BACK NEXT TOP


三章  呪いの代償  4


 西の大国エスティア。
 今より三百年ほど前、亡国の王の血筋であったというオーウェン――後に“英雄王”と称された男が、一代で築き上げた王国・エスティアは、勇猛果敢で知られた軍隊の力で領土を拡大し、その王国の名を大陸に轟かせた。
 その輝かしい時代から、数百年もの長い年月を経て、往時の勢いは失せ、国の内部には貴族階級の腐敗や役人の不正、また改善されない貧民街の状況など、色々な形で歪みや綻びが出始めている。
 しかし、それでも大陸で五指に入る大国という地位は、いまだ揺らいではいない。
 たとえ、それが、 かつての繁栄の残滓であったとしても……。
 かくして、内側に様々な問題を抱えつつも、建国より数百年の時を重ねた今も、西の覇者として君臨し続けるエスティア。
 そんなエスティアは、また東西交易の要所としても知られる。
 遠く、紅の砂漠と呼ばれる地より異国の品々が持ち込まれたり、はるばる海を越えてやってきた商人たちが、異国の珍しい品々を、ほんの少しでも高い値をつけてくる者に売ろうと苦心する……。
 そんな光景は、このエスティアの、特に王都フィーゼリアにおいては、めずらしいものではない。
 自国の品々は勿論、時に異国の希少な品々も持ち込まれる王都の市は、常に大勢の人々で賑わい、いつも活気に満ちている。
 晴れやかな青空の下、今日も王都の市は、商品を売り買いする人々で賑わっていた。
「わぁ……ねぇねぇ、ミカエル!あの布、きらきら光っていて、すっごく綺麗だね!」
 南方の人間らしい、褐色の肌の男が異国の品々を売っている露店で、金糸を織り込んだようにきらきらと輝く、不思議な光沢の布を見つけたセラが「わぁ……綺麗っ!」と、はしゃいだような明るい声を上げた。
 その布以外にも、露店に並べられた異国の品々を見つめるセラの翠の瞳は、好奇心で輝いている。
「奥方様……」
 そんなセラの横では、明るい笑顔を浮かべる彼女とは対照的に、ミカエルが「奥方様……」と、呆れたような表情で言った。
 しかし、そのミカエルの呼びかけは、市で売り買いをする人々の声にかき消され、奥方様であるセラの耳には届かない。
 セラは右を向くと、再び「わぁ……!」と明るい声を上げて、
「わぁ……!あれ、あれ見て、ミカエル!」
と、そちらの方を指さす。
 彼女が指さした先には、大道芸人の一座がいて、その時はちょうど、ピエロが色とりどりの花を空中に出したり、かと思えば、その花をいきなりを消したりする芸をしているところだった。
 赤、青、黄色、紫……さまざま色の花々が、ピエロの手から飛び出て、空中を踊る。
 本当はタネも仕掛けもある手品なのだが、次々と手から飛び出してくる花は、まるで魔法のようだ。
 その芸に合わせて、仲間の楽師が明るい、軽快な音楽を奏でて、場を盛り上げる。
 音楽が盛り上がるにつれて、ピエロの手から放たれる花は色も数もどんどん増えていって、最後は空中に色あざやかな花の虹が出来上がる。
 見事な芸に、周りにいた見物客からは、拍手と歓声、ピエロの差し出した帽子へは、見物客からの銅貨が飛んだ。
 セラも、例外ではない。感心した様子でぱちぱちと拍手をし、他の見物客たちに混じって、ピエロの帽子に銅貨を放ると、「面白かったね!」と笑顔でミカエルに話しかける。
「面白かったね!ミカエル」
「奥方様……」
 にこにこと微笑むセラの横で、従者の少年はいささか渋い顔で、「奥方様……」と呟いた。
 しかし、不満気なミカエルの声は、再び市の喧噪にかき消されて、奥方様の耳には届かず……セラは「あっ!」と声を上げると、あっちを見てという風に、くいくいっとミカエルの袖を引いた。
「あっ!あのお菓子、美味しそう。買おうかな……でも、隣の果物も新鮮で良さそうだし……ううん、それとも、育ち盛りの男の子だったら、あそこの、串焼き肉とかの方が良いかも……ねぇねぇ、あの辺りで、何か食べたいものはある?ミカエル?買ってくるよ」
 市に並んだ、新鮮で瑞々しい野菜や果実……あるいは、わいわいと長い行列の出来ている食べものの屋台や、焼きたての香ばしい匂いがただよってくる、パン屋などを見て、セラは何が食べたい?と、隣のミカエルに尋ねた。
 それは彼女なりに、従者の少年がお腹を空かせているかもしれないと、気遣ってのことではあったのだが、ミカエルはその気遣いに感謝を抱くより先に、はぁとため息をついた。……なんというか、頭が痛い。
 ――ああ……一体、どこの世界に、従者のために屋台に食べものを買いに行く王女様が、奥方様がいるというのかっ!もともと、言動も振る舞いも、王女様らしからぬ気さくな方ではあるが……しかも、冗談のつもりではなく、真面目に言っているようだから困る!
