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五章 父と子と娘 11


 マリア。
 その名を、奥方さまの唇が紡いだ時、スティーブはため息を堪えきれず、また、ついに来るべき時が来たのだと悟った。
 エドウィン公爵家に縁ある全ての者が、頑なに口をつぐみ、忘れたフリをし、いっそ墓場まで持っていかんとしたそれ。だが、ルーファスは、若君は、それをよしとしなかった。
 例え、己の傷痕を抉る羽目に陥ろうとも、真実から目を背け続けることを、選ばなかった。――故に、禁忌の扉は、開かれたのだ。
「……」
 それは、きっと、顔を仰向け、無垢なまでの澄んだ眼差しで、こちらを見つめてくる奥方さまが、もたらした変化の兆しであろう、とスティーブは思う。
 夕陽を受けて、煌めく薄翠の双眸。
 湖面のような静かなそれは、答えぬことを急かすでもなく、責めるでもなく、老執事の姿を映していた。
 ただ在るがままに、その者を見つめている。
(ああ、似ているな……)
 唐突に、スティーブはなぜ、ルーファスがこのたおやかげな少女に、強い、執着ともいえる感情を寄せるのか、その理由の一端を察した。
 セラとルーファス、性別も性格も生き方も、何もかも異なるように思える二人だが、時折、ハッとさせられる程、似ているのだ。
 悲しみも怒りも過去も、何もかも呑み込んだような目をして、それでも、歪むことなく、穢れない眼差しを向けてくる。
 芯を、心を歪めてしまった方が、ずっと生き易いだろうに――。
 難儀なことだ……難儀なことだ。
 窓から差し込む夕陽のひかりが、セラの肩に淡い陰影を落とす。
 はらりと亜麻色の髪が一筋、ほどけて、その刹那の風景にスティーブは深く息を吐くと、ちりぢりに散らばった過去の断片、その最後のひとかけを拾い上げた。
「あの娘、マリアが公爵家に来たのは、今から十年以上も前でしょうか……あまり、豊かな生まれではなかったらしく、弟妹たちの為にも、公爵家の女中として雇われたことを、心の底から喜んでおりました」
 黒髪の、よく笑う、溌剌とした娘だった。
 おそらく、奥方さまと同い年くらいだっただろう。
 仕事が格段によく出来たわけではなく、そそっかしい性格で些細な間違いをやらかしては、先代の女中頭にしょっちゅう叱られていたものだ。
 たびたび落ち込み、されど、それ以上に屈託なく、よく笑い、くるくると表情を変えては、皆を和ませた。
 そういう意味では、今のメリッサとよく似ている。
 未だスティーブの記憶の中では、厳しく、だが、どこか親しみをこめて、マリアの名を呼ぶ先代の女中頭の声と、叱られると小さく悲鳴をあげ、駆け足で逃げ回る黒髪の少女の靴音が重なる。
 他愛もない日々だった。
 面倒見の良さからと大叔母さんと慕われていた先代の女中頭も、あの日を境に、公爵家を去り、そして、それっきり二度と戻っては来なかった。
 マリアのことは、一言も語らぬまま、数十年あまり仕え続けた屋敷を、鞄ひとつ、身ひとつで立ち去った。
 小さく老いた身体を丸めて、屋敷の扉を見つめていた寂しげな瞳、深い皺の刻まれた口元を思い起こし、スティーブは過去に蓋をする。
 かくして、沈黙を破り、再び語りだした。
「マリアは、情の深い子でした……少ない給金を、自分の為に使うこともなく、ずっと、実家の家族に渡していたくらいです。年頃らしいお洒落を楽しむこともなく、つぎはぎだらけの服を見かねて、ソフィーが自分のお下がりをやった程でした」
 スティーブの口調は、決して馬鹿にするようではないが、暗に奥方さまにはおわかりにならないでしょうが?という意味を含んでいるようだった。
 妾腹とはいえ、王女という身分にあったセラには、縁遠い世界の話であろうと。
 そう語る執事の目は、気遣いに溢れていたので、セラは不快にはならなかった。
 ただ、曖昧にうなずく。
 立場は違えど、幼い頃はお針子の母とふたり、日々の食事にも事欠きながら、ひっそり暮らしてきた身だ。マリアの苦労も、わからぬわけではなかった。
