フレッドは、夢を見ていた。
あたたかくて、切なくて……目が醒めたあと、泣きたくなるような夢だった。
彼がまだ子供だった頃、もう既に、喪われてしまったものの夢である。
「困ったわねえ……」
水仕事をこなす中で、ひび割れて、かさついてしまった大きな手が、優しく、だが、心配そうに妹の額にふれる。
指先から、じわりと熱が伝わったのか、母のアンは痛ましげに、眉をひそめ、小さく溜息をついた。病床の娘を、案じているのだろう。その顔色は、冴えない。
はぁ、と寝台で眠る、幼い妹の唇から、苦しげな荒い息がもれた。
フレッドは母親のかたわらに膝をついて、寝台に肘をかけ、妹の、ユーナの顔をのぞきこむ。
……額を寄せると、ぜいぜいと苦しげな呼吸が聞こえて、可哀想だった。
もともと白い妹の顔は、熱のせいか赤くなっていて、眉は苦しげに寄せられていた。時折、ケホンッ、ケホンッ、と背を丸め、咳き込む音が聞こえる。
「おにいちゃ……」
かすれた声。
苦しいのだろう。うるんだような妹の瞳が、すがるように、助けを求めるように、こちらを見る。胸が、締め付けられるようだった。
生まれつき、肺の病で死んだ父に似たのか、身体が丈夫とは言えないユーナのことである。
軽い風邪をこじらせて、熱が引かない現状は、さぞや身に堪えることだろう。
ここ二日程は、ロクに粥すら食べられぬような有様だ。うつろに潤んだ瞳。透けるような肌は、紅潮し、はぁはぁ、と吐かれる息は荒く、熱をもって……頼りない。
そんなユーナの姿が、かわいそうで、何とかしてやりたくて、フレッドはその小さな手を握った。あたたかかった。そっと、手を重ねると、妹の手は包み込まれるように、兄の手に隠れてしまう。
妹の眉間の皺がゆるんで、小さな吐息をもらすと、ゆるり、まぶたを伏せた。
「なかなか熱が、下がらないわね。薬があればいいのだけど……」
汗ばんだ娘の額に、ベタリとうっとうしげに張り付いた、焦げ茶の髪をはらってやりながら、母は「薬を買うお金が、ウチにあればね……」と、半ば独り言めいた風に言った。
頬に手をあて、ため息をつく。
医者を呼ぶ金が、あればいい。フレッドもそう思ったが、同時に、ウチにはそんな余裕もないということも、わかっていた。早くに父を亡くして以来、我が家の生活は、少年である彼が悟らざるを得ないほど、苦しいのだ。
お貴族様ならともかく、平民にとって、薬は貴重品だ。おいそれと、簡単に手に入るものではない。薬は買えない、医者に看てもらうなど叶わぬ夢、ただ、じっとしているのがせいぜいだ。
母の嘆きは、もっともだった。けれども、どうにもならない。
フレッドは痛ましげに眉を寄せて、汗ではりついた前髪をかきわけ、額を布でぬぐってやる。
普段、うっとうしいくらい、自分に纏わりついて来る妹の、こんな弱った姿を見ているのは、忍びなくもあった。頬は紅潮し、毛布の上に投げ出された手は、常よりも白く見え、その対比が痛々しい。
「おかぁ、さん……」
妹が、かすれる声で、母を呼ぶ。
うるんだ鳶色の瞳が、一心に母を見つめていた。
「どうしたの?ユーナ。喉が渇いた?何か、して欲しいことは?」
テーブルの上の水差しを取りに行こうと、背を向けようとした母のスカートを、きゅっ、と妹の手が掴む。違うの。ゆるゆると、首を横に振った。
「おかあさん、もう大丈夫だから、お仕事にいっていいよ……わたしは、だいじょうぶ」
ガラガラの声で言って、赤い顔をした妹は、それでも健気に、微笑んで見せた。
苦しいだろうに、母と兄を安心させるように、もう一度、だいじょうぶだよ、と繰り返す。
ユーナ、と娘の名を呼んだっきり、押し黙ってしまった母に、フレッドは、
「母さんが帰って来るまで、俺がちゃんと、ユーナを看ているから……お店、手が足りないんだろう?」
と、声をかけた。
母は近所の、遠い親類の店で働いている。
娘が寝込んでいるというので、昨日は半日休みをもらったようだが、そうそういつまでも休んでいられるわけもない。ユーナも兄のフレッドも、何より、唯一の稼ぎ手である母自身が、それを一番、よくわかっているのだろう。
