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三章  呪いの代償  8


 ルーファスは腕にしっかりとセラを抱いたまま、屋敷の中に入って、二階へと続く階段を上り、彼女を部屋まで運ぼうとする。
 青白い顔をしたセラは、最初こそ、ルーファスの腕の中にいることに、声を上げ、恥ずかしげに抵抗したが、本気で床に落とされてはたまらないと思ったのか、すぐに暴れるのを止め、大人しくなる。
 やがて、仕方ないと諦めたのか、大人しくなったセラは、おずおず……と遠慮がちに、ルーファスの方へと手を伸ばし、ぎゅっと彼に掴まる。
 恥ずかしいと思う気持ちは、まだセラの心から消えてはいなかったが、万が一、暴れたことで、ルーファスの手元が狂って、床に叩きつけられるよりはマシだった。
 ……まさか、さっきの彼の言葉を本気にしたわけではなかったが。
 しかし、そうはいっても、セラは小さな子供ではないし、いかに身長差、体格差があるといっても、人を一人、抱き抱えて運ぶのは、容易なことではないだろう。
 ……重くはないのだろうか?
 やはり、多少、ふらついていても、自分で歩いた方が良いのでは?
 そう思いながら、セラがルーファスの方を見ると、彼はいつもと同じ、重さなど欠片も感じていないような涼しい顔をしていた。
 また彼女を抱える腕も力強く、その歩調も安定していて、ぐらつく様子もない。
 (ああ、大丈夫みたい……)
 セラは少しホッとして、翠の瞳を閉じ、彼のするがままに任せる。
「……」
 自分を支えるルーファスの腕と、そこから伝わってくる彼の体温に、セラはなぜか少し、ほんの少しだけ安心した。

 セラを腕に抱いたまま、ルーファスは涼しい顔で階段を上り、二階の彼女の部屋まで、セラを連れていった。
 彼女は重くはないかと心配していたが、日頃、武官でもないのに鍛練を怠らないルーファスにとっては、少女一人の体重など大したものではなく、想像していたよりも華奢で、軽かった。
 むしろ、普段、まともに食事をしているのかと、問いたくなるくらいに軽い。
 青ざめて、辛そうに震えている今だから、余計にそう感じるのかもしれないが。
 セラの部屋に入ると、ルーファスは足早に寝台へと歩み寄り、真っ白なシーツの上にそっと、彼女の体をおろした。
 長い亜麻色の髪が、ふわり、と枕に広がる。
 寝台に横たわったセラが、なおも青ざめて震えていたので、ルーファスは手近にあった毛布を手に取ると、震える彼女の体の上にかけてやった。
 そうした時、セラがゆるゆると閉じていた瞼を上げ、翠の瞳に彼の姿を映すと、小さく、小さく唇を動かす。
「……ありがとう。ルーファス」
 小さな声で、辛そうに喋るセラに、ルーファスは形の良い眉をひそめた。
 礼なんぞ、どうでもいいから、とにかく寝ていろと言ってやりたい。
 ルーファスは呆れたように息を吐き、無理をするな、とやや厳しい、聞きようによっては、冷たくさえ聞こえる声で言った。
「そんなに無理して、喋るな。セラ……とにかく、寝ていろ。わかったな?」
 言葉にこめられた感情はどうあれ、ルーファスの、人から氷のようだと評される彼の口から、発せられる言葉は、その冷ややかな美貌と相まって、時として、いささか威圧的に耳に響く。
 低く、重みのある声も、そんな印象に、拍車をかけていた。
 しかし、セラは彼のそんな態度を全く気にした様子もなく、うん、と素直にうなずく。
「うん。心配してくれて、ありがとう」
「……今の会話で俺は、貴女が全く理解していないことだけを、理解した」
「……うん?」
「いや……もういい。気にするな」
 ルーファスはもういい、と首を横に振ると、寝台の横の椅子に腰をおろした。
 そうして、彼は寝台に横たわるセラの、血の気の失せた、青白い横顔を見つめる。
 寝台の上で、目を閉じ、血の気の失せた顔で眠るセラの姿は、遠慮のない言い方をするならば、まるで死人のようで……
 その少女の胸が、息をするたび、規則正しく上下していることに、ルーファスは柄にもなく、そう柄にもなく安堵した。
 彼自身は、決して素直には認めないだろうが、不安というか、心配だったのだ。
 別段、そう深刻なものではないとはわかってはいても、だ。
 セラの顔色は相変わらず、最悪と言っていいが、実際のところは、ただの貧血か何かだろうと、ルーファスは思う。
 体がふらついて、顔色が悪いだけで、わざわざ医者を呼ぶほどではない。
 しばらく休めば、体力も回復するはずだ。
 一緒にいたミカエルの話によれば、セラが気分が悪くなったのは、クラリック橋のところで、川から引き上げられた、若い女の無惨な死体を見たことが原因だったそうだから、おそらく、肉体的なものより、精神的なものの方が大きいのだろう。
 寒くもないのに、寝台の少女がいまだに小さく震えているのは、それが理由に違いない。
 ……自分と同じ年頃の若い女が、無惨な死体となっているのを見たことが、そこまで衝撃であったのだろうか?
