「――アンジェリカ」
己の名を呼ぶ、ルーファスの声に、美貌の女は、それはそれは麗しく、魅惑的な微笑みを浮かべる。
まるで、そう彼に呼ばれることが、必然であるように。
夜空きらめく星々にも似たシャンデリアの光が、紅よりもなお赤い女の唇を、より一層つやめかせる。
唇が動いて、最上級の楽器を奏でるかのような声が、こぼれでた。
「ご機嫌よう。ルーファス……あらあら、まるで、亡霊にでも出逢ったような顔ね」
しばらく会わないうちに、わたくしの顔など、見忘れたかしら?本当に……殿方は、薄情なものね。
そう、可憐な声に似合わぬ、毒めいた皮肉を舌にのせ、女は、アンジェリカは、クスリッ、と笑う。
軽やかに笑う彼女の目は、たったひとりの男しか映していなかった。
碧玉のような瞳は一途に、さながら、他の者など眼中にないというかのように、唯一人、ルーファスだけを見つめている。
好意と称するには毒がにじみ、恋情というには暗すぎる、腐り、堕ちる寸前のような熱を孕んだ、その瞳。
そんな客人の隣に、黙してたたずむ、執事のスティーブ。
ルーファスの半歩斜めで、困惑気味に屋敷の主人を仰ぎ見ているセラの存在さえも、アンジェリカの視界には入らない。
まるで、この世界には、己と、不機嫌そうに柳眉を寄せた、この冷ややかで美しい男しか、存在しないと言いたげな、いっそ清々しい程の徹底ぶりだ。
自然、たとえ同じ場にいようとも、他の者は蚊帳の外にならざるを得ない。
傲慢さのただよう態度も、貴人然とした女がやると、不思議とさほどの違和感を覚えない。
無視という屈辱を、味あわされずに済むのは、女と、アンジェリカと同じ世界の住人だけだ。
クッ、と女のお眼鏡に叶った男は、可笑しげに笑う。
「ククッ。いきなり、連絡も何もなしに訪ねてきたと思えば、随分なご挨拶だな。アンジェリカ……」
――そういう子供じみた遊びは、大勢いる、貴女の取り巻き共とやってくれ。
そう言い捨てた、ルーファスの声は、常と変わらず、冷徹な響きを帯びていた。
甘い蜜のような声も、どろりと蕩けるような視線も、彼の琴線を震わせた様子は、一切ない。
どれほど熱を孕んだ目を向けられようとも、男は低く笑って、皮肉気な笑みしか返さなかった。
凍てつくような蒼い瞳は、アンジェリカとは別の意味で、傲慢さと紙一重の、冷ややかさに満ちている。
しかし、決して友愛あふれる関係には見えずとも、彼らがお互いだけを見据えていることは、否定のしようもない、事実だった。
男女の差異はあれ、いずれ劣らぬ、美貌の持ち主同士である。
自然、周囲に威圧感じみたものを与え、近寄りがたい雰囲気が醸し出されていた。
(どうしよう、なんか妙な空気……)
(あたし、ここに居ていいのかな……)
(どう見ても、王宮からの使者じゃないし、ルーファスに会いに来たみたいだし……あたしは、部屋に戻った方がいい……?)
