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四章  過去と復讐  10


 夕闇に包まれた、エドウィン公爵家の屋敷。
 早朝からテキパキと働いていた使用人たちも、明日に備えて寝台に入るなり、隠しておいた酒をちびちびと舐めるなり、おもいおもいの時間を過ごしている頃のこと。
 屋敷の奥方である少女は、自室で物思いに沈んでいた。
 薄暗い部屋の中、セラのいる机の周りだけが、燭台の焔でぼんやりと照らされている。じりじりと揺らめく蝋燭の焔が、苦労した痕跡の感じられる、ミミズののたくったような文字の綴られた羊皮紙や、お下がりの羽根ペンやインク、封蝋、彼の魔術師から借りた薬草についての書物などを、白く浮かび上がらせていた。
 しかし、セラの目線はそれらに向けられることはなく、睫毛は憂いがちに伏せられ、床に伸びた影は丸いシルエットを描いている。
 彼女の翠の瞳は、此処ではない、何か別のものに想いを馳せているようだった。
 あわく唇がひらいて、部屋着の衣擦れの音と共に、微かな吐息がこぼれた。
 (アンジェリカさんの、あの目……怖いけど、いっそぞっとする位、綺麗だった……)
 耳の奥の奥で、先程、アンジェリカと交わした会話が繰り返される。
 甘く、蠱惑的で、それでいて、肌を突き刺すような鋭さをふくんだ、艶のある声――。
 耳朶を、鼓膜を、直接ふるわすように、あの美しいひとは囁いた。
『憎いですわ。ルーファスは、心の底から求めるものは、絶対にくれない人だから。――絶対に手に入らない、宝石みたいな男って、殺してやりたくなるでしょう?』
と。
 返すべき言葉が見つからず、セラは「アンジェリカさん……」と途方に暮れた表情で、首を回し、その女の貌を見た。
 紅よりもなお、紅い唇は弧を描いている。
 女の白皙の面に浮かぶのは、いつも通り計算され尽くしたような艶笑だ。されど、それは、嫉妬を孕んだ、どこか歪なものだった。
 ――まるで、迷っているようだ、とセラは思う。笑っているにも関わらず、隠しきれない影がある。笑っていいのか、泣くべきなのか、わからなくなってしまった、悲劇に出てくる、哀れな道化のような……。
 そんな表現をするのが、失礼な程、優雅で麗しい人なのに。
 (ああ、きっと、この人は……)
 窓より降る光、頬におちたる淡い影、ましろい喉、アンジェリカの碧眼が、吸い込まれるような強いきらめきを放っていた。
 その瞳の奥に宿るのは、熱。
 ぬるいものではなく、何もかも燃やし尽くすような、灼熱の。それは、見紛うことなき、言葉すら意味をなくすような渇望にも等しい、彼の人への執着だった。
 その目を見た瞬間、セラは気づいた。
 政治上の婚姻とはいえ、ルーファスの妻となった己への妬心も、全くないとは言わぬ。けれども、ただ嫉妬という言葉で括ってしまうには、アンジェリカの瞳は昏く、背筋が凍るような鋭さを秘めている。そう、ぞっとし、肌が粟立った。しかし、反面、見惚れずにはいられない程、その碧玉の双眸は、美しいものだった。
 物言わぬ宝石とは、比することなど出来ぬ、生きている人間だけが放つ、魂を燃やし尽くすような――。
「……はぁ」
 少女の息がかかり、蝋燭の炎が踊るようにゆらぎ、その輝きを増した。
 とけゆく蝋が、透明な雫を伝わせるのを、セラは無言のまま見つめる。
 激しい感情は、彼女には縁遠いものだ。深く愛せば失うしかない己の宿命を悟った日から、ずっとずっと、心の天秤を動かさぬように生きてきた。もう誰も、誰一人として、喪いたくはなかった。罪の意識に押し潰されそうになりながら、自分の殻に閉じこもり、何もかも目を背けて。けれども。
 どこか自嘲めいた想いを抱えながら、セラは日頃、意識しないようにしている、左腕の袖を引き上げた。
 細く、肉付きも悪い、己の目で見ても貧相な腕だ。
