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五章 父と子と娘 12


 ルーファスの凄絶すぎる過去に、セラが心を痛めていたのと同じ頃、王都のエドウィン公爵家では、ソフィーやメリッサたちが気忙しく働いていた。
 主や奥方が屋敷を留守にしていても、仕事が減るものでも、やるべきことがなくなるわけでもない。
 むしろ、信頼して屋敷を任されればこそ、その役目を怠ってはならないというのが、女中頭であるソフィーの持論であった。とはいえ、そう言う女中頭は、次々と届く良くない報せと、目の回るような忙しさに、頭を抱えていたのだが……。
 眉間に皺、への字を描いた唇、日頃は快活な碧眼に陰りがあるのを見てとり、メリッサは叔母に声をかけた。
「どうしたの、ソフィー叔母さん……眉間に皺なんか寄せて」
 姪の言葉に、ソフィーは「はああああ……」と深く嘆息する。
 お喋りで人情味にあふれ、屋敷の肝っ玉母さんともいうべきソフィーにしては、珍しい落ち込みぶりだった。
 血の繋がった姪のメリッサでさえ、ほとんど見た覚えがない。
 ソフィーはちらりと姪の横顔を見ると、
「メリッサ。これを見ておくれ……あたしの嘆きが、わかるだろう?」
と、手にしていた手紙をかかげた。
 事情がわからず、はあ?と目を丸くしたメリッサだったが、続いた叔母の台詞で納得した。
「宿下がりをしていたエレンが、風邪をこじらせたってさ……大事はないのが何よりだけど、こうも続くと、いい加減、神様を恨みたくもなるってもんさ」
 日夜、女中たちを束ねる者として、きびきびと働き、忙しい中でも下の者への気配りを忘れないソフィーは、めずらしく、うんざりした様子を隠そうともしかなった。
 やれやれと首を振り、厨房の天井を仰ぐ。
「ソフィー叔母さん……」
 無理もないことだ、とメリッサは同調し、ため息をこぼす。
 叔母がこうも嘆くには、そうするだけの理由があった。
 姪という聞き役を得て、ソフィーの嘆きは続く。
「先週、馬丁のアダムが馬に蹴られて怪我をしたと思ったら、洗濯娘のエヴァが階段から転げ落ちて……下男のクラウスは、身内に不幸があって実家に帰る途中、事故にあったし……今度は、エレンだ。まったく、こうも災難が続くと、呪われているんじゃないかなんて、疑っちまうよ……そう思わないかい?メリッサ」
 ここ数週間というもの、エドウィン公爵家に縁ある者たちは、絵に描いたような災難続きだ。
 病気、怪我、極めつけは、不運としか言い様のない事故……。
 死者が出ていないのが、不幸中の幸いではあるものの、それを救いと取るには、些か災難が続き過ぎている。
 祈りの聖句でも唱えるべきかと、ぶつぶつと呟くソフィーの意見に、メリッサもうなずかざるを得ない。
 ただの偶然と思おうにも、こうも重なってしまえば、否が応にも意識するし、気も滅入る。
 次から次へと降りかかる災難に、主不在の屋敷には、暗雲が立ち込めていた。
 ルーファスだけではなく、屋敷の守役というべき執事のスティーブも、主人夫妻と共にアンラッセルに滞在している。
 使用人達の中で最も若く、皆にからかわれたり、可愛がられているミカエルも今はいない。
 急に胸がひりつくような寂しさを感じて、メリッサは樫のテーブルにもたれかかると、「あーあ」と声を上げた。
「早く、旦那様たちがアンラッセルから帰ってこられないかしら……そうしたら……」
 この不幸の連鎖も止まる気がする、というのは、言葉にならなかった。

 ――終わらないよ、あれは、災厄を呼ぶ娘。命尽きるその日まで、周囲に不幸の種子を、植えつける。
  それが、運命、それが定め……救いなんて、何処にもない。絶望の中で、愛する者を殺せ――

「……叔母さん?今、何か言った?」
 何処からか声が聞こえた気がして、メリッサは耳をそばだてた。が、幻聴だったように、今は何も聞こえない。
「いいや。急に、どうしたんだい?メリッサ」
 首を横に振り、ソフィーは怪訝そうな顔つきになる。
 気のせいかしら?とメリッサは、小首をかしげた。
 今、厨房には、自分と叔母のふたりだけだ。
 ソフィーの声でなかったとすれば、今のは、一体……?