 それでも、とスティーブは言葉を続けた。
「マリアは、いつも笑顔で働いていましたよ。頑張り屋ではありました。失敗しても、挫けずに……一年に数度の休みに、実家の弟妹たちに会うのを、何よりの楽しみにしていましたね……」
 その少女の、屈託ない笑顔を思い出し、スティーブの胸が古傷が疼いた。
 明るくて、 少し抜けていて、けれども太陽みたいに 笑う娘だった。
 お心を病んでしまわれたリディアさま、屋敷によりつかなくなったウォルターさま、母君に忘れ去られたルーファス坊ちゃま、……重苦しい濃霧に閉ざされた屋敷の中、それを感じさせなかったのは、マリアの笑い声と、軽やかな靴音だけだった。
「――マリア」
 スティーブが声をかけると、紺のワンピースを着た、黒髪の少女が振り返った。
 くりっとした黒い瞳、そばかすのちった頬、飾り気のない笑顔が、素朴で愛らしい。
 花瓶に挿そうとしていた向日葵を、両手に抱えて、マリアは「スティーブさん」と屈託ない笑みをみせた。
「まだ実家に、戻ってはいなかったのですか?」
 はい、とマリアは、切り揃えた黒髪を揺らし、うなずく。
「はい。エチカさんに言われて、ここのお掃除が終わったら、出発します」
 エチカ、と女中頭の名を出し、せっせと布で花瓶を磨きながらも、マリアの表情からは喜びがあふれていた。
 半年ぶりに、家族、両親や幼い弟妹たちに会えるのが、よほど嬉しいのだろう。
 一生懸命、掃除をしながらも、心はすでに家族の元へと飛んでいるようで、無意識にか唇からは歌がこぼれる。
 ――リンディーリア、我が故郷。女神の末娘が愛した土地。
  虹が出、うつくし花が咲くところ、ああ、懐かしい。
  いとし父よ、母よ、私は今、帰ります――
 故郷に伝わる歌を、囁きにも等しい声で口ずさみ、喜びを素直に出す黒髪の少女に、自然と執事の口元がほころんだ。
 良き使用人たる者、派手に浮かれたり、落ち込んだりは慎むべきだが、それでも、当時の陰鬱とした公爵家において、その明るさは貴重なものだったのだ。
「それはそれは……道中、気をつけて。あなたの家族も皆、待っていることでしょう」
 スティーブの言葉に、マリアは「ありがとうございます」と弾んだ声で応じ、優しい目で言った。
「家族に会えるのは、嬉しいけど……末の弟たちは、会うたびにやんちゃになっていて、いっつも手を焼かされますわ。そうかと思えば、妹のティナは十かそこらなのに、おマセで王都で何が流行っているか、なんて話ばかり……困ったものです」
 やれやれです、とため息をこぼすふりをしながら、マリアの口元と、上気した頬を見れば、弟妹たちのことが大好きで、愛情を注いでいるのは明らかだ。
 それが、此方まで伝わってくるのが微笑ましく、スティーブは唇を緩めた。だが、花瓶を持つマリアの手元が危うくなっているのを目に留め、叱責の声をあげる。
 ぐらぐらとして、今にも落ちそうだ。
 高価な品だ。壊せば、解雇も考えられる。
「マリア。危ないですよ」
 忠告は一瞬、遅く、マリアはつるりと手を滑らせかけると、悲鳴を上げた。
「きゃあああああ!」
 間一髪、 花瓶が床に叩きつけられる間際、あわわ!と咄嗟に床に突っ込み、身をていして受け止める。
 ぎゅううと花瓶を抱いて、ぜーはーと荒い息を吐くマリアに、スティーブは呆れた目を向けた。
 コホンッ、執事は、と気を取り直すように咳払いをする。
「屋敷にあるのは概ね、先祖伝来の希少な品ばかりです。よくよく丁寧に扱うように……わかりましたね?マリア」
「は、はぁい。気をつけます」
 しゅんと反省したマリアだったが、スティーブが厳しい顔つきを崩さぬまま、
「ここはもういいから、出かける支度をなさい。私がやっておきます。これ以上、心臓に悪い思いはしたくない」
と言ってやると、ぱあああああ、と満面の笑みを浮かべた。
「はい、ありがとうございます。スティーブさん。このご恩は、忘れません!」
 向日葵のような明るい笑顔で、ぱたぱたと軽やかな靴音を奏でながら、走り去っていったマリアに、スティーブはやれやれと肩をすくめたものだった。
