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五章 父と子と娘 1


 ――どこまでも広がる緑の丘を、風が吹き抜けていた。
 暑気をはらう、涼やかな風に目を細め、額に浮かんだ汗をハンカチでぬぐい、グレッグ=アンダーソン医師は、やや傾斜のある坂を、一歩、一歩、足に力をこめながら上る。
 急傾斜という程ではないにしろ、近年、少しばかり腹に肉がついてきた五十絡みの医師には、この動作は楽なものではない。されども、それでも丘の上に向かうのは、そこに彼の患者がいるからだった。
 笑いつつある両の膝を、まだ老け込む年齢でもあるまいと、叱咤し、アンダーソンは丘の上へと急いだ。
 道の両脇には、飾らぬ野の植物たち。おい茂る緑の狭間に、小さな黄色と白の花を咲かせている。めったに人と通らぬそこには、医師の足跡がくっきりと刻まれていく。
 その脇には、誰かの為のものであろう、薄手の上着が抱えられていた。
 坂をあがり、丘の頂上が見えるにつれ、アンダーソンは、ほっと胸を撫で下ろした。はやる動悸を抑え、ぬかるんだ泥に足を取られぬよう注意しながら、大股で歩く。
 早朝に降った雨のおかげか、空気は澄んでいた。
 草木が朝露の雫をはじいており、青空にはうっすらと虹の光彩が透けていた。
 燦々と輝く太陽が、丘を明るく照らし出し、黄金の光に満ちる。ほのかに夏の匂いを孕んだ風が、肌を撫ぜる。
 丘の下には、地元の者たちが暮らす集落が広がり、畑や果樹園、まばらに並ぶ小さな屋根、煙突からたち上る白い煙が見えた。遠くに見えるのは、神聖なる青峰、ガリレヤ山。遠くとも、その水面の澄んだ銀の煌きに目を奪われる、シュレーン湖。
 のどかで美しく、悪いことなど何もないような、どこまでも穏やかな風景だった。
 壮年の医師は、かすかに首を左右に振り、探し人の姿を求めた。
 温和そうな横顔、年齢相応の皺が刻まれたそれに、ちらりと焦りにも似たものがよぎる。思考するように眉が顰められ、口髭の下の唇が、やや歪められた。だが、ほどなく探し人の姿を見つけて、碧眼は一点に留められ、足はそちらに向けられる。
「こんな場所に、いらしたのですか、お探しいたしましたよ……ウォルター様」
 喋りながら、アンダーソンの思慮深げな双眸が、ふ、と安堵したように和む。
 医師の呼びかけに、返事はなかった。
「……」
 丘の上に置かれた、粗末な木の椅子に腰を下ろしているのは、四十半ばの男だった。
 晩夏とはいえ、頬を撫でる風は涼しく、やや肌寒い程であるのに、白いシャツ一枚、襟を寄せる様子も見せない。なにか羽織る素振りすらない男に、アンダーソンは微苦笑し、その肩にもってきた上着をかける。
 彼の専門は、心の治療であったけれども、それでも、患者がこのような不摂生をしていれば、見過ごせないのが医師というものだ。
 まったく――この方は、あまり模範的な患者とは、言えない。
「上着も羽織らずに、風邪をひかれたら、どうするのです。万が一、肺炎でも引き起こしたら、大事ですよ」
「……」
 アンダーソン医師の言葉に、男は無言で眼下に広がる風景を見つめるのみで、振り返ろうという意思すら見せなかった。否、最初から、医師の声は届かず、なにも聞こえていないのかもしれない。
 そう判断せずにいられない程、その薄緑の瞳はうつろであり、心ここにあらずの態だった。
 さながら廃人のような、生気のない目をしながらも、その患者が醸し出す雰囲気は、育ちの良さ、上流階級の匂いを感じさせた。
 昔日は、衆目を集めたであろう。端整かつ、精悍な面立ち。
 すっと通った鼻梁や、鋭角的な顎のラインは、ともすれば、きつい印象を与えるが、髪や瞳、全体的に薄い色彩が、それを軽減している。すらりと伸びた手足は、しなやかで、病い衰えた気配もない。
 椅子に腰をおろした男の、世話が行き届いている証拠に、髪も髭もきちんと清潔に整えられ、着ているシャツも上質な絹のものだ。
 纏う空気こそ、かなりの開きはあれど、その容貌は彼の青年との、濃い血の繋がりを感じさせた。
 全く反応を返さない男に、憐れみとも、悲しみともつかぬ感情を抱きながら、医師は肩からずり落ちかけた上着を引き上げる。肉付きが落ち、薄くなった肩に、胸がつまる。
