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五章 父と子と娘 14


 アンラッセルを出立する日は、いつかと同じ、青空だった。
 十日以上に及ぶ長逗留は、セラを避暑地の涼やかな気候に馴染ませ、離れ難くしていた。
 しかし、王太子の片腕という要職にあるルーファスは、そうそう、何時までも主君の側を離れているわけにはいかなかったし、公爵家の当主としても、屋敷を、そう長い期間、不在にしておくわけにもいかない。
 父の見舞いという目的を果たした今、これ以上の長居は無用だと、一昨日の晩、ルーファスはスティーブとミカエルを前に「王都に戻る、支度を」と、言葉少な告げた。
 その夜、晩餐の席で、別れを切り出したルーファスに、アンダーソン医師は、
「叶うなら、いつまでも此方にいらして欲しかったですが、若君は大切なお役目を担う方、年寄りの我が儘で、いつまでもお引き留めするわけにも、いきませんな……」
と、無花果のソースを絡めた鴨肉を、ナイフで切り分けながら、やや寂しげに微笑った。
「ええ、アンダーソン先生……思ったよりも、長く滞在してしまいましたが、明後日には此処を離れます。一応、目的は果たしましたから」
 ルーファスは、淡々と感情のこもらぬ声で応じる。父との会話が叶うなど、最初から期待していなかったとでも言いたげな青年のそれに、アンダーソンは口元をぬぐったナプキンの下で、ひそやかなため息をつく。
 エドウィン公爵家を覆う闇は、おそらく、医師が感じるよりも遥かに深い。
 少しは進展したように見えても、ルーファス坊っちゃんのお心が変わるまでには、長い長い歳月を要することだろう。
 鮮やかな真紅の絨毯、純白のテーブルクロスの上には、輝く銀の食器と、見た目も、美しく彩られた美味な料理の数々が、燭台の焔を反射し、眩くきらめいている。
 夜だというのに、煌々とした灯りで照らされた室内には、ナイフやフォークを動かす男女の影が躍り、食器の触れあう、微かな音が響いていた。
 二十人は座れようという、長テーブルに腰を下ろすのは、ルーファスと奥方であるセラ、前当主の主治医という立場から、特別に同席を許されたアンダーソン医師の三人だけだ。
 スティーブは主に命じられるまま、出立の為の荷造りを始めていたし、夕餉の給仕を手伝っているミカエルは、屋敷の女中であるエルダに乞われるまま、先程から、静々とした足取りで、料理の皿を運び、厨房とこちらをいったり来たりしている。
 一時、会話が途絶え、沈黙が落ちる。
 純銀の燭台に灯された焔がゆらめいて、ルーファスの横顔を照らした。
 端整な顔や、艶のある黒髪が、ほのかに橙の色を帯びる。
 蒼い双眸が、刹那、透けるように明るくなり、扉が開けられて、風向きが変わった次にはもう、昏く濃い藍の色へと変わっていた。
 長い指先が、ワイングラスを取り、炎酒の異名を取る強い酒を、一息に喉に流し込む。
 嚥下し、底に残った琥珀を見つめる男の眼差しに、酒精に溺れた気配はなかった。
 むしろ、よりいっそう冴え冴えとしたものを、その身体に纏っているようだ。
 ルーファスの正面、本来なら、客を迎えるべき当主の、ウォルターの席には、誰もいなかった。
 元より、夕食を共にするとは、この屋敷に仕える者たちも、想定していないのだろう。
 そこには、皿を並べる様子もなければ、ナイフやフォークの支度もない。
 紅いベルベットの背凭れ、飴色に光る立派な椅子だけが、腰掛ける者もないまま、そこに鎮座している。さながら、主人の代わりであるように。
 アンラッセルを訪れた夜より、幾度も繰り返された、光景だった。
 食事はおろか、日常さまざまな時間、廊下を歩く時でさえも、ウォルターは息子を避けているかのように、ことごとく顔を合わせようとはしない。
 どうにか会話と呼べるものをしたのは、到着したその日、貴方は誰だ、と不審げな目を向けられた、あの日だけである。
