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四章  過去と復讐  2


「――――――はあっ!」
 一閃。
 アレンの裂帛の気合を帯びた剣が、ルーファスの頬をかすった。
 ルーファスは眉を顰めることもなく、打ち込みに備えて、じりじり距離を取る。
 相手が後ろに後退したのを好機と見て、王太子は剣を振り上げ、息つく間もなく攻め手を繰り出す。
「やあああああっ!」
 アレンが高らかに吠え、疾きこと風の如しと謳われた、剣を振るう。
 一凪ぎ、二凪ぎ。
 雷光が閃くような、鋭く、速い突きは深く深く踏み込んでくる。
 それらの激しい剣戟を、ルーファスは真正面から、己が剣で受け止め、激しない冷静さをもって、一歩、後ろに退く。とはいえ、その動きは流れるように無駄がなく、隙はない。
 受け身な片腕の姿勢に、勢いこんだ王太子はさらに一歩、相手の間合いに踏み込む。
 無謀ではない、弱腰を嫌う、王者の剣だ。
 アレンの白皙の面は、興奮からか朱が差し、その蒼灰色の瞳の奥にはちらちらと、黄金の焔が瞬いている。
 聡明にして、穏健派、と称されるこの青年にも、戦狂いの英雄王との同じ血が流れているのだと、そう黙して語るように、激しい剣戟の最中だというのに、王太子の口元はわずかな弧を描いているようだった。
 日頃、文を好み、穏やかな王太子と言われる面影は、そこにはない。
 ぎりぎりの綱渡りの如き攻防に、胸を躍らせているのだろう。
 ――刃の交わる高揚感、それ自体を愉しんでいるようだ。
「おおおおおおっ!」
 獣じみた咆哮を上げ、アレンはルーファスに斬りかかる。
 しかし、それは予想された動きだったのか、氷と称される男はわずかに身を逸らし、難なくそれを避けた。そして、大きく踏み込んだことで、出来た隙をつくように、王太子の利き腕を狙って、ルーファスは剣を突き出す。
 顔をしかめたアレンは耐えるように「ぐっ……」と呻くと、辛うじて、その剣の切っ先をかわした。
 にわかに姿勢を崩した彼に、追い打ちをかけるように、ルーファスは更に剣を振るう。
「―――――はっ!」
 その鋼の煌めきが、腕を切り裂くより先、アレンは素早く後ろに飛びのくと、乱れた構えを取り直す。
 今度は、ルーファスが攻め立てる番だった。
 氷の公爵と呼ばれる青年は、ダンッ、と力強く床を蹴りつけると、アレンの懐近くに飛び込んだ。一撃、二撃、かわせるか、かわせぬか、ギリギリの、一歩でも誤れば、そく敗北に繋がるそれを、王太子は歯を食いしばり、辛抱強く受け止め続ける。
 一方、優位に立ったルーファスの方にも、余裕じみたものは感じられない。
 主君であるアレンの力量は、重々承知の上なのだろう。
 浅く、時に深く、緩急を織り交ぜた剣技を見せながらも、その蒼い瞳は油断なく、相手の動きを見据えている。
 一進一退の攻防を繰り広げているとはいえ、ルーファスの剣は、アレンのように激しく、打ち掛かるようなものではない。
 アレンの剣が、正道をいくべき王者のものならば、こちら命のやりとりの中、磨かれたもののそれだ。
 流れるが如し、わずかの無駄のない動きで、冷静に、着実に相手の急所を見抜いて、鋭く切り込む。
 長身、鍛えられた体躯から繰り出されるそれは、凄まじいまでの速さも加わり、かわすことも受け止めることも、容易ではない。
 気合や激しさでは、アレンが一歩、上回るとはいえ、体格で優るルーファスの剣は重く、しかも鋭い。互いに、攻撃を入れ替えながら、どちらも相手に敗北を認めさせるには至らず、先ほどからずっとほぼ互角の打ち合いを繰り広げている。
「やあっ!」
 ぐぐぐ、と押し込まれていた剣を、アレンが気合で跳ね除けた。
 その余勢をかって、打ち込んだアレンの剣は、それを読んでいたルーファスによって流される。
 体勢を立て直し、距離を取った王太子に合わせて、彼の腹心である青年もまた半歩、間合いを取った。
 じりじりと、永遠にも思える睨み合いが続く。
 呼吸すら、やけに大きく聞こえる、重々しいまでの静寂の中、アレンがふ、と口元を緩めた。
「私相手だからといって、遠慮は無用だぞ。ルーファス……本気で来い、でなけば面白くない」
 剣を構え、挑発とも、誘いとも取れる物言いをしながら、アレンはルーファスを見据えた。
 ――本気で、来い。
 そう口にした青年の、蒼灰の瞳は何処までも澄んでいて、王者たる威厳を感じさせた。
 清々しい眼差しの奥深く、ちりちりと瞬く焔に、ルーファスは微かに唇をつり上げる。
 ああ、良い目だ。そう来なくては、面白くない。
「そのお言葉、お忘れなきよう。殿下」
