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四章  過去と復讐  11


「――王女様、どうかなさいましたの?お顔の色が優れませんわ」
 アンジェリカの声。
 碧玉の瞳が、じっと此方を見つめていた。
 いつかと重なるそれに、セラはハッと我に返り、手にしたフォークをふるわせた。
 そうしておいて、今更ながら、動揺を抑え込もうとするように、努めて、普段通りであるように装い、いえ、と首を横に振る。何事もなかったように、平静であるように、振る舞えていただろうか……?
「いえ、そんな……ご心配頂くには及びません」
 気丈であろうと思いつつも、どこか動揺の滲むセラの返事に、アンジェリカは「そうは仰いますけれど……」と柳眉をひそめ、憂うような表情を作る。紅い唇の間から、真珠の如き歯がこぼれた。
 心配ですわ、心配ですわ、心配ですわ……
 その声は細波のように、セラの耳の奥にこだまする。
 アンジェリカの青い瞳が、つーぅとセラの首から胸の辺りを滑り、手首を凝視した。ひそやかに、声もなく嘲笑う。
「先程から、お手が動いていらっしゃいませんわよ?」
 食欲が、おありになりませんの?
 今度こそ、傍目にもはっきりとわかるほど、セラの手がふるえた。銀のフォークが、不作法にも食器の端に触れてしまい、カチャ、カチャ、と耳障りな音を立ててしまう。
 目線を皿まで下げると、セラは小さな声で「失礼を」と詫び、手を動かし、食事を再開した。
 彼女の目の前には、コックのベンが腕を奮い、美しく盛りつけられた前菜の皿がある。
 若くして、公爵家の厨房を任されているだけあり、料理人の技量は高く、本来ならば、のちのメインへの食欲をそそるに十分なものであるはずだった。しかし、彩豊かなそれにも、翠の瞳には何ら感情がよぎることなく、ただ、のそのそと機械的に手を動かす。
 フォークを口元に運び、舌にのせる。
 咀嚼し、飲み込む。
 その繰り返し。
 新鮮な食材も、繊細な味付けも、今のセラの心を動かすには至らなかった。
 アンジェリカという、味にうるさすぎる厄介な客人に、しじゅう頭を抱えつつも、丹精込めて作ってくれたベンには悪いのだが、まるで、砂を噛んでいるようだ、と彼女は思う。
 何を食べても、舌の上でとろけるそれさえ、味がないように感じられる。……そんなはずもないのに。
 食欲がないという、アンジェリカの言葉に微かな反発を示すように、あるいは義務であるように、ただ手だけを動かす。此方を見てくる青い双眸に、面白がるような、探るような光が宿っているのを、うすうす察しながらも、セラは別のことに心を囚われていた。
 昨夜のフレッドとの会話が、彼を取り巻く呪いの影が、どうしても頭から離れない。
 知人に手伝ってもらった、と言っていた彼。されど、魔術や呪術を商いとする者たちが、何の対価もなしに動くとは、ふつう、考えられない。金銭、ならばまだいい。けれども、もし、それ以外のものだったら?失ったっきり、二度と取り戻せないものだったら?フレッドが支払った報酬とは、一体、何だったのだろう。
 (それに……)
 いつの間にか皿が空になったのすら気づかず、もうひとつ、気がかりなことを考え、セラは眉根を寄せた。
 命を狙われている、身の回りで奇怪なことばかり起こるという、アンジェリカ……彼女に襲い掛かるように倒れた、甲冑から感じた、呪いの痕跡。これらの件は、所詮、ただの偶然に過ぎないのだろうか。もし、もしも。
 不吉な想像を振り払うように、少女は浅く首を振る仕草をする。
 深く考えると、ずぶずぶと底なし沼に沈んでいきそうで、あまり考えたくなかった。
「差し出がましいようですけれど、本当に、お顔の色が冴えないですわ。王女様……何か、お悩みでも?」
 そう言ったアンジェリカの前に、湯気を立てるスープの皿が置かれる。