声をかけることも躊躇われ、セラは、その場に立ち尽くす。
カーテンの外に追いやられたような、疎外感こそ余り気にならなかったものの、その場に立ち込めた、重く、胸が詰まるような空気は、耐え難かった。
息苦しいようなそれが、セラの睫毛に陰りを落とす。
所在をなくした少女は、 何かにすがるように、指先でドレスの裾を掴む。
なめらかな絹の、咲き初めの薔薇を想わせる色合いのそれは、メリッサが選んでくれた、彼女のお気に入りであったのだけど、なぜだか急に色をなくしたようだった。
セラが視線をさ迷わせると、それは否応なしに、ルーファスと言葉を交わす、美貌の女へと惹きつけられる。
真珠とレースを贅沢に使った、綺羅びやかなドレス。
かぐわしい、薔薇の香。
しかし、それ以上に女自身が、蝶を引き寄せる、甘い蜜のようだった。
ふぅ、とセラの唇から、感嘆のため息がもれる。
(なんて……綺麗な人……)
アンジェリカ。
そう呼ばれる娘は、セラが今まで出会った中で、最も麗しい令嬢だった。
凡庸な己とは違い、母のシンシアは綺麗な人だったし、王宮で世話をしてくれた女官たちも、容貌に恵まれた者が多かったが、彼女たちとも一線を画している。
白魚のようななめらかな手は、一切の労働を知らず、雪花石膏の肌は、召し使いの手によって磨き抜かれていた。
生来のものもあろう、だが、それ以上に、それは贅を尽くし、周囲にかしづかれることに慣れた者のそれだった。
(本当に、綺麗……ルーファスと並んでると、一対のお人形みたい……)
思わず、しげしげと見とれてしまったセラだったが、やがて恥ずかしくなって、小さく頭を振った。
屋敷を訪れた客人に、挨拶をするべきかとも思ったが、ルーファスとの関係がわからない故、どう振る舞うべきかもわからない。
彼の応対を見る限り、何やら自分の知らない、深い事情がありそうだった。
そのまま、玄関に立ち尽くしているのも、ひどく間の抜けているようで……セラは息を吐くと、半歩、後ろに下がった。
カツッ、と靴の音が響く。
ふと、舐めるような視線を感じて、彼女は顔を上げる。
目が醒めるような青い瞳が、こちらを凝視していた。
値踏みするような、そのアンジェリカの眼差しは、お世辞にも友好的ではない。
品定めにも似た、見下すようなそれに、セラは戸惑いつつ、首をかしげる。
初めて会った、この美しい女性に、こうも露骨な目を向けられる覚えがなかった。
青い瞳が、ゆるく細められる。
一見、優しげに和んだ目は、嘲りを含んでいた。
アンジェリカは優雅な所作で、唇に繻子の扇子を寄せる。
見えぬ扇の下で、あかい唇は笑っているのだと、わかった。
「スティーブ……」
アンジェリカの呼びかけに、それまで影のように、傍らに控えていた老執事が、ようやく口を開いた。
「はい。何でございましょう?アンジェリカ様」
そう慇懃に答えたスティーブの表情は、いつも通り生真面目なもので、その内心は容易に伺い知れない。
あくまで恭しい態度を崩さない執事に、アンジェリカは当然と言いたげな微笑をこぼし、開きかけの扇子と目線で、ある者を示した。
彼女の眼差しは、セラヘと注がれている。
それを見たルーファスが、一瞬だけ眉根を寄せた。
スティーブ、と執事の名を呼んだ後、アンジェリカは歌うような声で続ける。
「しばらく来ないうちに、この屋敷も、新しい使用人を雇ったのね。良かったわ……私にも、紹介してくれるでしょう?」
セラに形ばかりの親しみのこもった目を向けながら、アンジェリカはそう、 老執事に語りかける。――栄えあるエドウィン公爵家の使用人ともあろう者が、まさか、挨拶も出来ないわけないでしょう?と。
やわらかな響きを帯びたそれは、実際のところ、痛烈な皮肉だ。
毒と悪意と……何より、強い侮蔑を孕んだそれ。
その突きつけられた悪意に、気づいていないはずもなかろうに、使用人、と呼ばれたセラは、困ったように微笑を浮かべただけだった。
「……アンジェリカ様」
スティーブは珍しく、微かに眉を寄せると、心中、ため息をつく。
ちらり、と横を向けば、相変わらず、息を呑む程に美しい、アンジェリカの横顔。
ほのりと薔薇色に染まった頬は、ひどく可憐であるのに、その唇から紡がれるのは、トゲのようなそれだ。
執事は、使用人である己の職務に、揺るぎない誇りを抱いているが……貴人にとって、使用人と間違えられる屈辱も、わからぬわけではない。
