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四章  過去と復讐  13


 ハロルド=ヴァン=リークスは、上機嫌だった。
 両腕に買い物袋を抱え、黒翼騎士団の宿舎に戻る、騎士の顔は明るく、足取りも軽やかだ。
 無意識にだろう、時折、鼻歌を口ずさむ彼は、およそ半月ぶり、待ち望んだ休日への期待に満ちていた。
 彼の所属する部隊は、身分よりも実践経験の多さで選ばれているので、犯罪者の取り締まりは勿論のこと、何かと雑務を押し付けられたり、上流貴族のお坊ちゃん騎士達では、手に負えなくなった場合、尻ぬぐいをさせられることも、しばしばである。故に、約束された休暇というのは、ないに等しい。あっても、大概、事件だなんだと潰される。
 であればこそ、たまの休日とあらば、天にも昇る気持ちになるものだ。
 これで、ようやく実家に帰り、家族の顔を見に行けると思うと、ハロルドの顔から笑みがこぼれた。
(土産も買ったし……手紙のやり取りはしてたけど、気がつけば、三ヶ月ぶりか……元気かな。母さん、アーヴィン兄さん、ユーリアン、レイモンド、オリバーの奴……)
 編み物好きな母親には、毛糸とひざ掛け、余り身体の丈夫ではない長兄には、滋養のつくもの。勉強好きな弟のユーリアンには書物を、悪戯ばかりしている末の双子どもには、流行りの玩具を、それぞれ買っている。
 これで、父親代わりであり、やんちゃ盛りの弟たちに手を焼いている長兄の負担も、少しは減ることだろう。
 目をつむれば、ほんわかした母親の笑顔、おかえり、と緩く目を細める長兄……そんな兄の後ろに隠れて、こちらを見ているすぐ下の弟、わあわあ騒ぎながら、どーんと勢いよく抱きついてくる末の弟たちの姿が、鮮明に浮かぶ。早く会いたかった。
 母親は兄はともかく、育ち盛りの弟たちは少し会わないだけでも、すぐ大きくなってしまう。大切な家族を想い、赤髪の騎士の歩みは、自然、早くなる。
 楡や林檎の枝がそよぐ、宿舎の門をくぐり、途中で、食堂を任されているマルグリット夫人とすれ違い、他愛もない世間話を交わす。
 小柄だが、気風の良い夫人は、ハロルドが家族に会いに行くと話すと、焦げ茶の目を細め、籠から買ったばかりのプラムをくれた。ばんばん、と背中を叩かれ、「おっかさんに、ちゃんと顔を見せてやるんだよー!」などと大声で叫ばれるのは、やや気恥ずかしくもあったが、その気持ちが嬉しかった。
 騎士団の中でも、金のある貴族の子弟は、それぞれの住居で使用人と共に暮らしている為、此処で暮らしているのは、独身の平民か、ハロルドのように、実家が裕福ではない者ばかりである。故に、全体的に古めかし……否、ボロく、男所帯の汗臭さもあり、お世辞にも綺麗とは言えない。が、しかし、そうであっても、彼にとっては住み慣れた場所である。
 熟したプラムがのぞく紙袋を小脇に抱え、とんとんと軽快に階段を上がり、二つ隣の部屋のヘクターがデートだなんだと、留守にしていることに、神に感謝を捧げつつも、ハロルドは扉に手をかけた。
 しかし、扉を開けた瞬間、その笑顔は一瞬で凍りつく。
「遅かったな……邪魔をしているぞ」
 無言で、すぐさま扉を閉めた。
 相変わらず、嫌味な位、整ったお綺麗な面構え、耳に届いた低やかな美声に、心臓がばくばくと高鳴る。……主に、ほぼ全て、嫌な意味で。
 ハロルドは、今すぐ、この場から、走り去りたい心境に駆られるが、目の前にあるのは、自分の部屋の扉だ。
 敵前逃亡は騎士の恥、という以前に、荷物一式を人質?にとられては、逃げ場はないと言えよう。
 このところ、きつい仕事も多かったし、きっと疲れているのだ。だから、あんな幻影を見たのだろう。そう、幻聴だ。今のは幻聴だ、うん。そう頑なに思い込もうとし、彼は再度、自室の扉を開けた。神よ、どうか、今のが幻であってください――