 ブイヨンの香りがかぐわしい、濃い琥珀色のスープだ。
 客人と奥方の会話は、当然、耳に入っているだろうに、高められた職務意識の賜物か、給仕をする者たちの動作が乱れることはない。
 流れるような無駄のない所作で、スープを並べると、給仕係の女中は音もなく下がろうとする。会話の内容が気にならぬ、と言えば、嘘になるのだろうが、耐えているのだろう。
「そういうわけでは……お気遣い、有難うございます。大丈夫です」
 やわく笑んで、否定の言を示すと、セラはのろのろとスープに手を伸ばす。相変わらず、食欲はないが……少しは腹に入れねば、すぐに参ってしまうのも、経験上、わかっていた。
 琥珀色のスープの海に、スプーンを沈める。あたたかな湯気が鼻先をくすぐる。
 掬い上げたそれを、口元に運ぼうとした瞬間、「ひ……っ!」と、短い悲鳴が上がった。
 すぐ目の前で上がったそれに、セラは唖然とし、何事かと目を剥いた。
「アンジェリカさん……?」
「ああ……」
 悲鳴の主である令嬢は、セラの呼び掛けには答えず、わなわなと指先をふるわせた。
 まるで、作り物めいた美しい手は、その、白い指先は、スープの皿へと向けられている。
 碧玉の瞳は、動揺と嫌悪の色が濃かった。
 嫣然とした笑みが似合いの唇すらも、ぶるぶると、手と同じ位、震えている。
 セラもまた吸い寄せられるように、何事かと腰を浮かせ、アンジェリカの前のスープ皿を覗き込む。同時に、低く呻いて、口に手あてた。臓腑から、こみあげてくるものがある。
「う……っ」
 ――濃い琥珀色の水面が、ゆらいだ。
 拳にも満たない、小さな灰色の生き物が、ぶくぶくとスープの底から、浮かび上がってくる。
 ゆらゆらと、水面を揺らがせるそれは、小さな手足を痙攣させているようだった。されど、それも錯覚だったように、その目はうつろに濁っている。
 スープをただようそれは、ネズミの死骸だった。
 黄金の巻き毛が、わなわなと生き物のように、蠢く。アンジェリカの眦が吊り上り、美貌が変じて、恐ろしい程の迫力だった。
 その唇から出る言葉は、興奮しきったものだ。
「何なのですの?これは!誰か、応えなさい!わたくしへの嫌がらせかしら――よくも、こんな、こんな下劣な真似を……っ!」
 肩をいからせ、アンジェリカは周囲に鋭い視線を飛ばす。
 その余りの剣幕に、正面にいたセラのみならず、食器を下げようとしていた女中も、なにひとつ、言葉を発することが出来なかった。
「こんなもの、自然に入るわけないでしょう!汚らわしい……!」
 怒鳴り疲れたのか、はあはあと荒い息を吐いたアンジェリカの目が、先程、スープの皿を運んできた女中の少女を、ねめつける。
 さながら射抜くような鋭さに、睨まれた少女は、身動きすら叶わない。――蛇に睨まれた蛙と、同じ状態だ。
 どうしていいのか、わからぬままに立ち尽くし、気まずそうに視線を泳がせている。
 ふっと、アンジェリカの目が和んだ。恰好の得物を見つけたというように、紅い唇が弧を描く。
 あなた、と呼びかける声は優しく、猫撫で声ですらあった。
「ねえ、貴女……名前は何と言ったかしら?」
 問われた金髪の少女は、目を丸くし、困惑を隠そうともしなかった。
 嫌な予感を覚えつつも、主人である奥方の気遣うような眼差しに、平気です、と目だけで答え、女中の娘は姿勢を正す。
「メリッサ、メリッサと申します。お嬢さま」
「そう、メリッサね……」
 アンジェリカはうなずくと、声も立てずに笑って、
「これは、貴女がやったの?よくもまあ、下賤な平民らしい嫌がらせだこと……」
と、侮蔑の念を露わにする。
 メリッサは最初、アンジェリカの言葉の意味が理解できないように、その場で固まっていたものの、やがて、己にかけられた疑惑に気づいて、サッと顔を強張らせた。
 拳を握りしめ、唇を噛む。