 ルーファスが痺れを切らすのも、時間の問題であっただろう。
 十日、多忙で知られる男として、精一杯の妥協といえたし、よく我慢を重ねたほうだった。ルーファスは彼自身が判断するところ、十分過ぎるほど待ったし、それに応じなかったのは、ウォルターの意志である。
 彼の関与するところではない。
 ルーファスの側としては、これ以上、己から歩み寄る必然性を感じない。
 おそらく、血縁上の父親であるあの男にしても、同じ思いなはずだ。
「ルー……」
 丁度、鴨肉の皿が下げられて、口直しの檸檬の氷菓が運ばれてきたところだった。
 ルーファスは、己の名を呼んだ少女の方へと、顔を向ける。
 身内だけの堅苦しくない席だからか、セラはふわりと裾の広がる若草色のドレスを着て、繻子のショールを羽織り、片側だけ編んだ髪に小さな白薔薇を挿していた。
 なめらかな肩、華奢な鎖骨を強調するようなそれは、セラの趣味ではなく、化粧や濃い紅も、また然り。
 想像するに、王都のメリッサに代わり、ここで働くエルダあたりが、久方ぶりの客人に張り切った末のことであろう。
 どちらかといえば、地味で控えめな装いを好む彼女であるが、若草色のそれは、少女によく似合い、肌の白さと、瑞々しさを際立たせる。
 華やかで、上品な装いは、彼の趣味にもあっていた。
 ほそりとした首筋や、なめらかな肩に、目を楽しませるのは、男としては罪ではあるまい。
 悪くない趣向だと、口にはせねど、張り切った女中の仕事ぶりを称賛しつつ、ルーファスがセラと目を合わせると、聖堂でのことを思い出してか、少女はカッと頬を赤くすると、不自然な仕草で横を向く。
 翠の瞳には、恥じらいの色が濃い。
 ちなみに、エドウィン公爵の名誉にかけて誓うならば、聖堂では抱擁と口付け以上のことはしていない。誘惑にかられなかったといえば、嘘になるが。
 セラが魔女として振る舞う時、こちらが驚くような透徹とした眼差しをしている癖に、相変わらず、ひとたび男女のこととなると、物慣れぬ風というか……怯えたような、初心な反応を見せる。まるで、狼に狙われた兎のようだ。
 何もとって食いはしない、というのに、と獣であることは否定せず、ルーファスが心中でごちても、セラは彼の視線から逃れるような素振りをみせる。
 酸味の強い檸檬の氷菓に舌鼓を打つ、隣席のアンダーソン医師が、少女のそわそわと落ち着かなげな態度に、不審の念を抱くのも、時間の問題であろう。
 (一体、何を恐れている……?)
 ふ、とルーファスの胸中に、幾度目かの疑念がよぎる。
 夫であるルーファスに限らず、その心の、深い部分に立ち入ろうとした瞬間、セラは拒絶するように、逃げ出すように、そこから遠ざかる。
 その目に寂しげなものを宿しながら、伸ばされた手を、決して取ろうとはしない。
 真実、愛されることも、愛することも、諦めているように。
「――あたしは、誰も愛せないから」
 婚儀の夜、男にかけられた呪いを、魔女として姿をさらし、嘆くでもなく、そう言った妾腹の王女。
 脳裏に、あの金色の魔術師の、呆れたような声が響く。
「君はいつまで、こんな茶番劇を続けるつもりなの。本当は、もう気がついているんでしょ?」
 肩をすくめ、憐れみにも似た顔つきで、子供のなりにはそぐわぬ、数百年の時を経たような、琥珀の瞳を、ゆぅるり猫のように細めながら。
「真実から目を背けた代償は、いずれ必ず、君自身が払うことになる」
 ラーグが背を向け、白いローブが、ひるがえる。
 歩を進めるたびに、きらきらとまばゆい光を放っているようだった。
 一度、瞬き、ルーファスは胸によぎったそれを、無理やりに打ち消した。
 繋ぐ糸。
 ラーグが再三、忠告と称して告げていた、その意味を、その答えを、彼は最早、理解しつつある。
 霧がかかったように、全てを察することは叶わぬが、おそらくは――。
 しかし、胸に抱いた想いが、ルーファスの思考を狂わせ、冷静な判断を阻んだ。
