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四章  過去と復讐  5


 わたし、命を狙われているの。
 蠱惑的な笑みを浮かべ、衝撃とも言える台詞を口にしたアンジェリカに、ルーファスは眉をひそめることも、驚きを表に出すこともなく、ただ、興味無さげな一瞥を、眼前の女に注いだのみだった。
 あるいは、内心では揺らぎがあるのかもしれぬが、表面上は、何の感慨もうかがい知れない。
 長椅子でゆるりと足を組み、テーブルの上、白い湯気をくゆらせるカップは、くつろいだ雰囲気であるが、その男の目線はといえば、凍てつくようだった。
 彼らしくも、冷ややかなものを突きつけてくる、その蒼い瞳に、アンジェリカはうふふ、と何処か嬉しげに笑う。
 折れそうに細い首が、コトリッ、と傾げられて、大きくあいた胸元と、鎖骨、たわわに実るそれが揺れる。真紅のドレスと対照的な、ましろい肌が、赤い痕を刻めば、さぞや、艶めいて映えそうで……ひどく目に毒だった。
 繻子の扇子で、こぼれる微笑を隠して、アンジェリカは、
「相変わらずね、貴方は。嘘でもいいから、少しは心配そうな素振りをしてみたら、どうなの」
と、からかいめいた口調で言う。
 拗ねたように、わざと唇を尖らせる女に、微かな媚めいたものを見出し、ルーファスは鼻で嘲笑う。
「わざとらしく心配して欲しいならば、俺ではない、別の男を当たれ。アンジェリカ……貴女に熱を上げている、どこぞの貴族の馬鹿息子あたりなら、そこらの三流芝居小屋もかくやという程、さぞや大仰に嘆いてくれるだろうよ」
「つれないのね。でも……貴方らしいわ。ルーファス」
 男の素っ気ない態度にも、アンジェリカは愛らしく、媚を含んだ艶笑を崩そうとしなかった。
 暗く沈み込むような、ルーファスのものとは異なり、アンジェリカの夢見るような、あざやかな碧眼の奥には、からかうような光とは別に、酔うような、恍惚としたそれがよぎる。
 誰よりも、自らの美しさを自覚する少女は、より一層、己が麗姿が際立つよう、挙作に気を配りながら、そっ、と向かい合うルーファスを、盗み見た。冷徹な気配をただよわせる、美しく、孤高の獣じみた男を。憎く、疎ましく、だが、それ故に、焦がれて止まぬ男を――。
 ああ、こうでなくては、とアンジェリカはひそやかに、笑みを深める。
 この冷徹で、だが、稀有な男が、たかだか妻を娶ったぐらいで、ただの凡夫に成り下がるのは見たくない。ルーファス=ヴァン=エドウィンという男は、歪んでいるからこそ、美しいのだ。
 そう、恍惚と、美酒に酔ったような頭の片隅で思いながら、女はゆったりと、紅唇をひらいた。
 命を狙われていると言ったのはね、と。
「最近、私の身の回りで、妙なことばかりが続くの。可愛がっていた猫は、急に泡を吹いて死んでしまうし……鍵をかけていた部屋が、いつの間にか、誰かが入り込んだみたいに、ひどく荒らされていたり……極めつけは、寝台の上を、毒蜘蛛が這い回っていたのよ。それも何匹も」
 ほんとうに……もう少しで、死ぬところだったわ。
 その時の忌まわしい光景を思い出してか、アンジェリカの貌は色を無くし、ぶるりと身を震わせる。
 あれから一月以上が経った今も、思い出しただけで、身が凍るような、おぞましい出来事だった。
 その他にも何かと、身の毛もよだつ、ゾッとするような奇妙なことばかり起こる。
「ほぉ……」
 淡々と相槌を打つルーファスに、アンジェリカは形良い眉を吊り上げ、
「おかげで、世話係の女中まで、怯えて辞めたいと言い出すし……まったく、使えない子ばかり」
と、わずらわしげに吐き捨てる。
 黒い瞳に涙を一杯にためて、「どうか、お世話係を辞めさせてください」と、姿なき影に怯えて、顔を強張らせながら、必死に懇願してきた女中は、その白い頬を、赤く染まるまで扇子で引っぱたくと、床にうずくまりながら、「申し訳ございません。どうか、ご慈悲を!お許しくださいませ。お嬢様ぁぁ……」と泣きながら、惨めったらしく謝ってきた。