ましてや、それが意図してのものであれば、悪意は疑いようもなかった。
それを重々、自覚した上で、セラへにこやかな笑みを向けるアンジェリカに、スティーブは眉間のシワを深くした。
良くも悪くも、このアンジェリカ様は、生粋の貴族だ。
嫌味や当て擦りを、微笑というベールに包む術を、よく心得ている。
庇わないルーファスを、薄情者と罵ることは、出来かねる。
貴族たる者、この程度を処理できなくば、無能者との謗りは免れない。
ただ、そういった貴族の流儀に疎い、奥方様を、その中に放り込むのは、いささか酷だった。
憂い顔で、唇を開こうとするセラを、目だけで制し、老執事は「こちらの御方は……」と助け船を出そうとする。
しかし、当家の奥方様でいらっしゃいます、と続けようとしたスティーブの声を、ある男がさえぎった。
「――俺の妻に、何か言いたいことでもあるのか?アンジェリカ」
それまで傍観を貫いていたルーファスが、たった一言、静かな声で言った。
一瞬、その場はしん、と水を打ったように静まり返る。
まさか、彼が救いの手を差し伸べると思わなかったのか、アンジェリカはまあ……と意外そうに扇子を広げ、スティーブも旦那様らしからぬ行動に、首をひねる。
何より、セラ自身が、一番、驚いた顔をしていた。
翠の瞳に困惑をのせ、彼女はルーファスを見つめる。
「珍しいわね。ルーファス……貴方は、お節介とは縁の薄い人だと思っていたわ」
微妙な空気の中、最初に口を利いたのは、アンジェリカだった。
はたはた、と繻子の扇子を開いては閉じ、開いては閉じ……異国の組み紐がついたそれをもてあそぶ。
そんな不機嫌そうな姿さえ麗しく、絵になるのだから、神とは平等ではない。
「身に覚えがないな、アンジェリカ。何のことだ?」
「……ずるい人ね」
訝しげな顔をするアンジェリカを、ルーファスは涼しい顔で流した。
柳眉をひそめた女の戯言など、聞くに値しないという風に。
「あの……」
男と女の間に、ひどく剣呑な空気がただよう中、セラが遠慮がちに唇を開いた。
控えめな声には、憂いと困惑がいりまじったような、何とも言い難いものが宿っている。
アンジェリカはスッ、と繻子の扇子を閉じると、一部の隙もない、淑やかな所作で、セラの方へと向き直った。
そうして、にっこり、と大輪の薔薇の如き微笑みを浮かべる。
「まあ……いけない!私としたことが、ご挨拶が遅れて、たいへん失礼を致しましたわ。どうか、寛容な御心で、この愚かなわたくしを、お許しくださいませ。セラフィーネ王女様」
「いえ……そのようなことは……」
王女様、と最近、久しく呼ばれることのなかった呼称に、セラはわずかに戸惑う。
アンジェリカ、という女性の、棘のある口調も、こちらを値踏みするような目も、彼女にとって覚えのないところだったが、お許しくださいませ、と求められれば、それを拒む理由などない。
もともと、この華やかな令嬢の態度に、困惑はしても、怒りまでは感じていなかったセラは、「いえ……」と首を横に振る。
気にしていません、と応じたセラに、アンジェリカは「王女様の寛容な御心に、深く感謝いたしますわ」と言った後、ふふ、と艶めいた微笑で続けた。
「此度、セラフィーネ王女様に、ようやくお目通りが叶って、私、とても嬉しく思っておりますの……王宮での夜会には、出席の許しを戴いておりますけども、いつもお姿を拝謁することが出来ず、至極、残念に思っておりましたのよ」
――お目にかかれて、光栄ですわ。
碧眼をきらめかせ、アンジェリカは悪意など欠片もない、無垢な少女を装ってみせる。
彼女の言葉の、言下にこめられている意味を察して、ルーファスはうっすらと口角を上げた。
うつくしい薔薇には、棘がある。
甘美なものには、毒がある。
これは、そういう女だと。
アンジェリカのそれは、王族の身分でありながら、その存在を忘れられ、夜会に出席することさえ許されず、まるで腫れものに障るようにされていた、セラフィーネ王女……その“秘された王女”と称された、セラの立場を、強く皮肉っての言葉である。
短気な者なら、腸が煮えくり返るような侮辱であろうが、彼の妻は存外、辛抱強い性質のようだった。
あるいは、妾腹の子として、王宮で息を殺して生きる中、そのような侮蔑を浴びせられる事に、慣れてしまったのかもしれぬ。
セラの双眸は、穏やかに凪いでいた。
うがつことなく、表の意味だけ受け止めることにしたのか、かつて“秘された王女”と呼ばれた娘は、