 今にして思えば、あれはなんと、平和な時間だったのだろう。
「多少、慌て者で、そそっかしいところはありましたが……マリアは、真面目で努力家でもありました。先の女中頭も目をかけていて、故に、ルーファス坊っちゃまのお世話役に任せたのです」
 大人ばかりに囲まれていたルーファスは、聡いが、内向的で、なかなか周りに心を開かない子供だった。
 十も数えぬ幼子だというのに、アンダーソン医師や、少数の使用人以外には、決して懐かず、神経質なところがあった。
 自分を無いものとして扱う母や、屋敷に寄り付かない父の存在も、それに拍車をかけていたのだろう。
 両親譲りの、やたら綺麗な顔をしていても、可愛いげのない子供との烙印を押されたルーファスに、家庭教師や使用人たちも、腫れ物を触るように接する有り様だった。
 そんな風潮を苦々しく思いつつも、その歪みを解消できなかったスティーブにとり、マリアを坊っちゃまのお世話役にと推した先の女中頭の言は、「もしかしたら……」と淡い期待を抱かせるものであった。
 実際、マリアは年嵩の使用人たちが望んでいた以上に、ルーファス坊っちゃまによく尽くした。
 母のように、姉のように、友のように、給金で結ばれた絆ではなく心から。
 思えば、スティーブはマリアとルーファスの出会いの場にも共に居たのだった。
「誰……?新しいひと?」
 大きな椅子で、届かない足をぶらりとさせていた小さな男の子が、本の頁を閉じて、こちらを振り返った。
 首をかしげる。
 さらさらの黒い髪、大きな蒼い瞳、はたはたと睫毛をふるわせる様は、素直で愛らしい。
「マリア。マリアと申します。ルーファス坊っちゃま」
「……マリア?」
「ええ。精一杯、お仕えしますので、よろしくお願いいたしますね。ルーファス坊っちゃま」
 にこにこと笑顔をみせたマリアに、屋敷の異質な雰囲気に怖じけづき逃げ出すように辞めた前任の世話係を思ってか、ルーファスは子供らしからぬ諦観した微苦笑を浮かべた。
 父にも母にも見捨てられた、可愛いげのない子供と陰口を叩かれるのも、既に慣れつつあった。
 一体、いつまで持つことやら、とその目は言っている。
「よろしく」
「はい!」
 まったく偏見のない目で、真っ直ぐな笑顔を向けてくるマリアに、ルーファスは一瞬、面食らったような、年相応のあどけない顔を見せて、ふるふると頭をふった。
 執事の目には、それは何とも微笑ましい光景と映ったものだ。
「ぼっちゃま!ルーファス坊っちゃま……ほら、見てください、お庭の薔薇がようやく咲いたんです。とっても綺麗ですよ!」
 若君の部屋の窓を開け放ち、散々と光を浴びながら、黒髪の少女は微笑んだ。
 お世話係となってからのマリアは、ルーファスの為に甲斐甲斐しく働いた。
 両親に省みられず、孤立しがちな若君に、いつも太陽みたいな笑顔で接していた。
 家庭教師に煙たがられたり、ルーファスの戸惑いを露にしてもめげず、まるで、実家の弟や妹たちに対するように、揺るぎない愛情を注ぎ続けた。
「ご本もいいですけど、たまには外の空気を吸われてくださいね。お部屋に籠りっぱなしは、お体に毒ですよ?」
「エチカさんの猫が、子猫を産んだんです。坊っちゃま、見に行きましょう」
 ぐいぐいと、世話係の少女に手を引かれた幼い少年は、柳眉を寄せ、訝しげな顔をする。
 前の世話係たちは皆、どこか気味悪がるような目で、ぼっちゃまと遠慮がちに話しかけてきたというのに、この少女の笑顔と騒々しさは何だろうか。
 調子が狂う。
「何で、僕が?」
「いいから、いいから、抱っこさせてもらいましょう?ミルクみたいな毛並みで、すっごく愛らしいですよ。きっと、ルーファスぼっちゃまも夢中になっちゃいます」
 そっと、手を繋ぐ。
 唇から、子供らしからぬため息をこぼして、ルーファスは彼女の思い付きに付き合った。
 ――同情もあったのかもしれない。だが、マリアの献身は、少なくとも、嘘ではなかったのだと。
 そう信じたいのだ。
