BACK NEXT TOP


五章 父と子と娘 13


 連日、降り続いた雨のあと、今日は雲間から光さすような空模様であった。
 屋敷からも、人々の記憶からも、未来永劫、消えぬ悲劇を嘆くように、夜毎、降り続いていた雨が止み、厚い雲の間から差す、光の帯に、セラは翠の双眸を緩めた。
 雲間の光は、七色に変化し、帯のように揺らめいて、地上と天を繋ぐ道のようだ。
 少女の細腕が、カーテンを引き、窓を開け放つと、ひやりと肌をなぜるような、けども、雨上がりの清涼な風が流れ込んでくる。窓辺にまで張り出した杏の木、雨を浴び、いきいきとした緑の葉に、朝露がみずみずしさを添える。
 枝に張った、さながら、繊細なレースのような蜘蛛の巣には、雫が連なり、水晶のように輝いていた。
 爽やかな空気を、肺いっぱいに吸い込んで、んー、と小さく伸びをしてから、外を眺めていたセラは部屋の中を振り返った。
 そうして、揺り椅子に腰かけた背中に向かって、笑顔で話しかける。
「この数日、雨が多かったですけれど、ようやく晴れましたね」
「……」
「こちらにいらしゃって、外の空気を吸われませんか?少し冷えますけど、気持ちいいですよ」
「……」
「ほら、雲間から光が差して……とっても綺麗」
「ウォルターさん?」
 彼女の再三の語りかけにも、揺り椅子の背中は応じず、薄茶の頭は動かない。
 ただ、ひたすら無言を貫く揺り椅子の主は、その声を無視するように、セラに背中を向け続けたまま。
 少女の存在を、さながら空気のように扱い、その虚ろな目線は、じっと、何もない一点を見つめている。
 ウォルターの薄緑の瞳が見ているのは、はたして゛現在゛であろうか、それとも、狂気と孤独の中で非業の死を遂げた、亡き妻の幻であろうか――。
 いずれにせよ、閉ざされた過去に囚われた男の心に、息子であるルーファスの入る余地はないように、傍目には映った。
 ただ一人の子息・ルーファスは言うに及ばず、エドウィン公爵家に縁ある者たちの誰しも諦めかけていたし、男の主治医であるアンダーソンですらも、主人の心が戻ってくることを、完全には信じきれていないようだった。
 長年、苦楽を共にしたスティーブですら、例外ではないだろう。けれども、無視された形になったセラは、機嫌を損ねることもなく、辛抱強く語りかける。
「ウォルターさん、今朝も聖堂に行かれたのですか?」
 雨の日も風の日も嵐の夜も、その祈りは絶えることなく。
「……」
 返事はない。
 そもそも、彼女の声が届いているかさえも、定かではない。だが、少女は相手の反応のなさを意に介した様子もなく、常と変わらぬ穏やかな語り口で言葉を紡ぐ。
「ああして、日夜、祈っていらっしゃるのですね……亡くなられた奥方様の為にですか」
 沈黙は、続く。
 揺り椅子の背中は、ウォルターは、振り向かない。
 それは、堅牢な意思によるものにも、放心の果てにあるものにも、どちらにも受け取れた。
 息子の妻である少女の声が、聴こえているのか、いないのか、それすら余人には伺いしれない。
 セラはそこで一度、唇を閉ざすと、微かに睫毛を震わせ、痩せて骨ばった背中を見つめた。
 ――幼い少年だったルーファスも、あの蒼い瞳で、このように父の背中を見つめたことがあっただろうか。己を見て欲しいのだと、愛を乞うたことがあっただろうか。……わからない。
 そうして、唇を開くと、その背に酷とも言える問いを投げ掛けた。
「……贖罪のつもりですか?自分が誰からも忘れられた存在となることで、死した者への慰めになると」
