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三章  呪いの代償  6


 当代のエスティア国王・オズワルトは、王妃と側室との間に、数人の王子と王女をもうけている。
 ただ一人、王宮の片隅で、周囲に秘されるように、ひっそりと暮らしていたセラフィーネを除いて、彼ら王族の名は国民に広く知られていた。
 その王の子らの中でも、今は亡き王妃が生んだ長子――王太子アレンは、昔から国民の人気が高く、この国の将来を背負う者として期待されている。
 金髪に、蒼灰色の瞳。
 母譲りの、端正で優しげな風貌。
 穏やかで、思慮深い性格。
 身分の貴賤を問わず、気さくに公平に接する態度。
 それらも勿論、アレンが王太子として、民の支持を集める理由の一つではあろう。だが、それだけが理由なわけではない。
 幼少時から、エスティア国王の長子として、帝王学を学んできたアレンは、早くから国を支える者としての自覚を持ち、病弱で内にこもりがちな父親に代わり、十八歳になる今まで国を支えるため、政治や外交に努力を惜しまなかった。
 無論、それらは若い王太子一人の手によるものではなく、多くの優秀な文官や武官の働きあってこそのものである。
 しかし、そうであっても、アレンが国を支える者としての自負と自覚から、努力を惜しまなかったのは事実であったし、彼が取り組んだ外交や改革が、エスティアに利益をもたらしたことは、王太子というアレンの地位を快く思わない者たちでさえ、認めざるを得ないことだったのである。
 戦を好まず、政治や外交で国を守ろうとする性格を、軍の一部の者たちには弱腰と侮る声もあるが、それだって傷というほどではない。
 病弱な国王を傀儡とし、国の実権を握る宰相ラザールを支持する、宰相派の者たち。
 宰相に従うことで、権力に近づこうとする彼らが、宰相の孫である王子・セシルを、玉座につけることを切望しながらも、それを堂々と主張し難い理由はそこにある。
 王太子にこれといった非がないことに加えて、十八歳になるアレンと比べて、弟のセシルは十二歳とまだ幼く、また素直で善良な性質ではあるが、大人しく、引っ込み思案で、いつもビクビクしながら、兄の背に隠れているような少年である。
 先のことはわからないが、もし、今、どちらが大国の王の座に相応しいかと問われれば、それは考えるまでもない。
 寝室にこもりがちな国王に成り代わり、国を支配する宰相ラザールを、王太子が内心、快く思っていないことは言うまでもないことだ。
 王太子アレンを支持する者たちと、宰相ラザール派に組みする者たちの対立は、そのまま次の王位を巡る争いでもある。
 宰相派の者たちが願いを叶え、宰相の孫であるセシルを王太子の地位につけるためには、今の王太子であるアレンが失脚しなければならない。
 アレンが何か大きな失敗をし、次代の王に相応しくないと見なされるか、あるいは不慮の事故や病死……何かが起きない限り、いかに宰相の権力をもってしても、セシルが王位を継ぐ可能性は低いだろう。
 宰相派の者たちからすれば、その不幸な何かが自然に、あくまでも偶然に起きることが、重要なのだ。
 それは即ち、己の地位が上がることを意味するのだから。
 王太子派と宰相派の対立、傀儡である国王、それによって漁夫の利を得ようとする者たち。
 さまざまな問題を抱える、エスティアの王宮では、権力を巡る色々な取引きやら……時に血生臭いものも含めて、陰謀の影が消えさることはない。
 当然ながら、王太子アレンがそれに巻きこまれないはずもなく、彼の地位を利用しようと、あるいは彼を陥れようと、甘言をもって近づいてくる輩には、事欠かなかった。
 しかし、今のところ、それらは全て失敗に終わっている。
 それはアレン自身が意識して自分のそばに置く者を選んだことや、優秀な側近たちの判断もあろうが、それ以上に、ある男の存在が大きいと言われている。
 王太子の片腕にして、また懐剣とも称される者――エドウィン公爵・ルーファス。