 他に給金をもらうあてがあるなら、どこかへ行ってもいいのよ。別に、あなたの家族が飢えるだけだもの。ああ、可哀想……と、アンジェリカが、慈悲深く囁いてやると、ルゼ伯爵家の権威を恐れてか、青い顔でがくがくと首を横に振って、それ以降、何も言わなくなった。
 まったく、さしたる役にも立たない癖に、文句だけは一人前に口にするのだから、始末に悪い。
 その子の前に仕えていた、大人しげな少女も……もう名前も忘れたが、主人の指輪を盗むような、手癖の悪い娘だった。
 いずれにせよ、周りに仕える者たちは、ただいたずらに怯えるばかりで、ロクな対応をしない。主人であるアンジェリカを、庇うことも、守ることもせずに、このままでは遠からず、何人か辞めてしまうだろう。
 取り換えの利く、平民の使用人がどうなろうと、伯爵令嬢である彼女の知ったことではないが、己が身に危害が及ぶのは御免だった。
 他はともかく、それだけは避けねばなるまい。
「それでね、」
 ――花にも似て、アンジェリカは唇を綻ばせた。
 彼女は決して、賢いわけではなかった。だが、機を見ることと、状況を利用すること、己が魅力を誇示する術には、この上なく長けていた。
 今、まさに、それを発揮する時である。
「私を、助けてくれないかしら?ルーファス……他でもない、貴方とわたくしの関係ですもの、まさか見捨てたりしないわよね」
 いろいろと他人には言えない秘め事を、共有した中ですもの、という暗喩をこめ、アンジェリカは媚と艶を、多分に含んだ目線を、男へと向ける。
 それに対し、長椅子の肘掛けに頬杖をついたルーファスは、胡乱な眼差しを返したのみで、女の言葉を、鵜呑みにはしていないようだった。
 女と言う生き物は、時に自らの保身と欲望の為ならば、いけしゃあしゃあと、恥かしげもなく嘘を吐くものであると、彼は知っていた。
 ましてや、この、したたたかな少女の性分を知ればこそ、容易に信用できるはずもない。
「命を狙われているという割に、随分と曖昧な話だな……それを鵜呑みにしろと?」
 猫が死んだだの、毒蜘蛛だの、偶然か事故でも片付けられそうなことばかりだ。
 助けてくれるでしょう?と、半ば強制じみた風に言ってくる割に、アンジェリカの話はどうにも要領を得ない。
 まるで、後ろめたいことを伏せているような、霞がかかったような感がある。
 匂い立つ薔薇のように、艶やかに唇を綻ばせた女に、ルーファスは白い目を向け、あっさりと切り捨てた。
「……仮に本当だとしても、大方、貴女自身の不始末がまいた種だろう。アンジェリカ、俺の手をわずらわせるな」
 もし、アンジェリカの言うことが、全て真実だとしても、ルーファスには、彼女を助ける義理も、また必然性もない。
 眼差しひとつ、いっそ冷淡との謗りを免れぬようなそれは、言葉よりも、余程、雄弁だった。
 アンジェリカもまた、彼と同じ穴の貉である。
 生来の美貌に、傲慢で、人を人とも思わない性格が相まって、無意識にしろ、意識的にしろ、心酔する者、敵味方、多くの恨みを抱え込む。
 いちいち、それを数え上げれば、キリが無かろう。
 であればこそ、わざわざ手を貸してやるだけの意義を、露ほども感じない。
 ルーファスの冷ややかな対応を、半ば予測していたのだろう。アンジェリカはクスッ、と猫のように喉をならす。
 青い瞳が、三日月のように弧を描いて……
「情がないこと……。もう昔のことを忘れてしまったの?」
 ぎしっ、と長椅子が音を立てて、軋んだ。
 アンジェリカは身を乗り出し、すぐに痕がつきそうな白い脚をさらしながら、ルーファスへとしなだれかかる。首筋に片手を回されても、男は拒みもしなかったが、積極的に何かしようともしなかった。蒼い瞳は静寂をたたえて、無感動に女を見下ろしている。
