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五章 父と子と娘 9


 ルーファスは、知っているのだろうか?
 聖堂に通う、彼の人の背中を。
 切なさを帯びた瞳を、尽きることのない懺悔を、終わることのない祈りを……。

 セラがそのことに気づいたのは、アンラッセルの地で過ごすようになってから、五日ほど経ってからだった。
 早朝、鳥の羽ばたきを聴きながら、彼女が瞼を擦ると、開け放った窓の下、庭を歩く人影があった。
 薄茶色の頭、その長身には、見覚えがあった。
 小さくて、表情までは確認できないが、父子だけに、ルーファスとよく似た体格をしている。
 ウォルターだ。
 相変わらず、絹のシャツを羽織っただけの、些か寒そうな格好ではあったが、朝陽を浴びながら、さくさくと歩く彼の人の姿は、初対面の折りに目にした、人形のような雰囲気とは異なり、きちんとした意志を持っているようだった。
 ルーファスがいうように、精神を病み、誰にも心を閉ざしているようには見えない。
 いずこへ向かおうとしているのか、迷いなく歩を進めるルーファスの父の背中を目で追い、セラはわずかに身を乗り出した。
 何処に行こうとしているのか。と、その時、その長身が木立の影に隠れて、かき消えたように見えなくなった。
 セラは慌てて、寝衣の上にガウンを羽織ると、皆を起こさぬよう、そぉ、と庭におり、ウォルターの姿を探した。けれども、弱り顔の少女が右を向いても、左を向いても、その人の姿は見つからず、セラは落胆の息を吐いた。
 必死に探し回りながら、見つからなかったら、どうしよう、ルーファスやアンダーソン医師に報せるべきかと、頭を悩ませたセラだったが、とぼとぼと重い足を引きずり、屋敷に戻ると、何の騒ぎも起こっておらず、メイドのエルダがウォルターに朝食を運び、アンダーソン医師が朝の診察に向かうところだというので、彼女は胸を撫で下ろした。
「どうかしたのか?」
 ルーファスにそう尋ねられても、ふるふると首を横に振る。
 もしかしたら、あれは、見間違えだったのだろうか。
 不思議そうな顔をするミカエルや、此方を見たスティーブにも、セラは曖昧に苦笑し、何でもないの、と首を振るのが精一杯だった。
 翌朝、セラは夜明け前に目を覚ました。夜の名残に震えながら、もぞもぞと寝台から這い出すと、着替えて、窓の下をのぞく。
 少女の翠の瞳に映ったのは、昨日と同じように、一人で庭を歩くウォルターの姿だった。
 じっと彼女が目を凝らしていると、やはり昨日と同じように、その長身は木立の中へと消えていく。
 一体、何処に行っているのだろう。
 昨日の様子だと、きちんと屋敷に戻っては来るようだが、大丈夫なのだろうか。
 心配だし、誰か呼ぼうかと迷ったものの、その間に見失うことを恐れたセラは、ウォルターの足取りを追い、厨房の裏口から、庭へと飛び出す。
 その姿が消えた木立の奥をのぞくと、広々とした庭園の一角に、静寂をたたえた聖堂があった。
 青い屋根の、さほど大きくはないが、かつてのこの屋敷の所有者が信仰厚いものであったのか、夜明けの空を映す純白の壁と、壁に施された女神や花の彫り細工、尖塔に飾られた輝石も、信仰心あればこそ、神聖さがただよう。
 美しい聖堂であった。
 女神を奉る其処は、かつては日夜、様々な立場の者によって、熱心な祈りが捧げられていたに違いない。
 今では、メイドが数日に一度、祭壇の花を取り替えに入るぐらいだと、庭を含め、屋敷を案内してくれた際、ルーファスがそんなことを教えてくれた。
 そう言う青年自身、そう信心深い方でもない。どちらかといえば、懐疑的な方であったので、聖堂には用がなければ近づかないようだった。
 少年だった頃、無理やり家庭教師に連れてこられたと、つまらなそうに言っていたのを思い出す。届かない祈りなんぞ、何の意味がある、と。
 そんな会話をつらつらと思い起こしながら、セラが聖堂の前で立っていると、中から祈る声が聞こえた。
 見えないが、おそらく、ウォルターの声だろう。
 哀切な祈りをこめたそれは、琴線を震わす。
「女神の楽園へ旅立ちし魂よ、どうか、安らぎたまへ……その苦しみを癒し、我が過ちを背負う代わりに、女神の慈悲により、そなたの魂が救われんことを……リディア」
