廻る、廻る、運命の輪が回る……
誰が操られているのか、あるいは、全ての者が舞台で踊る、操り人形に過ぎないのか。
呪いを解く娘も、氷と呼ばれた男も知らぬ場所で、物事は刻一刻と動いている。今も、また――
かつて、彼の青年が伏魔殿と、皮肉交じりに語った、エスティアの王宮。
その一室、宰相に与えられた部屋で、白地に金の刺繍を施した、豪奢な長衣をまとった老人が、美酒の杯を傾けていた。酸味の強いそれは、南方グラーチェのものだ。
舌の肥えた者たちをも唸らせるそれは、一本で家が買えると言われる、最高級品である。
一般人は勿論、王侯貴族でもなかなか手が出ず、垂涎の的であろうそれを、宰相ラザールは酒に酔った素振りもなく、淡々と金のゴブレットに口をつける。絶大な権力を握る、この老人と言えども、そうそう手に入るものでもなかろうに、酒を傾ける顔は、喜びに浸るでもなく、実にあっさりとしたものだった。
指に嵌められた、大粒のサファイアが煌めく。
長い歳月を生きた灰色の双眸、思慮深げに軽く閉ざされた口元、滝のような白髭を撫でさする様は、さながら、古の賢者のようだ。されど、近寄りがたい印象は、口元をゆるめた瞬間にやわらぎ、好々爺、という表現すら許されるであろう。
再び、金細工のゴブレットを高々と掲げ、宰相ラザールは「もう一杯、いかがですかな?ルゼ伯爵」と、同席者に声をかけた。
「有難うございます。宰相閣下」
異国から、取り寄せた象牙細工のテーブルには、東西の珍味が並べられている。
そのテーブルに、宰相ラザールの対岸で、形ばかりの笑みを浮かべているのは、ルゼ伯爵、と呼ばれた中年の貴族だった。アンジェリカの実父ではあるが、その容姿はといえば、稀有な美貌の持ち主である娘とは似ても似つかない、平凡なものだ。
くすんだ金髪の、温和な紳士という印象だった。
ルゼ伯爵家といえば、エドウィン公爵家には及ばずとも、八代遡れば、王家に繋がるという名門である。
当代の当主は、やり手という評判だったが、その毒にも薬にもならぬような風貌は、そういった噂を、裏付けるようなものには見えない。けれども、よくよく見れば、その碧眼には、どこか油断ならないような鋭さがある。
「ご息女・アンジェリカ殿のことは、お気の毒でしたね。あれほど美しい者が、心を閉ざして、屋敷に閉じこもってしまうなど……実に、勿体ないことです」
宰相は沈痛な面持ちで、首を左右に振ると、心底、同情するような口ぶりで言う。
かつて、社交界一の美姫、ともてはやされたアンジェリカ=ヴァン=ルゼは、エドウィン公爵家の屋敷から、戻ってきて以来、心労からか体調を崩し、床離れも出来ないほどにやつれているという話だった。
女神は美しいものに嫉妬され、より厳しい試練を与えらるる、と。とはいえ、真実、不憫なことですな……と、本当に憐れむような口調で言う宰相に、事情を知るルゼ伯爵は、失笑を隠せなかった。
――不憫も何も、アンジェリカを唆し、こうなるように仕組んだのは、宰相、貴方ではないのですかな!
