――フィネル=オルソーの隠れ屋は、王城の地下にある。
建国の祖・英雄王オーウェンによって築城された、エスティア王城は、贅を尽くした外見の優美さもさることながら、内側にも、数多くの仕掛けを施している。
宮殿ゆえに、乱世に建てられた要塞とは、比べるべくもないが、地下には、王族や極々一部の限られた者しか把握せぬ、脱出用の隠し通路やら、表に出せぬ者を葬った地下霊廟、又、幾つもの隠し部屋が存在する。
フィネル=オルソーと呼ばれる魔術師、代々、その名を引き継いできた゛一族の末裔゛もまた、王城の地下、秘匿された一室に住んでいた。
ちりり、と蝋燭が燃ゆる音、蜜蝋が溶ける臭いに、フィネル=オルソーは、羊皮紙に伏せていた面を、のっそりとした動作で起こした。
齢、四十半ばといったところであろうか。適当に鋏を入れたらしく、パサパサと乱れた鈍色の髪、地下で一日の大半過ごすためか青白い肌、茶のローブからのぞく手足は、痩せていて、貧相だ。
しょぼしょぼと落ち窪んだグレイの瞳といい、冴えない中年男といった風体だが、男は、最早、この魔女に呪われた国でも数少ない、正統なる魔術師の生き残りであった。
その男、フィネルは、ちらりと焔の勢いが弱くなった蝋燭をみやると、溜め息をついて、手のひらをかざした。
すると、途端に弱まっていた小さな炎が、煌々と燃ゆる炎へと変わる。
魔術の初歩の初歩だ。力を失いつつある一族の末裔とはいえ、これぐらいのことは出来る。
彼が蝋燭に手をかざした拍子に、蝋燭の焔で、橙に染まった羊皮紙に、ぽとり、と黒い染みが広がり、フィネルの眉が、不快げに歪められた。
彼は、初代から数えて十三人目のフィネル=オルソーと呼ばれる男だった。
初代は歴史上、最強と謳われる、かの゛凶眼の魔女゛に次ぐと讃えられた、金色の魔術師ラーグの弟子であった。
不世出の天才、絶対なる破壊者、魔術の神に寵愛された男、様々な異名を持った偉大な師、ラーグ=カタルロッサの陰に隠れ、魔術史の中でも忘れられた存在であるものの、フィネル=オルソーは、金色の魔術師の最初の弟子であり、生き残った最後の弟子でもあり、おそらくは、その秘匿された魔術の一端を、最もよく引き継いだ一人であろう。
初代、フィネル=オルソーは、師のラーグが、英雄王の命を受けた隻眼のヴィルフリートに処刑されて以来、宮廷魔術師の筆頭として、王の傍に仕え、その治世を影として支えてきた。
その契約は、今に至るまで有効であり、今のフィネル=オルソーも、その一人である。
一族の末に生まれた男児は、筆頭魔術師・フィネル=オルソーの名と、魔術の秘跡、王宮の地下に住む資格と同時に、墓守の地位も受け継ぐのだ。
しかし、表向きは魔術師を忌避するエスティアにおいて、フィネル=オルソーの役目は少なく、もう十年以上は地下に籠り、研究と書の執筆に明け暮れる日々だった。
そんな日々に、フィネルはこれといった不満を覚えてはいない。
むしろ、煩わしい雑事に振り回されることなく、魔術の研究に没頭できるのは、ある意味、至福の時間とも言えた。
全て、先祖・フィネル=オルソーの功績である。
ひやりとした石造りの壁、穴のあいたそこを、鼠の親子兄弟が走り抜けていくのを、横目で見ながら、男はすっかり凝ってしまった肩を、宥めるように軽く叩いた。
根を詰める必要はない、時間はたっぷりある。
フィネル=オルソーの力が必要とされる機会など、不測の事態に見舞われぬ限り、数十年に一度しかないのだから。
先祖が遺した魔術書の再編集という、究極の暇潰しに勤しみ、ペン先をインク壷に浸しながら、フィネルはふと、初代が生きていたら、何と言うだろうと考えた。
史上最高の魔術師と讃えられる一方、その容赦ない振る舞いと、苛烈なまでの不遜さで知られた、金色の魔術師の弟子として、後に師を弑した英雄王に仕えた人物だ。
ひとかどならぬ野心と、才覚があったことは、間違いないだろう。けども、そんな初代の血は、オルソー一族が代を重ねるごとに、じょじょに薄れていって、宮廷魔術師としての立場を保証されてからは、すっかり、牙を抜かれた腑抜けになった。
当代・フィネル=オルソーは、王家に飼い殺しにされていることを自覚しつつも、それを恥じても、嘆いてもいない。
野心家であっただろう、先祖とは異なり、彼は静かに魔術書の山に埋もれていられれば、それで満足なのだった。
