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四章  過去と復讐  12


 夜の番を任せられた下男の手にした、燭台の灯りが、廊下の暗がりを白く照らし出す。
 食堂のコックに頼んで、作ってもらったのか、ホットミルクをのせた盆を持った女中とすれ違う。
 ふわぁ……、と眠そうに目をしぱしぱさせ、欠伸をしそうになっていた年若い娘は、ルーファスと目が合うと、恥かしそうに頬を赤らめ、軽く腰をかがめた。
 屋敷の主人たる青年には、よく見慣れた光景ながら、夜の女神イブストアーレの訪れと共に、邸内は目まぐるしく、その姿を変える。
 廊下から響く足音が控え目なものになり、話し声が囁き声に近くなり、枕元のそばに置かれた燭台を、吐息で吹き消す頃には、それすら聞こえなくなるのだ。そして、再び、朝日の恩恵が降り注ぐまで、穏やかな静寂に包まれる。今は、屋敷が完全なる静寂におちる、一歩、手前といったところだった。
 いまだ廊下から響く足音は絶えぬものの、昼間とそれと比べれば、かなり控えめなものである。
 二階へと繋がる、階段。
 その手すりに触れ、ルーファスは階段に足をかけた。時折、キシキシ、と年季の入った軋みが聞こえる。
 頭上では、壁に掲げられた、片翼の鷲の剥製が、命なき硝子の眼でこちらを威嚇してくる。幼い子供のように、その鋭い眼光に怯えることはないが、次の段に足をかけたルーファスの胸中に、ふ、と寂寥めいた想いが去来する。
 セラの部屋は、かつて、先代のエドウィン公爵・ウォルター、つまりは、彼の父が使っていた部屋だった。
 女中頭のソフィーの指示のもと、年若い娘が好むように、壁紙から、家具から何もかも、そっくり入れ替えた部屋に、かつての面影は微塵も感じられないが、時折、自嘲めいた想いを自覚するのも事実であった。まるで、父の痕跡を頑なに消そうとする、子供の頑是なき我が侭にも似た……。
 ミシッ、と階段の軋みが、耳につく。
 ――もはや、十年以上も前のことになるだろうか。
 ルーファスがまだ八つにもならぬ幼子だった時分、彼はよく母の悲鳴から逃れるように、この階段を上ったものだった。父の書斎に閉じこもり、難解な書物に顔をうずめて、「帰りたい、かえりたい、故郷に帰りたい」と泣きわめく母の悲嘆の声から、必死に耳をふさいでいた。それだけが、幼い彼に許された、ただ一つの身を守る術だったから――。
 子供を産んだとは思えぬ程、母はいつまでも若く、美しく、それでいて、消え入りそうな程に儚げで、いつも正気と狂気の境を彷徨っていた。
 昼間は母国へ帰りたいと啜り泣き、夜になれば、生まれ故郷が、愛しいひとびとが戦火で灰とかす悪夢にうなされる。医者の鎮静剤が効いているうちは、ボーっと虚空を見つめているのだが、切れるとまた暴れ出す。毎日、毎日、物心ついた頃から、それは当たり前のことだった。
 息子であるルーファスが近づくと、母の癇癪はさらに酷くなった。ゆえに、母に話しかけようとする事すら、執事のスティーブに止められた。どうして、と首をかしげた幼い彼に、スティーブは、どこか切ない目をして諭したものだった。「お母上は……リディアさまは、若君のことを愛していらっしゃるのですよ。ただ、流された血が、それを許さないのです」と。
 ……母の声が聞こえる。耳の奥にこびつくような、悲痛な声が。
「いやああああ、ごめんなさい。ごめんなさい。お父様、アルファス、許して、こちらに来ないでえええ……っ」
 ルーファスの蒼い目を見ると、母が恐怖に潤んだ目をして、泣き叫ぶ。ひどい時は、癇癪を起して、物を投げつけてきた。ははうえ、という言葉は、禁句だ。それを言うと、さらに発作が酷くなる。