 邪心をもって王太子に近づいた者の大半は、その目的を達する前に、氷の公爵と呼ばれる青年によって、企みを暴かれ、泣いて許しを乞うような、悲惨な目に合わされるのが常であった。


 穏やかな昼下がり。エスティアの王宮にて――
 窓から差し込む、あたたかな木漏れ日によって、その広々とした部屋は明るかった。
 王宮内の一室。
 この王宮を建てた当時、最高の文化と芸術の粋を集めたというだけあり、その部屋も壁からそれこそ柱の一本、一本に至るまで、精緻な細工が施されており、贅を尽くしていることが伝わってくる。
 その昔、エスティアの華やかなりし、黄金時代の名残だろう。
 室内の調度品もまた、そんな華やかな内装に恥じないものではある。歴代の王族たちが使ってきたであろう寝台や椅子は、年月を経ても色あせることのない、立派なものだ。
 豪奢な部屋ではあっても、ゴテゴテと飾りたてた悪趣味な感じはなく、どこか落ち着いた印象なのは、部屋の主の人柄を反映しているのかもしれない。
 窓辺に飾られた一輪の、名も無き薄紫の花が、重厚な印象を受けがちな室内に、柔らかな雰囲気を与えている。
 その部屋の中には、二人の男がいた。
 一人は、金髪に蒼灰色の瞳の青年。
 この部屋の主である、王太子・アレンだ。
 ビロード張りの椅子に腰をおろしたアレンは、机の上に高く積み上げられた、民からの要望や陳情の類、あるいは部下からの報告書など……国政に関わるさまざまな書類の山、文官たちがもってきたそれに、一枚、一枚、丁寧に目を通し、許可できないものは突っぱね、また許可できるものにはサインと判を押す。
 相談をもちかけられたものには、自分なり意見を返してやり、自力で解決させた方が良いと思えば、そうする。
 書類に目を通し、サインし、判を押す。
 延々と続けられるそれは、ともすれば単調な作業ではあるが、文官から王太子の元に届けられた書類の山は、一枚、一枚が、国の方針を定め、民の生活を左右しかねない重要なものばかりだ。
 本来ならば、アレンの父である国王こそが、それらの書類に目を通すべきなのであるが、病によって心身ともに弱り、寝室にこもりがちな身では、国王としての義務を満足に果たせない。だから、アレンが父王に代わり、その義務を果たしているのだ。
 それらの大切さを、よく理解しているアレンは、何時間も続いているそれに、愚痴ひとつ、弱音ひとつ、もらすことはなかった。
 疲労した様子も見せず、それが王太子としての義務であると言わんばかりに、真剣な表情で書類の山と向き合う。
 そんな彼の傍らに立ち、アレンの仕事を手伝っているのは、黒髪の青年――ルーファスだ。
 ルーファスはアレンと同じように、書類に目を通し、王太子に意見を求められれば意見を言い、また必要だと思えば自らアレンに進言する。
 アレンはルーファスの意見を聞き、それを受け入れ、時に反論し、また議論をしながら、二人で幾つもの問題を片づけていく。
 少年の日に知り合い、主従の誓いを結んだあの日から、そんな光景は彼らの日常とも言うべきものだった。
「そういえば……」
 地方から届けられた書類にサインをし、判を押しながら、アレンが「そういえば……」と、唇を開いた。
「そういえば……リーヘン地方で、麦が不作だったそうだな?ルーファス?……まぁ、昨年も今年も天候が安定しなかったようだし、仕方ないと言えば、仕方ないことではあるが……」
 アレンはそう続けて、仕方ないと、ため息をつく。
 作物の実りが、天候の影響を受けずにいられないことは彼にもわかっているし、それが人知の及ばないところであることも、常に豊作とはいかないことも、よくよく理解していても、やはり麦の不作というのは頭の痛い問題だった。
 当事者である農夫たちや、その地方で暮らす民の嘆きは言うまでもないが、国を治める側、王太子にとっても他人事ではありえない。
 作物の不作や、それによる飢饉が起きれば、それはそのまま国への不満へと形を変えて、国の乱れへと繋がる。
 たとえ、そこまでなくとも、民が苦しんでいるのに背を向けられるほど、アレンは冷淡でも、無関心な性格でもなかった。
 王侯貴族はもっと、民の生活に目を向けなければならないというのが、彼の口癖だ。