たった一つの役目さえ果たせば、王家はフィネル=オルソーを手放すことなく、その地位は、安泰なのである。
コツコツ。その時、扉を叩く物音がした。
「……誰だ?」
フィネルは走らせていたペンを休ませ、訝しげな目を、音のした扉へと向ける。
誰かが訪ねてくる、覚えなどない。否、そもそも、来客があること自体、奇妙なことと言えた。
地下に秘されたされたオルソー一族、その存在を知り得る者は、王家の直系、先代の宰相など、片手で足りるほどだ。
最後に、先の宰相が此処を訪ねてきたのは、確か、十八……いや、十七年前だっただろうか。
オルソー一族に、王命がくだったのも、同じ時だ。
『運命の子が産まれた。出るがいい、フィネル=オルソー』
厳かな声音で、そう告げたのは、先代の宰相だった。
その老人も、数年間に冥府の王の膝元へと招かれたという。だというのに、コツコツ、と扉を叩く音は一向に止まぬ。
本当に、誰であろうかと、フィネルは眉を顰めた。
王家の使いにかもしれぬが、今というのが解せぬ。
次のお役目まで、まだ数年の猶予があるはずだった。
当代の王は臥せりがちでも、まだ斃れてはいないはずだ。
それなのに、何故――ごくりと唾を呑みつつ、フィネルは震える手で、扉を押し開けた。
オルソーの魔術師の末裔は、平凡で臆病な男だった。
叶うなら、扉を開けずにすませたかったが、もしも、王家の使いであった場合を考えると、追い返すことも出来ない。
震える手で、恐々と扉を開けると、その前に立つのは、白と黒、全く異なる色をまとった男たちだった。
かたや、温和そうな微笑みを浮かべた、白尽くめの老人。
地下にあっても、光を放つような純白の長衣をひきずり、同じく、白髪を伸ばしたその姿は、俗世と離れた神官にも似て、犯し難い、静寂の気配を纏っている。
しかしながら、慈悲深い聖者のような顔をしていながら、その灰の眼と目が合った瞬間、フィネルはゾクッ……と肌が粟立つのを感じた。
細められた目は、どこまでも酷薄で、人を虫けらのように、蔑んでいた。その白尽くめの老人の後ろに控えるのは、黒いローブを纏った、まだ若そうな男。
長身であるのに、身を丸め、面を隠すようにフードを深く被っている。
フードから出た顔はなぜか、半分ほど焼け爛れたように、醜く変色していた。
無言で佇み、一体、何を考えているのか、目が見えない今は伺いしれない。
息を呑み、その場に立ち尽くすフィネルに、白づくめの老人は、にこりと鷹揚に笑いかけ、穏やかな声で言った。
「こんな場所にいたのですね、フィネル=オルソー……地下に潜るとは、おかげで随分と探しましたよ」
語り口こそ穏やかであれ、フィネルにとって、それは安心ではあり得なかった。
王家の使い、という風ではない。かといって、オルソー一族の存在を知る者は、限られている。
それに、今、この白尽くめの老人は、こう言ったではないか。
探していた、と。
フィネルは尻込みしそうな気持ちを抑え、無理矢理に胸を反らすと、精一杯、オルソーの名に恥じぬよう振る舞おうと、努力した。
実際は、声が震えぬようにするのが、せいぜいだったのだが。
「うむ、いかにも。我がフィネル=オルソーだが、貴殿は?宮廷魔術師に、何ぞ御用か?」
老人はフィネルの虚勢を見通したように、薄く笑い、私は、と名乗った。
「私は、エスティア宰相ラザール……いや、魔術師の御方には、こういった方がわかりやすいかな。かつて、英雄王に裏切られた、あの御方の縁者だと」
宰相ラザールの意味深な言葉に、フィネルが戦慄を覚えるよりも、一寸、早く、老人の後ろに控えていた男が、バサリとフードを上げた。
隠されていた目が、露になる。
片側の目は蛇皮の眼帯をしていたが、その右目は――金色。
かの、凶眼の魔女と同じ、まばゆい黄金の。
ああ、と呻いて、フィネルは数歩、扉の内へと後ずさった。
程なく、それは悲鳴へと変わる。
「うわっあああぁぁぁ――!!」
悲鳴を上げながら、フィネルは扉を閉めると、壁に飾られたタぺストリーをめくり、そこから、更に地下へと続く隠し通路へと逃げた。
息を切らせ、時折、足を踏み外しかけながら、階段をかけ降りる。
心臓が破裂しそうになっても、フィネルは止まれなかった。
「はっ…はっ、はあ」
止まったら、駄目だ。
立ち止まったら、殺される。
……誰に?