「もしも、ウォルター様が、ご体調を崩されるようなことがあれば、私が若君、ルーファス様に叱られますからな」 
 ルーファス、と医師が息子の名を出しても、その男、エドウィン公爵家の先代である男は、顔色ひとつ変えず、眉すら動かさなかった。まるで、そんなものには、興味がないと言いたげだ。
 その虚ろな瞳は、此処にはない何かを、見つめているようですらある。
 今や、ただ一人の肉親となった、一人息子の名すら反応をしめさないウォルターに、アンダーソン医師は、落胆と、かすかな失望にも似たものを覚える。
 ――昔は、こうではなかった。エドウィン公爵家の嫡男、輝ける貴公子、明晰で、優しく、穢れなど知らないような純粋な性質は、誰からも好かれ、愛された。我が友・ウォルター。
 身分には差があれど、昔日、快活な笑顔を向け、我が友と呼んでくれた青年の面影はすでになく、今や、その抜け殻のようなものだ。
 かつて、このエスティアの将来を担うと期待され、光あふれる道を歩んでいたはずの男は、最早、心から笑うことも、また涙を流すこともなく、生きる人形のように、ただ無為に毎日を過ごし、老いていくのみである。
 ――それを、哀れと呼ばず、何と呼ぼう?
 やるせないものを感じて、アンダーソンは唇を噛んだ。
 (ここに来たのは、本当に、この方の為に良かったのだろうか。全てに目を背け、世捨て人のようになって……)
 主治医としては、力不足を痛感するが、奥方の死を契機に、精神を病んだウォルターを連れて、この地に療養にやってきたものの、この二年、病状は一向に回復の兆しを見せない。
 むしろ、ますます、心は現から離れて、自分の殻に閉じこもっていってしまっているではないか。
 自分の判断が、間違っていたとは思いたくはないが、正しかったと、胸を張れないのも事実だった。
 (いや、それでも、あのままよりは、きっと良かったのだ。屋敷に留まり、あの子の、ルーファス様のお心まで壊してしまうよりは……)
 アンダーソンは深く息を吐いて、そう己に言い聞かせる。
 最後に別れた時、坊ちゃん……ルーファスは、まだ十七歳で、未だ少年らしさを線の細さを残していた。けれども、その蒼い瞳は冴え冴えと、他者を跪かせるような威厳を持ち、事実、齢十七にして、実質的な公爵家の当主として、辣腕を奮っていた。
 アンダーソンが、ご当主の身体の為には静かな土地で療養をお勧めしたい、と告げると、当主の唯一人の実子であるルーファスは、物好きな、とでも言いたげな目で、こちらを見る。
 エドウィン公爵家の紋章、双剣と片翼の鷲の透かされた書状に、サラサラとサインを記すと、黒髪の青年は、机上に羽ペンを置き、ようよう唇を開いた。
「本気で、そう仰っておられるのか、アンダーソン先生……あの状態の父の世話を、誰がすると?」
「わたくしが、共に参ります。それが、先祖代々、エドウィン公爵家の主治医を務めさせて頂いた、我がアンダーソン家の使命でしょう」
 医師の忠義なる返事に、ルーファスは、低く嗤った。
 薄く口角を吊り上げると、皮肉にも、尋常ならざる美貌がいっそう際立つ。その横顔を直視するのが辛く、アンダーソンはそっと目を逸らした。
 父似の端整な面立ち、艶のある黒髪と、冬の海の色の双眸は、母方の血筋。両親の外見上の美点ばかりを受け継いだような青年は、故に、その姿を厭い、己に流れる血を嫌悪し、なにより父母を否定する。
「物好きなことを。よろしいのですか、アンダーソン先生?貴方の献身は少しも、あの男の心に届かないというのに」
 ルーファスの容赦のない言葉に、胸を抉られるような気持ちを味わいながら、アンダーソンは押し黙り、小さく首を縦に振った。
 一人息子である彼の言う通り、自分の思いは少しも、ウォルター様には届かないのだろう。それでも。
「……私は、まだ信じたいのです。彼の心が、帰ってくることを」
「アンダーソン先生ともあろうお方が、随分と夢見がちなことを仰る。あの男の心は、すでに死んだも同然だ。母が死んだ日にな」
「叶わぬとわかっていても、奇跡を祈らずにいられないのが、医者の性なのですよ。坊ちゃん――ルーファス様」