 死なせてしまった妻への懺悔だろうか、あるいは、マリアのように運命を狂わせてしまった者たちへの、償いのつもりであろうか。
 いずれにせよ、罪を忘れないということは、我が身に杭を突き立てるにも似た苦行であろう。
 しかし、意志があるのかないのか、ウォルターは定まらぬ視線を、虚空に向けている。
 罪に酔うような男の気持ちが、手に取るようにわかり、セラは苦笑じみて口元をゆるめた。
 ――まるで、己が鏡を見つめているようだ。
 何故なら、彼女もまた罪を背負う、咎人であったからだ。
 解呪の魔女、英雄王の系譜、呪われた刻印を受け継いだ者……災いの娘、不幸を招く者、その罪は未来永劫、きっと許されない。
 比べるものではないとはいえ、そういう意味では、自分は、妻を救えなかったウォルターよりも、ずっと罪深い存在だ。
 そう、自覚したうえで、セラは揺らがぬ背中に、再び、尋ねた。
 残酷であることを、承知のうえで。
「それが、貴方の償いの仕方なのですか?あの人が、ルーファスが、それを望むと?」
 心を閉ざし、妻と同じ境遇になることは、真の贖罪とはなり得ぬだろうと。
 反応は、なかった。
 セラは責めることなく、儚く微笑い、歩を進め、バルコニーの側へと歩み寄った。
 日除けの鎧戸を開き、純白のバルコニーへと身を乗り出す。
 眼下に、どこまでも広がる緑と、豊かな水をたたえた湖、赤い屋根の集落、牛やアヒルの世話をする人々の姿が、まるで豆粒のように見えた。
 風が白いリボンをさらい、亜麻色の髪を遊ばせる。
 柵に手をかけ、セラは息を吐くと、穏やかな面で空を仰いだ。
 雲の切れ間から、清冽な光さす、翠の瞳が透けるようなきらめきを宿す。
 ひかりふる。
 雨上がりの虹、例えうるなら、祝福のようなそれ。
 (ああ、綺麗……)
 柵を掴んでいた彼女の手に、力がこもる。
 白い鳥が、枝から飛び立っていった。
 雲の彼方へ、天に向かって。
 もしも、自分に翼があれば、あの雲間のひかりに、この手を伸ばすことが叶うだろうか――。
 一瞬、その華奢な身体が、宙に浮きかけた。
「止めろ……!リディア、いや、違う……止めてくれっ!」
 悲鳴にも似た怒号と同時に、バルコニーの柵から身を乗り出しかけていたセラは、腰を引かれ、部屋の方へと引き戻される。
 力強い、痩せても、筋肉のついた男の腕だった。
 いつかを想うが、ルーファス、その人ではない。
 眼をしぱたたかせながら、セラが後ろを振り返ると、自分を抱き寄せたウォルターが、はあはあと荒々しい息を吐いて、蒼白な顔をしていた。
 定まらぬ呼吸は、焦りに寄るものだろう。
 何て馬鹿な真似を、とウォルターの薄緑の眼が、セラを睨んだ。
 男の目には、驚いたように口を開けた少女の姿が、刹那、若かりし頃のリディアと重なる。
 黒髪、亜麻色の髪、蒼と翠の双眸。面立ちは、似ても似つかぬというのに。
 (ウォルターさま……)
 こめかみが、鈍く痛んだ。
 幻は消え、あとには、不安そうな目をしたな頼りなげな少女が、一人、立ちすんでいるだけだった。
 それでもなお、ウォルターは息を詰め、食い入るように見つめてしまう。けれど、それも一瞬のことだった。
 息子のように、射抜くような鋭さはないが、その眼は先程までの虚ろさはなく、確かな理性を宿している。
 何度か肩を上下させたあと、落ち着きを取り戻したそれは、狂気とは無縁のもののようだった。
