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五章 父と子と娘 2


                               *
「ルーファス坊っちゃま、大丈夫ですよ。私が、ついておりますからね」
「お可哀想な、お坊っちゃま……ご両親の愛情を一番、必要とされていらっしゃるのに」
「見ては……見てはいけません!!」
 瞼をおおう、柔らかな女の手は優しく、あたたかった。
「私は、何があろうとも、ルーファス坊っちゃまの味方ですからね。どうか、気をしっかりもってください」
 ……ねえ、どうして?母上は倒れたっきり、動かないの。眠っているの。
 床に広がる血の海は、誰のもの。
 奥方様がぁ、奥方様がぁ、と若いメイドが錯乱したように泣き叫ぶ。
 ちちうえ。
 父の手が、激しく震えていた。
 リディア、リディア。許してくれ、私が君を。
 赤い。赤い。赤い。
 目に映る全てが、血の色に塗りつぶされる。
 ははうえ。
 恐怖で強ばり、ひきつった母の顔は、別人のようだった。
 母上は、どうして死んでしまったの?
                               *
  
 ――ルーファスにとって、父はいつも背中を見るだけの男だった。

 父、ウォルターは国内で五指に入る権門の当主として、政治、主に隣接する国々との外交の一翼を担っていた。
 まだ今ほどは、宰相ラザールの専横ぶりが浮き彫りになっておらず、王宮の腐敗も今ほど、あからさまでなかった時のことである。
 共通語は勿論、北方のベイリ語、南方のイシュール語にも通じ、青年時代から、国王の特使として、幾度も異国に赴いてきたウォルターは、息子が産まれてからも、大層、多忙な人であった。
 否、それはある意味で、ただの言い訳に過ぎず、現実からの逃避であったのかもしれない。
 当時、ルーファスの母・リディアは存命であった。されど、一種、救い難い程に、精神の均衡を崩しており、昼間は物に当たり散らし、陶器の置きものやら、花瓶やらを無残に床に叩き付けたと思うと、夜は夜で、
「お父様、アルファス、お母様ぁぁぁ……」
と、懐かしの祖国を偲び、一晩中、すすり泣く。
 漆黒の髪を乱れさせ、息子と同じ、蒼い瞳を潤ませて、儚い涙を流す母の姿は、それでもなお、手を伸ばさずにいられない程、美しかった。崩れる瞬間の美、と表現すればいいのだろうか。
 幼いルーファスがははうえ、と呼びかけると、美しい母の貌は、恐怖に歪み、
「いやっ、こっちに来ないで……!許して、お父様ぁぁぁ!」
と、無茶苦茶に暴れ、そのせいで怪我を負わされたことも、少なからずあった。それでも、醜さとは縁遠い。
 透けるような白磁の肌を、うすく紅潮させ、神秘的な蒼い瞳はなお煌めく、一児の母とは思えぬほど華奢な身体、折れそうな細腰は、少女めいており、永遠に齢を重ねぬ妖精のようだ。
 とっくに崩壊しつつある、精神の糸とは裏腹に、母は何時いかなる時でも、麗しいひとだった。
 後で思えば、それが余計に、先代の公爵であった父の心を苛み、屋敷から足を遠のかせ、さながら逃避のように、職務に打ち込ませたのかもしれない。
 愛した女の変貌ぶりを、正視するのが、耐え難かったのかもしれぬ。
 日々、病んでいく妻から目を背け、屋敷にいるしかない幼い息子・ルーファスを取り残して、父は、めったに屋敷に帰ってこなかった。だから、偶に帰ってきた父と、食卓を共にすると、ルーファスはいつも戸惑い、困ったものだ。
 さしものルーファスといえども、当時はまだ十を数えるかどうかの子供であったので、久方ぶりに会う父親と、どのような会話を交わすべきか、わからなかったのである。
 ただ最早、曖昧な記憶ではあれど、何となく期待に似た想いを、抱いていた覚えがある。
 母の心を反映してか、屋敷の中はいつも重く、息苦しい空気に満ちていた。明るい陽射しが差していても、その裏には常に、暗く澱んだ影がある。
 多忙を極め、めったに姿を見せぬ父ではあったけども、屋敷に帰ってくると、決まって、母の寝顔が安らかであることを確認する人であったので、その背中に、幼い少年は、かすかな、本当にかすかな希望を寄せていた。
 自分には、一切の興味を抱かぬ母であったけど、もしも、父がまだ母に愛情を持っているならば、何かが変わるのではないかと――。
 寝台で眠る母の横顔に、慈しむような眼差しを注ぎ、その手からこぼれる黒髪に、優しく口づける父ならば。
 半ば無駄だと悟りつつも、その想いは、ルーファスのそれは祈りにも似ていた。
 自分が愛されることは、とうに諦めつつあったけど、それでも、救いの手が欲しかった。
 結局のところ、彼は未だ幼く、そして、愚かだったのだ。
 いつか、何かが変わるのではないかと、儚い希望を捨てきれず、愛という名のそれが、幻想だと気づきもしなかったのだから。
 同じ食卓に腰をおろしながらも、父子の会話は乏しく、微かな食器が触れ合う音を除いては、ひどく静かだった。
 往時は、貴人たちを招いて、楽団に演奏させることもあった広々とした食堂。
 十人は容易に座れそうな長いテーブルに、父親と息子、二人だけが向き合っている様子は、どこか虚しいものでさえある。
 壁際に控えた給仕の者たちは、物言わぬ人形のように沈黙を守る。