「――――クッ、神よ、なぜ俺を見捨てたんだ……っ!!」
 神よ、なぜ我を見捨てたもう……
 などと、まるで悲劇の主人公のような台詞を口走りながら、頭を抱え、がっくりと膝をつくハロルドに、向けられた視線は、ひどく冷ややかなものだった。
 騎士を奇行に走らせた、当の元凶である黒髪の青年は、ふ、と皮肉気に口角を吊り上げる。
「ようやく戻ってきたと思ったら、随分な態度だな。ハロルド……疲労がたまりすぎて、頭に蛆でも沸いたか?」
 いけしゃあしゃあ、と働きすぎは身体に毒だぞ、などとうそぶく男、ルーファスに半ば殺意めいたものを憶えつつも、ハロルドは「誰のせいだ、誰の」とぼやきながら、よろよろ……と立ち上がった。
「この程度で驚くなんぞ、精神の惰弱さを、俺のせいにしないでもらおう」
 あくまでも悪びれず、しれっと言い放つルーファスを、ハロルドは心中で百万遍ほど罵倒しつつ、「お前なあ……」と頭痛を感じる、眉間を押さえた。
 赤の他人ではないにしろ、知人でも友人でも、事前に連絡もなしに、いきなり部屋で待ち構えていたら、普通は驚くものだろう。
 絶対に入るな、とは言わないが、事前に一言ぐらいはかけるのが、礼儀ではなかろうか?
 渋面のハロルドに、ルーファスは片眉を上げ、
「そうだな。勝手に入ったのは、悪かった」
と、詫びたものの、あまり反省の色は感じられない。
 驚くやら、呆れるやら、ようやく最初の衝撃から立ち直ったハロルドは、長い足を組み、優雅に椅子に腰をおろした青年を見る。誰が用意したやら、テーブルの上には珈琲まで。
 必要最低限の家具と、支給品の寝台、慎ましやかというか、質素に整えられた部屋にあって、いかにも貴公子然としたルーファスの姿は、明らかに浮いている。
 簡素な木製の椅子に腰かけながらも、ビロード張りの椅子に腰をおろすが如く、堂々とした振る舞いは、こちらが客人であるかのように錯覚しそうになる。……が、しかし、ここは紛れもなく、ハロルドの、己の部屋であるはずだ。
 案内もしていないのに、どうやって入ったのだろう。それほど厳格な規則で縛られているわけではないが、騎士団の役職にない者を、そう易々と部屋に入れたりはすまい。そこまで緩い警備なら、騎士団の沽券にもかかわる。
 よく俺の部屋がわかったな、と疑問をぶつけたハロルドに、ルーファスは「あぁ……」とうなずき、事もなげに続ける。
「貴方の部下の、確か、ヘクターといったか……?隊長に会いに来たと話したら、親切に、部屋まで案内してくれたぞ。『あっ、隊長ですか?今日は休みですから、暇人ですよ。この前フラれて、女っ気も乏しいですし、どーぞ、どーぞ、遠慮なく連れて行っちゃってください。一応、後で返却してくださいねー』と、言っていたが」
「ヘクターああああああ……!」
 此処にはいない部下の、あまりの大きなお世話っぷりに、上司であるハロルドは怒りの声を上げる。
 いつも通り、へらっと笑いながら、るんるんと軽やかな足取りで、女と遊びに行くヘクターの姿を想像すると、軽く、憎しみの念すら沸いてきた。
 ――間違いない。アイツ、絶対、面白がってる。
 額に青筋を立てそうになる、赤髪の青年に、ルーファスの一言が火に油を注いだ。
「今度、秘蔵の酒でも飲むかと誘ったら、えらく愛想が良くなってな。珈琲を用意して、隊長をよろしく、と」
 何の躊躇もなく、酒一本で上司を売り渡した部下に、ハロルドの堪忍袋の尾が切れた。
 うおおおっと、拳を振り上げたくなる。
「アイツ、ヘクターの奴うううううっ―――!酒一本で、上官を売りやがったなああああ――――!」
「人聞きが悪いな。俺はただ、友人に会いに来ただけだ……そうだろう?」
 怒り心頭な騎士をよそに、ルーファスは涼しい顔で、肩をすくめるのみだった。心なしか、愉しげなのは、気のせいだと思いたい。いや、多分、気のせいじゃない。この性悪どもが!
