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四章  過去と復讐  7


「――帰らないわ」
 扉越しに聞こえた声の温度のなさに、セラはひゅっ、と小さく喉を鳴らし、一端、ノブにかけかけた手を、ためらうように離す。
 冷たい男ね、と詰るのは女の、アンジェリカの声だった。
 鈴を鳴らすが如き、可憐なそれは、今はいいようのない毒を孕んでいる。荒げるでもない、平坦な声音は相変わらず、媚めいたものを含んでいたが、反面、抑えきれない苛立ちも感じられた。
 帰れ、と男の声が再度、突き放すように言う。
 こちらはといえば、まったく普段通りで、ルーファスの声には一切の迷いが感じられない。
 女のすがるような眼差しにも、潤んだように揺れる碧眼にも、震わせた喉にも、ちらりと一瞥をくれたきり、同情の念を抱くこともなく、あの冷ややかな蒼の瞳で、独特の威圧感をただよわせながら、相手を見下ろしている……扉を開けて、部屋に入るまでもなく、そんな姿がセラには容易に想像できる。
 客間の扉を前にして、ぴたりと足を止めてしまった女主人に、横に控えていたメリッサが心配そうな目をした。非礼とは知りつつも、女中は脇から、奥方様の顔をのぞきこむ。
 痴話喧嘩、というわけでなくとも、夫と自分ではない女が二人っきり、ひそひそと話している現状は、妻の立場からすれば、到底、歓迎すべきものではないだろう。
 これまた、ただのメリッサの勘繰りに過ぎぬ、かもしれないが。
「……奥方様?」
 案ずるようなメリッサの声音に反して、ん?とこちらに向き直ったセラの表情は不安そうではなく、嫉妬めいた暗い陰りも、感じられなかった。
「平気よ。何だか取り込んでいるみたいだから、少しだけ下がっていてくれる?……メリッサ」
 お願いね。
 そう、しっかりした声で言うと、メリッサを安心させるように、セラは軽く口元を緩める。
 そんな奥方様の態度に、胸がざわつくような、寂しさを覚えつつも、その域を越えているのは承知の上で、使用人としての本分を放棄するわけにもいかず、一礼し、 その場から立ち去った。
 厨房に向かうべく、女中の制服、その紺色のスカートがひるがえる。
 黄昏に染まりつつある町景色、窓から差し込む夕陽の光が、シニョンの下、その明るい金髪をきらめかせた。
 影がのびる。
 去り際、一瞬だけ、セラの方を振り返ったメリッサの唇が、あたしはセラさまのお味方ですからね、と声なき声をつむいだ。
 セラはあわく微笑んで、その軽やかな靴音と、快活な女中の少女の背中を見送ると、再び、客間の扉へと向き直った。
 (戻ってきたのは、失敗だったかしら……)
 ノブに手を伸ばしかけたセラの翠の双眸に、後悔するような陰りがさす。
 メリッサとふたり、ゆっくりと散歩して、屋敷に戻ってきたというのに……途中、幼馴染みのフレッドとの予期せぬ再会もあった。
 しかし、どうやら、まだルーファスとアンジェリカ嬢の会話は、一段落していないらしい。
 繻子の扇子で、紅い唇をたおやかに隠し、あの麗しい女性は、悩み事があるのだと言っていた。
 他の誰でもない、ルーファスでなければ、相談できないのだ、と。
 彼の人によく似た、美しく、何より優雅な女性が微笑う。
 その身から香るは、あまやかな薔薇の匂い。
 紅い唇が、誘うように、ゆるやかな弧を描いて――
「……ふ、」
 性質の悪い酩酊感にも似た、ぼんやりとした幻想に囚われそうになり、セラは浅く頭を振り、落ち着くように、深く息を吐く。
 かすかな胸の痛みさえ、気づかぬフリを貫いた。
 (愛されたいなんて、思っていない……そんな贅沢なこと、思っちゃいけない)
 願うことも、乞うことも、それ自体が罪なのだと。
 呪いの象徴たる、左手のアザが疼く。
 忘れるな、解放される日なんて来ない、とそれは無言のうちに伝えてくるようだった。
 その痛みを諦観と共に、慣れた風に受け入れて、セラは扉を押し開けた。