「お世辞にも、よく気のつく使用人ではありませんでしたから、失敗も多かったことでしょう……ですが、マリアは常にルーファスぼっちゃんを思い、行動していました。家族のように、大切にしていた……それが、最大の過ちだったのです」
 止めれなかった、私の罪でございます。
 マリアのことは、今更、悔いても、悔いきれませぬ。
 そう寂しげに笑ったスティーブに、セラは己が耳を疑った。
 なぜ、と疑問が口をつく。
「ルーファスも、心を開いていたのでしょう?何故、それが過ちなの?」
 奥方の当然とも言える問いかけに、老執事は無言で首を横に振る。
 家族のように、と家族とは違うのですよ。
 多くの苦悩と悲しみを乗り越えた、静かな眼差しが、セラを見つめていた。
「使用人とは、主人の手足となる存在でなければなりません。意思があろうとも、私をなくすべき時もございます」
 あの子は、スティーブは言葉を切り、つと目を伏せた。
「マリアは、それを忘れたのです。長く、同じ屋敷にお仕えしていると、主ご一家から家族のような寵愛を頂くこともございます。ですが、決して、その境を越えてはならないのですよ」
 マリアはさながら、母か姉のように、ルーファスに接していた。
 最初は省みられない子供への、同情や憐れみであったのかもしれぬ。けれども、若君のお世話を続けるうちに、マリアの心も変わっていったようだった。
 屋敷で孤独に過ごすぼっちゃまのことを案じ、腹を痛めた子をないものとして扱う、リディアをよくは思わなかったようだ。
 無論、表立って、それを口にするほど浅はかではなかったが、時折、「ぼっちゃまがお可哀想で……」と切なげにため息をこぼしたものだった。
 感情を重ねすぎていることに、スティーブなど、すこしばかり危うさを覚えたものである。
 愛情と憎しみとは、裏表の関係であるから。
「マリアさんは……何があったの?」
 不安げに顔を仰向けたセラに、スティーブはゆるり首を振り、絞り出すような声で語った。
「マリアには、当時、将来を約束した恋人がいたのです。庭師見習いの青年で、明るく、気の良い若者でした。何もなければ、その年の秋には、結婚していたはずです」
 そう語るスティーブの顔に、影がかかった。
 老執事の声が、鉛をふくんだように重くなる。
 セラは、ぐっと息を詰めた。
 何か……とてもとても良くないことが起こったのだと、本能的に察した。

「リシュ、……?奥方さまと一体、何をしているの?」
 寝室の扉を開け放ったマリアは、信じられぬ悪夢のような現実に、呆然と目を見開いた。――信じられない、信じたくない。
 リシュ、と、恋人である庭師の青年を呼ぶ声音には、激しい動揺と、隠せない嫌悪感が滲んでいる。
 血の気の失せたマリアの目は真っ直ぐに、寝台で戯れる己の恋人とリディアに向けられていた。
 その様を見ただけで、恋人の不実を悟るのは、悲しいぐらい容易だった。
「マリア……その、誤解だ。これは、ほんのちょっとした気の迷いで……」
 だらしなくシャツをはだけ、狼狽しきった態度で、見苦しい言い訳を口にする恋人を、マリアは冷ややかに睨んだ。
「……嘘つき」
 氷のような目をしながら、マリアの増悪はむしろ、自分を裏切った恋人ではなく、寝台に腰掛け、不思議そうな貌をしたリディアに向けられているようだった。
 人の恋人を寝とっておきながら、その蒼い瞳は今日も、恐ろしいほど無垢で、引き寄せられるほど美しい。
 まるで、微睡んでいるようだ。
 最早、マリアの怒りを感じるだけの理性は、心を病んだリディアには、残されていないのだろう。
 妖精のような美貌の貴婦人は、淡く微笑んでさえいた。
「何で……!」
 幽鬼のような顔をしたマリアは、喉をふるわせ、円卓に飾られていた短剣を手にした。
 飾り物だが、鞘を外したそれは、危うい銀の輝きを放つ。
 がたがたと震える、少女の手。
 マリアの目は、血走っている。
 ――何で、奥方さまは……あたしは、貴女の代りにルーファス坊っちゃまを愛したのに……愛したのに、愛したのに!
