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三章  呪いの代償  3


 (……暑い)
 ちらっと空を仰いで、ぎらぎらと照りつけてくる太陽の眩しさに、ミカエルは淡い水色の瞳を細めた。
 朝早く、まだ日差しがさほど強くない、涼しいうちに屋敷を出たというのに、すっかり暑くなってしまったと、彼は思う。
 雲ひとつなく晴れ渡った青空は爽やかではあるが、じりじりと肌を焼く日差しの強さには、彼ならずとも、閉口せずにはいられまい。
 (もっと早く戻るつもりだったのに、少し遅くなっちゃったな……)
 主人の使いに行った先で、少々のんびりしすぎたと、ミカエルは反省した。
 彼――ミカエルは朝から、主人であるルーファスの命令で、リンデンハイム子爵家に使いに出ており、今は主人の仕事を終えて、エドウィン公爵家に戻るところだ。
 (旦那様の仕事は、無事にすんだんだけど、その後が……)
 そう、ミカエルが主人であるルーファスから命じられたのは、リンデンハイム子爵への届け物であり、それはつつがなくすんだ。
 問題はその後であり、彼の帰りが遅くなった原因も、そこにある。
 使いに行ったリンデンハイム子爵の奥方は、ミカエルのような従者の少年にも、朗らかに接してくれる、気さくで人柄の良い貴婦人なのだが、彼にとっては困ったことに……無類の話好きでもある。
 そんな奥方に仕えている女中たちも、当然のように話好きであり、彼にとっては不運なことに、彼女たちにつかまったミカエルは、さんざんお喋りにつき合わされた。
 旦那様が待っているから、と言い訳して、いささか強引にリンデンハイム子爵家を辞したのは、ついさっきのことである。
 (まったく……リンデンハイム子爵の奥方もそうだし、うちの女中頭のソフィーや姪のメリッサもそうだし、女の人っていうのは何で、ああもお喋りが好きなんだろう?)
 他愛ない話題でお喋りの花を咲かせ、些細なことでクスクスと、軽やかに笑い転げる女たちの気持ちは、男のミカエルには一生、わかりそうもない。
 きっと、世の中の大半の男がそうだろう。
 何にせよ、身分の貴賤を問わず、女のお喋り好きは変わらないものらしい。
 そう、諦め半分、呆れ半分の気持ちで思いながら、ミカエルは屋敷への帰り道を急いだ。
「――ただいま戻りました」
 そう言いながら、エドウィン公爵家に戻ってきたミカエルが、屋敷の扉を開けると、廊下を歩いていた若い女中が振り返った。
 ひとつに結んだ金髪がふわっと揺れて、活発そうな青い瞳が、ミカエルを見る。
 メリッサだ。
 ミカエルを見たメリッサは、軽く首をかしげると、
「おかえり……思ったよりも、遅かったわね。何かあったの?ミカエル」
と、問う。
「いや、別に何かあったってほどじゃないんだけど……旦那様の使いで、リンデンハイム子爵家に行ったら、奥方様たちにつかまって……」
 疲れたようなミカエルの表情と声から、だいたい何かあったのかを察したメリッサは、「なるほどね」と苦笑した。
「なるほどね……良いじゃないの。使いに行った屋敷では、親切にしてもらったんでしょ?お喋りくらいは、文句を言わず、付き合いなさいよ。ミカエル」
 しょせん他人事であるためか、軽い口調でメリッサは言う。
 少年でありながら、今回だけでなく、たびたび女たちのお喋りにつき合わされるミカエルは気の毒というか、本人は面白くもないのだろうが、傍から見れば、仕方ないところもある。
 あと二、三年もすれば成長し、印象も変わるだろうが、線が細く、優しげな顔立ちをしたミカエルは、中性的で、よく少女に間違えられるほどだ。
 本人は迷惑そうにしているが、そんな容姿ゆえに、ミカエルは王宮の女官や貴婦人たちに人気があり、可愛がられている。
 そんな事情をよく知るメリッサにとって、ミカエルの話は今更めずらしいものではなく、ちょっぴり気の毒だとは思っても、深くは同情しない。
 お喋りくらい付き合いなさいよ、と他人事ゆえに気楽に言うメリッサに、ミカエルは「他人事だと思って……」と、恨めしげに言った。
「しょせん他人事だと思って……メリッサにとっては、そうだろうけどさ……」
「そりゃそうよ。他人事だもん」