 陶器の置物が飛んできて、切れた瞼から血を流しながら、幼い彼は呆然と立ち尽くし、泡を食った女中に連れ出されたこともあった。許して。ゆるして。来ないで。近寄らないで。ごめんなさい。ごめんなさい。耳の奥にこびりついて、離れない、あの声。
 そんな母とは対照的に、父の印象は希薄だ。
 多忙な父は、王宮に詰めていることが多く、滅多に屋敷には戻ってこなかった。ルーファスにとっては、父は背中を見るだけの男だった。
 ごく稀に屋敷に戻ってくると、鎮静剤が効いて、穏やかに眠っている母の横顔を一目見て、そっと去っていく。その背中に、ちちええ、と声をかける。自分とは異なる、薄緑の双眸が、こちらを見た。
「……」
 息子に伸ばされた、父の手はいつも、中空で止まった。そのまま、音もなく、腕が下ろされる。父の背中が遠ざかり、同じくして、靴の音も聞こえなくなった。そうして、父は……日に日に心を病んでいく妻と、愛情を抱けない息子を置き去りにして、逃げた。
 その背中を見るたびに、思っていた。何故、母上をここから解放してあげないのか、と。籠から出た鳥が長く生きられぬしても、このまま、黄金の鳥籠でゆるやかに朽ち果てるよりは、その方が、余程、救いであるだろうと――。
 もう、十年以上も前の事だ。今更、何を言っても詮無きことである。
 (下らんな……何もかも)
 最後の一段に足をかけ、ルーファスは唇の端に、苦い笑みをおとす。
 何もかも滑稽だった。この屋敷に色濃く残る、母の死の影も、療養の地から戻らぬ父も、そして、何より、その暗雲を振り払えぬ己自身こそが。


 扉を叩くと、内側から、はい、とかすれたような声がした。
 しばし、ルーファスが部屋の前で待っていると、ほんの少しだけ扉に隙間があく。
 ゆるりと開かれた扉の隙間、翠の瞳が、どこか不安げな色合いを宿し、彼を見た。
 ナイトガウンをはおった、少女の肩は華奢で、なだらかな曲線を描いている。既に、髪をほどいていたのか、柔らかな亜麻色の髪が、耳から頬のラインに、淡い陰影をおとしている。そのことに目を留めつつも、ルーファスは一歩、セラの側へと歩み寄る。
 たじろぐように身を引き、翠の双眸を縁どる睫毛がふるえたが、彼はそれを許してやるつもりはなかった。
 迷う暇を与えず、扉の隙間から、長身をすべり込ませる。
「少し、話がある。まだ眠るには、早いだろう?……セラ」
 ルーファスの蒼い瞳が、うつむいたセラの横顔を射抜くように見た。
 秘め事すらも、全て見通すように。
 少女の耳元に、どこかあまく、囁くように問えば、セラは唇を引き結び、刹那、ためらうような素振りを見せる。けれども、微かなため息をこぼし、諦めたように顔を上げた。はらり、と髪がひとふさ、うなじに流れた。
 様々な感情を宿したらしい、翠の瞳が切なげに揺らいで、次いで、凛とした煌めきを宿して、夫である青年を見据える。
 これといって際立つ容貌ではないのに、その瞳は震えがくるような、鮮烈さを秘めている。美しい、と。
 薄く、薄く、そうと悟られぬほどに、ルーファスは唇を歪めた。
「どうぞ、入って」
 問い詰められることは、覚悟しているのだろう。そう言ったセラの声は、いつになく硬い。
 そうして、彼女は自ら、ルーファスを部屋に招き入れた。
「いや、いい」
 勧められた椅子を断り、ルーファスは髪で隠された、セラの頬の辺りを見つめた。時間が経ち、だいぶ薄くなってはいるが、赤くなっているのは誤魔化せない。
 蒼い目が、すがめられる。じっと、見つめられた少女が、居心地悪そうに身じろいだ。
 ルーファスの手が、セラの頬へと伸びる。反射的に身をひこうとしたそれを許さず、男の長い指先が、亜麻色の髪をかきあげ、耳の後ろにかけた。そのまま、耳朶をはむように、言葉と吐息をおとす。
「これは、アンジェリカに頬でも張られたか?……怖い女だろう。あれは」
 あまく、甘美にすら聞こえる声音。
 低く、抑えたような嗤い。