 赤の他人の生死でそこまで動揺するなど、ルーファスには理解し難い感情であるが、女というのは、そういう生き物なのかもしれない。
 (ああ、そういえば……ミカエルが、気になることを言っていたな……)
 そう考えたところで、ルーファスはさっき、従者の少年が口にしていたことを思い出す。
 川から橋に引き上げられた、若い女の無惨な死体を見たセラが、呆然とした顔で「リーザ……まさか、リーザなの?」と呟いていたということを。
 そうして、近くにいた赤髪の騎士が、困り顔の従者を見かねて、手を貸してくれるまで、セラは蒼白な顔で、その場に座りこんでいたのだと。
 (ミカエルの言葉の通りだとするならば、その川から上がったという若い女の死体は、セラと無関係ではなさそうだな……)
 (リーザというのは、一体、誰の名だ?)
 (その、死んだ女の名前か……?)
 ルーファスの思考は、コンコン、と小さく、遠慮がちに扉を叩く音によって中断された。
 扉を叩く音と同時に、「奥方……?」と不安そうな、若い女の声がする。
 ルーファスは椅子から立ち上がると、扉を開け、部屋を騒がせぬよう、廊下に出た。
「あっ、旦那様……」
「……メリッサか」
 廊下の、セラの部屋の扉の前に立っていたのは、金髪碧眼の若い女中……メリッサだった。
 上にマグカップをのせた、銀のトレーを手にした彼女は、普段の騒がしいほどの明るさはなりをひそめ、不安気な、心配そうな顔をしている。
 奥方であるセラ付きの彼女としては、セラの具合が心配なのだろう。
 そうでなくとも、この女中頭の姪っ子である少女と、屋敷の奥方であるセラは、身分の差を気にしていないように、友人のように仲が良い。
 セラの部屋の扉を見つめる、メリッサの表情はやや硬く、その青い瞳は不安そうに揺れていた。
 そんな女中の少女の気持ちは察せられたので、ルーファスは「何か用か?メリッサ」と、話しやすいよう声をかけてやる。
 彼に声をかけられたメリッサは、「あの……」と言いながら、銀のトレーの上にのせていたマグカップを、ルーファスに手渡した。
「あの、ソフィーおばさん、女中頭がこれを奥方様にって……蜂蜜入りのホットミルクです。奥方様、甘いものが好きだから」
 マグカップを手渡しながら、メリッサは言う。
 彼女の言葉通り、カップの中身は、乳白色、ホットミルクで満たされていた。
 体調の優れないセラを気遣って、女中頭のソフィーが気を利かせたのだろう。
「そうか、気が利くな」
 ルーファスがマグカップを受けとると、メリッサはセラの部屋の扉を見ながら、ずっと気にしていたであろうことを、夫である彼に尋ねる。
「あの、旦那様、セラ様……じゃなかった、奥方様のご様子は?」
「ただの貧血だろう。心配ない」
 ルーファスがそう答えると、メリッサはホッと安心したように、小さく微笑む。
「そうですか……良かった」
 安心したように、そう言ったメリッサは、もう少し、何か言いたそうだったが、あまり長々と話すものではないと思い直したのだろう。
 主人であるルーファスに、ペコッ、と一礼すると、メリッサは銀のトレーを脇に抱えて、一階へと、階段を下りていった。
 それを見て、渡されたマグカップ、ホットミルクを手にしたルーファスは、またセラの部屋へと戻る。
 中に入って、扉を閉めた時、寝台のセラがもぞもぞと動き、毛布にくるまったまま、「んん……」と半身を起こす。
 毛布を肩にかけたまま、まだ辛そうに、なんとか身を起こしたセラは、パチパチと幾度も瞬きを繰り返すと、ぼんやりした、焦点の合わない目で、ルーファスの方を見る。
 青白い顔の中で、その翠の瞳だけが美しく、不思議な虹彩を放っていた。
「……ルーファス?」
 まぶたを閉じていただけで、深く眠っていたわけではないだろうから、寝ぼけているとまではいかないが、肩に毛布をかけたまま、寝台で半身を起こしたセラは、ボゥ……とした、ぼんやりとした様子だった。
 ルーファスはそんな彼女のそばに歩み寄り、「少しは落ち着いたか?」と声をかける。
 そうして、メリッサから渡されたホットミルクの入ったマグカップを、寝台のセラに渡した。
 彼の手から、マグカップを受け取ったセラは「これ……?」と、小さく首をかしげる。
「これ……?」
「ホットミルクだ。今、メリッサが持ってきてくれた」
「そう、メリッサが……」
「ああ。飲めそうか?」
 飲めそうか、というルーファスの問いに、セラは「……ん」とうなずくと、マグカップをかたむけ、ちびちび、と蜂蜜入りのホットミルクを、喉に流しこむ。
 マグカップの中身を、半分ほど減らしたところで、セラは「……甘い」と声をもらした。
 そうして、また、ゆっくりとホットミルクを口に運ぶ。
 少しして、マグカップの中身が空になり、セラが落ち着いたところで、ルーファスは「それで……」と話を切り出した。
「――それで?何があった?」
 ルーファスの問いかけに、セラはビクッ、と身を強張らせた。
 彼女は口を開きかけ、気持ちの整理がつかないのか、また口をつぐむ。
「……」
 セラが黙り込んでいるところを見ると、おそらく、あまり話したくないことなのだろうということは察せられたが、だからといって、そのまま触れないでおいてやる気は、ルーファスにはなかった。
 ――クラリック橋のところで、川から引き上げられた女の死体、それと何か関わりがあるのか?
