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三章  呪いの代償  5


 蜂蜜色の髪の、五歳か六歳ぐらいの可愛らしい女の子だった。
 まだ母親に手を引かれていそうな年齢の、その幼い女の子は、市の賑やかな空気にはしゃいだ様子で、きょろきょろと首を左右に振りながら、いささか危なっかしい足取りで、石畳の上を走っていく。
 その女の子が、自分たちの座るベンチの前を通り過ぎるのを、ちょっと危なっかしいなと、心配しながら見ていたセラとミカエルだったが、しばらくすると案の定というべきか……彼らが心配していた通りのことが起きた。
「あ……!」
 前をよく見ないで走っていた女の子は、ミカエルたちが案じていた通り、道端の小石にけつまずいて、ばーんっと豪快に転んだ。
 勢い良く、石畳の上に倒れ込むと、ぶつけた箇所が痛むのか、幼い女の子はしばらくの間、立ち上がろうとしなかった。
 とっさに両手を前に出して、顔面から地面に突っ込まなかったことが、不幸中の幸いというべきだが、痛そうではある。
「あらら、大変……」
 そう言って、セラはベンチから立ち上がると、転んだ女の子のそばに駆け寄る。
 隣のミカエルも、それに習う。
 ミカエルは膝を折ると、まだ地面に横たわったままの女の子を、よっと脇から手を入れて抱き上げると、「……大丈夫?」と声をかける。
 抱き上げた女の子の顔は、転んだ痛みと驚きのせいか半泣きではあったものの、幸いなことに、腕と膝小僧を少々すりむいた他は、大きな怪我をしていないようで、ミカエルはホッと安心する。
「ふぇ……」
 最初は驚いたように、自分を抱き起こしてくれたミカエルを見て、きょとんと目を丸くしていた女の子だったが、やがて転んだ痛みを思い出したのか、うるうると涙目になり、ひっく……としゃくりあげそうになる。
 どう見ても、泣く寸前だ。
「あ……」
 今にも、わんわんと泣き出しそうな女の子に、ミカエルは慌てた。
 昔から、小さな女の子に泣かれそうになると、どうしたら良いのか、わからない。
 そんなミカエルに、助け舟を出したのは、隣にいたセラだった。
「はいはい。大丈夫だよ。だから、泣かない……ね?」
 優しい声で語りかけると、セラはよしよし、と女の子の蜂蜜色の頭を撫でる。
 綺麗な翠の瞳に見つめられたことで、目頭に涙をためて、今にも泣き出しそうだった女の子は一瞬だけ、しゃくりあげるのを止めた。
 そうして、セラはハンカチを取り出すと、女の子の手や足についた、土や砂を丁寧にぬぐってやる。
「ありがとう……お兄ちゃん……お姉ちゃん……」
 抱き起こしてくれたミカエルと、手足の土をぬぐってくれたセラに、女の子は泣くのを我慢したように、くしゃっと顔を歪めたまま、小さな声で「ありがとう……」と礼を言う。
「どこか痛むところはない?……立てる?じゃあ、おろすよ」
 とりあえず、女の子が泣き出さなかったことに安堵して、ミカエルは抱き上げていた女の子を、そっと地面におろした。
 おろされた女の子は、しばらく、きょろきょろと辺りを見回していたが、下を向くと、急に「う……」と悲痛な声を上げて、再び泣きそうになる。
 悲しそうな顔でうつむいて、女の子は「ミミのが……」と泣きそうな声で言った。
「ふぇ……ミミのが……ミミのキャンディが……」
 ミミというのは女の子の名前として、キャンディ……って?首をひねるミカエルに、セラが「あっ、多分、あれじゃない?」と言って、女の子が見ているあたりの地面を指さす。
 そこには、ピンク色の、砕けたキャンディの残骸のようなもの散らばっていた。
 さっき、転んだ拍子に、女の子の手からこぼれ落ちてしまったのだろう。
 元は棒つきのキャンディだったようだが、落とした際に誰かに踏みつけられてしまったのか、砂まみれで、粉々に砕けてしまったそれは、最早、食べれるようなものではなかった。
「きっと、転んだ拍子に、手に持っていたキャンディを、地面に落としちゃったんだろうね……」
 かわいそうに、とセラが言った。
「多分、そうですよね」
 その言葉に、ミカエルは相づちを打つ。
 きちんと前を見て走っていなかったのが、転んだ主な原因であるとはいえ、小さな子供にとっては辛いことだろう。
「ミミの、ミミのキャンディが……お母さんに買ってもらった……」
 粉々に砕けてしまったキャンディの残骸を見つめて、お母さんに買ってもらったのにと、そう悲しげにいう女の子――ミミに、ミカエルは何とも言えない気持ちになり、はぁ、とため息をつくと、ガサゴソと上着の内ポケットを探った。