 びくっ、と身を強張らせた少女にとって、それは悪魔の囁きにも等しかっただろう。
「……違う。アンジェリカさんじゃない。あたしが、あたしが自分で……」
 顔色をなくしたセラが、途切れ途切れに、うわ言めいた、埒もない答えを口にする。
 ルーファスは、ほぉ、と口角を吊り上げて、ならば、と続けた。
「アンジェリカの方を、問い詰めてみることしようか?あの女に、自分のした事を吐かせるのは、それはそれで愉しいだろうよ」
「やめて……っ!」
 責任を感じていたメリッサのことが、頭をよぎり、セラは咄嗟に悲鳴じみた声を上げる。一瞬だけ、翠の双眸が睨むように、青年を仰いだ。だが、声を荒げては、逆効果だと思ったのだろう。
 次の瞬間には、声のトーンを落とし、懇願するように言った。メリッサが。
「いいの。本当に大丈夫だから……お願い」
 聡明なこのひとを、そんな拙い言葉で、誤魔化せると、彼女とて本気で信じていたわけではない。それでも。
 ルーファスが表情を消し、どこか凍てついた眼差しを、セラに注ぐ。
 それとは裏腹に、赤く腫れた頬を、愛おしむように撫でる、男の手のひらは、泣きたくなる程に切なく、あたたかい。
 まるで、決して壊してはならぬものに触れるかのような、それは悲しいほどに優しくて、こみ上げてくるものに耐えるように、少女はまぶたを伏せ、微かに喉を鳴らした。――あぁ、届かない。声にもならない。
「貴女がそこまで言うなら、それに免じて、この件は触れないでおく」
 淡々とそう応じた彼に、セラはほっと胸を撫で下ろした。こう約束した以上、ルーファスはアンジェリカさんを問い詰めることも、メリッサに咎を負わせることもないだろう。そう思うと、安堵した。
 ありがとう。無意識のうちに、微笑んだ少女に、ルーファスが眉をひそめる。貴女は。開きかけた唇は、言葉を発することなく、閉ざされた。
 不思議そうに、目を瞬かせたセラに、青年は無言のまま首を横に振る。
 どちらも距離感を計りかねたように、不自然な沈黙が落ちた。
 なんとも言い難い雰囲気を断ち切るように、あの、と亜麻色の髪の娘が口火を切る。
「アンジェリカさんのことだけど……」
 言いにくそうに口をつぐんだ後、セラはかすれる声で言葉を重ねた。
 今、この瞬間、その胸に宿るものは、何なのだろう。
「あの呪いは、本物だよ。誰か、はわからないけれど、アンジェリカさんは狙われている……きっと、ラーグに聞けば、もっと詳しいことがわかるんだろうけど」
 何か、手がかりになるものを持っていけば、教えてくれるはず。
 そうまで口にしたところで、彼女の言葉は途切れた。
 ぺたと寝台に腰を下ろして、常にやわらかな光をたたえた翠の瞳に、珍しく、暗く澱んだ影を落とし、セラは震える声で問う。
 ――ルーファス。
 助けてあげるんでしょう。アンジェリカさんのこと、見捨てたりしないよね。駄目なの。駄目。呪いを実らさせちゃいけないの。絶対に。呪いは皆を不幸にしてしまうから、誰も救われないから、ずっと、ずーっと悲しみと不幸の連鎖が、続いてしまうから……いつまでも、いつまでも、悲劇を重ねてしまうから。ずっと、ずっと、何百年も――
 虚ろな目をして、半ばうわ言のように繰り言をするセラの視界には、目の前で佇むルーファスの姿さえ、意識の外のようだった。もっと遠い、どこか見てしまっているのか。
 小さく身体を丸め、両の腕で、冷え切った肩を抱く。
 そこに、“解呪の魔女”と呼ばれる、娘の姿はなかった。ただ、怯えた目をして、仔羊のようにふるえる少女がいるだけだ。
「――セラ」
 ルーファスが、やや強めに名を呼ぶと、セラが「あっ……」と声をもらす。
 虚ろだった目に、ようやく光が戻った。
 まだ呆然とした顔つきで、「あたし……」と呟いた少女に、ルーファスはもういい、という風に、大きく息を吐く。
