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四章  過去と復讐  19


 気がついた時、彼は白い建物の中にいた。
 自分の名も、家族も友人も、職業も、どうやって生きてきたのかも、何もかも思い出せない。
 此処は、聖アメリア病院ですよ、と彼の世話をしてくれた看護婦が、親切に教えてくれた。
 しかし、己の名すら忘れた彼には、自分がどうして病院に入院しているのか、それすらもわからない。
 記憶がない彼に、医者や看護婦は同情し、親身に面倒を看てくれ、
「ふとした瞬間に思い出すことも、あるかもしれない」
と、励ましてくれたが……彼自身は、何となく、自分の記憶はもう戻っては来ないような、そんな予感がしていた。記憶を取り戻せないことで、己を責めてはみたものの、無為なことだった。
 それを不幸と思うに至るには、彼自身、あまりに己の事を思い出せなかったけれども。
 背は高く、体格も恵まれており、大きな手のひらには、細かな傷がいくつもあった。自分は何処かの工房に属する、職人か何かだったのだろうか、と想像してみることもある。何故か、胸の奥が疼いたが、男はその意味がわからず、ただ困惑したように首を捻っただけだった。
 この病院に運び込まれた時、履いていたというボロボロの靴は、何故か、手放す気にもなれず、病室の片隅に置いてある。


 白い世界の日常は、曜日の感覚が、曖昧になってくる。
 この病院の一室で、目を覚ました日から、どれほどの月日が流れただろうか……?
 ある日、院長という人が、彼に会いにやってきた。
 厳めしげな顔つきながら、思慮深い目をしたその人は、彼の様子について、幾つか質問を重ねたあと、――君を、此処に入院させてくれた方に感謝をしたまえ、と諭す。
 首をかしげた彼に、院長は、運び込まれた時、一文無しだった君が、こうして、十分な世話を受けられるのは、治療費を払ってくださっている、その方のおかげなのだよ、と語った。
 その方は、君が退院できるまで、費用は自分が負担すると申し出ておられるし、ここから出た後も、希望があれば、世話しようとおっしゃっている。
 あの御方がそう仰ったら、約束を違えることはないから、君は安心して、治療に専念しなさい、と院長は彼の目を見ながら、ゆっくりと話す。
 院長の説明するそれを、全て理解できたわけではなかったが、どうやら、自分にとって悪い状況ではないようだと、彼は納得した。
 少し安心すると同時に、むくむくと疑問がわき上がってくる。
 院長の言い様からすると、彼を此処に入院させてくれた人というのは、彼の家族、というわけではなさそうだ。友人?恋人?
 それにしては、一度も病室を訪ねてきたこともないし、院長の丁寧な言い回しが引っかかる。
 どんな人なのだろうか、と思いつつ、彼がその件で尋ねると、院長は片眉を動かし、この病院の後援者のひとりだよ、と答えた。
「公爵様は君と同じ位、お若いが、ご立派な方だ……君のような身よりのない患者や、治療費の払えない者にも、何かと心を砕いていらっしゃるのだよ。君が、此処に入院したのも、その縁だ」
 自分の息子程の歳であろうに、公爵様、という院長の口ぶりには、確かな敬意が滲んでいた。
 そうなのか、とうなずきつつも、彼にとっては謎が深まっただけだった。
 自分の空白の記憶を探っても、そんな公爵様だの貴族様だの、お偉い方々と交流があったとは、到底、思えない。それなのに、この差し出された好意は、何だろう。おそらく、何も返すことは出来ないかもしれぬのに。心配いらない、と太鼓判を押されても、そう直ぐに納得できるものではなかった。
 黙り込んだ彼の沈黙を、別の意味に受け取ったのか、院長は表情をやわらげた。
「案ずることはないよ。何かと敵も多いが、あれで存外、歪まない気性の方だからね……君が、不安がるようなことは、何もない」
 院長の言葉に、そうなのですか、とうなずきながら、彼は先日、ほんのわずかに垣間見た、男のことを思い出した。
 彼よりも、更に高い身長。
 背中しか見えなかった男は、此方を一度も振り返ることがなかった。風を切るような、淀みない足取りで、遠ざかっていく。あの人が、もしかしたら――。
 彼の顔を正面から見て、院長は最後にこう言った。
「君に、面会が来とるよ。会うかね?」
 その問いかけに、彼はしばし躊躇い、そして……

 応接室に赴くと、椅子に座っていたのは、十六、七くらいの少女だった。
 亜麻色の髪、翠の瞳、淡いクリーム色の控え目なドレスと相まって、どこか地味というか、印象に残りにくい風貌をしている。
 緊張した面持ちで、膝の上に手をおいていた彼女だが、彼が部屋に入ると、ほっとしたように唇を緩める。首をこちらに向けた横顔に、窓から光が差して、頬にかかる、やわらかな陰影が綺麗だった。
 視線が重なった瞬間、彼はどこか懐かしいような気持ちになって、戸惑う。
 何も、覚えていない。何も思い出せないにも関わらず、どうして、こんな気持ちになるのだろう。
 彼女は立ち上がりかけたものの、彼が半歩下がると、微苦笑を浮かべ、椅子に腰をおろす。
 何も覚えていないということに、なんだか罪悪感に似たものを感じつつも、彼は彼女の前の椅子に腰をおろす。
 どう会話をすればいいのかわからず、口を閉ざしてしまった彼を、少女は急かそうとはしなかった。
 しばらくして、彼は「何も思い出せないんです……」と言った後、医者や患者たちに向けるのと同じ目で、彼女を――セラを見た。そして、尋ねる。
「貴女は、誰ですか?」
 彼の問いに、亜麻色の髪の娘は「あたしは……」と言いかけた後、寂しげにうつむいて、唇を閉ざした。
 口を開こうと、努力はしているようだが、実ることはない。
 気まずいような、もどかしいような迷いを抱えて、彼は胸に下げた銀の鎖を握りしめた。そのペンダントは、かつては、彼の妹が身に着けていたものであり、元はいえば、母から娘へと譲られた物だった。
「それは……?」
 セラが、顔を上げた。
 銀の鎖を大切そうに握ったまま、彼はハシバミの瞳を細め、はにかむように笑う。
「何にも思い出せないんですけど、こうしていると落ち着くんです」
「……ユーナ」
 そう名を呼んだ少女の顔が、くしゃり、と歪んだ。何かの意地であるように、まっすぐに彼を見つめ、目は逸らさず、けれども、その目尻には、透明な雫がたまっている。視界がうるんだ。――泣いては、駄目。誰かの為に、泣けたら良かった。でも、これは、きっと……。
 声も出さずに、静かに泣く彼女に、彼は戸惑いを隠せなかった。けれども、何か見えないものに動かされたように、その頬に手を伸ばす。何も、思い出せない。でも。
 ああ、と彼は思った。
 名前を呼べたら、良かったのに。記憶を失ってから初めて、彼は哀しいと思った。
「泣かないで、  」
 君が幸せであれば、それで良かったんだ。それは、かつて抱いた願いの欠片、砕け散った後、手のひらに残った唯一の。
 彼の――フレッドの手がそっと、涙をぬぐった。


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