とはいえ、それを言うなら、己が権力を維持する為、娘であるアンジェリカを犠牲にした自分も、同罪であろう。
そう思い、ルゼ伯爵は、ええ、神妙な表情でうなずく。
「当家の恥を晒すようであれですが……あれ以来、娘は、アンジェリカは、すっかり別人のようになってしまいました。このままでは、良縁や婚期も逃してしまうやもしれませぬ。如何すれば……」
誰ぞ、あの至らぬ娘をもらってくれるような、頼りがいのある男がいれば、アンジェリカも、あの冷血漢な若僧のことを忘れて、華のような笑顔を、取り戻すのではないかと思うのです。
いけしゃあしゃあ、と続けたルゼ伯爵に、宰相もまた「なるほど……」と、神妙に相槌を打つ。
お互いに、分厚い泥で本音を隠したような、狸と狐の化かし合いだった。
「シャルダン侯爵が、花嫁を探していると聞いています。アンジェリカ嬢と、身分と、年のつり合いも取れるかと……勇敢で、良い男ですよ。武芸に長け、狩りの名手でもありますしね」
宰相の言葉に、ふむ、とルゼ伯爵は、頭の中で計算を巡らせた。
シャルダン侯爵の評についていうならば、宰相のそれは嘘ではない。勇敢を、粗野。武芸に長けるを、頭は空っぽ。狩りの名手というのを、狩りしか興味がない阿呆、と言い換えることも出来るが、まあ、些細な事だ。
血を分けた我が子ながら、あの愚かな娘には、似合いの縁談だろう。
稀有な美貌をもって生まれただけに、最初こそ、後宮入りも、と期待を寄せたものの、肝心のアンジェリカはといえば、あちらこちらで愛人を作るばかりで、節操というものがない。政治の駒に使うには、頭が軽すぎて、役に立たない。どころか、その尻ぬぐいだけでも、何かと面倒だ。
父である彼も、ほとほと愛想が尽きており、これであの頭痛の種である娘が片付くならば、幸いと言えた。
粗野で醜男なシャルダン侯爵が相手と聞いて、アンジェリカは絶望するだろうが、贅沢だけは約束されているのだから、文句は言わせまい。
「良いお話ですな。シャルダン侯爵とは是非、一度、ゆっくり酒でも酌み交わしたいと思っていたのですよ」
「それは、重畳。ならば……」
宰相はにこりと笑い、ゴブレットを置くと、パチン、と指を鳴らし、柱の後ろに控えていた侍従に、何事かを言い付けた。
ほどなく侍従が、恭しい手つきで、今日、彼らが飲んでいるのと、同じ銘柄の酒を持ってくる。
「これを、お持ちなさい。ルゼ伯爵……味は評判ほどではありませんが、珍しさだけでも、飲む価値はありますよ」
「宰相閣下、このような希少なものを……本当によろしいのですか?」
断られることはないと確信しながら、一応の遠慮をしてみせるルゼ伯爵に、宰相は灰色の目を細めた。
「ええ、構いませんよ。こんなもので、ご息女のお心がなぐさめられるなら、安いものです。――ねえ、ルゼ伯爵」
やや複雑そうな表情で、礼を言ったルゼ伯爵の杯が空になっているのを、目敏く気づいて、宰相は侍従に酒を注ぎ足すように命じる。サファイア、ルビー、ダイヤモンド、あまたの宝石を、星のように散らした酒杯が重なり、「「我らの友誼に」」との声と共に、二度目の乾杯がなされる。
「それでは、私はそろそろ……」
わずかに酒に酔ったような顔色をしながら、ルゼ伯爵がそう、辞するための挨拶を切り出した。
早いですね、まだ飲み足りないのでは、と声をかけた宰相の言葉にも、いえ、もう十分に酔いましたと、頑なに答え、そそくさと帰り支度をする。
部屋の外に控えていた、己の従者を呼び寄せると、ルゼ伯爵は足早に立ち去った。――宰相との話さえ纏まれば、好んで長居したい場所ではない。
ラザールも、二度目は引き留めようとはしなかった。
扉を閉める寸前、ルゼ伯爵は、部屋の隅に控えた男を盗み見る。
(結局、一度も喋らなかったな。あの男……)
宰相の傍らに立ち、酒席に同席しながらも、その男は酒を嗜むことはおろか、ただの一語として、声を発することはなかった。
頭から黒いフードをかぶり、ちらりと見えた顔の半分は、焼け爛れ、片目には蛇皮の眼帯をしていた。若いのか、年取っているのか、それすらもわからない。何とも言えず、不気味だった。
分厚い布の隙間から、垣間見えたその右目は――鮮烈な、金色。
あからさまに異様な風体であるにも関わらず、宰相はその男について、ただの一言も伯爵に説明しなかったし、またそのフードの男が、自ら口を開くことも皆無だった。奇妙なことばかりだ。