 それを認めることは、果てなく続く暗闇の中で、ようやく掴んだ手を手放す、耐え難い痛みを伴うからだ。
 欺瞞ともいえるそれを、ラーグが知れば、愚かだとと嘆くだろうか、それとも、憐れだと嗤うだろうか。
「君は、いつまで己を欺き続けるつもりなの?」
 ――貴様に言われるまでもない、魔術師よ。己の、救いがたい愚かさは、自覚している。
「あの……、ルーファス?」
 今に思考を戻すと、思い詰めたような翠の瞳が、彼を仰ぎ見ていた。
 少女の、ひどく真剣な顔つきに、ルーファスは「何だ?」と問う。
 セラは面をあげると、躊躇いがちに唇を開き、何もかも見透かすような目で、彼を見つめる。
 淡い翠の瞳にに、ひどく冷めた目をした若い男、己が映りこんでいるのを、ルーファスは無感情に受け止めた。
 本当に、
「貴方は、それでいいの?ウォルターさんと、ちゃんと話せないままで」
 憂うセラの表情も、その唇から紡がれたそれも、予想の範疇であったので、黒髪の青年は薄く口角を上げるのみに留める。
 皮肉よりも、自嘲が強いそれだった。
「ウォルターさん……か。随分と、あの男に肩入れしたものだな。立ち入ったことを聞く」
「ごめんなさい……」
 父と息子の問題に、踏み込み過ぎたと悔いるように、少女は謝り、うつむいた。
 いや、とルーファスは否定の言を吐く。
 セラの性格を思えば、父、ウォルターの境遇に、痛みにも似た想いを抱くであろうことは、わかっていた。
 所詮、他人の、しかも過去に起こったことと、そう割りきれば良いのに、この娘はまるで、自分自身が深く傷つけられたような、否、それよりも辛そうな顔をする。
 苦しいだろう、生きづらい女だと、思う。
 真摯な目で此方を見つめる少女の、ささやかな願いを知りながら、ルーファスはそれを聞き入れることはなかった。
「仕方ないだろう。結局、あの男の目に息子の姿は映らなかった、だけのこと」
「ルーファス坊ちゃん……ウォルター様は……」
 椅子から身を浮かし、庇うように声を上げたアンダーソンを、青年は目で制す。ゆらり、グラスが傾いた。
「それだけのことだ」
 ただ、それだけのことなのだと。


 出立の朝、王都へと戻るルーファスら一行を見送りに出てきた医師の隣に、ウォルターの姿はなかった。
 アンダーソンはそれを残念に思いつつも、緑の匂いをはらんで、さわさわと吹き抜ける風に、爽やかなものを感じつつ、自慢のちょび髭を撫で、若き公爵夫妻の姿に碧眼を細むる。
 蒼天、暖かな日差しの元、どこまでも広がる緑の丘と、彩りを添えるような白い花、遠く、神聖なガリレヤ峰を仰ぎながら、眼下に広がるは、田園地帯。
 絵に描かれたような、長閑で美しい風景だった。
 息を吸えば、草と木と大地の匂いがする。
 いや、それを言うならば、寄り添う公爵夫妻も又、この目映い緑と光の輪の中に溶け込んでいるようだ。
 大地を踏みしめ、背筋を伸ばし、凛と立つ、長身のルーファスの姿は逞しく、端整な横顔は男らしく、頼もしいものだった。
 幼いルーファス坊ちゃんを、母に愛されぬことに小さな胸を痛めていた、子供時代を知る医師としては、何とも感慨深いものがあった。
 青年に守られるように、その傍らに並ぶのは、優しげに微笑う、亜麻色の髪の娘。
 彼を仰ぐ、その眼差しを見れば、どのような経緯で結ばれたにしろ、ふたりの間に揺るぎない絆があるのが感じられた。
 その時、風が吹き抜けた、白い花びらが舞って。
 緑草の海の向こうに佇む、ルーファスとセラに、医師は「よかった」と声なき呟きをもらした。
 ――あの日、救えなかった幼い君が、今も独りでなくて良かったと。
「アンダーソン先生」
 ルーファスが、此方を振り返る。
 刹那、黒髪の少年の面影がよぎって、束の間の幻に、医師は右手で瞼をこすった。
 こちらに歩み寄ってきた青年と少女に、アンダーソンは笑顔で、別れを惜しむ。
「どうか、お達者で。ルーファス坊ちゃん、奥方様も。この遠きアンラッセルの地から、いつもお二人の幸せを、祈っていますよ」