 我ながら甘いと思うが、ミカエルは昔から、ちっちゃな子供に泣かれるのが、一番、苦手なのだ。 
 (たしか、ここに……あった)
 ポケットの中から、さっき使いにいった子爵家でもらった、木苺の菓子。
 綺麗な包装紙に包まれた、甘い甘いそれを、ミカエルは潰さないように気をつけながら、そっとポケットから出す。
「……?どうしたの?ミカエル」
 唐突に、ガサゴソとポケットを探り出したミカエルに、セラが不思議そうな顔をする。
 そんなセラにミカエルは、
「すみません。少しだけ、そこで待っていてくださいますか?奥方様」
と声をかけて、そのミミという、女の子のそばへと歩み寄った。
 ミカエルは膝を折って、身を屈めると、いまだに粉々になってしまったキャンディを見つめて、泣きそうなミミの両手に、「……これ、あげる」と木苺の菓子をのせた。
「え……?」
 いきなり、少年から菓子を手渡されたミミは、喜ぶよりも先に、驚いたようにように目をぱちぱちさせて、ミカエルを見上げる。
 そうして、ミミは渡された木苺の菓子とミカエルの顔を交互に見ると、本当にいいの?というように、遠慮がちに「……くれるの?」と言った。
「……くれるの?」
「いいよ。あげる……ただし、危ないからもう、あんな風によそ見をしながら走っちゃ駄目だよ」
「うん!ありがとう」
 ミカエルの言葉に、ミミはうれしそうに、無邪気な笑みを浮かべて「ありがとう」と言う。
 その無邪気で、明るく、つい目を細めたくなるような、愛らしい幼い女の子の微笑みは、しかし、ミカエルにとっては、辛い過去の傷を思い起こさせるものだった……。
 自分が救えなかった、死なせてしまった、あの子のことを……重ねてしまう。
 (リリィ……)
 あの日から、もう三年以上の月日が流れているというのに、いまだ薄れることがない心の傷に、ミカエルはきつく唇を噛んで、その痛みに耐える。
 違う、このミミという子は、あの子じゃ……リリィじゃないんだ。だから……
「――ミミっ!」
 その時、焦ったような、慌てたような若い女の声がした。
 セラやミカエルが、その声に反応するよりも早く、ミミと自分の名を呼ばれた女の子が、真っ先に「あっ……!」と言って、うれしそうに、声の方角へと走り寄る。
「お母さんっ!」
 ミミがお母さん、と駆け寄っていった先には、蜂蜜色の髪の、彼女の母親らしい若い女がいた。
 女の子の母親らしきその人は、心配でしょうがなかったという表情で、駆け寄ってきたミミを抱きしめると、ようやく少し安心したような表情で、「こんなところにいたのね……お母さん、心配したわ。ミミ……駄目じゃない。あんなに言ったでしょう?勝手に、ひとりで外をふらふらしたら、危ないのよ」と、幼い娘に言い聞かせる。
「こんなところにいたのね……心配したわ。ミミ……駄目じゃない。あんなに言ったでしょう?勝手に、ひとりで外でふらふらしたら、危ないのよ。もしも、悪い人にさらわれたら、どうするの……わかった?ミミ」
「でも、お母さん……あっちで、音楽が鳴ってて、なんか楽しそうだったんだもん」
「でも、じゃないでしょ!ミミ!ひとりで外をふらふらしたら、危ないの!」
 一度は、でも……と不服そうに言ったものの、母親に危ないでしょう!と、きつく叱られて、ミミはしゅんと落ちこんだ様子で、うつむく。
 そして、ぎゅっと母親のスカートを握りしめると、小さな声で、反省したように「ごめんなさい……お母さん」と言った。
 ごめんなさい、と謝った幼い娘に、若い母親はハァ、と安堵したような疲れたような息を吐いて、諭すように続けた。
「ミミだけじゃなくて、きちんとミミを見ていなかった、お母さんも本当に悪かったけれど……でも、もう危ないことはしちゃ駄目よ。お返事は?ミミ」
「うん!」
 母親の問いかけに、今度は娘のミミも素直に、「うん!」とうなずく。
「とにかく……あなたが無事で、本当に良かったわ。ミミ」
 素直に謝ったミミに、母親は「あなたが、無事で良かったわ」と心から安心したような声で言って、娘を探している最中、ずっと心配と不安で険しくなっていた表情を、ようやく緩めた。
 母親は、もう一度、幼い娘に「本当に、すごく心配したのよ。ミミ」と深い愛情のこもった声で言うと、その次に、そばにいたセラとミカエルの方に向き直った。
 そうして、セラたちに向かって、申し訳なさそうな表情で言う。
「あの、ごめんなさい。私がいない間、ウチの子が何か、ご迷惑をおかけしませんでしたか?……私が、ちょっと目を離した隙に、この子ったら……ミミ」
「えっと……お姉ちゃん、お兄ちゃん、ごめんなさい」
 母親に促されて、ミミもぺこっと頭を下げる。