「ぐっ……」
 あっけらかんと言うメリッサに、ミカエルは絶句する。
 何となく納得いかないものを感じるが、こうもキッパリ言われると、反論のしようもない。
 ぐっ……と絶句するミカエルに、メリッサはからからと明るく笑うと、彼に「ちょっと待ってなさい」と声をかけ、厨房の方へと走っていった。
 しばらくすると、水の入ったコップを片手に、メリッサが戻ってくる。
 そのコップを、彼女はミカエルに手渡した。
「はい。喉がかわいたでしょ。ミカエル」
「あ、うん。ありがとう。メリッサ」
 ありがとうと礼を言って、ミカエルはメリッサの手から、よく冷えたコップを受け取る。
 そして、一刻も早く、喉のかわきを潤すべく、冷えた水を一口、口に含んだ。
 よく冷えた水が、カラカラにかわいた喉を、ゆっくりと潤していく。
 水に浮かんだ、薄切りレモンのほのかな酸味も、今のミカエルには有り難かった。
「はぁ……生き返る」
 ごくごくとコップの水を飲み干したことで、ミカエルもようやく一息つく。
「あっ、そうそう。ミカエル……この後は、何か用事はある?」
 そんな彼に、コップを持ってきたメリッサが、そう尋ねた。
「いや……旦那様は王宮に出かけられているし、今は別に、特別な用事はないけれど……何?」
 いや、と首を横に振ると、ミカエルはそう問い返す。
 従者である彼の仕事は、主人のルーファスの身の回りの世話と、主人の手をわずらわせないように、さまざまな雑事を片づけることである。
 旦那様――ルーファスが王宮に出かけている今は、これといってしなければならないことがあるわけでもなく、ヒマと言えばヒマだった。
「そうなの?じゃあ、ちょうどいいわね!」
 ミカエルの返事に、メリッサはにっと満足そうに笑うと、ちょうどいいという風に、パンッと両手を合わせた。
 そんなメリッサの爽やかな笑顔に、ミカエルは何となく嫌な予感を覚えた。
 経験上、メリッサがこういう顔をする時は、面倒なことを頼まれることが多い――
「……ちょうどいい?何が……?」
 嫌な予感を覚えたミカエルが、そう問いかけようとするのも聞かず、「じゃあ、ちょうどいいわね!」と笑顔で手を叩いたメリッサは、彼の制止もきかず、背を向けて、厨房の方へと駆けていった。
 そして、すぐに戻ってくる。
 戻ってきたメリッサの手には、ティーセット一式――ティーポットにカップ、果実のジャム、陶器の皿にもられた焼きたてのクッキーなどが並べられた、銀のトレーがあった。
 午後のお茶の支度と思われる、それ。
 メリッサはにっこり笑うと、ティーポットやらカップやらもろもろがのった銀のトレーを、何を思ったのか、ぐいっとミカエルの両手に押しつける。
 いきなり、お茶の支度がのったそれを押しつけられて、目を丸くするミカエルに、奥方様付きの女中であるメリッサは、さも当然のことのように言った。
「ヒマなら、ちょうどいいわ。奥方様のところに、お茶を持っていってくれない?ミカエル……それから、もし奥方様が退屈されているようだったら、話し相手になってちょうだいよ」
 奥方様にお茶を持っていって、というメリッサの言葉に、ミカエルはちょっぴり嫌そうな顔をした。
 面倒というわけではないが、奥方様のお世話は、奥方様付きの女中であるメリッサや女中頭であるソフィーの仕事であり、旦那様――ルーファスの従者であるミカエルの仕事は、また別にある。
 ただ、まぁ、何か仕事があるならば、それを手伝うのは構わない。
 屋敷の使用人の中で、最年少のミカエルは、他の使用人たちから何かと頼まれ事をすることが多かったし、彼の立場からすれば、それを手伝うのは当然のことだからだ。
 しかし、そうはいっても、受け入れ難いことというのはある。
 屋敷の使用人の中では、最も年の近い者同士という遠慮のなさもあり、ミカエルは「何で、僕が……?」と不服そうに唇をとがらせた。
「何で、僕が……?奥方様のお世話は、僕じゃなくて、奥方様付きのメリッサの仕事だろう?それに……お話し相手だって、男の僕なんかより、女のメリッサがすれば良いじゃないか」
 奥方様だって、そっちの方が良いに決まっている。
 そう続けたミカエルに、メリッサはわかってないわねぇという風に、首を横に振った。
