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四章  過去と復讐  15


 叩き付けるような雷雨が、窓を軋ませていた。
 荒れ狂う風が、ガタガタッと窓枠を鳴らし、振動を部屋の中まで伝えてくる。
 遠く、灰色の暗雲を突きぬけるように閃光が走り、セラは翠の瞳を瞬かせ、睫毛をふるわせる。何かを求めるように、さまよった手のひらは、寝衣を強く握りしめ、柔らかな布地に皺を寄せた。一瞬の強い光が、窓辺に立つ少女の身体を、ぼぉ、と幽鬼めいて、白く浮かび上がらせる。光と影、刹那、眩く輝く部屋は、どこか神秘めいたものすら感じさせる。
 風の音もかき消された、静寂。
 一拍おくれ、雷鳴が耳を貫いた。
 とろりと蜜のように、蝋がとけゆく燭台。細くも頼りない、一筋の炎が、窓辺に立つ、少女の背を照らし出す。
 ゆるく編み込んだ、亜麻色の髪は、陰影の都合か、いつもよりも濃く、暗い色合いに見えた。床の影に、儚くも、飲み込まれてしまいそうな。否――それは、見る者の心を映しているのかもしれぬ。
 男の髪から、ぽたり、と雨の雫が垂れた。
 じわり、と静かに床を濡らすそれに、気づいたわけでもなかろうが、眼前の肩が動いて、首がこちらに回される。薄く透けるような双眸が、己を映しこむことに、ルーファスは理由もなく、かすかな安堵を覚えた。
 実際は、この女がそこまで脆くないことを知ってはいても、ふとした瞬間、あちらと此方のあわいを行き交うような、そんな儚さを漂わせるが故だ。
 セラ自身に、そんなつもりはないらしく、彼女は彼と目が合うと、ふわり口元をやわらげた。
「……おかえりなさい」
 穏やかな声だった。
 怒りの感じられないそれに、ルーファスは微かに眉を上下させる。
 唇を結んで、窓際にたたずむ少女に歩み寄る。足早に、されど、どこか躊躇いのにじむ所作で。
 泥と水が跳ね、重く、鼠から黒へと趣を変えた長衣を引きずる男に、セラは小さく苦笑をこぼした。わざわざ雨に打たれたの、と呆れた風な声で言い、少女はゆるり仰向くと、己にかかる高い影と、こちらを見下ろしてくる蒼い瞳と視線を重ねた。
「まだ寝ていなかったのか?」
 そう問うた声は、ルーファス自身、そう、と自覚せずにはいられないほど、不自然に話題を逸らそうというきらいがあった。
 青年の葛藤を見抜いたように、セラは微苦笑を浮かべたまま、「うん。眠れなくて……」と、普段通りの声で答える。されど、それが虚飾によって、塗り固められた強さであるということに、気付けぬ程、愚鈍な人間ではないつもりだった。
 窓を叩きつける雨音が、不自然なまでの沈黙を、誤魔化す役割を担う。
 暗い雲に閉ざされ、昼夜の境すらも曖昧になった外を見つめながら、男も女も無言だった。まるで、唇を閉ざすことのみが、互いを傷つけぬ唯一の術だと心得ているように……。されど、それは所詮、偽りの安息に過ぎぬ。
 横殴りの雨が、更に強さを増した。途絶えることないそれは、天より地上を貫く、千の矢の如く。視界の端を走った光に、唇があわく開き、また閉ざされた。
 風雨にかきけされるかどうかの声音で、ルーファスは「……悪かった」と言った。
 ささやくようなそれに、セラは小首を傾げ、男の目を正面から見つめる。
 その邪気のない、まっさらな眼差しに、どこか後ろめたいものを感じつつも、ルーファスは嘆息し、言葉を重ねた。
「許せとは言わんが、無体な真似をしたな……痛むか?」
 あの夜、寝台に押し付けた少女の手首に、男は気遣わしげな目を投げかける。そこまで、力を込めたわけでもなければ、痕が残っているはずもない。だが、罪悪感にも似たものが胸をかすめ、ルーファスの口を重くした。
 王宮の古狸共と相対する時は、時に饒舌すぎる程、辛辣な皮肉を突きつけるというのに、他愛もない言葉を口に出来ないなど、無様にも程がある。――過去の己が見れば、愚かにも限度がある、と躊躇なく切り捨てたに違いない。
 セラが口を開くまでのほんの一時を、ひどく長く感じた。
「何のこと?もう忘れちゃった……色んなことを、雨が全部、流してしまったみたい」
 彼女はそう言うと、軽く背伸びして、ルーファスの黒髪に手を伸ばした。濡れそぼち、眉間を隠した一房、そっと触れると、雨滴が、ぽたと床にしたたった。
 冷たい、とこぼすと、熱を奪われた額に、少女は手をかざす。失われた熱を、取り戻すように。この雨が全てを無かったことにしてくれればいいのにと、はかない祈りを寄せながら。
 夜の闇の底を映したような、青年の眼光の鋭さを、まともに受け止める勇気がなくて、セラは手でその視界を覆い隠す。
