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三章  呪いの代償  7


 王太子の部屋に背を向け、ルーファスは大理石の廊下を、カツカツと足早に歩いていた。
 長身で、しかも姿勢の良い彼は、そうして、ただ歩いているだけでも人の目を引くのが常である。
 自分自身に関して言えば、さほど人の評判の気にならない、ルーファスのような男からすれば、どうでもいいことだろうが。
 広く、長く、まるで鏡のように完璧に磨き上げられた王宮の廊下では、忙しく動き回る女官やら、書類の束を抱えた文官やら、何人もの人間とすれ違うことになる。
 忙しげに廊下を歩く彼らは、ルーファスと目が合うと、会釈をするか軽く膝を折るか、あるいは気づかないフリをして無視を決めこむか、その反応は様々だ。
 すれ違いざまに、ある若い女官は頬をほんのりと赤く染め、ぼぅ……とした憧れの眼差しをルーファスに向け、彼のことを生意気な若僧と、快く思っていない大臣は苦虫を噛み潰したような顔で目を逸らす。
 また、ある文官は王太子の側近である彼に憧れと敬意のこもった目を向け、彼のせいで恋人に心変わりをされた貴族の男は、ひどい嫉妬と増悪と敵意のこもった目で、ルーファスを睨みつける。
 そんな風に、すれ違いざまに向けられる様々な視線に、ルーファスは何の感情も抱かなかった。
 好意も悪意も、敵意も羨望も嫉妬も……幼い頃から、いささか嫌気が差すほどに、大勢の者から向けられてきた。
 そんなものに、今更、心を動かされるはずもない。
 向けられる好意にしたところで、それは変わらず、まぁ悪意より少しマシという程度だ。
 ――そもそも、好意を向けてくる者たちにしたところで、自分の何を知っているというのだろうか?
 たとえ、ひねくれた考えと罵られようが、ルーファスはそう思わずにはいられない。
 公爵という高い身分や、王太子の側近という立場は、それは持たぬ者からすれば、たしかに羨ましいものなのかもしれない。
 それに加えて、ルーファス自身は決して好きではない、むしろ厭うてすらいる、父や母に似た容姿も、それなりに人目を引いている自覚はある。
 しかし……
 それを差し引いた時、主君である王太子殿下を除いて、自分に好意を寄せてくるような、奇特というか物好きな輩がいるとは到底、思えない。
 血の繋がった親族でさえ、ルーファスの存在が邪魔とみるやいなや、毒やら刺客やら様々な策を弄してくれたものだ。
 男にしろ女にしろ、人の心は変わりやすく、また誘惑に弱く、信じるには値しない。
 特に、男と女の愛など、脆く壊れやすい最たるものだ。
 ……愛ゆえに狂ってしまった、ルーファスの父や母のように。
 己に向けられる視線を、それに含まれる好意や悪意、嫉妬や羨望の数々を、冷ややかさと、わずかな皮肉をもって受け止めながら、それを表情には出さず、ルーファスは王宮の廊下を歩く。
 誰も、彼の本心を理解しようとはしない。
 それも、当然のことだ。
 ルーファス自身が、何も語らないのだから。
 そう、彼は誰にも、生まれた時から知っている屋敷の者たちや、主君と仰ぐ王太子殿下にさえ、己の抱える心の闇を語ったことはなかった。そう、誰にも――
「……」
 廊下を行き交う者たちの、さまざまな感情のこもった視線を、無表情のままやり過ごしていたルーファスだったが、視線の先にある男の姿を見つけたことで、ふっと眉をひそめた。
 表情の変化こそ乏しいが、ひそめられた眉からは、隠しきれない嫌悪感がにじみ出ている。
 嫌な奴に会ったものだ、とルーファスは心中で舌打ちした。
 (……ああ、嫌な男に会ったな)
 ルーファスの蒼い瞳に映ったのは、彼が老狐……宰相ラザールの次に、二番目か三番目に不快に思う男だ。
 いや、ある意味では、宰相よりも嫌悪感を抱かずにはいられない相手である。
 彼とは反対の方から廊下を歩いてくる、反吐が出そうなほど嫌いな男の姿を見て、ルーファスは不快さを隠そうともしなかった。
 その男とまともに顔を合わせたくないという思いから、一瞬、違う道を通ろうかと考えたルーファスだったが、それも逃げているようで、少しばかり腹立たしい。