 ルーファスは薄く笑うと、その眼差しの奥に、獰猛な獣のような光を宿し、正面からアレンに斬りかかる。
 訓練用に、刃こそ潰してあるとはいえ、まともにくらえば軽い怪我ではすまぬ。が、王太子は顔色ひとつ変えず、堂々とそれを受け止めると、はぁ!と吠え、それを弾く。
 そうなることを予期していたルーファスは、アレンが反撃に転じてくる前に、上段から下段に振り下ろす。
 とはいえ、とっさの勘でそれを回避した王太子もまた、素早く身を転じると、ルーファスに剣を突きつけた。
 キイィィン、と鋼の交わる、剣戟の音が響き渡る。
「――――おおおおおおおっ!」
 怒号にも似た咆哮。
 ひりつくような空気が震え、
 激しい打ち合いから一転、
 永劫にも似た沈黙が、その場を支配する。
 はあはあ、と荒い息。
 男の腕が下がり、カタリ、と剣が床に落ちた。
「……参った」
 心臓から一寸、ギリギリのところで制止したルーファスの剣を見て、アレンはそう声を上げた。
 その声は残念、やや悔しげな響きを纏っているものの、青年の顔から戦いの高揚は引き、目には従来の穏やかさが戻っている。
 穏やかに微笑うと、アレンはサバサバとした口調で言った。
「私の負けだな。ルーファス」
 相変わらず、良い腕だと。
 手合せの終わりと共に、素早く剣を収めたルーファスを、そう王太子が褒めた。
 鍛錬の為とはいえど、主君に剣を向けたことを詫びるように、腹心の部下であるルーファスは浅く頭を垂れる。
「勿体ないお言葉です。アレン殿下は、ますます腕を上げられたようですね」
 アレンの剣技に対する、ルーファスのそれは、世辞でも媚でもなく、純粋な本音だった。
 身長や、体格や年齢差で多少、優位には立っているものの、年々、腕を上げていくアレンのことが主君として頼もしく、また末恐ろしくもある。
 ルーファスの言葉をどう受け止めたのか、アレンはつと嬉しげに目を和ませると、
「そうか?お前にはまだまだ及ばぬが、少しはな」
と、晴れやかに笑う。
 春の陽だまりのような、その笑みに、ふっと張りつめいていた空気がゆるんだ。
 額ににじんだ汗を、手の甲でぬぐい、アレンは隅におかれた、大きな木箱の山へと歩み寄る。
 そうして、品行方正で知られる王太子らしからぬ所作で、ドサッ、と積み上げられた木箱に腰を下ろす。
 ルーファスもその後に続くと、アレンと背中合わせになるよう、その上に座った。軽く息を整えながら、唇の端、わずかに滲んだ血を、舌で舐めとる。
 ――ここは、王宮の内部にある、王族の為の訓練場だ。
 無論、城外にも練兵場は存在するし、騎士団の方に行けば、立派なものが設えられているが、そちらは人目が多く、静かに鍛錬するには向かない。
 王太子であるアレンが外に出るとなれば、ぞろぞろと護衛を引き連れなければならぬため、彼は専らこっちの、ひっそりと忘れ去られたような、小さな訓練場を好んでいた。
 かつて、戦争で名を上げたこの国は、武を重んじる傾向にあり、この訓練場も多くの王族の子息たちの汗が流されたという。だが、それは今も昔のことだ。
 平和が長く続くにつれ、王族自らが戦に出陣し、兵たちの士気を上げるという意義は失われ、王侯貴族の中にも、剣を嗜みと軽んずる者も少なくない。
 当代の国王、そして系譜に連なる者の中で、今、まともに剣の鍛錬に打ち込んでいるのは、アレンくらいのものだ。
 それゆえに、一人、ないし二人で黙々と鍛錬したい時には、最適な場所と言えた。
 また人の目を気にせず、腹心であり、友でもある男と話したい時にも――。
「……惜しいことだな」
 あれだけ激しく動いたというのに、ほとんど息を乱していないルーファスの背中に、アレンが感心したように呟いた。
「惜しい、とは?」
 顔をこちらに向けたルーファスの、蒼い瞳に怪訝そうな色がよぎるのを見てとり、王太子はくく、と喉を鳴らす。
 その口調は、どこか愉しげだ。
「お前が、剣の道に進まなかったことが、だ。つい最近も、オーディス師が、たいそう嘆かれていたぞ……あのクソ生意気な小童、剣の才だけはありおったのに、と」
 先々代の騎士団総長であり、かつての己の剣の師でもあるオーディスの名を出されたことで、ルーファスはわずかに頬をひきつらせた。
 その冷徹さで畏怖され、王太子の腹心でもあり、とうに成人した彼のことを、クソ生意気な小童だの、才走るばかりのはなたれ小僧だの、いっさいの遠慮なく呼ぶのは、あのご老体ぐらいのものだ。
 はっきり言って、苦手な相手でもあるが、敬愛するアレンの口から出た名前であれば、無視するわけにもいかぬ。
「あの狸、ご老人はまだ存命だったので……いえ、失礼。それは、オーディス師の買い被りでございましょう。アレン殿下」