 はぁ……と再び嘆息すると、ミカエルはきっと顔を上げて「――奥方様!」と、セラに向かって呼びかけた。
「――奥方様っ!」
 いきなり声を張り上げたミカエルに、セラは「……うん?」と首をかしげて、きょとんとした顔をする。
「うん?どうかしたの?ミカエル……あ、お菓子と果物だと、どっちが好き?」
「え……甘いのは嫌いじゃないですけれど、甘すぎるのは、ちょっと……」
「ん――、わかった。じゃあ、果物の方が良さそうだね。今、買ってくるから、ちょっと待ってて」
 ミカエルの返事に、セラは明るい声でそう言うと、野菜や果物を売っている店の方に駆けていこうとする。
「あ、ありがとうございます……って、違います!」
 思わず、反射的にセラに礼を言いかけたミカエルだったが、奥方様に言いたかったことを思い出し、ぶんぶんと首を横に振ると、「違います!」ともう一度、声を張り上げた。
「違うって……ええと、やっぱり、お菓子の方が良いってこと?ミカエル」
 違います!と叫んだミカエルに、セラは首をかしげると、不思議そうに翠の瞳を丸くして、従者である彼の気持ちも知らず、何とものんびりしたのん気なことを言う。
 そんなセラの反応にミカエルは、ぐぐぐ……と唸ると、大きくかぶりを振って、
「そうじゃありません!僕が言いたいのは、屋台で何を買ってくるかとか、そんなことじゃなくて……!奥方様はさっき僕に、こうおっしゃいましたよね?僕に、頼み事があるって!」
と、市の騒がしさに負けないような声で、叫ぶ。
「あ、うん」
 ミカエルの言葉に、セラは首を縦に振る。
「さっきから、市をぶらぶらしたり、大道芸を見たり……ただ普通に散歩しているだけなんですが、奥方様の頼み事というのは、これだったんですか?」
 うなずいたセラに、ミカエルはそう、続けて尋ねずにはいられなかった。
 奥方様に頼み事があるからと言われて、彼女について屋敷から外に出たまでは良いのだが、ミカエルが納得いかないのは、それからだ。
 頼み事があるからと言われて、わざわざ市の立つ外にまで一緒についてきたというのに、その頼み事は一向に口にされず、やっていることといえば、異国の商人が露店で売る、珍しい品々を眺めたり、大道芸を見物して拍手したり、たくさん並んだ屋台の食べ物に、いろいろと目移りすることぐらいである。
 ミカエルが少しばかり不満気な、納得いかなそうな表情をしているのも、その辺りの事情を考えてみれば、まぁ無理からぬことではあった。
 公爵家の執事であるスティーブのように厳格と言っていいほど生真面目で、几帳面な性分というわけではなく、年の近い女中のメリッサの前では、十四歳という年相応の少年らしい、子供っぽい態度や、流されやすいところを見せることもあるミカエルではあるが、本来は真面目で細かい事によく気がつく性格で、物事をいい加減なままにしておくことを厭う、潔癖なところがある。
 また、そういう人間でなければ、ルーファスの……若き切れ者と称され、合理を重んじ、怠惰や妥協を嫌う公爵の従者など、とてもではないが務まるまい。
 少年らしい潔癖さは、良くも悪くも、融通の利かない幼さと紙一重ではあるのだが、ルーファスの従者であるミカエルは、そういう少年だった。
 さっきから、ただ賑やかな市を散歩しているだけなんですが、まさか奥方様の頼み事って、これじゃないですよね?というミカエルの問いかけに、セラが余りにもあっさりと、
「うん。そうなんだけど……」
と、うなずいたので、ミカエルはガクッと拍子抜けする。
 (そ、それだけか……)
 到底、自分の手に負えないような、重要な頼み事をされたところでお手上げだが、ただ単に散歩がしたかっただけなんて、少しばかり拍子抜けだと、ミカエルは思う。
 そもそも、奥方様の頼み事というのは一体、何だったのだろう……?