働かなければ、幼い兄妹は食事にありつくことも出来ず、飢えて死んでしまう。
それでも、見るからに苦しげな様子の娘を、置いていくことに胸が痛むのか、そうね、とうなずいた母の歩みは、いつになく鈍かった。
後ろ髪をひかれる思いなのだろう。
そんな母の背中を押すように、ユーナが言った。
「お兄ちゃんと一緒だから、寂しくないよ、おかあさん……いってらっしゃい」
何時の間にやら、ずいぶんと物わかりの良くなってしまった娘に、母は少しさびしげに微笑して、「じゃあ、出かけてくるわね……お願いね、フレッド。何かあったら、隣のケルスさんに相談するのよ」と、寝台の横のフレッドに声をかけた。
「わかった。心配ないよ」
うなずいたフレッドの頭に、お願いね、と手を乗せると、母は扉を開け、外へと出て行った。扉の隙間から、びゅうう、と凍えた空気が入り込んでくる。少年は、身を震わせた。
きい、と音を立てて、扉が閉められる。部屋の中には、幼い兄妹だけが残される。
急に部屋の中が広く、また寂しくなった気がして、フレッドはうつむいた。
この辺りの一角は、貧しい家が多い。ちょっと道を歩いてみれば、親に捨てられた孤児、子供のスリなんか、めずらしくもない。日々の食事にありつけるだけ、自分たちは恵まれた方なのだと、わかっている。
けれども。
ときどき、もっと自分に力があれば、まっとうに働いて、母さんを助けられればと願ってしまう。自分が、家族を養える位、大人の男であれば。粗末な寝台で、寒そうに身体を丸める、小さな妹を見ていると、余計に、その気持ちが強くなった。
――自分が、守らなければ。
「……おにいちゃん」
そう呼びかけられたことで、フレッドは顔を上げた。
妹の鳶色の目が、こちらを見ている。
どうした?と、彼は優しい声で尋ねた。
「水、飲むか……なにか食べれそうなら、林檎でも剥こうか?」
「いい」
ユーナは微かに首を横にふると、何かおはなしして、と甘えるように言った。
「はなし?」
ささやかな妹の願いに、フレッドはきょとんと目を瞬かせ、首をかしげたものの、ずっと寝込んでいて退屈なのだろうと思い、いいよ、と応じた。何が良い?と。
ユーナは一度、口元を閉ざしたあと、はにかむように答えた。
「お父さん、お父さんのはなしがいい……聞かせて」
「……」
フレッドは一瞬、戸惑い、幼い妹の横顔を見つめた。
クシュン、と鼻をすすったユーナは、毛布をかぶり、ケホケホッと咳き込みながら、それでも、期待に満ちた鳶色の目を、兄である彼に向けてくる。
フレッドはハシバミの瞳を伏せると、くしゃ、と癖のある妹の髪を撫で、ゆったりとした声音で語り出した。兄妹が幼い頃に、亡くなった父親の思い出を――。
「父さんは、腕の良い職人だった。そうだな、あと背も高かった。髪は俺達と同じで、ユーナ、お前とおんなじ鳶色の目をしてた……」
「うん……」
あとは、とフレッドは頭をかいて、父親の思い出を記憶のかなたから、見つけ出そうとする。
父が病で亡くなった時、妹のユーナは赤ん坊、兄の彼ですら五つに満たない位だった。
記憶が曖昧なのも、しょうがない部分もある。けれども、妹が望むなら、とフレッドは記憶に残る、父の面影を追った。
「小さい時、よく肩にかついでもらったよ。大きな手をしてた。それから……」
「う、ん……」
「ユーナ、お前が生まれた時はな……」
「……」
ふと気が付けば、返事はなかった。
代わりに、ずびずびとくぐもった寝息が聞こえる。
フレッドのハシバミの瞳に映るのは、赤い顔をして眠る、妹の横顔だった。まだ熱が引かないのか、時折、苦悶するように眉を寄せる。ましろい額にのせた氷嚢は、既にぬくくなっていた。
兄はふぅ、と息を吐いて立ち上がると、氷嚢を新しいものに取り換える。
ちいさな妹の手を握ってやりながら、母さんが早く戻ってくればいい、とフレッドはそんなことを思った。
早く、一刻も早く、一人前の男になりたい。
母さんを助けて、この小さな妹を、ちゃんと守ってやれるぐらいには。――父さんの代わりに。
