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四章  過去と復讐  17


 フレッドは放心気味に、地面にがくりと両手をついて、しゃがみこむ。
 その目は硝子玉のように、どこか虚ろで、大切な何かが抜け落ちたようだった。 
 彼の耳に届くは、複数の靴音。
 タタタッ、と騒々しい足音と共に、フレッドに駆け寄ってきたのは、背の高い男と二人の若い女だった。
 青年はハシバミの瞳を瞬かせると、ぼんやりとした面で、ルーファス、セラ、アンジェリカの三人を仰ぎ見る。
 その姿を目にした時、フレッドは何か言おうと、口を開きかけ、だが、その舌は何も紡ぐことがなかった。――何か、言いたいことがあった気がする。でも、忘れてしまった。
 放心状態で、地べたに座り込んだ男に、アンジェリカが柳眉を顰めた。あざやかな碧眼に、訝しさと、嫌悪感にも近いものがよぎる。
 もし、彼女の舌鋒が発揮されていたならば、この間抜け面の男は何者、と言っていたであろう。
 美貌の女はフン、と喉を鳴らすと、フレッドに上から見下すような目線を向け、繻子の扇子を紅唇にあてる。
 そうして、怪訝そうな声音で言った。
「誰なの?この男は」
 さっぱり心当たりがないらしいアンジェリカの言動に、フレッドはびくっと身を強張らせた。焦げ茶の頭が揺れる。
 呪いの対価を支払い、また呪いを跳ね返されたことで、記憶を失い、今、こうしている間も、刻一刻と……さながら、砂時計の砂が落ちるように、記憶がこぼれ落ちていく最中であろうに……それまで、一切の感情を映していなかったフレッドの瞳に、一瞬、理性の光が戻る。
 男の唇が、ふるえた。
「ユーナ。ユーナ。謂れのない罪で、苦しんで……死んだ」
 ひどく切なげな響きを帯びたそれに、アンジェリカは小首を傾げ、「……ユーナ?」と記憶を探るような口ぶりで言う。しゅるり、黄金の髪が流れた。
 そういえば――地下の貯蔵庫に閉じ込めた、役立たずの女中がそんな名前だったかしら?肺を患って死んだらしい、と使用人達が、こそこそ噂していた。もう、よく覚えていないけれど。
 お前のせいだ。お前の。アンジェリカ=ヴァン=ルゼ。うわ言めいた口調で言い、血走った目を向けてくるフレッドに、アンジェリカはふっ、と何とも穏やかに笑う。性根が歪んでいるにもかかわらず、その笑顔は相変わらず、ぞっとする程に美しく、艶やかな唇は、男の目を惹いて止まない。凄艶、という表現が、誇張にならぬ女だ。
 紅いヒールを高く掲げ、フレッドのズボンの裾を踏みつけると、アンジェリカは男の顎骨を、扇子でゆるりと撫で回しながら、その耳元で囁いた。――甘く、優しく、祝福のように、呪いのように。
 セラが目を剥いて、短く、声にならない悲鳴を上げる。
 聖母のように、慈悲深げに微笑みながら、口にする言葉は身勝手の一言に尽きた。
「私のせいじゃないわ。あの子が、勝手に死んだのよ」
 にこりと笑むアンジェリカにとって、それは己が罪を隠す為の言い訳でも、虚勢でもなく、ただの事実にすぎなかった。
 確かに、あのユーナという娘が気に食わず、鞭を打ち、地下に閉じ込めたりもしたが、それは、使用人として至らないが故の、当然の仕置きだ。お願いだから、出して、と泣き叫んでいたとは言うが、何も直接、手を下した分ではない。あの娘は病で死んだのであり、それをアンジェリカの咎にされても困る。大体、あのユーナという少女が、生きようが何処ぞで野たれ死のうが、己が知ったことではない。
 そもそも、平民の使用人風情、どのように扱おうとも、主人の自由であろう。
 貴族である己の考えを、女は疑おうともしなかった。
 手のひらに、痕がつくほど強く爪を立て、セラは潤んだ翠で、アンジェリカを睨んだ。
 紅潮した顔色からは、抑えきれない怒りが感じられる。憤り、何で、どうして、と肩を揺さぶり、その耳元で怒鳴り散らしたかった。