 遅かれ早かれ、いずれ聞かねばならないことであるし、そこまで妻を甘やかす義理は、彼にはない。
 唇を閉じ、無言を貫くセラに、ルーファスは問いかけを重ねる。
「ミカエルから聞いた、クラリック橋のところで、女の死体を見たそうだな?」
「……」
「まさかとは思うが、知り合いか?」
「……」
「……リーザというのは、誰だ?」
 そう尋ねた時、セラは小さく震えながら「お願いだから、女の死体なんて風に、呼ばないで……あの娘は、あの娘の名前は、リーザよ……」と、絞り出すような声で言った。
「川から引き上げられた、あの娘の名前は、リーザというの……」
 そう言いながら、セラはクラリック橋のところで見た、女の……リーザの亡骸のことを、頭に思い浮かべる。
 川から引き上げられたリーザは、片腕と片足が無惨にちぎられていて、無事な手足にも、獣の歯形のようなものが幾つもついていた……
 栗色の髪や体からは、ピチャピチャ、と水がしたたって……
 顔も半分はえぐられていて、無事だった半分には、はっきりと恐怖が刻まれていた……
 ああ、ああ、リーザは、どれほど苦しかっただろう。
 痛かっただろう。
 恐怖に苦しんだだろう。
 それを想像するだけで、セラの胸は、苦しいほどに締めつけられる。
 あの娘が、あの無惨な亡骸がリーザだなんて、信じられない。信じたくない!
 しかし、いくらセラがそう願ったとしても、川から引き上げられた女の亡骸には、たしかにリーザの面影があり、昔の記憶と重なる……
 ぐっと唇を噛み、泣きそうになるのをこらえて、セラは「リーザは……」と語りだす。
「リーザは、鍛冶職人の娘で……昔、あたしが子供だった頃に、近所に住んでいた友達だったの……離れてしまってから、もう何年も会っていなかったけれど……」
 昔の話だ。
 セラが、小さな子供だった頃の。
 まだセラが王女として、王宮に連れていかれる前、町で今は亡き母と二人、ただの平民として、細々と暮らしていた時の話である。
 その頃、セラの家の近所に住んでいたのが、リーザと両親、弟や妹たちだった。
 まるで逃げるように転々と住む場所を変え、ひっそりと隠れるように暮らしていたセラたち母子に、リーザの一家は母子だけでは心細かろうと、何かと親切にしてくれた。
 中でも、長女のリーザはセラと同じ歳ということもあり、すぐに仲良く、友達になった。
 物心ついた頃から、母と二人、常に逃げるように住処を変え続けてきたセラには、友達というものがほとんどいなかったが、五人兄弟の長女で面倒見が良く、また明るく、優しい性格だったリーザは、ひとりぼっちだったセラにも手を差し伸べ、仲間に入れてくれた。
 他所から来たセラが、なかなか子供たちの輪に馴染めず、隅っこでじっとしていると、にっこりと笑って、手を引いてくれるのが、リーザだった。
「ほら、こっちにおいでよ!セラ!」
 淡い栗色の髪をリボンで束ねた、小さな女の子……リーザがそう言って、手を差し伸べてくれるたび、セラはおずおずと、その小さな手を握り返したものだった。
 その手はいつだって、優しくて、あたたかかった。
 セラの母は、彼女が外で子供たちと遊ぶことを、あまり快くは思わなかったけれど、それでもたまには許してくれた。
 そんな風に母が許してくれた時、セラはよくリーザと、彼女の弟や妹たちと遊んだ。
 明るくて、面倒見の良かったリーザは子供たちのまとめ役で、いつも人の輪の中心にいたけれど、それでも彼女はいつも友達として、セラのことを気にかけてくれた。
「ねぇ、セラ……」
 その後、セラたち母子は、また遠くに引っ越すことになって、リーザとは離れてしまったけれど、セラが彼女のことを忘れたことはなかった。
 たとえ、もう二度と会えなくても、大切にしたい、忘れたくない記憶だったのだ。それなのに……
「――セラ」
 リーザの声を、今も覚えている。
 でも、彼女はもう喋らない。
 リーザは、死んでしまった。もう二度と、会えない……死んでしまった彼女は、大事にしていた家族にも、もう二度と会えないのだ……
 毛布をきつく握りしめ、セラは続ける。
「あたしの知っているリーザは、明るくて、体の弱かったお母さんに代わって、弟や妹の面倒を見ているような、優しい子で……」
「……」
 ルーファスは黙って、セラの話を聞いていた。
 女官たちの噂や、ミカエルの報告から、セラが昔、王女として認められておらず、市井で暮らしていたことがあるとは聞いてはいたが、その頃の話を直接、本人から聞くのは初めてだった。
 彼は、セラのことを何も知らない。
 しかし、今、悲痛な顔をしたセラに、そのことを口にするのは、ためらわれる。
「あんな……あんな死に方をしていい娘じゃなかったのに……」
 運命の理不尽さを嘆くように言い、セラは泣きそうな顔を隠すように、毛布をかぶる。
 その肩は、小さく震えていた。
 ルーファスはため息をついて、落ち着かせるように、毛布にくるまったセラの背中を撫でてやる。
 しばらくの間、セラが落ち着くまで、そうしていた。
「……ありがとう」
 しばらくして、セラはようやく、くるまっていた毛布から顔を出し、ルーファスの方を向いた。