「もう、その辺でいいだろう。貴女の言いたいことは、わかった……今宵は、もう休め」
「や……っ!」
 宥めるように、ふるえる肩を押さえようとした男の手は、悲鳴と共に振り払われた。
 白い手が、跳ね除けるように、男の手を打つ。
 思いにもよらぬ激しさに、さしものルーファスも、瞠目せずにいられなかった。女の細腕だ。打たれた痛みは、皆無に等しい。されど。
「……セラ?」
 彼の心に、怒りはない。ただ驚いていた。
 ルーファスの視線に、セラは怯えるように、いやいや、と幼い子供のような仕草をする。
 あ、う、とその唇から紡がれる言葉は、一向に要領を得ない。
 昂ぶっていた気持ちを静め、荒かった呼吸を整えてから、彼女は彼と目を合わせた。
「ごめんなさい。ちょっと、昔のことを思い出しちゃって……痛くなかった?」
「貴女に打たれたぐらいで、痛むはずもないだろう。とにかく、今夜はもう眠れ……わかったな?」
「待って……」
 これ以上、言葉を重ねていると、お互い、踏み込まない方が良い領域に踏み込んでしまいそうで、それを察したルーファスは、セラと距離を取ろうとする。
 最初は、印象に残らぬ娘だと思った。次に、不思議な少女だと思った。今は……。セラ、貴女は何者だ。妾腹の王女。英雄王の子孫。解呪の魔女。不揃いな破片が、歪な文様を描く。
 うるんだ翠の瞳や、蝋燭の灯りに浮き上がる、細い首筋が身体の芯をうずかせる。
 男の本質は、凍てつく刃であり、燃え盛る炎であり、そして、獲物の喉笛を食い千切る、美しい獣である。
 そんな男の葛藤にも気づかず、セラが立ち去ろうとする、ルーファスの腕を掴んだ。待って、と。
「ルーファスは……」
「何だ?」
「……アンジェリカさんのこと、今でも好きなの?」
 ルーファスの眉間に、皺が寄った。
「……何だと?」
 返した声は、彼自身、自覚せずにはいられない程、低く、冷ややかなものだった。
 冷静と言われる青年にしては、苛立ちが透けてさえいる。
 ルーファスの険のある眼差しに、一瞬、怯んだものの、セラは顔を上げ、彼をまっすぐに見つめてくる。
「いつか、聞かなくちゃいけないと思っていたの。だって、ルーファスは、王命であたしを娶ってくれただけでしょう?アンジェリカさんとか、他に好きな人がいたんじゃないか、って……もし、そう教えてくれたら、あたしは……」
 妾腹とはいえ、王女を妻にした身では、離縁は難しいだろうが、愛人ならば、セラが目をつぶってさえいれば、政治上は何の問題もない。
 そもそも、貴族の男女が、正式な伴侶とは別に、愛人を囲うなど、普通の事だ。ましてや、ルーファスのように若く、地位も有能さも兼ね備え、しかも容貌にも恵まれた彼に、今まで、そういった話がなかった方が、おかしいのだと、男女のことに疎い、セラとてわかっている。
 もしかしたら、他に好きな人がいたのに、王命だからと、別れたりしていないだろうか……。そうならば、ルーファスにも相手の女性にも、ひどく申し訳ないことをした。
 己の口から、愛人という言葉を出すのははばかられ、しかも、相手の女性にも失礼な気がして、セラは口ごもる。だが、言いたいことは明白だった。
「なるほど……」
 暗に、身を引いてもいいというようなことを言われ、ルーファスはうなずいた。
 そして、薄く、嘲るように笑う。
 秀麗な容貌だけに、それはより一層、ゾッとするような酷薄なものだった。
 おかしい。おかしいな。おかしすぎて、思わず、笑いを堪えるのに一苦労だ。
「――よくわかった。貴女にとって、俺はその程度の男か。ならば、遠慮はいらないな」
 そう吐き捨てたルーファスの行動は、速かった。
 セラの腰を抱いて、手慣れた動作で、寝台の上に押し倒す。
 ひゃ、と短い悲鳴を上げた、少女の背中を、片手で支えてやったのは、せめてもの気遣いだっただろう。
