ちょうど良い頃合いを見計らい、スティーブが厨房に向かったのは、勿論、偶然ではなかった。
執事が厨房の前に辿り着くと、そのすぐそばで、うろうろと徘徊している男の姿が目に映る。
うろうろ、おろおろ、ひどく落ち着きがないその男は、コックのベンだった。
コックの彼は不安そうに、何度も何度も、彼の仕事場である厨房をのぞきこんでいる。
心配そうに、中を見て、再び、うろうろ……周りをあてどもなくさ迷う。
そんな風に、挙動不審なコックの背中に、「何をしているのですか、ベン」とスティーブは問いを投げる。
執事の呼びかけに、やや情けない顔をしたコックが振り返った。
スティーブさん、と呼んだ後、ベンは厨房へ向ける不安な眼差しを隠そうともせず、びくびくとした声で答える。
「あっ、スティーブさん。その、奥方様とメリッサが厨房を……」
コックの言葉の途中で、メリッサの叔母、女中頭のソフィーが厨房からひょいと顔をのぞかせた。
姪っ子によく似た人好きのする顔、ややふくよかな身体を揺らして、女中頭は厨房から出てくると、苦笑し、すまないね、ベンに話しかける。
ついで、コックの隣に立つスティーブに「おや、まあ」という目を向けると、ソフィーはにっこりと笑う。
「気になって、様子を見にいらしたんですか?スティーブさん」
そう言う女中頭の声は、どことなく楽しげだった。
このままでは、何やらいらぬ誤解をされそうだと思い、執事はわざと渋面を作ると、その碧眼からついと目を逸らす。
「ベンまで厨房から追い出して、一体、何を作っているのです?」
厨房の中にいる、奥方様とメリッサの姿は見えないが、先程の刺繍の一件を顧みれば、一抹の不安を抱かずにはいられない。
そんなスティーブの不安交じりの問いかけに、ソフィーはああ、と朗らかに笑いながら答える。
「ああ、クッキーを焼こうとしてるんですよ」
「クッキー?それにしては……」
胸によぎった不安を、言葉にして良いものか葛藤し、老執事は無言になる。
さっきから、厨房の奥から聞こえる、怪しげな音の正体は、何なのだろうか。
ドンガラガッシャン。
どんどん。
ギーコ、ギーコ、ギーコ。
……どうしても、クッキーを作っている音だとは、彼には思えなかった。
おそらく、隣のベンも、同じ気持ちなのだろう。
厨房で繰り広げられているであろう、その惨状を想像してか、先程から青ざめていている。コックという立場を思えば、無理からぬことだ。
「大丈夫ですよ。あたしがちゃんと見てますから」
青ざめる男二人をよそに、女中頭が鷹揚な口ぶりで言う。
そうまで言われては、スティーブとしても、腹をくくらざるを得ない。
「……まぁ、いいでしょう。では奥方様に、旦那様は甘すぎる菓子が苦手だと、伝えるのを忘れぬようにしてください。ソフィー」
「えぇ、承知してますよ」
うなずくソフィーの背後の厨房からは、相変わらず、どんがらがっしゃん、と異様な音が響いている。
ただ、クッキーを作っているだけとは……やはり信じられない。
一度はその場を立ち去ったスティーブだったが、仕事の合間、合間、厨房の前を通りかかるたび、つい忠告とも、励ましともつかぬ声をかけてしまう。
もはや老人と言われる身でありながら、己にそんなお節介な一面があるとは、彼はついぞ気がつかなかった。
「ベンが泣いています。厨房を荒らすのも、ほどほどに」
「旦那様は、あまり甘いものを食べませんので、砂糖は抑えた方がいいでしょう」
「もうすぐ、旦那様が帰っていらっしゃる頃です。急いで」
ああ、ああ、まったくもって、奥方様は風変りな御方だ。
気がつけば、こちらのペースまで乱される。
時間が経つのは、あっという間だ。