 (あんな……不愉快、極まりない輩に逃げたと思われるのは、いささかシャクだな)
 そんな思いから、結局、そのまま真っ直ぐ、廊下を進む。
 ルーファスとしては、その嫌いな男にわざわざ好き好んで話しかける理由はなく、無視するつもりであったのだが、そうはならなかった。
 なぜなら、その男の方から、ルーファスに話しかけてきたからだ。……不愉快なことに。
「やぁ、これはこれは、エドウィン公爵じゃないか……久しぶりだな」
 甘ったるい、遊び人風の軽薄な、そうでいながら、どこか粘着質なものも感じさせる声だった。
 女たちの中には、その声を男の色気があると好む者もいるようだが、あいにくなことに、ルーファスはそうではなく、不快さしか感じない。
 声をかけられたルーファスは、仕方なしに足を止めると「エドウィン公爵じゃないか」と、話しかけてきた男の名を呼んだ。
「……ローディール侯爵」
 そこに立っていたのは、赤銅色の髪をした、四十くらいの男だった。
 がっしりとした男らしい体格と、端整というにはやや荒削りだが、まぁ優男の部類に入るであろう、甘い顔立ち。
 それでいて、その目はギラギラとした、野生的なものを感じさせる。
 一言でいうならば、どこか崩れたような、危うい魅力をただよわせた男だった。
 ……ルーファスには全く理解できないが、こういう類の男に惹かれる女は少なくないらしく、貴族たちの間では、人妻だろうが未亡人だろうが、婚約者がいようがお構いなしという、女癖が悪いと評判の男である。
 そんな男の名は、アルフォンソ=ヴァン=ローディール。
 ローディール侯爵家の当主だ。
 そして、宰相ラザールを支持する、宰相派の一人でもある。
「こんなところで会うとは、奇遇だな……また王太子殿下のところか?エドウィン公爵……職務熱心で、感心なことだ。君のような優秀な片腕がいれば、王太子殿下も安心だろう」
 その男――ローディール侯爵は、自慢の口ひげを撫でながら、ニヤニヤとした嫌らしい笑みを浮かべて、ルーファスにそう言った。
 優秀な片腕などという、心にもない世辞に、ルーファスは皮肉気に唇を歪める。
 この男、ローディールが、自分ことを陰で生意気な若僧と罵っていることを、ルーファスは知っていたし、また彼もこの男――ローディールのことを、取るに足らない無能者と蔑んでいたので、それに心を痛めることはなかった。
 それゆえに、ルーファスは氷のような眼差しをローディールに向けると、冷ややかな声で言う。
「……私が、何処で何をしてようと、貴方には関係のないことでしょう。ローディール侯爵」
 友好的な会話など、最初から望むべくもないが、ルーファスはこの男――ローディール侯爵のことを、心から嫌っていた。
 いや、蔑んでいると言ってもいい。
 宰相派に組みする者だから、というわけではない。
 否、それも無関係ではないだろうが、もっと本質的にというか、性格的にソリが合わないのだろう。
 宰相に媚びを売る、口先だけの無能者。
 それが、ルーファスのローディール侯爵の評価であり、また実際に、その通りの男であった。
 ルーファスにとっては、取るに足らない男なのだが、こうして会うたびに、嫌みったらしく話しかけてくるのには、いささか辟易する。
 相手にする価値もない者の口から、聞く価値のない言葉を聞かされるのは、なんというか時間の無駄だ。
「……君は、相変わらずだな。そういえば、結婚生活はどうだい?エドウィン公爵……美しい花々と、浮き名を流していた君には、いささか退屈だろう?」
 ルーファスの氷のような冷ややかな視線と言葉に、ローディールは一瞬、鼻白んだようだったが、こりずに言葉を続ける。
「……」
 まとも答える価値も、また必要もない問いかけだと、ルーファスは無言を貫く。
 無言を勝手に肯定と取ったのか、ローディールはくくくっと喉を鳴らして、色男らしい魅惑的な笑みを浮かべる。
 そうして、耳障りな、ねちっこい口調で続けた。
「くっくっ、やはりね……いやいや、君が結婚してからというもの、私は君に捨てられて、寂しがるご婦人方をなぐさめるのに、一苦労だ。その分、私は良い思いをさせてもらっているが」