 女神に捧ぐそれは、鎮魂の意味をこめたものだ。
 祈りの最後に、男は名を呼んだ。
 リディア。
 安らかに眠れ、愛しいひとよ。
 私が死なせた麗しい乙女、私が全ての咎を背負うから、そなたの魂はどうか、救われてくれ。
 リディア、リディア。最愛のひとよ。
 死してなお、苦しいほどに、狂おしい程に焦がれているのだろう。
 女神への祈りは真摯でありながら、亡き人への尽きることなき執着、愛情を過ぎたるものが感じられた。
 すまない、リディア、本当にすまない……ルー……
 それ以上、立ち聞きのような真似をすることははばかられて、セラは最後まで聞き終えぬうち、聖堂から離れ、距離を取った。
 どれほどの時間が、過ぎただろうか。
 少女が朝の冷えた空気に、指をかじかませた頃、ようやくウォルターが外に出てきた。
 彼は、木の影に身を寄せたセラに気づくことなく、薄緑の瞳をすがめ、聖堂を後にする。
 屋敷の方へと足早に戻っていく背を見届け、セラは木にもたれかかったまま、深く安堵の息を吐いた。
 そのまた翌日。習慣なのだろう。
 ウォルターは、同じことをしていた。
 セラはどうしようかと再び悩んだものの、事情を聞けば、無理からぬことながら……父親と接すること自体を、疎んでいるらしいルーファスに、何と告げるべきか迷い、結局、ひとりでその痩せた背中を追いかけた。
 彼女の見ている前で、その男の背は聖堂の扉へと吸い込まれていく。
 祈りの邪魔をするのも気が引けて、かといって放って帰るのもその身が案じられて、セラは前と同じように、聖堂の横の大樹にもたれかかった。
 目を閉じる。
 祈る声が聞こえて。
 その瞬間、とん、と軽く肩に触れた手に、セラは甲高い悲鳴を上げそうになる。
「ひゃぁ……っ!」
 すんでのところで口を手のひらで押さえて、セラは横を向いた。
 しぃ、奥方様、お静かに……。
 騒がないで、と唇の前で、指が立てられる。
 穏やかで、理性をたたえた碧眼が、彼女を見つめていた。
「……アンダーソン先生?」
 声量を落とし、囁くような声でセラは、人好きのする笑顔を浮かべた、中年の医師に呼び掛けた。
 恰幅の良い医師は、腹を揺らして、
「おやおや、坊っちゃんかと思えば、奥方様でしたか……ルーファス坊っちゃんは、好んで、この場所には近寄りませんからな。救いもしない神に、熱心に祈りを捧げてどうするなどと、実も蓋もないことを仰って……」
と、些か残念そうに言う。
 いつの日か、自然にお気づきになられればよろしいと、そう思っておりましたが、と。
 唐突に姿を現したアンダーソン医師に、鼓動を速くしつつも、セラは医師を見上げて、どうして此処に……?、と尋ねた。
「おそらく、奥方様と同じでございますよ。ウォルター様の様子を、見に来たのです。毎日の日課ではありますが、ね」
 医師の言葉に、セラは目を瞬かせ、毎日?と繰り返す。
 ええ、とアンダーソンはうなずいて、切ないような眼差しで、女神への、鎮魂の祈りが響く聖堂を見つめる。
 手持ち無沙汰に髭をいじり、医師はため息まじりに続けた。
「ウォルター様がアンラッセルにいらしてから、否、その前からになりますか……雨の日も風の日も嵐の日ですら、一日たりとも欠かさず、ああして、聖堂に籠られておられます。もう十年近くになりますが、一瞬たりとも忘れることなく、ご自分を責めておられるのです」
 愛した妻を追い詰め、狂わせてしまった罪をだろうか。
 あるいは、救えなかった、アムリッツの人々へだろうか、鎮魂の祈りは、男の懺悔は、終わることがない。
 己を責め続け、愚かさを悔い続け、それでもなお、いまだ許されぬのだと、終わらないのだと。
 それは、生きながらにして、身を切り刻むがごとき行為にも、アンダーソンには思えるのだが、ウォルターの日課は終わりを見せない。否、償いが終わる日など、永遠に来ないのかもしれなかった。
 その孤独を思うてか、セラは「……くるしい」と絞り出すような声で言った。でも。
「ルーファスは、知らないのね」
 アンダーソン医師は、黙って首肯した。
 思わず、気を許したくなるような淡い翠の瞳に、ちらちらと眩い光の粒が散るのを認めて、アンダーソンは眦を下げる。
 ――不思議なものだ。全く容貌は異なるのに、この御方はどこか、リディア様を彷彿とさせる。