ほどなく厨房にバターの良い香りが立ち込め、白い大皿にクッキーがたんまりと盛られる。
きつね色のそれは、あの異様な音の数々が何だったかと思うほど、まともなクッキーであった。
少しばかり焦げた臭いがするのを、ご愛嬌で片付けていいものか、スティーブはやや悩む。
「……出来た」
なぜか、すすで顔を汚していたが、そう言った奥方様の笑顔は、数々の苦難を乗り越え、戦いを終えた者のそれだった。
そばにいるメリッサやソフィーも、やり遂げた清々しさを感じられる表情だ。
コックのベンなど、感動のあまりか、泣いていた。
もっとも、それはこれ以上、厨房を破壊されないという、安堵の涙だったのかもしれないが。
白い大皿にもられたクッキーを見つめて、セラは執事の方を向いた。
「ちょっと焦げちゃったけど、メリッサとソフィーとベンさんにも協力してもらって、やっと出来たの……ルーファス、食べてくれるかな?」
やや照れくさそうに、そう言った奥方様に対して、スティーブはあくまでも硬い声で答える。
「旦那様は、甘いものはお好きではありません」
「そう……そう言っていたものね」
執事の言葉に、セラの表情がわずかに曇る。
そうだよね、と無理をして、微笑もうとする奥方様に、ですが、とスティーブは続けた。
「ですが、人が一生懸命、好意で作ったものを、無下になさるような御方でもありません。ですから……きっと、食べてくださいますよ」
「スティーブさん……」
セラは一瞬、驚いたように瞳を揺らして、すぐ、はにかむように、ありがとう、と言った。
「……私は何もしておりませんが」
謙遜ではなく、本心からそう口にしたスティーブにセラはううん、と首を横に振る。
「たくさん助けてもらったもの」
そう言って、やわらかく微笑むセラを見ながら、スティーブは何度も繰り返し、同じことを思う。
奥方様は、不思議な方だ。
主人である青年のように、優れた才覚や、人をひれ伏させ、従わせるような何かがあるわけではない。だが、不思議と何をするわけでもなく、この屋敷の空気を、人を、変えてしまった。
己もその一人であると、スティーブも心の何処かで認めるしかなかったのである。
夕方、中庭が黄金の夕陽に染め上げられる頃、ルーファスが屋敷に戻ってきた。
今、彼に目の前には瀟洒なテーブル、そして、その上には大皿にもられたクッキーの山がある。
そのクッキーの山に手を伸ばしたルーファスは、一口、それを咀嚼する。
誰もが、ソフィーもメリッサも、こっそり扉の影から見ているベンも祈っていた。
スティーブも、祈っていた。
旦那様は、正直な方だ。だが、今回ばかりは、どうか――。
「ど、どう?」
クッキーを口にしたルーファスに、セラが恐々といった様子で尋ねる。
いくつか味見もしたし、不味くはないはずだ。けれども、やはり、出来上がったそれは不格好で、奥方様が不安になっているのが、スティーブには手に取るようにわかる。
クッキーの欠片をのみこんで、主人であるルーファスは答えた。
「――焦げてる」
そこにいた全員が、心中でため息をついた。
美味いでも、不味いでもなく、それはただ事実を指摘しているだけだと……。
もっともな事実を指摘され、セラはうっ、と呻いた。
「うっ……ご、ごめんなさい。責任もって、あたしが全部、食べます」
落ち込む彼女に、だが、とルーファスは付け加える。
食えなくはない。
そう言いながら、彼の手が伸びて、クッキーをもうひとつ、口に運ぶ。
「む、無理しなくていいよ。ルーファス、焦げてるし……」
手伝ってくれた皆には、申し訳ないけど、とセラはうつむく。
彼女の手についた細かい傷に、ルーファスは目を細め、別に無理はしていない、と否定する。
そうして、大皿からクッキーをつまみ上げると、それを隣にいたセラの口に放り込んだ。