「まったく……わかってないわね。ミカエル坊やは。いーい?いくら王女様という貴い身分の方でも、あたしたち平民とは違う存在でも、同じ人間なのよ。だったら、悲しい時やさびしい時……愚痴なんかを言いたい時も、あるでしょーが!そうは思わないの?」
「まぁ、それはそうかもしれないけれど……だからって、何で僕?」
 メリッサの言い分も、まぁ理解できないでもなかったが、やっぱりミカエルは「うん」と、素直にうなずく気にはなれない。
 そんな彼に、メリッサは更に続ける。
「アンタは、女心ってもんが、欠片もわかってないわね。ミカエル……女っていうのはね、他愛もないお喋りしたり、愚痴を言ったりする相手が必要なものなのよ!そりゃあ、あたしやソフィー叔母さんは、奥方様のお話し相手にはなれるけど、いつもいつも、あたしらだけじゃ、さびしいでしょ?旦那様は、ああいう感じの方だし……」
 奥方様は、控えめな方だから、文句も何もおっしゃらないけれど……と、少し複雑そうな表情で、メリッサは言う。
「メリッサの言いたいことも、まぁ、わからないでもないけど……」
 女心はともかくとして、メリッサの気持ちもわからないではなかったので、ミカエルも否定はしなかった。
 考え方の違いはあっても、ミカエルが主人であるルーファスの幸福を心から願っているように、メリッサもまた奥方様が出来るだけ、明るい気持ちで日々を過ごせるように、色々と心を砕いているに違いない。
 仕える相手は違っても、その気持ちは一緒であるし、十分に理解できる。
 それに、メリッサは少々お節介なところがあるものの、情に厚く、面倒見の良い性格であることを、ミカエルはよく知っていた。
 叔母のソフィーに似て、明るく面倒見の良い彼女が、奥方様に親身になって接し、女中の仕事だけでなく、あれこれと世話を焼くのは、当然のことなのかもしれない。
 わからないでもない、と言ったミカエルに、メリッサは「そうよ!」と力強い声で続けた。
「そうよ!奥方様にはね、きっと気分転換や、ちょっとした息抜きが必要なの。今朝だって、旦那様が……」
「今朝だって……?何かあったの?」
 朝食の時、使いに出ていて、屋敷にいなかったミカエルは、きょとんとした顔をする。
 その問いかけに、今朝の出来事を叔母から口止めされていたメリッサは、ちょっぴり慌てたような顔で、「な……何でもないわ」と言った。
「な……何でもないわ。そんなことよりっ!奥方様にお茶を、退屈そうだったら話し相手も、頼んだわよ。ミカエル!」
 そう言うと、ミカエルの返事も待たず、「あたしは、まだ掃除が残ってるから」と言って、去っていこうとするメリッサの背に、従者の少年は「ちょっと待ってよ」と叫ぶ。
「ちょっと待ってよ。メリッサ!男の僕が、奥方様の話し相手なんて、たぶん旦那様は良い顔はしないはず……っ!」
 ミカエルとしては、大真面目に言ったことだったのだが、冗談のようにしか聞こえなかったらしく、「何を言ってるのよ」とメリッサには笑い飛ばされた。
「何を言ってるのよ。アンタは男というより、子供でしょーが、ミカエル坊や!良いから、頼んだわよ!」
「うぐっ……わかったよ!言われたとおりにすれば良いんだろ?言われたとおりにすればっ!」
 いささか、ヤケ気味にミカエルは叫ぶ。
 せいぜい三、四歳しか違わないくせに、子供扱いするなとか、坊やなんて呼ばれる歳じゃないとか、いろいろとメリッサに言いたいことはあったものの、言えば言うほど、自分でそれを認めているような気がして、ミカエルは「わかったよ」と折れた。
 極めて不本意ではあるものの、仕方ないと、ミカエルは諦める。
 ……最初から、彼が口でメリッサに勝てるわけがなかったのだ。
 そう悟ると、ミカエルは疲れたように息を吐いて、ティーポットやらお茶菓子やら様々なものがのった銀のトレーを持ちつつ、奥方様の部屋へと向かった。


「――奥方様、紅茶をお持ち致しました。入ってもよろしいでしょうか?」
 軽く扉を叩きながら、ミカエルが中にいる奥方様に呼びかけると、扉の内側から「……どうぞ」というセラの声が返ってくる。
 失礼します、と言って、ミカエルは奥方様の――セラの部屋の扉に手をかけた。
「……」
