を上げる。
「すまない、待たせたな。スティーブ」
 未だインクが乾かぬ羊皮紙を、机の脇へ追いやり、ルーファスがゆっくりと、伏せていた顔を上げた。
 その拍子に、艶のある黒髪が、サラリと流れる。
 冬の海の如き蒼い瞳が、老執事を映す。
 主人にそれらを与えたのは、今は亡き先代の奥方様であり、端整な面立ちや、男らしい顎のラインは、父君、先代譲りだ。
 非業の死を遂げた母君・リディア様と、心を閉ざした先代・ウォルター様と――。
 父母の血を色濃く感じさせる、ルーファスの姿に、感傷と……どこか苦いものを抱きながら、スティーブはまぶたを伏せることで、それをやりすごす。
 そうした執事は、ルーファスの机へと歩み寄ると、主人の手に手紙の束を渡した。
「旦那様。何通か、お手紙が届いております」
「そうか。ありがとう」
 手紙の束を受け取り、宛名に目を通すルーファスに、スティーブは言葉を重ねる。
「先ほど、リンデンハイム子爵家より、使者が参られたそうです。明後日の午後、あちら様のお屋敷でとのこと」
「約束の件か……承知した。わかっているだろうが、使者には非礼がないよう、丁重にな」
「はい、心得ております。皆に、よく言い含めてありますので、ご心配なさいませんよう」
 かしこまりました、と胸の前に手をあててから、執事は「あぁ、それから……」と、少々、声のトーンを変えた。
 もうひとつ、主人に伝えるべき用件がある。
 些細といえば、些細……だが、屋敷にささやかな変化をもたらすであろう事柄だ。
 何だ、と尋ねた主に、「アンが、宿下がりを申し出ております」と告げる。
「アンが?」
 スティーブは首肯し、その理由を告げた。
「えぇ、何でも、義姉の産後の肥立ちが悪いとか……しばらく実家に帰って、看病を手伝ってやりたいとのことです。お許しいただけますか?」
「ああ。アンはよく仕えてくれているし、断る理由もない。落ち着いたら、戻ってくればいいだろう」
 断られるとは微塵も思っていなかったが、そう言ったルーファスに、執事は人知れず安堵する。
 使用人の境遇は、仕える主人によって、大きく変わってしまう。
 そういう意味では、物分りのいい雇い主をもったアンは、幸運だろう。
「有難うございます。アンも安心することでしょう」
 声にわずかばかりの安堵をにじました老執事を、ちらり、と見て、ルーファスは、
「アンの義姉とやらの具合は、だいぶ悪いのか?」
と、尋ねる。
 意図の読めない主人の言葉に、スティーブは目を丸くし、やや困惑気味に「さぁ……」と答える。
「さぁ、アンは詳しく申しておりませんでしたので、何とも……何ぞ、気になることでもございましたか?」
 そうか、と応じたルーファスは、手紙の封を切りながら、淡白な、素っ気無い声音で言う。
「もし、医者が必要ならば、相談にのる。聖アメリア病院ならば、多少、顔が利くからな……そうアンに伝えておいてくれ」
 治療費もふくめてな、と。
 そう言った声音は淡々としていて、ともすれば、冷ややかにさえ聞こえる。だが、その声にこめられたのは、まぎれもない温情だ。
「旦那様……」
 目を細めるスティーブに、ルーファスは手紙に視線を落としたまま、顔を上げようともしなかった。
 話は済んだ、と言いたげだ。
  (相変わらず……素直じゃない御方だ。旦那様は)
 ああ、そういえば、旦那様は、子供の頃から感情を表に出すのが苦手だったと……昔日を思い出し、執事はわずかに唇をほころばせる。
 スティーブの胸に、じわりとあたたかく、どこか懐かしい想いが広がった。少しばかり、心が揺るんだのかもしれない。
 生まれた時から成長を見守り、いまや凛々しい青年となったルーファスを、眩しいもののように見つめて、スティーブは口を開く。
「旦那様が、ご立派になられて……お元気になられたら、ウォルター様……先代様もお喜びになられることでしょう」
 唇からこぼれたそれは、きっと、口にするべきではなかった。