決まっている、奴らにだ!
――恐ろしい魔女が、来るよ。
――王さまに裏切られた魔女が、
――お前に復讐しに、やって来るよ。
最後の数段を迎えたところで、足が滑った。
壁に、額を打ち付ける。
よろよろと立ち上がった時、額から血が垂れてきたが、興奮しているからか、不思議と痛みは感じなかった。
フィネルは、地下の地下にあたる扉を開けると、棺のような狭さのそこに身を隠した。
ひどく狭いが、此処に隠れていれば、敵には見つからず、安全なはずだ。
この地下室の最奥は、初代・フィネル=オルソーが作り上げた、一種の結界となっている。
これを破れる者など、凶眼の魔女か、さもなくば金色の魔術師以外には、存在しないだろう。
どちらも、伝説の人物だ。
だから、大丈夫。大丈夫なはずだ。
フィネルが殺されることはない。
案の定、カツカツと下までおりてきた足音は、フィネルが隠れる扉の前で聞こえなくなった。
後は、諦めて、帰るのを待てばいい。
この結界が破られることはないのだからという安心感が、フィネルに安堵の息を吐かせた。
急に血を流した額が、ズキズキと鈍い痛みを放ち始める。
しかし、
「え……」
絶句するフィネルの眼前で、無情にも扉は開いた。
視線が交わったラザールが、慈悲深げな微笑みをたやず、どこまでも優しい声で言う。
「出てきなさい、フィネル=オルソー。お休みの時間ですよ」
絶叫が、地下に響き渡った。
咽返るような血臭がした。
地下一面に広がる、おびただしい血と、それに混じった糞尿が、耐え難いような悪臭を放っている。
最期まで、涙と鼻水をたらしながら、死にたくないと命乞いをした、宮廷魔術師・オルソーの末裔は、今、物言わぬ屍となり、臓腑を撒き散らしたまま、澱んだ目で上を向いている。
「……意外とあっけないものでしたね。先祖は、高名な魔術師だったということでしたが、長年、ぬるま湯につかり続けたせいで、力を弱めたのかもしれませんね」
救いを求めるように伸ばされた、亡きフィネルの千切れた指を、靴の爪先で蹴り、宰相は先と変わらぬ、本心の読めぬ笑顔で、魔術師の末裔の死に様を、そう評した。
話しかけられた黒いフードの男は、蛇皮の眼帯をしていない方、金色の隻眼を瞬かせ、黙って、うつむいた。
魔術師の血統は、代を重ね、唯人と交わるごとに薄れていく。
神や悪魔の跋扈していた時代より、遠く離れ、純血の魔女や魔術師など殆どいない今、いかに抗おうとも、力が弱まっていくのは、自明の理であっただろう。
フィネル=オルソーほどの男が、それを予知していなかったとは思えず、血に呪を組み込んだと思われるが、それでも、子孫が力を弱めていくのは、逆らえぬ運命であったのだと。
黒いフードの男は、そんなことを考えながら、蛇皮の眼帯をしていない方の右目に触れた。鮮烈な、黄金を思わせるそれ。
英雄王の時代から、三百年余り。
最早、真の意味で魔術師と呼べる人間は、数える程しかおらず、しかも、その大半は純血ではなく、己のように、特殊な先祖がえりのみだ。
疎まれ、迫害され、住処を追われ、顔に燃える鉄棒を押し付けられた異端のそれこそが、力の証明であるのは、何とも皮肉なことだった。
「もう用は済んだだろう、帰ってもいいか」
黒いフードの下から、掠れた低い声が漏れる。
振り返ったラザールを急かすように、男は「リリィが、俺を待っている」と続けた。
血の臭いがこびりつかぬうちに、この場を離れたいのだと、主張した眼帯の男に、宰相は薄く、嘲るように口角を上げた。
「意外な事だ……こうも悪魔のような惨状を作り出す者にも、大切に想う相手がいるのですな」
「……余計な世話だ」
宰相の勘ぐりを、男はうっとおしげに跳ね除けた。
己とラザールの関係は、金で雇われた呪術師と、その雇い主、それ以上でも、それ以下でもない。
再三の主張に、宰相もようやく重い腰をあげ、地下を後にする。
階段を上り、光差す地上へと向かう前、フードの男は一瞬だけ、黄金の目で、フィネル=オルソーの亡骸を見つめる。
憐れといえば、憐れな男だった。偉大で野心家の先祖を持ったばっかりに、その亡霊に殺された。
ぴちゃりと固まりかけた血が、靴へとこびりつく。