 その部屋の中は、明るかった。
 窓から差し込んでくる陽光が、室内を明るく照らし、半分ほど開けた窓のところでは、風がゆらゆらと白いカーテンを揺らしている。
 庭の方から香ってくるのか、開けた窓の方からは、ふわりっと甘い花々の香りがした。
 ミカエルが部屋に入った時、セラは椅子に腰掛けて、窓辺で読書をしているところだった。
 白く細い指が、ゆっくりとした仕草で、本のページをめくる。
 窓から降り注ぐ太陽の光が、目を伏せたセラの横顔に、かすかな陰影を落としていた。
 ミカエルが「奥方様、お茶をお持ちしました」と声をかけると、セラは本のページをめくっていた手を止めて、彼の方を向く。
 そして、セラは本を閉じると、ゆったりとした穏やかな声で言った。
「お茶を持ってきてくれたの?ミカエル……どうもありがとう。そこの……そのテーブルの上に、置いてくれるかしら」
「はい」
 ミカエルはうなずくと、セラに言われたとおり、部屋の片隅に置かれた小さな丸テーブルの上に、テキパキとお茶の支度を整えた。
 ティーポットやティーカップ、砂糖入れやジャムの瓶、絵皿にもられた焼き菓子や薔薇やスミレの砂糖菓子……テーブルの上に飾られた花瓶をずらし、それらを手早く、だが丁寧に並べていく。
 従者の少年が、そうやってお茶の支度を整えている間、窓辺に座ったセラは何も言わず、じっと窓の外を見つめていた。
 窓の外には、雲ひとつない、晴れやかな青空が広がっている。
 ――彼女が、その翠の瞳に何を映し、また何を思っていたのか、過去を知らないミカエルには理解できるはずもない。
 香り高い紅茶をカップにそそいで、ミカエルは「あの、奥方様……」と、窓の外を見つめ続ける奥方様に声をかけた。
「ありがとう」
 そうミカエルに礼を言うと、ようやく窓から振り返ったセラは、紅茶に口をつける。
 一口、二口……そうして、セラが紅茶を飲んでいる間、ミカエルは何もすることがなく、手持ち無沙汰で、ただぼーっと立っていることしか出来ない。
 給仕といっても、夕食時のように皿を次々と下げたり、また厨房と行ったり来たりするわけでもないし、楽なものだ。
 しかし、忙しくないのは楽かもしれないが、それは時として、間が持たないという気まずい状況になりかねない。
 ……今のミカエルが、まさにそれだった。
 自分の方から話しかけることはないだろうが、仮に奥方様が何か言われたところで、気の利いた会話をする自信は全くない。
 全くだ。
 いや、そもそもミカエルは、奥方様の、セラの好きなものも嫌いなものも……趣味や嗜好すら、よくわかっていないのだから、それも無理もない。
 そう考えると、自分にこの仕事を押しつけたメリッサのことを、ミカエルは恨めしく思った。
 (考えてみたら、僕は奥方様のことを、何も知らないしな……まぁ、従者の僕なんかが、知る必要もないんだろうけどさ……)
 はぁ、と小さく息を吐くと、ミカエルは失礼にならない程度にさりげなく、セラの横顔を見る。
 立場を考えれば、絶対に口に出せるようなことではないし、また口に出す気もないが、ミカエルは奥方様の……セラのことが、少し苦手だった。
 ……別に、嫌いなわけではない。ただ少し、ほんの少し、苦手なだけだ。
 それだって、この国の王女であり、降嫁した今は公爵夫人である高貴な方と、平民で、ただの従者であるミカエルという、それこそ天と地ほども離れた身分では、決して口に出来るようなことではないが。
 (苦手っていうのは、ちょっと違うかな……どっちかっていうと、多分、後ろめたいんだ……)
 少し苦手とはいっても、ミカエルの抱く奥方様の印象は、決して悪いものではない。
 主人であるルーファスと比較すると、平凡としか言いようのない容姿ではあるが、その奥方様の纏う優しげな雰囲気や、柔らかな声、穏やかな態度には好感を持てる。
 降嫁されてきてすぐの頃は、その王族らしくない、まるで町娘のような気さくな言葉遣いや態度に、ミカエルたち使用人の中でも違和感を感じる者が多かったようだが、1ヶ月も経つと、皆、自然とそれに慣れてしまった。
 メリッサのような若い女中は、変に気位が高くなく、優しくて親しみやすい方だと、むしろ歓迎しているフシがある。