「……ん」
その時、扉を叩く音が聞こえた気がして、フレッドはそちらに目を向けた。
気のせいかとも思ったが、続けて、コンコンと叩かれたことで、それは確信に変わる。
寝ている妹を起こさぬよう、足音をひそめて、扉の側へと歩み寄った。
「……フレッド?」
扉の外からしたのは、耳慣れた少女の声だった。
フレッドはちらっと妹の寝台へと目を向けると、声をひそめて、「待ってて、今、出る」と返す。
音を立てぬよう、慎重に扉を開けると、家の外へ出たフレッドは後ろ手で、扉を閉めた。
ひりりと乾いた冬の風が、少年の頬を撫でる。
彼が顔を上げると、灰色のフードをかぶった少女と目が合う。フードからのぞくのは、亜麻色の髪。透き通るような翠の瞳と共に、よく慣れ親しんだそれだった。
「――セラ」
フレッドが名を呼ぶと、翠の瞳を和ませ、セラは小さく唇をほころばせる。
やわらかく、何処かホッとするような微笑だった。
「ユーナは?もう熱は下がった?」
セラの問いかけに、フレッドは「いや……」と、首を横に振った。
「まだ……今は寝てるけど、ずっと熱も引かないし、苦しそうだ」
「そう……」
フレッドの答えに、セラは憂うように目を伏せた。
あまり丈夫とは言えない、ユーナを案じているのだろう。
見舞いに来てくれたらしい彼女を、余り心配させたくなくて、彼はあえて明るい口調で「今は、落ち着いているし、大丈夫だよ。そのうち、熱も下がるさ」と、言葉を重ねた。
「せっかく来てくれたのに、悪いな」
フレッドがそう謝ると、セラはううん、と言って、
「これ、良かったら……」
と、手にしていた籐のバスケットを、フレッドの腕に押し付けた。
唐突な少女の行動に、少年はハシバミ色の瞳を瞬かせ、不思議そうな声を上げる。
「これは……?」
「ええっと、熱さましに効く薬草を煎じたのと、喉の痛みに効く飴と、あと、いろいろ……」
セラの言葉を聞いて、フレッドがバスケットの中を覗き込むと、確かに、琥珀色の瓶やら、ツン、と薬草の匂いがする袋やら、様々なものが詰め込まれているようだった。
風邪に効く、というものばかりなのだろう。
少女の気遣いに、フレッドは驚きと共に、「こんな……ありがとう」と感謝を口にしたものの、嬉しさと同時に、疑問を抱かずにはいられなかった。
フレッドの家は貧しいが、お針子の母と、ふたりで暮らすセラの家だって、決して裕福とは言えず、日々の食事すら、楽ではないはずだ。
そんな余裕はないはずなのに、それなのに……こんなものを、どうやって用意したのだろう?
疑問が、顔に出たのだろう。
怪訝そうな顔をする少年に、セラはふ、と苦笑気味に笑うと、「ラーグ……あたしの師匠、先生にもらったの」と、尋ねられる前に、答えた。
「……先生?」
ラーグ、と聞き覚えのない名前に、フレッドは首をひねり、誰?と言いたげな顔をする。
この近所に、そんな名前の人はいない。
「うん、そう」
少年の言葉の意味は、重々、伝わっているだろうに、セラはあわく微笑んで、それ以上、何か教えようとはしなかった。
従順そうに見える少女の、意外な頑固さを知るフレッドは、それ以上の追及を諦めて、小さく首を左右に振る。その代わり、本当にいいのか?と、再度、セラの目を見つめて、尋ねた。
フードをかぶったセラの貌は、痩せていて、青白い。
もうすぐ十二になるというが、同じ年頃の子供と比べても、その身体つきは、ずっと華奢だった。
普段、あまり栄養のあるものを取っていないせいか、いつ見ても、顔色は悪かった。なればこそ、好意を受け取ることに、躊躇する。
そんなことをしてもらっても、きっと返せない。それに報いる術すら、満足に知らないのに、何故……。
いいの、とセラはうなずく。
その翠の双眸には、何の迷いもないようだった。
雲間から差す薄日が、少女の睫毛に影を落とす。透き通るような瞳の奥に、光の粒が踊るようで、フレッドは、眩しげに目を細めた。
「なあ、セラ――」
「それじゃあ、あたしはもう行くね。ユーナの傍についててあげて」