 ――あれは、呪われた娘。災厄を招くために生まれた子。
   あの男の血を継ぐ者など、皆、死より深い苦しみを味わうがいい。あーははははははははっ―――

 背筋が凍るような、禍々しい、増悪に満ちた【女】の声だった。
 ゾクッと肌が粟立つような薄気味悪さを感じ、金髪の少女は震える手で、己の両肩を抱いた。
 唐突に態度を変えた姪に、ソフィーは大丈夫かい?と、気遣わしげな目を向ける。
 平気、とメリッサは叔母を安心させるように笑うと、あえて気丈に振る舞った。
 儚く微笑う奥方様の顔が、頭に浮かぶ。
 旦那様も奥方様もいらっしゃらなくて、スティーブさんに指示を仰ぐことも出来ない今、自分たちしっかりしなくて、どうするのだ!
 メリッサは己を叱咤し、ぱんぱんっと軽く両頬を叩くと、自分自身に言い聞かせるような明るい声で言った。
「どうにもならないことで、あんまり悩んでも、しょうがないわ。旦那様たちがお留守の間、あたしたちがしっかり、屋敷を守らなくっちゃ…ね?ソフィー叔母さん」
 なんとか重苦しい空気を変えようとする姪の気配りに励まされてだろう、ソフィーもようやく口元を緩め、小さく笑った。
「あんたの言う通りだね。旦那様がお帰りになった時、屋敷が暗かったら、留守を任された私らの恥ってものだよ」
 それにしても、と日頃、叔母としての顔よりも、女中頭としての立場を優先するソフィーだったが、思わず、姪の成長ぶりに優しく目を細めた。
「あんたも、逞しくなったね。メリッサ……最初、奥方様付きになった時は、ちゃんと勤まるのかどうか、密かに心配していたもんだけど」
 何せ、あんたはお喋りな上に、そそっかしいから ……図星であるそれに、メリッサは顔を赤くし、
「嫌だわ、叔母さん。お喋りなのは、血筋よ」
と唇を尖らせた。
 口が減らないのは相変わらずだねぇ、と肩をすくめたソフィーに、 メリッサはますます頬を赤らめて、恥ずかしそうに「そんなこと言われたって……しょうがないじゃない、性分なんだもの」とボソボソと、うつむき加減で反論する。
「でも、」
と、奥方付きである少女は、ふっ、と真顔になって続けた。
 その碧眼は、此処にいない誰かに、思いを馳せているようだった。
「あたし、セ……奥方さまのこと、大好きよ。お仕えしているってだけじゃなくて、あの方のお役に立てるなら、出来る限りのことをして差し上げたい、って思うわ」
 メリッサのそれは、嘘偽りのない本心だ。
 アンジェリカの滞在中、濡れ衣で横っ面を張られそうになった時、我が身を盾にしてまで、自分をかばってくれたセラ。
 恩義を、感じないはずがない。
 貴族は自分とは違う世界に住む方々だととらえていたメリッサにも、セラはなんの屈託もなく微笑みかけてくれる、友のように言葉を交わしてくれる。
 王女と平民の女中では、その身分に天と地ほどの開きがあるというのに、権高な態度をとるどころか、深い情をもって接してくれる。
 気さく、と評するには、行き過ぎにも思えるそれでも、好感を覚えぬはずかない。
 不思議な面があっても、優しい奥方様のことを、メリッサは敬愛していたし、セラさまのためならば、自分に出来ることなら、なるだけのことをして差し上げたい、という強い気持ちがあった。
 姪の決意に、ソフィーは同じ色をした目を和ませた。
「そう思える主人に出会えて、あんたは幸せだね、メリッサ。確かに、奥方様は優しいお方だ。旦那様ともども、誠心誠意お仕えしなくっちゃならないよ」
「けれどね……」
 叔母の言葉にうなずきながらも、メリッサは胸の前で手を組み合わせると、どこか不安そうな面持ちで言う。
「時々、わけもなく不安になるの。奥方様があんまり綺麗に、儚げに微笑うから、旦那様やあたし達をおいて、どこか遠くに行っちゃうんじゃないかって……」
 滅多なことをお言いでないよ、とたしなめかけ、メリッサがあまりに真剣な目をしていたので、迂闊なことを言うのは躊躇われて、ソフィーは口をつぐんだ。
 その時、裏の菜園の様子を見に行っていたコックのベンが厨房へと戻ってくる。