 指の隙間から、雨が一滴、涙のように伝う。――ああ、この感情を、何と名付けたら良いのだろう。心をそのまま、言葉に出来たらいいのに、それは叶わない。
「――そうか」
 長く重い沈黙の後、ルーファスはうなずいた。そこに至るまで、込められていたであろう、複雑な葛藤を、セラはいとおしい、と思う。
 優しい人だ、と。
 きっと、この人は自分が思うよりも、多くのことを知っていて、独りで動くことも叶うのに、それでもなお、自分の意志を尋ねているのだと。それは、誠実であると同時に、とてつもなく残酷なことだった。冷ややかで、抉るように残酷で、でも、きっと、誰よりも優しい男だった。
 泣きたくなるような切なさを抱えて、セラは微笑い、「ねぇ、ルーファス……」と名を呼んで、例えば、の話を口にした。
「もしも、もしもの話だけどね。天秤があったら、どうする?」
「……天秤?」
 唐突に投げかけられた問いに、ルーファスは訝しがるような声を出す。
 天秤とは、何かの暗喩だろう。
 そう、とセラは静かに首を縦に振った。
「ふたりの人がいてね、どちらか片方しか助けられないの……右を選んでも、左を選んでも、何かが失われてしまう。どちらを助けるべきなのか、神様じゃない、ただの人にはわからない。そんな時、貴方ならどうする?」
 裁きの男神・エルストエルスが持つという、正負の秤、人を正しい道に歩ませるという天秤が、この手にあればいいのに、とセラは夢想めいた願いを抱く。
 そうならば、何が正しくて、何が間違っているのか、救いは何処にあるのか、過ちを犯さずに済むのかもしれないのに……。でも。
 多分、それは無為なことだと、セラは瞼を伏せた。
 もしも、この手に、それがあったところで、自分はきっと、選べなかった道を忘れられない。もう一度、天秤をやり直したくなるに違いないのだ。
 後悔に胸を引き裂かれて、ふるえる手で、どうか、もう一度――と。
「俺ならば、両方を救うか、あるいはどちらも選ばないか、だ」
 前提自体を覆す、ルーファスの答えに、セラは呆然と目を丸くした。どちらか一人しか選べない、という話だったのだが。
 不思議そうな目を向けられて、男も言葉が足りなかったと察したのか、表情を変えぬまま、淡々と言い添えた。
「選べなかった方を、孤独の淵に突き落とすぐらいならば、その方が救いということもあるだろう」
 そう言われた少女は、しばし口をつぐみ、考え込むような素振りを見せ、ついで、やわく、脆い笑みを唇にのせた。その声音には、どこか羨望じみたものが滲んでいる。
「……ルーファスは、強いね。あたしは、きっと無理。そんなに、潔くなれない……きっと、選んだことにも、選べなかったことにも、同じ位、後悔する。なんて、醜いんだろうね……」
 悔いるように言って、セラは膝をついた。
 両の掌で、目を押さえる。
 なんて、愚か……なんて醜い……誰も救えない、誰も救われない……
 見えないのに、ルーファスが身をかがめる、気配がした。息が近くなる。
「屋敷の周りをうろうろしていたという、その男が、アンジェリカの呪いと、何か関係があるのか……?ユーナという娘とも」 
 ――フレッド。
 彼の人の名を呼ぶ声は、音にならない。
 セラは、答えられなかった。けれども、皮肉にも、それこそが何より、真実であることを語っていた。
 泣いてはいない。けれども、しゃくりあげるように、細い肩がゆらいだ。
 長く硬い指が、亜麻色の髪を梳くような仕草をしたけども、男の眼差しを感じながら、少女が顔を上げることはなかった。
 拒めない、けれども、すがりつくことなんて出来はしない。
 ――雨が、止まんな。
 窓枠を鳴らす雨風とは対照的に、黒髪の青年の言葉は、静謐ささえ帯びていた。その深みのある声に、瞼を伏せたセラは、凪いだ海のような静やかさを感じる。
「いつもね、雨の夜は、この雨が全部を洗い流して、何もかもなかったことにしてくれないかな、って思うの……夜が明けたら、何もかも悪い夢で、ああ、良かったね……幸せだね、って」
 馬鹿みたいな、夢でしょう。
 そう呟いて、セラは自嘲するように、くぐもった笑いをもらす。
 うつむいていたけど、隣の男に笑った気配はなかった。嘆息し、髪を撫ぜる手に、力がこもる。
 その優しさは、かえって辛いものに思えたのだけれど、拒むことも出来ずに、セラは為すがままに任せて、瞼を閉じた。
 このまま、夜が明けなければいい。優しい暗闇に溺れて、この腕の傍らで眠っていられたら、それはそれで、幸せかもしれないとすら思う。