それを壁に擦りつけながら、白尽くめの老人と、黒尽くめの若い男は、地下の亡者と別れを告げた。
日の当たる地上へと出たラザールらは、そのままの足で、王宮の一角、宰相に与えられた居住区へと向かう。
趣味良く整えられた庭園の、こじんまりとした東屋で、妙齢の女官と少女が、楽しげに戯れているのが、男たちの目に映った。
少女の、ゆるく結った蜂蜜色の髪が、陽光できらきらと光り輝いている。
甘いジャム菓子か何かをもらっているのか、少女は、赤子のように、ベタベタにした手を舐めそうになり、美しい女官がそれを見咎めては、甲斐甲斐しく、布で手をぬぐってやっていた。
その時、蜂蜜色の髪をした少女は、何かに気づいたように、ぱっと振り返る。
片側は、前髪で隠された水色の瞳が、宰相の隣を歩く、黒フードの男を認めた瞬間、ぱああっとお日様みたいに輝いた。
陽だまりのような笑顔を弾けさせ、少女は世話役の女官が止めるのも聞かず、歩きにくい白い靴を脱ぎ捨てると、緑の芝生を裸足で走る。
ひらひらのレースが土にまみれるのもお構いなしで、わき目もふらず、黒いフードの青年の胸に飛び込んだ。
「ディー!」
一目散に抱きついていた少女を、軽々と受け止めて、眼帯の男は、その蜂蜜色の頭を撫でた。
「ただいま、リリィ」
少女――リリィは、男の言葉に嬉しそうに微笑い、「おかえりなさい!ディー」と、応じる。
「良い子にしていたか」
「とっても!」
「寂しくは」
「すっごく!でも、ルリアさんが優しくしてくれたし、あまいお菓子もくれたのよ。ディーにも分けてあげたかったの」
そうか、眼帯の男――ディーはうなずくと、もう一度、その蜂蜜色の頭を撫でた。
「主様、お帰りなさいませ」
東屋で少女の面倒を見ていた、栗色の髪が美しい女官は、楚々とした優雅な歩みで、宰相の前に立つと、深々と頭を垂れる。
歩み寄ってきた彼女に、ラザールはねぎらいの言葉をかけた。
宰相の娘、セシルの生母の乳兄弟であるこの女官は、宰相にとっても腹心の部下であった。
「ご苦労でしたね、ルリア。子守りは、大変だったでしょう」
ルリアと呼ばれた女官は、淑やかな笑みを浮かべ、ゆるりと首を横にふる。
「いいえ、主様。リリィさまは、とっても聞き分けがよろしくて、大人しく、お迎えを待っておられましたわ」
「それは、それは……貴方の言った通り、早めに戻ってきて良かったですね、ディー」
「……ああ」
ディーは言葉少なにうなずくと、宰相に再度、帰ってもいいか、と許可を求めて、腕にリリィを抱いたまま、其処を辞した。
リリィが懐いた女官は、淑やかな笑みを浮かべたまま、宰相は底知れぬ笑顔で、男と少女を見送る。
しばらく歩いたところで、蜂蜜色の髪の少女がもぞもぞと身じろぎをする。
ディーは足を止め、黄金の隻眼をすがめた。
「……リリィ?」
「ディー、これあげる。あまい、良い匂いがするの。幸せの匂い」
屈託のない表情で、リリィが彼に差し出したのは、先ほどの菓子の包み紙だった。
鼻先に押し付けられたそれに目を細め、ディーが「ありがとう」と礼を言うと、少女は、にぱあっ……と陽だまりのように微笑う。
見た目は、十一、二歳の少女だというのに、言動も行動も、それより、ずっと幼い。せいぜい、六つか七つくらいだ。
ディーは、知っている。リリィが、誰よりも無垢で、純粋だということを。
この娘は、嘘を吐くことも、疑うことも、人を欺く術も知らない。憎むという感情すら、どこかに置き忘れてしまったようだ。
「リリィ、もしも……」
「んー?なぁに、ディー?」
きょとんとした表情になった少女に、ディーは目線を合わせ、真摯な口調で尋ねた。
「大きなお屋敷に住んで、綺麗な女の人に面倒を見てもらって、甘いお菓子を好きなだけ食べる……そういう暮らしを、送りたいか?」
リリィが心からそれを望むならば、ディーはそれを出来る限り、叶えてやるつもりだった。
あの宰相を頼るのは、ひどく危険だが、他にも方法はあるだろう。
何より、己の手は血塗られている。耳を塞げば、フィネル=オルソーの断末魔の悲鳴が聞こえる。
この無垢で、穢れない少女に相応しくないことは、ディー自身、一番よくわかっていた。