 セラは小さく笑って、「迷惑だなんて……そんなことはなかったので、大丈夫です」と、自分とそれほど歳の変わらなそうな若い母親を、安心させるように言う。
 その後に、小さな子供に合わせるように身をかがめると、今度は母親と離れないように、しっかりと手を繋いだミミに「お母さんと会えて、良かったね」と話しかけた。
「お母さんと会えて、良かったね……だけど、今度はもう、お母さんに黙って、ひとりで外に出ないようにね」
「はぁい」
 セラの言葉に、ミミは素直にうなずく。
「……」
 そんな彼女たちのやり取りを、セラの横に立つミカエルは黙って、その水色の瞳で見つめていた。
「本当にごめんなさいね」
 ミミの母親は、セラとミカエルに向かって、もう一度、軽く頭を下げると、繋いだ娘の手を引いて、その場から立ち去ろうとする。
 母親に手を引かれて、セラたちに背を向けたミミだったが、ふっと何かを思い出したように振り返り、ミカエルの方を向いた。
 そうして、やや舌っ足らずの幼い声で、ミカエルに尋ねる。
「お兄ちゃん……名前はなんていうの?」
「え……?」
 いきなりの問いかけに、少し驚いたような顔をするミカエルに、ミミはもどかしそうな声で、名前は?と繰り返す。
「お兄ちゃんの名前は?」
「……ミカエル」
 やや戸惑った風な表情で、ミカエルと自分の名を名乗った彼に、ミミは満足そうにニコッと笑うと、うれしそうにミカエルに手を振りながら、明るい声で言った。
「ありがとう。ミカエルお兄ちゃん!またね!」
 ミミは人懐っこい笑顔で、セラとミカエルの二人に向かって、ひらひらと片手を振ると、母親に手を引かれて、わいわいと活気のある、市の人混みの方へと消えていった。
「……」
 少しづつ遠ざかっていく、その母子の背中を見送りながら、ミカエルはもう戻れない過去に思いを馳せる。
 昔、自分もああして、はぐれないように、小さな女の子の手を引いていたことがあった……
 今はもう、遠い過去のことだけれど……
「ねぇ……もしかして、妹さんとか弟さんとか、下に小さい子がいるの?ミカエル」
 過去に思いを馳せていたミカエルを、今の現実へと引き戻したのは、そんなセラの一言だった。
 どうして急に、奥方様は自分にそんなことを尋ねるのだろう?と、少しばかり疑問に思いつつ、弟も妹も、そもそも兄弟と呼べる相手は誰もいないミカエルは、セラの問いかけに「いいえ……」と、首を横に振る。
「いいえ……どうして、そう思われたんですか?奥方様」
 奥方様の前で、自分に兄弟がいるなど、一度も口にした覚えがないのに……と思いながらのミカエルの返事に、セラは「……そうなの?」というような、やや意外そうな顔をする。
 彼の返答は、彼女にとって、少しばかり意外なものであったらしい。
「うーん。別に、大した理由はないんだけど……」
 そう前置きして、セラは続けた。
「小さい子の面倒見が良さそうだから、なんとなくミカエルは、下に弟さんとか妹さんとがいるのかなと思ったんだけど……違った?」
 セラとしては、何気なく口にしたことだったのだが、問われたミカエルの方は、やや複雑そうな表情を浮かべる。
 ――触れられたくないような、辛いような、あるいは切ないような、そんな何とも言えない表情だった。
 しかし、その複雑そうな表情は、ほんの一瞬のことで、セラがそれを不審に思う前に、ミカエルは軽く首を横に振って「僕が、小さい子の面倒見が良いなんて、そんなことはないですよ。さっきの女の子は、ただ心配だったからです……僕には兄弟がいませんし、もちろん弟も……妹もいません」と、至って普段通りの顔で答える。
「僕には兄弟がいませんし、もちろん弟も……妹もいません。奥方様」
 妹、とそう口にした時だけ、胸の奥にかすかな痛みを感じて、ミカエルはそっと目を伏せた。
 今はもういないが、昔、血の繋がりはないが、妹のような存在ならばいた。
 でも、あの子はミカエルのせいで……
「あ、そうなんだ」
 初めて知ったという口振りで、そうなんだ、とうなずいたセラに、ミカエルは自分が両親はもちろん、血の繋がった身内が誰もいない孤児であるということを、奥方様は知らないのだろうと思った。
 もし、彼が天涯孤独な身の上であることを、屋敷の誰かから聞いて知っているならば、わざわざミカエルに家族のことを尋ねたりはしまい。
 きっと、そうなのだろうと思いつつ、ミカエルはセラに問いかける。
「奥方様は旦那様から、僕のことを、何も聞いていらっしゃらないのですか?」
 問いかけながら、それは大いにありえそうなことだなと、ミカエルは思った。