 摘んだばかりのハーブのバスケットを片手に、コックはソフィーとメリッサに話しかけた。
「ソフィーさん、メリッサ……正門にお客さんが来てるって、ハンナからの言伝てさ」
 ベンの言葉に、ソフィーは「お客様……?どなただろうね?」と声を上げ、主不在の屋敷を訪ねてくる間の悪さに、メリッサは碧い瞳を瞬かせた。
「ああ、旦那様のご友人の騎士殿らしいよ。ほら、ハロルド殿とおっしゃる……」
 コックの返事に、ああ、あの御方だねと相槌を打つソフィーの隣で、メリッサはガタタッと音をたてて椅子から立ち上がると、ソフィー叔母さん、といささか高い声で宣言した。
「今、旦那様がお留守なんだもの、あたしが出て応対してくるわ。ちゃんとするから、心配しないで」
 妙に気負った表情でそう言うと、ソフィーが止める間すらなく、金髪の少女は紺のスカートをひるがえし、バタバタと慌ただしい足取りで、厨房を立ち去った。
 取り残された叔母とベンは、ぽかんとした顔で、その背姿を見送る。
 女中頭の唇から、深いため息がもれた。
「大丈夫かねぇ……あの子、根は素直なのに、時々、妙な意地を張るもんだから……」
 そんな叔母の心配は、杞憂となるのか否や。

 

 メリッサが正門へと赴くと、そこには、風に騎士の証たる青いマントをなびかせた、ハロルドが立っていた。
 凛と背筋を伸ばし、 剣を構えておらずとも、隙のない眼光、泰然とした雰囲気は、優れた剣士の技量を物語る。
 彼女の目に飛び込んでくる、男の、さながら燃え盛る炎のような赤髪は、鮮やか、という表現がしっくりきた。
 似合わぬ髭を生やしてまで、涙ぐましい努力で、若造と侮られぬ威厳を出そうとしているハロルドだったが、こちらから見る横顔は、存外、若々しい。
 門壁の前で、すれ違った老人が、袋一杯につまった林檎を、地面にばらまいた。
 ハロルドは膝を折ると、地面にしゃがみこみ、コロコロと地面を転がる林檎を、ひとつひとつ丁寧に拾い上げた。
 騎士の青年が見せた親切に、老人は恐縮したように、何度も礼を口にしながら去っていく。
 その光景を見届けて、メリッサはハロルドに声をかけた。
「騎士さま」
 赤髪の青年の濃緑の瞳が、彼女の姿を目に留めた瞬間、ゆるく細められ、君は、とメリッサの名を呼んだ。
 その声音には、どことなく好意に似たものが滲んでいる。
「君は、奥方様付きの……確か、メリッサというのだったか」
 親しみのこもったそれとは対照的に、メリッサはこくりとうなずくのみに留め、やや堅い表情で「旦那様ならば、今はアンラッセルに滞在されていて、お留守ですよ」と、応じた。
 どこか警戒心のにじむ、女中の少女の態度にハロルドは一瞬、戸惑い、かすかな落胆を覚え、同時に仕方がないことかとも思った。
 あの化け物の事件を通じて、出会いが出会いだっただけに、気を許せ、と言っても無理な相談かもしれない。
 幸か不幸か、交友を深めることとなったルーファスを訪ねて、幾度もエドウィン公爵の屋敷に足を運ぶうち、使用人の大半とは顔見知りになりつつあった。
 主の人柄を反映してか、屋敷で働く者たちの物腰は洗練されており、落ち着いて、客人が居心地よく過ごせるようにと、繊細な気配りが随所に感じられた。
 執事のスティーブは既に老境に差し掛かろうかという年齢ながら、屋敷の全てを把握し、上にも下にも眼を配りながらの迅速な仕事ぶりは、見事の一言に尽きる。
 メリッサの叔母にあたるソフィーは明るく、包容力のある女性で、客人の好みに合わせて、よく気にかけてくれた。
 従者のミカエルは、ルーファスという稀有で有能、だが、ひと癖のある主人に仕え、臆するところのないところは、大したものだと思う。
 ルーファスの友人として、じょじょに屋敷の中でも浸透しつつある中で、この少女、メリッサだけが未だに警戒心を解こうとしない。
 青年はひそかに嘆息し、腰の剣に触れた。