 翠の瞳が、少し泣いたようにうるんでいる。
「いや……」
 ルーファスは彼にしては珍しく、言葉をにごし、首を横に振る。
 今のは別に、優しさや親切心からした行為じゃない。
 無論、妻に対する、愛情からでもない。
 ルーファスが、青ざめた顔で震える女が苦手だという、ただそれだけのことである。……子供の頃に、死んだ母を思い出すから、だ。
「……」
 ルーファスが幼い時に死んだ彼の母は、病弱な人だった。
 些細なことで熱を出し、よく寝台で伏せっていたものだ。
 青白い顔をして、静かに眠っている母……
 しかし、そこに幼かったルーファスが近づくと、母はいつも半狂乱になって暴れたものだ。
「嫌あああぁぁぁ!こっちに来ないで!」
「許して、お父様っ!許して、アルファス!許して!」
「お願い、こっちに来ないで!」
 ルーファスを見る、母の蒼い瞳は、いつだって悲しみに満ちていた。
 あの時の母の叫びは、いまだ耳の奥に残っている。
 ……全て、昔のことだ。
 今更、思い出したいような記憶じゃない。
「……ルーファス?」
 複雑な気持ちが、顔に出ていたのだろうか。
 セラが不思議そうな表情で、こちらを見ていた。
 ルーファスはスッ、と意識して、いつもの冷ややかな無表情を作ると、何でもない、と首を横に振る。
「――何でもない」
 彼の答えに、セラは納得した風ではなかったが、それ以上、踏み込んでくることもなかった。
「……」
 ルーファスは椅子から立ち上がると、そろそろ行かねばな、と扉の方へと向かう。
 さっきから一階の応接間に、セラとミカエルを屋敷まで連れてきてくれた騎士を、待たせている。
 それほど時間は経っていないが、恩のある客人を待たせることは、礼儀に反する。
 執事のスティーブに、客人の相手をしてくれるようには頼んであるが、それでもあまり待たせては、あの騎士に悪い。
 扉に手をかけると、ルーファスはセラの方を振り返った。
「セラ……悪いことはいわないから、しばらく寝ていろ。自覚はないかもしれんが、ひどい顔色だぞ」
 憂い顔で、セラは首を横に振る。
「……眠れないよ。あの娘の……リーザのことを思うと」
「眠れなくても、寝るしかない時もある。今がその時だ」
 ルーファスが淡々とした声で諭すと、セラも自分の体調の悪さは自覚しているのか、そうだね、とうなずいた。
「そうだね……ああ、でも、ここまで連れてきてくれた騎士の人にお礼を言わないと」
 あの赤髪の、お髭の騎士さんに……
 そう言ったセラに、ルーファスは「俺が代わりに、言っておく」と、答えた。
「俺が代わりに、言っておく。いいから、寝ていろ」
「……うん」
 今度は、セラも素直にうなずく。
 彼女が素直にうなずいたのを見て、ルーファスはセラの部屋を出ると、階段を下り、騎士を待たせている応接間へと向かった。


 階段を下り、一階の応接間の扉に手をかけ、半分ほど扉を開けたルーファスの目に映ったのは、長椅子にたった一人、何やら居心地悪そうに座る、赤髪の騎士の姿だった。
 アイボリーを基調とした、豪奢だが、悪趣味になりすぎない程度に品良く整えられた応接間の中央で、高価そうな家具に囲まれた赤髪の青年――ハロルドは、何やら落ち着かなさげに、深緑の瞳で、豪奢な室内を見回していた。
 騎士らしく、ハロルドの姿勢はピンと伸びていて、また体格も均整のとれた立派なものなのだが、その振る舞いは、お世辞にも落ち着いているとは言い難い。
 時折、こっそり賛嘆のため息をついては、落ち着こうと髭を撫でる。
 ハロルドのそれは、豪奢な応接間の雰囲気や、高価そうな家具の数々に、場違いというか……何とも言い難い、居心地の悪さを感じたという、普段、お世辞にも綺麗とは言えぬ官舎暮らしに慣れた騎士としては、普通の反応であった。だが、あいにくと、根っからの貴族であるルーファスに、そういったハロルドの葛藤は伝わらず、どうにも落ち着かぬ男だな、という印象を抱かせただけだった。
 そんなことを思いながら、ルーファスは扉を開けて、応接間に足を踏み入れる。
「――お待たせして、申し訳ない」
 そう詫びながら、ルーファスが応接間に入ると、長椅子のハロルドが顔を上げて、深緑の瞳でこちらの方を見た。
 先ほどの落ち着かなさはともかく、こちらを見るハロルドの顔つきは、騎士らしく精悍で堂々としたもので、ルーファスの受けた印象は、そう悪いものではなかった。
 ……はっきり言って、髭は全く、いささか気の毒なまでに似合っていないが。
「いえ、それほど待ってはいませんので、お気になさらず……」
 待たせて申し訳ない、というルーファスの詫びに、ハロルドは堅い、生真面目そうな声でそう答えると、首を横に振った。
「失礼した」
 ルーファスはそう言うと、ハロルドと向かい合う形で、椅子に腰をおろす。
 そうした彼に、部屋の隅にいた執事のスティーブが「旦那様……」と、話しかける。
「旦那様。何かお飲み物を、お持ちいたしますか?」
 老執事の問いかけに、ルーファスは「いや」と答えた。
「いや、俺はいい。それより、すまないが、二階のセラに薬湯を持っていってやってくれるか?スティーブ……騎士殿は?」