 されど、スティーブの記憶の中で、先代の当主の面影はいまだ鮮明で、忘れてはならぬものだった。若く、生き生きとしていた頃の先代の姿と、息子のルーファスの姿が重なる。
 しかし、それは口に出してはならぬことだったのだと、急に表情を凍てつかせたルーファスを見て、執事は悟る。
 まだ耄碌してはおらぬだろうに……と、スティーブは、己のうかつさを悔いた。
「あの男の、父上のことは言うな……聞きたくない」
 先ほどとは異なり、冷淡そのものといった調子ではき捨てたルーファスに、執事は己の失言を悟らざるを得なかった。
 出すぎた言でございました、お許しを、と言ったスティーブに、年若い主人は小さく息を吐いて、いや、と首を横に振る。
「……お前の気持ちも、わからないわけじゃない」
 父親に愛されなかった青年が、どういう気持ちでそう言ったのか想像すると、スティーブの胸はひどく痛んだ。
 返すべき言葉もなく、執事はただ後悔と共に、口をつぐむより他なかった。


 それから、一刻ほど――
 スティーブは、王宮に行くというルーファスと、従者のミカエルを玄関から送り出した。
 出かける直前、ルーファスはふと足を止め、執事の方を振り返る。
「あれは何処にいる?」
「奥方様なら、先ほど書庫に」
「ならいい」
 お呼びしますか、と尋ねた執事に、主人である青年は、それには及ばないと答える。
 スティーブはうなずくと、主人の脇に控えた従者の少年へと目を向け、声をかけた。
「ミカエル、今日も旦那様にしっかりとお仕えするのですよ」
「はい」
 使用人たちの束ね役であり、孤児だったミカエルに、使用人としての礼儀を教え込んだスティーブ。
 いわば、教師件、育ての親ともいえる人の言葉に、ミカエルは「はい」と、いささかかしこまった様子で答える。
 その様子が妙に微笑ましく、執事はふっ、と小さく笑うと、従者の少年の頭を軽く撫で、ついで深々と頭を垂れる。
「行ってらっしゃいませ。お気をつけて」
 ルーファスたちを見送った後、スティーブが廊下を歩いていると、小花模様のドレスを纏った小柄な影が、こちら歩み寄ってくる。
 その、柔らかそうな亜麻色の髪を見た執事が、「奥方様」と声をかけた。
 スティーブの声に、セラはほっとしたように足を止め、執事と向き合った。
「あの、スティーブさん……」
 そう言ったきり、奥方様である少女はうつむいて、恥ずかしげに押し黙った。
 白い頬は心なしか、紅潮しているようだった。
 覚悟を決めたように、再び上向いた翠の瞳には、何某か訴えかけるような色が宿っている。
「……奥方様?」
 己に話しかけた後、いきなり黙り込んでしまったセラを、スティーブは辛抱強く待つ。
 どうか、スティーブとお呼びください、とそうでなければ、他の者にも示しがつきません。
 そう、苦言をていそうかとも迷ったが、真剣な奥方様の様子に、執事はそれをためらう。
 たっぷり一拍、なおも間を取ってから、セラがようやく、ゆるゆると口を開いた。
 教えて、と恥ずかしげな、ささやくような小さな声が言う。
「あの……スティーブさん。ルーファスの欲しがってるものがあれば、教えてくれる?」
 予想だにしなかったセラの言葉に、お願い、と頼まれた執事は軽く目を見開いた。
 そうして、彼は首をかしげながら、奥方様の言葉を繰り返す。
「……旦那様の欲しいもの、でございますか?」
 問い返したスティーブに、亜麻色の髪の少女はこくっ、と首を縦に振る。
「うん、そう。少し前に、その、ルーファスにいろいろと助けてもらったことがあって……あたしに出来ることがあれば、何かお礼をできれば、と思って」
 切々と、かすかに赤い顔で訴える奥方様を、初々しいことだ、と思いながらも、何かを贈るだけが全てではありませんよ、とスティーブは諭す。
「ご夫妻なのですから、そこまでお気を使われずとも、よろしいのでは?ありがとう、の一言でも、十分だと思いますよ」
 老執事は、それに……とセラが忘れかけていた事実を指摘する。
「それに、旦那様は大概のものを持っていらっしゃる方ですし」