 首をひねるミカエルに、セラは続けた。
「ちょっと気が滅入ることがあったから、少し外の空気を吸いたかったんだけど……前のことがあるからね。あたしが一人で出かけると、ルーファスや屋敷の皆に、心配をかけたら申し訳ないし……でも、ミカエルと一緒なら、ルーファスも許してくれるかなと思って……」
「はあ。そういうことだったんですか……」
 セラの言い分に、ミカエルはなるほど……と、納得した。
 やや婉曲に、言葉を選んではいるが、奥方様の言いたいことが、彼には理解できる。
 たしかに、前に屋敷から逃げ出した過去を持つ奥方様が、ひとりでふらふらと何処かに出かけたら、旦那様が……ルーファスがたぶん良い顔をしないことぐらいは、一介の従者に過ぎないミカエルにだって、容易に想像できる。
 もしも、それで奥方様の、セラの身に何かがあった日には、使用人一同、勿論、ミカエルも例外ではなく、主人からの厳しい叱責は免れないだろう。
 ……奥方様は、僕たちが旦那様に叱責されないように、色々と気を使ってくださっているのかもしれない。
 セラの口から直接、そう言われたわけではないが、ミカエルはそう感じた。
 (奥方様は、なんというか……ちっとも王女様らしくないし、貴族の奥方としてもちょっと……いや、かな――り変わっていらっしゃると思うけど、決して悪い方じゃない)
 今だって、そうだ。
 さっきだって、頼み事なんて下手に出るような言い方をしなくても、公爵の妻であるセラには、ただの従者であるミカエルに命令することは、容易なことであるし、それが主人であるルーファスの意に反さない限りは、ミカエルは基本的に、セラの言葉に従うしかない……そういう関係なのである。
 王族・貴族と平民、あるいは雇い主と使用人、そこには越えられない、越えることが決して許されない、厳然たる身分の壁が存在する。
 それは、目には見えず、だが、絶対に消えることのない壁だ。
 実際、傲慢な貴族にどんなに理不尽な真似をされても、人を人とも思わないような扱いを受けたとしても、ほとんどの場合、平民は悲しいほど無力で……ただ泣き寝入りするだけだ。
 幸いなことに、ミカエルの主人であるルーファスは厳しくとも、そんな非道なことはしないが、もし仮に平民が貴族に何かされたところで、それに抗う術はない。
 それが悔しくないといえば嘘になるが、それが命令する側とされる側、身分の差というものだから、受け入れるしかないのだ。
 でも……
 (僕らに命令する方が、きっと楽なのに……どうして、奥方様はそうしないんだろう?)
