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四章  過去と復讐  1


 ぽたり、ぽたり。
 耳を打つ、雨漏りの音で、セラはかすかに睫毛をふるわせた。
 んん、とその唇から、声にならぬ、吐息がもれる。
 まぶたを上げようと、力を込めてはみたものの、まぶたはおろか、指先ひとつ、思うままに動かない。
 ぽつり、ぽつり、天井の穴から伝う水滴は、ふちの欠けた器にあたって跳ね返り、少女の頬をぬらす。頬に冷たい感触があっても、古びたテーブルに顔を伏せたセラは、小さく呻いたきり、身を起こそうとはしない。
 わずかに顔を上げることすら、今の彼女には億劫だという風に、その亜麻色の髪は、テーブルに投げ出されている。
 窓を閉め切り、灯りもなく、薄暗いその部屋には、言いようもなく重苦しい空気がただよっていた。倦怠感とでも言うべきか。
 壁の隙間から、湿り気を帯びた、しかも寒々しい風が吹き込んでくる。
 ――ぽたり、と再び、天井から雨の名残りが垂れた。
 頬にあたるそれに、セラは不快そうに、どこか苦しげに眉をひそめる。湿った風が、少女の身体を撫でつけた。
 (雨、あめ、雨の音……?)
 (冷たい、寒い……)
 (あたしは、あたしは……)
 ぴくり、とテーブルの手が、何かを掴むように、虚空をうごめいた。ふるえる指が、かたく握りしめられ、やがて、拳になる。
 ぐぐぐ、と拳を己の方に引き寄せながら、それが合図であったように、セラはようやく身を起こした。
 起きたものの、少女の姿からは、生気というものが感じられない。
 亜麻色の髪は櫛をいれておらず、その翠の瞳には影がかかり、どんよりと曇っている。
 肌は不健康に青白く、黒いワンピースから伸びる手足は、ひどく痩せていた。泣き腫らしたまぶたは赤くなり、まともな食事を取っていないのか、頬がこけている。
 歳は、十を少し越えたぐらいであろう少女の身から、本来あるべき若木のようなしなやかさは失われ、隠しようもない疲労と……悲しみが彼女を包んでいた。
 ぼんやりとした翠の瞳を、何度か瞬かせ、セラの唇が小さく動く。
 ひゅうひゅう、と喉の奥から、かすれる声がつむがれた。
「お、かあさん……」
 呼びかけたはずの声に、返事はない。
 狭く、薄暗い部屋の中で、その声は力なく響いて、すぐに消えてしまう。雨音のほか、静かすぎる室内が、否応なしに不安を煽る。
 セラは不安そうな、ひとりきりで置き去りにされた子供のような表情で、ゆるりと周囲を見回す。
 そうして、もう一度、すがるような声で母を呼んだ。
「お、かあさん、お母さん……」
 やはり返事はない。
 虚ろな目をしたセラは、まだ意識が覚めやらぬような、ぼんやりとした風情で、ふらふら視線をさまよわせる。
 狭く、薄暗い部屋の中。
 テーブルや寝台、針子である母の仕事道具など、必要最低限の家具以外は、何も置かれていない、殺風景な室内。
 たてつけのよくない扉や、歳月により変色した壁の隙間からは絶えず、寒々しい風が吹き込んでくる。
 天井から落ちてくる雨粒は、テーブルの白い皿で跳ね返り、床を濡らしていた。
 どう言い繕うとも、お世辞にも住みよい場所とは言えぬが、セラにとっては見慣れた我が家だ。
 そう、母のシンシアとふたり、逃げるように移り住み、ひっそりと息を殺して暮らしている場所――
 ふと、少女の目線が、ある一点で留まった。
 薄い毛布のみがかけられた、簡素な寝台。
 くぼんだ枕には、たしかに誰かの寝た痕跡が感じられるのに、今、そこには誰もいなかった。その現実から、目を背けようとするように、セラはもう一度だけ、「おかあさん……」と母を求めた。
 三度、彼女の願いは叶わない。いいや、最早、永遠に叶うことはないのだ。
 空っぽの寝台を目に焼けつけ、セラは深く嘆息した。
「あぁ……」
 そうだ。母はもう何処にもいないのだ、と。
 ――母が死んでしまってから、幾度の昼夜が流れ、過ぎ去っただろうか?