 浮き上がるような黒い鎖のアザを見て、少女の眉がひそめられ、唇が歪む。前に見た時よりも、心なしか、鎖のアザが広がっているようだった。
 嘆いても、詮無きことではあるけれど、己に残された時間の刻限を突きつけられるようで、胸が痛んだ。自分には。
 ――奪い尽くすような、愛や憎しみは苦手だった。けれど、同じ位、焦がれて焦がれて、止まぬものでもある。
「え……」
 ひらり、と目の前を、蝶が舞った。
「あ、何……」
 その時、ふいに目の前に飛び込んできたそれに、セラは目を見開いた。
 ひらり、ひらり、と光の蝶が舞い飛ぶ。きらきらと光る、青白い鱗粉をまき散らしながら。
 窓を開け放ってもいないのに、急に部屋の中に入り込んできたそれに、唖然とし、ただ呆けたように、その蝶の羽が描く光の軌跡を、見守ることしか出来ない。青白く輝く蝶は、戯れのように、寝台から鏡台の辺りを飛び回り、やがて、机の上で羽を休めた。
 呆然と立ち尽くしたセラの目の前で、青白い輝きを放つ、その蝶はゆっくりと姿を変え、光輝く羽が抜け落ち、体全体が白くなり、そうして……手紙へと変化した。
 何の変哲もない手紙へと変わったそれは、最早、蝶であった面影すらない。
「……」
 セラはごくっ、と唾を呑みこむと、表情を引き締め、いつになく慎重な手つきで、その手紙へと手を伸ばした。
 封筒の隅に、指先がふれる。
 普通ならば、光り輝く蝶が入り込んできた時点で悲鳴を上げ、そのようなものが変化した手紙には、ふれることすら躊躇うだろう。けれど、彼女は仮にも“解呪の魔女”と呼ばれる娘であり、金色と称される魔術師の弟子であった。魔術や呪術であれば、この程度、驚くには値しない。
 封を切り、綴られた文字を目で追う。
 誰かに代筆してもらったのか、便箋からは女の白粉の匂いがし、崩れたような文字は、美しいというよりも、どこか色っぽい。同じ流麗さでも、ルーファスの書く、雄々しく、男性的な筆致とは対照的だ。ところどころ、つっかえながら、何とか読み進め、セラは手紙の内容に、顔を険しくする。
 手紙の差出人の名は、――だった。
 全てを読み終えたセラは、手紙を片手に立ち尽くし、天井を仰ぐと、しばし、考え込むように目を閉じた。
 時間にして、数分だろうか。
 次のまぶたを開けた時、その翠の双眸に、既に躊躇いの色はなかった。
 伏せがちな瞳に、在りし日の少年の横顔が映る。輝く星はまばらで、寒空の下、吐く息を白くしながら、静かに寄り添ってくれた。
 寝台に歩み寄り、ごそごそと下を漁ると、こっそり隠してある、黒いローブを取り出す。薄手のドレスの上に蒼灰のショールを羽織り、その上にローブを重ねれば、外へ出ても、さほど寒さは感じないように思われた。
 妙に段取りが良くなってしまった己自身に、半ば嫌気が差すのを感じながら、ついでとばかりに、寝台の下からずるずると縄ばしごを引きずり出した。
 窓枠に縄ばしごをひっかけながら、セラは一度だけ、部屋の方を振り返った。――彼女の脳裏に、この行為に眉をひそめるであろう、ルーファスの顔がよぎった。
「ごめんなさい……ちゃんと戻るって、約束するから」
 今はまだ。
 それは、一体、誰に向けられた言葉だったのか。



 屋敷の外、木々の影に隠れるように、男は立っていた。
 夜の空気は殊の外、冷えるというのに、短い茶の上着をはおったのみで、寒がる素振りも見せない。あたたかみのあるハシバミ色の瞳は、ぼんやりと、星を仰ぎ見ているようだった。
 いつかを彷彿とさせる光景に、一時、セラの足が止まる。
 フレッド、と名を呼ぶと、焦げ茶の頭が小さく動いた。
 ハシバミの瞳が、どこか困った風に、ゆるく細められる。セラ、と呼びかけてくるのは、苦笑にも似た顔だった。
「ほとんど諦めていたのにな……来てくれるとは、思わなかったよ」
 なんだか複雑そうなフレッドの言葉には応じず、セラはやや強張った表情で、蝶が変じたそれを示し、「この手紙は……?」と、彼に尋ねた。