 でなければ、オーディス師が得意の世迷いごとの類ではないですか、と。
 全く信じていなそうな口ぶりで続けたルーファスに、アレンは「そうでもないと思うがな……」と頬をかきつつ、苦笑を浮かべる。
 本人にその気はないと知ってはいても、先程の戦いぶりを見れば、惜しむ人間の気持ちも理解できるというものだ。
「私も、オーディス師と同感だがな。お前の腕を考えれば、騎士団に入っても、十分に名を上げれたはずだが」
「お戯れを。殿下」
 アレンのそれは、決して冗談や戯れの類ではなかったのだが、ルーファスは微かに口角を上げたのみで、まともに取り合おうとはしない。
 しかし、そう言うルーファスが、武人として名を上げるよりも、己の腹心として、この国を支える為に力を尽くすことを、選び取ってくれたことを知っている王太子は、ただ感謝の気持ちを胸に留め、それ以上、言葉を続けようとはしなかった。
 黙って、汗で乱れた黄金の髪をかき上げる。
 ルーファスもまた、麻布で首の汗を拭きながら、穏やかな沈黙を守った。
「騎士団といえば……」
 その時、思い出したように、アレンが切り出した。
「最近、騎士団の者と親しくしているそうだな。ルーファス」
 主君の言葉に、ルーファスはああ、とうなずく。
 騎士団の知り合い、というだけなら数多いが、アレンがわざわざ親しく、と前置きしてくるからには、おそらく、あの男だろう。
 炎のような赤髪と、強い意志を宿した緑眼。
 そして、まったく似合わぬ髭をたくわえた姿が、ルーファスの脳裏をよぎる。
 黒翼騎士団のハロルド=ヴァン=リークス――過日の、化け物騒ぎを通じて知り合った、あの騎士だ。
「ハロルドのことでしょうか?……はい、先日、殿下にご報告した通りです」
 淡泊と言っていい、ルーファスの物言いだったが、アレンは興味をひかれたようだった。
 思慮深げな蒼灰の目に、どこか楽しそうな色を宿して、どんな男だ?と重ねて問う。
 彼としては、腹心であるルーファスが、わざわざ協力者として引き入れたというから、どんな男なのか強く興味をひかれたのだが……返ってきた答えは、実に意外なものだった。
「そうですね……一言でいえば、己の利より、他人を優先させるような男です。また性格が甘すぎて、部下に遊ばれているといいますか……とかく、貧乏籤をひきやすい性分の人間かと」
 ハロルドを評する、ルーファスのある意味、容赦のない言いように、アレンは「……そうなのか?」と言うしかなかった。
 褒めてるのか、けなしてるのか、どちらかといえば、後者のような……。
 それだけ聞いていると、まったくソリが合うようには感じられない。
 再度、尋ねてきたアレンに、ルーファスはええ、と何の躊躇もなくうなずく。
「ええ、私には理解できない生き方です。ただ……」
「ただ……?」
 アレンは、先を促す。
「他人の為に、損得抜きで動く人間も、ある意味、希少かと……恩義がある分、アレン殿下にも忠義を尽くすことでしょう」
 そこで一度、言葉を切ったルーファスは、珍しく、やや言いよどむようにして答えた。
 彼自身、いまだ完全には把握しきれていない、感情があるのかもしれない。
 敬愛する主君とも、己に仕える者たちとも、宮廷のお喋り雀どもとも違う、どれにも当てはまらぬ者――。孤高を好み、明敏な思考を持つ男には珍しく、わずかばかりの戸惑いをにじませている。
 そんなルーファスの表情を見たアレンは、しばし意外そうに目を丸くし、そのあと、優しく、慈しむような目をして、口元をほころばせた。
「……その男を、信頼しているんだな」
 あたたかさのにじむ、誠実な声だった。
 素直に首肯するのには、気恥ずかしさが先に立つ主の言葉に、ルーファスは秀麗な顔を歪める。
 反射的に、否定の言葉が口をつきかけるのを目で制し、アレンは「良いことだ」と、やわらかな声で続けた。
「信じるに値する者に出会えるのは、このうえない幸福だ。――私にとっての、お前のような、な」
 唯一無二の忠義を捧げる相手に、こうまで言われてしまっては、ルーファスの反論の余地など皆無である。その内心は、推して知るべしだ。
「アレン殿下……」
 ともすれば呆れたような声で言い、ルーファスは小さく息を吐くと、黙って剣の手入れを始めた。
 そんな腹心の姿が可笑しくもあり、なんとはなしに微笑ましくもあり、アレンは、ははっ、と機嫌良さそうに笑う。
 気のせいかもしれないが、最近、ルーファスのまとう空気は、以前よりもやわらかいように、アレンには感じられる。硬質な雰囲気は変わらずだが、常に冴えた刃のような寒々しさをまとっていたのが、時折、親しい人間の前だけ、ほんのわずかに緩む時がある。それはきっと、異母妹が降嫁してから、だ。