「……」
 ルーファスの沈黙は、この男はよくもまぁ、下らないことばかり、ベラベラと喋るな……という呆れゆえのものだったのだが、ローディールの方は、そう取らなかったらしい。
 その沈黙を、図星をつかれたからと受け取ったのか、ローディールは再び愉快そうに喉を鳴らし、嘲りをふくんだ目で、ルーファスを見た。
 嘲りをふくんだ、粘着質な視線に、ルーファスは眉ひとつ動かさず、ただ冷ややかな沈黙のみを返す。
 もはや、この男と言葉を交わすことさえ面倒というか、不愉快だ。
 直接、言葉にはせずとも、二人の男がお互いを嫌い抜いているであろうことは、彼らの表情を見ていれば、一目瞭然だった。
 (……相変わらず、品というものが欠片もない男だ)
 くっくっ、と愉快そうに笑うローディールを見て、ルーファスはそう思わずにはいられない。
 人妻だろうが未亡人だろうが、きちんとした婚約者のいる女だろうが、かまわず手を出す……という女癖の悪さに関しては、ルーファス自身も他人をどうこういえるほど、今まで誠実だったわけではないし、現在もそうであるから、どうでもいい。
 この男が、どんな女と寝ていようが興味はないし、知りたくもない。
 しかし……
 この男――ローディール侯爵はつい最近、妻を亡くしたばかりのはずだ。
 まだ妻の喪があけないうちから、堂々と女の話とは、心ないというか、品というものが欠片もないと言わざるを得ないだろう。
 それのみならず、妻の喪を忘れたように、夜な夜な若い愛人との情事にふけっているらしい――というのが、お喋り好きな宮廷人たちの噂だった。
 (亡くなった、この男の奥方も、気の毒にな……喪に服すべき夫がこれでは、とても心安らかに、黄泉の国に旅立つ気になれまい……)
 ルーファスはそう、一度も会ったことのない、ローディール侯爵の妻に同情した。
 自分自身、良い夫ではないと自覚しているルーファスからしても、ローディールの態度は、妻を亡くしたばかりの夫としては、到底、褒められたものではない。
 そんな彼の軽蔑の眼差しにも、ローディールは気づいていないのか、あるいは気づいていて無視しているのか、馴れ馴れしげにルーファスの肩を叩いて、探るような目を向けてくる。
「そういえば、君に聞きたいことがあるんだが……」
 嫌いな男に、馴れ馴れし気に肩を叩かれ、ルーファスは不快そうに眉を寄せた。
 同時に、鼻についた、むせかえるような甘い甘い香りに、さらに不快感が増す。
 ローディール侯爵がつけている香水なのだろうが、きつすぎて、鼻が曲がりそうだ。
「……」
 上等な香水でも、これでは台無しだと思いながら、ルーファスはローディールに白い目を向ける。
 貴族では、男でも香水をつける者はめずらくはないが、周囲が不快に思うほどにつけるのは、いささか悪趣味だ。
 香りがきつすぎて、いい加減、顔を背けたくなってくる。
 (臭い……)
 それに加えて、ローディール侯爵からは、香水の香りの他に何やら別の臭いもしており、それらが混じりあって、悪臭としか言いようのないものになっている。
 さりげなく顔を背けていたルーファスだったが、それに気づいた時、スッ、と蒼い瞳を細めた。
 香水と混じった、いや、香水に隠された、もうひとつの臭いは……
 (臭いというか……これは、アレだな……)
 その悪臭の正体に気づいたルーファスは、胡乱な眼差しを、ローディールの方に向ける。
 ……なんというか、その臭いが、あまり、この男らしくないものだったからだ。
 そんなルーファスの思考は、ローディールの言葉によって中断された。
 むせかえるほどの香水の香りを、その身にまとわせた男は、探るような眼差しをこちらに向けてくる。
「その……セラフィーネ王女様は、どんな御方なんだ?エドウィン公爵?……あまり、というかほとんど表舞台には出てこなれない方だったから、気にはなっていたんだが。昔、舞踏会で一度、遠目にお姿をお見かけしたぐらいで……」
 そう尋ねてくるローディールの表情には、若くして高い地位にいるルーファスへの嫉妬と、彼の元へ降嫁した王女に対する興味が、ちらちらと見え隠れしている。