 彼の主人であるルーファスは、お喋りではないにしろ、決して無口な人ではないのだが、他人のことについてベラベラと喋るような、軽い性格の男ではない。というより、わりと他人に対して無関心というか、少々、冷淡なところがあるため、そもそも他人に興味を持つということが、まれなのだ。
 そんな風だから、多分、奥方様は旦那様から何も聞いていないのだろうという、ミカエルの予想は当たった。
 彼の予想が当たった証拠に、セラは何のこと?という風に首をかしげて、言う。
「え……?聞いていないって、何を?」
「僕は……」
 ミカエルはうなずくと、悲壮感のない、普段と変わらぬ、淡々とした声で言う。
「僕は……旦那様に拾われるまで、路地裏で暮らす孤児だったんです。母は、小さい時に病で亡くなりました。父は、どこの誰かも知りません……家族と呼べる人は、もう誰もいないんです」
 路地裏で孤児として生きてきたという、決して明るいとは言えない己の過去を、内緒にしたり隠すつもりは、ミカエルにはなかった。
 屋敷の使用人たちは皆、知っていることだし、今更、隠しても仕方がない。
 かつて、孤児として路上で生活していた頃は、生きるために、食べものを盗んだり……色々と人には言えない、犯罪まがいの事をしたこともある。
 生きるために、生き延びるために、仕方がなかったのだと言い訳しても、罪の意識が消えるわけではない。
 しかし、そうであるからこそ、そんな過去を持つ彼を受け入れてくれたルーファスや、執事のスティーブや女中頭のソフィー、メリッサ……屋敷の皆には、ミカエルは心から感謝しているし、それを思えば、過去を隠して、何事もなかったように振る舞う気にはなれない。
「……そうだったの」
 ミカエルの言葉に心を痛めたのか、セラはうつむいて、まつげを伏せ、悲しげな表情をする。
 そうして、気遣うような視線を彼に向けると、真摯な声で続けた。
「……そうだったの。あたし、何の事情も知らないで、無神経なことを言ってしまって、ごめんなさい……大変だったね」
「いえ……そんな……!母が亡くなったのは何年も前のことですし、僕も小さかったのでよく覚えていませんし……!本当に、お気になさらないでください。奥方様。それに……」
 奥方様であるセラに、悲しげな表情で、ごめんなさいと本気で謝られて、ミカエルは慌てた。
 彼としては、ただ正直に自分の過去を話しただけで、奥方様をこんな風に悲しませるつもりは、微塵もなかったのだ。
 本当に。
 別に、奥方様に、こんな悲しい顔をさせるつもりじゃなかったのに……!
 さっきの己の言葉を、少しばかり後悔しながら、ミカエルは言葉を重ねた。
「それに、今は辛いことはないので、大丈夫です……旦那様に拾っていただいて、従者としてお仕えさせていただいて、屋敷の皆にも親切にしてもらって、僕は本当に感謝しています……そうでなければ今頃……」
 その先を口にすることはためらわれて、ミカエルはあえて、そこで言葉を切った。
 もしも、三年前のあの日、主人であるルーファスに出会わなければ、ミカエルの人生は、きっと今とは全く違ったものになっていたはずだ。
 今となっては、それを想像することすら出来ないが。
 そして、彼は思う。
 もし、あの日、旦那様に出会うことがなければ、今、自分は生きていなかったかもしれないと……
「そっか……」
 今は辛いことはないという、ミカエルの言葉に、セラはホッと安心したように、柔らかく微笑んだ。
 良かった、と小さく呟くように言うと、セラは右手をミカエルの方へと伸ばし、その手で、自分よりもわずかに低い、従者の少年の頭を撫でる。
 また子供扱いか、とミカエルは一瞬、眉を寄せかけたものの、頭を撫でるセラの手つきが優しく、どこか懐かしい気がして、つい、文句を言う気を失ってしまった……。
 頭を撫でながら、セラは穏やかな声で、ミカエルに語りかける。
「ずっと、ひとりで頑張って生きてきたんだね……えらかったね。ミカエル」
 必要以上に、子供扱いされるのは嫌いだったはずなのに、ミカエルが頭を撫でるセラの手を、不快に思わなかったのは、もしかしたら……
 記憶の片隅にのこる、おぼろげな亡き母の記憶と、少しだけ重なるからかもしれなかった。
 気まぐれで、かんしゃく持ちで、いつも白粉と香水の匂いをさせて、男にしなだれかかっていた自分の母と、奥方様の印象が重なるところは、全くない、とミカエルは思う。
 でも、自分の頭を撫でる、その、白くて柔らかな手だけが似ていた。
 彼の記憶の片隅に残るのは、まだ母が生きていた幼い頃、甘い香水の匂いを振りまきながら、機嫌が良さそうに、頭を撫でてくれた母の柔らかな手だ……。
「あの、恥ずかしいので、もういいです。奥方様……」