 例え、さりげなく、この場を立ち去ろうとも、気配に聡いルーファスのことだ。既に、気づいているだろうと、そう思って。
「……ずいぶんと薄情なのね」
 扉を開けた途端、耳に飛び込んでくる女の声音が、急に高く、また大きくなった気がして、セラは目を細くした。
 キンキン、と金属を爪弾くような、不協和音にも似通ったそれ。
 たおやかな風情には似合わぬ、苛立ちもあらわな、甲高い声だった。
 セラが部屋の奥に視点を移すと、冷静な色合いをたたえた、蒼い瞳と目が合う。
 ゆるく腕を組み、壁に背を預けた、長身の男は、ただ佇んでいるだけで、静かな威圧感を感じさせた。
 無言のまま、ルーファスは目線だけを、扉の側へと動かす。
 案の定、前触れもなく、部屋に戻ってきたセラにも、ルーファスは驚くでもなく、一度だけ、わずかに片眉を上げ、それっきり、再び、興味なさげに目を伏せる。
 流れた黒髪が、額を隠す。
 凪いだ水面のように、その端整な面には、動揺の欠片も見受けられない。
 一方、長椅子から立ち上がり、ルーファスに詰め寄ったアンジェリカは、背を向けていることもあり、セラが帰ってきたことも、その存在にさえ気づかぬ風だった。
 あるいは端から、セラの存在を重じておらず、眼中にないのかもしれぬ。
 扉の開く音すら、気に留めていないのか、真珠とレースで縁どられた、あでやかな真紅のドレスを纏った女は、その背中は、此方を見ようとすらしなかった。
 キッ、と仰向いて、長身の男を見据え、豪奢な黄金の巻き毛が、その細い首筋をなぞる。
 薄情なこと、貴方らしいわ、とアンジェリカは唇を歪める。
 その口調には紛れもなく、棘があった。
「命を狙われているかもしれない女を、ひとりで追い出すなんて……ね」
 興奮からか、透けるか如き、アンジェリカの肌は、紅潮し、頬はあわく色づいていた。
 きつく、ひそめられた柳眉さえも、匂うような色香がある。
 碧眼の奥、強く苛立ちを表すように、黄金の焔がちらちらと揺らめいて、いっそ凄絶でさえあった。
 激しい感情で、目を背けたくなる程、醜くなる女と、凄みを帯びて美しくなる女がいるとすれば……アンジェリカは、間違いなく後者だ。
「人聞きが悪いな、アンジェリカ……俺がせっかく、貴女の世迷いごとを、最後まで聞いてやったというのに」
 アンジェリカの責める言にも、ルーファスは唇に薄く、嘲りにも似た笑みをはいたのみだった。
 口が過ぎるぞ、と低く、重みのある男の声が、臓腑に響く。
 非難するでもなく、恫喝するでもない、その一言は、であるだけに逆らい難い何かがあった。
 ルーファスの言葉に、アンジェリカはわずかに怯むように、睫毛をふるわせ、ごくっ、と息を呑む。
 白い喉が咽下し、さながら生き物のように蠢いた。
 一触即発、息をすることすらためらわれるような、張りつめた空気に、セラの視線はあてもなく彷徨い、胸の前で手を組み合わせ、ただひたすら、この状況が改善されることを祈る。
 身の置き所がない、という風に、ぎゅ、と身を縮こまらせた少女の、すがるような目に飽いてか、冷徹そのものな眼差しひとつ、さしたる執着もなしに、その場の主導権を握り続ける男、ルーファスが、再度、唇をひらいた。
「部屋が荒らされたの、飼い猫が泡を吹いて死んだだの、寝台に毒蜘蛛だの……もし、真実だとすれば、確かに異常ではあるが、な」
 先のアンジェリカの言を繰り返し、それが全て本当だとすれば、なるほど、命を狙われてるとでも、言いたくもなるだろうさ。
 そう言いながらも、ただの勘繰りすぎじゃないのか、とでも言いたげなルーファスの口振りから察するに、アンジェリカの言を完璧には信用していない、というのは明白だった。
 嘘吐きが、と断じなかったのは、青年なりの譲歩であったのかもしれぬ。
 あるいは、少し前の彼ならば、下らんことを……取り合う価値もないと、鼻で笑ったかもしれぬ。だが、しかし、最近、関わり合うようになった呪いだの、魔術だのというのは、智謀、策謀、をもって知られるルーファスの頭脳においても、完全なる理解の及ばぬ範疇であった。