 こんなことなら、宿舎に居たりせず、さっさと実家に向かうんだったと、ハロルドは己の迂闊さを呪った。
 皆から、寄ってたかって遊ばれ、否、慕われているらしい隊長は、がくっと力なくうなだれると、「それで、何の用だ……?まさか、暇だから、ご機嫌伺いに来たわけでもないだろう」と、用件を尋ねる。聞いてしまったら、退けない予感はしたが、だからといって、無視できる性分でもない。
「そうだと言ったら?」
「許せるかっ!今すぐ、ここから叩き出されるか、あるいは、サシでヘクターと小一時間話すか、どっちか選べっ!」
「冗談だ。本気にするな」
 顔色ひとつ変えず、淡々と応じると、ルーファスはすぅ、と蒼い双眸をすがめた。そこに宿る、深く、凍てつくような闇に、ハロルドもまた唇を引き結び、表情を引き締める。そう長い付き合いではないが、無駄を嫌い、また無意味なことをしない男であることは、十分にわかっていた。下らぬ戯言を叩いても、その奥底には、冷徹な刃がひそんでいる。
 なればこそ、その一言には、臓腑に響く重みがある。
 氷と称される男が、唇をひらく。低い声がこぼれた。
「また性懲りもなく、下らん呪いとやらに手を出した、愚か者がいたらしい。狙われたのは、ルゼ伯爵家の息女だ……面倒だが、放っておくわけにもいくまい?」
「呪い?あの、人食いの化け物の時のような、ああいう奴か」
 穏やかならざる単語に、ハロルドはきつく眉根を寄せ、不快を露わにした。
 彼ら二人が出会う切っ掛けともなった、あの出来事。異形の化け物によって、何人もの罪のない人間が犠牲になり、食い殺されるという、実に凄惨な事件だった。救えなかったという後悔が、彼の胸中から、消え去ることは永遠にない。
「置かれた状況は、だいぶ違うがな。あの時のように、無関係な人間が犠牲になることはあるまい……悪くても、あの女が、アンジェリカが死ぬだけだろうさ」
 アッサリとそう言い、
「まあ、あの女が呪いとやらで、どんな惨い目に合おうが、さしたる興味はないがな……」
と言葉を重ねたルーファスに、ハロルドは渋面になった。そういう言い方は止めろ、と苛立った風に、騎士は語気を強める。
 無表情のまま、こちらを見てくる男の視線が、一切の温度の感じられないものであっても、撤回はしなかった。殊更に、偽悪的に振る舞われるのは、好きではない。馬鹿にするな、と殴ってやりたくなる。
 ルーファスは端整な面を、怪訝そうに歪めたきり、是と否、とも応じず、無言をつらぬく。何故、ハロルドがそのように渋面になるのか、理解しきっていない風でもあった。
 王太子の片腕、切れ者として知られる割に、意外な所で他人の感情にうとすぎる青年に、呆れとも憐みともつかぬものを感じつつ、騎士は「ハア……」とため息をつく。
「まったく……まぁ、それはともかく、だ。その呪いとやらと俺と、一体、どういう関係があるんだ?ルーファス」
 喋りながらも、嫌な予感はヒシヒシと感じていた。
 まさか、まさか、その呪いとやらを解決するために、手伝えなんて言わないよな……?な?