 最初の頃こそ、日付を数えていた気がするが、昼は母のいない孤独を噛み締め、夜は泣き疲れて眠るうち、まともな時間の感覚を失ってしまった。
 今が、昼か夜かもよくわからない。
 真っ暗ではないから、夜ではないのかもしれないが、それさえも曖昧だ。
「喉、かわいた……」
 そう呟いた声は、かすれている。
 からからに乾いた喉を潤そうと、セラはのろのろと腕を伸ばした。テーブルの上には、黒パンの盛られた皿と、いつのものやら冷めきったスープがある。
 スープ皿を手元に引き寄せると、少女は虚ろな表情のまま、それをすすった。
 塩のみで味付けされ、野菜も浮かんでいないそれは、舌に痺れるような感覚を残し、喉の奥へ流れていく。
 セラは無言で、カチカチにかたくなったパンを千切り、スープに浸して、それを咀嚼する。何日か放置されたパンは、歯がたたぬほど固くなり、奇妙な味もしたが、目をつぶり無理やり呑み込んだ。
 味も何も感じられぬまま、ただ空腹だけが、わずかに満たされる。
 それでも、これは母がセラの為に用意してくれた、最後の食糧なのだ。絶対に、無駄にするわけにはいかない。
「ごちそうさま……」
 何の返事もかえらぬと知りながら、母が生きていた時と同じ言葉を口にすると、セラは再びテーブルに突っ伏した。
 厳しかった母がみれば、眉をひそめたであろうが、叱ってくれる母はもういない。
 最早、泣く気力さえ残されていないのか、微かに肩をふるわせる少女の口から、嗚咽が漏れることはなかった。
 ――物心ついた時には、父を知らず、お針子として女手ひとつで、セラを育ててくれた母・シンシア。
 娘であるセラの目から見ても、淑やかで、気品のある人だった。
 子連れでも、若く、美しい母に言い寄る男は多かったが、どんな良い条件でも、母は是、と首を縦に振ろうとはしなかった。
 ジェイクおじさんが亡くなってから、そばに寄せつけることすら拒んだ。
 お針子の腕ひとつで、転々と住まいを変え、まるで逃げるように、絶対に同じ場所に長く留まろうとはしなかった。
 そんな生活は寂しくもあったが、それでも、セラの隣には母がいたから孤独ではなかった。
 母子ふたり、寄り添っていれば、ひとりぼっちではなかったから……。
 けれども、そんな生活は、あっけなく終わってしまった。
 長年の苦労が身体を蝕んでいたのか、あるいはもうひとつの理由か、風邪をこじらせた母は、床を離れられなくなり、一月ともたずに天に召されてしまった。
 あまりにも、あまりにもあっけなく、娘であるセラをたったひとり残して、母は逝ってしまったのだ。
 (おかあさん、おかあさん……寂しいよ。あたしは、どうすればいいの?)
 母が亡くなってから、近所の人々は、ごく少数を除いて、よそ者であるセラたち母子に冷たかったが、それでも、まだ幼いセラを憐れんで、葬儀だけは手伝ってくれた。
 その葬儀が終わって、セラは本当の意味で、ひとりぼっちになった。
 彼女には引き取り手も、頼れるような大人もいない。
 何の伝手もない、十三の子供が無事に生きていけるほど、この国は優しくも、甘くもない。良くて娼館に売られるか、悪ければ、その辺でのたれ死ぬのが関の山だろう。
 楽になれるならば、それでも……と自暴自棄じみた考えが、頭の片隅をよぎる。でも、それは、自分をここまで育ててくれた母を裏切ることだと、セラは両手で顔を覆った。
 (ラーグを頼る……?でも……)
 子供のなりをした金色の魔術師の姿を思い浮かべ、だが、それは出来ぬ、と少女はため息をつく。
 あの弟子には甘い魔術師は、セラが頼めば、隠れ家に住まわせてくれるだろうし、何かと助けてくれるだろう。
 法の目が届かない貧民街ならば、彼女ひとり、隠れ住むことは、きっと難しくあるまい。
 でも、それは師である彼の身を、今以上に、危険に晒すことに繋がりかねない。
 なぜなら――
「ふ……」
 暗い目をして、セラは袖口をめくり上げる。
 黒い袖口の下から、それとは対照的な、白い肌がさらされた。
 同時に、その腕に刻み込まれた異様なものも、鎖のようなアザも見える。
 ぐるぐると蛇のように腕に巻き付いたそれは、赤子の時から、彼女が背負っている“呪い”だ。
 それは、身を裂かれるような痛みも、叫びたいような苦しみも、彼女にもたらすことはないのだけれど、ゆっくりと、だが、確実に、セラの心を、身体を、魂さえも蝕んでいく。
 青白く、透けるような白い肌に落ちた、黒い染みのようなそれ。
 少女はじっと、その黒い鎖を見つめ、ついで寂しげに笑った。
「この鎖がある限り、あたしは絶対に、逃げ切れないのだもの……」
 哀しい声だった。
 そうでしょう、お母さん?