 勇猛果敢をうたわれる黒翼騎士団に所属し、部隊長などという地位を戴いていると、年頃の少年たちから、尊敬や崇拝にも似た憧憬の眼差しを向けられることも多いが、その反面、恐れを抱かれることも少なくはない。
 王都の民を守る、という大義名分があるとはいえ、いざ事件が起これば、剣を振るい、血を流すことさえ躊躇うまい。
 平和に暮らす、善良な人々にとって、騎士とは嫌わずとも、積極的に関わりたい人種ではなかろう。
 国と剣に誓いを捧げ、騎士の道を選んだことに後悔は一切ないが、可憐な少女の警戒心も露なそれは、いささか堪えるものがあった。
 いや……、それだけではないのかもしれない、とハロルドは思い直した。
 奥方付きであるメリッサと、ルーファスを訪ねてくる己では、今まで、ほとんど言葉を交わす機会もなかったが、たまに屋敷を訪れる度、その明るい笑い声や、従者の少年と子供じみた意地の張り合いをしていたり、奥方とふたりで午後のお茶を楽しんでいたり、そんな女中の少女の背中を、気がつけば、視界の端に入れていることがよくあった。
 太陽にきらきらと映える金髪、明るい煌めきを宿した碧眼、鈴を鳴らすような笑い声。
 シーツの山を運びながら、ラララ、と伸びやかな歌声を屋敷の廊下に響かせては、すれ違ったハロルドと目が合うと、真っ赤な顔で目を逸らした。
 ワルツのような軽やかな足取りが、急に楚々とした、品の良いものになり、笑いを堪えたこともあった。
 従者の少年と子猫のじゃれあいのような口喧嘩をしながら、その実、身寄りのないらしいミカエルのことを、弟のように気にかけているのを知っている。
 何より、奥方と共にある時の、優しく、やわらいだような顔つき。
 彼の青年公爵や天使もかくやというミカエルのように、格別な美貌というわけではないのに、そのやわらいだ、曇りないそれは、ひどく得難いもののように思えて、気がつけば、その姿を目にすることが、口にせぬ、楽しみのひとつになっていた。
 ほんの一瞬、その笑顔をみるだけで、わけもなく心が弾んだ。
 今日の今日に至るまで、きちんと自覚していなかったのは愚かだが、元来、自分はこういったことは不得手な方だ。
 ヘクターあたりにバレたら、ハロルド隊長は鈍すぎですよ、と失笑されかねない。
 いいや、あいつの性格からして、間違いなく腹を抱えて大爆笑された上、面白おかしく吹聴される。
 ……いかん。想像しただけでも、不愉快になってきた。
 頭からヘクターのニヤけ面を追い出し、ハロルドはわずかに背を丸め、メリッサと視線を合わせる。
 踵を上げ、仰向いた少女の碧眼には、己の姿が映りこんでいた。
 その真摯な眼差しに、魅入られて、鼓動が高まる。
 (十代の餓鬼でもないのに……)
 ルーファスや部下のヘクターのように、浮き名を流したことなく、上司の付き合いでいった娼館でも、さほど夢中にはなれなかった。
 過去には真剣に付き合った恋人もいたし、(隊長の職務が多忙すぎて、別れる羽目に陥ったが……)、二十余年あまり生きてきて、人並みの経験はあるつもりだ。
 それなのに、今、恋も知らない少年のように、立ち竦んでしまっているのは、何故だろうか。
 敵前逃亡など、考えたこともないというのに、今は、この場にいることが、どうにも気恥ずかしく感じる。
 目の前の少女にも、不審に思われていることだろう。
「騎士さま」
 花のような唇がひらく。
 メリッサの碧い瞳が、潤んだようなそれが、ハロルドだけを映して。
 ほのりと色づいた頬は、やわらかな丸みを帯びていて、淡紅の果実のようだった。
 金糸の後れ毛が、細い顎をなぜる。光がこぼれた。
 ――ふれたい、と衝動にも似たそれが、胸の奥からわきあがり、ハロルドは「……っ」と息を詰める。
 その時だった。
 騎士隊長である青年とメリッサの耳に、絹を裂くような絶叫が届いたのは。
 馬の嘶き、迫りくる車輪の音、制御を失った馬車が右へ左へ揺れながら、御者を地面に投げ出す。
 たまらず、手綱を手放したことで、馬車をひいていた黒馬はますます興奮し、すっかり暴れ馬とかした。