 王女様が降嫁されてくるということで、もし、どんな気位の高い方や我がままな方がいらしたとしても、決して文句を言わず、じっと我慢しなくてはならないのだと密かに覚悟をしていた女中たちにとって、セラは予想とは全く違う、だが、仕えやすい良い奥方様だと思われているようだ。
 ミカエルだって、それを否定する気はない。
 むしろ、彼は最初から、ルーファスの従者として様々な事情を知っていた分、セラに……奥方様に対して、同情的だった。
 王宮では秘された王女などと呼ばれ、女官たちからは冷ややかな視線と、嘲笑まじりの陰口を浴びせられて、不遇な日々を送ってきたらしい、奥方様。
 降嫁してきた公爵家でも、夫である旦那様はああいう方であるし、奥方様を愛している風でもなければ、妻として大切にしようという努力をしているようにも、ミカエルには感じられない。
 そんな奥方様の境遇には、ルーファスの従者であるミカエルだって、心が痛まないわけではない。
 ただ、そんな奥方様への淡い同情よりも、主人であり、自分を拾い上げてくれた恩人である旦那様への忠義心の方が、はるかに勝るというだけの話だ。
 別に、奥方様に何か思うところがあるわけではない。
 それでも奥方様のそばにいると、何となく苦手というか、気まずいと感じるのはきっと、奥方様に対して、後ろめたいものというか……隠し事があるからだろう――
「……」
 ミカエルは伏せていた顔を上げると、不躾にならないように意識しながら、ちらっとセラの方を見る。
 紅茶を飲んでいたはずのセラは、気がつくとまた、ぼんやりとした風な表情で、窓から外を眺めていた。
 奥方様が、この屋敷での生活や、旦那様との関係について、どう思っているのか、ミカエルにはわからない。
 旦那様も、自分の本音をベラベラと喋る方ではないが、奥方様もあまり自分のことは話さない。
 そうであるから、本当のところはどう思っているのか、彼には知りようもないのだ。
 夫であるルーファスとの、何とも言えない微妙な関係にしたところで、口に出さないだけで実は悩んでいるのかもしれないし、あるいは政略結婚の常として、仕方のないことと割り切っているのかもしれない……。
 (奥方様が、本心ではどう思っていらっしゃるのかは、わからない。だけど……)
 どこか遠い目をして、外の景色を眺めるセラの姿を見て、ミカエルはぐっと拳を握りしめる。
 それでも……奥方様を見ていると、どこか複雑なものを感じるのは、旦那様の命令があるからだろう。
 ミカエルは心の中で、そのルーファスの言葉を繰り返した。
 ――セラが、この屋敷から逃げ出さないように、気をつけておけ。俺は、あの王女を信用していない。
 ――もし、何か不審な行動があれば、すぐ俺に報告しろ。……目を離すなよ、ミカエル。
 主人のルーファスから、そう命じられている以上、従者のミカエルはそれに逆らえないし、また逆らう気もない。
 それは、自分を拾い上げてくれた主人への裏切りだからだ。
 ……だから、本当は奥方様の境遇に、淡い同情なんか抱かない方がいいのだ。
 安っぽい同情心は、場合によっては、主人への裏切りに繋がりかねない。
 主人のルーファスも、こう言っていたではないか。
『――生半可な同情や、中途半端な優しさならば、ない方が余程マシだ。そんなものは、いつか身を滅ぼすだけだからな』
 ……と。
 その言葉は正しいと、ミカエルも思う。
 中途半端な同情心や、貫けない優しさには、何の意味もない。そんなものでは、誰も救えないし、救われない。
 (わかってる。僕には、誰かに同情するなんて、そんな資格はないことくらい……)
 三年前のあの日、妹のようだったあの子を、最悪な言葉で裏切った自分に、そんな人並みの感情を抱く資格はないのだ……
 だから……
「――ミカエル」
 自分の名を呼ぶ声に、ミカエルはハッと我に返る。
 気がつくと、曇りのない翠の瞳が、こちらを見ていた。
 心の準備もなく、何となく気まずさを感じて、「あ……」と声をもらすミカエルに、セラはふっと小さく微笑って、どこか悪戯っぽい声で言う。
「ねぇ、あたしの顔に、何かついてる?ミカエル」
 そのセラの声に、ミカエルを咎めるような響きはなかった。