 ルーファスに問われたハロルドは、先ほど出された、目の前の紅茶にもほとんど手をつけていなかったので、「いや、私は……」と首を横に振る。
 さっき、一口だけ、紅茶を飲んでみたのだが、どうにも味が上品すぎて、彼の好みには合わなかった。
 ハロルド自身も、地位は低いながらも貴族の端くれではあるのだが、彼の実家、名ばかり貴族である貧乏男爵家と、国でも五指に入る大貴族であるエドウィン公爵家では、その暮らし向きには、天と地ほどの開きがある。とはいえ、ハロルド自身は貴族としての暮らしよりも、ただの騎士として、民の暮らしを守る方に意義を見いだすような男だったので、それを不満に思うこともなかったが。
「かしこまりました。旦那様……それでは、失礼いたします」
 スティーブはそう言って一礼すると、退出し、部屋の扉を閉めた。
 そうしたことで、広々とした応接間には、ルーファスとハロルド、二人だけしかいなくなる。
 互いに遠慮したわけでもないのだが、何となく黙っていると、先にハロルドが口を開く。
「その、奥方のご体調は、いかがですか?」
 妻の、セラの具合を尋ねられたルーファスはああ、とうなずいて、
「ああ、ただの貧血だろう。大事ない。ご心配をおかけして、申し訳なかった」
と、答える。
 その言葉にハロルドは、ただ礼儀だけでもなさそうな微笑を浮かべ、深緑の瞳を細めて、それは良かった、とうなずいた。
 髭のせいで、なにやら年齢不詳な雰囲気をかもしだしているが、その笑顔は存外、若々しい。
 年齢は、自分とそう変わらぬだろうな、とルーファスは思う。
「それは、良かった。さっき、そばについていた従者の少年が、ひどく心配そうな顔をしていたから……奥方に大事がないなら、彼も安心したことでしょう」
「ああ。妻と従者が、無事にこの屋敷に帰って来れたのは、貴方のおかげだ。騎士殿……もし、貴方に力を貸していただけなければ、従者の力だけでは到底、妻を連れて帰ることは出来なかっただろう。妻と従者に代わって、改めて、礼を言わせてほしい」
 ルーファスが改めて、丁寧に感謝の言葉を口にすると、ハロルドは「いや……」と、軽く首を横に振る。
 その表情は、自らの行動を誇るでもなく淡々としていて、まるで感謝されるようなことではないと言いたげだった。
 彼としては、礼を言われるほどのことではなく、当たり前なことをしただけなのだろう。
 謙遜ではなく、本当にそう思っているようだった。
 その証拠に、ハロルドは続ける。
「いや、私は騎士として、当然のことをしたまでです……先ほども言いましたが、そんな風に、改めて礼を言われることではありません」
 騎士らしい実直な、生真面目な返事に、ルーファスはずいぶんと真面目な男だな、という感想を抱く。
 騎士気質というやつか、あるいは単純にこの赤髪の男の性格なのかもしれないが、実直で、言動に裏表がないのが伝わってくる。
 普段、王宮で貴族を相手にしている時とは、ずいぶんと勝手が違う。
 もし、貴族同士の会話ならば、ここで気の利いた言葉を二つ、三つ混ぜて、恩を売ろうとするだろうが、この騎士の言動にはそれがない。
 良くも悪くも、実直な印象の男だった。
 (……そういう男か)
 正義感が強く、真面目そう、ルーファスの対極をいく人間だ。
 こういう性格の人間は、扱い方ひとつであるが、基本的にルーファスとは相性が悪い。
 彼自身はそうでもないのだが、相手の方が、ルーファスを警戒するのだ。
 ほんの少し話しただけで、相手の、騎士の性格を見極めようとしたルーファスだったが、ふと、己がまだ名乗ってもいなかったことに気づいて、「申し遅れた……」と話を切り出す。
「申し遅れた……私の名は、ルーファス=ヴァン=エドウィンという。先ほど、貴方に助けていただいた妻は、セラフィーネだ」
 ハロルドは、知っている、という風にうなずいた。
 末端とはいえ、ハロルドも貴族に属する男である。
 エドウィン公爵――セラフィーネ王女の降嫁先であり、また王太子の腹心である男の名ぐらいは、知っていた。
 それでなくても、エドウィン公爵・ルーファスは、広く名の知られた男である。良くも、悪くも。
 ハロルドは背筋を伸ばし、凛とした声で名乗った。
「私は、ハロルド=ヴァン=リークス。黒翼騎士団第十三部隊・隊長を勤めております」
 ヴァン、と貴族のみが持つ、言葉の響きを聞き、ルーファスは少々、意外な気がした。
 ハロルドという男が身に纏う雰囲気は、武骨というか、明らかに剣を持つ者のそれであって、貴族らしさとは無縁のものに思える。だが、よくよく見れば、その仕草にはどことなく、育ちの良さが感じられた。
「黒翼騎士団の第九から十三部隊は、精鋭揃いと聞いている……貴方もそうなのだろうな、騎士殿」
 ルーファスがそう言うと、ハロルドは「いや、私などは……」と謙遜したが、それは事実だ。
 厚い信頼がなければ、王都の治安維持を任されたりはしない。
「それはそうと……」
 挨拶が一区切りしたところで、ルーファスは「それはそうと……」と本題を切り出す。
「それはそうと、騎士殿……クラリック橋のところで、若い女の死体が上がったらしいが、一体、何があったんだ?」