 動揺を露わにすればするほど、相手の思うつぼだと知りつつも、メリッサは顔を上げ、理不尽な言葉を投げてきた令嬢を、睨みつけた。傲慢な性根を、補ってあまりある美貌の主ではあるが、そんなことは今、関係ない。
 まったく身に覚えのない疑い程、腹立たしいものはないものだ。
 もしも、お互いの間に身分という壁がなければ、感情の赴くままに、怒鳴り散らしていたかもしれない。だが、己の立場、公爵家に仕える使用人としての矜持、叔母や皆に迷惑をかけるであろうことを思い、メリッサは我慢した。
 舌の先までのせかけた言葉を嚥下し、メリッサは首を横に振る。
「いいえ、お嬢さま。私は、身に覚えがありません。こんな、スープに、その、ネズミをいれたりなんて……」
「嘘を、おっしゃい。この皿を運んできたのは、メリッサ、お前でしょう。貴女以外に、誰がこんな真似を出来るというの?……答えられないでしょう?」
 メリッサの懸命の弁解を、アンジェリカは容赦なく切り捨てた。
 妖艶に足を組み、じわじわと得物をいたぶるような、女の意地の悪さに、メリッサは額に青筋を立てた。貴族の傲慢さや蔑み、身勝手さには慣れっこだが、平民とて物言わぬ家畜ではないのだ。
 詰られれば、傷つくし、身に覚えのないことで責められれば、憤慨しもする。けれども――
 (あたしが、ここで怒鳴ったりした日には、叔母さんや皆に、余計な迷惑がかかる……旦那様の御名にも、傷がつく……)
 騒ぎの渦中に、歩み寄ってきたセラが「アンジェリカさん……」と咎めるような声を出し、仲裁に入ろうとするのを、メリッサは目だけで拒む。思いもよらぬ反応に、躊躇し、足を止めた亜麻色の髪の少女に、メリッサはうなずいた。
 (いいんですよ、セラさま……庇ったりしなくても、そのお気持ちだけで十分です。あたしが、ちゃんと言えばいいだけの話なんですから……)
 落ち着くように、息を吐いた後、メリッサは堂々と正面を向いて、私じゃありません、と凛とした声で言い切った。
「私に、こんなことをする理由はありませんし、さっきまで、スープには確かに何も入っていませんでした。平民風情が、無礼な物言いであることは、承知しております……どうか、平にご容赦を」
 アンジェリカの疑いは仕方ないにしても、メリッサにも、彼女なりの言い分がある。
 包み隠さず、本音を口にすることが許されるならば、メリッサはアンジェリカのことが好きではない。傲慢で、殊更に平民を蔑む、伯爵令嬢の振る舞いを、不快に感じぬといえば、嘘になる。
 鷹揚な叔母や、生真面目な従者のミカエルでさえ、いささか苦々しく思っているようだった。
 何より、奥方様であるセラが寛容なのを良いことに、まるで、女主人のように過ごすなど、我が侭にも程がある。――セラさまだって、快くは思っていないだろう。でも、であっても、それとこれとは別の話だ。
 気に食わないからなどという、ただそれだけの理由で、こんな悪質な嫌がらせを仕掛けるなど、メリッサは一瞬たりとも考えたことがない。
 そもそも、明るく、影でこそこそするなど大っ嫌いな少女の性格からして、こんなことは、しようと思っても出来ないのだ。
 必死に言い募る女中の少女に、アンジェリカは繻子の扇子を広げ、くっ、と喉を鳴らした。
「ペラペラとよく喋る使用人だこと……じゃあ、お答えなさいな。お前以外に、誰がこんな真似をしたというの?」
「それは……」
 メリッサは反論できなかった。迂闊なことを口走った日には、自分以外、使用人の誰かに嫌疑が向かいかねない。
 うつむいた女中の少女に、鞭を打つが如く、アンジェリカは言葉を重ねた。
「あの時も思ったけれど、よく出来た使用人だこと……都合が悪くなると、いきなり黙り込むあたりが、平民の浅知恵の限界かしら?いいのよ、黙っていても、貴女ではない誰かか、鞭を打たれるだけだもの」
「なっ……」
 あんまりと言えば、あんまりな言葉に、メリッサが顔色を無くした。――何という、何という言い草だろうかっ!