「そうだよね……」
 もっともな事実を告げられて、セラは壁にぶつかったような気持ちになった。
 何か贈るとしても、公爵家の当主である青年が、己の財産で手に入れられぬものなど、限られているだろう。
 そもそも、ルーファスの好みがわからぬのに、何も用意しようがないと、彼女は思う。
「残念ですが、私ではお役に立てそうもありませんな」
「ううん、ごめんなさい。妙なお願いをしてしまって……」
 執事の言葉に、苦笑を浮かべたセラは、「もう少し考えてみる」と言った。
「……私はこういう類は苦手なのですが、あの娘、メリッサは得意でしょう。あの娘に相談してみてはいかがですか、奥方様」
 その顔が少しばかり困った風であったので、スティーブはつい、助け舟を出した。我ながら甘い、とは思うのだけれど。
 スティーブの助言に、セラはパッと顔を上げる。
 その少女の瞳が、きらきらと期待に満ちているのを見て、執事は続けた。
「おひとりで考えていらっしゃるよりも、何ぞ良い案が浮かぶかもしれませんよ」
「ありがとう、スティーブさん!」
 セラはふうわり、花がほころぶように微笑すると、ぶんぶんと勢いよくスティーブの手を握る。
 そうして、メリッサに相談してみますね、と宣言すると、奥方様はスティーブに背を向け、軽快な足音を奏でながら、彼から離れていく。
 ――まったく。
 そんなセラの背中を見送りながら、スティーブはふ、と息を吐いた。
 我が家の奥方様は、実に変わったお人であると。
 王女という高貴な生まれであらせられるのに、それに似合わぬ気さくな振る舞いや、言葉遣いなどもそうだが、高貴な身分にある方は多かれ少なかれ、使用人を同じ人種とはみなしていないものだ。
 それなのに、奥方様はただの執事に過ぎないスティーブに飾り気のない微笑みを向け、恥らいながら、相談を持ちかける。
 ――まったく、風変りな御方だと。


 屋敷のこまごまとした雑事をこなしていたスティーブが、居間の前を通りかかると、部屋の中から若い娘たちの声が聞こえてきた。
 聞き耳を立てるつもりなど皆無であったが、なにやら奥方様のものらしい声が偶然、耳に飛び込んでくる。
 何気なく、その場で足を止めたスティーブの耳元で、若い娘たちのきゃきゃと楽しげな声がした。
「奥方様、ほら、簡単ですよ」
「う、うん」
「あっ、針、気を付けてくださいね」
「うん、ありがとう。頑張るわ。メリッサ」
 扉を開け放っているために、その話し声が詳細に聞こえて、スティーブは首をひねった。
 ……針?
 針とは何だ。
「何をしているのです?」
 つい気になって、スティーブが居間に足を運ぶと、そこには二人の少女がいた。
 奥方様と……奥方様付きの女中・メリッサだ。
 真珠色のクッションに腰を下ろした彼女たちは、おのおの、その手に針と糸を手にしていた。
 メリッサは手慣れた風に、セラはじっと親の仇のように糸を睨んで、緊張した面持ちで。
 何をしている、というスティーブの問いかけに、丸テーブルの上にのせた赤やら青やら、色とりどりの刺繍糸を指差しつつ、
「見ての通り、刺繍です。スティーブさん」
と、メリッサが答える。
 そうして、女中の少女はふふ、と楽しそうに笑って、ちらちらとセラの方を見ながら、「旦那様に、プレゼントしたいらしいですよ」と老執事に耳打ちする。
 ひそめた声が、聞こえているのだろう。
 まるで、強大な敵と向き合うように、針を凝視していたセラが、ほんのりと頬を染めた。
 そうしている間にも、針と糸を片手に、ぶるぶると手をふるわせているセラは、お世辞にも器用そうとは言えず、なんとも危なっかしい。
 その危うい手つきに、(刺繍のことなど詳しくないとはいえ)、スティーブは不安になる。
 思わず、小さな声で「その、少々、危ういようだが、あれは大丈夫なのか?」と、メリッサに問わずにいられない。
 問われた女中の少女は、執事の心配など杞憂だという風に、どん、と自信たっぷりに胸を叩いた。