 その変化が、誰によってもたらされたものか、彼は察するしかないのだけれど……それが、彼の愛する人であればいいと願うのは、主君としてではなく、ひとりの友人としてである。
 ――うっかり、そんな本心を漏らしてしまえば、この怜悧で気難しい男は、機嫌を損ねて、いっそう扱いにくくなるだろうから、絶対に口にはしないが。
「さて、と……」
 機嫌良く笑ったアレンは、腕を伸ばすと、腰をおろしていた木箱から立ち上がり、ルーファスの方に向き直った。
 そうして、一足先に、立ち上がったルーファスと向き合う。
「今日は、鍛錬に突き合わせて悪かったな。ルーファス……部屋に閉じこもって、机仕事ばかりだと、どうにも息が詰まる」
 良い気分転換になった、礼を言う。
 すっきりしたような表情で、そう言った王太子に、ルーファスは「こちらこそ」と応じる。
「こちらこそ、良い鍛錬になり、お礼を申し上げます。アレン殿下。最近は、厳しい訓練からは遠ざかっていましたから……万が一、オーディス師が知れば、説教ものでしょうが」
「くく、違いないな」
 あくまでも嫌そうに、苦手な剣の師の名を出すルーファスに、アレンはくく、と愉快そうに笑った。
 笑うのを止め、アレンは真面目な顔になる。
「まだ仕事も残っているしな。私はそろそろ、部屋に戻ろうと思う……が、その前に……」
 そうまで言ったところで、まるで仮面を入れ替えるか如く、アレンはすっ、と表情を変えた。年相応の、十八歳の青年らしい快活な笑顔から、容易に感情をさらさぬことに慣れた、王太子殿下としての貌へと――。
 どちらの顔が、本当というわけではない。どちらも彼の真実であり、アレンという青年が抱えるものである。
 ふいに雰囲気を変えた主君に、ルーファスもまた剣を置いて、凍てつくような鋭い目をする。友としての時間は終わり、ここからは、主君と臣下としての会話なのだと、無言のうちに彼は察する。それもまた、望むところであった。
「例の一件でしょうか、アレン殿下?」
 一瞬のうちに、王太子の言いたいことを悟り、腹心である青年は先手を打った。
 確信に満ちた物言いに、アレンが眉をひそめなかったこそ、それが正解であると示している。
 狐の尾は切り離されましたか、とルーファスが尋ねると、王太子はため息をついて、苦虫を噛み潰したような顔する。
 例の一件――それは、例の化け物事件の際の、アルフォンソ=ヴァン=ローディール侯爵の変死の件だ。
 獄中で、何らかの毒によって中毒死を遂げたそうだが、毒を盛った下手人は未だ捕まっていない。
 自死の可能性もないとは言えぬが、あの粘着質なローディールの性格を顧みれば、その可能性は低かろう。むしろ、何者かに毒を盛られ、口を封じられたと考える方が、よほどしっくりくる。
 そう、何者か……。
 あの男が宰相ラザールに腰巾着だったことを考えれば、あの老狐、宰相が何らかの事情を握っている可能性は、十分にある。
「何処に、目や耳があるかわからぬ。心せよ」
「――御意」
 鋭いアレンの言葉に、ルーファスは恭しく応じる。
 一拍おいて、王太子は唇をひらいた。
「あれから、文官のディオルトにも、色々と調べてもらったが……ローディール侯爵の件で、宰相の尻尾は掴めなかった。感心したくはないが、痕跡の消し方は見事なものだな。後ろ暗いところがないはずもないのに、あの男の関わりだけ、綺麗さっぱり消してみせた」
 見事なものだ、と言うしかないアレンの心には、忸怩たるものがある。
 国政にもたらすであろう、混乱を顧みれば、今、権力を二分しつつある宰相と、表だって争うべきではない。が、しかし、それにも限界というものがある。
 かの英雄王の正当なる血筋、第一位王位継承者であるアレンにとって、宰相ラザールの横暴ぶりは、とても許せるようなものではない。
 アレンの心境を慮り、ルーファスは目を伏せ、
「その後、宰相の動きは……?」
と、尋ねる。
 いや、と王太子は首を横に振った。
「間諜を二、三人送り込んできたくらいか……まあ、これはいつものことだが……他は、静かなものだな」
 政敵の宰相に、目立った動きはないにもかかわらず、そう言うアレンの顔色は冴えない。
 何もないことを、訝しがっている風でさえある。
 もし、何事もなく、杞憂であれば、それに越したことはないのだが……。
「それは……逆に、不気味ですね」
 アレンの思考を読み取ったように、ルーファスがその続きを引き取った。
 ――この束の間の平穏が、嵐の前の静けさでないと、一体、誰が言えよう。
 ああ、と彼の主君が、同意の相槌を打った。