 件の出来事が、ちらと頭の片隅をよぎる。
 そのような事情もあり、あえて曖昧な言い様に留めたのではあるが、それをどう受け止めたものか、アンジェリカは華奢な肩をいからせ、怒りに燃える目で、浅からぬ因縁を持つ美しい男、ルーファスを睨みつける。
 繻子の扇子を、握りしめた手に、力がこもる。
 わたくしが、と女の声はふるえていた。
「私が、同情を買いたいが為に、下らぬ嘘をついていると、そう仰りたいのかしら?……ねぇ、あなた、ルーファス?」
 あなたの気を惹きたいがゆえ、という台詞は、意図して伏せられる。けれども、遠いとはいえ同じ血族に連なる、というのはともかく、幼き日の戯れとはいえ、爛れた背徳の絆を結んだ者同士、男が女の色香に惑わされることがないように、女もまた男の言動の裏を読み取る術には、長けていた。
「あいにくと、白か黒か、聞いた話だけで信じられる程、おめでたい人生は送ってきていない……ああ、もっとも……」
 クッ、と男はひそやかに喉を鳴らす。
 ルーファスの冬の海にも似た、暗い蒼の瞳には、昔日の女に対する情はなく、ただ冷めた静謐さのみがある。
「下らぬ醜聞に、わずらわされたくない、というのは本音ではあるがな……しばらく会わぬうちに、貴女も察しが良くなったようで、何よりだ。歓迎しよう、アンジェリカ」
 痛烈な皮肉にも、アンジェリカは浅く、あえぐように息を吐いたのみで、その紅唇に、毒のある言葉をのせようとはしなかった。
 その代わり、あざやかな碧眼に、ルーファスの姿を映し、睨み続ける。怒り、不服、とも取れるそれは反面、どこか陶然とすらものすら抱えているようだ。
 男もまた、何か事態を動かす言葉を連ねるでもなく、壁に背を寄せたまま、唇を閉ざし、無言で女を見下し続ける。
 不毛だった。
 当人同士はともかくとしても、傍から見ている分には、不毛としか思えぬ、尽きることのない会話、どちらも折れることを知らず、終わりの見えぬそれ。
 さっさと屋敷を立ち去れ、という男。
 命を狙われている云々、を盾に取り、帰らぬと言い張る女。
 どちらも己が主張を曲げることなく、また妥協する様子も見せぬそれは、意見の一致をみることは、決してない。
 それがわかるだけに、見るに見かねたセラはふぅ、と吐息をもらすと、遠慮がちに数歩、ルーファスとアンジェリカの方に歩み寄った。
 いずれ劣らぬ、美貌の持ち主同士であるだけに、睨み合う様には奇妙な迫力があり、迂闊に言葉をかけることすら、ためらわれたが、そうも言っていられない。
 少女の、亜麻色の髪が動くのを見て、ルーファスの目がわずかに険しくなる。セラにしかわからぬ程度の変化ではあったが、普段、感情を表さぬ男にしては、露骨なものだった。
 鋭さを増した目つきは、此方の話に関わるな、と無言の内に圧力をかけてくるようだ。けれども、ルーファスの機嫌を損ねるのを覚悟のうえで、セラは口をひらくと、穏やかな声音で口添えする。
「事情はよくわからないけど……アンジェリカさんが、そこまで困ってるなら、泊まらせてあげたら?」
 セラは、己が出掛けている間にされた、アンジェリカとルーファスの会話の流れを、全て把握していたわけでも、命を狙われている云々、というのも、くわしく理解しているわけでもない。されど、困って、助けてを求めているならば、冷たく突き放すべきではない、と。
 何より、この凍えたような空気が、耐え難かった。
 ――膠着した時間を動かすためのそれは、結果として、波風のない湖面に小石を投げ込み、波紋を広げる行為にも似ていた。
 セラの言葉に、眉を寄せたルーファスが、なにか口を開きかけるより先に、アンジェリカの唇から、ふふふ、とこぼれるような、軽やかな笑声がもれた。
 男の纏う空気がよりいっそう冷ややかに、近寄りがたいものになる。