「大丈夫ですっ。あたしの刺繍の腕は、母と叔母譲りですから!練習さえすれば、きっと苦も無く出来るようになりますわ」
 そう言って、「ね、奥方様?」と話を振ったメリッサに、セラもにこやかに応じる。
「ええ、メリッサが教えてくれているんだし、頑張ってみるわ」
「……そうですか」
 相変わらず、その手つきはひどく危ういものの、何やら張り切っているらしい奥方様の様子に、スティーブも一応は納得し、二人の少女を残して、居間を後にした。
 しばらくして、居間から悲鳴が上がる――。
「ああ、奥方様っ!指、指、刺してます!」
「気を付けて!」
「わわっ、危ない。痛、いたた……」
「きゃああ、血が出てる……」
 見かねて、スティーブは再び、居間に赴く。
 ……念のために、救急箱を片手に。
「どうなさいました?」
 居間に顔を出した執事がそう尋ねると、セラとメリッサは何とも情けない顔を、こちらに向けた。
 たぶんインシャルか何かを刺繍しようとしていたハンカチは、セラの膝の上で、何やらぼろ雑巾のような惨憺たる有様になっていた。
 一体、どういう過ちを犯したら、こうなったのか……。
 指先を血まみれした奥方様は、しゅんとした哀しげな表情で、その、かつてはハンカチだったものを見つめている。
 スティーブはふう、とため息をついて、そんな奥方の手にぐるぐると包帯を巻く。
 少々、いや、かなり大袈裟だとは思うが、これ以上、刺繍を続けるのは無謀であるということを、奥方様を傷つけずに伝えたいと、彼なりに苦慮した結果だった。
 セラはやや落ち込んだ風にうなだれて、
「ごめんなさい……あたしには、刺繍とか無謀だったみたい」
と、反省を口にする。
「さようでございますか」
 その通りだった。
 スティーブは努めて平静を保ちつつ、うなずく。
 そんな奥方様の姿を目にしたメリッサも、しばし女主人と同じようにシュンとしていたものの、急に立ち上がると、諦めるのはまだ早い、という風に、明るい声を上げた。
「昔、叔母さんが教えてくれました。男を支配するには、まず胃袋からだって」
 料理をしましょう。
 そう口にしたメリッサの碧眼には、何やら謎の気迫が宿っている。
 負けず嫌いな性分なのか、奥方様の力になりたいのか、たぶん、その両方だろう、と執事は判断した。
「叔母さんに頼れば、きっと何とかなります!」
 力強く言い切り、厨房に向かおうとする女中の少女の背中を、スティーブが待ちなさい、と引き留めた。
「メリッサ、待ちなさい。高貴なご婦人は、自ら料理などしないものですよ」
 その程度のこと、知らぬわけではなかろうに、奥方様の飾り気のなさゆえか、どうも屋敷全体の空気が、ほのぼのと和んでしまっているようだった。
 まったく、最近の若者は……渋い顔をしたスティーブが、メリッサに注意を促そうとした時、肝心のセラが「お願い、メリッサもああいってくれているし、やってみたいの」と言う。
「……駄目、かしら?」
 恐る恐る、そう尋ねてくる奥方様に、スティーブも折れた。
 今度は怪我をなさいませんよう、と釘をさすのも忘れない。
 セラはパッと顔を華やがせて、「ありがとう。もう少しだけ、がんばってみるわ」と言い、厨房の方に歩いていく。
 まるで、年頃の友人同士のように仲良く、並んで厨房の方に歩いていくセラとメリッサの姿に、スティーブは目を細めた。
 奥方様がいらしてから、この屋敷の空気もずいぶん変わったものだと、そう感じずにはいられない。昔、昔は――十年ほど前のことを、今さら思い起こしたことで、スティーブの顔に憂いがよぎった。
 その想いのままに、老執事はそっと目を伏せる。

 昔、この屋敷の片隅で、じっと声を押し殺して、泣いていた子供がいた。
 その蒼い瞳からこぼれた涙を、ぬぐってくれる家族が、少年にはいない。
 残酷な月日が流れ、やがて、その子供は泣くことすら忘れてしまった――。


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