 半ば、祈るような必死さで、ハロルドは言った。彼には家で帰りを待つ、優しい妻と、愛らしい子供たち……は、残念ながらいないが、実家で彼を待っている家族はいるのである。母も兄も、きっと、自分が帰るのを、喜んでくれることだろう。
 (待っててくれよ、ユーリアン、レイモンド、オリバー……兄ちゃん、頑張るからな。お土産もって帰るから、アーヴィン兄さんの言う事をよく守るんだぞ……)
 最近、ちょっと生意気になってきた下の弟や、無邪気な双子たちの笑顔を思い出し、ハロルドは魔の手から逃れようと、懸命な努力をした。良心が疼かないわけではないが……だが、しかし。
「悪意のある呪いが、横行しているのを、見て見ぬフリをするのか。いやはや……高潔たるべき騎士様の言い様とは、到底、思えんな」
「決めつけるなっ!無視するとは、誰も言ってないだろーが!」
「ほお?」
 その言葉に二言はないだろうな、と言いたげな目をしたルーファスに、ハロルドは己の敗北と、実家が遠ざかっていくのを悟った。かといって、今更、なかったことにしてくれなどと、情けない事は言えない。
 やればいいんだろう、やれば、と張り上げた声は、ヤケ気味だった。
 (ユーリアン、レイモンド、オリバー……不甲斐ない兄貴で、すまん。今度の休暇には、必ず、必ず、帰るから……)
 心の中で滂沱の涙を流しつつも、男の意地で、表面だけは毅然とした態度を取りつつ、「そうまで言うなら、何らかの手がかりくらいはあるんだろうな?」と、ハロルドはルーファスに問う。
 問われた方は「お互い、会いたくはない相手だが、あてはある」とうなずくと、道すがら話すというように、背を向け、扉の方に歩き出す。
 ハロルドはやれやれと肩を回し、コキコキという音を奏でると、覚悟を決め、ルーファスの後を追う。ゆるく肩にかけたマントが、なびいた。同時に、ふと思い立って、前を行く高い位置の頭に、声をかけてみる。
「そういえば……さっき聞こうかとも思ったんだが、何かあったのか?ルーファス」
「何がだ」
 漆黒の髪が揺れて、前を歩いていた男は、面倒そうに振り返る。
 その奇妙なまでの剣呑さに、首をひねりつつも、いや、とハロルドは言った。
「何と言うか、いつもの他人の話しを聞け、と怒鳴りたくなるような傲岸不遜っぷりは健在なんだが、微妙に覇気がないというか、暗いというか……毎度、こうだと、こちらも助かるんだが」
「心配してるのか、罵倒したいのか、どっちだ?」
「いやいや、そういうわけじゃない。奥方と喧嘩でもしたんじゃないかと、勘ぐってみたんだが……図星か?ははっ」
 軽い冗談のつもりだったのだが、ルーファスが黙っているのを見て、ハロルドは不安になった。良い気味だ、などとは思えず、これは後が怖い。
「どうしてこう、俺の周りには、よくわからん所で聡い人間が多いのだろうな……」
「おい、ちょっと……ルーファス?エドウィン公爵?」
「気にするな」
 めずらしく優しい声音で返されて、騎士はホッと安堵するより先に、戦慄した。
「案じずとも、ヘクターという男との約束は守る。ちゃんと、返せばいいのだろう?無事に、な」
 強調された無事に、という言葉と、極端に優しい声音に、ハロルドはゾーッととなり、「今の間は、なんだ?今の間は!」と叫んだが、ルーファスは薄く笑ったのみで、答えない。
 薄曇りの雲の間から、うっすらと光が差すような空の下、男たちの影は貧民街の方角へと進んでいった。



「やあ、久しぶりだね。公爵……別に、これぽっちも、まーったく会いたくなかったけど」
 扉を開けると、逆さまな琥珀色の瞳と目が合った。
 猫にも似た、吊り上り気味の。
 光の加減で、金色にも見える。
 奇遇だな、俺もだ、とルーファスが間髪入れず、応じると、ラーグはクシュン、と鼻をすすって、腹の上から重そうな書物をのけると、「よいしょ……っ」と今にも頭から落ちそうな姿勢で、寝転がっていた、葡萄色の長椅子から身を起こす。
 ふわあ、と大きな欠伸をすると、とろんとした眼を眠そうに擦りながら、ふるふると金色の頭を振る。
 毛布でぐるぐる巻きになった魔術師の姿に、ルーファスは「齢三百歳を超える魔術師とは、思えんな。寝起きの子供か」と皮肉を言う。
 少年の姿をした魔術師は、フン、と鼻を鳴らすと、声変わり前の高い声で答えた。