 しかし、ようやく十を数えたかどうか、という黒髪の少年は、そんな違和感を気に病むようでもなく、淡々と食事をしていた。
 幼いながらも、その整いすぎた風貌や、纏う静謐とした雰囲気は、ただの子供という評価を下しかねる。
「ルーファス」
 グラッパ茸のスープに、銀のスプーンを沈めていたルーファスは、己の名を呼ぶ父親の声に、うつ向いていた面を上げた。
 まだわずかにあどけなさを宿した、丸い瞳を縁取るまつげに影がかかり、何度か瞬く。
 蒼い瞳が正面から、父親の半身を映した。
「はい、何でしょうか?父上」
 母上の件ですか、先回りをし、理路整然とした口調で続ける子供は、到底、十を数えたばかりとは思えない。
 息子の物言いに、父親の顔がわずかに、しかし、そうとわかる程に歪む。
 その薄緑の瞳には、後悔とも、諦めともつかぬ色があった。
「お前は聡い子だな、ルーファス。悲しい位に」
 幼い息子は、かすかに首を傾け、対面の父親の顔を見上げた。
 彼の髪と瞳の色は、母の、北方の小国アムリッツの血がもたらしたものだ。けれども、その容貌は父親寄りのものだ。
 あわく笑みをはきつつも、哀しげな父親の表情に、自分と似たものを感じて、ルーファスは目を伏せる。
 唇からこぼれた声は、努めて冷静さを帯びていた。
「アンダーソン先生が仰るには、母上の症状は悪くなってもいないが、よくなってもいない、と。鎮静剤で一時、落ち着いても、薬が切れれば、また暴れる。意識が朦朧とするから、また己で己を傷つける――終わりが見えない、悪循環です」
 子供とは思えぬ口調で喋る息子に、父はますます寂しげな目をして、小さく息を吐いた。
 リディア、と呟かれたのは、母の名だ。
 ルーファスは目をすがめ、沈痛な面持ちの父に、唇を噛んだ。
 寝室の母は薬が効いて、穏やかに胸を上下させているのだろうか……。
 そうか。ウォルターはうつむいていた面を上げると、淡い緑の瞳で息子を見つめ、憂いのにじむ声で言った。
「もし……私が居ない間に、何かあれば、執事のスティーブを頼りなさい。あれは、忠義厚く、信頼に足る男だ。お前も承知の上だろうが」
「はい」
 幼い少年は、表情ひとつ変えず、よどみない声で応じる。
 まだ十にもならぬ子供であるというのに、己の感情を抑えることには、既に慣れきっていた。
 ため息。ルーファスを見るウォルターの目には、案じるような色がある。
 ルーファス。
 唇が歪む。
 なんとも言えない顔だった。
「お前は、しっかりしているからな」
「……」
 ルーファスは、林檎酒のグラスを傾けるフリをし、無言を貫く。
 ……滑稽だと思った。たかだか十かそこらの子供に、一体、何ができるというのか。
 ひとたび会話が途切れれば、再び、父子の間に訪れるのは、息苦しい程の沈黙だ。
「ルーファス」
 それを厭うように、ウォルターが息子の名を呼ぶ。
「……はい。父上」
「最近、不自由なことはないか?何か困ったことがあれば、遠慮なく言いなさい……何か欲しいものは?」
「……欲しいもの?」
「そうだ。お前も、たまには我が儘になっていいんだぞ。書物か、よく走る馬などどうだ。ルーファス?」
 職務が多忙で、留守がちな父は、ルーファスの養育を家庭教師に任せきりであることに、気が咎めている様子だった。
 屋敷にいる母は、子供の面倒を見れるような状態ではなかったので。
 遠慮がちに息子の顔をのぞきこむ父は、不器用な人だった。
 幼い少年はナプキンで口元をぬぐうと、「特には」と、首を横に振る。
「欲しい本といえば、この前、アンダーソン先生が貸してくださった、解剖学のご本は、なかなか興味深かったです……先生が、留学から帰ってらしたら、色々とお聞きしてみたいと思います」
 ルーファスはまた、親に甘える術を持たない子供だった。
 いつも交代でやってくる教師は、彼を優秀な生徒と評したけども、肝心なことは何も教えてくれなかった。だからこそ、迷う。
 どう答えれば、父が喜ぶのか、少年にはわからなかった。
 どう答えるのが正解だったのか、誰か教えて欲しかった。
 どうすればいい、どうしたら、父上に愛される息子になれるのだろうか?
「そうか……家庭教師たちも皆、教え甲斐のある生徒だと、お前のことを誉めていた。頑張っているようだな」
 声も態度も、穏やかで優しくはあったけど、そう言う父は、やや落胆したような、哀しげな目をしていた。
 そんな父に、ルーファスは膝においた拳に、ぎゅっと力をこめる。
「学問は、嫌いではありません。エドウィン公爵の血を継ぐ者として、恥ずかしくない教養は、身につけようと思います」
 幼い息子が、自らの生き方に何ら疑問を持たず、上流貴族の常とはいえ、教師に囲まれるがままの生活を送ることについて、愚痴や不平を吐かないことに、ウォルターは不安を抱く。けれども、幼いながらも、凛と背筋を伸ばし、深い蒼の双眸で、前を見据える子供に、それを口にするのを躊躇う。
「たのもしいことだ」
 ウォルターはそう言うと、息子の頭に手を伸ばしかけ、されど……父と子の視線が交わった瞬間、その手は何故か、ためらうようにおろされた。
 黙り込むウォルターを前にして、ルーファスはテーブルの下、きつく拳を握りしめた。
 自分が悪かったのだろう。
 今日も、父上を失望させてしまった。次はもっと、上手く……。


