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五章 父と子と娘 16


 ……眠い。
 己の立場も、王太子としての重責も、油断ならない情勢も、何もかも忘れて、眠りの世界へと、堕ちてしまいたい。
 断続的に、襲ってくる強い眠気、その睡魔の欲求に抗うのは、鍛えた肉体と、しなやかで強靭な精神をもってしても、難しいことだった。
 理知を宿した蒼灰の瞳が、とろんと微睡む。
 青年の凛々しい口元が緩んで、眉が下がり、幼い子供のようなあどけなさを帯びる。
 書き物机に突っ伏し、寝てしまいそうになったアレンは、前髪をかきあげ、頭を振ると、必死にその誘惑に抗った。
 断じて、眠るのが怖いわけではない。
 眠り続けるのが、怖いのだ。
 意識が飛び、気がつくと、握っていたはずのペンは、リィツェン織りの絨毯へと転がり、裁可すべき書類には、ミミズが這ったような汚れがあった。
 蒼灰の双眸が、憂うように曇る。
 ――王太子アレンは、少し前から原因不明の病に悩まされていた。
 夜、きちんと睡眠を取っているにも関わらず、昼間にも、倒れ、意識を失うほどの強い睡魔が襲ってくる。
 どれほど休息を取り、英気を養おうとも、それが治まることは、一向になかった。
 王室の行事で、狩猟に赴いた時、それが襲ってきたとは、アレン自身、ぞっと血の気が引く思いだった。
 もしも、落馬していたら、と想像すると、命を落としかねなかっただろう。
 王太子の病について、典医も、片腕であるルーファスも知らない。
 不審に思ったアレンが、診察を受けても、典医はどこも悪いところはございません。殿下のお体は、健康そのものです、と答え、少し疲れているのだろう、と休息を勧めてくるのだった。
(本当に、そうだろうか……?)
 当事者だからかもしれぬが、王太子は、それほど単純なものだろうかと、やや懐疑的だった。かといって、典医の診断を、的外れと突っぱねることも出来ない。
 最近、ルーファスの前で意識を失い、倒れる羽目に陥ったのも、初めてではないのだ。
 十分な休息を取っているにも関わらず、頻繁に意識を失うほどの眠気は、異常といっていい。
 白い闇へと、睡魔に引きずり込まれる時、アレンは自分の身体に、別の誰かが、外から干渉しているような錯覚すら抱く。
(まさか……毒か?いや、ありえぬな)
 脳裏によぎった疑惑を、王太子は即座に、自ら否定した。
 今、身の回りの世話を任せているのは、信頼のおける者ばかりであるし、ルーファスが目を光らせている以上、側近たちも疑う余地がない。
 生涯、暗殺の危機に晒される王族の常として、アレンも一通りの毒の知識と、耐性は備えている。が、彼が気づく限り、毒を盛られた痕跡はない。
 万が一、主君がそのような目に合えば、あのルーファスが黙っていないだろう。
 どんな手段を使っても、その愚か者に、制裁を加えるはずだ。
 王太子の側近たる公爵は、他人に対して、冷徹と言われ、実際その通りの一面もあれど、その半面、一度、心を預けた相手は、いかなる労も惜しまず、守ろうとする。時に、過保護とも言える振る舞いは、アレンを微苦笑させ、セラフィーネも大変だろうな、などと余計な心配を抱くのだが……それを脇に置くとしても、アレンの身体の変化を察すれば、ルーファスが柳眉をひそめ、端整な顔をしかめるであろう。
 欠かさざる右腕であり、友と呼ぶ青年に、相談するべきだという思考と、只でさえ、多忙を極める側近に、無用な心配をさせたくないという想いの狭間で、王太子の心は複雑に揺れた。
 そうこうしているうちに、再び、一度は追い払ったはずの睡魔が襲い来る。
「殿下、王太子殿下……っ」
 気遣うような、少し焦ったような男の声に、アレンはようよう瞼をあげた。