 自分のみならず、使用人仲間すらも貶めるような令嬢の言動に、我慢に我慢に重ね、ギリギリのところで踏み止まっていたメリッサも、ついに耐え切れなくなる。
 キッと前を向いて、怒りのこもった目をアンジェリカに向けた。
「勝手に疑いをかけたあげく、なんてことを仰るんですかっ!我が侭も、いい加減になさいませ!」
「何ですって……お前、使用人が、貴族にそんな口を利いて、許されるとでも、本気で思っているの……!」
 女中の少女の言葉に、平民を見下しているアンジェリカは、不快感を隠そうともしなかった。
 使用人風情がっ、と心底、軽蔑するように言って、令嬢は手を振り上げた。
 そうして、何の迷いもなく、その手でメリッサの頬を張ろうとする。
 細く、長い悲鳴が上がった。
「……っ」
 近く、訪れるはずの衝撃に、メリッサは反射的に目をつぶった。
 スープの皿が落ちる。
 パンッ、と頬を張る、乾いた音がした。
 痛い……じんじんとする……痛いはずだ。
 来るべき衝撃に備えていた彼女は、呆然と頬をさすった。痛くない。かすりもしていない。じゃあ、今の頬を張った音は?
 恐る恐る、まぶたを上げたメリッサの、青い目に映ったのは……
 アンジェリカから庇うように、目の前に立ちふさがった背中に、メリッサは瞠目し、悲鳴にも似た声を出す。
「セラさま……!」
 とっさに奥方様という呼び方を忘れる位、メリッサの動揺は、激しかった。
 よく状況もわからない程に、混乱している。
 無様にも、わたわたと慌てることしか出来ない。
 守るように、自分とアンジェリカの間に入り込んだ、その華奢な背中が意味するものは――。
 セラさま、セラさま……。
 動揺の余り、たどたどしくなった呼び声に応じるように、その少女は振り返った。代わりに張られた頬は、手形で赤くなり、爪がかすったのか、唇の端がわずかに裂けていた。
 それでも、今にもこの世の終わりとでも言うような、メリッサの悲愴な顔を見かねたのだろう。睫毛がふるえ、翠の瞳が細められる。
 へいき。痛くないよ、音もなく唇だけが動く。
 思いつく限り、最も下手な嘘だった。
「あ、わたくし……何てことを……そんなつもりでは、申し訳ござい……」
 今まで散々、無礼なことをしてきたとはいえ、流石にとんでもないことを仕出かしたと、青くなるアンジェリカに、セラはいつになく淡々とした声音で応じた。
「かすり傷ですから、お気になさらず。今のは、ちょっとした不幸な行き違い、偶然、手がかすってしまっただけ……そうですよね?アンジェリカさん」
「ええ、ええ……」
 すっかり従順になったアンジェリカは、何度も首を縦に振る。
「メリッサは、何もしていない。今のは、ただの偶然の事故……それでいいですよね。ね?」
 赤くなった頬で、それでも、にこりと笑ったセラに、差し出された助け舟に、わずかに余裕を取り戻したアンジェリカは、一も二にもなく飛びついた。
「ありがとうございます。王女様は、まこと、慈悲の女神のような御心をお持ちの方ですのね。感服いたしましたわ」
 露骨すぎるお世辞に、セラは眉をひそめるでもなく、「偶然の事故ですから、お忘れくださいね……メリッサ、行きましょう?」と、側付きの少女に声をかけ、扉の方に歩き出す。
 メリッサは複雑そうな顔をしたものの、女主人の背を追いかけた。
 扉に手をかけたセラの背中に向かって、アンジェリカが声をかける。
「ルーファスに告げて頂いても、構いませんのよ。私は、気にしませんわ」
 余裕ありげでありながら、その声には、冷たくも焦がれて止まぬ男への執心と、嫌われるのではないかという不安が、透けて見えた。