 その姿は、最初にウォルターから受けた、魂をなくした人形のような印象とは全く異なる。穏やかで、聡明そうな眼差しをした、紳士に見えた。
 セラが部屋の中に戻ったのを見届けて、ウォルターは厳しい目をし、憂いを帯びた声で諭す。
「……危ういことを。貴女がそんな真似をしたら、あの子は、ルーファスはどうなるのです?」
 責め立てる風ではなかったが、思わぬウォルターの声の強さに、セラは小さく身をすくめ、ごめんなさい、と真摯に詫びた。
 試すつもりはなかったが、結果として、そうなってしまったことを悔いる。
 自分でも、随分、危うい真似をしたものだと思う。
「ごめんなさい。飛び降りる気はなかったんですけど、どうしても、ウォルターさんにこっちを見て欲しくて……」
 それを聞いたウォルターは眉を曇らせ、深く嘆息した。
 柳眉をひそめた横顔は、息子とよく似ている。
 怒りとは違うが、自身が心臓が止まるような思いを味あわされたことよりも、我が子であるルーファスのことを想い、ウォルターは複雑なものを感じているようだった。
 首を左右に振り、男なりに葛藤はあるのだろう。
 迷いながらも、口を開いた。
「貴女の身に何かあったら、ルーファスはきっと、心の底から悲嘆に暮れるでしょう。あの子のことを愛してくれているならば、どうか、御身、大切に」
 息子はきっと、アレン殿下と同じく、貴女のことを己自身よりも遥かに、大切に思っているのですから。
 続けられたウォルターの台詞に、セラは両手をつき、床に座り込むような姿勢のまま、大きな瞳を見開いて、なぜ、と声を絞り出した。
 なぜ、そんな風に思うのですか、と。
 首をかしげた少女に、ウォルターは寂しげに微笑し、
「あの子を、ルーファスが貴女を見る目を見ていれば、わかります。誰よりも、愛しいものを、見る目をしていた」
と、語る。
 昔から、一度、心を許した相手には、とことん情を注ぐ子でしたから。
 ルーファスのことを信じないわけではないのだが、ウォルターの言うことが、いまいちピンとこず、セラは「そう、でしょうか?」と自信なさげに言う。
 彼が、大切に、勿体ないほど、優しく、細やかな気配りをもって接してくれていることに、疑いの余地はない。冷ややかな言動を取っても、厳しい現実を突きつけても、それはいつも彼女の為だったし、時に、自分が傷つこうとも、盾となり、セラのことを守ってくれた。
 氷とうたわれる青年は、率先して憎まれ役を買って出ていても、その裏には、揺らがぬ優しさがあった。
 どんなにわかりにくくても、感謝の気持ちを忘れたことは、決してない。だけれども、セラは思うのだ。
 美貌と才覚を有するルーファスの周りには、男女問わず、大勢の者たちが集まってくる。悪名はあっても、その強い忠誠心や、天与の才を愛する者も多い。ルーファスが、与えてくれたものに、報いることが出来るのか、自信がなく、セラは面を伏せた。
 不安がる亜麻色の髪の娘に、ルーファスの父、先代の公爵にあたる男は、痛ましげな目を向け、苦しげに唇を噛んだ。
 マリアが、と痛みを内包した、辛そうな声がこぼれる。
 え、とセラが、弾かれたように顔をあげる。
 知っているのですね、とウォルターのその目が語っていた。
「マリアが、自ら命を絶ったその日から、あの子は心から笑わなくなりました……ただの一度も」
「な……っ」
 セラは絶句し、呆然とあえいだ。
 突きつけられた現実に、心が着いていかない。
 ウォルターは、今、何と言った?
 マリアが自ら命を絶った……と?
