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四章  過去と復讐  6


「フレッド……?フレッドなの?」
 そう名を呼びながら、セラは目を大きく見開き、驚いたような顔つきで、青年へと駆け寄った。
 駆け寄ってきた少女に、ハシバミの瞳の青年――フレッドは口元を緩めると、
「久しぶりだな、セラ……四年ぶりか?」
と、屈託なく笑う。
 彼の笑顔が記憶と重なり、セラの胸に懐かしさが広がった。
 十三、四の少年の頃と比べると、ぐっと背が高くなり、面立ちからも少年っぽさが消えていて、すっかり大人びてはいたが、はにかむような、屈託のないフレッドの笑顔は、昔のままだった。
 フレッドは、宰相が迎えに来るまで、セラがまだ市井で母と共に隠れ住んでいた頃、三軒隣に住んでいた少年だ。
 彼の母親のアンおばさんと、妹のユーナと。
 ――妹のユーナと一緒に、よく彼の後ろを追いかけては、妹たちのお守りなんて御免だと、セラたちの方を振り返り、兄のフレッドは嫌そうな顔をする。
 でも、面倒臭そうにため息をつきながら、伸ばされた手を拒むことは一度としてなく、結局、いつも足を止めてくれた。
 少年にしては大きな手のひらが、がしがしといささか乱暴に、妹の頭と亜麻色の少女の髪を撫でる。
 のみならず、セラの母が病に臥せった折には、ただの隣人であるにも関わらず、滋養のつく物を届けに来てくれたり、窓辺にこっそりと花を摘んできてくれたりしたものだ。
 そんな昔日の、心優しい少年の面影が心をよぎる。
 あたたかなハシバミ色の瞳が、在りし日の、切なくも優しい想いを呼び起こし、変わってないね、とセラは唇をほころばせた。
「うん。久しぶり。フレッドは変わってないね……すぐにわかった」
 妾腹の王女としてでなく、公爵家の奥方としてでもなく、また魔女としての姿でもなく、ただのセラという娘として、彼女はそう答えた。
 宰相ラザールが迎えに来る前の、幼馴染であるフレッドは、セラフィーネという名も、彼女の真の立場も知ることはない。
 故に、セラも素のままの己を隠すことなく、何処にでもいる、十七の少女として振る舞うことが出来る。
「セラも、変わってないさ。すぐに気づいた。だから、声をかけたんだ」
 そう言って、穏やかに笑い、「元気そうで、安心したよ……」とフレッドは続ける。
「シンシアおばさんが亡くなった後、急に引っ越したから、心配だったんだ。セラは何も言わずに居なくなるし……家の近所には、妙に身なりがいい人間がうろちょろしてるし、親戚か何かに引き取られたのか?」
 フレッドの言葉に、セラは、あ、ええっと、とひどく歯切れ悪く応じ、顔を曇らせた。
 翠の瞳が、迷うように揺れる。
 懐かしい再会をした幼馴染を相手に、嘘をつきたくはなかった。だけれども、真実を口にする事は、許されはしない。
 フレッドの疑問は、もっともだ。
 四年前、母が儚くなってしまってすぐ、セラは宰相ラザールの手によって、無理やり王宮へと連れて行かれた。
 当然のことながら、仲の良かったフレッドとユーナの兄妹、お世話になった兄妹の母であるアンおばさんにも、お礼も……ひとことの挨拶さえ、告げることが出来なかった。礼儀知らずで申し訳なかったし、何の恩も返せなかったのが、心残りだ。
 親切で、そんなことを気にするような人々ではないと知っているけど、それでも、何の前触れもなく、唐突に姿を消したセラのことを、訝しがってはいただろう。
 彼女が王宮へと連れ去られた後、家の近所をうろついていたというのは、宰相の手の者だろうか……わからない。
「あれから何度も、家を訪ねたんだけど、セラには一度も会えなかったからさ。ずっと、何処に行ったのかな、って思ってた」
 不義理を詰るでもなく、ただ純粋に心配さを宿すフレッドの声音に、セラはひどくいたたまれない気持ちになって、翠の双眸を伏せた。
「……ごめんなさい。手紙か何か、届けられたら良かったのだけど……」
 言い訳だと、彼女自身が、誰よりもよくわかっていた。
 王宮では当初、宰相の監視の目が厳しく、こっそり抜け出し、ラーグの住処と行き来が出来るようになったのは、だいぶ経ってからだった。