 アンジェリカは甘えるように喉を鳴らし、ふふ、と愉しげに笑いながら、剣だこのある男の手、その長い指先に、そ、と唇を寄せる。戯れと親愛と、懇願と。
 このひやりとした指先が、意志をもって蠢き、己の柔肌を撫で上げた感触を、今も覚えている。
 ぞくぞくと、身体の芯がうずいた。
 まだ幼い少女だった時分、あまやかな薔薇の香りに包まれながら、彼女は罪と、そして、背徳の印を知った。
 ――ああ。この氷のような男が、自分に跪いたなら、一体、どれほどの快感だろうか。
「ねえ、ルーファス?」
 誘うような声音に、ルーファスは目を細める。
 女の、赤い爪の先が、テーブルのカップを弾いて、琥珀色の水面がゆらいだ。



 ルーファスとアンジェリカのふたりが、客間で密やかに、甘美な毒とも言えるような会話を交わしている頃、セラと彼女付きの女中であるメリッサは、こっそりと街中を散歩していた。
 招かざる客人、何とも妙な雰囲気ただよう屋敷にいると、息が詰まりそうだったからだ。
 じりじりと照りつくような太陽、わずかばかり汗の滲んだ、華奢な首筋を撫ぜる、乾いた風に、セラは翠の双眸を細める。
 元々、身分の割に、華美な衣装の類を好まぬ彼女だが、お忍びとあって、常よりも更に控えめな装いだった。
 まぶしげに目をすがめた奥方様に、黒いワンピースを纏ったメリッサが、目敏く、レースの日傘を差し出す。
 帽子のつばをいじり、
「ありがとう」
と、口元を綻ばせたセラに、傍仕えの女中は常のように、人懐っこい笑顔を返すことなく、コクッ、と小さくうなずくのみだった。
 何か含むところがありそうな、ある意味、どんな言葉よりもわかりやすい、険のある眼差し。唇を歪めたメリッサの表情に、主人であるセラはただ、困ったような吐息をこぼすだけだ。
 しばらくの間、彼女たちふたりは、街中の雑踏に紛れ、あてどもなく、歩を進めていた。
 流行りの芝居小屋の前では、着飾った紳士淑女が列をなし、ピーチクパーチク、さながら小鳥のように、姦しくさえずっている。
 すぐ脇では、胡散臭げな口上を、さも真実であるかのようにとうとうと、身振り手振りを交え、大仰に語る露天商。日によく焼けた赤い顔、にこやかな笑みの奥で、その瞳は油断なく、カモを見据え、舌舐めずりせんばかりだ。
 そこから数歩、離れた場所では、年端もいかない物乞いの少年が、疲れたような、薄暗い目をして地面に座りこんでいる。少年の傍らにうずくまっている影は、更に幼い。妹だろうか。
「ご立派な紳士淑女の皆様、どうか、ご慈悲を……」
 少年の喉から、絞り出される声は、年に似合わず、ひび割れたようなそれだった。
 明と暗。
 表と裏。
 この国、エスティアにおいては、見慣れた光景と言っていい。
 そんな風景の中に溶け込んだ、セラやメリッサに一瞬、怪訝そうな目を向ける輩もいないではなかったが、すぐに他所に興味をひかれたように、目を逸らす。平民にしては仕立ての良い服装、供を連れたセラは少々、目立つ存在ではあったが、だからといって、彼女の真の身分を察することなど、出来ようはずもない。
 せいぜい、何処かの金持ちの娘が、女中を連れて、市に買い物に来ているというぐらいに映ったはずだ。
 殊更に自己主張することのない、ひっそりと周囲に埋没するような、奥方様の楚々とした振る舞いが、それに拍車をかけていた。
 芝居小屋の満員御礼といっていい賑わいぶりに、セラは驚いたように、睫毛を震わせ、隣に目をやれば、物乞いの少年の哀れさに、過日の己の姿を重ね、沈痛そうに面を伏せる。
 救いにはならぬ、と知りつつ、その背中は振り返ることなく、チャリン、と地面に踊った銀貨を、きらり、きらりと光りを放ったそれを、小さな手が拾い上げた。
 亜麻色の髪が、風でふわりと浮き上がる。
 すぐ傍らを歩みながら、メリッサはチラッと、と物言いたげな目を、セラへと向けると、ふ――――っと大きく嘆息した。
 ――奥方様は、いつも通りだ。……ううん、勤めていつも通りに振る舞っていらっしゃるのだろうか?