 セラから聞いた、リーザという女の名前は、あえて口には出さず、ルーファスはハロルドにそう尋ねた。
 問われたハロルドは、憂い顔で眉をひそめ、ええ、と痛ましげに答える。
「ええ……若い娘の遺体が、可哀想に、レーンベルク川に投げ込まれていたんです。まだ二十歳にもなっていない、若い娘で……凄惨というか、本当に哀れでした」
 喋りながら、その若い娘の亡骸のことを思い出し、ハロルドは救えなかった無力感と、深い後悔にさいなまれた。
 ハロルドの言葉に、ルーファスは片眉を上げる。
「事故……ではないようだな。その言い様では」
「ええ。可哀想に、殺されたのです。エドウィン公爵は、最近、王都を騒がせている、連続殺人……人を食い殺す、化け物について、誰かから聞いておられないのですか?」
「――人を食い殺す……化け物?」
 ルーファスが、何だ?それは……という顔をすると、騎士はハァ、とため息をついて、近頃、王都の民を震え上がらせている、人を食い殺す化け物、それについて語り始めた。
「その化け物が、王都に現れるようになったのは、ごくごく最近のことです……最初の犠牲者は、宿屋の主人でした。夜、道端で殺されていたのです。王都で殺人は決して多くはありませんが、無論、全くないわけでもありません……それだけなら、我ら黒翼騎士団が、そこまで大騒ぎすることは、おそらくなかったでしょう。ですが、その男の殺され方が、尋常ではなかったのです……」
「……尋常ではないとは、どんな殺され方を?」
 具体的には、どんな?とルーファスが重ねて問うと、ハロルドは「その……」と言葉をにごす。
「その、普通ではないというか、まるで……」
「まるで……?」
 ハロルドはぐっ、と唇を噛み締めると、その深緑の瞳に、得体の知れぬものに対する恐怖を宿しながら、「まるで……」と続ける。
「――死んだ男の腕や足が、無惨に食い千切られていて、まるで巨大な獣に食い殺されたようでした」
「……っ」
 告げられた衝撃的な事実に、さしもルーファスも息をのむ。
 巨大な獣に食い殺されたようとは、一体……?
 まだまだ事件の詳細について、把握しきれない彼に、赤髪の騎士は険しい顔で続けた。
「もちろん、我々、騎士団の人間も、最初は人を疑いました。当然ですが、最初から、化け物の仕業などと考えたわけではありません……しかし、人が犯人だとすると、死んだ男の全身に獣に噛まれたような痕があったり、色々と不自然な点が多すぎるのです」
「なるほど……」
「……腕や首を食い千切るなど、とても人間に出来る所業ではありません」
 化け物のような獣がいるとでも思わねば、到底、説明がつかないのです……そう続けたハロルドに、さすがのルーファスも何も言えず、黙りこむ。赤髪の騎士は、さらに苦い声で「奇妙な点は、他にもあります……」と続けた。
「奇妙な点は、他にもあります……その事件以来、我ら黒翼騎士団は、人を食い殺すような獣……化け物が何処かにひそんでいないか、騎士団総出で、王都中を隅から隅まで探し回りました」
「……」
「エドウィン公爵もよくご存知でしょうが、仮に人を食い殺すような巨大な獣がいたとしても、それが隠れられるような場所は、王都にそう多くはありません……にも関わらず、王都中を探し回っても、その化け物の住処はおろか、目撃者すらほとんど見つけられなかったのです。それで、結局……」
 ハロルドの言葉の続きを、ルーファスが引き取った。
「その化け物とやらを、見つけられなかった……というわけか」
「……ええ」
 深く、深いため息と共に、憂い顔でハロルドはなずく。
 王都の治安維持を担う騎士は、フ――っ、と大きく息を吐き、その深緑の瞳に後悔と、苦悩、そして、歯がゆさを宿しながら、己の力の無さを嘆くように続ける。
「そうして、化け物の正体すら掴めぬまま、今日、五人目の死者が、犠牲者が出てしまいました。今日、クラリック橋のところで引き上げられた彼女の体にも、獣に食い千切られた痕がありましたから……全て、我ら黒翼騎士団が至らぬがゆえのこと……いくら悔やんでも、悔やみきれません」
 ――たとえ、無事に事件を解決したところで、犠牲となった者たちが、生き返ることはない。
 はっきりと言葉にはせねど、ハロルドはそう言いたげだった。
 騎士の言いたいことはわかったので、ルーファスも目を伏せ、静かな声で「……ご心痛、お察しする」と言う。
 二人の間に、一瞬の沈黙が落ちる。
 しばしの静けさの後、ハロルドは唇を開き「その犠牲者についてなのですが……」と言いながら、真っ直ぐな視線を、ルーファスへと向ける。
 騎士の深緑の瞳は鋭く、嘘や曖昧な誤魔化しを許さぬ、強さがあった。
 ハロルドは、氷の公爵と悪名高いルーファスに対しても、少しも臆することなく、真っ直ぐな視線を向けると、落ち着いた声で問う。
「その犠牲者についてなのですが……今日、クラリック橋のところで引き上げられた女は、五人目の犠牲者は、奥方の知り合いなのですか?いいえ、セラフィーネ王女様のというべきか……」
 ――今日、クラリック橋のところで引き上げられた女は、貴方の奥方の、セラフィーネ王女の知り合いか?