 それは、王女であるにも関わらず、市井で隠されて育ったという複雑な事情ゆえのかもしれないが、セラから何も聞かされていない以上、ミカエルがそこまで思い至るはずもなく、ただ変わった御方だ……としか思えなかった。
「……あたしの都合に付き合わせちゃって、ごめんなさい」
「え……?」
 ミカエルが「え……?」と言いながら、顔を上げると、セラが申し訳なさそうな顔でこちらを見ていた。
 すまなそうな顔で、その翠の瞳に憂いを宿し、セラは続ける。
「あたしの都合に付き合わせちゃって、ごめんなさい。ミカエル……迷惑だったよね?」
 ごめんなさい、ミカエルには迷惑だったよね、と謝るセラに、従者の少年はやや戸惑いながら、「いいえ、迷惑だなんて、そんなことは……」と首を横に振る。
「……本当に?」
 心配そうな表情で、そう尋ねてくるセラに、ミカエルは「ええ」とうなずく。
「ええ……別に、迷惑なんていうほどのことはないですし、というより、奥方様が僕なんかに、そんな風に気を使われる必要はないですよ」
 主人の妻に遠慮しているわけではなく、ミカエルのそれは本心だった。
 別に、頼み事なんて大仰な言い方をしなくても、奥方様の散歩にお供として付き合うぐらいは、迷惑というほどのことでもない。
 むしろ、普段、公爵の従者として、屋敷と王宮を行き来していることが多い彼にとっては、こうして、賑やかな市をのんびり歩くことは、それなりに良い気分転換ではある。
「……ありがとう」
 ミカエルの言葉に、セラはふっと安堵したように微笑むと、「ちょっとだけ、そこで待っててね。ミカエル」と言って、ミカエルに背を向けると、野菜や果物を売る店の方へと走っていく。
「奥方様……?」
 ミカエルの呼びかけにも、セラは後ろを振り返ることなく、大丈夫という風に、ひらひらと片手を振る。
 結局、近くだし危ないこともないだろうと、セラに言われた通り、ミカエルはその場で彼女を待つ。
 しばらくすると、セラが両手に何かを抱えて、ミカエルのところに戻ってきた。
 セラはその、両手に持ったうちの片方を、「はい、どうぞ」とミカエルに手渡す。
「はい、どうぞ。これ、ミカエルの分の林檎ね!」
 セラの手からミカエルの手に渡ったのは、瑞々しい、真っ赤な林檎だった。
 いかにも新鮮で美味しそうな、手渡されたそれを、ミカエルは反射的に受け取る。
「……ありがとうございます」
 宝石のように真っ赤な林檎を手にし、少しばかり身長の高いセラを見上げて、ありがとうと礼を言ったミカエルに、セラは笑みを浮かべて「きっと甘くて、美味しいよ」と明るい声で言った。
 そうして、彼ら二人は近くのベンチに腰をおろすと、並んで、シャリシャリと林檎をかじる。
 王女様ともあろう高貴な方が、果たして、むしゃむしゃ林檎の丸かじりなんかをしてて良いのだろうか?という考えが、一瞬、ミカエルの頭をよぎらないでもなかったが、当の奥方様は全く気にしていない風で、美味しそうに林檎をほおばっている。
 まぁ、いいか……とミカエルは思った。
 奥方様が気にしていないのに、自分があんまり神経質になっても、はっきり言って意味がない。
 そういう気分になると、ミカエルも隣のセラと同じように、シャリシャリと手にした林檎をかじる。
 一口、果肉を口にした瞬間、甘酸っぱい林檎の味が、口いっぱいに広がる。
 かわいた喉に、林檎の水分がうれしい。
 林檎の甘酸っぱさを味わいながら、ミカエルは淡い水色の瞳を、隣に座ったセラへと向ける。
 (本当に、不思議な方だな……こうしていると、市の空気に馴染んでいて、王女様にも貴族の奥方様にも見えない)
 ベンチに腰掛けて、美味しそうに林檎をかじる姿は、まるで普通の町娘のようで、王女様にも貴族の奥方にも見えない……。
 亜麻色の髪も、その瞳の色もこの国ではさして珍しいものではなく、特別な個性のない姿は、市の人混みの中では埋没してしまう。
 しかし、そんなセラの纏う雰囲気はどこまでも柔らかで、奥方様に対して引け目というか、少し苦手と感じているミカエルでも、何となく落ち着くというか……不思議と、穏やかな気持ちになった。
 ミカエルは目を伏せると、どこからか聞こえてくる楽師の演奏に、静かに耳を傾ける。
「……」