「そうですね……」
 主君である王太子の言葉に、ルーファスは相づちを打って、続けた。
「そうですね……何でも、今年は、十年に一度の不作の年だとか。放っておけば、餓死者が出るかもしれません……リーヘン地方の領主から、援助を求める手紙が届いておりますが……どういたしますか?アレン殿下」
 己の主君である、アレンの性格を考えれば、その答えは問うまでもなかったものの、一応、ルーファスはそう尋ねる。
 案の定、アレンは迷う素振りもみせず、きっぱりと答えた。
「……そうか。ならば、迷っている時間はないな。国庫も、そう余裕があるとは言えないが、民が苦しむのを捨ててはおけん。援助しよう」
「ええ、それが良いでしょう。ここで、すげなく援助を断れば、リーヘン地方の恨みを買うことになる……それは殿下にとって、得策ではありません」
 その王太子の判断は、ルーファスにとっても納得できるものであったので、それが良いでしょう、とうなずいた。
 リーヘン地方が求める、食料や経済的な援助を断れば、多くの民が飢えに苦しむことになるだろう。
 為政者の傲慢や怠慢で、何の咎もない民が苦しむのは忍びないと、王太子と同じく、ルーファスも思う。
 権力を持つ者の理由なき怠慢は、それ自体が、許し難い罪だ。
 王太子派と宰相派の対立、いつ崩れるかもわからぬ均衡、そして玉座を巡る争い、それらを思えば、ここでリーヘン地方を敵に回すべきではない、という王太子側の事情も、もちろんある。
 しかし、それ以上に、国を治める者は、その義務を放棄するべきではないと、ルーファスは思うのだ。
 寝室に閉じこもり、宰相に国を牛耳ることを許した、エスティアの国王・オズワルトのように……。
「ああ。そうと決まれば、早い方が良いな。今日中に、財務長官のところに、相談しにいこう……他にも何かあるか?ルーファス」
 今日中に財務長官のところに、相談しにいく。
 アレンはそう言った後、他に何かあるか?と、ルーファスの方に蒼灰色の瞳を向けた。
 問われたルーファスは、「医者を……」と短く答える。
「……医者?」
 首をかしげたアレンに、ルーファスは、「はい」とうなずく。
 ひどい不作だったことで、食糧難に喘ぐリーヘン地方の民たちの中では、体調を崩す者も少なくないはずである。
 そんな時、医者の手が必要でないとは、思えない。
「はい。医者を……こちらで依頼して、王都の優秀な医者を何人か、リーヘン地方に向かわせては、いかがですか?アレン殿下」
「なるほど……一理あるな」
 詳しく説明せずとも、ルーファスの言いたいことを理解したのか、なるほど、とアレンは納得した表情になる。
 リーヘン地方は、エスティアの中では、あまり豊かな土地柄ではなく、余裕もない。
 王都の優秀な医者が、そんなリーヘン地方に赴けば、皆から頼りにされ、多くの民が救われるはずだ。
「リーヘンは、先々代の王が力で征服した土地で、民心はこちらに向いているとは言い難い土地でしょう。民の信頼を得るためには、労を惜しまないことが重要かと」
 そうして、ルーファスが更に言葉を重ねると、同じ気持ちであったのだろう、王太子も真摯な声で「そうだな」と言う。
「ああ、そうだな。お前の言う通りだ。ルーファス……リーヘン地方には、経済的な援助と優秀な医者を何人か、領主にはそう返事を送ろう。財務長官は、私が説得するとして……医者やその他の件は、お前に任せたい。いいか?」
 ルーファス、とアレンに名を呼ばれ、元よりそのつもりだった彼は「――御意」と頭を垂れた。
 嫌いな人間、たとえば老狐……宰相のような男に、何かを命じられるのは、正直、虫酸が走るが、ただ一人の主君と仰ぐ、王太子に命じられることに否はなく、むしろ誇りですらある。
 今までルーファスにそう思わせたのは、ただ一人、主君であるアレンだけだ。
「頼んだぞ」
 アレンはそう明るい声で言って、信頼と親しみのこもった微笑をルーファスに向けると、再び手元の書類に目を落とした。
 それから、しばらくして、机の上に積み上げられた書類の山が三分の一ほど減り、およそ今日の分が片づいたところで、アレンはペンを走らせていた手を止めて、椅子から立ち上がる。