 メリッサはモヤモヤとした気持ちが抑えきれず、道の角を曲がり、人気が少なくなった瞬間ついに、「ああもう……」と声を上げずにはいられなかった。
「ああもう……旦那様が、一体、何を考えていらっしゃるのか、私にはサッパリわかりませんわ!」
 耐えかねたように、メリッサは、そう怒りの声を上げた。
 短気となじるなかれ、今の今まで、じっと我慢していたのだ。
 叔母と同じ、明るい碧眼は、ふつふつと……思わず、尻込みしそうな程、激しい怒りをたたえていた。
 むすりと顔をしかめた少女からは、普段の弾けるばかりの快活さは消え失せ、不快気に寄せられた眉からは、機嫌の降下が見て取れる。
 への字に曲げた口元を、従者のミカエルあたりが目撃したならば、おそらく、さわらぬ神にたたりなし、とばかりに、そそくさと距離を取ったであろう。
 改めて、説明するまでもなく、女中の少女の気分は、いつになく最悪だった。
 ――その理由は、今更、語るまでもない。
 余程、腹に据えかねたのか、日頃、ころころと鈴を鳴らすような笑声がこぼれる唇から、愚痴とも罵倒ともつかぬ言葉が飛び出す。
「大体、旦那様も旦那様ですわ……!あの御方、アンジェリカ様はご親戚で、お付き合いも長いかもしれませんけど……だからといって、奥方でいらっしゃるセラ様を蔑ろにするなんて、殿方の風上にもおけませんね……っ!」
 声を荒げ、メリッサはまるで我が事のように、憤慨をあらわにする。
 一介の女中が、口を出してよいことかはさておいて、彼女は到底、許す気にはなれなかった。
 ルーファスに艶と媚を含んだ微笑を向け、その妻であるセラを軽んじるような、アンジェリカの態度が。
 また、それを推奨こそしないものの、きつく咎めるでもなく、あたかも令嬢の言動を容認するような、旦那様の態度にも、メリッサは不審の念を抱かずにはいられない。――あんな風だから、相手はますます図に乗って、つけ上がるのだ。
 勝ち誇ったように、繻子の扇子を口元にあて、嫣然と微笑む、アンジェリカ……その紅唇の、禍々しくも、実に美しかったこと!