 上から、見下ろすような姿勢のまま、片肘をついたルーファスはセラの髪を、戯れにいじり、その耳に、まるで睦言のように囁く。
「ここ最近、屋敷の周りを、妙な男がうろついているらしいな……あれは、貴女の知り合いか?セラ」
「……」
 セラは、無言だった。ただ黙って、ルーファスの浅慮な振る舞いを咎めるように、睨んでくる。
 そんな目をしたところで、煽られるだけというのに、愚かなことだ。
「わざわざ庇い立てするほど、大切な男なのか?」
 揶揄めいたルーファスの問いかけに、セラは不愉快そうに、目を逸らし、ふい、と横を向く。
 いつになく反抗的な態度に、彼は彼女が庇う、その名も知らぬ男に対して、嫉妬と、そして、かすかな羨望にも近しいものを抱いた。今、この場に、その男がいなかったのは幸いだった。苛立ちに任せて、八つ裂きにしてしまいかねない。
 目を背けたくなるような、暗い嫉妬と欲望がない混ぜになったものが、蛇のような形をもって、胸を支配する。
 彼の行動も言葉も、今の体勢も、何もかも気に食わないのだろう。きつく眉をひそめたセラは、顔を横に向けて、頑なに、ルーファスと目を合わせようとしない。暴れるよりも、なお、深い拒絶に、男はどす黒い嫉妬の念を募らせる。
 下らない、と心の冷静な部分が、嘲笑まじりに告げてくる。誰かに執着することも、期待することも、十年前のあの日に、とうに諦めたはずだろう?――違うのか。ルーファス=ヴァン=エドウィンよ。
 (わかっているさ。自分の救い難い、愚かさ加減ぐらいはな……)
 内側の囁きに、声もなく応じ、ルーファスはセラの首筋に顔をうずめた。
 チリッ、と肌に押し付けられた熱に、あわく開いた唇から、声なき悲鳴が上がった。
 目尻にたまった涙には、心の痛みを覚えるのに、その翠の双眸に己だけが映り込むことには、歓喜を覚えるのだから、矛盾しているのだろう。支配したい。食らいたい。この身体の余すところなく、己を刻んでしまいたい。
『狂っているよ。ルーファス。お前も、父母と同じだ。狂っている……執着して、執着して、その末におんなを壊してしまう……』
 頭の中で、艶のある黒髪に、蒼い目をした少年が、冷ややかに笑った。ほら、ご覧、お前も同じだ。あの日の自分が、此方を指差す。
 ああ、そうだ。自分の中にも、あの男と同じ血が流れている。
 執着の果てに、妻を死なせた、父と同じ血が――。
「……どこを見ているの?」
 怯えでもなく、怒りでもなく、予想だにしなかったセラの声に、ルーファスは目を見張った。
 顔を上げると、微苦笑を浮かべた少女と、目が合う。翠の瞳が、ゆるく細められる。聞き分けのない子供を諭す時のような、静かで、抗い難く、されど愛情深い声だった。
 かたく強張った彼の手を、その指先を、一本、一本、解きほぐしながら、セラは言った。
「こんなことを、したいわけじゃないでしょう?だって、ルーファスが見ているのは――あたしであって、あたしじゃないんだもの」
 そう言った彼女の表情は、穏やかで、でも、どこか寂しげで、男は何か、硬いもので頭を殴りつけられたような気分を味わった。切れ者と言われる怜悧な頭脳も、公爵という地位も、男としての矜持も、何の役にも立たない。
 否定の言葉は、何もない。
 下らない、と己が捨ててきたものに、全てを持ち去られたような、そんな想いがじわじわと胸に染みていく。
 セラは儚げに微笑って、するりと彼の下からも、寝台からも抜け出した。
 そのまま、扉の方に向かい、一度だけ、ルーファスの方を振り返った。
「――忘れるから」
 扉が閉められる音と共に、その言葉がどこまでも残酷に響いた。
 ただひとり、部屋に残されたルーファスは、思わず、壁を殴りつけたい心境に駆られる。
 セラは、静かに怒っていた。


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