「ええ、私は余り、夜会に出席しなかったものですから……」
と言い、やわらかな声で続ける。
「こちらこそ、お目にかかれて、嬉しく思います。えっと、アンジェリカさん……でよろしいのですか?」
確認するようなセラの問いかけに、女ははい、と紅唇をひらく。
そうして、鈴を鳴らすが如き美声で、誇らしげに名乗った。
「わたくしは、アンジェリカ=ヴァン=ルゼと申します。どうか、王女様のご記憶の片隅にでも、留めていただけたら、このうえない名誉ですわ」
アンジェリカさん……セラは舌の先で、覚えるように、その名を転がした。
改めて、家名を問うまでもなく、女の典雅な物腰や、豪奢な装いを見れば、上流貴族であることに疑いの余地はない。
しかし、肝心のルーファスとの関係は、いまだ謎のままだ。
それがわからぬままでは、距離感を計りかねる。
弱ったように、セラは前に立つ男の気配を探ったが、ルーファスはといえば、何の感情も宿らぬような顔つきで、唇を閉ざしている。
少女の困惑ぶりが伝わってないはずもなかろうに……自ら、説明する気はなさそうだった。
本来ならば、主人が語るべきところで、口を挟むなど、出過ぎた真似である。
それを承知しながらも、奥方様の気持ちを慮ったスティーブが、捕捉めいた言葉を口にした。
「アンジェリカ様は……ルゼ伯爵のご息女であらせられます。エドウィン公爵家とは、縁戚にあたられますが故、ご幼少のみぎりから、当家に足を運んで頂いております……。先代様も、ルゼ伯爵とは懇意になさっておいででした」
下手に誤魔化すようなことを、言わないことこそが、執事なりの誠意であっただろう。
謹厳実直で知られるスティーブは、頑なに口をつぐむことは出来ても、嘘を吐くことはできはしない。
そうなの、とセラはうなずいた。
ようは、家同士の繋がりがあり、年齢も二つ、三つ違いの、幼馴染みということだろう。
仲が良さそうというには、いささか語弊があるが、ルーファスとアンジェリカの間に、何やら、二人にしか通じぬような空気があるのも頷ける。
納得したようなセラに、アンジェリカはクスッ、と意味深に笑い、「そうですの」と首肯した。
心なしか、ルーファスの纏う温度が低くなる。
「ふふ、スティーブの言う通りですわ。家同士の繋がりもありまして……まだ幼い少女の時分から、ルーファスとは、色々と懇意にしてもらっておりましたわ。色々と……ね」
何やら、露骨に含みをもたせたアンジェリカの言いように、セラは翠の瞳を丸くする。
「――アンジェリカ」
女の名を口にした、ルーファスの声は、低かった。
ちらり、とそちらを向いたアンジェリカは、繻子の扇子、その飾り紐を揺らしながら、くすくす、と愉しげに笑う。
少女と女の狭間のような美貌は、どこか無垢さを残していて、だが、同時にゾッとするほど淫らな色香があった。
「あら、嫌だ。ずいぶんと怖い顔をするのね。ルーファス……私、何かいけないことを言ったかしら?」
子供の時からの付き合いで、慣れているのだろう。
ルーファスの凍てつく氷のようなそれにも、アンジェリカは怯まなかった。というより、面白がっているようなフシさえある。
「……口の減らない女だ」
「昔からでしょう」
再び、ルーファスとアンジェリカの間に、緊張感がただよい始めた。
主人の機嫌の降下を見てとり、執事がコホンッ、と咳払いをし、旦那様、とルーファスに呼びかける。
「旦那様。このような場所で、長々と立ち話は、ご婦人方には酷でございます。客間の方に、紅茶を運ばせる用意はございますが……いかが致しましょう?」
執事の提案に、ルーファスは「その方がいいだろうな」と、それを受け入れる。
アンジェリカは、繻子の扇子を口元にあてたまま、是、と応じた。
セラはどうしたものか、と小首をかしげていたが、青年の蒼い瞳から発せられる、無言の圧力に陥落し、執事のスティーブの後に続いて、客間に向かった。
「前置きはいいだろう……それで、何の用だ?」
ティーセットを用意しにきた、女中のメリッサがさがってよりすぐ、ルーファスがそう話を切り出した。
白地に金の蔓草の壁紙、精緻な模様の織り込まれた藍の絨毯の上には、ガベール虎の毛皮が敷かれている。
壁には、何代目かの当主の妻だろう、嬰児を抱いた女の肖像画が、慈母のごとき微笑を浮かべ、こちらを見下ろしていた。