「――いつかは来るだろうと思っていたが、ついにか」
 書斎にて。
 隙間なく詰め込まれた本棚を、午後の日差しが照らし、床に影ができている。
 暗い陰りに覆われた幼少時代を過ごした、黒髪の青年は、感情を削ぎ落としたような無表情で、そう呟く。
 深い飴色をした机の上には、インク壺やペンと並んで、硝子のペーパーナイフ、封蝋を削られた手紙があった。
「旦那様……」
 心配げな面持ちで、傍らに控えた老執事は、ルーファスの反応を案じているようだった。
「間違いなく、アンダーソン先生の字だ。透かしもある。偽造ではないようだな」
 太陽の光に、一度、便箋を透かすと、ルーファスはその手紙の内容に目を通す。
 やや癖のある右上がりの文字は、見慣れたアンダーソン医師のものだ。
 少年だった時分、幾度となく親しんだものだから、間違えようもない。
 しかし、旧知の医師からの手紙の内容はといえば、容易にうなずきかねるものだった。

 ――ウォルター様の容態を見に、この地、アンラッセルまで来てもらえはしないだろうか。
 ルーファス様、若君、あなたの多忙さは、この辺境の地にあっても、よく知っているつもりです。
 王太子殿下の片腕として、なくてはならない存在であることでしょう。
 それでも、ウォルター様のたった一人のご子息として、父上を案じる気持ちがあるならば、どうか、ここ、アンラッセルまで足を運んでいただけないだろうか。
 あなたが、お父上を快く思えないのは、無理からぬことだ。
 それでも、少しでも、わずかでも哀れと思う気持ちがあるなら、どうか、どうか――。