 儚げな雰囲気が、だろうか。
 いや、この御方の方が、よりそういった掴みにくいものを感じる。
 たおやかで、柔らかく、目を離すと、幻のように何処かに消えてしまいそうな、そんなものを。
 医師の夢想ともいうべきそれを遮るように、「哀しい……伝わらないのは、哀しいわ」と、セラが言う。
 柔らかく、だが、芯のある声だった。
「ええ、届かぬ祈りというのも又、哀しいものです」
 アンダーソンの言葉に、少女は目を伏せ、うつむいた。
 ウォルターの苦悩を思いつつも、ルーファスのことを思うと、複雑な気持ちになるのだろう。
 その心境も、よく理解できる。
 ルーファスのことを大事に思いつつも、アンダーソンが、ウォルターを第一に考えるのと同じように、妻である少女にとっても、ルーファスをより強く想うのは、当然のことであろう。
 さああ、とふたりの間を、風が吹き抜けた。
 口髭を撫で付け、アンダーソンは聖堂を仰ぎ見る。
 祈りの声は、いまだ止まなかった。
「まだ終わりそうにありませんな……奥方様」
「え?」
「よろしければ、私の朝の日課に、お付き合い頂けないでしょうか?なに、日課といっても、砂糖をたっぷりいれた香草茶を飲むだけのことですが」
 それがたたって、ほれ、この通り、にこやかに笑いながら、やや肥えた腹を指差すアンダーソンは、何とも言えず愛嬌がある。
 思わず、セラの唇から、くす、と小さな笑いがこぼれた。
「甘いものの取りすぎは、身体の為には良くないのですがね。医者の不摂生とは、よくいったものです」
「ふふふ、でも、美味しそうです。喜んで」
 ルーファス坊っちゃんの嫉妬を買うと、後が怖そうですからな。奥方様、どうか、内緒にしてくださいませんか、冗談めかし、おどけるようにそう言った医師に、セラは、はい?と目を丸くした。


「ルーファス坊っちゃんは、幼い頃は内気というか、おとなしい方でしたよ。家庭教師ばかりに囲まれて、周りに子供がいなかったせいもあるでしょうな」
 香草茶のカップに、ひとさじ、ふたさじ、多すぎる量の砂糖を放り込み、至福の表情で味わうと、アンダーソンは向かいのセラにも、同じものを勧めた。
 そうして、同席する少女が退屈しないように、昔語りを始め、いつしかそれは、若君の少年時代へと繋がっていく。
 こくり、と喉を鳴らして、香草茶を味わっていたセラは、「おとなしい……ルーファスが、ですか?」と首をひねった。
 確かに、舌鋒鋭いわりに多弁な性質ではなく、どちからかといえば寡黙な方かもしれないが、おとなしいとは、余り、似合わない表現な気がする。
 昔は、そうだったのですよ、とアンダーソンは微苦笑を浮かべた。
「どちらかといえば、内向的な少年でしたな。教師たちが驚くぐらい、聡明ではありましたが……七つかそこらで、私の貸した医学書を、熱心に読み耽っておられましたな」
 そう語るアンダーソンは、懐かしさを覚えると同時に、決して幸福とは言えなかった若君の幼少時代を想い、胸が痛んだ。
 彼が、リディアの診察をしにエドウィン公爵家を訪れる度に、小さな男の子が玄関ホールで迎えてくれたものだ。
 黒い髪に蒼い瞳の、色が白くて愛らしい子だった。
「アンダーソン先生、ようこそいらしてくださいました」
 五つかそこらの子が、奇妙に大人びた口調で言うと、頭ほどある分厚い本を持ち上げて、「お借りしていた本です。どうも有り難うございました」と、丁重に礼を言った。
「医学書ですからね、坊っちゃんには、まだ少し早いかと思いましたが……」
 いえ、と幼い少年は、はにかむように笑んで、面白かったです、と応じる。
 本の内容を難なくそらんじ、様々な疑問をぶつけてくる辺り、末恐ろしい早熟ぶりではあった。
 ウォルター様も有能だが、ご子息はその上をいくかもしれん、と内心、舌を巻きつつ、次にお邪魔する時は、また別の本を持って来ましょう、と言う。
「何の本が読みたいですかな。たまには、歴史小説などいかがです。ルーファス坊っちゃんのご先祖が、活躍される話もありますよ」
 本来なら、もう少し年がいってから読むようなものたが、ルーファス坊っちゃんなら、支障はあるまい。
 そう思い、した提案だったが、ルーファスはちょっと迷うような仕草を見せたあと、首を横に振った。