公の要人とはまた別に、私的な客人を迎えるべく、設えられた部屋だ。
豪奢ながらも、穏やかな雰囲気のただよう部屋の内装とは対照的に、彼らの間に流れるのは、どこか殺伐としたそれだった。
テーブルを挟んで、長椅子に三人の男女が向き合っている。
いまだ出された紅茶から、白い湯気が立つうちに、ルーファスは愛想を削ぎ落とした態度で、アンジェリカにそう尋ねた。
紅茶が冷めやらぬうち、まるで急くがような問いかけに、カップを手にした女はふ、と苦笑をこぼし、白く細長い指でくるくると、銀のスプーンを回す。
女の美しい手に操られるように、琥珀色の水面に、小さな、ちいさな渦が生まれた。
焦ることなく、優美ささえ感じる仕草で、アンジェリカはカップの縁に紅唇を寄せた。
カチャリ、とカップをソーサーに戻し、たっぷり一拍以上の間を置いてから、女はようやく、ルーファスの言葉に応じる。
「貴方がそんなに、せっかちだとは、今の今まで知らなかったわ……それとも、他の女と喋るところを、セラフィーネ王女様に見せたくないのかしら?貴方が惚気るなんて、青天の霹靂だわ」
からかうようでありながら、アンジェリカの碧眼の奥には、じりじりと嫉妬じみたものが透けて見える。
満更、冗談でもなさそうなそれを、ルーファスは鼻で笑った。
「ハッ、つまらん戯れ言はいい。早く用件を口にしたらどうだ?アンジェリカ」
一切の遠慮がない、ルーファスの物言いに、ぎょっとしたのはセラだった。
長椅子に腰をおろした彼女は、さっと顔を強張らせ、軽く、だが、はっきりとした咎める意図をもって、隣のルーファスの腕を引く。
アンジェリカとルーファスが、どんな間柄で、どんな風に接してきたのか、セラは知る由もないが、常識的に考えて、青年の言動は客人に相応しいものとは、到底、言い難かった。
抗議を態度で示し、セラはたしなめるような目を、 ルーファスへと向ける。
「ちょっ……ルーファス……!それは流石に、アンジェリカさんに、失礼じゃ……」
己の腕を引き、懸命に説得してくる少女に、ルーファスはただ無言で、目を細めるのみだった。
その代わり、意外なところから返事がかえる。
「このような些事、王女様のお手を煩わせるには、及びませんわ。これは、私と……ルーファスの問題ですから、お気遣いなく」
完璧な笑顔で、そう言ったアンジェリカに、セラは口をつぐまざるを得なかった。
大輪の薔薇のような、完璧なまでの美貌の女が浮かべた、いっさいの曇りがない微笑。
その意味は、あえて語らずとも、ハッキリしている。何も知らぬ人間が、余計な口出しをするな、という。
蛇に睨まれた蛙とまでいかずとも、それに近い心持ちになりながら、そっと瞼を伏せたセラは、小さく息を吐いた。
「ごめんなさい。いらぬ世話でしたね……」
アンジェリカはまあ、と大仰な動作で、扇子を横に振った。
「まあ、そのような……とんでもありませんわ。勿体ないお心遣い、痛み入ります。王女様は、お優しい方ですのね」
お優しい、と口にした瞬間、アンジェリカの目に微かに嘲りの色がよぎったのを、ルーファスは見逃さなかった。
権謀術数を常とする貴族社会において、人が良いというのは、弱点でしかない。
一度、仕切り直すように、あおいでいた扇子を閉じ、アンジェリカは「実は……」と本題を口にした。
「実は……私が、この屋敷を、ルーファスを訪ねたのは、ある相談があってのことですの」
相談がある、と。先程までの笑みが嘘のように、アンジェリカは長い睫毛を伏せ、ともすれば憂いを帯びた、美しい横顔をさらす。
ほぅ、とため息をこぼす姿は、悲嘆にくれる美姫を想わせ、心ある者ならば誰しも、手を貸してやりたい心境にかられる程、儚げな風情だった。
悩ましげな表情で、相談がある、と口にしたアンジェリカに、ルーファスは無関心な一瞥を送り、セラは驚いたように息を呑み、翠の双眸を瞬かせた。
いきなりのそれは、ひどく唐突だ。
「相談……?失礼ですけど、何かお悩みでも?」
驚きのままに、思わず、そう口にしたセラに、アンジェリカはええ、と儚げかつ、神妙な素振りでうなずく。
「ええ……その件で、わたくし、セラフィーネ王女様にひとつお願いがございますの。図々しい女の頼みを、叶えてくださいませんこと」
想像すらしなかった、意表外のアンジェリカの言葉に、セラは目を丸くした。
長い付き合いだという、ルーファスならともかく、会ったばかりの己に頼むような事柄とは、一体……?