「今日は、この辺にしておこう。これから、私は財務長官に会いにいってくる……ご苦労だったな。ルーファス」
 お前は、もう屋敷に戻ってくれていい。
 アレンにそう声をかけられたルーファスは、「いえ……」と首を横に振る。
「いえ……殿下が、財務長官殿に会いに行かれるのでしたら、お供いたします」
 ルーファスの返事にアレンは小さく笑って、
「いや……気持ちは有り難いが、お前は屋敷に帰れ。ルーファス……仕事の量はどうにもならないが、私ばかりがお前を独占していては、異母妹のセラフィーネが気の毒だ。頼むから、私がセラフィーネに恨まれることのないよう、奥方を大事にしてやってくれ」
と、満更、冗談でもなさそうな口調で言う。
「……アレン殿下が、そうおっしゃるならば」
 あからさまに気のない返事をしたルーファスに、アレンは苦笑する。
 そういう返事が、欲しかったわけではない。
「ずいぶんと気のない返事だな……セラフィーネとは、まだ親しくなれていないのか?ルーファス」
 余計なお世話かもしれないと、少しばかり遠慮しながらも、アレンはそう問わずにはいられなかった。
 王侯貴族となれば、自分の意志だけで、結婚相手を決めることは許されない。だが、そこに一片の愛情がなければ悲しいと、彼は思う。
 しかし、そんなアレンの気持ちはルーファスには伝わらず、ルーファスはふっと自嘲するように笑い、淡々とした声で言う。
「夫婦となるのに、愛情が必要とは限りません。アレン殿下……セラフィーネ王女様には、お気の毒ですが、私はこういう男なのです……昔、付き合いのあった、ある女に言われました。貴方の心臓は氷で出来ているのよ、と。自分でも、そう思います」
「ルーファス……」
 嘆くでもなく、悔いるでもなく、まるで他人事のように淡々と言うルーファスに、アレンは言うべき言葉を見失う。
 長い付き合いであっても、こんな時に、かけるべき言葉が思いつかないのが、ひどく歯がゆい。――ただ、悲しいと、己の心臓を氷なのだと言ってしまう男が悲しいと、そう思う。
「……ご期待にそえず、申し訳ありません。アレン殿下。ですが、私はそういう人間なのです」
 ルーファスの言葉に、アレンは「いや……」と首を横に振る。
「いや……気にしてない。それに、今の言葉で、お前が謝る必要があるとすれば、セラフィーネにだろう。私にじゃない。けれど、ルーファス……」
 アレンはそこで一度、言葉を切ると、蒼灰色の瞳でルーファスを――己の部下であり、友でもある男をまっすぐに見つめながら、心からの言葉を口にした。
 言葉だけで、何かが変えられるとは思わない。けど、少しでも届けば良いと、祈るように。
「お前は、自分で思っているよりも、心の優しい男だぞ。だから早く、お前自身が、偽ることなく、それに気づけばいい……これは、王太子としてでも主君としてでもない、お前の友としての言葉だ。ルーファス」
「……」
 アレンの言葉に、ルーファスは自嘲するような、苦笑ともつかぬ表情を浮かべるのみだった。
 王太子のことは、主君として尊敬の念を持っているし、その言葉を心から受け入れられたなら、楽になれるだろうとわかっている。だが、それは出来ない。
 主君である王太子はいつも、強く、優しく、誇り高い。
 だからこそ、ルーファスは時折、虚しくなるのだ。
 どうしたって、この光の中を歩いているような主君には、理解できない闇を抱えている己に……
「……兄上?」
 その時、扉の外から、「……兄上?」と幼い声がした。
 声変わり前の少年の声だ。
 来客があったことで、ルーファスとアレンの会話は一端、そこで打ち切られる。
 アレンは扉の方に目を向けると、セシルか?と、宰相の孫である異母弟の名を呼んだ。
「その声は……セシルか?」
「はい……あ、あの、えっと、部屋に入ってもいいですか?アレン兄上」
 アレンの問いかけに、扉の外側から、ひどくオドオドとした遠慮がちな、セシルの声が返ってきた。
 大人しく、控えめで、信じられないほど引っ込み思案な少年にとっては、慕っている異母兄とはいえ、誰か部屋を訪ねるというのは勇気のいることらしい。