「いえ、アンダーソン先生、今日の続きでお願いします」
「やれやれ、それほど焦らなくても、本は逃げはしませんぞ」
 勤勉は美徳だが、子供には遊びも必要だと、アンダーソンは心得ている。
 一般的な幼子としては、些か早熟すぎるきらいはあるが、坊っちゃんだって本来なら、家庭教師といるより、外で遊びたい盛りのはずだ。
 だって、とルーファスは、年にそぐわぬ、寂しげな微笑を浮かべた。
「もっと勉強して、いつか母上のご病気を治せたら、母上も僕のことを見てくれるでしょう」
 愛してくれるでしょう?言葉にならないそれは、幼い少年の渇望であっただろう。
 ルーファス坊っちゃん……医師が言葉を見失ったことを、敏感に察してだろう。
「あのね、母上が、お辛くないようにしてあげてください。泣いてばかりで、可哀想だから」
 アンダーソンの袖をきゅ、とすがるように握ると、ルーファスは子供らしからぬ作り笑顔を見せた。
 心から笑ったことのない子供にとって、それは、多分、精一杯のものだったのだ。本当は、こう言いたかったのだ。
 母上を救ってあげて、どうか助けてあげて、と。
 わかっていたから、言えなかった。聡い子だった。悲しいぐらい、聡い子だった。
 大人の嘘を見抜いて、気づかないフリをする子だった。
「大勢の家庭教師に囲まれていても、どこか寂しげでしたなぁ……その垣根を飛び越えたのは、多分、マリアくらいのものでしょう」
「マリア?」
 アンダーソン医師の口から出たのは、聞きなれぬ名だった。
 医師はうなずく。
「マリアは、一時、ルーファス坊っちゃんのお世話を任されていた女中の少女です。何でも兄弟が大勢いたとかで、坊っちゃんのことも、弟のように可愛がっていましたね」
「そう、そんな人がいたのなら良かった……」
 ルーファスのどう取り繕ったところで、重苦しいとしか言えぬ幼少時代に心を痛めていたセラは、ようやく出てきた明るい話に、多少なりとも声を弾ませた。
 母に無視され、父にも距離をおかれる中、例え、血の繋がりがなくとも、近しい存在は救いだったはずだ。
 マリア。
 ルーファスの口から、直接、聞いたことはないが、どんな人だったのだろう。
「働き者で、面倒見の良い子でしたよ。家族思いで、ルーファス坊っちゃんも、マリアにだけは心を許しているようでした」
「マリアさん……。会いたかったわ、もう屋敷は辞めてしまったのかしら?」
 ルーファスが子供の頃の話なら、とっくに辞めてしまっても、おかしくはないとセラは思う。
 彼女の言葉に、それが、と医師は急に渋面になった。
「私が留学から帰ってきた時には、もう姿を消していたのですよ。恋人と駆け落ちしたらしい、と風の噂で聞きましたが……今頃、どうしているやら」
 リディア様がお亡くなりになったのも、丁度、同じ頃でしたから、ルーファス坊っちゃんはお辛かったはずです。
 当時を思い出し、アンダーソンは嘆息した。
 留学先で、奥方様の、リディア様の急死の報せが入って、慌てて、彼は取るものもとらず、帰国したものだ。
 泡を食ってエドウィン公爵家に駆けつけると、執事の代わりに、ルーファス坊っちゃんが出迎えてくれた。
 氷のような、恐ろしく冷めた表情で。
「ルーファス坊っちゃん……!リディア様は!」
 記憶にあるより、だいぶ背が伸び、大人びた少年はふと皮肉気に唇をつり上げた。
 冴え冴えと、両親譲りの美貌が、よりいっそう際立って。
 続けたルーファスの言葉に、アンダーソンは絶句せざるを得なかった。
「母は、死にました」
 まるで、別人かと思うほど、酷薄な口調だった。
 しかし、屋敷に入ったアンダーソンは、一気に三十も老け込んだようなウォルターに、更なる衝撃を受けることになる。
 気がついた時には、慌ただしくリディアの葬儀は終わっており、ウォルターはさながら廃人のような有り様で、ルーファスは泣きも笑いもしない男になっていた。
 その傍らにいたはずのマリアは、気がつけば、何処にもいなかった。
 今でも、後悔しているのですよ、とアンダーソンはポツリとこぼす。
「何で、ああなる前に、誰もあの子に手を差し伸べてあげなかったのかと、私は今でも後悔しているのですよ」
と。


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