一体、何のために、あそこに居たのか。否、そもそも、何者なのか。宰相ラザールは一体、何をしようとしているのか――。
疑惑は山とあったものの、それを正面から口にするほど、ルゼ伯爵は愚鈍な人間ではなかった。
下手に踏み込めば、こちらが始末される対象に、なりかねない。
王太子アレンと、宰相の孫のセシル殿下、の二派に別れた王宮では、迂闊な言動や行動は、死を意味する。
――危ない橋は渡るまい、とルゼ伯爵は独りごちた。
彼にとって大切なのは、自らの権力の維持であり、いずれは、エドウィン公爵家の地位に成り代わることであった。その為ならば、娘を利用することすらも、目をつぶろう。
今は雌伏の時だと、己自身に言い聞かせながら、ルゼ伯爵は此度の婚姻について、娘と妻をどう説得するか策を練りつつ、家路を急いだのである。
「機は、熟せり……」
そう言った宰相の声は、聞こえなかったフリを貫くことにした。
「な……何か、御用ですか?お祖父さま」
びくびくとした態度で、扉の隙間から顔をのぞかせたセシルを、宰相はどうぞ、お入りなさい、と老い、ひび割れた手で、手招きした。
いつになく機嫌の良い祖父の様子が、気弱な少年には、なんとなく恐ろしくさえ感じたのだけど、その言葉に抗うことも出来ず、セシル殿下は部屋の中に入る。
宰相は窓辺に立っていたので、セシルの足も、自然とそちらに行くことになる。
祖父の目は、窓の外へと向けられているようだ。
「お祖父さま……?何をご覧になって……」
窓辺から動こうとしない宰相を、不思議に思い、そちらに近寄ったセシルも、窓に嵌めこんだ硝子に手をついた。目を凝らし、頬を寄せる。
少年の砂色の眼に映ったのは、予想もしないものだった。
まず、黒いフードのようなものが見えた。背は、エドウィン公爵よりも、少し低い位だ。男……だろうか。顔は隠されていて、性別すらよくわからない。
見るからに怪しげな、その姿かたちに、セシルはきつく眉を寄せた。
王宮は、不審者を入れないよう、厳重な警備を敷いているはずだが……あの、奇妙な恰好をした人は、何なのだろうか。なぜ、隣の祖父は、何も言わないのだろう。
しかし、セシルの眉をひそめさせたのは、それだけではなかった。
そのフードをかぶった、怪しげな輩は、小さな影と手を繋いでいた。女の子だろうか、ゆるく結った蜂蜜色の髪が、風になびいている。
年恰好は、彼と同じ位だろう。高い方の影が、歩調を合わせているようだったが、それでも、手を繋いだ彼女がついていくのは、少々、大変そうだった。
貴族には見えず、かといって、侍従でもなかろう。
王宮の中に居るには、あまりに似つかわしくない二人組に、不審なものを感じながらも、セシルは木々の間を抜けていく彼らから、目が逸らせなかった。
「……っ」
一瞬、黒いフードの方が振り返った気がして、セシルは慌てて、窓から身を離す。よく考えてみるまでもなく、後ろめたいことはないのだが、何となく、そうせずにはいられなかったのだ。
大きな影が庇うように、手をかざし、小さな影の前に立った。
こちらを見た、隻眼――黄金の。
その時、一陣の風が吹き抜けて、刹那の嵐のようなそれに、若緑の枝葉がざわざわと激しく揺らぐ。
風が止んだ時、その二人の姿はあとかたも見えなくなっており、セシルは呆然と目を見張った。
「お祖父さま……っ!い、今のは?」
何度も目をこらし、怯えたように叫ぶ孫に、宰相は好々爺然とした笑みを向けるだけだった。
常よりも、機嫌の良さそうな、だが、その冷徹とした灰色の目に、狼狽していたセシルの頭も冷える。
お祖父さま。
何度目のそれは、声にならない。理由もなく、ぞっと肌が粟立った。
「――セシル」
宰相ラザールは、穏やかな声で、かわいい孫、手駒である王子の名を呼んだ。
機は、熟した。
三百年の長き歳月をかけ、復讐の機会を伺ってきたが、そろそろ頃合いであろう。
まるで人形のような虚ろな目をし、顔を強張らせたセシルは、祖父に肩を押さえられるまま、窓の外の風景が見つめる。
花壇の花々が、色とりどりの花弁を、風になびかせていた。太陽の光を浴びて。
よく覚えておきなさい、そう語りかける祖父のしわがれた声に、孫である少年は泣きたくなる。
肩に伸し掛かるその手が、自分を押さえつけるための、楔のようだった。
「――幸福はね、崩れる瞬間が最も儚く、また美しいのですよ」
と。
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