 幸い、セラ様は温厚で辛抱強い方だから、表立って騒動は起きなかったが、もしも、メリッサが奥方様の立場であったらならば、男の方に、平手打ちの一発や二発、食らわしてやっているところである。
 他人の恋路を邪魔する輩と、妻を泣かせるような男は、いっそ馬に蹴られて死んでしまえばいいのだ。
 怒りのあまり、無茶苦茶なことを考えるメリッサだったが、旦那様への罵詈雑言はともかく、セラを案じる気持ちに嘘偽りはない。
 奥方様が大人しくしておられるのをいいことに、増長するあの令嬢が、腹立たしいのは勿論、何故、旦那様は庇おうとしないのか……何より、奥方様付きの女中という立場でありながら、守るべき女主人が傷つけられても、何も出来ない自分自身に、少女は苛立たずにはいられなかった。
 仕えているセラに、主従の枠を超えて、親愛にも似た感情を抱いていれば尚更だ。
「あの……あたしは気にしていないから、平気よ。メリッサ。そもそも、ルーファスの交友関係に、あたしが口を挟むようなことじゃないわ。それに……アンジェリカさんも……何か、やんごとない事情があるようだったし」
 憤慨する傍仕えの少女をなだめるように、セラは口を開く。
 相談がある、と言ったアンジェリカに、自ら客間を離れたのは、セラ自身の意志だ。
 誰に、強要されたワケでもない。
 話の内容が全く気にならぬ、などと、悟ったような、聖人君子ぶるつもりは、サラサラないが、あの磨き抜かれた水晶のような麗姿、大輪の薔薇を想わせる、匂い立つような艶やかさ……あの美しい令嬢に、セラが別段、悪感情を持つということもなかった。
 紅い唇、ゆらゆらと揺らぐ繻子の扇子、蔑むような色を宿した碧眼が、己を鋭く射抜いて――。
 そんなアンジェリカの視線に、何も感じなかったわけではないが、さほど動揺はしなかった。値踏みをするかのような眼差し、そのドロドロとした執着が、向かう先を知りながらも……。
 一瞬だけ、そうと気取られぬよう、セラは微かに自嘲じみたものを唇に乗せる。
 嫉妬するべきなのだろう、己は。
 でも、寂しくはあっても、その胸に、心を妬き尽くすような炎が宿ることはない。
 それはきっと、彼女自身、執着が薄い性質だからなのだろう。
「優雅で、仕草のひとつひとつに気品があって、本当に綺麗な人よね。アンジェリカさん……親戚だけあって、ルーファスとちょっと似てるかな」
 雰囲気とか、流れるみたいな仕草とか。
 であればこそ、そのような台詞がサラリ、と嫌味でもなく、本心から呟かれる。
 セラの言葉に、メリッサは露骨に眉をひそめ、取り繕うことすら忘れたような顔で、「アンジェリカ様ですか……?」とかの麗人の名前を口にする。
 確かに、凄く、お綺麗な方ですけどね……旦那様と並んでも、見劣りしない位、とは口にしなかった。
 ぎゅっ、と迷うように拳をにぎり、メリッサは躊躇うようにため息をつくと、「……でも、あたしは、あの御方のこと、アンジェリカさまのこと、好きじゃないです」と、吐き捨てる。
 亜麻色の髪の少女が、驚いたように目を見張るのを、視界の端に入れながら、メリッサはため息を共に、言葉を重ねた。
「昔から、よくお屋敷に出入りされていたって、叔母から聞いていますけど……アンジェリカ様、使用人には横柄な方らしくて、良い感情を持っている人は、あんまり居ないと思います。あれだけの美貌の方ですから、取り巻きとかは、大勢いるらしいですけど、ね」
 好きじゃない、もっと踏み込んでいえば、メリッサはアンジェリカのことが、苦手だった。
 実際に、顔を合わせたことは、数少ないが、それでも、使用人仲間たちの間で飛び交う悪評を耳にしていれば、怯えずにはいられないとはいうものだ。
 使用人たちの噂話で聞いただけでも……軽い粗相をした女中の耳に、気絶するまで、火かき棒を押し付けかけたとか、うっかりヘマをした料理人を、気が済むまで、丸二日、地面に這いつくばらせたとか……清楚でありながら、妖艶な、あの麗しい風貌に似合わぬ、悪名高い逸話の数々……。ただ横柄というだけに留まらず、凄惨なものも多い。
 残酷で、えげつない。身勝手な性格が、透けて見えるようである。
「言葉は悪いですけど、男漁りも激しい、って社交界でも、評判の令嬢だそうですよ……旦那様が、何で普通に接しておられるのか、ほんっと理解に苦しみます」
