ルーファスは物心ついた頃からは、特別な事がない限り、母親の部屋に近づかないと決めていた。
息子である己の姿を見るたびに、リディアが悲鳴を上げ、錯乱状態に陥るというのもあったが、母親の寝室に近づくと、見なくても良いものを見てしまうからだ。
ルーファスがそれを知ったのは、多分、十を数えるかどうかの時だったと思う。
リディアの部屋から、奇妙な物音が聞こえたことで、少年だったルーファスは、母の寝室に歩み寄った。
キシキシと寝台が軋む音と、男の話し声がした。
父は留守のはずだが、一体、誰であろうか?
訝しく思ったルーファスは、蒼い瞳をすがめ、寝室の扉をかすかに押し上げると、慎重に中をのぞく。
また何時かの如く、泣き叫ぶ母親に、手近なものを投げつけられるかと身構えたが、果たして、部屋の中で繰り広げられていたのは、まだ少年だった彼にとって、もっと目を覆いたくなるような光景だった。
「母上……?」
ルーファスの声をかきけすように、寝台から「ああ……あんっ」と艶めいた喘ぎ声が上がる。
はだけ乱れた衣服、ほとんど裸に近い格好で声高く啼く母親の上にのしかかっているのは、先週、公爵家に雇われたばかりの下男だった。
母にのしかかった、その間男は、主人の留守に乗した裏切りを恥じ入る様子もなく、美しい奥方を抱くという禁忌に、歪み、恍惚とした歓びを覚えているようだった。
闇よりなお深い黒髪に口付け、うっそりと嗤う。
「奥方様……ああ、なんて美しい」
そう、興奮した目で呟くと、男は再び、リディアの胸に顔を埋め、その身体を蹂躙した。
「あっ……あっ、ああ!」
息子の視線にも気づかず、狂ったように啼くリディアの目は虚ろで、焦点が合っていない。
おそらく、今、自分を抱いている男が、夫なのか、あるいは、別の男なのか、それすらわかっていないに違いない。
否、それすら、どうでも良いことなのかもしれなかった。
後にして思えば、この時、母はもう既に、だいぶおかしくなっていたと思う。
扉の前に立ち尽くしたルーファスは、拳を固く握りしめ、苦しげに目を伏せた。
何もわからないほど、幼くはなかった。
止めに入ろうにも、母にその声が届かないのは、痛いほどによくわかっていた。
リディアは、腹を痛めた息子の存在を、とうの昔に忘れ去っている。
例え、ルーファスが割って入ったところで、相手にもされないだろう。
「……っ」
少年は顔を歪めて、半開きだった扉をしめた。
慎みなく、喘ぐ声が聞こえる。
廊下まで聞こえるそれに、情事に夢中な男は、果たして、気がついているだろうか。
母親と、父親でもない男の情事を盗み見る趣味は、彼にはない。
何をしても無駄だ、そんな諦めめいた想いが、少年の胸を支配していた。
「ルーファス坊っちゃま……聴いては駄目です」
震える声がした。
母親の部屋の前で立ち尽くしていたルーファスを、細い腕が抱き締めた。
仰向くと、黒髪の少女が、今にも泣き出しそうな目をして、彼を見つめている。
マリアだった。
自分のことでもないのに彼女は、えっぐ、と声にならない声を漏らして、見ちゃいけません……、と喉をふるわせる。
「見ちゃ、見ちゃいけません、坊っちゃま……何もない、何もないですから……っ!」
自分よりも少しだけ高い身長、背中に両腕を回されて、ぎゅうう、と痛いほどに強く抱きしめられる。
耳元で漏れる、少女の嗚咽。
それを聞きながら、ルーファスは目を閉じた。
「ルーファス坊っちゃま、マリアが、マリアがお傍におりますからね。どうか、どうか……」
ああ、貴女はよくそう言ってくれたよ。マリア。
家族思いの、情深く、優しい女だった。
「大丈夫です。いつか必ず、ルーファス坊っちゃまを心から愛してくれる人に出会えます。マリアは、そう信じますから」
そばかすの散った明るい笑顔は、打算も媚もないそれは、少年だった彼には得難いものだった。
貴女は、優しい女だったよ、マリア。
だから、あんな風に不幸になるべきじゃなかったんだ。
「ルーファス……ルーファス……眠っているの?」
気遣うように、ふぅわりと肩を揺さぶられて、青年は意識を覚醒させた。
人の気配には、聡い性質だ。
こんな風に、誰かに揺さぶられて起きるのは、少年だった時以来、何年ぶりだろうか。
もう、思い出せない。
もたれかかっていた長椅子から、ルーファスがゆらりと半身を起こすと、心配そうな淡翠の瞳が彼をのぞきこんでいた。
憂い顔のセラに、彼は唇に微苦笑をはいた。――何を聞かされたにしても、伏せられた過去が、如何に残酷なものであろうとも、貴女がそんな風に気に病む必要はないと、そう思うのだと。
「平気……?ルーファス」
そう、彼に尋ねてくる少女の方が、かえって痛みに耐えるような顔をしていた。
辛さを無理に圧し殺したような表情で、彼の名を呼んで、かすかに微笑む。
その顔を見つめて、ルーファスは深く嘆息し、久方ぶりに己の愚かさを、嫌というほど自覚せざるを得なかった。
こんな風に、傷つけるつもりではなかったのに、己の爪痕を背負ることなど、望んでいなかったいうのに。
何故、こんな生き方した出来ないのか。
自分は、傍にある女をことごとく不幸の淵に、追いやってしまう。
母上、マリア、アンジェリカ然り……儚げで、だが、懸命に何かを守ろうとしている、この娘までも、その犠牲にはしたくなかった。
腕に抱いて、災禍から遠ざけ、優しいぬくもりと熱だけを与えて、傷つくであろう全てから、守ってやれたら良かった。
どうか、微笑って。
幼い子供の頃の願いを、そのまま抱き続けていられたのなら、何かが変わっていたのだろうか……考えても、詮無きことだ。
透き通るような、淡い翠に、手を伸ばす。
「俺が、誤った。貴女を、此処に連れてくるべきじゃなかった……」
あたたかなもので包むことが叶わぬなら、せめて、真実の優しさから程遠い嘘を吐こう。
「つまらん嘘を吐こう。何もなかった」
何もなかったのだと。
くしゃりと顔を歪めかけたセラに、ルーファスはもう一度、同じ言葉を繰り返した。
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