 書きかけの書類に頬をうずめ、珍しくも、うたた寝していたらしい主君に、側近のディオルトは、心配そうな目をしていた。
「大丈夫ですか、うなされておいでのご様子でしたが……」
「あぁ……」
 渇き、掠れた声で応じ、王太子はうなずく。
 アレンは未だぼぉーとしながら、片手で額をさすり、やや寝惚けたような顔で、すまない、と詫びた。
「みっともないところを、見せた。ディオルト……公務中に居眠りなど、上に立つ者として、褒められた真似ではないな」
「いえ……お疲れなら、残りは私どもで。殿下は、休息をお取りになって下さい」
 穏やかで、聡明、民を気遣うことには人一倍長けている王太子が、己自身には厳しく、仕事を背負い込む性質なのを知る、ディオルトは首を横に振った。
 アレンが誰よりも、エスティアの未来を案じ、その為に力を尽くしていることは、誰の目から見ても明らかだ。けども、それは、精神と肉体の酷使にも繋がりかねない。
 英明な王太子は、代わりのきかぬ大事な身体であり、何よりも十八歳という若さにそぐわね責務を、その双肩に背負っている。
 疲労がたまった時は、無理せず休んでほしいというのが、ディオルトを始め、側近一同の願いであった。
「ありがとう。無理はしないさ」
 側近たちの想いが伝わったのだろう、アレンは口元を緩め、穏やかに笑む。
 ディオルトは、本当ですよ、とおどけた。
「また殿下が倒れられるようなことがあれば、私たちがエドウィン公爵に、睨まれます。あの綺麗な顔で睨まれると、心臓が止まりそうになりますので」
「それは、困る。優秀な側近がいなくては、仕事が滞るし、なにより……ルーファスには世話になったが、もう一度、あの薬湯を飲まされるのは、遠慮したい」
 ルーファスが無理やり勧めてきた、エドウィン公爵秘伝だという、薬湯の苦さを思い出してか、アレンは渋面になる。
 側近の心遣いは嬉しくとも、あれを何杯も飲むのは、拷問にも等しい。
「……それほど苦かったのですか、あれ」
 そう尋ねてくるディオルトに、王太子は、ああ、と重々しくうなずく。
「今度、ディオルトが寝込んだ時には、屋敷に届けるよう、ルーファスに頼んでおくか?」
「いいえ、アレン殿下。心の底から、遠慮いたします。どうぞ、お気遣いなく」
「そうか、残念だ」
 言葉と行動で、全力で拒否してくる側近に、アレンは満更、冗談でもなさそうな風に言い、それで、と話題を変えた。
「何か、私に用だったのか?」
「ああ、そうでした……」
 ディオルトは首肯すると、やや声をひそめて、国王陛下が殿下の名をお呼びになっておられます、寝室へ参られますよう、と告げた。
「父上が……?」
 訝しげな声を上げたアレンに、ディオルトは、「はい」と少しばかり、不安そうな面持ちでうなずく。
「女官より言伝です、陛下はその少々、夢見が悪いようだと……」
 不敬にならぬよう、側近が言葉を選んでいるのを察して、国王の息子は嘆息する。
 また例の発作か、と続けたアレンのそれに、応えないことこそが、何よりも肯定と言えた。
 臥せっている国王・オズワルトは時折、亡き王妃や長子の名を呼んでは、錯乱し、すすり泣く。
 世話役の女官たちは、その度に途方に暮れて、父の求るままに、国王の寝室にアレンを呼び出すのだ。
 王妃であった母亡きあと、もともと繊細な気質であった父は心を病み、寝室へと閉じこもるようになった。国王の責務も誇りも何もかも投げ出し、その長患いは、七年以上にも及ぶ。結果として、奸臣がはびこり、宰相の横暴を許すこととなったのだ。父が全てを放棄したあと、王族としての義務は、まだ少年だったアレンひとりの肩へと伸し掛かることとなった。
 息子としての愛情と、父を頼むと告げた母の遺言があるゆえ、それを疎ましく思ったことはない。
 しかし、王家の一員として考えるならば、頭が痛い事態であることは確かだった。