 そんなハロルドの言葉を、真っ直ぐな、嘘や誤魔化しを許さぬ鋭い視線を、ルーファスは一切の動揺を顔に出さず、平然と受け止める。
 今日、クラリック橋のとこらで引き上げられた若い女……死んだリーザは、セラの昔の知り合いだったらしいが、それをこの騎士が知っているとは思えない。
 屋敷に来るまでの短い時間、セラがそれを話したとは思えぬのに、なぜ、それを知っているのか?
 予期せね問いかけであったであろうにも関わらず、ルーファスの蒼い瞳には動揺の欠片もなく、至極、落ち着いている。
 この程度で、動揺しているようでは、氷の公爵などとは呼ばれまい。
 悠然と長い足を組み、騎士の、ハロルドの鋭い視線を受け止め、唇に冷ややかな笑みをのせるあたりは、いささか、憎たらしいほどの余裕であった。
 口元に、冷ややかな笑みを浮かべたまま、ルーファスはハロルドに問う。
「なぜ……どうして、そう思われるのか?騎士殿」
 ルーファスに氷のような視線を向けられても、ハロルドは怯まなかった。
 それどころか、彼の蒼い瞳を正面から見つめ返し、逆に鋭い声で言う。
「先ほど、クラリック橋のところで、私は見たのです」
「……」
 何を、とでも言いたげな顔で、無言を貫くルーファスに、ハロルドは厳しい顔で、己の目にした事実を告げる。
「……貴方の奥方は、いや、セラフィーネ王女様は、川から引き上げられた若い女の亡骸を前にして、リーザ、と名前を呼んでおられた。まるで、その化け物に殺された五人目の犠牲者、彼女と知り合いであるように」
 そう語る騎士は、クラリック橋のところで引き上げられた若い女……化け物による五人目の犠牲者、リーザとセラとの間に、何らかの関わりがあると、確信している様子だった。
 もし、そうでなければ、ここまで踏み込んではこないだろう。
 いくら騎士団の人間といっても、公爵という高い身分にあるルーファスを相手に、こうもハッキリとものを言うのは、勇気のいる行為なはずだった。
 それでも、騎士、ハロルドが必死にこちらに鋭い目を向けてくるのは、事件を解決したい一心であろうと、ルーファスは思う。
 どんな些細なことでも、気になる点があれば、食らいついてくる。
 藁にもすがる気持ちだ。
 そんなハロルドの胸中は、ルーファスにも理解できなくはなかったが、素直にそれに付き合ってやるほど、彼はお人好しではなかった。
 いかに、この赤髪の騎士には、妻と従者を助けてもらった借りがあるとはいえ、それとこれは別の話だ。
 事が事だけに、慎重にならざるを得ない。
 ルーファスは「……それで?」と、低い声で、ハロルドに尋ねる。
「……それで?騎士殿は一体、何を言われたい?」
 結局、何を言いたいのだと、ルーファスが問うと、ハロルドは正面から彼を見据え、はっきりとした声で言った。
「無礼を承知で、言わせていただく。亡くなった彼女は、普通の町娘のようでしたし、降嫁された王女である貴方の奥方と、知り合うような身分ではないでしょうが……もし、何かご存知のことがあれば、教えていただきたい」
 ルーファスもまた、正面から騎士の鋭い視線を受け止め、目をそらさず、代わりにスゥ……と蒼い瞳を細めた。
「……」
 このハロルドという騎士は、ただ剣を振り回すだけの単純な男ではないようだ、とルーファスは認めた。
 武官には、ただ闇雲を剣を振り回すしかないような愚か者もいるが、この男はそうではないようだ。
 腹芸は下手そうだし、駆け引きも得手ではなさそう、その潔癖さは彼の好むものではなかったが、だが、決して、頭は悪くない。
 氷の公爵と称される、ルーファスの悪評を知らぬわけでもないだろうに、それに怯まぬだけの度胸も、判断力もある。
 それを、ある程度、認めた上で、しかし、ルーファスは首を横に振る。
「……残念ながら、私にはわかりかねる。もう少しして、妻が落ち着けば、お話できることもあるかもしれないが」
 嘘というほどではないが、意図的に本質を隠した言葉だった。
 セラと死んだリーザの関係について、ルーファスの口から、この騎士に、ハロルドに教えてやるのは簡単だ。
 幼い頃の友人というだけならば、別段、隠すほどの関係ではない。
 しかし、それを話すことは、セラの過去を話すということだ。
 セラが昔、王女として認められておらず、市井で暮らしていたという、女官たちの噂は真実であろう。それに、どのような深い事情があるのかはわからないが。
 その辺りの事情を、ルーファスでさえ知らぬことを、このハロルドという騎士が知っているとは、とても思えない。
 下手に話したところで、無為な情報が増えるだけで、混乱させるだけだろう。