「……」
 ローディール侯爵の口から、セラフィーネと、妻の名が出ても、ルーファスは何も言わなかった。
 しかし、この品性の欠片もない男の口から、セラの名が出るのは、自分でもよくわからないほどに……ひどく不愉快だった。
 何かが汚されたいような、言いようのない不快感が、胸を支配する。
「前に舞踏会でお姿を拝見した時は、大人しいというか、地味というか、印象の薄い方だったが……おっと、失礼。君の奥方をけなすつもりはないんだが、少々失言だったか?それも……」
「どうでもいい雑談なら、もう失礼してもよろしいか?ローディール侯爵……夜な夜な愛人と戯れていればいい貴方と違って、貴方の無駄話に付き合っていられるほど、私はヒマではないもので……」
 ベラベラとよく回る舌だと、ローディールの中身の全くない饒舌ぶりにウンザリしつつ、ルーファスはそう言って、強引に会話を断ち切った。
 はっきり言えば、貴様と話していても、時間の無駄だという意味である。
 ――こんな馬鹿に、いつまでも付き合っていられるほど、自分はヒマではない。
「なっ……」
 遠慮の欠片もない、鋭い刃のようなルーファスの言いように、ローディールは屈辱に頬を赤くし、ひくっと顔をひきつらせた。
 図星をつかれた屈辱と、生意気な若僧と嫌っている相手に馬鹿にされた怒りが、男の唇をわなわなと震わせる。
 ローディールは激しい怒りと、屈辱がないまぜになった表情で、今にも射殺さんばかりの憎しみのこもった視線を、ルーファスへと向けた。
 しかし、そんな激しい憎しみのこもった視線にも、ルーファスは怯まないどころか、眉ひとつ動かさない。
 何事もなかったような涼しい表情で、
「――失礼する」
と、落ち着いた声で言うと、ローディールに背を向けて、さっさと歩き去った。
 そうして、二度と後ろを振り返ることはなく、ローディールはただ一人、廊下に取り残される。
 まるで、幕が下りた後、ひとり舞台に置き去りにされた、三流役者のように……。
「……あの、王太子のくっついているだけの若僧が」
 遠ざかるルーファスの背中を、凄まじい増悪のこもった目で睨みながら、ローディール侯爵はそう憎々しげに呟いた。
 ――あの生意気な若僧がっ!
 ルーファスの端整な、整いすぎて、いささか冷たい印象すら受ける容貌を、脳裏に思い浮かべて、ローディールはギリッ、と屈辱に唇を噛む。
 あんな生意気な若僧が、ただ王太子の友人というだけで、王宮で大きな顔をしているのも、氷の公爵などと称され、女たちにチヤホヤされているのも気に食わない。
 それだけでなく、こちらに愚か者を蔑むような目を向けてくるのも、まったく忌々しい……。
 何を言っても、表情すら変えず、涼しい顔をしているところなど、殺意すらわいてくる。
 それは、身勝手な嫉妬以外の何者でもなかったが、ローディールはそれを認めようとはせず、忌々しげに吐き捨てる。
「エドウィン公爵め、あの生意気な若僧が……自分だって、実の父親を屋敷から追い出すような、血も涙もない男だろうが……いつか、目に物を見せてくれる……」
 それは、誰に聞かせるつもりもない言葉だった。だが……
「おやおや……なにやら、穏やかではないですね。ローディール侯爵」
 背後からかけられた、その声に、ローディールはギョッとして振り返った。
 そうして、いつのまにか、気配もなく、そこに立っていたことに驚きつつも、声の主の名を呼んだ。
 傀儡の王に代わり、このエスティアを支配する、宰相の名を――
「……ラザール様」
 そこに立っていたのは、白髪、白髭に、裾の長い引きずるような白い服を着た、老人――宰相ラザールだった。
 宰相派の一人であるローディールが「ラザール様」と、慌てて駆け寄ろうとするのを、宰相はそれには及ばないと目で制し、ふふ、とわずかに唇の端をつり上げた。
 しかし、口元に浮かんだ笑みとは裏腹に、宰相の灰色の瞳は少しも笑っておらず、どこか妖しげな光を宿している。
 その灰色の瞳は、ルーファスの歩き去った方へと向けられていた。
 しばしの間、そうしていた宰相だったが、ふっ、と首を横に向け、ローディールの方に向き直ると、「あの男が……」と唇を開く。 