「わかった。知らせをご苦労だったな、ディオルト。先触れを頼む、陛下を見舞おう」
 アレンは物分り良く応じると、凛とした面で椅子から立ち上がる。
 女子供のように、すすり泣く国王陛下に、女官たちが手を焼き、困り果てているであろうことは、容易に想像できた。
 そうなった父王を落ち着かせられるのは、息子である己か、認めるのは辛いが、宰相ラザールぐらいのものだ。
 御意、と頭を垂れたディオルトが、素早く踵を返そうとした時のことだった。
 控え目に、扉が叩かれたあと、半分ほど開いたそこから、ひょこりと小さな薄茶の頭がのぞいた。
 子供だ。身に着けた衣裳は、金糸を縫い込んだ豪奢なものである。
 砂色の瞳が、所在なさげに揺れながら、此方を見つめていた。
「セシル殿下?」
 ディオルトが、目を丸くする。
 遠慮がちに顔をのぞかせた、王太子の異母弟・セシルは、異母兄たるアレンと目が合うと、どもり、ついで蚊の鳴くような声で、「あ、あにうえ……」と呼びかけた。
「どうした、セシル?遠慮なんかせず、いつでも部屋に入ってくれて、構わないのだぞ」
 扉の影に隠れたまま、なかなか室内に入ってこない、内気な腹違いの弟に、焦れることもなく、アレンは優しい言葉で促す。
 そんな兄の言葉に、びくびくと怯えるように、自信なさげだったセシルの、砂色の瞳が、ほんのわずかに和んだ。
 兄上、とアレンを呼ぶ声は、慕わしさに満ちている。
「育てていた花壇の植物が、綺麗な花を咲かせたんです。それで、今日は天気もいいし、お散歩でもご一緒に出来たらと思って……」
 自分の手で育てた花が、風雨にも負けず、可憐な花を咲かせたことが、よほど嬉しかったのだろう。そう誘う少年の頬は、ほのりと紅潮していた。
 しかしながら、王太子の机に広がった書き途中の書類を目に留めて、セシルは「お邪魔ではないでしょうか」と、一歩、身を引いた。
 誰よりも慕う兄、王太子として自由になる時間が少ない、アレンを慮ってだろう。アレンが返事をする前に、弟王子は「邪魔して、ごめんなさい」と、扉の前から立ち去ろうとする。
 そんな、引っ込み思案で、けども、素直な弟の健気さがいじましく、王太子は「おいで」と手を伸ばしかけた。が――
「セシル」
 薄茶の髪の少年が、去りかけた歩みを止め、その砂色の瞳は、唯、異母兄を映していた。
「兄上……?」
「いや、何でもない。すまないが、今は、陛下に呼ばれているんだ。今度、是非また、お前の育てた花を見せてくれ」
 一端、伸ばしかけた手をおろし、楽しみにしていると続けたアレンに、セシルは頬を赤くして、「はい、アレン兄上」とうれしげに破顔した。
 そんな異母弟に、王太子は目を細める。けれども、一度、差し伸べられたようとした手が、再度、セシルに向けられることはなく、引き止める言葉をかけぬまま、その微かな靴音は遠ざかっていった。
 ぐっ、と拳を握りしめたアレンに、ディオルトは不思議そうに、首をかしげた。
「アレン殿下?」
「いや、何でもない。父上の、陛下の元へ急ごう」
 蒼灰の双眸に、迷いがよぎったのは一瞬で、それはすぐに凪のような穏やかさを取り戻す。
 もしも、自分に危害を加えようとする者たちがいたとして、あの花や書物を愛する、心優しい異母弟を巻き込むのは、なんとしても避けたかった。
 何も知らないままならば、その方がいい。
 例え、アレンに仇成す者が、旗印として担ぎ上げようとしているのが、側室の産んだ王子であり、又、宰相の孫であるセシルだとしても、彼の弟を想う気持ちは、微塵も揺らぐことはないのだから――。

 父王の寝室に足を踏み入れた瞬間、アレンは暗い、とそう感じずにはいられなかった。
 昼間だというのに、窓という窓はカーテンで覆われ、一筋の光さえささぬそこは、国王の寝室でなければ、さながら、罪人を閉じ込める牢獄のようだ。