 ひどく傲慢ではあれど、その思考が、貴族としてはさほど逸脱していないのは、セラにもわかる。庶民としての振る舞いが抜けきらず、王女と呼ばれるのも、何かの冗談しか思えない己はともかく、屋敷で働く者たちの境遇に、気を配るルーファスの方が、珍しいのだと。頭では、わかる。けれど、心が納得できるかと問われれば、別の問題だ。
 踏みにじられ、蔑まれ、これでは、フレッドがあまりにも……あまりにも、哀れだ。
 こみ上げる感情のままに、セラがアンジェリカに向けて、動き出すよりも一瞬早く、ルーファスが「ほぉ……」と口角を吊り上げ、扇子をひろげた、美貌の女に手を伸ばす。
「――そこまで言うなら、俺が貴女をどうしようと、俺の勝手だな」
 いつもの冷ややかな口調ではなく、さながら、世間話で気候に触れるような、平坦な声音だった。
 穏やかに凪いだ眼差しは、ごくごく近しい身内に向けるに似た、親しみすら込められているようだ。
 緊迫した状況には不似合なルーファスの態度に、何やら意味深な言葉尻に、アンジェリカは目を丸くし、ことり、とあどげなくさえ思える仕草で、首をかしげる。
 そうすると、日頃の妖艶さはなりをひそめ、少女と女の境、年相応の幼さが垣間見えた。
 やや不安げな面持ちで、彼女は青年の名を呼ぶ。
「……ルーファス?」
 困惑した風なアンジェリカに、ルーファスは穏やかな表情を浮かべたまま、長身を折り曲げ、彼女へと顔を近づけた。ゆっくりと近づいてくるそれに、アンジェリカの心臓は高鳴り、思わず、陶然となる。口づけにも等しい距離に、息を吐くことすら。
 とっくに見慣れたはずの顔であっても、見飽きるということがなかった。幾人の男たちを手玉に取りながらも、アンジェリカにとって、それらの者たちは全て、この男の代用品のようなものだった。唯一人、己の心を捕らえて離さぬ存在。
 指の間を通る、漆黒の髪。深い海の底のような、蒼い瞳。何より、ルーファスという男が身に纏う、冴え冴えと澄んだ空気を、しなやかな獣のような鋭さを、愛していた。それは、まだ少女だった時から、欲しくてやまなかった、輝ける宝石のようなものであり、何を犠牲にしても手にしたかった。
 仮に、手に入らぬとしても、他の女の手に渡すのだけは、どうしても耐えられないと思った。だから、アンジェリカは――
 吐息が触れる距離まで、頬を寄せてきた男に、女は淡い期待を抱く。どれ程、あり得ないとわかっていても、盲目な期待を抱いてしまうのは、女という種の浅はかさであるのだろう。
 次の瞬間、その期待は、脆くも打ち砕かれることとなるけれど。
 ルーファスは薄く笑って、
「俺が気づいていないとでも、本気で思っていたのか?」
と、穏やかな、優しくさえ聞こえる声で言った。
 薔薇水晶の香水瓶から、垂らされた一滴。――それは、甘美な毒。
「昔、うちに来る度に、俺の飲むものに毒を混ぜていただろう?まぁ、毎回、こちらもカップを取り換えていたが……」
 薄笑いを浮かべるルーファスに、アンジェリカの背筋が凍りつく。
 本気でバレていないと思っていたらしい、その表情がひどく滑稽で、意地の悪い言い方をすれば、道化じみていると、ルーファスは思う。その空回りっぷりは、おかしくも、どこか可愛らしいものでさえある。
 ――この女の愚かさは、そう退屈なものではなかった。皮肉にも、それはアンジェリカが望んだのとは、真逆の形であったが。
 まだ彼らが少年、少女だった時分、ままごとのように幼くも、ぬるい情にまみれた関係を築いていた頃、この美貌の少女は、ルーファスの目を盗んでは、彼の飲み物に毒を注いでいたものだった。
 微睡の中、ふるえる手がかしいで、薔薇水晶の瓶から、一滴、琥珀色の水面が揺らいだ。そうする瞬間、まだあどけなくさえ思える少女の貌には、恍惚とした色と、悔いるようなそれが交互によぎる。鏡に映り込んだそれを、男の蒼眼が見つめていた。