フレッドが何か言いかけたのを遮るように、セラはそう強引に言葉を重ねると、身をひるがえした。バサッと灰色のフードが、風に舞う。
靴の音が遠ざかって、引き留める余地すらも、残そうとはしなかった。
おい、セラ、と呼び止めかけて、手渡された熱さましの薬草と、寝台で寝ている妹の存在が、頭をよぎり、フレッドは一端、家の中に戻ることにした。
夜半に入り、母が家に戻ってきた頃には、セラにもらった薬草の効果があってか、妹の熱は下がり、顔色も良くなっていた。
苦しげだった呼吸も、だいぶ穏やかなものになり、すぅすぅと寝息を立てるユーナに、母はたいそう安心したような、少し潤んだような目をした。
寝台の横に椅子を置いて、優しい目で娘を見守る母に、もう大丈夫であろう妹を任せ、フレッドは外へと出る。
ひとつ、気がかりなことがあったからだ。
空には、星がまばらに輝いていた。吐く息は白く、フレッドは襟を掴んで、寄せる。少し歩くと、すぐに目的の場所につく。
その家の前には、小さな影がうずくまっていた。
予想していた通りの光景に、フレッドは嘆息し、歩調を速めた。
セラ、と名を呼ぶと、ビクッとその影が動く。
のろのろと顔を上げ、あわい翠の双眸が、彼の姿を映す。うずくまった少女は、意外そうに目を丸くして、次いで、うん?と首を傾げた。
「フレッド……?こんな夜中に、どうしたの?」
呑気な言動に、ため息が出る。
それは、こっちの台詞だ、とフレッドは心中で毒づいた。
「どうしたもこうしたも、そっちこそ、何で、わざわざ外にいるんだよ。セラ……この寒いのに」
「そんなことより……ユーナの熱は、下がったの?大丈夫そう?」
答えたくないのか、あからさまに話題を変えてくる、亜麻色の髪の少女に、フレッドは渋面になり、
「おかげさまで、元気になったよ」
と、いささか、ぶっきらぼうに答える。
――で、理由は?と、再度、少年が問いを重ねると、セラは首をすくめたものの、軽く睨むと、これ以上は誤魔化しきれないと悟ったのか、ぼそぼそと小声で答えた。
お母さんがね、まだ帰って来ないの。
「……シンシアおばさんが?仕事、忙しいのか?」
セラの母親は、お針子だ。
その腕は近所でも評判になる程で、難しい刺繍などもこなす為、富裕な商家の婚礼衣装を請け負うこともあった。人目を惹く美人で、平民らしからぬ優雅な物腰は、依頼人の受けもいい。ただし、必要以上に、他人と関わりたがらないところがあり、近所でも、やや変わり者扱いされているが――。
うん、とセラは首肯する。
「今、商家のお嬢さんの婚礼衣装を縫ってるんだけど、間に合うかどうか、大変らしくて……ここ一週間位、ずっと帰りが遅いんだよね」
「……そこまでわかっているなら、家の中で待っていろよ。危ないし、第一、風邪ひくだろ」
「それは、わかってるんだけど……ね」
フレッドが幾分、キツイ調子で言うと、セラは困った風に視線を泳がせて、ため息と共にうつむいた。両膝を抱える。身体を丸めると、小さな少女の身体が、ますます、夜の闇にとけいってしまいそうに、小さくなった。
不安なんだもの、そう続けたセラの声は、今にも消え入りそうに、儚い響きを帯びている。
「心配になるの。今日こそ、母さんが帰って来ないんじゃないか、って……あたしを置いて、何処かに行っちゃうんじゃないか……家の中で一人ぼっちだと、時々、不安で不安で、たまらなくなるの。もっとも、」
母さんにとっては、その方がいいのかもしれないけど、という自虐的なそれを、セラは喉の奥で飲み込んだ。
(あたしが居ない方が、お母さんは幸せになれる……あたしが居るから、母さんは逃げ回らなきゃいけない。好きな人とも、一緒にいられない……)
あの日、ジェイクおじさんが死んでしまってから、母、シンシアがその話題を出すことは、一度としてなかった。我が子を責めることは、あの日以来、一度としてなかったし、その手が娘の頬を打つこともなかった。けれども。
時々、その緑の瞳に奥に、暗い陰りが宿るのを、セラは知っていた。自分とは、あまり似ていない綺麗な顔が、苦しげに歪むのも、知っていた。