 幾年もの間、こもり、澱んだ空気のせいで、そこはよりいっそう、重苦しい雰囲気に満ちている。
 快活な、生気にあふれたアレンのような若者であっても、その澱んだ空気の中にあっては、いささか霞んで見えた。
 しかし、王太子はすくっと面を上げると、足を竦ませることなく、颯爽と、澱みを払うような足取りで、中央の寝台へと歩み寄る。
 こんもりと盛り上がった寝台の主は、毛布を頭からかぶり、ぶつぶつと意味のないことを呟く。
 到底、正気の人とは思えぬが、蒼灰の瞳こそが、その男が貴種の中の貴種であると示す。
 英雄王の直系、エスティアの玉座に座す者、現王オズワルト、その人であった。
「陛下。お加減は、いかがですか?」
 王太子である青年は、寝台の傍らに膝をつくと、柔らかな声で、父王に話しかけた。
 アレンの声を耳にした国王は、びくっと身体を痙攣させ、落ち着かなげに、その視線を泳がせる。
「おおっ……アレン、予の息子よ、助けてくれ……あの子が、魔女が復讐を遂げに来る。予は怖い、予は恐ろしい……アンネローザは、何処にいる?」
 アンネローザというのは、アレンの母であり、今は亡き王妃の名だった。
 混乱しているのだろう。
 幼子が母を求めるように、一途に亡き妻の姿を探し求める父に、胸の奥の柔い部分を刺激されせながら、アレンは、大丈夫ですよ、と慈しむように微笑う。
「落ち着いてください、父上。怖いことなど、何もありません。王宮には、陛下を守る屈強な兵士が、大勢おります。何も……案ずることはないのです」
「アンネローザは?彼女が、予を置いて、何処かに行くはずがない」
「……母上ならば、今は少し、遠くにいらっしゃるだけです。愛する父上のことを、今も見守っていらっしゃいますよ」
 息子である青年が、穏やかに諭すと、国王は漸く少し、平静さを取り戻したように、かぶっていた毛布を床に落とす。
 皺の刻まれた父の手が、すがるように、アレンの手を握りしめる。強く、強く、強く。
 寝台に臥せった病人とは思えぬ、痛い程の力の強さに、王太子は眉根を寄せかけた。しかし。
「アレン」
 そう、息子の名を呼んだ、国王の声は、いつものように震えても、怯えてもいなかった。
 低く、深く、渋みのある、王らしい威厳を備えたそれだった。
 王妃が没した、あの日から、終ぞ耳にすることがなかったそれ。
 アレンは驚き、弾かれたように面を上げる。そのような、父の声を聞いたのは、子供だったあの日以来だ。
 自分と同じ蒼灰の瞳が、真摯なものをたたえて、息子たる青年を見つめていた。
 理知の光を宿したそれは、明らかに正気のものだ。
 例え、一瞬であっても、父がそのような状態に戻ったことに驚いて、アレンは瞠目した。
 次の瞬間、王の唇がもれ出たそれは、懺悔し、許しを乞うようなそれだった。
「予は、予は人の親として、許されぬことをした……あの子は、予を恨んで当然なのだ」
 呻くように言い、国王は息子の肩にもたれかかるように、顔をうずめた。
 アレンはその身体を抱き留め、労わるように、その背をさする。
「父上……?」
 許されぬこととは、あの子とは誰なのですか、尋ねかけたそれは、嗚咽する国王のそれに消されて、音にはならなかった。



「セラ、気分はどうだ……?」
 エドウィン公爵家の、応接間。
 ルーファスの呼びかけに、長椅子で眠るセラは、目を覚まさなかった。かたく閉じられた瞼は、やや赤く腫れ上がっており、胸はゆるやかに上下している。亜麻色の長い髪が、床にまで広がっていた。
 男は、蒼い瞳をすがめ、足音を消して歩み寄ると、長椅子の傍らに立ち、眠る少女の横顔を覗き込んだ。
 もともと、触れるのを躊躇うほど華奢で、儚げな容姿の娘であるが、瞼を閉じていると、よりいっそう、消え入りそうなまでの儚さを纏う。光を帯びる翠の双眸は、今、瞼の下へと閉ざされている。