 立ち止まったセラは、振り返りもせず、「私からは、言いませんので、ご安心を。でも……」と、続ける。
「アンジェリカさんは、よく御存じでしょうけれど、あの人、ルーファスは、自分の領域を乱されるのを、良しとはしない人ですから……気をつけてくださいね」
 それっきり、扉が閉められる。
 部屋の中から、何か食器が割れるような音が聞こえたが、セラはもう足を止めようとはしなかった。


 セラを自室に送り届け、使用人部屋に駆けたメリッサが最初にしたことは、氷嚢を用意することだった。
 どうした、どうしたと、仲間たちが騒ぎ出そうとするのをなだめ、唇の端が切れていたのを思い出し、塗り薬も抱えて、再び、奥方様の部屋へと舞い戻る。
 メリッサが部屋に入った時、亜麻色の髪の少女は寝台に腰かけ、翠の瞳はぼぅと窓の外へと向けられていた。その横顔が、どこか儚げで、近寄りがたいようなものさえ感じつつも、メリッサは意を決して、「セラさま」と呼びかける。声を境に、セラの周りを包み込んでいた静寂が崩れ、くるり、と振り返った。
「あ、メリッサ……何処に行っていたの?」
 呑気と言えば、呑気すぎるセラの反応に、メリッサは苦笑を禁じ得なかった。
 寝台に近寄ると、赤くなった頬に、そっと氷嚢を押し当てる。
 わざと明るい口調で喋る。そうしなければ、泣いてしまいそうだった。
「氷嚢、用意してきました。頬、赤くなっちゃってますから……」
「ありがとう。ひんやりして、気持ちいいわ……」
 張られた頬が、じりじりと痛むのはしょうがないが、ひんやりと頬を冷やしていく感触に、セラは心地よさそうに目を閉じる。
 その穏やかさを、遠いもののように感じながら、メリッサはうつむいた。床の木目を見つめて、手のひらに爪を立てる。
 おぐしが、ポツリと呟いた言葉に、目を開けたセラが、小さく首をかしげた。
「……おぐしが、乱れてしまいましたね」
 ゆるゆると握った拳をひらいて、メリッサの手が、セラの亜麻色の髪に触れた。さらさらして、よく手に馴染む。この髪を結うのが、好きだった。
 念入りに櫛で梳いて、一房、一房、丁寧に編み込んだ髪。
 細い金の鎖で繋いだ、硝子の花の髪飾り。
 自慢するような事でもないけど、密かに会心の出来だったのだ。多分、ほどくのが惜しくなる位の。
 それもこれも、さっき頬を張られた時にか、すっかり台無しになってしまっていたけど。
「泣かないで、メリッサ。貴女がそんな顔をしていると、あたしも悲しいもの」
 そう言ったセラに、メリッサは眦を下げた。 
 どうして、このタイミングで、そういうことを言うのだろう。この方は。
 せっかく我慢しているのが、無駄になる。だから、わざと気丈なフリをした。
「泣きませんよ。だって、セラさまが庇って下さったから、どこも痛くないですし」
「そう、良かった」
「あの……」
 かけるべき言葉がある気がして、でも何と言えばいいのか、わからなくて、メリッサは口ごもる。有難うございます、ごめんなさい、どちらも、奥方様の求める言葉ではない気がした。
 いつだって、そうだ。本当に伝えたい言葉ほど、声にできぬものはない。
 押し黙ったメリッサに、セラはやわらかく微笑う。何も言わなくていいよ、と。
「――傍にいて、心配してくれたでしょう?それだけで、十分すぎるもの」
 穏やかな声に、メリッサは胸が締め付けられるような気がした。怒りと切なさで、彼女の心はぐしゃぐしゃだった。
 何事もなかったように微笑うセラに、どうしようもなく苦しくなる。
 (――――あぁ)
 わかった。メリッサには、わかってしまった。それは、どこまでも優しい拒絶なのだ。