 いかに名残惜しかろうと、若人には若人の歩むべき未来がある。それを、邪魔してはならないのだ。
 医師の言葉に、ルーファスは「ええ」と首を縦に振る。
「アンダーソン先生も、どうか、お元気で……父のこと、宜しくお願いします」
「はい、公爵家付きの医師としての勤めと心得ております。ウォルター様のことは、我らにお任せください」
 医師が顔を引き締めて請け負うと、ルーファスは妻である少女の手を取り、「では」と踵を返そうとする。
 セラはにこりと医師に微笑みかけると、
「お元気で。お茶、とても美味しかったです。有難うございました」と、楚々とした足取りで、青年の後を追う。
 去っていこうとする、男の背中に、医師は「ルーファス坊ちゃん…」と、呼び止めた。
 感極まったようなその声に、数歩、歩み出していたルーファスが立ち止まる。
 アンダーソンは躊躇いながら、その背に向かって、語りかけた。
「ずっと……、坊ちゃんには、謝らねばならないと思っていました。貴方の痛みを知りながら、私は何も出来なかった、すぐ側にいたのに」
 取り戻せぬ過去を悔い、アンダーソンは目を伏せた。
 許してほしいなどと、言えた立場ではない。けども、せめて、謝りたかった。
「アンダーソン先生が、気に病まれることではありません。お気になさらず」
 振り返らぬまま、応じたルーファスの声音に、責める響きはなかった。
 しかし、それが納得いかず、医師は声を張り上げる。
「ですが……!」
 ふっ、と小さく笑われたようだった。
「母の診察に来る度、俺に本を貸してくださったでしょう?子供の時、先生と話す時間だけが、唯一の救いでした」
「あれは……」
 さりげなく、それ以上の謝罪を拒むようなそれに、医師は続けるべき言葉を見失いそうになる。
 違うのだ、あれは、そんな風に感謝されるような行為ではなかった。
 母に、名を呼ばれぬ子が不憫で……だが、それ以上に、自分が診察に訪れる度、蒼い瞳を輝かせて、駆け寄ってくる幼い少年との会話が楽しかった。
 頭ほどもある本を、重そうに抱えて。
「アンダーソン先生」
「いつか、母上がお元気になられたら、父上と三人で……」
「いいえ、先生も一緒にアンラッセルに行きましょう。緑の野にシェンカの花が咲いて、美しい」
「約束ですよ」
 ――いつか、きっと、約束ですよ、アンダーソン先生。
 幼かった少年が思い描いた、ささやかな夢。
 叶わなかった、砕けてしまった、願いの欠片。
 やわらかな風が吹いて、シェンカの花びらが舞った。ひらりひらりと。
 晴天、果てなく続く緑の野に、ふる陽光があたたかく、目映く。
「許してくださるのですか、坊ちゃん……リディア様も、ウォルター様も救えなかった、こんな私を……」
「アンダーソン先生」
 医師のそれを断ち切るように、ルーファスが口を開いた。
 アンダーソンが顔をあげると、蒼い瞳と目が合う。
 若き日のウォルターに、よく似た美貌の青年は、なぐさめではない口調で言った。
「貴方のような友を持てた、あの男を、俺は羨ましく思いますよ」
「ルー……坊ちゃん……?」
「王都に戻ったら、手紙を送ります、今度はこちらから」
 年甲斐もなく視界が潤んで、医師は目頭を押さえた。
 照れ隠しに、鼻をかむフリをし、ハンカチで目元をぬぐう。
 年を重ねたからだろうか、最近、涙もろくなっていけない。
「――あっ!」
 その瞬間、セラが何かに気づいたように高い声をあげ、ルーファスの袖をひくと、興奮したように頬を赤くしながら、「あそこ、あそこに居るのは、もしかして……」と前方を指差すと、ドレスをひきずるのも構わず、青年の腕を掴んで、勢いよく駆け出そうとした。
「いきなり、何だ……?」
「お願い、一緒に来て。ルーファス」
 めずらしく、虚を突かれたようなルーファスだったが、セラの必死さと、懇願に心を動かされてだろう。
 ちらりとアンダーソンの方を、見やる。
 そこにある迷いを察し、アンダーソンはそっと、促すように、その背を押した。