 メリッサの怪我を見たのが衝撃であったのか、急に取り乱し、馬車から飛び降りたセラは、しばらくの間、女中の少女を抱き締め、はらはらと涙を零していたものの、しばらくすると、落ち着いて、取り乱したことを恥じ入るように、ルーファスらに謝った。
「もう、大丈夫だから……動揺しちゃって、ごめんなさい。メリッサの方が大変なのに」
 されど、取り繕ったような微笑は、痛々しさが先に立つ。
 執事やミカエルらは、怪訝そうに顔を見合わせたものの、平気だと言い張る奥方様を、それ以上、問い詰めることは出来かねた。
 長椅子に横たわり、青白い貌で、死んだように眠るセラ、かすかに開いた唇。かすれる吐息。
 ルーファスは、無言のまま身をかがめると、息がかかるほどの距離に顔を寄せ、少女が息を、そこで生きていることを確認した。
 血の気の失せた貌、いつかよりも更に痩せ、折れそうなまでの細い手首。その身体から、在るべき熱が失われることが、彼は何よりも恐ろしかった。
 息をしている。生きている。唯、そのことだけに、青年の心は、震えそうなまでに歓喜する。
 己でもおかしいと自覚するほどの執着と、狂おしい熱を、ルーファスは、唯一人、この儚げな娘に寄せているのだ。――心臓が氷で出来ていると、かつて、そう評された男が、聞いて呆れる。
「セラ……」
 心の何処かで、その愚かしさを自覚しつつも、ようやく、ようやく対となる存在を見つけた青年は、それを手放すことを恐れた。
 アレン殿下も、おしゃっていたではないか。片翼の鳥は、飛べないのだと。
 少年だったあの日から、自分が欠けた人間であると、自覚して生きてきた。己には、人として、在るべき何かが欠落しているのだと。
 なればこそ、それを埋めうる存在が見つかったなら、求めずにはいられなまい。それに、セラも又、欠けた、在るべき何かを喪った女であるのだから――。
 震える少女の肩に、毛布をかけてやりつつ、ルーファスは少女の左袖をまくった。
 日に当たらぬゆえに、透けるように白い肌に、黒い鎖のようなアザがあった。
 セラは、それを人目に晒さぬよう、腕を出さず、必死に隠しているようだったが、ルーファスは既にそれに気づいていた。
 その黒く、禍々しい鎖が、何を意味するのかわからぬが、おそらく、少女にとって善いものではないのだろう。
 セラが隠す理由について、ルーファスはおぼろげながら、真実の一端を掴みつつあったが、その思考に強引に蓋をした。
 聡い者は時に、愚者よりも、多くのものを失う。――この脆く、幻のような日々を守る為には、おそらく、“真実”に気づかぬ方が良い。
 ルーファスは一度、黒い鎖のアザのある左手、その手首に唇を寄せた。
 そして、囁く。
「貴女が欲しい、貴女しかいらない」
 愛など、生ぬるい言葉では足りない。苦しい程の飢え、渇望、唯一人の女に向けるそれ。まだだ。まだ足りない。
 伏せられた瞼は、上がらなかった。
 セラは目を覚まさず、沈黙が落ちる。
 ルーファスは愛おしむように、少女の前髪を掬うと、己が留守の間のことについて、女中頭のソフィーから話を聞く為、応接間を出た。
「……ぁ」
 睫毛がふるえる。
 瞼が上がり、少女の翠の瞳が、応接間の天井を映した。
 セラはくしゃりと苦しげに顔を歪めると、手首を引き寄せ、彼が唇を寄せたのと、同じ場所に口づけた。
 苦しい、あふれそうな想いを、胸の奥に押し込めて。
「愛してる、そう言えたらよかったのに」
 白い頬を伝った一筋の涙、かの青年がいれば、ぬぐったあろうそれは、誰の目に留まることなく、セラひとりのものだった。


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