 この方の心の奥には、誰にも触れさせたくない、柔く脆い部分があって、何人たりともそこに踏み入ることは、許されないのだと。
 悲しくはない、失望も。ただ。
 ただ切なかった。



 外出していたルーファスが、己の屋敷へ戻ったのは、夕餉の時刻も近くなった頃だった。
「お帰りなさいませ、旦那様」
「ああ。今、戻った」
 当主の帰宅とあって、わらわらと出迎えに出てきた使用人たちの中で、一際、目立つ少年の姿を目に留め、ルーファスは「ミカエル」と、従者を呼び寄せた。
 はい、と応え、足早に歩み寄ってきた従者の少年の手に、ルーファスは脱いだばかりの外套を預ける。
 そのままついてこさせ、軽く人払いをしたところで、主である青年は蒼い瞳を細め、
「俺がいない間、何か変事があったのか?……何か、言いたいことがありそうだな。ミカエル」
と、従者の少年に尋ねる。
 従者というのは、主に付き従わせるのが原則だが、あえて、屋敷に残したのは、アンジェリカの動向やら、先日の甲冑が倒れてきた一件が理由だ。
 執事のスティーブの忠義ぶりや、女中頭のソフィーの有能さには、信頼を置いているが、念には念を入れておくにこしたことはない。目端が利き、しかも、度胸もあるこの少年ならば、いざという時、自分に報せに来るだろうという、読みがあった。
 ルーファスの問いかけに、ミカエルは一瞬、何か思うところがありそうに、固く唇を引き結んだあと、
「ええ、まぁ、少々、騒ぎはありましたけど……お耳に入れる程のことでは、ありません。旦那様」
と、従順に答える。
 彼個人としては、アンジェリカ嬢の態度に、いろいろ言ってやりたいことが多々あったのだが、メリッサからきつく口止めされた上に、それが奥方様の願いとあれば、止むを得ない。
 重ねて言うなら、あのお喋りなメリッサでも、今回の件に関しては、口を割らなかった。
 ただ赤くなった奥方様の頬や、客間にこもったアンジェリカ嬢、そして、いつになく打ち沈んだメリッサの姿から、勝手に推測しただけだ。
 詳しくはわからないが、あの三人の間で、何かがあったことは間違いないだろう。
『旦那様には、言わないでね。お願い。約束よ、ミカエル坊や』
 あの口から先に生まれてきたようなメリッサが、いつになく真剣な表情で、懇願するように言ったのだ。
 嘘は吐かねど、沈黙は罪ではないと思いたい。
「ほお……お前が、そう出るのか。ミカエル」
 ミカエルの葛藤など、元よりお見通しだというように、ルーファスは口角を上げた。
 面白い、とでも言いたげだ。
 その眼光の鋭さに、思わず、うっと怯み、気圧されそうになりつつも、持ち前の反骨精神が、従者の少年を奮い立たせた。
 ここで、あっさり退くようなら、エドウィン公爵の従者など、端から勤まるはずもない。少女のような見目であっても、中身は違うのだ。
「……ひとつ、お尋ねしてもよろしいでしょうか?旦那様」
 そう口にしながら、ひたっと真っ直ぐに己を見つめてくる、従者の少年の姿に、ルーファスは小気味の良さを覚えた。
 薄水色の双眸に、緊張はあっても、怯えの色はない。
 この少年よりも、二十年も三十年もの長き歳月を、怠惰に過ごしてきた割に、自分と目ひとつ合わせられぬ王宮の狸どもに比べて、何とも良い度胸であることか。
 その度量に免じて、多少の隠し立ては、許してやることにした。
「許そう。何だ?」
「お客人のことです。アンジェリカさまの事、放っておいてよろしいのですか?」
 みなまで言う必要はあるまい、とミカエルは言葉を切った。