 すぐ死に至るような毒ではなく、少しずつ体力を奪い、死に至らしめるようなその毒の名を、よく知りながら、ルーファスはそれに気づかないフリをしてやった。
 さりげなくカップを入れ替えて、アンジェリカが、自ら注いだ毒を飲み干すのを、下らない喜劇と同じ、冷めた目で見る。女の碧眼に宿る、期待じみた色合いと、ふるえる膝にも、さしたる興味は引かれなかった。
 糾弾することは容易だったが、まともに相手にする程とも思えなかったので、放っておく。
 懲りずに、何度も同じことを繰り返し、それでもなお誤魔化しきれていると信じる、度をこした浅はかさが哀れで、故に、あの時は見逃してやった。――だが。
 これは、少々、興覚めだった。
 単なる執着心を、愛などと呼ぶ輩には憐憫を覚えるが……それも、度が過ぎれば、ただ不快なだけだ。
 ぱくぱくと口を動かし、無様に立ち尽くすアンジェリカは、いつかの妖艶さは微塵も感じられず、ただの道化でしかない。
 その耳に落ちてくる、ルーファスの声は不吉な程に、穏やかなものだった。
「俺が死ねば、そちらの家には、都合が良いだろうからな……父親の差し金か」
 アンジェリカの父、ルゼ伯爵は、穏健派として知られる実、人の寝室に毒蛇や刺客を仕込むような男だった。娘を利用して、ルーファスの牙をそごうと思っても、何ら不思議はない。
 そんな青年の勘繰りに、アンジェリカは憤慨したように、キッと顔を上げた。
 いやいや、と首を横に振り、思いの丈を絞り出すように叫ぶ。
「――違う!愛して……愛していたのよ。ルーファス」
 令嬢としての優雅さをかなぐり捨てたように、肩をふるわせ、声を張り上げたアンジェリカに、ルーファスは笑いかける。
 それは、彼女が今まで、一度も見たことのないような、優しい、どこまでも優しい笑みだった。
 最愛の恋人に向けるようなそれに、アンジェリカは奈落の底へと、突き落とされる。―-それを見た瞬間、女は己の願いは、永遠に叶わないのだと悟った。
「俺も、あなたの愚かな所が、それなりに気にいっていたよ」
 残酷すぎることを言いながら、男の手が女の細い首へと伸ばされた。
 喉元にあてられた指に、力が込められようとする。
 アンジェリカの喉がふるえ、甲高い悲鳴が上がる寸前、「止めようよ……」と静かな声が、男の背にかかる。
「もう、そんなことしたって、何の意味もない」
 そう言ったのは、フレッドの傍に膝をついたセラだった。
 地面に倒れ込んだ男を守るように、スカートが泥にまみれるのも厭わず、ぺたりと腰をつけたセラは、肩を震わすこともなく、じっと、何かに耐えているようだった。アンジェリカを責め立て、ユーナと同じ目に合わせた所で、フレッドの記憶は、二度と元には戻らない。ユーナが、彼の元へ帰って来ることもない。
 なら、この行き場のない慟哭は、何処に行くのだろう。どうしたら、救われたの。何を、間違えたの……もしも、神様がいるなら、教えて欲しかった。
 亜麻色の前髪を伏せ、少女は地面に投げ出された手を取り、傷だらけのそれに、いとおしむような目を向ける。
 細かな傷がついた、フレッドのそれは、職人の手だった。そっと、手を重ねると、瞼が上がり、ハシバミの双眸が、セラを映す。
 ルーファスは、アンジェリカの喉から手を引くと、複雑そうに息を吐く。
「それが、貴女の答えか」
 救われないな、と続けた声は、何ともほろ苦い。憐れんでいるようでも、何かを案じているようでもあった。
 ……うん。わかっているよ。誰よりもよく。
 唇もひらかず、そう返事をして、セラは地面に倒れ込んだ男に手を差し伸べる。

 記憶の糸が断ち切られる寸前、フレッドが最後に目にしたのは、透き通る、潤んだ翠の瞳だった。


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