しかし、リリィは首を縦に振ることなく、「どうしてー」と、不思議そうな目をしただけだった。
「リリィは、ディーと一緒にいたい。それじゃあ、駄目なの」
「いや……」
男が否定すると、少女は安心した顔で、ぎゅう、と抱きついてくる。
「ディーは、リリィの家族だよ。だって、おなじ目をしてるもの」
子供の体温。子猫にも似た、あたたかさを持つ少女に、絆されながら、ディーの指は少女の額にかかった、蜂蜜色の前髪をかき分けた。
リリィの瞳は、淡い青だ。彼のように、異端の色はしていない。
同じだといったのは、少女も又、隻眼であるからだ。
蜜色の髪に隠れた左目は、潰れて光を映さない。
古い傷跡だけに、すでに痛みはないだろうが、年端もいかない少女に負わせるにしては、惨すぎるそれだった。リリィが、それを気にしていない風なのが、より痛々しさと、憐れさを感じさせる。
人を疑うことも、傷つけることも知らぬ、この娘の顔を殴り、その片目を奪った相手が、この世界には確かに存在するのだ。
「同じか」
「うん」
――胸に顔をうずめてきた少女からは、心地よい、陽だまりの匂いがした。
血の臭いとあまりに異なるそれが、ざわざわと不協和音のように、ディーの心を揺らしたのである。
ほぼ同じ頃、ラーグは貧民街の自分の住処で、頭から毛布をかぶり、猫のように丸くなって、うつらうつら惰眠を貪っていた。
床には、分厚い書物が何冊も、それから空になった酒瓶が、無造作に転がっている。
ひどく散らかっているが、彼としては、このぐらいが落ち着いて、丁度良い。……などと、氷と称される公爵が耳にすれば、うんざりと秀麗な美貌を歪めそうな事だった。
うとうとと寝こけていたラーグだったが、ふいに弾かれたように、寝台から身を起こすと、琥珀の瞳をせわしなく瞬かせる。
ふるふると金色の頭を振り、意識を覚醒させた。
その唇から、緊迫感のある声が漏れ出る。
「あの馬鹿弟子の血筋が、絶えた……?」
目をつぶり、金色の魔術師は、王都全体に張り巡らせた、魔術の“糸”を震わせる。しかし、いくら糸を手繰り寄せようとも、フィネル=オルソーの痕跡は、既に消されていた。
寿命というようではない、本来、続くべき糸を強引に断ち切られたような、そんな不自然さが、そこかしこに感じられる。
かつての弟子、その子孫の痕跡が、完全に途絶えたのを察して、ラーグは苦い息を吐く。
「そろそろ、限界かもね……」
誰が手を下したか、ということには、この際、あまり意味はない。
このエスティアを三百余年支配する、大きなものが、ようやく、漸く、本格的に動き出したということだ。
――驚くことはない、いつか、必ず、訪れる日だった。
「セラには……何て、伝えようかな」
ラーグがまず、その頭に思い浮かべたのは、愛弟子である、翠の瞳の少女のこと。
悪い知らせには、違いない。フィネル=オルソーの名を継ぐ者の殺害は、おそらく、このエスティアを支配する“呪い”と、密接に関わっているはずだから――無関心では、いられまい。
それに、セラ自身、必死に耐えてはいるものの、限界が近いはずだ。
目に見えずとも、呪いは彼女の心も身体も、食い尽くそうとしている。
それは、近い将来、災いという形で、セラや周りの者たちに、降りかかってくるはずだった。
ラーグが苛立ったように片手を振ると、手も触れぬのに、床に散乱した酒のボトルがぶつかって割れた。どろりと赤い液体が流れ出す。
琥珀の瞳の奥が、焔のように揺らめいて、虚空を睨みつけた。
「これで満足か、英雄王……!貴様の掌で踊らされて、僕らは所詮、道化だ」
フィネル=オルソー、最初のひとり。
ラーグの生き残った唯一の弟子であり、良くも悪くも、金色の魔術師を模倣した男だった。
野心家で、抜け目なく、けれど、小心者で臆病な男だった。――師の過ちを、過ちとしりながら、それを引き継いだ愚かな弟子だった。
「エーリク……今度こそ、約束は果たされるべきだと思うか……?」
烈火の如き怒りを通り越し、嗚咽するように肩を震わせた、金色の魔術師の、頼りない子供のような姿を目にしたものは、誰もいない。
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