 旦那様なら、これで大方のことは、察してくれるはずだ。
 無言のルーファスに業を煮やし、従者の少年は唇を尖らせた。
「確かに、凄くお綺麗な方ですけど……」
 それ以上、悪口にならぬよう言葉を続けることは困難で、ミカエルは口を閉ざした。
 誰もが美しいともてはやす、アンジェリカの麗姿であるが、少年にとっては余り好ましいと言えるものではない。
 元々、ああいう生々しい女の匂いをさせた人は、苦手なのだ。死んでしまった母のことは愛していたが、母の白粉の匂いだけは、最期まで愛せなかったように。
 それよりも、メリッサや奥方様の事が、気がかりだった。
 子供扱いされたり、つまらないことで喧嘩したりする仲ではあるが、よく喋り、よく笑っている、姉のような少女の沈んだ顔は見たくない。勿論、奥方様もだ。
「ミカエル、まだお前には、わからんかもしれんな……教えてやろう。毒で咲かせた華ほど、妖しく、美しいものだ」
「旦那様……?」
 花を女に例えたのはわかるが、比喩の意味が掴みきれず、ミカエルは怪訝な表情する。
 孤児として、過酷な境遇で過ごしたせいか、年の割に大人びた少年ではあるが、少女めいた容貌のせいか、妙に男女のことに疎い一面があった。
 ルーファスは薄く笑って、「いつかわかる」と従者の少年の頭に手をおくと、自室ではなく、反対側へと足を向ける。
 あっ、とミカエルが焦った声を出す。
 そっちは――奥方様の部屋だ。
「あ、あの旦那様、どちらへ?」
 立ちふさがるように、前へと回り込んだ従者の少年に、ルーファスは眉を寄せた。
「セラの部屋だが、何か不都合でもあるのか?」
「い、いえ、何もありませんけど……今はどうでしょうか、ほら、奥方様も心の準備とか、その、いろいろ」
 我ながら、なんとも酷い言い訳だと恥じ入りつつ、ミカエルは必死に説得を試みた。
 旦那様が、奥方様の部屋を訪ねることには、何ら問題がないが、今はマズい。
 メリッサもあの調子だし、さっきまで頬を赤くしていた奥方様だって、あまり人と会いたい気分じゃないだろう。
 しかし、ミカエルの精一杯の頑張りも、主人たる青年の、冷ややかな一瞥を前にしては、悲しいほど無力だった。
「夫が妻の部屋を訪ねるのに、いちいち許可がいるのか?」
「……いいえ。何でもありません」
 ぐぅの音も出なかった。
 (ごめん。メリッサ……ごめんなさい。奥方様……僕じゃ、到底、旦那様に敵わない……)
 心の中で、己の力不足を謝りつつ、ミカエルは遠ざかる主人の背中を見送った。心配ではないとは言えないが、妻の部屋を訪ねるのに、従者がついて行くのも、無粋というものだ。
 (ああ、そうだ……。それよりも、大事なことがあった)
 ふいに真顔に戻り、ミカエルは青年の広い背中に向かって、一歩、近寄り、「旦那様」と声をかけた。
「ここ数日、屋敷の周りをうろついていた妙な男ですが、今日は姿を見せなかったようです。一昨日は、やけに熱心に、奥方様の部屋の窓を見つめていたようですが……」
 淀みなく、落ち着いた声音で報告する従者に、年相応の青さは感じられない。
 ルーファスとは、また別の意味で、彼も頭の切り替えが速い人間だった。
 ミカエルの言葉に、ルーファスは「わかった」と言葉少なにうなずく。
「ご苦労だったな。引き続き、屋敷の内外をよく見ておけ。ミカエル――思ったよりも、面倒なことになるかもしれん」
「畏まりました」
 胸に手をあて、浅く頭を垂れたミカエルの脇を通り、ルーファスは廊下の暗がりへと消えて行った。


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