 何より、己を取り巻く環境が変わり過ぎていて、迷惑をかけるかもしれないと思うと、迂闊に連絡を取ることすら、ためらいを覚えた。
 嘘をつきたくないという思いと、真実を告げられない苦しさが、胸を締め付ける。
 葛藤するような彼女の表情に、何らかの事情があると察し、フレッドは「そんなこと、気にするなよ」と穏やかな声で言い、包み込むように、あたたかく笑う。
 ハシバミ色の瞳が、優しい色合いをたたえて、セラを映した。
「こうして、また会えたんだからさ。元気そうで……ほんとうに安心した」
 はにかむようなフレッドの笑顔に、昔の寸分も変わらない彼の態度に、己には勿体ない程の優しさに、セラは泣きたいほど切なくなる。ああ……。
 何もかも変わってしまった時、変わらぬものはどうしてもこうも、切なく胸を打つのだろう。
 一瞬、目頭が潤みそうになったのをこらえ、彼女もまた昔と変わらぬ微笑みを向けて、フレッドに尋ねた。
「ねえ、フレッド……アンおばさんと、ユーナは元気?」
 セラがそう口にした瞬間、一瞬、フレッドの顔に暗い影が差す。とはいえ、それはほんの一瞬のことであったので、そのハシバミの瞳の奥に宿る感情が、余人に伝わることはなかった。
 取り繕うように、口元を緩めて、幼馴染の青年は答える。
「……元気だよ。母さんも、ユーナも」
 母さんは最近、ちょっと体を悪くして、医者にかかっているけども、妹の看病のおかげで、だんだん良くなってる。
 妹のユーナは貴族の屋敷に奉公に出て、なにかと大変なことも多いようだけど、愚痴も弱音も吐かずに、まじめに頑張ってる。あまり体が丈夫じゃないのに、頑張りすぎていて、そのうち体を壊さないか、兄として心配だ。
 自分は親方に弟子入りして、今は、日々しごかれながら、修業中の身の上だ。
 親方は厳しいけど、凄く腕の良い人だから、やり甲斐があるし、一日も早く一人前の職人になって、母さんや妹に、楽な暮らしをさせてやりたい。
 ……と、フレッドは明るく、快活な声音で語る。
 彼が語るそれに、セラは嬉しそうに、少しばかり眩しげに「そうなの」と、弾んだ声で相槌を打つ。
 懐かしいひとびとが、それぞれの苦労を抱えながらも、将来への希望を持って、幸せに暮らしている。
 それが何よりも、うれしかった。
 アンおばさんとユーナが、元気そうで良かった、と言うセラに、フレッドは穏やかに笑った。
「ああ、こっちはそれなりにやってるよ」
 親しげに頷き合うふたりに、数歩、遠慮がちに近寄って、奥方さま?とメリッサは、首をひねる。
 フレッドを見て、公爵家の女中である少女は、セラと親しげに話すこの男は、一体、誰なのだろうか?と、不思議に思わずにはいられない。
 話しぶりからしても、セラの心を許したような態度を見ても、浅からぬ関係のように見えるが、男の質素な身なりは、どうみても平民のものであるし、公爵家の奥方と知り合う要素は、余りないように思われる。
 王族の身分でありながら、驕るごとなく、気さくに振る舞うセラ様は、例外中の例外としても、このエスティアという国において、貴族と平民が交流を持つ機会は、そう多くはない。
 不自然、とまでは言わぬが、首をかしげずにはいられなかった。
「―――奥方様?」
 メリッサの呼び掛けに、セラは彼女を置き去りしてしまったことを悔いてか、「あ……」と声をもらし、すまなそうな顔をする。
 またその呼びかけを聞いたフレッドは、奥方様……?と、微かな驚きの混じる声を上げ、瞠目した。
 結婚したのか、いつ、と言葉を重ねた男に、セラはコクッ、と首を縦に振り、少し恥ずかしそうに、「ちょっと前……」と、蚊の鳴くような声で答える。
 詳しい事情を顧みれば、通常とはだいぶ違う形ではあるが、奥方様、と呼ばれているのは事実である。
 うつむいた少女の頬に、ほのかな朱が差し、半ば目を覆う前髪がどこかあどけなくも、初々しかった。
「そうか……セラももう十七だもんな、そんな話が出ても、おかしくないか」
 おめでとう、と祝福の言葉を口にし、フレッドはハシバミの瞳を細めた。
 数年前、セラがまだ幼い少女だった頃しか知らない身としては、急にどこかの男の妻となったと言われても、いまいちピンと来ない。