「頼み……?私に、でしょうか?」
戸惑いを隠せないセラに、アンジェリカはそうなのです、と儚げな微笑を唇にのせる。
「家名にも関わりますので、相談事の内容を、あまり大勢に、べらべらと喋りたくないのです。お優しい王女様が、私を憐れんでくださるなら……」
あかい、熟れた果実のごとき唇が、動いた。
――しばしの間、わたくしとルーファスを、二人きりにさせてくださいませんこと?
一見、懇願にも思えるそれは、実際は、強制の響きをもっていた。
「そういうことでしたら……私は、席を外した方が良いですよね」
セラの返事に、隣のルーファスは、彼女たちの会話をまるまる耳にしているにも関わらず、異を唱えなかった。
それを、干渉しないという意だと受け止め、セラは長椅子が立ち上がると、扉の方へと向かう。
真鍮のドアノブに手をかけた彼女は、くるりと振り返り、
「それでは、失礼します……アンジェリカさん、ごゆっくりなさってくださいね」
と、挨拶する。
「ええ、有り難うございます。ルーファスが、きちんと話を聞いてくれれば、すぐに済みますわ」
アンジェリカはにこり、と華やいだ笑みで、それに答えた。
淡いピンクの、なめらかな光沢のある裾をひるがえし、セラは部屋を出ていく。
半分、背に流した、亜麻色の髪が尾をひいた。
パタリ、と静かな音と共に、客間の扉が閉ざされる。
それと、ほぼ同時に、クスクスッ、と嘲るような笑声がした。
やや抑えた声音のそれは、繻子の扇子の影から、発せられている。
「ふふっ……なんというか、貴方の奥方は、可愛らしい方ね。ルーファス」
――素直で、清らかで、まるで男を知らぬ乙女のよう。
少女めいた初心さを感じさせ、男女の機微に疎そうなセラは、アンジェリカからすれば、格好の物笑いの種だった。
お人好しで、こちらの言動に、一喜一憂してる様など、滑稽さしか感じない。
ああ、可笑しい、と喉を鳴らして、女は「貴方ともあろう人が、趣旨変え?」と続けた。
「ああいう、純真さだけが取り柄の小娘が好みとは、知らなかったわ。ルーファス……貴方の火遊びの相手はいつも、どこぞの未亡人か、百戦錬磨の王宮の女官ばかりだったから、てっきり、そう、なのかと思い込んでいたのだけど……」
下世話とも言うべきアンジェリカの勘繰りを、ルーファスは薄く笑って、相手にしなかった。
女絡みで、とるに足らぬ敵を増やしたのは否定しないが、だからといって、他人に訳知り顔をされるほど、不愉快なことはない。
「勝手に勘違いするな、アンジェリカ……それが一番、後の面倒が少なかっただけのことだ。第一、俺は自分から誘った覚えは、一度もないぞ」
ひどい人ね、とアンジェリカがなじる。
「本当に……貴方は、ひどい人ね。ルーファス。何人の女に、涙を流させたと思っているの」
なじるようなそれには、幾分かの本音も混じっていたが、それがルーファスの心を動かすことはなかった。
黒髪の青年は、氷、と称される冷淡さで、
「嘆くだけで、逆らう牙のない人間に、興味など持てんな……男にしろ、女にしろ、そんな下らん輩に割く時間が惜しい」
と、容赦なく切り捨てる。
貴方らしいわね、と呆れたような、だが、頬をかすかに薄紅に染め、どこか陶酔するように言ったアンジェリカに、ルーファスは鋭い目を向ける。
「それよりも、いい加減、用件を口にしたらどうだ?アンジェリカ……無意味な馴れ合いは、退屈だろう」
さっさと用件を言え、と促したルーファスに、アンジェリカは形良い眉をひそめ、わずかに不満めいたものをよぎらせる。が、やがて気を取り直したのか、勿体ぶるように、ゆるりと唇をひらく。
相談はね、ルーファス……
彼の名を呼ぶ女の声は、蜜のように甘く、理性を狂わす毒のようだった。
あかい、あかい、食いつきたくなるような唇の。
「――私、命を狙われているの」
そう言って、あでやかに微笑うアンジェリカは、いっそ凄絶なまでに美しく、魂奪う魔性のようだった。
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