 感情の読めない、だが、独特の威圧感を持つ宰相の声に、ローディール侯爵はゴクッ、と唾をのむ。
「あの男が……エドウィン公爵のことが、殺したいほど邪魔ですか?ローディール侯爵」
「それは……」
 エドウィン公爵――ルーファスのことが、殺したいほど邪魔か?という宰相の問いに、ローディールは「それは……」と、一瞬、言いよどんだ。
 本音を言えば、答えは是であるが、それを正直に口に出すべきか否か。
 そんなローディールの迷いを察したように、宰相はホホ……と愉快そうに笑うと、「隠す必要はありませんよ」と続けた。
「隠す必要はありませんよ、ローディール侯爵……エドウィン公爵のことが、殺したいほど邪魔なのは、私も一緒ですから」
 あまりにも、はっきりと口に出されたそれに、ローディール侯爵は思わず息をのむ。
「ラザール様……」
 ですが、と宰相は続ける。
「……ですが、貴方が手を下す必要はありませんよ。ローディール侯爵」
「それは……どういう意味なのですか?ラザール様」
 何かしら、ふくむところがありそうな宰相の言葉に、ローディールは首をかしげた。
 宰相は、直接、その問いかけには答えず、その代わり、ひどく意味深な台詞を吐く。
「我々が何もせずとも、あの男、エドウィン公爵は、いずれ破滅することになるのです……そう、いずれ……」
 そう言うと、宰相は声も出さずに笑った。



「……何だ?」
 キィィィ、と車輪の軋む音に、馬車の中にいたルーファスは首をひねった。
 王宮を後にしてから、公爵家の屋敷に帰るために馬車に乗っていたのだが、その馬車が屋敷に到着する前に、急に止まったのだ。
 馬の蹄の音が聞こえなくなったことに首をかしげつつ、ルーファスが横を向いて、窓の外を見ると、やはり屋敷の門までは、まだ少しばかり距離があった。
 (……何かあったのか?)
 そうしていると、扉が開いて、御者のヒューリックが「失礼しやす。旦那様、その……」と言いながら、顔を出す。
「どうかしたのか?ヒューリック」
 御者の顔を見たルーファスが、何かあったのか?と、そう尋ねると、人の良さそうな中年の御者は、「いやぁ……」と頭をかいて言った。
「いやぁ……何でか知らねっけど、屋敷の前に見慣れねぇ馬車が停まってますて、騒がしいんでさぁ……」
「見慣れない馬車?……客人か?」
 今日は、特に来客の予定はなかったはずだが……
 少なくとも、ルーファス自身は、執事のスティーブから何も聞かされていない。
 スティーブは、執事としては非常に有能な男だから、事前に客が来ることがわかっていれば、必ず、それを屋敷の主人であるルーファスに伝えるはずだ。
 それが無かったということは、屋敷の前に停まっているという、その馬車は、急な来客なのかもしれない。
 旦那様の言葉に御者のヒューリックもうなずいて、
「ワシも、執事さんの方からは何も聞いてねっから、わからんすが……ワシがちょいと行って、様子を見てきましょうか?旦那様」
と、ルーファスに尋ねる。
「いや……それには及ばない。どうせ屋敷の前だ。俺が見てくる」
 ルーファスは首を横に振ると、心配そうな御者をその場に残し、馬車を降りると、屋敷の門の方へと向かった。
 門の前には、見慣れない黒い馬車が停められていた。
 (あれは、どこの家の馬車だ……?)
 そう思いながら、ルーファスが馬車の方に歩み寄った時、 馬車の扉が開いて、 中から人が降りてくる。
 馬車の扉から、見知らぬ男に肩を支えられるようにして、危うい、おぼつかない足取りで出てきた、亜麻色の髪の少女の姿を目にした瞬間、ルーファスは少々驚いた風に、目を見開いた。
「……セラ?」
 見知らぬ、赤髪の男に支えられるようにして、馬車から降りてきた亜麻色の髪の娘は――彼の妻であるセラだった。
 遠目にも、血の気の失せた青白い顔をしたセラは、ふらふらと、今にも崩れ落ちそうな危うい足取りで、馬車から降りる。と思えば、数歩、進んだところで、いきなりヨロめいて倒れそうになり、それを慌てて、隣にいた赤髪の男に支えられる。
 (……誰だ?あの男は?)