 妹のユーナと一緒に、よく自分の後をくっついてきた、亜麻色の髪の……そんな幼かった少女が、他人の妻となり、いずれ母ともなりうる身であると考えると、嫉妬とまではいかぬが、どこか複雑な想いが、胸をよぎらぬでもなかった。
 なぜか少し複雑そうな、寂しげな目をして、ありがとう、と微笑ったセラを見て、ずいぶんと綺麗になった、とフレッドは思う。
 きっと、妻として大切にされているのだろう。
 母子ふたりで暮らしていた頃は、貧しさゆえにロクな食事も取れず、よく青白い顔で震えていたセラだったが、今はすっかり血色が良くなり、骨と皮のようだった体つきは、ゆるやかな丸みを描き、娘らしくなった。
 磨かれた肌は傷一つなく、すべらかだ。
 亜麻色の長い髪は、丁寧に櫛を入れられ、結われた一房には、可憐な花の飾りが添えられていた。
 また身に着けているものも、控えめな装いでありながら、一目で仕立てが良いものであるとわかる。
 大人しやかで、人目を引く華やかな容貌の持ち主というわけではなかったが、ふんわりとした雰囲気、どこか儚げな、柔らかい翠の瞳と相まって、野に咲く名もなき花のような、清楚な美しさを感じさせた。
 これならば、どこぞの富裕な家の奥方様といっても、通用することだろう。
 下町の古屋で、青白い顔で震えていたあの時とは、まるで別人のようだ。
 顔の色つやも良くなり、健康そうになったセラの姿に安堵しつつも、フレッドの胸中はやや複雑だった。
 セラの隣にピッタリと控え、奥方様、と彼女に呼びかける、金髪の少女。
 こちらに怪訝そうな顔を向けてくる彼女は、その服装や振る舞いから見ても、どこかの裕福な商家か何かの女中だろう。
 どこの誰かも知らないが、セラを娶った男は、ずいぶんと裕福なようだ。日々の糧を得ることすら容易でない、己と違って。
 生きる世界が違ってしまったような、一抹の寂しさを感じながら、フレッドは亜麻色の髪の少女を見つめる。
 幸せそうで良かった、と口にした言葉に、嘘はなかったのだけれども。
「あんまり引き留めてもアレだな……久しぶりに、会えて良かったよ」
 名残惜しくはあったが、いつまでもこんな場所で、立ち話をしているわけにはいかない。
 あまり長々と話し込んでいては、お付きの女中にあらぬ誤解を与え、他人の妻となったセラに、迷惑をかけてしまうかもしれぬ。
 そう考えたフレッドは、片手を上げ、
「じゃあな」
と、別れを切り出した。
「こちらこそ、アンおばさんとユーナにもよろしくね」
 懐かしく、よく耳に馴染んだ声だった。
 やわらかく微笑うセラに、フレッドも笑みを返し、背中にかかる視線を感じながら、踵を返し、その場を立ち去った。



 セラに手を振って別れを告げた後、フレッドは身をひるがえし、彼女たちとは反対の方角へと歩き出す。
 青年は赤茶け、細かな傷が幾つもついた職人の手に、紙袋を持ち、道行く人々に向かって、にこやかに愛想を振りまく花売り娘の前を横切り、すたすたと大股で歩いていく。
 その足取りは、急いている風でも、また迷っているようでもなく、これといって不審な点は見受けられない。
 食欲をそそる、肉汁の匂いただよう屋台やら、通りに看板を出したばかりの酒場の親父の前を通っても、一切の脇見をせず、ただ前だけを向いて、歩調を変えることもない姿は、これから、まっすぐ家に帰宅するのだろうかと思わせる。
 真面目そうではあったが、これといって特徴のないフレッドの風貌は、浮き立つことも、周りの人々の注意を引くことなく、雑踏の中に埋没していく……かのように見えた。が、彼は唐突に足を止めると、ゆっくりと後ろを振り返り、ハシバミ色の瞳をすがめる。
 その瞳は鋭く、何かを警戒するかのような、用心深げなものが宿っていた。
 男は一瞬、周囲を探るように視線を飛ばすと、無言で唇を噛み締め、踵を返す。
 その足が赴く先は、裏通りの細い細い小道、薄汚れ、奥へ奥へと入り込めば入り込む程、治安が悪くなる場所である。
 くすんだ灰色の壁にもたれかかった物乞いが、鼻を摘まむような悪臭のボロ布を片手に、ぐうぐう寝こけており、その傍らではドブネズミの色合いをした猫が、盗んできたらしい魚を前に、ぺちゃぺちゃ、と舌を鳴らしている。
 フレッドが横を通りすぎると、猫は金の目をらんらんと輝かせ、毛を逆立てシャ――ッ、と威嚇した。