 今は亡き母の寝台に向かって、セラは心の中で呟いた。
 脳裏によぎるのは、厳しくも、凛として美しかった母の姿。
 死の間際、握りしめた手の、氷のような冷たさ。
 まるで、血を吐くように、苦しげに絞り出された声。
 病に倒れて、もはや長くないと悟ってから、母は何度も何度も繰り返し、娘であるセラに言い聞かせた。
 目は充血し、尽きようとする命の焔を燃やすように、母の頬は朱に染まっていた。
 繋いだ母の手は、力がこもって痛いほど、されど、セラはそれを口にすることが出来ない。
「絶対に忘れては駄目よ、セラ……」
「王宮は……王宮、あそこは恐ろしいところ……絶対に、絶対に、戻ってはなりません」
「逃げて、逃げて、逃げなさい……貴女は、王太子殿下の――なのだから」
「それしか、貴女には出来ないのよ。セラ……ぐっ、ぅ……ぅ」
 背を折り曲げ、苦しげに咳き込みはじめた母に、セラは「おかあさん!」と叫び、手を伸ばす。が、その手が背中に触れる前に、母の手によって振り払われた。
 あ……と呆けたような顔をする娘の肩を、もはや死の淵に片足を沈めている母が、信じられぬほど強い力で掴む。
 覚えておきなさい、と緑の瞳を潤ませ、母は言った。
「王宮は、あそこは恐ろしいところ……決して、近づいてはいけないわ」
「お、かあさん……」
 ――それが、母との最後の会話になった。
 治療の甲斐なく、逝ってしまった母の面影を探して、セラは立ち上がると、ふらりと空の寝台に歩み寄り、母が亡くなってからもそのままになっているシーツに、身を預ける。
 ぼふ、と枕が沈み、古い寝台がギシギシと軋んだ。
 うつむいた少女の瞳から、頬を伝い、一筋の涙が零れ落ちる。
 (お母さん、どうして……)
 あたしを、見捨てなかったの。
 声も出さずに、セラは泣いた。
 母であるシンシアは、いつも娘に複雑な目を向けていた。愛情と憎しみが、奇妙に混じりあったような目を。
 望まぬ子であったというから、それも、しょうがないことなのかもしれぬ。
 どのような事情があったのか詳しくはないが、母が国王に犯され、そして、孕んだ子がセラだ。
 母がそう言ったわけではなかったが、ある時、父は死んだという母のウソを、知ってしまったのだ。
 王宮から逃げた母が、どのような思いを、娘であるセラを育てたのかはわからぬ。けれど、母はどのような目に合おうとも、時に疎ましげな目をしながらも、それでも、ただの一度も娘の手を離そうとはしなかった。
 どこまでも運命を呪いながら、それでも、幼い娘と手を繋ぎ続けた。
 ――母は、どうして、セラの手を離さなかったのだろうか?