 しばらくして、ミカエルがちょっと赤い顔をしつつ、首を横に振る。
 そんなミカエルの態度に、セラはクスクスと軽やかに笑うと、弟を見守る姉のような目で彼を見て「ああ、ごめんね」と言い、微笑ましいという風に、再びクスクスと、鈴を鳴らすような笑い声を上げる。
「……っ!奥方様っ!」
 そうした奥方様の態度が、ミカエルにとって面白いはずもなく、彼は頬を紅潮させて「奥方様っ!」と声を上げた。とはいえ、本気で怒っているわけではない。半分は、照れ隠しのようなものだ。
 さんさんと照りつける太陽。
 雲ひとつない青空。
 市の中心では商人の思わず聞き入ってしまうような見事な口上や、少しでも安く買おうとする客の交渉の言葉、そして屋台の方からは、思わずごくっと唾を飲み込みたくなるような、ジュウジュウという肉の焼ける音や、甘い焼き菓子の匂いがただよってくる。
 それは、どこまでも平和な、市の風景だった。
 セラもミカエルも、いや……その場にいた誰一人として、予想しなかっただろう。
 予想できるはずもない。
 次の瞬間には、この賑やかで平和な市が、恐怖に包まれるなどとは。
 ――この時、すでに悲劇は起こっていたのだ。
「キャアアアァァァァァァァ!」
 その時、市の騒がしさをも打ち消す、耳をつんざくような甲高い悲鳴が、市に響き渡った。
 真っ昼間の市で響いた、穏やかとは言えないそれに、異国の品々を売っていた商人や、それを買おうとしていた客、母親に手を引かれていた子供、また音楽を奏でていた楽師や、手から鳩をだしていた大道芸人まで……皆、一様に驚いた顔つきで、その悲鳴のした方角を見る。
 母親に手を引かれていた子供は、その場の異様な雰囲気に、いささか怯えた表情で繋いだ手をぎゅっと握りしめ……
 それぞれが顔を突き合わせて、ヒソヒソと会話する。
 皆、一体、何が起こったのかと、不安に思っているようだ。
「何だよ……真っ昼間から、悲鳴とは、穏やかじゃねぇな」
「オキャクサン、ソンナコトヨリ、オカネ……」
「今の悲鳴は?……喧嘩か何かか?」
「お母さん……なんか怖い……」
「おいっ、あっちは、クラリック橋の方角だよな?何が起こったんだろう?……ちょっと見に行くか?」
 ガヤガヤと大勢の人々がいっせいに喋りだしたせいで、先ほどまではただ活気があって、賑やかなだけだったはずの市は、あっという間に、混乱の渦に巻きこまれた。
 こんな真っ昼間から、一体、何が起こったのかと、不安に感じているのは、皆、同じ。
 人々は皆、心配と不安と……そして、野次馬根性の入り混じった視線を、悲鳴のした方角へと向けている。
 今の悲鳴に、不安を感じているのは、セラたちも一緒だった。
「ねぇ、今の……悲鳴だったよね?何があったんだろう?」
 不安そうな声でセラがそう言えば、
「わかりません……」
と、ミカエルが険しい表情で、首を横に振る。
 その時、どこかから「――死人だっ!」という声が上がった。
 市に集っていた人々は皆、いっせいに、その声に耳を傾ける。
 いかにも野次馬といった風な、興奮した声は、もう一度、同じことを叫ぶ。
「――死人だっ!川の、クラリック橋の下んとこで、死体が上がったらしいっ!若い女だとさ!」
 クラリック橋のところで、若い女の死体が上がったらしい。
 その陰惨な言葉に対する、人々の反応は様々だった。
 痛ましいと眉をひそめる者、野次馬根性を丸出しにしてソワソワし始める者、もしかしたら知り合いかもと不安になる者、自分には関係ないようだと、途端に無関心になる者……
 ミカエルはどちらかといえば、痛ましいと眉をひそめる側であったのだが、この時はそれだけではすまなかった。
 自分だけなら、どう行動しても良いだろうが、今は奥方様と一緒なのだ。
 軽率な行動は、避けるべきだろう。
 それに、今の興奮したような、いささか殺気立ったような、この場の雰囲気は、お世辞にも安全とは言えない。
 (さっさと、屋敷に戻ろう……)
 ミカエルはそう結論づけると、早く屋敷に戻るように言おうと、セラの方を向いた。
「なんか物騒ですね……もう少ししたら、旦那様も王宮から戻ってこられるでしょうし、屋敷に帰った方が……って、奥方様がいないぃぃ!」
 話しかけた先に、セラはいなかった。
 ほんの一瞬前まで、そこにいたはずの奥方様が忽然と姿を消したことに、ミカエルは驚愕し、「お……奥方様?」と言いながら、ぐるぐると周囲を見回す。
 それでも、セラはどこにも居らず、ミカエルはサーッと、一気に血の気が引くような気分を味わった。
 状況が状況でなければ、ここまで心配しないのだが、この場の混乱した空気では、何かが起こってもおかしくない!