 魔術だよね、と重ねる声は、咎めるにも似た響きがある。
 例え、魔術や呪術という存在が、裏社会において認知されてはいても、王家から禁じられたそれは、一般人がおいそれと手を出すようなものではない。迂闊に手を出せば、破滅は免れず、時には命すら失いかねない危険なものなのだから……。
 自分のことを棚に上げているのは承知で、幼馴染であるフレッドが、それと関わりあっていると思うと、セラは不安になり、心配せずにはいられなかった。
 今、目の前に立つフレッドは、体格も良く、成長した大人の男だ。だが、彼女の頭には、埋まらぬ空白の歳月があり、未だ少年だった時の印象が抜けない。ちょっと乱暴なところもあって、けれども、家族思いで優しくて、よく妹のユーナの手を引いていた、そんな男の子の。
 ハシバミの瞳に、刹那、影がよぎり、口元が緩められる。
 ――ああ。
 子供の時と同じだと、セラは声も出さずに、うなずいた。思い出した。
 誤魔化したい時や、触れられたくない時、フレッドはいつだって、そんな顔をしたものだった。取り繕うように、寂しさを隠すように、わざと口元を緩める。
 それは、きっと、母に対しても、妹に対しても、弱音を吐くことが許されなかった少年の、精一杯の意地であり、虚勢でもあったのだろう。
 空白の歳月の中、記憶の奥底に、沈めてしまっていた。なんで、忘れていたのだろう。忘れてしまっていたのだろう。
「俺には、あんな風に、手紙を飛ばしたり出来ないよ……知人に手伝ってもらったんだ」
 それ以上の追及を拒むように、言葉少なに答えると、フレッドはセラの顔を正面から見つめた。
 寒空の下、寂しげに肩を震わせていた、小さな女の子。膝を抱えて丸まった、儚げな横顔がいとおしくて……母さんやユーナとは別に、彼が守ってあげたいと思った、初めての人だった。
 実ることも、告げることもなかった、淡い淡い、初恋の。
 あれから、自分も、セラもきっと変わってしまった。諦めて、失って、あの日のままでいることは許されなかった。だから、
「どうして来てくれたんだ?」
 フレッドは、そう問わずにいられなかった。
 どうして。
 流れた歳月の重みが、自分たちの距離を、遠いものにしてしまったのに。
「……貴方のことを、信じてるから」
 セラの答えは、予想通りといえば、予想通り過ぎて、フレッドは苦笑を禁じ得なかった。
 叶うなら、もっと違う状況で聞けたら、きっと幸せだっただろう。
 そういうところは、変わらないな、昔から……と、一言一句、噛み締めるように言う。
 しばしの沈黙の後、男は再度、唇をひらいた。
「なぁ、セラ、もしもの話だけど、昔から知っている奴が、まったく変わってしまったら……どうする?」
 昔のこと、何もかも忘れてしまったら。
「フレッド……?」
 意味深な言葉に、セラの翠の瞳に、気遣うような色がよぎるのを、フレッドは切ない想いで見つめる。やわらかな翠は、貧しくも、寄り添うように生きていた日々の、象徴だった。
 あの場所から這い上がりたかった、死んでしまった父さんの代わりに、母さんやユーナを守りたかった。親方のように、頑固で、でも、腕の良い職人になりたかった。幸せになりたかった。幸せで在りたかった。
 ――会いたかったなんて、嘘だ。
 何で今更なんだろう。
「俺の妹の名前、憶えてる?セラ」
 唐突に、まったく脈絡のない、しかも、わかりきったはずの問いを投げかけてくる青年に、セラは怪訝そうに瞬きをする。けれども、此方に向けられた、ハシバミの瞳は真摯で、冗談を口にしている風ではなかった。
「ユーナ……ユーナでしょう?」
「うん、そうだよな」
 フレッドは、くしゃりと顔を歪めて、今にも泣きそうな顔で笑った。


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