 そんな弟の性格をよく知るアレンは、少々、大人しすぎると心配してはいるものの、年の離れた弟は可愛く、つい甘やかしてしまう。
 今も、入ってもいいですかと言ったきり、扉の前にじっと立っているセシルのために、アレンは扉を開けて、優しく声をかける。
「どうぞ。大丈夫だ。入ってくるといい」
 アレンの声に促されるようにして、セシルはようやく、部屋の中に入ってくる。
 おずおずと部屋の中に入ってきた薄茶の髪の子供――セシルは、中にいたルーファスと目が合うと、ビクッと半歩、後ずさり、異母兄であるアレンの背に隠れてしまう。だからと言って、別にセシルがルーファスのことを嫌いなわけではない。
 むしろ、尊敬する兄の友として、親しみをもってすらいる。
 それでも、兄の背中に隠れてしまうのは、ひどく気弱な性格ゆえだ。
「……こ、こんにちは。エドウィン公爵」
 その証拠にセシルは、アレンの背中から顔を半分だけだし、ルーファスに挨拶してくる。
 これでも、セシルにしては精一杯、頑張った方なのだ。
 それを理解しているルーファスは、アレンの意を汲み、兄の背に隠れたままのセシルの態度に、眉をひそめることもなく、挨拶を返す。
「少し……背が伸びられましたか?お元気そうで、なによりです。セシル殿下」
「……あ、うん。あの、エドウィン公爵も元気そうで……」
 兄の背に隠れながら、オドオドと喋るセシルを見て、異母兄弟だから、それも普通かもしれないが、相変わらず、兄であるアレン殿下とは全く似ていないな、とルーファスは思う。
 セシルの薄茶の髪も砂色の瞳も、アレンとは全く違うが、それ以上に性格が正反対なのだ。
 堂々とし、王太子として周りを引っ張っていくアレンと、気弱で、常に兄の後ろに隠れているセシル。
 言われなければ、誰も兄弟とは思うまい。
 (しかし……これでは、王族として先が思いやられるな。平民の、何の身分もない子供でも、セシル殿下よりは堂々と振る舞うだろう……)
 いつまでも、兄から離れようとしないセシルに、口には出さないが、ルーファスはいささか呆れ気味に、そう思わずにはいられない。とはいえ、幾つか同情すべき点もある。
 (セシル殿下は……老狐の、宰相の駒だからな)
 国王の側室、セシルの母である女性は、宝石やらドレスやら舞踏会やらを愛し、反面、息子に対する愛情が薄い。
 そのうえ国王である父は、息子が物心ついた頃には心を病んでおり、ほとんど部屋から出てこない。
 しかも、宰相の地位にある祖父は、政治の駒として、孫を利用しようとしている。
 また宰相派の者たちは、言うまでもない。
 こういった様々な要因が、セシルを今のような、ひどく気弱な性格にしたのだろう。
 権力争いの渦中に、望まずして放りこまれるのは、王族の常とはいえ、哀れなことではある。
「それで……いきなり、どうしたんだ?何か用事か?セシル」
 ルーファスとセシルの会話が、一段落したところで、アレンは弟にそう話しかけた。
 異母弟のセシルが、アレンの部屋を訪ねてくるのは、そう頻繁ではないにしろ、めずらしいことではないが、今日のように事前に一言もなく、いきなりということはまれだった。
 そんな兄の言葉に、いきなり部屋にきたことを、責められたと感じたのか、セシルの表情がサッと曇る。
 何気ないアレンの言葉を、ひどく深刻に受け止めたセシルは、沈んだ声で「ごめんなさい……」と言った。
「ごめんなさい……迷惑でしたか?アレン兄上」
 いささか繊細すぎる弟に、アレンは苦笑し、セシルの薄茶の頭をぽんぽんと軽く撫でながら、励ますように言った。
「考えすぎだ。昔から、お前の悪い癖だぞ。セシル……迷惑だなんて、そんなことはないさ。お前と私は、母は違っても、同じ父を持つ兄弟なんだ。だから、部屋に来るぐらいで、そう遠慮することはない。いつでも……お前が、来たい時にくればいい」
「アレン兄上……」
「わかったな?セシル」
「……はい。兄上」
 はい、とうなずいて、セシルはようやく笑顔をみせた。
 アレンもつられたように微笑し、もう一度、セシルに問いかける。