 道の端々にはゴミが投げ捨てられ、腐臭と排泄物のそれが混じり合い、耐え難い臭いがただよう。
 清掃や、清潔さとは無縁、いつ伝染病が蔓延してもおかしくないような、ひどく劣悪な環境だ。
 国王陛下の恩恵に預かるべき土地、繁栄の光をまっ先に受けるべき王都でありながら、一歩、裏側に入り込めば、このような光景が広がっている。
 それこそが、エスティアの歪みであり、改善されることなき現実だ。
 しかし、夜毎、宮廷で華やかな宴を催す一部の貴族たちとは異なり、市井を生きる者たちにとっては、それはありふれた、日常のひとつに過ぎない。
 多くの者が貧しさに喘ぎ、数歩、歩けば、スリに目をつけられる。
 ならず者や、呪いやら魔術やらを商売にする妖しげな輩が隠れ住む、 貧民街。
 ごくごく平凡な、日々、慎ましやかな生活を営んでいる者が、なにも好き好んで足を踏み入れるべき所ではないだろう。
 しかし、よどんだ空気の路地裏を抜け、貧民街への一角へと歩んで行く、フレッドの眼差しに迷いはなかった。
 男の目の前を、鼠の死骸をくわえた黒猫が横切る。
 それにすら、一瞥もくれない、フレッドのハシバミの瞳には、何か思い詰めたようなほの暗い光が宿っていた。
 先程、幼馴染みの少女と再会した時とは、あの亜麻色の髪の娘に笑いかけたのとは、まったく別人のような、喜怒哀楽の一切かんじられない、さながら仮面のような無表情である。
 一切の感情を押し殺したようなそれが、かえって哀しさを感じさせるのは、男の瞳の奥に宿る、苦しげな色ゆえだろう。
 ガリッ、と何かに耐えるように、強く強く唇を噛み締めながら、それでもフレッドは立ち止まろうとしなかった。
 親方からもらった、お下がりの靴は、ある古びた一軒家の前で動かなくなる。
 年季の入った扉はボロボロで、ヒビの入った窓は埃を被り、何年もの間、掃除をしていないのではないかとすら思う。
 扉の前で立ち止まり、どこか苦しげな表情を浮かべた青年は、その場に立ち尽くす。扉を叩こうと、伸ばしかけた手は、ためらうように下ろされた。
 目を伏せると、先程の、亜麻色の髪をした少女の幻影が脳裏をよぎり、フレッドは自嘲するように唇を歪め、心の迷いを、未練を振り払うように、小さく頭を振った。
 彼女は、セラは変わっていたけど、けれども、変わっていなかった。
 身なりが良くなり、四年もの歳月の中、成長し、すっかり娘らしく綺麗になっていても、まっすぐにこちらを見てくる表情と、あの、柔らかな翠が同じだったから……だから、迷ったりしなかった。
 大勢の人の中にいても、すぐにわかった。
 彼女が、セラだと。
 フレッドが声をかけると、金髪の少女と話していた、亜麻色の髪の娘が振り返る。
 セラは驚いたように、でも、昔とちっとも変わらない表情で、こちらを見つめ返してきた。
 翠の双眸に、親しげなものをたたえて――。
 その瞬間、胸をよぎった感傷を思い、男は拳を握る。
 幼馴染みの少女との再会は、慕わしさと懐かしさと、そして、息苦しい程の苦さをもたらした。
 会いたかった。けれども、きっと会うべきではなかったのだ。
 彼女は、セラは、変わっていない。
 会っていなかった間に、暮らしが変わろうと、結婚し、立場が変わろうと、やわらかく微笑む少女の顔は、彼の妹と一緒に後を追いかけてきた子供の頃と同じで、昔の記憶と重なった。
 少年の頃、親しんでいたその翠を、柔らかな色合いをたたえたそれを、うとましく感じるのは、何故だろう。
 己の身勝手さと、運命の皮肉さを、フレッドは嗤うしかなかった。
 変わったのは、変わってしまったのは、自分の方だ。
 なぜ、今なのだろう。
 どうして、今、再会しなければならなかったのだろう。
 守るべきものを何もかも失って、全てを捨て、記憶がこぼれ落ちる今になって、何故――もう、全てが遅すぎる。
 踏み留まることなど、今更、許されはしない。
 いまだ胸を支配する、過去への感傷を捨て去る為に、男はわざと乱暴に扉を叩いた。
 叩きつけた手の甲に、うっすらと血がにじむ。
 扉の内側から、苛立ったような声がして、衣擦れの音がし、しばし待たされた後、扉が半分ほど開けられる。
 フレッドが一歩、そちらに歩み寄ると、扉の陰から、黒髪の女が顔をのぞかせた。