 しばらくの間、無言で林檎をかじっていた二人だったが、林檎の芯だけを残して綺麗に食べ終えると、ミカエルは横を向いて「そろそろ、屋敷に戻りませんか?奥方様」と、セラに声をかける。
 そろそろ屋敷に戻りませんか、というミカエルの提案に、セラは最後の一口をかじると、「そうだね」と同意する。
「そうだね……あんまり遅くなると、メリッサや屋敷の皆に心配をかけちゃいけないし、そろそろ……日が暮れる前に、屋敷に戻ろうか?ミカエル」
 セラの返事に、ミカエルは大きくうなずいて、続けた。
「そうしましょう、奥方様。いくら黒翼騎士団が、王都の治安維持に心血を注いでいるとはいっても、日が暮れたら、色々と危ないこともありますし……もしも万が一、奥方様が何か危険な目に合うことがあれば、僕が旦那様に叱られます」
 先ほどまでよりも、数段、真剣な声で、ミカエルは言う。
 実際、その言葉は決して、大げさなものではない。
 黒翼騎士団によって守られる、王都フィーゼリアの治安は、そう悪いというほどではないにしろ、人混みにはスリもいるし、タチの悪いゴロツキだっている。
 日が暮れて、辺りが暗くなれば、何かの犯罪に巻き込まれる可能性だってあるのだ。
 そんな場合、騎士に引けを取らない剣の実力を持つという主人のルーファスならばともかく、セラに武芸の心得があるようには全く見えないし、ミカエル自身、いざという時は身をていして庇うにしろ、誰かを守りきれるほどの腕っ節の強さはないと自覚している。
 自分はともかくとしても、従者であるミカエルが一緒にいて、万が一、奥方様が怪我を負うようなことがあれば、主人である旦那様に顔向け出来ない。
 ――誰かの信頼を裏切るのも、そうして失望させるのも、ミカエルはもう二度と嫌なのだ。
「僕は……」
 そう大きくはない、だが、どこか重みを感じさせる声で、ミカエルは続ける。
「僕は……旦那様の信頼を裏切るわけには、いかないんです。たとえ何があったとしても、絶対に」
 ミカエルの言葉や表情から、真剣なものを感じ取ったのか、セラは黙って、彼の言葉を受け止める。
「……」
 しばらくしてから、唇を開くと、セラは静かな声で「ミカエルは……」と言った。
「ミカエルは……ルーファスのことが好きで、従者として主人のことを、信じているんだね?」
 静かなセラの問いかけに、ミカエルは「いえ……」と、小さく首を横に振る。
 そして、きっぱりとした口調で続けた。
「いえ……そんな好きとか嫌いとか、主従だからとか、単純なことじゃありません。僕にとって、旦那様は……自暴自棄になっていた時に、手を差し伸べてくださった、恩人ですから」
 そう、人間的に好きとか嫌いとか、そんな単純な話ではない。
 ミカエルにとって、主人であるルーファスは、昔、自分を汚泥の中から救ってくれた、手を差し伸べてくれた、恩人と言うべき存在だ。
 あの時のミカエルにとって、ルーファスは決して、優しい人でも甘い人でもなかった。
 それでも、三年前のあの日、何かも失って絶望の中にいたミカエルに、生きる道と居場所を与えてくれたのは、ルーファスに他ならない。だから、たとえ何があったとしても、恩人であるルーファスを裏切ることだけはしないと、ミカエルはそう心に決めているのだ。
「そっか……ミカエルは、良い子だね」
 主人である公爵と従者の少年の過去に、一体、何があったのか、なぜ恩人なのか、セラは深いことを尋ねなかった。そうする代わりに、真面目な表情で、ミカエルの言葉を正面から受け止めると、小さく「そっか……」とうなずく。
 そうして、セラは何も尋ねず、ただ穏やかな声で、ミカエルは良い子だね、とだけ言う。
 セラのその言葉は、優しい響きを持っていたが、良い子という言葉が、いかにも幼い子供に対するような慈愛に満ちたものに感じられて、ミカエルは少しばかり渋面になる。
「奥方様……良い子だなんて、僕はもう、十四なんで……」
 さっきも言いましたけど、あんまり子供扱いしないでくださ……ミカエルが、そう続けようとした瞬間のことだった。
 小さな女の子が、彼らの腰掛けたベンチの前を、タタタっと幼い足取りで、駆けていったのは。
「……あ」


BACK NEXT TOP


Copyright(c) 2010 Mimori Asaha all rights reserved.

-Powered by HTML DWARF-