 それは、切々とした、魂の訴えだった。
 悩み、葛藤しながら、一言一句を綴ったに違いない。
 幾度もためらったように、インクが不自然に滲んでいる。
 アンダーソン医師は、無力かもしれないが、善良で、他人の痛みを解する人だった。
 おそらく、この手紙をルーファスへと送りつけることに、医師の心中で、相当な葛藤があったに違いない。
 それがわかるが故に、ルーファスはその手紙を無視する気になれなかった。
 手紙を置き、思考するように腕を組んだ若き主人に、落ちつかなげな執事は「アンダーソン先生は、何と……?」と問う。
「父上に会いに来い、とかいつまんでいうと、そういう趣旨だ」
「それは……」
 主人の返答に、執事は絶句する。
 珍しく、動揺をあらわにしたスティーブに、ルーファスはふ、と口元を緩めた。
「そんな顔をするな。スティーブ」
「旦那様」
「……いずれ来る日だと思っていた」
 机に肘をつく。ギシッ、と軋みが響く。
 遠くを見据えるルーファスの眼差しは鋭く、吐き出された声は、決意を帯びていた。
「いつまでも逃げ続けるわけにはいかない、ということか」
 忠実なる老執事は、是とも否とも答えず、目を伏せた。


 数刻後、屋敷の厨房では、甲高い少女の声が響いていた。
 キーーンと耳を貫くそれに、従者の少年は眉をひそめ、とっさに耳に手をあてる。
「なんで、あたしが留守番なのよっ!?」
 納得いかない、と声を張りあげる、女中のメリッサに、ミカエルは呆れ混じりに、やれやれ……と肩をすくめる。
 その横顔は、またか、とでも言いたげに、妙に大人びたものだった。
 旦那様が、避暑地・アンラッセルに赴かれる、と仰ってから、次いで、その為に使用人の中から随行役と、留守番役を振り分けられてから、すっかり、この大騒ぎだ。
 ミカエルは仰向くと、自分より、やや背が高い、女中の少女を見上げる。
 金髪碧眼の娘は、心なしか頬を膨らませて、拗ねたような目で「……何よ?」と言ってくる。
 まるで、年齢を逆転させたような態度は、メリッサとて本気ではなく、いっそ微笑ましくもあったけれど、子供の我が儘でもあるまいから、無理なものは無理だ。
 ふー、と息を吐きつつ、ミカエルは諭すように言った。
「しょうがないだろ。すべて旦那様が、お決めになったことなんだから」
 留守番役を任されたメリッサが、ついていけない事を悔しがるのは、十分にわかるが、この広大な屋敷を全員で留守にするわけにもいかない。
 主人が不在とあれば、その間、来客の対応、屋敷の管理、しなければならない事は、それこそ山のようにある。
 ごく少数の共をのぞいて、大半の使用人を屋敷に残す旦那様は、賢明と言えるだろう。
 それは、メリッサとて承知の上なのだろう。むぐっ、と口ごもった。
「留守番役だって、大切だよ。本当は、わかってるんだろ?メリッサ」
 ミカエルの言葉に、メリッサは「そうだけど」とうなずく。
「奥方様付きだから、ついていけると思ったのよ。奥方様も最近、お元気がないしね……でも、旦那様がお決めになったことなら、仕方ないわ」
「メリッサ……」
 ただ避暑地についていきたいだけかと思っていたメリッサの、意外な告白に、ミカエルは軽く瞠目する。
 その時、パンパンと手が叩かれ、
「ほらほら、ぼさっとしている暇はないよ!メリッサ、ミカエル、手がすいてるなら、夕食の仕込みを、手伝っとくれ」
と、明るくのびやかな声がかかる。
 ふくよかな身体を、くるくると軽快に動かしながら、テキパキと女中達に指示を出していくのは、女中頭のソフィーだ。
 留守番役だろうと、そうでなかろうと、する事を山のようにあるんだからね。
 常に微笑みを絶やさず、屋敷のおっかさんのように慕われる女中頭に、そう言われてしまっては、ミカエルもメリッサもうなずくより他にない。
「はぁい」
「すみません、じゃあ、僕はこっちを」
 メリッサは叔母の手伝いをしようと、その傍に歩み寄り、ミカエルはじゃがいもの皮を剥く、コックのベンを手伝おうとする。
 各々の作業に取り掛かった彼らは、厨房の窓の前を、主の高い影が通り抜けていくのに気付かなかった。