「五月蠅いよ。魔術師だろうが何だろうが、昼寝ぐらいしたいんだ。ああ、それとも、魔術師らしく、予言でもしてあげよっか……?公爵、君がセラにフラれますように、そこのテーブルの角に頭をぶつけて力尽きますように、うーん。あとは、あとは……特別に金貨百枚を積み上げたら、許してあげよう」
「予言と言うより、ただの願望だろうが」
 毒舌っぷりは変わらずとも、眠気のせいか呂律が上手く回っていないラーグに、ルーファスが冷静に応じる。
「ぐちぐちと細かいねー。あ、そんなことより、セラはー?一緒じゃないの?」
「ああ、その代わり……覚えているか?」
 きょろきょろと愛弟子の姿を探す魔術師に、ルーファスはうなずくと、ハロルドの方を示した。急に話を振られた騎士はといえば、いきなり、琥珀色の大きな目で凝視され、ぎょっとした顔をする。あのローディール侯爵が起こした、化け物事件の時に、一瞬とはいえ、顔を合わせているはずだが……覚えているかどうか。
 しかし、ルーファスのそれは杞憂に過ぎなかったらしく、ハロルドの顔を見たラーグはすぐに、ポンッと膝を打った。ああ、あの時の騎士の人かぁ、と。
 にこっと無邪気に笑うと、ラーグはルーファスには決して見せない愛想の良さで、ひらひらとハロルドに手を振った。
「どうも。君とは、あの夜以来だね。騎士様…大変だねー。この公爵様と、ここまで付き合えるなんて、君は聖者に近い心の持ち主だよ」
 にこにこと話しかけられたものの、魔術師を見るハロルドの顔は緊張したようでも、警戒するようでもあり、その反応は芳しいものではなかった。さりげなく距離を取っており、何かあれば剣を抜ける。普段ならば、年端もいかない子供を相手に、彼がそのような態度を取ることは、あり得ない。だが、魔術師の持つ得体の知れなさが、騎士にそのような態度を選ばせた。
 愛らしい子供のなり、完璧なまでの無邪気な態度、作られたような屈託のなさ……外見は、末の弟たちと同じ位の年だろう。けれども、受ける印象は、子供のそれではない。
 何もかも見透かすような、琥珀色の瞳には、無垢さはなく、長い歳月を生きたような諦観が宿っている。無邪気な態度にそぐわない、それが酷く異様なものに思えた。
 あの夜、ラーグの為した魔術を見ているからこそ、尚更そう思うのだろう。
 緑眼を迷うように揺らし、「子供にしか見えんが、魔術師なんだな……」と呻くように言ったのが、騎士の本音であっただろう。
「おやおや、騎士様には嫌われちゃったかな?」
 ひょいと首をすくめたラーグは、落胆したようでもなしに、ルーファスの方へと向き直る。
「それで、何の用だい?何もなければ、昼寝の続きをしたいんだけど」
 たぶん本気ではないのだろうが、「セラがいないなら、僕、もう一回、寝るから。さっさと帰って」といそいそと毛布にくるまりだした魔術師に、ルーファスはひくっと片頬をひきつらせた。
 片手で毛布を奪い去ると、ラーグが不服そうな目を向けてくるのを無視して、その手にアンジェリカのものであるハンカチと、借り受けてきた指輪を握らせる。
「何、これ?」
 目をパチパチと瞬かせる魔術師に、ルーファスは以前、セラが「ラーグならば、詳しいことがわかるかもしれない」と、言っていたのを思い起こす。
「セラが言っていた。呪いには、痕跡が残ると……」
 そうだよ、とラーグはうなずく。
「術者の腕次第だけどね。実力の低い相手なら、すぐに見破れる……僕は、ほぼ無に出来るけど、それでも完璧には消せない」
 ルーファスはそうか、と応じ、「ならば……」と更に踏み込む。
「その呪いを逆に辿れば、術者の方に行きつく、というのは?」
 彼の考えた所が正しければ、それは不可能ではないように思える。ルーファス自身は、魔術師でもなんでもなく、セラやラーグのようにそういった知識があるわけでもない。だから、それは頭で考えただけで、可能性のひとつに過ぎないが、そう的外れでもない気がしていた。
 案の定、ラーグは「まあ、近いと言えば、近いかな」と認める。
 それは感心しているようでも、当然、と思っているようでもあった。
「実力がある魔術師なら、逆に呪った相手を辿る位、造作もないよ……ただ、一口に“呪”といっても、その形は様々だ。一言で、言い表せるものじゃない」
 琥珀の目に深淵を映し、大人びた、子供のフリを捨てた表情で、魔術師は言葉を紡ぐ。静かに、淡々と重ねられるそれは、世界の裏側に沈み込むにも似た、不可思議な響きを帯びていた。