「奥方様っ!どこですか?お願いですから、返事をしてください!」
 心配で、なりふり構っていられる余裕なくなり、ミカエルは奥方様を探して、辺りを駆け回る。
 そんな彼の耳に、ようやく「ミカエル……あたしは、こっちいるよ」という、セラの声が聞こえた。
 ミカエルは、はーっと安堵の息を吐き、セラの声がした方を見て……また驚きに目を見張った。
「奥方様……!何があったんですか?」
 ミカエルの水色の瞳に映ったのは、女の死体が上がったという、クラリック橋の方へと向かっていく野次馬の列、その中にもみくちゃにされたセラの姿だった。
 セラは、うぅ、と少し苦しげな声を上げながら、ミカエルの方へと手を伸ばし……
「わかんない……なんか、気がついたら、人混みの中にいて……あっ!」
「……っ!奥方様……!」
 あっ!と、セラが声を上げた瞬間、人の波はザザザッと勢い良く前に、クラリック橋の方へと進んでいって、その人混みの中にいたセラは当然のように、一緒に流されていく。
 彼女が流される寸前、なんとか助け出そうと、ミカエルが懸命に片手を差し伸べたが、間に合わなかった。
 否が応でも、やりきれない無力感を感じるミカエルの目の前で、セラは人の波にさらわれて、その姿は遠ざかっていく……結局、ミカエルだけが、その場にポツンと一人で取り残された。
「……ああっ、もう!」
 何でこうなるんだ!?と、地団駄を踏んだり、うわぁぁぁと頭をかきむしりたいような心境にかられながら、ミカエルはセラの後を追って、走り出した。
「だから、一刻も早く、屋敷に戻れば良かったんだっ!」
 今更、遅いと知りつつ、ミカエルはそう叫ばずにはいられない。
 ――後で、無事に屋敷に戻ったら、絶対にメリッサに文句を言ってやる!絶対にだっ!
 いささか八つ当たり気味に、そう固く決意すると、ミカエルはセラの後を追って、クラリック橋の方へと向かったのである。


「奥方様―――?僕の声が聞こえませんか?」
 人混みにもみくちゃにされて苦労しながら、ようやくクラリック橋のところまでたどり着いたミカエルは、休む間もなく、「奥方様―――?」とセラを探し回る。
 川から若い女の死体が上がったという、クラリック橋。
 そこは予想通りというか、予想以上というべきか、黒山の人だかりが出来ていた。
 騒ぎを聞きつけて集まってきた野次馬が大半ではあるが、ひどく不安そうな顔をした近所の住人たちや、連絡を受けて、捜査をするべく集まってきた黒翼騎士団の騎士たちなど……
 さして大きくない、どちらかといえば小さなクラリック橋なのだが、様々な立場の人間でごった返している今は、橋が壊れやしないかと、まさかと思いつつも、心配になるような状態だ。
「もし聞こえたら、何でも良いので、どうか返事をしてください。奥方様――?」
 そんな中、黒山の人だかりをかき分けるようにしながら、ミカエルは必死にセラの姿を探した。
 大勢の人々が集まっているそこでは、セラのような年頃の若い娘も、また亜麻色の髪も珍しいものではなく、その中でたった一人を見つけるのは、口でいうほど容易なことではない。……それでも、諦めるわけにはいかない。
 ミカエルは根気よく、背伸びをして、黒山の人だかりの中から、セラと同じ髪の色を探した。
 (あの後ろ姿は……いや、違う。奥方様の髪の色は、あれより薄い……あの人は、髪の色は同じだけど、服が違う……あっ!)
 ようやく、奥方様らしき人を見つけたミカエルは、クラリック橋の上に集まってきた人混みをかき分け、時折、人に押されながら、なんとか苦労の末に、そこまで近づくと「奥方様っ!」と、背後から声をかけた。
 亜麻色の髪が揺れて、セラが後ろを振り返り、翠の瞳がミカエルを映す。
「あ……ミカエル」
 やっと会えた、と心から安堵した風に言うセラに、ミカエルもふーっと大きく息を吐いた。
「ご無事ですか?奥方様……お怪我は?」
 ミカエルの問いかけに、セラは大丈夫というように首を横に振る。
「あ、うん。平気……さっきは、心配させて、ごめんね。ミカエル。あんな風に、はぐれるつもりはなかったんだけど、人が多すぎて……」
「あれは、仕方ないですよ。奥方様……運が悪かっただけです。それより、もう戻りませんか?騎士団の捜査の邪魔になっても、申し訳ないですし……うわっ!」
 喋っている途中に、後ろで人の動きがあったのか、ぐいっと無理矢理に背中を押されるような格好になり、ミカエルは前につんのめった。
 小柄な体格の彼は、それに耐えきれず、ぐぐぐっと背中を押され、自分の意志に反して、どんどんと前へ前へと押し出される。
 それを見たセラが、助けようと慌てたように、ミカエルに向かって手を伸ばす。
「ミカエル!大丈夫……っ!」
 さっきとは逆の状況だが、その結果は、さっきよりも悪かった。
 無理な姿勢で手を伸ばしたせいで、セラもぐらっと体勢を崩し、ミカエルと同じように前へとつんのめり……
 結局、セラとミカエルの二人はそろって、望んでもいないのに、前へと押し出された。