 彼の人が冥府の川を渡ってしまった今、もはや、聞くことが叶わぬ問いを思いながら、セラは粗末な寝台でまどろむ。
 疲れ切った身体は、休息を必要としていた。頭が身体が、泥のように重い。
 眠りへの欲求は、抗い難く、もはや何も考えたくないと思いながら、少女は眠りの世界へと落ちていった。


「ぅ……」
 再び、天井から滴る雨の雫。
 そのピチャ、という水音で、セラの意識は緩やかに覚醒する。
 まぶたを開けると、翠の目に映ったのは、古び、黒ずんだ天井だった。鉛のような身体を引きずりながら、のろのろと半身を起こし、寝台から下りる。
 痛む頭を押さえながら、あれから、どれくらいの時間が経ったのか彼女は考えるが、やはり、昼夜もよくわからず、無駄なことだった。
 さながら、幽鬼のようなおぼつかない足取りで、窓のそばに歩み寄ると、セラは雨雲ただよう、灰色の空を見上げた。まだ夜ではないようだ。
 窓を打つのは、先ほどより強くなった雨。
 それを、ぼんやりと眺めながら、この雨が止んだら、いや、明日の朝になったら、この家を出て行こうと、セラは決める。
 三年程しか住んでいないとはいえ、亡き母と過ごした家を捨てるのに、ひどく胸が痛んだが、迷いを振り切るように、少女は首を横に振る。
 同じ場所に、長く留まるのは危険なことだ。
 逃げなくては、逃げなくては、逃げなくては。頭ではなく、心が警鐘を鳴らす。
 ――また住処を変えねば、母が恐れていた“彼ら”が来てしまうかもしれない。
 そう考えた途端、ぞくり、と首筋を見えない何かに触れられたような、強い悪寒を感じて、セラは己の身体を掻き抱いた。小刻みにふるえる手は、無意識のうちに、腕の鎖をなぞっている。
 逃げなさい、と母は最期に言った。
 娘を愛し、憎みながら、それでも、その手を離さなかった母は、最後の最後まで、セラの身を案じてくれていた。
 そんな母のことを思い出すと、どうしようもなく胸が苦しくなって、彼女は腫れぼったくなったまぶたを片手でこする。
 母の想いを、無駄にするわけにはいかない。
 (いつまでも、泣いている場合じゃない。これ以上、ここにいたら、周りの人にも迷惑がかかる……)
 そう心に決めると、セラは戸棚や机から必要な物だけを集めて、荷造りを始める。
 もともと、彼女の持ち物は多いとは言えない為、行動は早かった。
 必要なものだけを袋につめ、母の思い出の品だけを丁寧に包んで、袋の奥にしまう。
 先のことはあまり考えられないが、まずは貧民街に行こうと、少女は思う。あそこならば、セラを魔女として必要としてくれる人々もいる。それに、奇跡が起これば、呪いを解く“鍵”も見つかるかもしれない。
 たとえ、儚い願いであっても、そう信じたかった。
 不安と孤独に押しつぶされそうになりながら、セラは荷物をまとめていく。少なくとも、そうしている間だけは、不安に押しつぶされずにすんだ。
 扉に背を向け、黙々と支度をしていた少女だったが、何か音がした気がして、ふと後ろを振り返った。
 窓をみしみしと軋ませる、雨風の音に混じって、扉を叩く音が聞こえたような――。
 一度は気のせいかとも思ったものの、耳をそばだててみれば、やはり、ドンドンと扉を叩く音が聞こえた。
 (誰……?)
 こんな雨の日に、客人とは解せなかった。
 怪訝な顔をしたセラは、恐る恐る、扉の方に歩み寄る。
 こんな日に、わざわざ訪ねてくるような知り合いが、思いつかない……と首をかしげかけ、彼女はもしかしたら、アンおばさんか、フレッドかな、と予想した。
 三軒隣に住むアンおばさんは、母の数少ない知人であり、母を亡くしたセラのことも何かと気にかけ、食事を分けてくれたりした。
 フレッドは、アンおばさんの息子。
 彼の妹のユーナも、セラと二つしか違わず、三人で一緒に遊ぶ仲だ。
 穏やかで繊細な妹に比べると、兄のフレッドは少しばかり乱暴なところもあったが、それでも、本質的には優しい性格で、常に妹と妹の友人であるセラを庇ってくれた。
 母が病に倒れてからは、よく食べ物を持ってきてくれたり、どういう手を尽くしてか薬湯を差し入れてくれたり、何くれとなく世話を焼いてくれたものだ。
 のみならず、母を亡くしてからは、心配してか、ちょくちょく様子を見に来てくれたり、妹と一緒に窓のところに立っていたこともあった。
 この家を捨てるということは、そんな彼らとも、別れなければいけないのだと思うと、セラの顔は曇る。