母の願いを、知っていた。ただ平凡に暮らしたいだけなのだということを。母の憎しみの、行き着く果てを知っていた。王家への憎しみを。
そう、知っていたのだ。……母を失いたくなくて、卑怯にも、気づかないフリをしていたけど。
『セラ……貴女さえ……っ!』
凍てついた、母の瞳。
あの時、母は何故、振り上げた手を下ろさなかったのだろう。
なぜなのだろう。あの日からずっと――セラは、その答えを探している。
「何で、そんな風に思うんだよ?シンシアおばさんが、セラを置いて、どっかに行くわけないだろう……」
事情を知らぬフレッドは、心配のしすぎだ、と眉をひそめる。
ふたりっきりの母娘だろ、もっと信頼してやれよ、と諭すように続けると、セラは「……うん、そう、そうだよね」と、自分自身に言い聞かせるように言って、さらに深く膝を抱える。
素直にうなずきはするものの、そこから動く様子のない少女に、フレッドはハシバミ色の瞳を伏せ、嘆息し、結局、並んで腰をおろした。
空に輝く星はまばらで、旅人の目印には、なりえぬだろう。ざわざわ、と凍てつく夜の風が、木々をざわつかせる。
月光が、セラの横顔を照らしていた。自分よりも、二つも年下である癖に、その横顔が儚く、大人びて見えて、フレッドは唇を噛んだ。
それを悟られるのが悔しくて、少年は拳をにぎると、わざと乱暴な口調で言った。
「もう、自分は一人ぼっちみたいなことを、言うなよ。シンシアおばさんがいるし、ユーナも、母さんも……俺だっているだろ」
喋っている内に、気恥ずかしくなってきて、フレッドはふいと顔を背けた。
セラが、えっと……と戸惑うような表情をしているのが、何ともいたたまれない。
クソッ、言わなきゃ良かった、と、彼が己の言動を、深く後悔しかけた時、隣の少女はようやく「……んっ」と、小さな声で応じた。
「わかった……もう言わないよ、フレッド」
本当はずっと、一緒になんていれないことはよくわかっていたけど、フレッドの気持ちを無にしたくなくて、セラは真摯な表情で言う。
薬草をもらう時、ラーグにも釘を刺されていた。
魔術師の琥珀の瞳が、案じるように、弟子の少女を見ている。――誰かと深く関わらないことだよ、それが君の為なんだから、もう、これ以上、辛い想いをしたくはないでしょう?
わかっている。痛い位に、よくわかっている。
それでも、誰かを好ましく思う、あたたかな気持ちを殺すことは苦痛で、少女は無言で星を見あげるフリをした。
「――忘れるなよ」
約束だ。
隣で、ぼんやりと星を眺めるセラの耳に、ちゃんと届くかどうか疑問だったが、フレッドはそう呟くように言った。返事はかえらない。ただ、肩だけが微かに震える。
そのまま、セラの母親が帰るまで、凍てつく寒空の下、少年と少女は寄り添って、過ごしていた。
――夢は、いつだって唐突に、途切れてしまう。
切なくも、幸福な夢の余韻は、朝の光にとけて、幻のように消えてしまうのだ。
ああ、と疲れたような息を吐きながら、うっとおしい前髪をかきあげ、フレッドは寝台から身を起こした。窓から、朝日が差し込んで、家の中を明るく照らしていた。
いまだ夢うつつの境をさまよう、ぼぅとしたハシバミの瞳が、何気なく己の手のひらを見つめる。
大きく、節くれだって、ゴツゴツとした手だった。
記憶に残る父と同じ、職人の手だ。
もっと、年季を積めば、親方の岩のような手に近づくだろう……否、もしかしたら、近づけたかもしれなかった。
少年だった日に、そうなりたいと願ったそれに、理由もなく泣きたくなった。
早く一人前になりたいと、ただひたすら、そればかり願ってばかりいたあの頃、母さんがいて、ユーナがいて……そして、セラがいた。
素直で、優しくて、でも、頑固で寂しがり屋で、危なっかしかったけど、眼が離せなかった。翠の瞳の女の子。
自覚はなかったけど、あれは、きっと初恋のようなものだったと、フレッドは思う。
切なくも、懐かしい夢の余韻から醒めると、家の中が妙にひろびろと、寒々しく思えてきて、苦笑する。