 ――懐かしい夢を、見たような気がした。
 よくは覚えていない。
 でも、フレッドがいて、ユーナがいて、アンおばさんがいた。
 青空の下、少年が幼い妹の手を引いて、エプロン姿の中年女性が、慈愛に満ちた眼差しで微笑んでいる。ユーナ、と妹を呼んだ男の子が、こちらに気づいて、顔を上げた。焦げ茶の髪が、きらきらと太陽の光を弾いて、ハシバミの瞳が眩しげに細められた。
 大きく手がふられた。
 フレッドの声は、聞こえない。でも、セラ、と自分の名を呼んでいるのだとわかる。
 彼はどんな時でも、セラをすぐに見つけてくれたから――。
 ここにいるよー!と叫んで、一歩、足を踏み出そうとする。けれども、何かに食い止められたように、少女の足は動かない。ああ、遠ざかる。手が遠く、届かなくなって――


 瞼にかかる朝陽で、透ける光に、目を覚ます。
 ――いつの間に、眠ってしまったのだろう。記憶がない。
 枕代わりにしてしまった右腕が、軽く痺れているのを感じながら、セラはもぞもぞと身動きすると、「んん……」と呻いて、もたれかかかっていた寝台から、半身を起こす。
 はらり、とその肩から、毛布が落ちた。
 昨晩の嵐のような雷雨が嘘のように、夜が明けた今、窓の外は平穏そのものだった。
 伸びやかな木々の枝には、雫が連なり、光を受けて、虹にも似た輝きを映しだす。緑陰の一滴。
 枝枝を飛び回りながら、小鳥がさえずる。軽やかに、歌うように、尽きることもなく。平和だった。何が起きていようと、嘘のように平和だった。……美しかった。
 セラは、あ、と小さな声をもらすと、しばらくの間、じっと窓の外を見つめていた。朝の空気は少し冷えるが、さほど気にはならない。
 その少女の、穏やかすぎる翠の瞳からは、何を考えているのか、察することは難しかった。
「起きていたのか……」
 声をかけながら、ずりおちた毛布を、急に肩に上げられて、セラはひゃう、と短い悲鳴を上げた。朝っぱらから騒がしいな、と頭上から、苦言じみた声が降ってくる。
 彼女が首だけを仰向けると、少々、気怠げな様子のルーファスと目が合った。
 その声は、ややかすれていた。
 寝台に近寄った痕跡もなく、もしかすると、本当に一睡もしていないのかもしれない。
 日頃、疲れた様子を見せない男だけに、その変化を察するのは容易ではないが。
 なぜと浅く首をかしげたセラに、ルーファスは「……眠れるか」と、不機嫌そうに蒼い瞳をすがめ、毒づいた後、貴女が気にすることじゃない、と諦めたように、息を吐く。
 そんな男の横顔を、少女は視線を逸らさず、黙って見つめていた。
 窓から差し込む陽光が、影を落として、光の欠片が散る。――ああ、朝が来た。懐かしく、いとしい夢が終わってしまう。
 ふと気が付けば、ルーファスもまた正面から、彼女と視線を合わせていた。いつもと同じ、冷ややかな無表情。けれども、氷のようだと言われる彼の人の、その心の奥深くにひそむものを知っているセラは、それに恐れを抱くことはない。ただ、何故だか、胸が締め付けられるような、そんな切なさを覚えたけれども。
「いいのか?」
「――うん」
 ルーファスの問いに、セラはゆっくりと、その言葉の意味を噛み締めるようにうなずいた。
 それが、少女の答えであり、選択だった。
 かくして、アンジェリカにかけられた呪いは、“解呪の魔女”である彼女の手によって、解かれることとなる。

 (――あたしは、知っていたの。わかっていたの最初から、アンジェリカさんの呪いを解いたならば、フレッドがどうなってしまうのか……)
 (でも、ルーファス、貴方は知らなくていい)
 (これは、あたしが背負うべき罪だから――)

 もつれ絡んだ糸、呪いの果てに、もたらされるものは、何であろう。


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