 前後左右、ぐるぐる回るようにしながら、ヒヒーンと蹄の音も高らかに、道を疾駆してくる。
 勢いに任せて、道を歩いていた二、三人がはね飛ばされて、したたかに腰を打ち付けていた。
 平穏だったはずの道は、一瞬で混乱の坩堝となった。
「いやああああああああ――!馬車が、馬車が!」
「暴れ馬だあああ!ひかれちまうぞ!」
「そこの、早く避けろ!」
 馬車が、前足を高く振り上げた黒馬が、刹那、止まったように見えた。
 実際には、凄まじい勢いで、メリッサに向かって突っ込んでくる。
 迷っている暇はなかった。ハロルドは少女の腰を抱き寄せると、とっさに右へと跳ぶ。
 馬車が煉瓦の門壁へと突進し、勢いよく倒れこんだ。
 地も割れよ、とばかりの凄まじい轟音が響き渡る。
 馬車の下敷きになった暴れ馬が、ぴくぴくと痙攣しながら泡をふき、車輪は見るも無惨にひしゃげていた。
 迫る死を覚悟し、メリッサはかたく目をつぶっていた。が、いつまで待っても、その時は訪れなかった。
 そっと瞼をあげる。まぶしい。
 足に火傷のような激痛が走ったが、痛みを感じるということは、まだ生きているということだった。
 男の、たくましい腕に抱き締められていることに気づいて、彼女は恐々と面をあげる。
 濃緑のそれが、気遣うような光をたたえていた。
「……大丈夫か?」
 ハロルドは低く、かすれるような声でそう尋ねると、メリッサの生を確認するように、両の腕に力をこめた。
 彼自身、命の危機に晒されたというのに、その声はあたたかで、穏やかささえ感じられる。
 少女は泣きたいような、感情があふれそうな気配を察して、はい、と喉を震わせた。
「無事で、良かった」
 ハロルドは安堵をこめたように言い、メリッサの足から血が流れているのを見て、悔いるように眉をひそめた。
 ――守れなくて、すまない。
 耳元で囁かれたそれは、沈痛な響きを帯びている。
 恋人ではない男、だが、心震わすようなそれは、メリッサの胸を揺らした。
「怪我人を助けないとな……」
 ハロルドはゆらりと身を起こすと、ふらふらとおぼつかない足取りで、暴れ馬に撥ね飛ばされた通行人を助けようと、血の気の失せた顔色で歩き出す。
 その額から、赤髪と同じく赤いものが伝うのを見て、メリッサは口元に手をあて、「ひぃ……っ!」と顔をひきつらせた。
「血が……手当て、手当てしないと……」
 慌てるメリッサを目で制し、ハロルドは「俺は、平気だ。まずは、怪我人を助けないと」と毅然とした声音で言うと、ついで、ありがとう、と頬を緩めた。
 騎士の背中が遠ざかる。
 メリッサは、必死に涙をこらえた。
 額から、鮮血をしたたらせ、一歩、歩くごとに地面に赤い粒を散らせながらも、ハロルドは歩みを止めない。
 歩くだけでも辛いだろうに、男は己自身の怪我を省みることなく、わらわらと飛び出してきた野次馬たちに的確な指示を出し、応急措置を施した怪我人を、病院へと運ばせ、騎士団への伝令を走らせ、最早、助かる見込みのない暴れ馬の息の根を、これ以上、無為に苦しまないよう、慈悲をもって終わらせてやる。
 剣を抜く瞬間、小さく、救えなくて、すまないな、と詫びながら。
 自身、軽傷とは言えぬ怪我を負いながら、ハロルドは弱音ひとつ吐かず、淡々と己の職務を遂行していった。
 己以外の怪我人を優先し、自分自身の怪我には、ただの一言も触れなかった。
 現場が一応の落ち着きを見せて、ハロルドの指示がなくても回るようになり、黒翼騎士団から救援がよこされたところで、役目を終えたハロルドは、さながら、糸の切れた人形のように、静かに倒れこんだ。
「……う」
 メリッサは動かぬ足を引きずり、半ば這うようにしながら、ハロルドのそばに近寄ると、庇うように、その身体を抱いた。
 騎士は瞼を閉ざし、青い顔で浅い息を吐いている。
 その頬に、ぽたぽたと透明な滴がふった。
 痛くて、切なくて、くるおしくて、メリッサの喉から嗚咽がもれた。


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