母も妹も、彼女も、あの時、守ろうと誓った者は今、誰も彼の傍にいない。
「ユーナ……」
もういない妹の名を呟いて、胸から下げた銀の鎖を、握りしめた。
薄れつつある記憶を、引き留めるように――。
鉛のように、怠く重い身体と足を引きずりながら、フレッドは呪術師の女を訪ねた。
今日も今日とて、昨晩の娼婦稼業の残り香を、色濃く感じさせる女は、くるくると黒髪を弄びながら、
「おーや、アンタかい?よく来たね。妹思いのお兄さん……そろそろ、呪いの代償が恐ろしくなって、逃げ出す頃合いかと思ったよ」
と、肩を揺らして、ケタケタと、螺子のゆるんだような笑声をこぼす。
ちろちろと赤い舌が、蛇のように揺れる。
褐色の肌に刻まれた蜘蛛が、生きているように蠢いて、豊満な乳房がかいま見え、何とも挑発的な眺めであった。だが、前と同じく、フレッドはチラッとそれを一瞥したのみで、笑い続ける呪術師に、不愉快そうな、冷めた目を向けただけだった。
女はそんな彼の態度に、いささか、興をそがれたようだった。
ハンッ、と嘲るように鼻を鳴らし、「あんた、女に興味がないのかい?可哀想な男だねぇ」と、毒づく。
「うるさい……それで、結果は?」
フレッドが、黙れ、と凄まじい形相で睨むと、呪術師の女は「おおっ、怖い、怖い……」と、わざとらしく怯える演技をする。
しかし、彼が反応しないのを見ると、つまらそうに肩をすくめ、ようやくマトモに答えた。
「約束通り、あの女に上手く恐怖を与えるように、したつもりだけどねえ……そうそう、甲冑を倒して、大怪我でも負えば、と思ったんだけど、あいにくと、余計な邪魔が入ったみたいでね……ああ、そういえば……」
「何でもいい。ただ……」
尚もべらべらと喋り続けようとする女を、フレッドの一言が制した。
青年のハシバミ色の瞳に、静かに、だが、焔のような、押し殺した激情がよぎる。
淡々とした声音がかえって、彼の抱える闇の深さを感じさせた。
「そう簡単に、楽にはさせない。必ず、呪いで怯えさせ、絶望させて、気も狂わん程に追い込んでから、一番、惨たらしい方法で、殺してやる……あの悪魔、アンジェリカとかいう女を」
「……」
「それが俺の――いや、ユーナの復讐だ」
一見して、真面目で純朴そうな青年の唇から紡がれる、復讐という言葉には、奇妙なまでの重みがあり、底知れない闇の深さを伝えてくる。
あくまでも、穏やかに、淡々と語るフレッドは、決して、激情に流されてはいない。冷静に、自ら望んで、復讐という泥沼の淵に、破滅という煉獄へと歩んでいるのだ。
そんなフレッドを、愉快なものを見るように見て、女は、ケタケタケタッと高らかに笑って、胸を反らした。目尻に浮かんだ涙をぬぐって、呪術師の女は続ける。
「いいね、激しい男は嫌いじゃないよ。このあたしが直々に、アンタの復讐に手を貸してやろうじゃないか」
契約は継続でいいんだね、と再度、確認してきた女に、フレッドはしばしの沈黙の後、無言で、それを受け入れた。
呪術師の女の、褐色の腕が伸びてくる。
フレッドはそれを見つめ、静かに目を閉じた。
戯れのように、青年の額に、やわらかな唇が押し当てられる。――それは、祝福よりもむしろ、罪人の烙印を想わせた。
フレッドは薄目を開け、思い出したように言った。
「ああ。それと、頼みがある……」
「いいよ。その分、あんたの大切な記憶が、減るだけさ。言ってごらん……」
「――――」
呪術師の女の指先が、青年の髪に触れた。その時を察して、フレッドは神に祈るにも似た静謐な表情で、まぶたを閉ざす。
――サラサラと砂上の楼閣が崩れゆくように、記憶がかすんでいく。
ああ、嘲笑ってしまう。
ユーナ。ユーナ。ユーナ。心の中で名前を叫んでいないと、復讐の動機であった妹のことでさえ、フレッドは忘れてしまいそうだ。だって、ほら、可笑しいだろう?
あの子が、妹がどんな風に笑っていたか、目の色は、髪の色は何色だった?
……もう思い出せない。
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