 呆れたように言って、メリッサは首を左右に振った。
 浮名を流す、という点においては、我らが旦那様、ルーファスも相当なモノだったが、ルゼ伯爵令嬢・アンジェリカも、それに劣らない。
 清楚、可憐な面立ちと、それと不釣り合いなまでの色香、潤んだような瞳と、熟れた果実の如き唇が、花にまとわりつく蝶のように、男たちを惹きつけるのだろうか。
 むせかえるような薔薇の香が、残り香となって、肌に移る……魔性、毒婦、天蓋の下、あえぐように、そう漏らしたのは、一体、彼女の何人目の男だっただろうか。
 それすら、最早、過去のこと。 
 メリッサのそれは中傷と言うよりも、ただ、耳にしたことがある事実を述べただけだったのだが、それを聞いたセラはふ、と困った風に口元を緩め、
「余り、そういうことを言うものじゃないわ。メリッサ……ルーファスの大切な、ご親戚なんでしょう?」
と、穏やかにたしなめる。
 その声は静かで、されど、抗い難い響きを帯びていた。
 いつも、人の言動をとやかく言うことの少ないセラの、凛とした声音に。
 こちらを見てくる、翠の瞳の、静謐なまでの涼やかさに。
 唐突に、己の言動が恥かしく思えて、メリッサは「あ……っ」と顔を伏せた。
 いくら頭に血が昇っていたとはいえ、言い訳のしようもない、失態だった。いくら何でも、今のはなかっただろう。
 羞恥心で、奥方様とまともに顔を合わせることが、叶わない。
「あ……っ。申し訳ございません、セラさま……」
 ――どこか穴があったら、入りたい。
 酷くいたたまれない気持ちになりながら、メリッサは顔を赤くし、うつむいた。
 もし、面を上げた時、奥方様が軽蔑の眼差しを注いで来たら、と思うと、怖くて、目を合わせる気にすらなれない。
 そんな彼女の耳元に、「ね……顔を上げて?」と唇を寄せ、セラが囁く。
 恐る恐るメリッサが顔を上げると、まろやかな光を宿した翠の双眸が、まっすぐに此方を見つめていた。
「ごめんなさいね、メリッサ……」
「……っ。どうして、セラさまが謝るんですか?今のは、あたしが悪……」
 言葉を返そうとした金髪の少女に、セラは小さく首を横に振る。
 違うの、と。
 儚く、微笑う。優しく、されど、雪のような、淡く、いまにも消え入りそうなそれが、何故か胸に痛い。
「――だって、あたしの為に、怒ってくれたんでしょう?」
 ごめんなさい、ありがとう、でも、大丈夫だから……様々な意味のこもったそれに、メリッサはぐっと、口をつぐまざるを得ない。
 優しい微笑みに、なぜだか胸が軋む。
 奥方様は、いつも許すから、責めないから、メリッサはそれが歯痒くてはがゆくて、しょうがなかった。
「あれ……?」
 その時、後ろから、ひどく驚いたような声がする。
 セラやメリッサが振り返るよりも早く、その声の主が、こちらに歩み寄ってきたようだった。
 彼女たちが振り返ると、驚きに見開かれた、ハシバミ色の瞳と目が合う。
「……セラ?」
 紙袋を片手に、そこに立っていたのは、十八、九、セラよりもひとつふたつ、年嵩であろう青年だった。
 焦げ茶の髪に、ハシバミの瞳の、これといって特徴はないが、真っ直ぐにこちらを見てくる眼差しが、誠実そうではある。
 こざっぱりとして清潔だが、いかにも質素な衣服は、男の身分が平民であると告げていた。
 何らかの工房に属しているのか、若さに似合わず、その手は岩のように堅く、ゴツゴツとしている。
 そんな彼は首を傾げると、もう一度、眼前の少女に呼びかけた。
「セラ……だよな?」
 問いかけの形を取った、だが、実際は確信に満ちた声である。
 尋ねられたセラは絶句し、息を呑んだ。
 喉が、ふるえる。
 彼女の唇から出たのは、まるで、己のものとは思えないような、驚愕としか言いようのない声だった。
「まさか、フレッド……?」
 それは、会うはずもない人の名だった。
 まだセラが宰相に王宮に連れて行かれる前、三軒隣に住んでいた、面倒見が良くて、ちょっと乱暴で、でも、優しくて、家族思いの男の子。
 忘れたはずもない、忘れるわけもない、ただもう二度と会えないと、そう諦めていた。
「……ああ」
 感情のこもった声で、青年はうなずく。
 ハシバミの瞳が、万感の想いをこめ、懐かしげに和んだ。


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