 他者の干渉を拒むかのようなその変化に、動じることもなく、アンジェリカはあくまでも堂々と胸を反らし、艶然と微笑む。
 勝ち誇る、女王のような笑みだった。
 繻子の扇子の端から、熟れたような紅い唇がのぞいた。
 女の声が、歌うように高らかに響く。
 耳障りなそれに、ルーファスは険を深くした。
「ふふ、奥方様は、本当にお優しい方ね……ルーファス、貴方と違って」
 アンジェリカはそう言うと、舞踏を連想させる優雅な、流れるような歩みで、戸惑うように、はたはたと幾度も目を瞬かせる、セラの正面へと立つ。
 にっこり、と男ならば蕩けそうな微笑みを向けられて、胸の前で組んだ手に、音もなくふわりと、柔らかなものを重ねられて、亜麻色の髪の少女は、思わず、反射的に身を強張らせる。
 そんな彼女の驚きすらも、包み込むように、重ねられたそれが強くなる。
 セラは当惑気味に翠の瞳を揺らし、顔をうつむけて、重ねられた手を見つめる。
 ふわ、と甘く、蠱惑的な香りが、鼻先をくすぐった。
 柔らかなアンジェリカの手は、それ自体がひとつの芸術であるように、指先まで疵ひとつなく、完璧なまでの美しさを誇っていた。
 磨き抜かれた雪花石膏の肌には、染みひとつなく、細く形の良い指、すべらかなそれは、造形美の極致のようだ。
 その美しさに半ば見惚れつつも、薬の調合やら薬草に触れる中で、かさついて荒れた己の手を見て、セラは恥じ入るように、頬を赤くした。
 比するつもりも、卑下する気もないのだけれど。
「今の言葉を、聞いていたわよね?ルーファス……お優しい、お優しい貴方の奥方が、王女様がこう仰ってくださっているのだもの。まさか、異を唱えたりはしないでしょう?」
 くるり、と顔だけを男の方に向けて、アンジェリカはそう言い放つ。
 女王の如き微笑は、己が勝利を確信している者のそれだった。
 一方、彼女に身を寄せられたセラはといえば、まとわりつく濃厚な薔薇の匂いに酔っていた。
 翠の瞳が、夢うつつの境で、ぼぅ、となる。
 陶然というよりも、何か良くないものに酔うようなそれは、何処か危うい。
 (ばら、薔薇の匂い……)
 むせかえるような、あまい、あまい香り。
 それは、魅惑的ではあったが、心安らぐものとは程遠かった。
 セラはゆるりと顔を上げ、アンジェリカの横顔を見つめる。面立ちは似ていないが、纏う雰囲気が、ルーファスと近いと思った。けれども――
 (……違う。似てない、かも。何が違うのか、上手く言えないけど……)
 問われたなら、言葉では、上手く説明できないだろう。
 この麗しいひとが、苦手というわけではないのだ。だけど……
 身にこびりつくような薔薇の香り、それはさながら毒のように、セラの心を重く沈ませ、蝕んでいく。
 あまやかなそれが、鎖のように……
「……だから、どうかしたのか?」
 奇妙な渦に飲みこまれそうになる、場の空気を一蹴するように、涼やかな声がした。
 セラがそちらに目を向けると、先と変わらず、冷静さをたたえた蒼い瞳が、こちらを見ていた。優しいとも、穏やかとも言いかねるが、暗い澱みごと払拭するような、その鋭さを宿した双眸に、彼女はなぜかホッと安堵するような、救われたような心持ちになる。
 (ルーファス……)
 胸を打つ、儚く淡いそれは、切なさにも似て。
 たった一言、言葉を発しただけで、その場の空気すらも変えてしまう。男の言には、眼差しには、それだけの力があった。
「……っ」
 怯んだように、目を伏せたアンジェリカが、何か更に言葉を重ねようとした瞬間だった。
 かちゃかちゃ、と金属の擦れる音が聞こえた気がして、セラは首を斜めの方に向ける。
 気のせいかと思いつつも、はぼ無意識のうちにしたことであったが、己が目にしたものが信じられず、翠の目を大きく見開く。
 ふ、と少女の背筋が凍る。
 あぁ、と喉の奥の奥から、声なき悲鳴がもれた。
 壁際で、部屋の一部として溶け込みながらも、重厚さをただよせていたのは、いつの時代のものであろうか、騎士の甲冑だった。