 驚愕に言葉を失ったセラに、ウォルターは言葉を抑え、感情を押し殺し、淡々と言葉を重ねた。
 平民の女中による貴族の奥方の殺害は、本来であれば、問答無用で、死罪を命ぜられる。
 平民による、貴人殺し。
 それは、拷問で地獄の責め苦を味わった末に、絞首刑にされた挙げ句、その死体は晒し者になり、犬に食われる程の重罪だ。
 しかし、嫉妬にかられ、リディアを殺めたマリアはそうはならなかった。
 建国の祖・英雄王の右腕であったという、初代・エドウィン公爵。
 名門に相応しからぬ、血にまみれた醜聞を、公爵家の親類たちは白日のもとに曝すことを厭い、事件は秘密裡に処理され、リディアは病死として葬られた。
 マリアは鞭打ち千回の末に、片腕を落とされ、実家に戻されたが、罪の意識に苛まれてか、自ら命を絶ったのだと、風の噂で聞いた。
 (ごめんなさい……坊っちゃま、約束を守れなくて、ごめんなさい……)
 マリアには、不憫なことをしました。妻を殺めた当事者であるにも関わらず、マリアのことを語る時、ウォルターの言葉に、深い嘆きはあっても、憎しみはなかった。ただ、やりきれない空虚さだけがあった。
 ああ、とセラは苦しみに満ちた息を吐く。だから、あの人は――。
「……いつも、苦しそうな目をしているの」
 泣くのを忘れた子供のように、凍てついた表情の下に、悲嘆すら圧し殺して。
「ええ、貴女だけでしょう。あの子の心を、癒してくれたのは……」
 まるで、己にはルーファスと接する資格がないという風に、ウォルターは寂しげにうなずいた。
 息子と心を通わすことを、諦めてしまったかのように見える男に、セラは首を傾け、どうして、と不思議そうに問う。
「どうして、そんな風に思うんです?ウォルターさん……貴方の心は、過去に取り残されてなんかいない、゛今゛を生きているのに」
 他の方は気づいていないみたいですけど、と続けた彼女に、ウォルターはバツが悪そうに、目を伏せがちなり、決して、嘘を吐くつもりも、騙すつもりはなかったのですよ、と弁解した。
「妻を、リディアを喪ってから、半年ほどの記憶は、殆どありません……昼夜を問わず、リディアの幻を見て、彼女が戻ってきたことに歓喜し、そのあとは必ず、死にも等しい絶望を覚えました」
 半ば狂気の最中にいたのだろう、とウォルターは否定しなかった。
 自らが目にした惨劇に、狂おしいほど愛した妻を永遠に喪った現実に、精神がついていかなかった。
 親としてはありえぬことながら、幼い息子のルーファスが受けた衝撃を気遣うだけの正気が、当時のウォルターには残されていなかったのだと。
「ニ、三年ほども、発作や幻影に悩まされていたでしょうか……近しい者たちも距離をおいて、気がつけば、ルーファスは立派に当主の役割を果たし、私はグレッグと共に、アンラッセルへと旅立ちました」
「……どうして、周りの人と話さなかったんですか?」
 ルーファスは、貴方のことを待っていたのに……。
 そう口を挟んだセラに、ウォルターは応えた。私が赦されざる、罪人だからですよ。
「私のせいで、リディアもマリアも……関わった者たちを、皆、不幸にしてしまった……あの子にも、可哀想な事をしました。そんな私が、どうしたら、何事もなかったように普通に生きることができます」
 もう一度、ルーファスと向き合うことは出来ないのですか、祈るようなセラの言葉に、ウォルターは「貴女は、やさしいひとですね」と、淡く、消えるような笑顔を浮かべ、静かに首を横にふる。
 どこか、自嘲をこめたそれは、向き合う彼女の胸を抉った。
 私とリディアの子として生まれたばかりに、ルーファスには、辛い思いばかりをさせました。――愛したことは、罪ではなかったのに。