 若くはない。だが、気だるげな雰囲気をまとった女からは、言い様のない色気を感じた。
「なんだ……客かと思えば、あんたかい」
 そう退屈そうに言った女の声は、嗄れていた。
 一晩中、客を取っていたのだろうか。
 濃厚な情事の余韻をただよわせた女は、ふん、と鼻を鳴らすと、フレッドに向かって、「入りな」と傲慢に顎をしゃくった。
 家の中に足を踏み入れると、室内には感覚を麻痺させるような、淫靡な香りが立ち込めており、寝台の乱れたシーツには、昨晩の名残りが色濃く残っている。
 フレッドを部屋に招き入れた女は、妖艶に笑うと、テーブルの上に腰をおろし、くるくると指の先で黒髪を弄んだ。
 褐色の女の肌は、純粋なこの国の民ではなく、南方との混血であるとわかる。
 さらされた右腕には、蜘蛛の刺青。
 豊満な乳房が、窮屈なドレスに収まりきらず、あるいは故意にか、誘うように半ばこぼれ出ている。
 娼婦である女にとって、己の肉体は誇りこそすれ、隠すものではないのだろう。
 あふれるような乳房を、隠す素振りすらも見せず、女は胸を反らし、舌で唇を舐める。
 ちりちりと揺らぐ赤い舌は、蛇のそれにも似て、ひどく扇情的だったが、フレッドがそれに惑わされることはなかった。
 もし、目的が違えば、女の媚態に、若い男の常として、少なからず心を揺り動かせれたかもしれない。
 昨晩の客のように、ここには心を狂わせるような何かがある。
 しかし、此処には決して、女を抱きに来たわけではない。
 目的は、別にあった。
 女の生業は、娼婦、そして、人を呪うすべも熟知している。
 手練手管を尽くし、男を快楽にいざなう傍ら、依頼人の望むままに、他人を災厄に陥れる。
 その裏の貌は、呪術師だ。
「またずいぶんと、思い詰めたような目をしているね……その顔じゃあ、覚悟はできたかい?」
 フレッドを仰ぎ見、女はひどく愉しげにクツクツと喉を鳴らす。
 乳房が揺れ、腕に棲む刺青の蜘蛛が、今にも蠢きそうだった。
 呪術師の女の問いかけに、フレッドはしばし目を閉じ、やがて顔を上げると、「……ああ」と言葉少なに答える。
「――契約続行だ。対価を支払おう」
 そう続けた声音に、既に先ほどまでの躊躇いはない。
 良い覚悟だね、と女はなまめかしく笑う。
 褐色の腕が、フレッドの焦げ茶の髪に触れた。
「それじゃあ、約束通り、呪いの対価として……あんたの大切な記憶をもらうよ」
 女がそう言うのと同時に、フレッドの頭から黒い霧のようなものが吹き出し、が、それは瞬く間にかき消えた。
 虚ろな目をした青年の髪を、呪術師の褐色の手があやすように撫で、その耳元で優しく囁く。
「覚えているかい?あんたの母親は、どんな女だった?」
 投げられた問いに、どこまでも空虚な目をしたフレッドは答えることなく、無言で首を横に振る。
 ぽっかりと記憶が抜け落ちたようだった。
 死んだ母の顔も、その声も、日常の些細な癖のひとつさえ、どうしても思い出すことが叶わない。
 父が流行り病で死んでからというもの、母が女手ひとつで懸命に、息子の彼と妹を育ててくれたことは、覚えている。
 最期の最期まで、残される息子のフレッドを愛し、心配していてくれたことも。
 それなのに……それなのに、その母親の姿だけが、どうしても思い出せない。
 太っていたか、それとも痩せていた?
 声はどんなだっただろう。
 まるで、記憶にもやがかかったようだ。
 無理に思いだそうとすると、こめかみが痛み、心が悲鳴を上げるようで、フレッドは眉を寄せる。
 苦しいよりも、哀しいよりも、ただ寂しさと……底無しの虚無感だけが、胸を支配する。
 契約の対価は、記憶。
 大切な、もう二度と取り戻せない日々の、記憶の欠片……。
「う、あ、あぁ……」
 女の手が離れた時、フレッドはそう声をもらした。
 ハシバミの瞳に、暗い焔を宿して、彼は胸に下げたペンダントを握りしめる。
 銀の鎖のそれは、かつて、彼の妹が身につけていたものだ。
「――ユーナ」
 祈るように、フレッドはユーナ、と妹の名を呼んだ。
 そうしている時だけ、彼はほんの少し、人らしい感情を取り戻せた気がした。


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