「ああああああああああっ!」
 意味をなさない叫びをあげながら、マリアは短剣を振りかざし、リディアに向かって突進した。
 いまだ妖精と詠われた面影を残す女は、迫り来る凶刃を前にしても、逃げようと、わずかに身をかわそうとさえしなかった。
 ただ、無垢な目で、マリアを見つめていた。
 結局、最期の最期まで、夢まぼろしの中で生きた女だった。
 永遠の乙女であり、硝子よりも脆い魂の持ち主であり、母ではなかった。
 命の途絶える音は、あっけなかった。
 はあはあっと肩で息するマリアの短剣が、押し倒したリディアの背を突き刺し、ドレスに赤黒い染みをつくった。
 奥方は悲鳴ひとつあげず、不思議そうに目を瞬かせ、ついで、ゆっくりと床に崩れ落ちる。
「ぎゃあああ!奥方さまが!奥方さまがあああ!」
 恋人の凶行を目の当たりにした庭師の男は、泡を飛ばしながら失禁し、恥知らずにもリディアを助け起こすこともせず、抜けた腰を引きずりながら逃げ出した。
 マリアは、そんな恋人の醜態を一顧だにせず、床に崩れ落ちると、虚ろな目で呟く。
「奥方さまが、悪いんです……奥方さまが悪いんです……愛さないから、誰も愛さないから……」
 ぶつぶつと狂気じみた呟きを続けるマリアの足元では、絶命したリディアの亡骸が、かっと目を見開いて、舌を出している。
 床の絨毯には、いつしかおびただしい血が染みていく。
「リディア……?何が……っ!」
 逃げた青年の悲鳴を聞きつけて、青ざめたウォルターが、部屋の扉を蹴り破る。
 そうした当主の瞳に映ったのは、変わり果てた、最愛の妻の無惨な姿だった。
 足がふらつく。
「リ、ディア……?」
 わずかにも、反応しない指先、床一面に広がる鮮血、死んでいるのは、疑う余地がない。
 何より、リディアの蒼い瞳からは、すでにあるべき光が失われている。
 それでもなお、ウォルターは愛する人の横に、膝まずいた。
「リディア……嘘だろう?」
「目を開けてくれ、リディア。お願いだ」
「愛しているんだ。愛していたんだ!」
 妻の亡骸を抱き締めて、ウォルターは悲痛な叫びをあげ続けた。
 愛していたのは、真実だった。唯一の恋。なのに、どうして。
「許してくれ、リディア!私が、私が君を殺した!」
 ああああああ 、言葉にならない慟哭が、胸を打つ。
 黒髪の幼い男の子が、扉に手をかけたまま、呆然と立ち尽くしていた。
 ルーファスの目線は、変わり果てた母、錯乱した父、そして、壁際にうずくまるマリアの姿だった。
「ははうえ……?」
「ああああああ」
「ちちうえ……?」
「おおおおおおん」
「マリア?」
 ルーファスの呼び声に、マリアはのそりと面を上げた。
 生まれて初めて、自分と壁なく接してくれた明るい少女は、変わり果てた老人のような笑みを浮かべ、吐き捨てた。
 ねえ。ルーファス坊っちゃま……。
「奥方様と旦那様の子じゃなかったら、こんなものを見なくてすんだのに、可哀想ですね。この世で一番、哀れですね……何で、生まれてきたんですか?」
「……マリア」
「あっはははは、狂った公爵家なんて、みんな纏めて、不幸になればいいんです。死んじゃえ」
 マリアは箍が外れたように、げらげらと笑った。

「――――止めて!それ以上、言わないで!お願いだから!」
 セラが胸を押さえ、強く頭を振った。
 辛い。
 息苦しい。
 この痛みは、とてもではないが耐え難い。
 幼いルーファスの心を思うと、胸が張り裂けそうだ。
 いやいやいや、と呻いた少女に、スティーブは目をつむり、いたわるように声のトーンを落とした。
「私も、その場に駆けつけた一人でございます……なぜ、間に合わなかったのかと、悔やまれてなりません。ルーファス坊っちゃまは、あまりのことに倒れ、ウォルターさまもまた……」

 ――母が死んだ日から、三日三晩、ルーファスは高熱に魘されて、死にかけた。
 ははうえ。ははうえを助けて。ちちうえ。
 血まみれの悪夢にうなされながら、ルーファスはそう、寝言で呻いたという。
「数日後、熱が引いて、朦朧とする意識の中、ルーファス坊っちゃまは、お父上の姿を探し求めたのでございます……」
 ようやく、寝台から起きたルーファスは、両手で廊下を這いながら、父親の姿を求めた。
 愛情を注いだとは言い難い、ウォルターの背中に、それでも、ちいさな手を伸ばす。
 ちちうえ。
 息子の声に、ウォルターが振り返り、薄緑の目に刹那、嫌悪感がよぎった。
 蒼い瞳が。
 伸ばした手を振り払い、拒まれる。ルーファスの小さな身体が、こてんと床に倒れ伏す。
 ウォルターは、逃げるように立ち去った。
 その瞬間から、ルーファスは期待するのを止めた。
 わずかに、すがっていた愛情に永久に蓋をした。
 それを聞いたセラは、両手で口許を抑えた。
 ――残酷な真実と、優しい嘘。
 救いは、どちらなのだろう。


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