「いってらっしゃい、ルーファス坊ちゃん……奥方様とご一緒なら、悪いようにはなりません。絶対に」
 離さないとばかりに、ぎゅうと腕を引っ張るセラに、力では簡単に振りほどけるルーファスは、嘆息する。
 結局、走り出した少女に付き合うように、彼も又、前へと歩いていった。
 それを見送るアンダーソンの碧眼には、青年と少女が進んでいく場所に、木の影にひっそりと佇むウォルターの痩身が映っている。
 ……父と息子、揃って、世話のかかることだと、医師はやわく苦笑した。
 それは、どちらかといえば、幸せなそれであったのだけど。
「アンダーソン先生、どうかなさったのですか?」
 見送りに出ていた女中のエルダが、不思議そうに、医師の顔をのぞきこむ。
 いいや、とアンダーソンはゆるり、首を振り、
「今日は、良い陽気だと思ってね。いや、本当に良い日だ」
と、幸福な吐息を、こぼしたのだった。

「早く、ルーファス、早く……!」
「そんなに急ぐと、゛貴女は゛転ぶぞ。セラ」
 急かすように腕を引っ張る少女に、ルーファスはそう、忠告する。
 案の定、「きゃあっ!」と悲鳴を上げ、高い靴に足をもつれさせた彼女を、半ば呆れながらも、腰を抱いて支えてやった。
 やれやれと思いつつ、セラを助けた彼が顔をあげると、じっと、こちらを見る薄緑の瞳に気付く。
 静かな目をしていた。
 息子と少女を見つめる、ウォルターの眼差しは、幼い日と同じ、少し困ったような、どう接するべきか図りかねているような、だが、穏やかに、見守るようなそれだった。
 思い起こせば、父はいつも、あのような目をして、我が子を見ていたのだろう。
 緩く目を細め、歩み寄りたいと、心の奥で願いながら。
 視線が交わる。
 ルーファスの蒼い瞳を見つめても、ウォルターは何時かのように、視線を逸らさなかった。
 声はなく、唇が動く。
「幸せに。私の分も、リディアの分も」
 視線が交わったのは、ほんの一瞬だった。けども、それで十分、事足りた。
 ウォルターはもう一度だけ、いとおしむように、息子と少女の姿を目に焼きつけると、ゆっくりと背を向け、花咲ける丘の方へと歩いていった。
「ルーファス」
 仰ぎ見てくる、翠の瞳。
 伸ばされた柔らかな手を握り、黒髪の青年は、うなずいた。
「ああ」
 愛されなかったのは、愛せなかったのは、不幸だった。だが、きっと、最初から憎くはなかったのだ。

「旦那様――!」
 馬車の前で、主人夫婦を待っていたミカエルは、主人であるルーファスの姿を認めるなり、弾かれたように顔を上げた。
 共にいた執事のスティーブは、御者と何事かを、熱心に話し込んでいる。
「待たせたな」
 ルーファスはひょいと、まるで羽のように重さなどないのかの如くセラを抱え上げると、馬車に乗せようとする。
 前触れもなく、すっと抱き上げられて、急に目線が高くなった亜麻色の髪の少女は、「わわわ……っ!」と大きな瞳を、こぼれ落ちそうに見開いた。
 落ちたくなければ、しっかり掴まっていろ。そう続けたルーファスの声は、笑っているようで、セラは頬をふくらませる。
 しかし、残り少ないアンラッセルでの時間を惜しんでか、その美しい風景を、しかと記憶に留めよう、くるり首を回した。
 吹く風は優しく、目を閉じると、花の香りが薫って。
「もう少しだけ、此処に居たかったわ。風も人も、みな優しくって」
 ウォルターさんも、アンダーソン先生も、エルダも皆、別れがたい人たちだった。
 王都に残してきた人々は恋しくとも、緑あふるる、アンラッセルの景色もまた別れ難く感じる。
「また来ればいいだろう。貴女は、気に入られたようだしな。連れてきてやる」
 何時でも、耳元に言葉を落としたルーファスに、セラは「うん……」と返事をしながらも、多分、次の機会はないだろう、と思った。
 おそらく、再び、ルーファス達と共に、アンラッセルを訪ねることは叶うまい。
 自分に残された時間は、あと、どれ位であろうか?