指先がかすかに唇をなぞり、すぐに離れる。
唐突に、口に中に放り込まれたそれに、目を白黒させつつも、セラはもぐもぐとクッキーを食べた。
「……ちょっと苦いけど、美味しいかも」
少しばかり意外そうな彼女の声に、屋敷の主人である青年は、そうだろう、とうなずく。
「先にも言ったが、食べられなくはない」
とはいえ、作り過ぎだろうよ、とクッキーが山盛りにされた大皿を横目で見て、ルーファスは新たな一枚を手に取る。
彼にならって、もぐもぐと新たな一枚を食べると、セラは「今度は、もうちょっと工夫してみる。とりあえず、焦がさないように……」と、大真面目な顔で言う。
それを聞いたルーファスは、軽く肩をすくめた。
「あまり期待はしないが、そうしてもらいたいものだな」
「うぐ……お、覚えておきます」
主人と奥方様の会話を聞きながら、なんとか上手くいったようだと、スティーブは胸を撫で下ろした。
やれやれ、と息を吐いた執事に、女中頭が話しかけてくる。
「奥方様が、スティーブさんにって……」
声をかけてきたソフィーの手には、リボンを結んだ袋があった。
ほら、と言いながら、しゅるしゅる、と結ばれたものをほどくと、中からナッツ入りのクッキーが出てくる。
なぜか渋い顔をした執事とは反対に、女中頭は「これも、奥方様が作られたんですよ」と、朗らかな声で語る。
「そりゃあ、私やメリッサも手伝いましたけどね。形はともかく、味は悪くないですよ」
女中頭から渡されたそれと、旦那様と並んでクッキーを食べている奥方様を見比べて、スティーブは息を吐く。
執事の口からこぼれたのは、偽りのない本音。
「……変わった方だ」
それは、決して、悪い意味ではなかったけれど。
呆れと、それ以外の感情こもったスティーブの声に、ソフィーは碧眼を和ませて、優しい声で言う。
「確かに奥方様は、ちっとも貴族の奥方様らしくはありませんけどね、私は好きですよ」
そう言う女中頭の視線は、テーブルのルーファスとセラへと、優しくそそがれていた。
窓から、眩しいほどの夕陽が差し、部屋の中にやわらかな影を描き出す。――黄金の光がちらちらと瞬いて、とても美しい。
それに、とメリッサは、あたたかな声で続ける。
「旦那様の周りには、いつも大勢の方がいらっしゃいますけどね……その中の誰が、旦那様を笑わせられるっていうんです?ずっと一緒にいる、私らだって無理だったんです。でも、奥方様なら、もしかしたら――」
穏やかに、だが、切々と紡がれた言葉から、スティーブは女中頭もまた己と同じ想いを抱えていたのだと悟った。
この女性もまた、長年、公爵家に仕える中で、さまざまな事を胸の内に抱え込み、生きてきたのだろうと。
メリッサはそこで一度、言葉を切ると、
「小さな頃から見守ってきたあの方には、幸せになって欲しいんですよ」
と、願うように呟く。
スティーブはふと、窓より差し込む落日の光に目をすがめながら、セラとルーファスの方を見た。そして、思う。
(……旦那様、貴方は本当は幸せになれるんですよ)
(先代様と母君の悲劇を乗り越えて、)
(いえ、幸せにならなくてはいけないのですよ――)
奥方様と言葉を交わす、旦那様の顔にはまだ笑顔はない。されど、寄り添う二人の姿は、ありふれた平凡な幸福を思い描くのは、難しくない。
そう、いつの日か……。
光あふるる屋敷の中、奥方様と旦那様がいらして、亜麻色の髪をした女性の腕には、生まれたばかりの、愛らしい赤子がいる。
そんな、幸福ないつか、叶って欲しいいつかを夢見て、執事はそっと目を伏せた。
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