「それで?……私に、何か話したいことでもあったのか?セシル」
 アレンの問いかけに、セシルは答える代わりに、腕に抱いていた一冊の本を、「この本……」という言葉と共に、兄に手渡した。
 いきなり、本を押しつけられたアレンは、「この本は……?」と首をかしげる。
「この本は……?」
「アレン兄上、前にこの本を探していたでしょう?書庫を探してたら、さっき見つけたんです。ちょうど、その本、僕も読みたかったから……」
 首をかしげたアレンに、恩着せがましいのが嫌だったのか、セシルは少し恥ずかしそうに、早口で言う。
 本当は、十日ぐらいずっと探し回った末に、やっと見つけた本なのだが、それを兄に言う気はなかった。
 アレンは渡された本と、セシルの顔を交互に見て、「……そうか」と優しい顔でうなずく。
「……そうか。それで、わざわざ持ってきてくれたのか。ありがとう。セシル」
 敬愛する兄に礼を言われたセシルは、ぶんぶんと首を横に振り、
「い、いえ……大したことじゃ……少しでも、アレン兄上のお役に立てたのなら、その、良かったです」
と、たどたどしい口調で、でも、うれしそうに言う。
「ああ、ずっと読みたかった本だからな。見つけてきてくれて、助かった……」
 アレンは笑顔でうなずいて、もう一度、弟の頭を撫でながら続けた。
「……せっかく部屋まで来てくれたのに、すまないな。セシル……今日は、今から財務長官のところに、行かないといけないんだ」
「い、いいえ……良いんです。アレン兄上は王太子ですから、お役目が忙しいのは、僕だってわかっているつもりです」
 すまない、という異母兄の言葉に、セシルは慌てたように首を横に振る。
 相変わらずな弟に、アレンは小さく笑いながら、「また、いつでも遊びにくるといい」と言った。
「……ありがとうございます。兄上」
 そんな異母兄弟の会話を、しばらく横で見守っていたルーファスだったが、そろそろいいか、と思い、「アレン殿下……」と王太子に話しかけた。
 別に、早く屋敷に帰りたい理由もないが、長く王宮にいると、会いたくもない人間に会う可能性が、嫌でも高くなる。
「アレン殿下。それでは、私はそろそろ……」
 その声に、アレンはルーファスの方に向き直り、そうだったな、という風にうなずく。
「ああ、引き留めたようで、悪かったな。ルーファス……今日は助かった。たまには早く帰って、屋敷でのんびりするといい……」
 セラフィーネにも、よろしく……と続けかけて、アレンは口をつくんだ。
 互いを信頼する主従であっても、否、主従であればこそ、踏み込むべきではないところというのはある。
 友でもあれば、尚更だ。
「……リーヘン地方の件は、お任せください。近日中に殿下の元に、ご報告にあがります。では」
 アレンが、やや不自然に口をつぐんだのを見て、ルーファスはスッと一瞬、蒼い瞳を細めたが、結局、それには触れず、一礼し、王太子の部屋を辞した。
 部屋を出て、扉を閉める瞬間、ルーファスの蒼い瞳に映ったのは、笑顔で会話を交わすアレンとセシル……仲の良い兄弟の姿だった。
 平和そのものといったその光景が、いつ崩れさるともしれぬ砂上の楼閣であることを、彼は知っている。
 (この平穏が、いつまで続くことだろうな……)
 王太子派と宰相派が対立している以上、アレンとセシル、彼ら兄弟は、いずれ玉座を巡る争いをすることになるだろう。
 兄弟の情など関係なく、愛情は権力への狂気と代わり、血で血を洗う争いを繰り広げるのが、王宮の、否、エスティアの歴史だ。
 ――その時が来たら、アレン殿下はどうするつもりなのだろうか?
 自分を慕っている弟を、冷酷に切り捨てるのか、それとも何とか和解の道を探ろうとするのか……あるいは……
 何にせよ、アレン殿下の不憫な弟に対する情が、あだになる日が来なければいいと、ルーファスは危惧せずにはいられない。
「……」
 そうして、彼は扉を閉めると、踵を返し、王太子の部屋に背を向けた。


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