 しかし、自分が無遠慮に奥方様を見ていたことを、セラ本人から指摘されて、ミカエルは恥ずかしさから、顔を赤らめる。
 気をつけていたつもりだったが、自分がじろじろと無遠慮な視線を向けたせいで、奥方様に不快な思いをさせたかもしれない。
 そうだとしたら、いくら悪気はなかったとしても、従者として恥ずべきことだと、ミカエルは悔いた。
 ミカエルを見るセラの表情も声も、別に怒っている風ではないとはいえ、だったら良い、許されるという問題ではない。
 何はともあれ、主人の妻に対して、礼を失したことを謝ろうと、ミカエルは唇を開いた。
「申し訳……」
「大丈夫だよ」
 謝ろうとしたミカエルの声に、セラの声が重なる。
 大丈夫だよ、という言葉に、ミカエルは「え……?」と疑問の声を上げて、セラの顔を見た。
「……大丈夫だよ。ミカエル」
 セラは柔らかく微笑むと、穏やかな声で「大丈夫だよ」と、従者の少年を安心させるように言った。
「大丈夫だよ。ミカエル……貴方が、あたしたちのことで悩むことはないの。気にしなくていいの……わかっているから」
 わかっているから、貴方が気にしなくても良いのだと。
 穏やかな声で、微笑みすら浮かべながらそう言ったセラに、ミカエルは何も言うことが出来なかった。
 しかし、視線を逸らすことも出来ず、彼は淡い水色の瞳で、セラを見つめる。
 その、奥方様の翠の瞳が、全てを知っているかのような錯覚を、ミカエルは抱く。
 自分の隠していることを、全部、見透かしているようなそれ……
「奥方様は……」
 その先を続けかけて、ミカエルは口ごもる。
 もしかしたら、旦那様の命令も、奥方様を見張るというミカエルの役目も、奥方様は本当は全部、気づいていらっしゃるんじゃないだろうか。
 気づいていて、でも何も知らないフリをして、何でもないように振る舞っていらっしゃるんじゃないか……そんな気がした。
 奥方様の口から、はっきりとそう言われたわけではない。
 でも……
「奥方様は……」
 ミカエルはセラを正面から見つめると、何か言おうと、唇を開いた。
 しかし、セラはゆっくりと首を横に振ることで、少年の言葉を制す。
 何も言わなくて良いのだと、わかっているからと、直接、言葉には出さずとも、その穏やかな表情が語っていた。
「僕は……」
 口ごもるミカエルに、気にしなくて良い、という代わりに、セラは右手を伸ばして、ぽんぽんと軽く少年の頭を撫でる。
 癖のない金髪を撫でられたミカエルは、幼い子供じゃあるまいし……と、顔をしかめる。
 ミカエルに何も言わせず、また怒ることも責めることもせず、何事もなかったかのように振る舞おうとしてくれる、奥方様の気遣いには深く感謝したが、こんな風に、子供扱いされるのは何というか……あまり好きではない。
「……あの、奥方様。僕は小さな子供じゃないので、そんな風に頭を撫でるのはやめていただけませんか?」
 唇をとがらせながら、ミカエルがそう言うと、セラは「ああ、ごめんね」と苦笑した。
「ああ、ごめんね。気を悪くした?」
「いえ……」
 いささか複雑そうな表情で、ミカエルは首を横に振る。
 正直、面白くはないが、実年齢よりも幼く見られる外見のせいで、こんなことは慣れっこだった。
 ごめんね、と言うセラの表情は、微笑とも苦笑ともつかないそれだ。
「……ねぇ、ミカエル」
 しばらくの間、微笑とも苦笑ともつかない表情をしていたセラだったが、ふっと真面目な表情になると、「ミカエル」と彼の名を呼んだ。
「はい?」
「あのね、貴方に頼みたいことがあるの……聞いてくれる?」
 やや意外なセラの言葉に、ミカエルは目を丸くする。
「……頼みたいこと?僕にですか?」
 頼みたいことがあるというセラの言葉に、ミカエルは不思議そうな顔で、首をかしげる。
 ……頼みたいこと?
 旦那様でも、女中頭のソフィーでもメリッサでもなく、奥方様が自分に……?
 奥方様のいう頼み事の内容が、全く想像もつかず、ミカエルはただ首をかしげる。
「うん」
 首をかしげるミカエルに、セラはにっこりと笑って、うなずいた。


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