 セラの隣にいる赤髪の男に、ルーファスはなぜか、理由のわからない苛立ちを感じる。
 気に食わない、とでもいうか。
 自分でも持て余すような、よくわからない感情だった。
「……」
 ルーファスが無言で、セラたちの方へと近寄ると、馬車からもう一人、小柄な人影が降りてくるのが、目に映った。
 太陽にきらきらと光る金髪と、一見では、少女のようにも見える中性的な容姿……
 ミカエルだ。
 従者のミカエルは、馬車の段差を飛び降りると、慌ててセラの方に駆け寄って、ふらつく彼女の肩を支える。
 そうして、ミカエルは心配そうな表情で、セラに何事かを話しかけているようだった。
 少々、距離があるせいで、その会話の内容はルーファスの耳には届かないが、おそらく「大丈夫ですか?」とか「気分は?」とか、そんなところだろう。
 わざわざ説明されずとも、セラの今朝にも増してひどい顔色と、ふらふらした足取りを見れば、具合が悪いことは、すぐに察せられる。
 今までどこに行っていたのか?とか、セラの隣にいる赤髪の男は何者なんだ?とか、尋ねたいことは色々あったが、まずは事情を聞くことが先決だと思い、ルーファスはそちらに歩み寄る。
 そして、距離が近づいたところで、「……ミカエル」と従者の名を呼ぶ。
「――ミカエル」
 ルーファスの呼びかけに、セラの横にいたミカエルが、はっと顔を上げる。
 淡い水色の瞳にルーファスの姿を映すと、ミカエルは「旦那様っ!」と声を上げて、ルーファスの方に駆け寄ってきた。
「ミカエル……何があった?俺に、説明してくれ」
 駆け寄ってきた従者の少年に、主人であるルーファスは再度、ミカエルと呼びかけると、事態の説明を促す。
「あ、はい。あの……」
 ミカエルはちらっ、とセラの方に気遣わしげな視線を向け、ぐったりとした様子のセラに不安そうな表情をした後、ルーファスの方に向き直り、手短に、要点だけをかいつまんで今日あった出来事を話した。
 セラと二人で、市場に散歩に出かけたこと。
 クラリック橋のところで、川から若い女の死体が上がったこと。
 人混みに流されるようにして、セラと二人、橋の方に行ってしまい、そこで川から引き上げられた、女の死体を見てしまったこと。
 その女の死体を見たセラが「リーザ……」と呟いたっきり、真っ青な顔でぶるぶる震えて、地面に座りこんだまま、立てなくなってしまったこと。
 最後に、そんなこんなで途方に暮れたミカエルに、親切に手を差し伸べてくれた、赤髪の騎士のこと……。
「……なるほど。大方の事情は、わかった」
 ミカエルの話を聞き終えたルーファスは、納得したように、わかった、とうなずく。
「あの、旦那様……」
 今日のことを喋り終えると、ミカエルは拳を握りしめ、後悔のにじむ表情でルーファスを見た。
「何だ?」
 ルーファスがそう話の続きを促すと、ミカエルは口元を引き結び、真剣な表情で「申し訳ありません」と、頭を垂れる。
「申し訳ありません。旦那様……こうなったのは、僕の責任です。僕が、ちゃんと奥方様のそばについていなかったから……」
 ミカエルには、後悔があった。
 自分がついていながら、奥方様をあんな目に合わせてしまったという、後悔の念が。
「いや……別にお前のせいではないから、気にするな」
 ミカエルの謝罪に、ルーファスは気にするな、と首を横に振る。
 セラのことは、別にミカエルのせいではないし、そもそも過ぎたことを、いつまでもぐたぐだと言っても、あまり意味がない。
「ですけど……」
「くどいぞ。気にするなと言ったら、気にするな」
「……はい」
 年齢の割りに、責任感の強い従者は、いまいち納得していないようだったが、もう一度、気にするな、とルーファスに言われたことで、やや複雑そうな表情ながらも、「……はい」と首を縦に振る。
「それより、お前が助けてもらったというのは、あの赤髪の方か?……ミカエル?」
「あ、はい。そうです」
 それより、と話題を変えると、ルーファスは数歩、セラの方へと歩み寄り、彼女の横にいる赤髪の男の前に立った。
 ――騎士か、とルーファスは思う。
 遠目にはわからなかったが、その赤髪の男は騎士団の制服を着ており、腰には剣を帯びていた。