「愚かで矮小な私は、あの子の父親である資格がないのですよ。あの子が必死にすがる手を伸ばしてきた時、私は卑怯にも逃げ、息子の小さな手を振り払ってしまったのです」
「……逃げた?何からです?」
 怖かったのです、とウォルターは言う。
「私を見る、幼い息子の蒼い瞳が、リディアと瓜二つで、救えなかった妻の家族をも、罪人たる私を責め立てているようでした。なぜ見殺しにした、助けてくれなかったのかと、裏切り者と……」
 頭を抱え、ウォルターは目を閉じた。
 罪悪感が見せた、ただの幻であることは、彼自身、よくわかっていた。
「ちちうえ」
 すがるように、自分に手を伸ばしてくる黒髪の幼子。
 死んだ妻と同じ蒼い瞳、亡国の貴色……。
 母親を喪ったばかりのあの子は、ただ、父親を、家族のぬくもりを求めていただけなのだ。それなのに、ウォルターはあの蒼い瞳が、自分を責め立てるようなソレが怖くなって、逃げた。
 その小さな手をはねのけて、そんな男に父親を名乗る資格はないし、ルーファスも許さないだろう。
「ウォルターさん……」
 男の名を呼ぶ、セラの声はかすれていた。
「ルーファスは、愚かな私よりもずっと、公爵の地位に相応しい男になりました。あの子の人生に、私はいない方がいいのです」
 悲壮な決意を込めた、ウォルターのそれに、男の殉教者のような痩せた横顔に、セラは何とも言えぬ切ない気持ちになった。
 自覚はなくても、ある部分で、この父親と息子は、よく似ているのだ。
 どちらも、己を圧し殺すことでしか、愛を示せないのだ……。
 その不器用さが哀しく、いとおしかった。
 セラは、ウォルターに手を差し伸べ、凍えた男の手を取ると、「そんな風に、自分で道を閉ざさないでください」と、語りかけた。
「あの人は、多分、一人で生きていくことも出来た。何もかも捨ててしまうことも……」
 エドウィン公爵家の名によらず、生きていく道も、ルーファスは選べただろう。
 忌まわしい過去を捨て去り、父や領地のことを放り出し、自由に生きていくことだって、不可能ではなかったはずだ。だが、彼はそうはしなかった。
 父親を追い落とした男という、悪名を背負っても、アンラッセルの地でのウォルターの平穏な生活を守ったのは、息子である彼だった。
 肉親の情だけでは、語りきれまい。
 きっと、セラが思う以上に、そこには深い溝があるのだろう。だが、それでも。
 大丈夫ですよ、と柔らかな翠を細めて、少女は微笑いかけた。
 うつむいて、震えた肩。
 痩せた男の背に、あたたかな手のひらをのせる。
「ルーファスは、本当の意味で、人を許せる人ですから」
 あたしとは違って、という言葉を喉の奥で飲み込んで、セラは瞼を伏せた。



 聖堂には、神聖さを孕んだ、静謐な空気が立ち込めていた。
 天窓からふる、まひるの星のような光が、純白の女神の像を、明るく照らしている。
 やわらかな光を受けた女神の象は、何もかも許すような柔和な表情をしており、罪在るものは誰しも、その嬰児を守る母のような眼差しと、海よりも広い寛容さに、慈悲を乞い、跪いて、許しを請いたくなるであろう。
 祭壇の奥には、女神女神降臨の図を描いた、精緻なステンドグラスがある。
 三面の右に朝焼けの空、左に夕焼け、中央に月と星の降る夜。
 中心には、月桂樹の冠を被った麗しの女神と、その足元に口づけるベール姿の妊婦。裁きと同時に、この世のあまねく罪びとの許しを司る女神は、片手に天秤を持ち、もう片方の手を若い母の胎へと添えている。産まれてくるいとし子に、裁きを、許しを、女神の加護を、何よりも得がたき祝福を。――いとしきものに、幸あらん。