「わっ……ちょ、押すな!……って、痛っ……!」
 押すな、と切実な声を上げたにも関わらず、ミカエルの体は前へ前へと押し出されて、黒山の人だかりの一番、前まで押し出された末に、半ば転ぶようにして、ようやく止まった。
「くっ……」
 ぶつけた箇所が痛むのを感じながら、ミカエルは容赦なく背中を押した人間に対する怒りを、何とかこらえつつ立ち上がり、前を向いた。
 ――その瞬間、先ほどとは比べものにならない、本気で全身から血の気が引くようなそれを、彼は感じることになる。
 ひっ……と、からからに乾いたミカエルの喉の奥から、悲鳴にならない悲鳴がもれた。
 ガクガクッと無様に膝が震えなかったのが、奇跡に近い。
 口をあんぐりと開け、目をそらしたいのに目をそらせず、それを正面から凝視するはめになる。
「あ……」
 クラリック橋のところで、若い女の死体が上がったらしい。
 その言葉通り、ミカエルの目の前には、川から引き上げられたらしく、ぽたぽたと全身から水滴をしたたらせる、若い女の亡骸があった。
 凄惨な、思わず目を背けずにはいられないような、そんな死体だった。
 片腕と片足は引きちぎられて、残っている手足にも、なぜか獣に食われたような歯形が、いくつもついている。
 よく見ると、首も後ろの半分ほどの肉が、無惨にえぐられていた。
 顔は……肌の色は変わっているとはいえ、半分は無事だから、誰かわからないということはないだろうが、そんなものは本人にとって、何の救いにもなるまい。
 顔のもう半分はといえば……語る気が失せるほど、ひどいものだった。
 頬の肉が、ごっそりとえぐられて、最早、顔というのも躊躇われるように、グチャグチャになっている。
 魚に食われたのか、その左目は失われ、黒い空洞がさらされていた。
 その姿は、セラと同い年くらいの若い娘であるから余計に、哀れさを感じずにはいられないことだろう。
 唯一、無事であった死んだ魚を思わせる、ひどく虚ろな右目が、ミカエルの方を見ていた。
 ――生きている彼を、恨むように。
「ひっ……がっ……」
 こみ上げてくる吐き気を、ミカエルは亡骸から目を背けることで、必死に耐えた。
 ごくっと唾をのむ。
 思い切って、全部、吐いてしまった方が楽になると、理性はささやきかけてくるのだが、体が素直に従ってくれない。
 そんな彼の耳には、後ろから「化け物が……」「これで、何人めだ……」などという、ひそひそ話が飛び込んでくるのだが、それを気にかける余裕は、今のミカエルにはなかった。
 もし、そのままでいたら、目の前の凄惨なそれに耐えきれず、ミカエルは気絶していたかもしれない。
 彼を現実へと留めたのは、横から聞こえた、ある声だった。
「リーザ……?」
 どこまでも虚ろな、その声に、ミカエルは横を向いた。
 そこにはセラがいて、ひどく呆然としたような表情で、「リーザ……?」と同じ言葉を繰り返す。
 セラの様子がおかしいのは、すぐにわかったものの、この凄惨すぎる光景のせいだろうと、ミカエルは思った。
「奥方様、見ない方が良いですよ」
 今更、遅いと知りつつも、ミカエルはそう忠告せずにはいられない。
 男の自分ですら、あまりの凄惨さに、吐き気を覚えずにはいられないような状態なのだ。
 女の奥方様ならば、とっくの昔に、気絶していても驚かない。
 むしろ、それが普通だ。
「リーザ……?リーザなの?」
「……奥方様?」
 そこでミカエルは初めて、セラの異常に気づいた。
 彼の声は、奥方様の耳には、全く届いていない。
 セラは若い女の亡骸を見つめて、ひどく虚ろな声で、何度も「リーザ」という名前を繰り返す。
 その翠の瞳は、焦点が合っていなかった。
 顔色は、真っ青を通り越して、もはや真っ白だ。
「奥方様……!どうなさったんですか!」
 遅ればせながら、セラの異常に気づいたミカエルは、慌てて、そう問いかける。
 奥方様の尋常ではない様子に、吐き気は、どこか遠くに飛んでいってしまった。
「嘘……リーザが、そんな……」
 ミカエルの必死に呼びかけさえも、何も耳に入っていないように、セラは虚ろな目をして、「嘘……」と呟き続ける。
 その、血の気が失せた真っ白な顔色は、まるで生気がなく、死人のようですらあった。
「嘘……」
「奥方様、しっかりしてください!」
 そのうちに、ただ立っていることすら辛くなったのか、死人のような顔色のセラは、よろよろと地面に膝をつく。
 ミカエルが焦りながらも、しっかりしてください、と言って、懸命にその背を支えるが、ぐったりとした様子のセラは、瞼を閉じ、立ち上がる気力さえないようだった。
 少しでも楽になればと思って、ミカエルはその背中をさすったが、セラは瞼を伏せたまま、身を起こすことすら辛そうだ。
 (どうしよう……こういう場合、どうすればいいんだ……!考えろ、旦那様ならどうする……)
 ひどく具合の悪そうなセラの背を、倒れないように支えながら、ミカエルは悩む。