 袖に隠された左手には、呪いの刻印、黒い鎖が絡まっている。さながら、咎人を逃がさぬと、縛りつけるように。
 肌に刻まれたそれが、薄れることは決してなく、むしろ、日々、黒く淀んでいっては、宿主であるセラを苦しめ、その心と身体、魂までも蝕み、いずれ、そう遠くない日に、食らいつくされるのだ。
 血と魂に刻まれた゛魔女゛の呪い、それは毒のように、彼女の命を削っていく。だから。
「……セラ」
 ルーファスの声に、セラは哀しみを隠すように、ふわりと柔らかく微笑う。
 大切だと、貴方に伝えられたら良かった。
 何度でも、声が枯れるまで、貴方の名前を呼びたかった。
 もし、それが叶わなくても、最後の鐘が鳴るまで、優しい貴方を茨の棘から遠ざけて、欺き続けよう。
 その゛時゛が来るまで。
「何でもないの、ほんと良い風だなぁ、って思って」

 馬車の車窓から、遠ざかるアンラッセルの地と、小さくなっていく屋敷、見えなくなるまで手を振ってくれるアンダーソンやエルダの姿を、深く目に焼き付け、セラは目をつぶった。
 ウォルターは、あの狂おしく哀しい人は、今も、喪った愛しい人の為に、静謐なる女神の聖堂で、終わることなき祈りを捧げているのだろうか――。


 王都へと戻り、ルーファスら一行を乗せた紋章入りの馬車が、エドウィン公爵家の門前に帰り着くと、その車輪の音や、馬の嘶きを聞きつけてか、女中頭のソフィーやメリッサが、わらわらと出迎えに出てくる。
 中でも、真っ先に扉から飛び出してきたのは、メリッサだ。陽光に映える明るい金髪が、ぴょこぴょこと不自然に跳ねながら、馬車へと歩み寄ってくる。
 女中の少女の足には、ぐるぐると念入りに、白い包帯が巻かれていた。怪我をしているのだろう。
 何重にも巻かれたそれに、痛ましさを覚える。
 主人であるルーファスや、女主人であるセラに向ける笑みは、いつも通りであるが、その動きはといえば、痛めた足を庇うように、どこか辛そうだった。
 メリッサの顔を見て、懐かしさに唇をほころばせたセラだったが、足に巻かれた包帯を目に留めるなり、口元に手をあて、くしゃりと顔を歪めた。
 ほんの瞬く間に、すうと血の気が失せ、唇が震える。その変化は顕著過ぎて、傍にいたルーファスも「セラ……?」と、怪訝そうに眉を顰めるほどだった。
 それは、泣き顔よりも、むしろ、絶望というものによく似ている。
 足掻きようのない未来を突きつけられた時、人はそのような顔をするのかもしれない。
「メリッサ……」
 止めようと伸ばされた青年の手をすり抜けて、セラはふらついた足で、馬車の扉から飛び降りた。
 そのまま、泣きそうな顔をして、メリッサに駆け寄り、包帯を巻かれた足を前に、何とも言えぬ目で立ちすくむ。
「セ……奥方様?」
 どうかなさったのですか、と気遣うメリッサの声に、案ずるように此方を見る碧い瞳に、セラはきつく唇を噛みしめて、その胸に顔を埋めると、すがりつくように抱きしめた。
 女主人の立場にある人に、ふいに抱きしめられた女中の少女は、様子のおかしいセラを心配そうに見つつ、「奥方……さま」と、不思議がるような声を上げた。
 それでも、背中に回された腕の力は、緩まない。
 母にすがりつく子のように、溺れた者が木の板を離さぬように、セラは声を押し殺しながら、メリッサの胸へと顔をうずめた。
「ごめんなさい」
「あの、」
「ごめんなさい、メリッサ。ごめんなさい」
 どうしたものかと途方に暮れるメリッサや、難しい顔で腕組みをするルーファス、唖然とするミカエルやソフィー達に、気を使うような、気持ちの余裕すらなくして、セラは唯、それしか知らぬ子供のような頼りなさで、ごめんなさい、と呟き続けた。


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