 ステンドグラスを透けたやわい光を浴びながら、セラは祭壇の女神象の前に膝を折り、目を閉じ、祈りを捧げた。言葉もなく、静かに。
 全ての罪を浄化し、祝福をもたらすという慈悲の女神よ、魔女と呼ばれる我が身が、いまだ祈ることが許されるならば、どうか、どうか――
 ぎぃ、と聖堂の扉が開いた。
 床に影が躍り、靴音が近づいてくる。
「こんな場所にいたのか……セラ」
 男の声に、祈りを捧げていた少女は面を上げ、ゆるりとした動作で振り返る。
 彼女の目に、聖堂の中央に立ち、腕組みをしたルーファスの姿が映る。
 黒髪の青年は、探した、と淡々とした声音で告げた。
 セラは祈りの姿勢を崩さぬまま、小さく息を吐くと、ルーファス、と幾度となく紡ぎ、唇と耳に馴染んだ、男の名を呼んだ。
「何だ?」
「さっきね、ウォルターさんとお話しさせてもらったの。昔の事も、今の事も」
「……そうか」
 セラの勝手さに腹を立ててか、ルーファスは端整な面を歪めた。
 あの男と話すなど、愚の骨頂、無駄の代名詞だと思うがな、そう切り捨てる青年の口調は、苦々しく、だが、それだけではないものがあるようにも、彼女には感じられた。
 そんな青年の複雑な葛藤を見通したように、セラは組んだ手をほどくと、ルーファスを正面から見つめ、吐息がかかるほどの距離で告げる。
 息が。
 聖堂という場所のせいか、魔女であるはずの娘の唇の動きが、まるで巫女の神託を思わせた。
「あの人は、貴方のことを愛しているよ。ルーファス、貴方の望む形ではないかもしれないけど」
「――――――――黙れッ!!!」
 普段の冷静さをかなぐり捨てて、ルーファスは荒々しく怒鳴った。
 セラの肩に腕を伸ばすと、其処が清浄なる場所であることも忘れて、その華奢な身体を組み敷いた。亜麻色の髪が乱れ、床に広がったドレスの下、パニエがめくれ髄が見えた。
 互いの息がかからずにいられない距離で、向き合い、見つめ合う。けれども、そこに恋人らしい空気は微塵もなく、喰うか、喰われるか、特に男の目には、獣のような激しさがあった。
 一方、少女は嘘のような凪いだ風情で、焔のような蒼い双眸を受け止め、その奥にひそむものを、見定めようとしているようだった。
 激しく、荒々しく、揺らめく感情の炎、その奥にある゛何か゛を。
 低く唸るような声を出し、ルーファスはセラを睨んだ。
「貴女に、俺とあの男の何がわかるというんだ?……あの男に何を吹き込まれたのかしらんが、覚えておくといい、俺は、生涯、もう二度と、あの男を信じない」
 刃を突きつけるにも似たそれは、身震いを覚えるほどに、鋭く、また激しい。
 荒々しく、父を非難する青年のそれが、セラの耳にはなぜだか、悲鳴のようにも聞こえた。愛を乞い、唯の一度として、報われることのなかった少年時代。さびしそうな目をした子供と、今、眼前で険しい顔をしたルーファスの姿が、瞼の裏で、重なる。スティーブが、言っていた。泣くことを忘れた子供は、仮面をかぶって大人になった。
 届くことがない祈りが虚しいように、ぬぐうものがいない涙もまた、哀しいものだ。母を喪い、父が去り、マリアが居なくなり、少年はきっと、泣くことを諦めてしまった。
 セラは胸にこみ上げてくるものを耐えて、男の首に手を回すと、頭を抱いて、しろい手で、絹糸のような黒髪を撫ぜた。
「そう?だって、人は憎いだけのものを、ずっと抱えて、守っていくことは出来ないよ。貴族たちの心ない陰口から遠ざけて、この地で平穏な生活を送らせること……それが、お父様への復讐なの?ルーファス、貴方は、そういう人じゃないでしょう」
「勝手なことばかり、言うな!何も見ていないくせに、母の惨い死に様を、放心の父を詰る親族どもの醜さを、何も見てない輩が、知ったような口を利くな。耳障りだ!」