 炎のような赤髪に、それとは対照的な、落ち着いた深緑の瞳。
 顔の半分ほどをおおう、立派な髭を生やしているのだが、若々しい顔立ちには余り似合ってはいない。
 視線を逸らさず、真っ直ぐにこちらを見てくるあたりは、そういう性格なのだろう。
 見た目の印象でしかないが、正直そうな男だった。
「騎士殿……」
 名前がわからないので、ルーファスは赤髪の騎士に、騎士殿、とそう呼びかけた。
 そうして、何だ?という表情をする騎士に、真面目な顔で礼を言う。
「騎士殿……うちの妻と従者が迷惑をかけたようで、すまなかった。助けていただいて、感謝する」
 普段、敵対している相手には、容赦のない言動を取ることも多いルーファスだが、本当の意味で礼儀知らずなわけではない。
 まともに礼を言うべき時ぐらいは、わきまえている。
 礼を言われた赤髪の騎士――ハロルドは、いや、と首を横に振り、言葉を続けた。
「いや、騎士として、当然のことをしたまでです。それに……奥方が気分が悪くなられたのも、無理もないことだ。川で上がった遺体は、若い娘のものにしては、余りにも可哀想な有り様で……大の男でも、目を背けたくなるくらいでしたから……」
 喋りながら、その哀れな亡骸のことを思い、彼……ハロルドは沈痛な面持ちになる。
 そんな彼のそばでは、青ざめた顔で、ぐったりとしたセラの背中を、ミカエルが心配そうにさすっていた。
 ハロルドの言葉にうなずくと、ルーファスは「ミカエル!」と、従者の名を呼ぶ。
「ミカエル!」
「あ……はい。何でしょう?旦那様」
 主人に名を呼ばれたミカエルは、セラの背中をさすっていた手を止めて、顔を上げる。
 そうした従者に、ルーファスは命じた。
「騎士殿を、応接間の方に、ご案内してくれ。それから、執事スティーブに言って、お茶の支度を」
「いや、私は……」
 ルーファスの言葉に、そんなつもりではなかったのか、ハロルドは首を横に振ろうとするが、彼が何か言う前に、ミカエルが「はい!」と応じた。
「はい!わかりました……あの、奥方様は?」
 はい、と言った後、ミカエルはそう言って、セラの方を見た。
「……セラのことなら、心配するな。俺が、寝台まで連れていく」
 ルーファスがそう言うと、ミカエルは少し安心したような顔で「そうですか。旦那様が」と言って、ハロルドの方に歩み寄ると、彼に話しかけた。
「騎士様、応接間はこちらです。どうぞ、屋敷の中へ」
「あ……ああ」
 そうして、ハロルドはミカエルに案内されて、屋敷の中へと歩いていった。
 彼ら二人の姿が、屋敷の方に消えていくのを視界の端に映し、ルーファスはセラの真正面に立つと、「……セラ」と妻の名を、彼女がそう呼ばれたいと、望む名を呼ぶ。
「……セラ」
 先ほどから、ずっと気分が優れないだろう。
 セラは膝を折り、ぐったりと、まるで猫のように体を丸めている。
 血の気の失せた、青白い顔は、いつもよりも更に儚げに見えた。
 そのまぶたは閉じられ、苦しいのか、時折、きつく眉が寄せられる。
 セラ、というルーファスの声に、彼女はゆるゆると閉じていたまぶたを上げ、彼の方を見た。
 まつげが震え、木漏れ日を想わせる、翠の瞳が彼の姿を映す。
 そうして、唇を開くと、かすれたような、小さな声で彼の名を呼んだ。
「ルー……ルーファス?」
 セラの顔を見たルーファスはため息をついて、「今朝にも増して、ひどい顔色だな……立てるか?」と、手を差し伸べる。
「……うん。平気だよ。ちょっと、クラっときただけだから……」
 言葉だけは気丈に、大丈夫だと言ったがものの、その声には力がなかった。
 ルーファスの手を取って、何とか立ち上がろうとしたものの、体がついていかないのか、セラは辛そうに眉を寄せた。
 それを見たルーファスは、もういい、と首を横に振る。
「もういい。立てないなら、無理して立とうとするな。セラ……悪化するぞ」
「ううん……少し休めば、たぶん歩ける……と思う。それより、ルーファス……」
 セラはううん、と小さく首を横に振ると、ルーファス、と彼の名を呼ぶ。
「……何だ?」
 何か言いたげなセラに、この状況で何を言うつもりだと思いつつ、ルーファスはそう尋ねる。