 アンダーソンは、淡々と応じる。
 両親を冷やかに切り捨てながらも、表情一つ変えないルーファスのことが、憐れに思えた。まだ、親の庇護下にあってもおかしくない年齢であろうに、纏う空気は、既に子供のそれではない。
 母にないものとして扱われ、父から忘れられた青年は、いつしか、冷徹な仮面を被り、殆ど感情を露わにすることが無くなった。――まるで、心を凍てつかせたようだ。
 償いのつもりですか。
 対面の青年の唇が紡いだ言葉に、医者は息を呑んだ。
「ルーファス、坊ちゃん、わたしは……」
 続けようとしたそれは、威圧するような鋭い目線ひとつで、拒まれた。
「つまらぬことを言いました。あの男のことはお任せします。アンダーソン先生。生かすなり、手に余るなら、野に捨てるなり、どうぞ、ご随意に……先生には、感謝しています。どうなろうとも、貴方の名誉を傷つけることはないと、誓いましょう」
 低い美声が、さながら死神の宣告のように、耳をすり抜ける。アンダーソンは途方に暮れて、立ちつくした。坊ちゃん、いや、若君……呼びかける声も、虚しく。
 ルーファスはそんな医師を憐れむように、唇を歪めた。願うならば。
「俺の目が届かないところで、老いて――そして、醜く、死んでくれたらいい」
 ルーファスが、父であるウォルターに望むのは、唯一つ、それだけだ。
 その、あまりに露悪的な言いように、アンダーソン医師は眉をひそめ、続けるべき言葉を失った。
 黒髪の青年は、書状を手に立ち上がると、もうこれ以上、何も言うことないというように、扉の側へと向かった。
 ――それが、今より、二年余り前のことである。
「リディア、リディア……」
 哀切な響きの、乞うような声音に、アンダーソンの意識は、現実へと引き戻された。
 つがいを亡くした鳥が彷徨うように、リディア、リディアと女の名を呼び続けるのは、彼の患者だ。暴れるではない、だが、故に途方もない孤独を感じさせる。
 かつて愛した女の名を、静かに舌にのせながら、ウォルターは空を掴むように手を伸ばす。伸ばされた手は、当然のように、何も手にすることは出来ない。医師の胸中に、苦いものがよぎる。
 リディアというのは、ウォルターの亡き妻で、ルーファスの母である女だ。
 妖精のような美しい女、戦火に潰えたかの国の血筋、嘆いて、狂って、狂わせて、死んでなお、ウォルターの心を、永久に縛り続ける存在――。
 かつて、己の患者であった女の死を悼み、アンダーソンはつと目を伏せると、「ウォルター様、そろそろ日も落ちます。戻りましょう?」と、男の腕を引いた。
 うつろな薄緑の瞳が、生気のないそれが向けられても、医師は顔を引きつらせることなく、安心させるように、さあ……、と優しく促す。
 死者への尽きぬ哀切の念はあれども、アンダーソンにできることは、今を生きる者たちと向き合うのみだ。
 幼子にするように、自分よりもずっと体格の良い、ウォルターの手を引きながら、医師は心を決めた。
 若君に、ルーファスに手紙を書こう、と。
 (坊ちゃん、私では無理でした。わたしでは、ウォルター様のお心を救えません……)
 (この方の時は、今もあの時で止まってしまったままなのです。自らが作り出した檻から、望んで、出ようとなさらない。それに――)
 掴んだ腕の力が、強くなった。
 医師は、心の中でつぶやく。
 (わたくしは、思うのですよ。ルーファス様、貴方もまた、孤独な檻から抜け出せぬままなのではないかと。不憫な奥方様の呪縛から、解放されておられぬのではないかと――)
 残照の光が、緑の丘を金色に染める、風が吹いて、木の葉を散らした。


 半月後、エドウィン公爵家に一通の手紙が届く。
 記された宛名に、振り分けていた執事のスティーブはわずかに表情を曇らせ、その手から手紙を受け取ったルーファスは、無表情を貫き、眉間に皺すら寄せなかった。
 差出人の名は、グレッグ=アンダーソン。代々、公爵家の筆頭医師を務めてきた男である。
 ――それは、ルーファスにとって、解放されることなき悪夢の再来を、意味していた。 


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