 黄金から橙へと揺らぐ、空の色。
 生い茂る緑の葉、その重みに垂れ下がる枝に、おおい隠されたような白いベンチ。
 目をつむり、午睡に身を任せた少女は、さながら風景の一部のようで、微かに上下する胸が、彼女の生を教えてくれる。
 背に流した亜麻色の髪を、ふわりと風がさらった。
 膝に置かれた本の頁が、はらはらと勝手にめくれる。
 遠目に映る、彼女は心なしか、一回り、細くなったように感じられて、ルーファスは懸念と共に目をすがめた。もとより、線が細く、華奢な娘であったのに、その様はさながら、危ういまでの儚さを感じさせる。今にも、どこかへ消え去ってしまいそうな、埒もない不安が頭をもたげる。ただの夢想でもあったけれど。
 ポキリッと、靴に折れた枝があたる。
 下生えの草を踏みながら、ルーファスはゆるりとした歩調で、眠れるセラへと近づいた。声はかけない。されども、その気配に気づいたのか、少女がわずかに身じろぐ。
 瞼に影を落とす、睫毛がふるえる。
 あわく口元がひらいて、言葉にならぬ声がもれる。
 翠。光に透けるような翠の瞳が、残照の輝きを宿しながら、青年の姿を映した。包み込むような、穏やかさで、唇がほころぶ。
 ――ルーファス。かすれたそれは、音にはならず、されど、それは彼には確かに伝わった。
「……少し、痩せたな」
「そう……?」
 ルーファスの言葉に、小首をかしげるセラに、自覚はないようだった。
 件の化け物の一件に続いて、アンジェリカの騒動も、殊の外、身に堪えたようだった。微笑っていても、その表情には、どこか憂いがある。
 傍らに寄れば、その肉付きの薄さは一目瞭然であり、今にも折れそうな手首に、男は眉間に皺を寄せる。
 世の中には、病み衰えた女に興奮するような、嗜虐趣味の男もいるだろうが、あいにく、彼はそうではない。
 むしろ、やつれていく女は、嫌でも、忌まわしい過去を想起させるので、彼が忌避するものの一つであった。
「あまり、心配をさせるな。面倒だ」
 突き放した声で言いながらも、己の手首を握り、離さぬ、とばかりの意志を込めた青年の指に、セラは困ったような微笑を浮かべた。大丈夫よ、と答える彼女に、ルーファスはつまらなそうに、低く鼻を鳴らす。嘘つき、と囁くと、びく、と手首がわなないた。
 あの、離して、という言葉を聞かぬフリをし、重ねた手に力をこめる。
 脈動が伝わる。
 身体の芯をふるわす、狂い熱が。恋でもなく、愛でもなく、欲望でもない、身勝手な執着……故に、彼自身、どうにも御しづらいもの。されど、その先にある女の心に、踏み込もうとすれば、やんわりと拒まれる。
 やわい耳朶をはむように唇を寄せ、
「アンラッセルに行く。共に行くか?」
と問うと、セラは浅く息を吐いて、是、と返事の代わりにした。
 罪過の烙印を押された、左手の疼きには、目を背けたまま。例え、その選択が過ちだとしても。

「奥方様……っ!」
 お探ししましたよ、と玄関まで駆け寄ってきたメリッサに、セラは「探させてしまった?ごめんなさい」と、謝る。
 女中の少女は、いえ、と首を横に振りつつ、沈みゆく夕日を背にした奥方様に、眩しげな目を向ける。逆光となった、その姿は、光にとけゆく影のようで、掴みそうで掴めない幻影のような、うつろいを帯びている。
 それが、無性に焦燥感を覚えさせて、メリッサは息を呑むと、ふらりと一歩、踏み出す。
「メリッサ?」
 不思議そうに名を呼んでくるセラに、理由もなく不安を覚えて、メリッサは唇をかみしめ、
「奥方様は……セラ様は、何処にも行かれたりしませんよね?」
と、自分でもよく意味のわからぬ言を、口にしてしまった。
「……おかしなことを言うのね。メリッサ」
 そう言う奥方様が、なんとも切ない目をしていたから、メリッサはそれ以上、何も言うことが出来なかったのだ。


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