「何にせよ、急に仕掛けてこないとも限らん。今更、言うまでもないだろうが、身辺の警戒は怠るなよ。ルーファス」
 心得ております、と首肯しかけ、ルーファスはふと「……アレン殿下」と呼びかけた。
「何だ?」
「……セシル殿下の件も、お忘れになりませんよう」
 そう言った男の瞳は、氷と称されるに相応しく、冬の海のような色合いをたたえていた。
 己の言葉が、敬愛する主君を傷つけると知りながら、それでも、彼は釘を差すのだ。
「……」
「殿下が幼い頃から、弟殿下を見守り、大切に慈しんでこられたのは、重々承知しております。ですが、セシル殿下は、あの宰相ラザールの孫です。そして……セシル殿下は、祖父である宰相に逆らえません。聡明な殿下ならば、この先は言わずとも、おわかりでしょう?」
 無言で目を伏せたアレンに、ルーファスは更に苦言を重ねずにはいられない。
 ――たとえ、どんなに憎まれようとも、主君の命を守るのが己が役目だ。 
「……わかっている」
 苦言を呈したルーファスに、深く重い息を吐きながら、アレンは「……わかっている」と首を縦に振る。
 一瞬、ほんの一瞬、その端整な面が、苦しげにゆがんだ。
 凛々しい王太子としての姿ではなく、己の無力に悩む、ただの十八の青年としてのそれだ。
「わかっていながら、どう足掻いても、肉親の情に流されるあたり、私も脆いのだろうな。父上と同じく、王には向かぬ男だ……王太子としては、不甲斐ないな」
 そう自嘲するように言い、アレンは珍しく、皮肉気に唇をつり上げる。
 主のそんな姿に、ルーファスはかけるべき言葉を持たず、「……殿下」と言ったきり、押し黙った。
 王太子殿下は、ルーファスが唯一無二の忠誠を捧げる相手、脆いなどと、王に向かぬなどと、絶対に思わぬ。まっすぐに太陽を仰いで、天に伸び、しなやかな若木のような精神を持ちうるアレンが、王に相応しくないならば、信じるに値する者など存在しうるだろうか。
 しかし、アレンもまた人間である以上、弱さや脆さを抱えていることは、否定のしようもない。
「……いや、今のは、忘れてくれ。私としたことが、つまらぬことを言った」
 押し黙ったルーファスを気遣うように、アレンは苦笑じみたものを唇にのせると、穏やかな声で言った。
 その凛とした蒼灰の眼差しに、先程までの年相応の脆さは、既にない。
 寝室から出てこない父王に代わり、このエスティアを守るのだという誇りこそが、彼を支えていた。
「セシルのことはともかく、お前の忠言、心に留めておこう。脆い主で、すまないな……許せよ」
 すまない、と謝るアレンに、ルーファスは首を横に振った。
「許すなど……ご無礼を申し上げたのは、私の方です。どうか、お許しを、殿下」
 憎まれるのを覚悟で、口にした言葉だ。
 気の短い王族ならば、首くらい刎ねられていても、おかしくはないというのに、詫びられる覚えなどなかった。
 アレンは目を細め、困ったように微笑った。
「お前は厳しいのに……昔っから、妙なところで優しいな。ルーファス」
 そう言われたルーファスは、怪訝そうに眉をひそめ、深くため息を吐き出す。
 冷徹だの、心臓が氷で出来てるだの、さんざんな酷評を……事実であるから、否定しようとも思えぬが……そんな己に向かって、嫌味でもなく、こんなことを言う人間は限られている。
 アレンと、そして、あの少女くらいのものだ。
「まったく身に覚えがありませんが……」
 間髪入れず、そう応じてきた腹心の部下に、アレンは眦をゆるめ、
「そう言うところが、だ」
と、言う。
 それ以上は語らず、アレンは壁にたてかけた剣を手にすると、訓練場の入り口へと向かう。「行くぞ」と声をかけられる前に、ルーファスもまた、その背中に付き従った。


 その後、少ししてから、アレンと別れたルーファスは一人で、王宮の廊下を歩んでいた。
 精緻な天井画や、名のある職工の手による壺やら彫刻やらを一瞥だにせず、さながら磨き抜かれた鏡のような床を、足早に歩く。
 しかし、その歩みは角を曲がろうとしたところで、唐突に止まった。
「……わっ」
 短い悲鳴。
 腹のあたりに何かがぶつかる、鈍い感触。
 ドサドサッ、と何かが落ちる音――。
 前を見ていなかったのか、急にぶつかってきた小柄な影に、ルーファスはとっさに片手を伸ばし、床に尻餅をつこうとした、その小さな背中を支える。子供だけに、その身体はあの少女よりも更に軽く、難なく片手で受け止めることが出来た。
 腕の中に納まってしまうような、華奢で頼りない体躯を支えながら、救い手である男は「お怪我は……」と尋ねる。
「お怪我は、ございませんか?セシル殿下」