 装飾の一部として、飾られた鎧兜は、にぶい鋼色の光沢を放ち、見る者に畏怖と畏敬の念を抱かせる。
 兜から鉄靴に至るまで、全身を覆うための、おまけに剣の鞘すら携えたその甲冑は、支えがなければ、相当な轟音をもって、床に倒れ込んでいることだろう。――のはずだった。
 かちゃかちゃ、と鎖帷子の音が、耳朶を打つ。
 信じがたい光景を前にして、セラは瞠目し、その表情は凍りついた。
「……ぁ」
 先ほどまで、微塵も揺らがなかったはずの甲冑、無人のはずのそれが、ガチャリガチャリと金属の鳴る音を奏でる。
 誰も触れておらず、窓を閉め切った部屋には、風すら吹かぬ。なのに、何故――まるで、生きているかの如く。
 おおきく剣を振りかざすように、甲冑が傾くまで、ほんの、瞬きするような間しかなかった。 
 話に夢中になっているアンジェリカも、またその相手をしているルーファスも、甲冑の異様な状態を、いまだ察していないようだ。
 刹那、セラの顔から血の気が引く。
 喉が引きつり、高く細く、長い悲鳴が上がった。
 甲冑が、倒れ込んで、アンジェリカの真横に、
「――――っ!危ないっ!」
 避けて、と叫ぶのは、間に合わなかった。
 アンジェリカの方に手を伸ばしながらも、届かない指先に、セラの胸には悲痛な思いが広がる。どうか、誰か。助け。
 助けようと伸ばした腕は、むなしくも空を切る。
 己のあまりの無力感に、絶望せずにはいられない。
 急に頭上に広がった、大きな黒い影に、倒れ込んでくる甲冑を見あげて、アンジェリカは碧眼を瞬かせ、咄嗟に身動きすら取れないようだった。
 時が止まったように、その動きは、不思議とゆるやかに見えた。
 重量を誇る鎧兜が、視界を黒い影で覆い隠しながら、女に向かって倒れ込んでくる。
 回らぬ頭でそれを理解しながら、呆然と、その場に立ち尽くすアンジェリカに、その運命に抗う術はない。
 鎧兜の銀灰の光が、目の前で踊って、
 華奢な女の身体を、甲冑が押し潰し、その下敷きになろうかという寸前で、男の腕が伸び、その細腰を抱いて、安全な場所へと引き寄せた。
 がっしゃんがしゃん、と陶器が割れる音が重なった。
 凄まじい轟音がして、甲冑が床へと倒れ込む。
 籠手がめり込んだテーブルは、無惨にも歪み、巻き添えのように割れたティーカップの破片が、周囲に散らばる。
 勢いよく吹っ飛んだ頭部が、生首を思わせる醜悪さで、ごろごろと、部屋の隅まで転がっていく。
「……無事か?まぁ、見る限り、怪我はないようだが」
 命の恩人ともいうべき、ルーファスの問いかけに、アンジェリカは答えられなかった。
 己が身に起きたことを、まだ完全に受け入れかねているのか、はぁはぁと浅く何度も息を吐いて、倒れ込んだ甲冑と、砕け散った陶器の破片を、凝視していた。
 死に至るかまではわからぬが、相当な重量を誇る甲冑に押し潰されれば、おそらく、無傷ではすまなかっただろう。
 それを思えば、彼女の動揺ぶりも、無理からぬことだった。
 ほんの一時前まで、余裕たっぷりに微笑んでいたはずの女の表情は、今は恐怖に塗りつぶされている。
「は……ぁ……ああ……」
 顔色を無くしたアンジェリカは、怯えるように身を震わせながら、ルーファスに、その逞しい胸板へとすがりついた。
 おそらく演技ではなかろうが、艶々と光を弾く金髪が、うねうねと、まるで蛇のように蠢く。
 男は一瞬、そんな女に冷めた眼差しを注いだものの、咎めるようなセラの視線と、蒼白な顔で震える女の腕を、容赦なく振り払うことに、わずかなりとも良心の呵責を感じたのか、嘆息すると、されるがままに任せる。
 大丈夫だと、優しく言い聞かせるように、セラはいまだ震えの治まらぬ女の背中を、そっと撫でてやる。
 その傍ら、彼女はテーブルにめりこんだ篭手、不自然な姿勢で倒れ込んだ甲冑、隅まで転がった頭部に、探るような目を向けていた。


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