 セラは、あのね、とかすれがちな声で言い、真剣な表情で続けた。
「あのね……お願いだから、今日のことで、ミカエルのことを責めないで」
「……」
 無言のルーファスに、セラは青白い顔で、必死に言う。
 その様は、痛々しくさえあった。
「ミカエルは……あの子は全く、悪くないの。優しいから、あたしのワガママに、付き合ってくれただけなんだから。だから……」
「……」
「だから……」
「……言いたいことは、それだけか?」
 しばらくの間、黙ってセラの言葉を聞いていたルーファスだが、唇を開いて、「……言いたいことは、それだけか?」と問う。
 少しばかり、複雑そうな声だった。
 ルーファスにそう言われたセラは、「……へ?」と一瞬、きょとんとした顔をした後、ああ、と苦笑する。
「ああ……迷惑をかけて、ごめんなさい。ルーファス……勝手に、ふらふら散歩に出かけたあげくに、これだもんね。忙しい貴方が怒るのも、当然だと思う……」
「……違う。俺が言いたいのは、そんなことじゃない」
 セラの言葉を、ルーファスはすぐに否定する。
 別に、謝ってもらいたかったわけではない。
 自分が言いたかったのは……
「……違うの?」
 困惑したように、セラは言う。
「――もういい」
 胸のうちに、複雑なものを感じつつも、ルーファスはそう強引に会話を打ち切った。
 決して、謝らせたかったわけでも、困惑させたかったわけでもない。
 しかし、ではセラが何と言えば、己は納得できたというのか、ルーファス自身にすら、その答えはわからなかった。
 ただ、胸に刺さった棘のような感情を持て余す。
「……」
 ルーファスは一度、息を吐くと、セラに合わせて、身をかがめた。
「……?ルーファス?」
「動くな。じっとしていろ」
 不思議そうな顔をするセラに、動くな、と言うと、ルーファスは彼女の背を支え、膝の裏に手をいれて、易々と、何の苦もなくセラを抱き上げる。
 (軽いな……)
 身長差、体格差を考えれば、彼にとっては造作もないことだ。
 ルーファスとしては、歩けないなら、抱いて運べばいい、というくらいの安易な考えだったのだが、何の心の準備もなく、いきなり抱き上げられたセラは冷静ではいられなかった。
 男の腕に抱かれ、いきなり視界の変わったセラは、目を白黒させる。
 驚きのあまり、体調が悪いことすら、一瞬、忘れたようだった。
「……っ!」
 腕の中でジタバタするセラに、ルーファスは冷静に忠告する。
「そう暴れるな。落ちるぞ」
「暴れないから、おろして!自分で歩ける。自分で歩けるから……」
 驚きで、体調の悪さも忘れたように、大きな声を出していたセラだっだが、その声は段々と小さく……弱々しいものになっていく。
 青白い顔で、自分で歩けると意地を張るセラに、ルーファスは面倒なことを言う、と内心、ため息をつく。
 そうして、彼は腕の中のセラの耳元に唇を寄せると、「セラ……」と低い声で囁いた。
「……あまり暴れると、落とすぞ」
 勿論、本気で落とす気などあるはずもないのだが、その台詞はルーファスが思っていた以上の効果を発揮し、腕の中のセラはびくっと小さく動いたっきり、大人しくなる。
 それっきり、無言になった彼女に、ルーファスは「……セラ」と声をかける。
「……セラ。何があった?」
「……」
 悲しげに目を伏せたまま、何も言おうとしないセラに、ルーファスはもう一度、息を吐くと、彼女を抱き上げたまま、ゆっくりと歩を進める。
「このまま寝台まで連れていくぞ……いいな?」
「……」
 セラの返事がないことを了承と取り、ルーファスは屋敷の方へと向かう。
 腕の中のセラは、華奢で、小さく震えていて、少し力をいれれば壊れてしまいそうに思えた。だが、そう思いながらも、ルーファスが腕の力を緩める気になれないのは、腕の中で震える少女が、あまりにも儚げに思えるからだろう。
 少し目を離せば、夢か幻のように、どこかに消えてしまいそうだった。
 (馬鹿げた想像だ……下らない)
 そう思いながらも、ルーファスはセラを抱いた腕に、少しばかり力をこめずにはいられなかった。


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