 尻餅をつく寸前、ルーファスに支えられた少年――セシルは、とっさの事態についていけていないのか、あうう、と困惑したような声を上げながら、砂色の瞳を何度も瞬かせる。
 その一向に要領を得ない様子に、ため息ひとつ。
 どうやら、目立った怪我はしていないようだと判断して、ルーファスはセシルの背中から手を離すと、この幼い王子が落としたらしい、乳白色の床に散らばる本を拾い上げた。取り出したるハンカチで、軽く埃を落としてやり、いまだボーっとしているセシルの手に、「これは、セシル殿下のものでございましょう」と、拾った本を握らせる。
「あ……う、うん」
 ようやく我に返ったらしいセシルは、何度も首を縦に振ると、ぐ、と大事そうに本を胸に抱え込んだ。
 引っ込み思案な少年は、しばらく、安堵したように本を見つめていたが、やがて、おずおずと顔を上げた。
 薄い砂色の瞳が、ルーファスの姿を映す。
 やがて意を決したように唇が動いて、小さな小さな声が漏れた。
「あの、助けてくれて、ありがとう。エドウィン公爵……本のことを気にしてて……きちんと前を見てなかったから、ごめんなさい」
 この前も女官に叱られたばかりなのに、とセシルは恥ずかしげに、頬を赤らめる。
 人と喋ることは苦手なのか、ひどく緊張した面持ちの少年に、ルーファスはいえ、と否定の言を吐く。
「いえ……こちらこそ、大変ご無礼をいたしました。セシル殿下にお怪我がなくて、何よりです」
 う、うん、とセシルはうなずくと、もう一度、ぎゅ、と大事そうに本を抱え込んで、
「あ、あと、本もありがとう……大切な本なんだ」
と、感謝をこめて言った。
「いいえ、私は何も……」
 まさか、本の礼まで言われるとは、と少しばかり虚を突かれたルーファスだったが、表面的には眉ひとつ動かさず、ソツなく応じる。
 セシルはふるふると首を横に振ると、それっきり黙り込んでしまった。
 アレンを通じて、彼らは何度も面識はあるものの、こうして一対一で話すことは殆どない。一体、何を話したらいいのか、思いあぐねているのだろう。砂色の瞳がちらちらとルーファスを見て、ためらうように伏せられ、口をつぐむ。その繰り返し。
 一方、ルーファスの方とて、事情は似たようなものだった。
 主君であるアレンとは異なり、彼にとってセシルは、主の異母弟というだけの存在にすぎぬ。
 しかも……あの憎々しい老狐、ラザールの血縁だ。
 主君に諭されるまでもなく、宰相の傀儡とされるセシル殿下もまた、不憫な存在であるのだと、そう理解はしているものの、かといって自ら好んで近寄ろうとは思わない。そもそも、セシル殿下と会う際には、ほぼ必ずと言っていいほどアレン殿下が一緒であり、そういう時、この気弱な弟殿下は決まって、異母兄の背中に隠れてしまう。ゆえに、まともに話す機会など皆無だ。
 なかなか終わらぬ、気まずいまでの沈黙に、さしもの氷の公爵と称される青年も、少々、閉口せずにはいられない。
 (話したくないならば、別段、無理に話すほどの理由は、こちらにはないのだがな……)
 好んで、近寄りたくないのは、おそらくセシル殿下も同じだろう、とルーファスは思う。
 先ほどから、何度も、何度も、こちらを見てくる砂色の瞳。
 その瞳が心なしか、怯えているように見えるのは、彼の気のせいではあるまい。
 びくびくと身を震わせる様は、臆病な小鹿か、はたまた神経質な野兎か……。
 まかり間違っても、子供に好かれる類の人間ではないという自覚はあるが、それにしても、こうまで怯えられると、何やら弱いものイジメのようで、ないはずの良心がうずく。
 同じぐらいの年頃でも、ミカエルのように反骨精神があるならば、まだ付き合いようもあるのだが、こうひたすらびくびく怯えるような子供は、はっきり言って苦手だった。
「え、エドウィン公爵……」
 いい加減、沈黙が辛くなってきた頃、やっとセシルが唇をひらいた。
「はい、何でございましょう?」
 苛立つほどのことでもなし、ルーファスが何気なく問い返すと、彼とまともに目を合わせたセシルが、ひく、と息を呑んで、さっと目を伏せた。
 青年の蒼い瞳は、別段、睨むというほどの鋭さをたたえていなかったのだが、強い視線を受け止めるのが苦手らしい。
 目を合わせただけで、それを逸らされた青年は、そんな少年の態度に、ルーファスは目を細め、心中、ため息をつく。
(本当に……アレン殿下とは、全く似てないな。セシル殿下は)
 かの王太子は、好意であろうと敵意であろうと、例え悪意であろうとも、その眼差しを正面から受け止め、王家の者として、相応しい態度を取るように努めることだろう。
 いかなる時でさえ、相手に怯むことなどあるまい。