 先ほどから、二人の交わす会話の意味を、計りかねているのか、ハロルドは戸惑うように立ち尽くす。さながら、見えない壁にはばまれているような。
 それほどに、ルーファスとラーグの間には、他者が立ち入り難い、独特な緊張感がただよっていた。
「これは、呪われた女の持ち物だ……辿ることは?」
 そう尋ねながら、ハンカチを指差したルーファスに、ラーグは何の迷いもなくうなずいて、「僕を、誰だと思ってるのさ。凶眼の魔女には及ばずとも、金色の魔術師と、謳われた男だよ」と自信満々に言い放つ。けれども、その横顔は寂しげで、言葉とは裏腹に、今にも消え入りそうな儚さを感じさせた。――英雄王、これが、お前の望んだ世界の形なのか。
 小さな子供の指が、ハンカチを握りしめる。
 指の先から、ぼぉ、と淡い光がこぼれた。
「この呪いの形はね―――」

 ねえ……ハロルドと共に、目的の場所に向かおうとするルーファスを、ラーグが呼び止めた。
 足を止め、振り返る。
 普段の毒舌ぶりはなりをひそめ、若者の青さを、時に無謀と紙一重のそれを案じる、老人のような思慮深い目をして、魔術師は言った。
「君はいつまで、こんな茶番劇を続けるつもりなの。本当は、もう気がついているんでしょ?」
 この先に、幸福なんてないことを。
 互いの空白を埋めるように、溺れたところで、何の救いも訪れない現実を。
「……」
「真実から目を背けた代償は、いずれ必ず、君自身が払うことになる」
 それは、とルーファスはかすれる声で問う。
「忠告か?」
「いーや、ただの嫌味だよ」
 早く行け、とラーグは身振りで示す。
 再び、背を丸めて、長椅子に寝ころんだ魔術師の表情は、わからなかった。



 扉を開けると、理性を狂わすような、甘く、濃厚な香が立ち込めていた。こういった場につきものの、催淫効果のあるものだろう。
 脳髄が痺れていくようなそれを、なるだけ吸い込まぬように注意しながら、ルーファスとハロルドは家の中に足を踏み入れる。
 彼らの足音に驚いたのか、寝台の方から、一糸まとわぬ裸の男が、慌てて飛び出してくる。
 禿頭の、呆けた顔をした男は、騎士の肩にかかったマントを見た瞬間、よほど後ろめたい事があるのか、服も着ぬまま、裸のままで外へ飛び出していった。その男は、その男で、何某か事情を問い詰めるべきであったかもしれぬが、本来の目的ではない為、とりあえず、捨てておく。
 冷めた目で裸の男を見送ったルーファスの眼前に、紅の紗が踊った。
 透ける布で、豊満な身体を覆い、褐色の肌を惜しげもなくさらした女が、妖艶に笑む。
 右腕には、蜘蛛の刺青。
 赤い唇から、舌がチリチリと、誘うように蠢く。
 寝台でしどけなく足を組み、くるくると黒髪を指に絡めた娼婦――呪術師でもある女は、ふふ、と面白そうに喉をふるわせた。
「あらまあ、色男さんがお揃いで……あたしに、何の用だい?」
 ふたり纏めて、相手をしてあげようか?
 ずかずかと家に押し入ってきた侵入者相手にも、呪術を生業とする女は、余裕めいた態度を崩そうとはしなかった。
 女の誘いに、ルーファスはゆったりとした足取りで、寝台の傍へと歩み寄る。
 ふらり、と女の媚態に誘われたようにも見えた。
 馬鹿、おいっ、迂闊に近づくな!と、ハロルドが大声を上げる。
「おおっ、怒鳴ったりして、怖い怖い……赤毛は情熱的でいいけどね、無粋な男は趣味じゃないよ。その点、お兄さん、アンタはいいね。美男だし、体格もいい……お互い、愉しめそうだ」
 女は高く手をかかげ、黒髪の青年の首に手を回そうとする。
 男の手が、女の褐色の肌を撫で、そして……
「美人のお誘いに、否、はないが、寝首をかかれるのは業腹だな」
 寝台の隙間に隠されていた短剣を、床に叩き落とした。
 カラン、と床に落ちゆく凶器を、女は冷めた目で見つめる。
 紅い唇から、嘆息がこぼれた。
「ただの商売道具さ。呪術師の細腕で、アンタらが殺せるとでも?いくら、面が良くても、疑り深い男は、嫌だねぇ……」
 ルーファスは口角を上げると、指でつぅ、と褐色の首を撫で上げ、呪術師の女の耳元に、
「寝台でなくても、男と女が語り合うのに支障はないだろう。――さぁ、啼いて、真実を吐いてもらおうか」
 と、さながら睦言のように囁いた。


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