 公爵家の屋敷に戻れば、気付け薬もあるし、女手もある。
 必要があれば、医者も呼べる。
 それが最善だとは思うが、問題は……どうやって、奥方様と二人で屋敷に戻るかだ。
 セラよりもやや小柄なミカエルが、彼女を背負って屋敷まで戻るのは、少し無理がある。
 頑張れば、出来なくはないかもしれないが、具合の悪そうな奥方様を、引きずっていくなんて真似が、許されるとは思えない。となると、いったんミカエルだけが屋敷に戻り、誰か助けとなる人を呼んでくるというのも、ひとつの手だが……。
 しかし――
 (でも……今、奥方様を一人に出来ないよなぁ……)
 血の気が失せ、ぐったりしたセラの蒼白な表情を見ていると、ミカエルはそれは無理な考えだと、悟らざるおえなかった。
 屋敷に人を呼びに行くにしても、この状態の奥方様をここに置き去りにするようでは、本末転倒だ。
 しかし、だとすると、どうにもならない……。
「どうしよう……」
 困ったミカエルが、思わずそう呟いた。
 その時だった。
 彼に、親切な、救いの手が差し伸べられたのは。
「――大丈夫か?」
 いきなり、上からかけられた声に、ミカエルは顔を上げた。
「……はい?」
 まず目に入ったのは、腰の剣、騎士団の制服、そして、騎士の証である青いマント……。
 ミカエルの目の前に立っていたのは、炎のような赤髪の、若い騎士だった。
 見事な髭を生やしているので、一見、ゴツく偉そうな印象を受けるが、よくよく見れば顔は若いので、威厳はあまりない。
 ただ、そんな似合っていない髭のことはともかく、ミカエルに向けられた深緑の瞳は、落ち着いていて、誠実そうではあった。
 その赤髪の騎士は、ぐったりとした様子のセラと、彼女を支えながら困りきった顔をしているミカエルを見比べて、唇を開くと、落ち着いた声音で言った。
「そちらのお嬢さん、具合が悪そうだが……医者を呼ぼうか?」
「いえ……たぶん屋敷に戻れば……」
 騎士の親切に、ミカエルは心配そうにセラを見つつ、迷いながら答える。
「そうか……」
 赤髪の騎士が、言葉を続けようとした時、後ろから「――ハロルド隊長っ!」という声がかけられる。
「――ハロルド隊長っ!」
 ハロルド隊長という呼びかけに、赤髪の騎士は後ろを振り返り、「ああ、悪いな。ヘクター」と返事をした。
 後ろからは、同じ黒翼騎士団の制服を着た、長身の男が走ってくる。
「どうかしました?ハロルド隊長……何かあったんですか?」
 ヘクター、とそう呼ばれた長身の騎士は、赤髪の騎士――ハロルドにそう尋ねる。
 ハロルドは「いや……」と小さく首を横に振って、深緑の瞳で心配そうに、血の気の失せた、青白い顔で震えるセラと、そんな彼女の隣で途方に暮れた様子のミカエルを、交互に見た。
 そうして、彼は部下の騎士であるヘクターの方を向くと「そちらのお嬢さんが、具合が悪いらしい。連れの少年が、いるにはいるんだが……」と、低い声で言う。
 ハロルドの言葉に、ヘクターと呼ばれた騎士も、ミカエルに背中を支えられるようにして、何とか倒れずにいるセラの様子を見て、ああ……とうなずいて、無理もないといった顔をする。
「ああ……病人ですか。まぁ、無理もない。野次馬の数もすごいですし、こんな雰囲気のとこじゃ、そりゃあ、具合も悪くなりますよ……」
 クラリック橋を囲む野次馬の多さに、いささかウンザリしたように言うヘクターに、ハロルドは「まぁな」と相づちを打つと、腕組みし、どうしたものかという風に、辺りを見回す。
 そして、もう一度、セラとミカエルをチラッと見ると、再び部下のヘクターの方に向き直る。
「……そっちの人手は足りているか?ヘクター」
 隊長であるハロルドの問いかけに、ヘクターは「そうですね……」と言いながら、その橋の周りにいる仲間の騎士たちの顔を確認した後、ええ、とうなずいた。
「ええ……第一のロイド隊長も、第五のネイサン隊長もいますし、今んとこ人手は足りてると思いますよ。ハロルド隊長」
 人手は心配ない、というヘクターの返事に、ハロルドはそうか、と言って、しばし迷うような素振りを見せたものの、「それなら……」と話を切り出した。
「そうか……それなら、悪いが、この場はしばらく任せてもいいか?騎士として、病人を放っておくわけにはいかん」
「わかりました。任せてください……しっかし、ハロルド隊長は相変わらず、真面目というか堅物というか、お人好しというか……」
「うるさいっ!俺がいない間も、ちゃんと仕事してろよ。ヘクター!」
 二人の騎士は慣れた風に軽口を叩きあって別れ、ヘクターは橋の反対側に歩いていき、一方、ハロルドの方はセラたちの方に歩み寄ってくると、片手を差し出しながら言った。
「――大変そうだな、少年。俺が手を貸そう」
 その時のミカエルにとっては、ハロルドという赤髪の騎士の言葉は、涙が出そうになるほど有難かった。


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