 母が異なるとはいえど、黄金の髪、蒼灰色の目をしたアレンと、薄茶の髪と砂色の目を持つアレンは、容姿からして全く似ていないが、容貌もさることながら、それ以上に性格の差が顕著だ。
(いや、というより、セシル殿下は誰にも似ていない……この王宮にいる、誰一人として)
 万が一、言葉にすれば大変なことになるが、それは誰も否定しようがない、事実であった。
 父である国王オズワルトととも、祖父の宰相とも、異母兄のアレンや、異母姉のセラフィーネ……果ては、生母である宰相の娘とさえ、容貌に似た所が見当たらないのだ。
 それゆえに生じる、些細な違和感――。
 今まで、それを口に出す者がいなかったのは一重に、権力の大半を握る宰相への遠慮からである。
 考えすぎかもしれぬが、なぜか、その思考はルーファスの心に、微かな歪を残した。
「……いたでしょう?」
 そんなことをを考えていたせいだろうか。
 一瞬、セシルの言葉に反応するのが遅れた。
 はい、とルーファスが応じると、セシルはもう一度、同じ言葉を口にした。
「あの、さっき、アレン兄上と訓練場にいたでしょう?エドウィン公爵」
 尋ねられたルーファスは、なぜそれを……とばかりに、怪訝そうな顔をする。
 セシルは恥ずかしそうにうつむきながら、「さっき、訓練場から出てくるのが、窓から見えたから……」と蚊の鳴くような声音で答える。
「そういうことでしたか……。僭越ながら、王太子殿下の剣のお相手を、仰せつかっておりました」
 隠すほどのことでもないので、ルーファスは正直に答えた。
 そんな彼を、眩しげに仰ぐと、セシルは「すごいなぁ……」と感心したように言う。
「アレン兄上の剣の相手が務まるなんて、騎士団の人間くらいしかいないのに、すごいなぁ……兄上がおっしゃってたよ、エドウィン公爵は本当に強い、って」
 少年の声には、羨望と憧憬と、ほんのわずかな嫉妬が混じっていた。
 どこか眩しげに砂色の瞳を細めると、セシルは長身のルーファスを見上げる。
 自分よりも、頭二つ分はゆうに高い身長。細身なのに、よく鍛えられた体躯は、野性の獣のように隙がなく、しなやかだ。剣を握るからか、その腕はよく筋肉がついていて、逞しい。……自分の腕とは、まったく違うものだと、少年は嘆息せずにはいられなかった。
 つつつ、と視線を下げ、セシルは己の腕を見やる。
 生白く、ちょっと力をこめれば折れそうな、頼りない腕……。年の差があっても、同じ男の腕だというのに、なぜ、こうも違うのだろうか?
「私のは、ただ必要に駆られて、覚えただけです。誇るようなものではありません、セシル殿下」
 その剣を血に染めてきた男としては、憧憬交じりの少年の視線がむず痒く、ルーファスはおざなりに、そう答えた。
 とはいえ、平和な王宮育ちの殿下は、そこまで考えが至らないのだろう。青年の答えを「そう」と受け止めると、剣を振るうその腕を見て、うらやましげに言った。
「兄上の剣のお相手が出来るなんて、良いな……僕も、アレン兄上になら、剣を教わりたかったんだけど……」
 お祖父さまに禁じられて、という一言を、セシルは喉の奥で飲み込んだ。
 武芸の類は、決して得意でも好きでもなかったけれど、優しくも厳しい兄上にならば、教わりたかった。けれど、宰相たる祖父が、そんなことを許すはずもない。
 言いつけを破れば、厳しい折檻が待っている。
 我慢するしかない。
「僕は、身体があまり丈夫じゃないから、って、侍医が……」
 それは、本当のことだった。
 壮健とは言わずとも、虚弱という程ではないにもかかわらず、セシルが何か変わったことをしようとすると、血相を変えた侍医が飛んでくる。そうして、お身体を大事になさいませ、とくどくどしい説教をした後、いそいそと宰相へと報告するのだ。
 その度に、祖父は優しく、慈悲深い目をして微笑う。――貴方は何もしなくてもいいのですよ、セシル殿下、と。
 何もしなくていい、出来なくていい、ただ生きて、王子という駒でいてくれれば、それでいいのだと。
 喋っているうちに、思い出さなくていいことまで思い出して、セシルはうつむいた。
 じわり、と目尻に涙が溜まりそうになるのを、懸命にこらえる。
「力もないし、腕も細いから、剣も持てないしね……お祖父さまも……」
「――セシル殿下」
 しょうがないんだ、と自嘲気味に笑うセシルの言葉を、ルーファスがさえぎった。
 きょとん、とした目でこちら見てくる少年に、ふぅ、と息を吐いて、男は唇をひらいた。
 その蒼い瞳は、先と変わらず、強い光を宿している。
「何も、武だけが強さではありません」
 その眼差しの鋭さに、薄茶の髪の少年は、一瞬、怯んだように身をひいて、されど、目だけはそらさなかった。
「……」