 唇から、憂いを帯びたため息がもれた。
 (もし、アンおばさん、フレッドやユーナだったら、お別れの挨拶をしなきゃ……)
 何も返せぬまま、家を捨てていくのなど、親切にしてくれた人たちに、恩を仇で返すようで……自然、扉に向かう足取りは重くなる。
 それでも、今度こそ、リーザの時とは違い、きちんとお別れを言わなければという決意が、セラの足を動かした。
 扉の叩いているのは、アンおばさんだろうか?それとも、フレッドだろうか――
「……はい」
 扉に手をかけた時、一瞬、開けてはならぬと本能が囁く。
 油断していたのか、いや、正しい判断をしていたとしても、もう手遅れであっただろう。ずっと前から、そうなることは決まっていたのだから。
 そうして、セラの手が戸を開けた時、またひとつ、運命の扉が開く。
「アンおばさん……?フレッド、ユー……」
 その続きは、声にならなかった。
 扉を開けた瞬間、セラは翠の瞳を大きく、驚愕したように見開いて、その場に立ち尽くした。
 少女の表情が、凍りつく。
 なんとか唇は動くが、声は出ない。
 扉を開けたことで、横殴りの雨が、風が、強く強く、家の中に吹き込んだが、それすら、どうでもいいことだった。
 風が白い装束を巻き上げる、
 したたり落ちる雫、
 金糸の縫いこまれた豪奢な装束が、雨を吸って、濡れ鼠のようになっている。
 強い雨が頬を打ちつける、背後の曇天の空に、雷の閃光が走った。
 見事に伸ばした白髪が髭が、雨に濡れるのもいとわず、その老人は、柔和な笑みを浮かべて、そこに立っていた。
 風雨にさらされているというのに、微塵も揺らがぬ微笑みが、かえって異常さを際立たせている。
 その老人が何者なのか、セラは知らない。けれど、その老人が纏う異質な空気に、彼女は怯えを隠せなかった。頭ではなく、心が感じる。この老人は危険だと。
 逃げたいのに、逃げるべきだと心は叫ぶのに、まるで、その老人に気圧されたように、セラは動くことが出来ない。
 入口を塞がれている今、どこにも逃げ場はないのだという現実を、受け入れるのさえ時間がかかる。
 再び、雷光が閃いた。
 横殴りの雨に打たれながら、セラはようやく、声を出すことが出来るようになる。
「あなたは……?」
 セラの問いかけに、白尽くめの老人は、あくまでも柔和な表情を崩さず、慇懃な態度で答える。
 その声音はあくまでも優しく、穏やかで、耳に心地よい。
 されど、その灰色の瞳は、少しも笑んではおらず、冷ややかだった。
「ラザールと申します。畏れ多くも、陛下より宰相の地位を戴いておりますので……此度、セラフィーネ王女様のお迎えに遣わされました」
 そのラザールの言葉は、考えようによっては、お伽噺のようであっただろう。
 貧しく、母と二人で苦労しながら、慎ましく暮らしていた少女には過ぎたるほどの。
 彼女は、実は国王の血を引く庶子で、いつか王宮から迎えがやってくる。ああ、ああ、なんたる夢物語、甘くて、綺麗で、幸福なる幻――けれど、そんな夢想は滑稽でしかないと、宰相の目を見れば、嫌でも気づかざるを得ない。
 悪夢のような現実を前にして、セラはあえぐように、口をひらいた。
「セラフィーネって……?」
 そんな名前は、知らない。
 セラの名前は、物心ついた時から、ただのセラだった。
 それなのに、なんで……
「ああ、貴女のお名前ですよ。王宮から逃げている間に、お忘れになってしまったのですかな?まったく……嘆かわしいことです」
 セラフィーネ王女さま、と宰相と名乗った老人は、もう一度、少女の名前を呼ぶ。
 そうすることで、嘲笑った。
 少女の無知を、いまだ運命から逃れられると思っている、その救い難いまでの愚かさを。
「さあ、」
 相も変わらず、吹き荒れる雨風を気に留める素振りもなく、宰相は笑顔で手を差し伸べた。
 そうして、どこまでも優しい声で、セラをいざなう。
「さあ、参りましょうか?セラフィーネ王女様、王宮へ……貴女の監獄へ」
 それは、逃亡の終わり、悪夢の果て、絶望の始まり――。
 強く強く、唇を噛み締めながら、亜麻色の髪の少女は宰相の手を取るしかなかった。
 もう逃げられないのだと、悟りながら。

 今より、およそ四年前、セラが十三の年のことである。


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