「ルーファス」
「……忠告は、一度だけだ。黙れ」
 黙れ、と怒声を浴びせかけられも、セラは怯まなかった。
 男を抱く手に力を籠め、しろい手の持ち主は、「知らないけど、わかるよ」と柔らかな声で言う。
 おかしいのだ。どんなに厳しい言葉を投げかけられても、傷つくことなく、胸にぬくもりが宿る。氷の公爵と呼ばれる青年の、凍れる心、その奥にある柔らかなものに、ようやく、ほんの少しだけ触れられたからだろうか。
「――貴方は、ずっと、泣いても良かったんだよ。ルーファス」
 ルーファス。
 それは、母が一度として呼ぶことがなかった、己の名だった。アルファスではなく。
 厭わしいだけだった、蒼い瞳を見て、セラは優しく微笑う。貴方の瞳は、とっても綺麗……海よりも、空よりも。輝石よりも、もっと。
 父を無いものとして扱い、公爵家の当主として、権力を握ることで、煩わしい親族を黙らせることが出来た。
 あの男を、許してはいけなかった。憎むことで、平穏は保たれた。
 許しても、良かったのだろうか。許されても、よかったのだろうか――
 ルーファスの肩から、力が抜けた。今にはいない誰かにか、男は問う。
「父も母も、憐れで、可哀想な人たちだった。マリアは俺のせいで、死んだ……許しても、よかったのか」
 セラはうなずく代わりに、男の手に己の手を重ねた。
 その手に、ぽたりと雫が落ち、ルーファスは少女の顔を見やる。涙が、もう一滴。
 はらはらと音もなく、セラは泣いていた。しゃくりあげることも、涙をぬぐうこともなく、透明なそれが、頬を伝うがまま。唇は、微笑するようであるというのに。
 声もなく泣く娘を、青年は不思議な感慨をもって、見つめていた。己の不幸を嘆くでもなく、他人の死を悼むでもなく、こうも静かに涙を流す人間が、この世にいるとは思わなかった。
「なぜ、泣く?」
「わからないの。泣くときは、いつもそう、自然に涙が零れてしまう……ルーファス、貴方は、違うの?」
「涙の流し方を、忘れたな。俺が泣かなくてもいいだろう、貴女の顔を見たら、もう気が済んだ」
 己が為に流す涙よりも、想う人が己の為に流すそれは、希少なものにも思えるのだ。
 十年以上に渡り、悩まされてきた悪夢が、今日で消え去るとは思えない。ルーファスが両親の悲劇を、マリアへの悔いを忘れることはないし、生涯、その胸から離れることはあるまい。
 しかし、それでも、心を蝕み続けていた暗い影が、やわらいだのは事実だ。
 彼が顔を上げると、セラは涙を止める方法を忘れたかのように、最早、落ち着いているにも関わらず、その瞳は潤んでいる。本人も困っているらしく、頬に手をあてるが、一向に止まらない。
 はずかしげに頬を染める様が、微笑ましく、ルーファスの口元が、微かに緩んだ。
 潤み、一心にこちらを見つめる翠に、引き寄せられる。
「……触れても?」
 耳朶に囁くと、返事がないのを了承と取り、ルーファスは身をかがめると、潤んだ目元に唇を寄せた。
 吸い上げた涙は、どこか甘い。
 セラは紅い顔で、驚いたように睫毛を伏せた。
 涙でうるんだ目元に口づけ、ほのりと薄紅めいた頬に、そして、唇を重ねる。
 ついばむように角度を変え、幾度も。
 聖堂という場所だからだろうか、艶めいたものがないのが、不思議でさえある。
 ステンドグラスから散る、瞬く光、身を寄せ合う二人の姿は、さながら婚礼のようで、交わされたそれは、誓約のようだった。 


BACK NEXT TOP


Copyright(c) 2012 Mimori Asaha all rights reserved.

-Powered by HTML DWARF-