「剣を振るえずとも、殿下には殿下の、為すべきことがおありでしょう」
 セシルは目を丸くした。
「為すべき、こと……?」
 ええ、とうなずきながら、己らしくもないことだ、とルーファスは自嘲した。
 不遇な身の上の王子に、同情を覚えるほど、自分は優しくないはずだった。
 ――アレン殿下に、突き付けた言葉に嘘はない。
 宰相の孫であるセシルは、いずれ王となるアレンの障害、ひいては敵に回る可能性もある。今は、素直で善良な少年であっても、そのまま成長するとは限らない。いずれ、己の身を守る知恵も学ぶだろうし、野心も芽生えるかもしれぬ。
 そうなった時、主君の手を汚させるつもりはない。
 自分はきっと、手を下すことを、躊躇いはしないだろうという予感がある。されど――
「卑下せず、学ばれることです。セシル殿下……それこそが、貴方の剣となりましょう」
 王子が腕に抱えた本を示し、そう言ったルーファスに、セシルは戸惑うような、言われたことを消化しかねるような顔をした。
 励ましというには厳しく、叱咤というには優しいそれ。
 何らかの感情を覚えるより先に、少年の頭がそれについていかなかったのだ。
 お前はお前でいいのだよ、と優しい異母兄は言った。何も期待してない、と祖父は冷ややかに言った。
 でも、今まで、誰ひとりとして、自分にそんな言葉をかけてきた人はいなかった。だから、どうしていいのか、わからない。
 セシルは結局、いつものように背を丸めて、「……うん」とたどたどしい返事しか言えなかった。
「……出過ぎた言でございました。ご不快に思われましたら、お忘れ下さい」
 わかったような、わかるぬような、たどたどしい返事しかかえせなかったセシルに、ルーファスはため息まじりに、そう言った。
 呆れられてしまったのかと、セシルは恐々と、目の前の青年を仰ぎ見たが、そういうわけではなさそうだ。
 青年の整った顔には、何やら苦そうなものがあったが、自分への苛立ちは伝わってこない……気がする。
「……あっ」
 その時、セシルは大切なことを思い出し、思わず、あ、と声を上げた。
 立ち話をしている間に、うっかり忘れていたが、今は勉学の合間の休憩時間だったのだ。
 今頃、歴史学の教師は、自分の部屋で待ちぼうけをくらわされ、侍従は戻ってこないセシルの姿を、必死に探し回っていることだろう。悪いことをした。
 急にあわあわとした態度を取り始めたセシルに、ルーファスが「どうなさいました?」と訝しげな目をする。
「ぼく、これから歴史学の授業なんだ……部屋に戻らないと……」
 さようですか、とルーファスがうなずく。
「それでは、私もこれにて失礼いたします。お引止めしてしまい、申し訳ございません」
 彼が辞する為の挨拶を口にすると、セシルは「う、ううん」と首を横に振り、何かまだ言いたいことがあるように、その場に立ち尽くした。まだ何か、と水を向けられるより先に、気弱な少年にしては精一杯の勇気を振り絞り、セシルはルーファスに声をかける。
「あ、あのね、エドウィン公爵……」
「はい」
「セラフィーネ異母姉さまは、お元気でいらっしゃる?」
 弟殿下からの予期せぬ問いかけに、ルーファスは表情は変えず、だが、内心で首をかしげた。
 嫁いだ異母姉の生活を案ずるのは、別段、おかしくはあるまい。しかし、セラに限って言えば、“秘された王女”と呼ばれ、王宮でも無いものとして扱われていた身だ。
 アレン殿下を筆頭に、王家の兄弟たちと、親しい付き合いがあったようには、思えない。セシル殿下が、あの宰相の孫だから、というだけでなく。
「ええまあ、お健やかに過ごしておられますが、セシル殿下と親しくされていたとは存じませんでした」
 一瞬、迷ったものの、ルーファスはさりげなく探りをいれつつも、あたりさわりのない言葉を口にする。
「ううん……昔、一度だけ……」
 セシルは微かに頬を色づかせ、はにかむように言った。
 やや引っ掛かりを覚えたルーファスが、その真意を見極めようとした時、遠くから「セシル殿下、いずこへいらっしゃいますか――」と、セシルの姿を探し求める、彼の侍従の声が聞こえた。
 も、もう?と焦ったセシルが、首をそちらに向けたのを見てとり、ぐずぐずするのは性に合わないと、ルーファスは「失礼を」と恭しく一礼すると、踵を返す。
 そんな彼の背中に、後ろから、小さな、小さな、今にも消え入りそうな声がかかった。
「……ありがとう。エドウィン公爵」
 無垢な少年の声を、背に受けながら、ルーファスは我ながら似合わぬことをした、と自嘲し、かすかに口角を上げた。


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