 それに、この話題について軽々しく喋ることは、また王都を騒がせる、化け物の事件と関わりがあるなどということは、セラの名誉を傷つけかねないのみならず、エドウィン公爵家の家名にも泥をぬりかねない。
 あらゆる意味で、慎重になるべきだった。
「私は……」
 そんなルーファスの意図を、敏感に察したのだろう。
 ハロルドは、握りしめた拳にぐっと力をこめると、真摯な声で続ける。
「私は……いえ、黒翼騎士団は、一刻も早く、この化け物の事件を解決し、王都に安全をもたらさなければならないのです。このままでは、民の間にも不安が広がり、やがては治安も乱れます……」
「……騎士殿」
 ハロルドはスッ、と伏せていた顔を上げると、何かを知っていながら、それを語ろうとはしないルーファスを見つめ、決して大きくはない、だが、厳しい声で問う。
 その騎士の深緑の瞳には、絶対に引かないという、強い意思がにじみ出ていた。
「――それを避けたいのは、王太子殿下の腹心である、貴方も同じでしょう?エドウィン公爵」
 普通の神経の持ち主ならば、嘘や偽りを許さぬ騎士の鋭い視線や言葉に怯み、己の知っていることを、全て吐いたかもしれない。だが、あいにくと、今まで数々の修羅場をくぐり抜けてきたルーファスは、並みの神経をしていなかった。
 ハロルドの騎士としての使命感や、熱意、化け物の事件を解決するという執念は感じ取ったものの、それ以外は特に何も感じない。
 ましてや、他人から氷の公爵と称される、エドウィン公爵・ルーファスともあろう男が、たかが鋭い視線を向けられたことで、怯むなど、それこそ天地がひっくり返るのと同じくらい、可能性が低く、あり得ぬことだ。
  ルーファスはふっ、と微笑うと、穏やかな、だが、容易に真意を読み取らせぬ声で言う。
「貴方の言葉はもっともだ。騎士殿……そう、たしかに、王都にそんな怪しげな化け物をのさばらせておくわけにはいかないだろう」
「エドウィン公爵……」
「王都の治安維持は、王太子殿下の望みでもある。私としても、何かあれば、出来る限りの協力は惜しまない」
 言い方こそ協力的だが、実際には何も答えていないルーファスの言葉に、ハロルドは表情を曇らせた。
 しかし、まさか、協力すると言っている相手に何を知っている?と、無理やり問いただすことなど、出来るはずもない。
 クラリック橋のところで、川から引き上げられた若い女、化け物の五人目の犠牲者と、この屋敷の奥方であるセラフィーネの繋がりさえ、ただハロルドがそう思ったという、あやふやなものでしかないのだから。
 悔しいが、それ以上の追求は、諦めるしかなかった。
「……」
 ハロルドは一瞬だけ、目の前の男、ルーファスの顔色をうかがう。
 黒髪に蒼い瞳の、いっそ冷ややかな印象を受けるほど、端整な顔立ちをしたエドウィン公爵は、視線を逸らすこともなく、余裕の表情で、こちらを、ハロルドの方を見ていた。
 深い蒼の瞳が、まるで、こちらの心理を全て見通しているようだ。
 ――気に食わない男だ。
 ハロルドはそう感じたが、まさか、それを正直に表に出すほど、彼も若いわけではない。
 内心では、ため息をつきつつも、騎士はそれを表情に出すことなく、淡々とした声で言う。
「……それでは、何かあればご協力をお願いいたします。エドウィン公爵」
 ルーファスはうなずいて、
「心得た」
と、応じた。
 ただ慎重というだけでなく、ルーファスの方にも、この騎士を……ハロルド=ヴァン=リークスという男を、そう簡単には信頼できない事情があった。
 深緑の瞳で、真っ直ぐにこちらを見てくる、ハロルドという騎士――この男が、あの老狐……宰相ラザールの息のかかった者ではないという保証は、今のところ、どこにもない。
 このハロルドという男が、宰相の思惑によって何らかの目的をもってルーファスに近づいてきた、という可能性だって、低いかもしれぬが、全くないわけではないのだ。
 それを思えば、そう簡単に信頼できるわけもない。
 いかに、真面目で正直そうな男であろうと、それが演技ではないと誰が言えよう。
 少なくとも、その点が明らかになるまでは、何にせよ、警戒し、用心しておくに越したことはなかった。
 たとえ、疑い深いと眉をひそめられようとも、この男、この騎士については少し調べる必要がある。
「それでは、私はそろそろ……」
 ルーファスがそのようなことを考えているなどとは、夢にも思わず、赤髪の騎士はそう言って、長椅子から立ち上がる。

 その後、ハロルドは足早に、エドウィン公爵家の屋敷を去った。


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